戻 る




                           
白石一文『かけがえなのない人へ』(祥伝社)
 2010年1月の第142回直木賞受賞作『ほかならぬ人へ』(祥伝社 2009年11月刊)に表題作とともに併載された。初出は『Feellove』(7号 2009年7月)でタイトルは「月が太陽を照らすには」より改題された。
 選者たちの評価では渡辺淳一の「二作のうち表題作のほうがはるかにいい」という選評に代表されるように、おおむね表題作「ほかならぬ人へ」に高評価が出されたが、幾人かの選者からは、むしろこちらの作品に好意的な評価が示された。
 例えば、浅田次郎は、この『『ほかならぬ人へ』は受賞作にふさわしいとしたうえで、「受賞作にふさわしくとも作者の代表作としてよいものかどうか迷った。直木賞作家の冠名はその受賞作とともに語られ、つまり一生祟るからである」と述べ、「ほかならぬ人へ」が表題作で果たしてよかったのかとの思いを吐露している。また、北方謙三は「完成度にも、不満はあるまい。表題作の方がおおむね評価されたが、結婚と恋愛が何かを考えさせる『かけがえのない人へ』の中に漂う、妙ないとおしさと、結末の寂寞感も、恋愛小説の苦い味があって、私は好きであった、と述べている。

 主人公は、二十九歳の福澤みはる。グローバル電気という大手電気会社のOLで、三か月後の七月に、会社の同期の水鳥聖司と結婚を予定している。
 聖司は、東大出のエリートで長身のイケメン。みはるの同期の中では一番の出世頭だった。みはるが、聖司と正式に付き合いはじめたのは去年の十月である。その四カ月後に婚約を社内で公表したのだが、なんとそれからわずか一週間もたたぬうちに、みはるはかつての上司で三年前まで不倫関係にあった黒木信太郎とよりを戻していた。それが、今から二カ月前のことだ。
 黒木は、聖司とはなにもかも正反対なタイプだ。五歳から高校卒業まで養護施設で育ち、その後大学に進学した。しかし二年で中退し、グローバル電気には、アルバイトとして入った。その会社で、当時の営業所長だった籔本晴彦に気に入られ、彼は入社三年後に正社員に採用されて籔本の部下となった。以来、籔本のもとで、めきめきと頭角を現し、やり手営業マンとして社内で知られる存在となった。籔本も常務となり、いずれ社長となると周囲からもみられる存在だった。
 黒木は、痩せ型で長身の聖司と比べ、体格もラグビーをしていたというだけあって身長は一七〇ほどだが、四十歳を過ぎた今でも胸板も厚く、体重も九十キロ近く、そのうえ精力も絶倫だった。
 みはるは中目黒の2LDKのマンションに一人で住んでいた。そのマンションは、会社社長をしていた祖父が投資用に購入したものだが、就職と同時にみはるが使わせてもらうことになり、今年ではや七年になる。しかし聖司は、みはるのマンションに泊まっていくことはなく、もっぱら二人はラブホテルで交わった。
 黒木は、みはるが聖司に抱かれた日を狙って連絡をしてくる。聖司を受け入れたばかりの身体をほしいままにするのが黒木の好みだった。
 日曜日のその日も、みはるは昼間に聖司と中目黒のさくら祭に行き、花見をしたあと歩いて渋谷まで出て、東急ハンズで聖司の買い物に付き合い、それから道玄坂のラブホテルに寄った。夕食はホテル街のイタリア料理店でとってから、四谷に帰る聖司と渋谷で別れ十時過ぎに部屋に戻ってきた。
 黒木には、聖司と日曜日に会うと言ってあったので、やはり、その夜遅く黒木から電話があり、十二時をだいぶ回った頃にみはるのマンションにやってきた。通夜の帰りらしく、黒の礼服姿だった。背負っていたリュックから着替えを取り出し、急いで着替えてから駅前のスーパーで買ってきた惣菜でがつがつと夕食をとった。
 黒木は、食べながら、別所さんが死んだんだ、と言った。別所は東洋電気の専務で、黒木が親しくしていた人だった。黒木の元妻はその別所に紹介されたのだった。彼女は別所の秘書をしていた女性で、東洋電気一の美人との評判だったという。
 ご飯を食べ終わって、そのあと午前一時を過ぎてから、夜桜を見に行こう、と黒木はみはるを連れ出した。みはるはその日二度目の花見だった。午前二時近くに部屋に戻ってから、黒木はみはるをベッドに誘い、今日は、あいつとやったのか、と聞く。みはるが、はい、と答えると、それなら俺がこれからうんといっぱいいかせてあげるからな、と言って、いつものようにロープを取り出し、みはるの身体を縛っていく。そうして、みはるは朝まで黒木にいかされる続けたのだった。
 
 危険な綱渡りのような黒木と聖司の二股関係を続けているみはるであった。社内の人脈でも、黒木と聖司は互いに対立する関係にあったのだ。黒木は社員の多くから信頼を集めていた籔本常務の筆頭部下のような存在だったが、他方の聖司はまだかばん持ちのようなものとはいえ社長直属の経営企画本部にいて、籔本とは対立する金子社長や大石副社長のもとで動いていた。
 籔本常務は、業績不信に陥ったグローバル電気を再建するには思い切った事業改革を進めるしかないと主張していた。しかし、かれの再建案は社長をはじめとする経営首脳陣の反発を招き、結局籔本常務は閑職に回され、この六月にも会社を去ることが決まっていた。
 その後、籔本を除く経営陣の中で改めて再建案が練られたが、どうやらその再建案に対して、主力銀行からは相当厳しい評価を下され、主力二行から資金の回収を突き付けられたらしい、とみはるの周囲でももっぱらの噂だった。また社内では周知のことであったが、社長の金子と副社長の大石は同じ静岡出身だったこともあり、「グローバルの曽我兄弟」とも言われていたのだが、今では口もきかないほどの犬猿の仲で、二人はその再建案をめぐって責任の押しつけあいをしているのではとも囁かれていた。
 
 朝方、会社でキーボードに乗せた両手をふと見ると、手首あたりに縄跡がうっすらと浮かび上がった。みはるはどきっとした。聖司とは二、三日は会えないなと思った。
 はじめて付き合って三度目のセックスで黒木は縄を使った。身体を縛られたうえでの黒木とのセックスは最高だった。みはるは黒木と出会ってセックスの凄さを知った。幸い、今日、明日は聖司は大坂に出張だった。六時で仕事を打ち上げ、みはるは久しぶりに門前仲町の和風居酒屋で弟の直也と食事した。
 店に入ると弟はまだ来ていなかった。とりあえず生ビールを頼み、熱いおしぼりで手を拭きながら手首を確認する。見ると縄跡はすっかり消えていた。この分なら明日には身体はすっかり元に戻るだろう。黒木とは朝一緒に起きて、彼は一足先に会社に向かったのだが、会社では今日一日黒木の姿は見なかった。
 直也は十分ほど遅れてやってきた。みはるより三つ下のたったひとりの弟だ。直也は江東区に拠点を置く小さなFM局で番組制作を手伝ったり、ディスクジョッキーもやっているらしい。ロックには洋楽、邦楽を問わず強いからそこを買われてて、バイトに登用されたのだろう。バイト代はたかが知れてるが、この仕事が決まると上野毛の実家を出て、この店の近くの安アパートを借りて自活している。
 直也から、水鳥さんとはうまくいってるの、と訊かれ、まあね、とみはるが答えると、さらにお姉ちゃんってあいつのこと本当に好きなの、と訊かれ、みはるは、どっちかといえば好きかな、彼、やさしいし安全だから、と答えた。直也は、なんだよ、どっちかと言えばくらいの相手と結婚するのかよ、と少し呆れ顔で言う。直也は、一度だけ聖司に会ったことはあるが、あまりいい印象を持ってはいない。一浪した末に無名の私大に進み、父のコネで入社した大手鉄鋼会社を半年で辞めてしまった直也にすれば、聖司はたしかにいけすかない部類の相手だろう。
 そういう安易な気持で結婚するものかね、とあらためて言う直也に、みはるはたぶんするんじゃないの、と答えていた。誰と結婚したって別に代わり映えしないし、その結婚がうまくいこうがコケようが、別になんてことないんじゃない、とさらにみはるは言い、私はお互い別々の方向しか見ていないあの両親をずっと観察してきたから、あんまり夫婦とか家庭とかは信用してないんだよ、とも言った。
 俺もあの夫婦はまともじゃないと思ってるけど、だからこそ自分が結婚するならちゃんとした結婚をしようと思うな、そうじゃないなら誰とも結婚しない方がましって話だろ、と直也は言う。しかし、みはるは、自分は女だから、そんなふうには思えない、女には訳の分からない結婚願望というものがあって、とにかく私としては一度結婚というキャリアを消化しておきたいの、誰が相手でもいいというわけじゃないけど、水鳥さんなら、条件的には申し分ないし、とにかく私はこの結婚願望のようなものを私の身体から追い払いたいのよ、と言うと、直也はまるで悪魔払いだな、と言った。
 聖司とは、四年前に黒木と別れた直後に少し付き合ったことがあった。当時の聖司は体調が優れず、みはるは半ば自暴自棄、半ば同情もあって関係を持った。その二カ月後に聖司にドイツ勤務の話があり、それを機に二人は別れた。しかしドイツ勤務の間に聖司の体調は回復し、病気で太っていた身体も見違えるほどスリムになって、二年前の九月に帰国し、元のリチウムイオン電池事業部に戻って来た。
 その後、去年の四月には社長直轄の経営企画本部に異動となり、二人がまた付き合いはじめたのはその半年後の十月からだ。それから二カ月後のクリスマスに、聖司からプロポーズされたのだった。その時に、みはるは聖司から、病気のとき本気で心配してくれたのはきみだけだった、と言われた。手伝えることはなんでもするから、負けちゃだめだよ、と言うみはるの言葉に自分は救われたのだ、と聖司は言い、きみと一緒にいると一番落ち着ける気がする、とも言った。
 プロポーズの時にそんな台詞を言われたら、きっと女の子はもう少し喜ぶんだろうな、とみはるは思っていた。みはるは自分はたいして魅力のない女だということはよく知っていた。弟の直也は父に似てイケメンだったが、みはるは母似で顔は平均以下だし、スタイルも平凡だ。勉強はそこそこできたが、中三のときには、友達から福澤さんって真面目なわりには皮肉やさんで、一緒にいても全然たのしくない、と言われたこともある。
 直也とは、十一時過ぎに別れた。別れしなに、俺も結構やばいけど、お姉ちゃんもこのままじゃ結構やばいんじゃない、って直也に言われた。柄にもなく人の心配なんかしてんじゃないよ、それよりあんたのほうこそ無理するんじゃないよ、とにかく、うちにはお金もあるんだし、いざとなったらお父さんの会社に入れてもらえばいいんだから、とにかく楽に生きるのが基本だよ、とみはるが言うと、直也は、楽に生きるっていうのが、案外楽じゃないんだよなあ、と歌うように言って足早に去って行った。
 聖司と婚約したあと、黒木と縒りを戻したのにはなにか大きな理由がある。しかし、その大きな理由が何かみはるは分からなかった。

 そんななか、桜も散った四月二十日に父の伸也が外出先で心筋梗塞で倒れ、母このみの勤務する飯田橋の総合病院に担ぎ込まれた。みはるは、その日は誕生日だったので聖司と六本木のレストランで食事していて、そこに弟の直也から連絡が入ったのだ。一緒に行くよと言ってくれた聖司に、とりあえずはいい、と断ってみはるは食事を中断して病院に駆け付けた。病院で名前を言うとこのみが迎えてくれた。もう心臓カテーテルの手術も終わって、ステントも入れて血管を広げたから心配ないわ、しばらく安静だから、ひとまず私の部屋に来てちょうだい、と言われ、十四階の小児科部長室に行った。広くて立派な部屋だった。みはるの会社の役員室よりも立派に見えた。すごい部屋ね、とみはるが言うと、お父さんの社長室にはかなわないけどね、と母は言った。父伸也は、電線やケーブルを生産する会社を創業者の祖父から受け継いで今は社長職にあった。
 その父親は、その最上階の十五階の特別室に入っている、という。みはるは父が愛人の部屋で発作を起こし、その愛人にこの病院に運んでくれるよう依頼したらしい、と直也から聞いていた。まだ子供みたいな若い子だったわ、どうせ銀座のホステスかなんかでしょうけど、私がこの男の女房だってことも気づかず、社長をよろしくお願いしますってぺこぺこ頭下げてたわ、とこのみはコーヒーを飲みながら言った。そして、よくもまあ、女房の職場に愛人連れで駆け込めたものよね、どこまで甘えれば気が済むんだろうね、あの人は、と続けた。
 みはるは離婚すればいいのにと勧めるが、母は離婚したら、ああいう女たちが上野毛の家に乗り込んでくるのよ、一番被害を受けるのはあなたたちよ、と言ったが、みはるはそれでも構わない、お母さんは自分の好きなように生きればいい、わけの分からない後妻が乗り込んでくるなら、私や直也もお父さんと縁を切るだけよ、と言った。
 好きなように生きる、と言っても母の年齢と器量じゃなかなか難しいのかもしれない、とも思う。それが母が離婚に踏み切れない理由の一つではあるかもしれないが、福澤家の莫大な財産のことを含めて、母は父と離婚する気など毛頭ないのは分かっていた。浮気性の父だが、見栄えはいいし、社会的地位もあるし、それでいて妻を家に閉じ込めておこうとはしない。仕事優先で生きてきた母にとって実に都合のいい伴侶でもあった。
 直也が来てから上階の父の特別病室に行った。目を閉じていたが、声をかけると目を覚まし、おお、来たのか、と元気そうな声で答えたあと、いやあ、今度ばかりはさすがに死ぬかと思ったよ、と言った。みはるは、父の顔を見て、あらためてその整った容貌は際だっているな、と思う。このみならずともこの美貌に騙される女たちは少なくないだろう。
 みんなお母さんのおかげだ、こうしてまたお前たちの顔を見れるなんて夢のようだよ、と真顔で言う父の言葉はまるで氷の上をつるつる滑るような感じがして、みはるはそこにおよそ人間的な深みを感じることができない。彼の態度も、言葉も全部が表層的だ、と思う。ほどなく病室をあとにした。
 病院を出ると十時半を回っていた。聖司に電話して、父親の病状を伝えると、大変だったね、家に来ないか、と誘われた。聖司は、もう家に帰っているようだ。みはるは、今日は疲れているから帰る、と言う。また日をあらためて誕生日の祝いをしようと聖司が言ってくれる。ありがとう、と言って電話を切った。
 飯田橋の駅の近くまで来ると、神楽坂は人で賑わっていた。みはるはふと携帯を取り出し、黒木に電話をかけた。今日は、聖司と誕生日デートだったので、きっと遅くに黒木から電話がかかって来るだろうと思っていたので、みはるは自分からかけてみたのだ。みはるが飯田橋にいるというと、それなら歩いて五分ほどだから家に来いと黒木は言った。じゃあ、ちょっと寄るね、と言って電話を切った。
 みはるは黒木の家に行ったこともないし、どこに住んでいるのかも知らなかった。黒木は神楽坂と一筋違いの軽子坂を登ったこところの八階建てのマンション五階に住んでいた。部屋は1DKで、それぞれ六畳の広さだ。室内は、几帳面な黒木らしく綺麗に片付いていて、塵ひとつない。黒木は、離婚して以来ここに住んでいるのだろうか。
 カーペットの敷かれたリビングに置かれた二つの座布団の一つにみはるは腰を下ろす。キッチンからはコーヒーの匂いが漂ってくる。大きなマグカップにコーヒー注いで持ってくると黒木は、ケーキでも食うか、と言う。男の一人世帯にケーキなんかどうしてあるのか、とみはるは訝る。冷蔵庫から取り出してきたケーキは立派なバースデイケーキだった。真ん中のチョコレートには、HAPPY BIRTHDAY MIHARUと記されていた。やっぱり今夜うちに来るつもりだったのね、とみはるが訊くと、いくら俺でもそんなことするかよ、と言う。じゃあ、なんでこんなもの買ったのよ、とさらにみはるが訊くと、ただの習慣だよ、と言った。習慣ってなにそれ、とみはるが訊くと、そんなことどうでもいいだろう、と言って黒木はケーキを切ってくれた。みはるは、大きなケーキの半分を平らげた。なんで誕生日なのにそんなに飢えてるんだ、と訊かれ、みはるは今夜の一件を手短に説明した。黒木は、大変だったな、それじゃ今晩はここに泊まって、明日おやじさんを見舞ってから出社すればいい、と言ってくれた。そうしようかな、とあっさりみはるは頷いていた。
 部屋には、ミーコと名付けられた仔猫がいた。ここに越して来てすぐの三年前に道で拾ってきたそうだ。
 そう言えば、黒木との縁も猫だった。一緒に営業回りをしていたある日、駅までの道で野良猫が五匹ほど路地から出てきたのだ。黒木は、背負っていたリュックから菓子袋の紙製のボウルを取り出し、そのボウルにキャットフードを盛って、道端に置くとやがて猫たちが集まってきた。それを見て何事もなかったように歩き出してから、黒木が呟くように言ったのを思い出す。福澤のような恵まれたやつには分からないだろうが、俺にはあいつらの気持が手にとるようにわかるんだよ。そう言ったのだった。
 みはるは、猫を飼っているの、なんで三年もの間隠していたの、と責め立てたが、黒木は隠すもなにもお前とまともに口をきくようなったのは二カ月前だろ、と言い、涙を浮かべたみはるに、黒木はミーコを高々と持ち上げてから丸まったままの姿のミーコを手渡す。
 しばらく猫とじゃれ合ったあと、みはるはシャワーを浴びて、バスローブひとつで部屋に戻り、ベッドサイドに腰掛けながら、聖司からその日聞いた極秘の話を黒木にした。会社の財務情報が銀行側に筒抜けになっていて、どうやら退任後間近の籔本さんが、それを流しているんではないかと、企画本部ではそういう話になっているみたい、とみはるは言った。まさか、と黒木はミーコをじゃらしながらまともに取りあわない。
 それだけじゃなく、メインバンクの三葉銀行の笠間さんはグローバルを潰す気じゃないか、その片棒担いでいるのが籔本さんだって言ってたわよ、とみはるは続けた。一番怪しいのは籔本常務だけど、その下で黒木課長があれこれ動いているという噂もあると聖司は言っていたが、みはるはそれは言わず、黒木に、信太郎さんはなにか知らないの、と聞いてみた。
 黒木は、そんな根も葉もない話、でたらめに決まってるだろ、と言い、会社を潰そうとしているのは、笠間さんや籔本さんではなくて、金子や大石の方だ、と言った。それどういう意味、とみはるが聞くと、そのうち分かる、と言い、立ち上がって後ろ手で寝室のドアを締めると、いきなりみはるのバスローブを剥がし全裸になったみはるを抱えてベッドに運ぶ。それはいつもの黒木のやり方だった。
 黒木は、俺からの誕生日プレゼントだと言って、クローゼットから取り出したボトルをかざし、こいつでたっぷりサービスしてやるよ、と言った。みはるは小さく頷く。そういえば、付き合って初めての誕生日にも、黒木は、泊まった六本木のホテルで、今夜はお前の身体をすみずみまで舐めてやるよ、とベビーオイルを口に含んでみはるの身体を全身くまなく舐め上げてくれたのだ。みはるは数限りなくいかされた。みはるが二十四歳、今から五年前のことだ。
 このローションは食べても大丈夫なやつらしい。ネットには便利なものがあるもんだな、と言いながら、黒木は閉じていたみはるの両足を掴んで大きく開かせた。割られた大股が黒木の肩に担がれる。今日は特別にケツの穴までじっくりかわいがってやるよ、そう言い終わらないうちに黒木の鼻や唇、太くて長い舌が股間に密着する。みはるは思わず大きな声を上げた。
 濃密なローションプレイが終わってからも、みはるは眠れなかった。黒木がローションで濡れたシーツとベッドカバーを取り替えている間にみはるはシャワーを浴び、入れ違いに黒木もシャワーを浴びに行った。彼が出てきてから二人でビールを飲みながら話をした。
 みはるがなんで奥さんと別れたのと訊く。黒木の話では、東洋電気にいる時から彼女は社内不倫をしていて、それを心配した別所専務が彼女と黒木を無理矢理くっつけたという。しかし彼女はその後もその男とは続いていて、その彼の離婚が成立して、彼女は黒木の家から出たらしい。黒木との離婚が決まり、その後二人は結婚したという。みはるは黒木の前妻が東洋電気の社員だったということは知っていたが、専務の別所からの紹介だとは知らなかった。じゃあ、別所さんが悪いじゃん、とみはるが言うと、俺たちが別れたとき、さすがに頭を下げてくれたけどな、と黒木は言った。明け方五時に、二人は一時間だけ眠ってから、部屋を出た。
 
 みはるの誕生日から二週間ほど経った連休明けの五月七日に、東洋電気とグローバル電気の合併が発表された。社員のほとんどは新聞報道でそれを知らされた。新聞は業界一位の東洋電気と業界四位のグローバル電気という電気業界の大型合併をこぞって大々的に報道したが、時が経つに連れて、次第に合併交渉の舞台裏が報じられるに及んで、事実上救済される側のグローバル電気の社員たちは、新会社東洋グローバル電気の行く末に不安を持ち始めていた。
 そんななか、黒木課長が会社に辞表を出したという話をみはるは後輩の女子社員から聞いた。みはるにとっても寝耳に水の話だった。慌てて携帯をかけたがつながらなかった。仕事が終わるとみはるは一目散に黒木のマンションに向かった。
 黒木は在宅していたが、べろんべろんに酔っ払っていて、話が聞けるまで二時間近くも待たなければならなかった。籔本常務が会社を追われる以上、自分が会社に残るわけにはいかない、と黒木は言った。
 黒木に会った翌日、みはるは黒木の辞職願を撤回させて欲しいと、常務室に籔本常務を訪ね、頼みこんだ。籔本常務は、明日の五月二十二日をもって会社を去ることになっていた。籔本常務は、自分からも黒木君には慰留を試みたが本人の意志が固くてどうにもならなかった、すでに辞表は正式に受理されていると思う、と言われた。 
 それでも、みはるは、確かにこの合併には最初は歓迎ムード一色でしたが、合併に至るさまさまな経緯が明らかにされるにつれて、社内の雰囲気も変わりつつあります。経営陣の批判も徐々に出始めていますし、と食い下がったが、籔本常務は、金子さんたちがみずからの保身のためにこの会社を売り飛ばしたんだ、それがこの合併劇の偽らざる真相だよ、と言った。そして、虎の子の燃料電池技術を譲り渡してしまえば、幹部たちもいずれ放逐され、社員たちも一人残らず厄介者扱いを受けるようになる。社名だって、東洋グローバルなんて、ほんの一時期で、そのうち東洋電気に逆戻りだ、とも言った。
 報道された内容では、新会社設立と同時に持ち株会社として、東洋グローバルホールディングスが設立され、グローバル電気の金子社長がその初代社長に就任することが決まっていて、その後社内に流れてきた情報では、グローバルの役員は籔本常務を除いて全員が秋に設立予定の新会社東洋グローバル電気の役員に横滑りするということだった。
 みはるは黒木課長も常務と同じことを言ってました、と言った。そうかきみは黒木君と話したのか、と訊かれ、みはるは、はい、昨日、課長が辞表を出されたと聞いたものですから、と答えた。
 そうか、と籔本は小さく息をつく。みはるは続けた。黒木課長は自暴自棄で辞表を出したのだと思います。今回の合併劇の裏話も聞かせてもらいました。常務が去るなら自分が残るわけにはいかない、とおっしゃってました。そして、課長は常務がおられたから自分はグローバルにいたんだ。どうしようもない自分を常務が拾ってくれて、まっとうな道を歩かせてくれた。常務は自分にとっては太陽のような存在だった。その太陽に照らされてグローバルという一流企業で働くことができた。その常務が今回の戦争に負けて戦場を去る以上、自分もおめおめと会社にしがみついているわけにはいかないんだ、と。
 語調を強めて喋るみはるの言葉を籔本は真剣な眼差しで聞いていた。
 昨日の黒木は、いつもの黒木とは違っていた。とつとつと胸のうちを語ってくれた。彼が籔本常務のことを、藪さん、というのをみはるははじめて聞いた。俺がこうして普通の勤め人暮らしをさせてもらえたのも、みんな藪さんのおかげだった。あの人がいなければ、俺は今頃どうなっていたかわからない、と黒木は言った。
 みはるは二人の想像以上のつながりを肌で感じて、合併が発表されたのちに水鳥聖司が解説してくれた内幕はほぼ真実に違いないと確信した。合併劇の舞台裏も聴かせてもらいました、とみはるがさっき言ったのは嘘だった。黒木は、いくら問い詰めても、籔本と自分がやってきたことを一言たりとも話さなかった。
 俺は昔のようなどうしようもない自分に戻ることにする。それが俺の本性だし、自然の姿なんだ。残りの人生を勝手放題に生きてやる、と黒木さんは、おっしゃってました。ほんとうにやけくそって感じなんです。ですから、常務の力でぜひ黒木さんの辞表を取り下げさせてください。それができるのは常務をおいてほかにいません。
 みはるは、いつのまにか、黒木さん、と口にしていた。籔本は、じっとみはるの目をのぞき込むようにしたまま、なにも話さなかった。みはるも目をそらさず相手を見ていた。長い沈黙ののち、あいつの好きにさせてやらないか、と籔本が言った。
 籔本は、それからこう言った。自分はまっとうな人間になれるような男じゃない、というのはあいつの口癖みたいなもんで、自分の生い立ちからそう思い込んでいるだけで、僕からすれば黒木ほど筋の一本通った男はいない。あいつが大学を中退したのは、お袋さんの子宮がんが見つかったからなんだ。それで、あいつは看病と治療費の捻出のために働き出したんだ。お袋さんが入院したのがたまたま僕の兄貴が勤務している病院で、兄貴からいまどきめずらしいような孝行息子がいるんだが、お前の営業所で使ってやってみてくれないか、と頼まれて、あいつを面接したのが僕たちの付き合いの始まりだった。お袋さんは二年くらいで亡くなったが、その間のあいつの献身的な看病ぶりには頭が下がったもんだ。本社に戻る時にあいつを連れて行ったのも、別に温情なんかじゃなかった。社員とくらべても、黒木の方が営業マンとしてはるかに優秀だったからだ。だから、福澤、あいつのことはそんなに心配することはない。あいつなら、きっとなんとかやってゆけるよ。
 みはるは内心、失望していた。籔本は黒木のことをちゃんと理解してない、とそんな気がした。身体と身体の関係で付き合った者同士だから分かることがあった。セックスをしている時の黒木は、ただならない一匹のけものとなる。いや、けものというよりも、すっかり壊れてしまった廃人寸前の人間のようだ。黒木はいままで一度も避妊したことがない。彼はかならずみはるのなかで果てた。そして、よくもいままで妊娠しないでこられたものだとみはるも思っていた。
 黒木が、自分はまっとうに生きられない、と信じているのはあながち誤解や錯覚ばかりではないとみはるはみていた。それはそっくり自分にもあてはまることだと密かに思っている。
 考えてみれば、あれだけ天衣無縫な男を二十年近くもこんな会社に縛りつけてしまったんだ。僕はまずそれを反省しなければならんかもしれんな、と籔本は少しはにかんだような笑みを浮かべた。
 今回の合併に最後まで反対し、自主再建を主張したのは三葉の笠間頭取だった。笠間は現経営陣を排除し、薮本を新社長に据えて、三葉主導の再建を行なおうと最後まで画策したようだ。グローバルの電池事業を手に入れて三葉自動車の電気自動車開発に挺入れしたい笠間さんからすれば、薮本体制は願ってもない形だったと思う、と聖司は言った。昨日、黒木の家を出たあとみはるは聖司と電話で話した。金子社長と共に今回の合併を推進した大石副社長の直下にいることもあって、聖司は現体制にすっかり同調している気配だった。
 三葉がそこまで経営に介入してくるなら、グローバルとしては、東亜の三枝頭取を通じてかつての兄弟会社である東洋電機と一緒になる以外に生き残る道はなかったわけだ、とも聖司は言った。しかし、みはるからすれば、経営費任には一切頬っ被りし、平気な顔で新会社の幹部の座に居すわる金子らへの不信感は拭えない。
 さらに聖司によれば、薮本は笠間と組んで役員たちの切り崩しに奔走していたし、おまけに黒木課長は東洋電機にいた別所さんを通じて、東洋内部の合併反対派に相当手を突っ込んでいたらしい、ということだった。黒木が辞表を提出したことはもちろん知っていたが、裏切り者である薮本や黒木が社を去るのは当然というのが聖司の受け止め方のようだった。
 みはるはこれ以上の説得は無意味だろうと判断し、そうですか。やっぱりむずかしいですね、と言ってから、常務は今後はどうされるんですか、と訊いた。
 まだ何も考えてないが、ただ、黒木とおなじでもう会社勤めはこりごりだな、と言ってから、みはるに、きみはどうするんだ、企画本部の水鳥君との結婚式、もうすぐなんだろう、と訊いた。みはるは、私はグローバルの一員として新会社でもう少しがんばってみるつもりです、と言う。
 それはそれで結構。きみくらいの年齢なら負け戦も大事な勉強だ、薮本はそう言うと、鋭い視線でみはるを一瞥し、ソファからゆっくりと立ち上がった。

 聖司とは地下鉄半蔵門線「表参道」駅の改札口で別れた。
 六月七日日曜日。十一時からウェディングドレスのフィッティングがあり、最後のフィッティングだったので聖司も付き合ってくれた。だが、試着してみるとまだいくつか不満があって、結局十日後にもう一度フィッティングすることになった。それから二人で軽めの昼食をとって、会社に向かう聖司を見送ったのだ。
 今秋の新会社たちあげに向けて、合併作業の中核部隊である経営企画本部の面々は目が回る忙しさのようで、聖司も合併発表以降はそれこそ寝る間もないくらいの日々となった。土日も祭日も出社しているし、大阪に本社を置く東洋電機との打ち合わせで週の半分は関西に出かけている。
 聖司によれば、電池を除けばどの事業分野でも向こうが五年は先を走っている。とくにエンジニアの層の厚さはうちとは比べものにならない、というのが実状らしい。
 結婚式まで一カ月を切ったというのに、聖司とは週に一度か二度会えればいい方だった。みはるは、会った時には、できるだけ聖司の話を聞いてあげるように心がけている。それまでは仕事については秘密主義だった聖司も今では仕事の中身を打ち明けてくるようになった。式が近づき、いよいよ夫婦となるのだという実感が彼にも芽生え始めているのだろう。みはるの方も次第に気持ちが高まってきているのは確かだった。疲れている聖司の顔を見れば、ごくしぜんに労ってあげようという心地になる。
 妻の気遣いとはこういうものなのだろうか、と思ったりもした。
 しかし、聖司を地下鉄の改札で見送って地上に戻るまでのあいだに、みはるは黒木に会いに行こうと決めていた。足元の地面が固まれば固まるほど、その硬い地面をほじくり返したい衝動に駆られるのは、もしかしたら父の伸也と似たのかもしれない。父もまた優秀な母と二人三脚で築いた家庭をふと壊したくなって浮気を重ねてきたのではないか。結婚が差し迫ってきて、みはるは父のこれまでの行状をそういう新しい視点で見ることができるようになった。
 青山通りでタクシーを拾い、神楽坂の黒木のマンションに向かった。時刻は午後二時を回ったばかり。黒木が部屋にいるかどうかは定かでない。いなければいないで仕方がないと考えていた。
 チャイムを鳴らすと扉の向こうで足音が聴こえる。いきなりドアが開き、みはると目が合うと、黒木はちょっと意外そうな顔になる。
 元気、とみはるは言った。身なりは例によってグレーのスウェットの上下だが、こざっぱりとしている。缶ビールを飲み流して泥酔していたあのときとは別人だった。どうしたんだよ、急に、とみはるが勝手に上がって部屋に向かうと、黒木が追っかけてきながら言う。別に。ちょっと様子を見に来ただけ。
 部屋は相変わらずきれいに片づいていた。開け放ったドアの向こうのベッドには塵一つないベッドカバーがきちんとかけてある。黒木は、ソファの近くに山積みになっている文庫本を隅にどけて、窓際に移してあった座卓を中央に戻す。みはるはその作業を見届けてから座卓の前に腰を下ろした。
 水鳥とデートなんじゃないのか、と黒木がやかんに水を溜めながら言う。
 午前中からドレスの試着に付き合ってもらって、さっき別れたの。彼、今日も会社だから、とみはるは言う。
 黒木は得心したようなしないような顔だ。五月二十日の晩にここで会ったきりだから顔を見るのは十八日ぶりだった。もう酒びたりはやめたわけ、とみはるが訊くと、まあな、と言って黒木は真新しそうなコーヒーミルで豆を挽いている。
 結局、黒木は辞表を出したあとは一日も出社しないまま退職したのだった。私物はすべて破棄、後任との引き継ぎも拒絶し、退職のための書類のやりとりも全部郵便で済ませたというからみはるは呆れてしまった。
 結構まともにやってるじゃない、とみはるがからかい気味に言うと、だといいけどな、と黒木は言った。
 黒木の淹れてくれたコーヒーを二人で飲んだ。毎日何してるの、とみはるが訊くと、なんにもしてない。ただぶらぶらしてるだけだ、と言い、それより、おやじさんはどうした、と問い返してくる。
 父は発作から二週間で会社に復帰し、好きなゴルフも先月末から再開した。昨日母から聞いた話では、さすがに例の若い愛人とは切れたようだった。母は、最近はあんまり低姿勢で薄気味悪いくらいよと苦笑していたが、父のそういう態度変わりがまんざらでもなさそうに見える。みはるの挙式が間近に迫り、父も母も花嫁を送り出す身としてそれなりの喜びとさみしさを噛みしめているふうでもあった。
 そうか。そいつは何よりだ。やっぱり今日の黒木は素直すぎる、と思っていたら背後で甘ったるい鳴き声が聞こえ、振り返るとミーコがすぐそばまで近づいてきていた。みはるが腕をのばすと、ミーコは手元までやってきて喉をごろごろ鳴らしながらみはるの手の甲を舐めてくれた。ひとしきり舐めると壁際に置かれたソファの方へと向かい、そのソファに飛び乗って身体を丸めたのだった。みはるも黒木もミーコの一連の動きをしばし黙って見ていた。ミーコが目を閉じて動かなくなると不意に黒木は立ち上がった。と思うと、じゃあ、ご希望におこたえしてさっそく一発やるか、と黒木はみはるの腕を取ってくる。
 みはるはその太い腕を振りほどくようにして、私、さっき、ウェディングドレスのフィッティングをしてきたばかりなんだよ、と言ったが、それが俺と何か関係あるのかよ、と言い、黒木はさらに力を込めて腕を掴んでくる。
 みはるは、やめてよ、もう、と叫びながら身をよじるが、心のうちではようやく黒木らしい黒木に出会えたようなほっとした気持ちになっていた。
 つべこべ言わずに言う通りにしろ。こっちはうんざりするほど溜まってんだよ、と突然、声を荒らげて黒木が凄む。三時間近くたっぷりと交わった。
 シャワーを浴びて二人で部屋を出たときはとっくに五時を過ぎていた。そのあと最近行きつけだという神楽坂のお好み焼き屋に連れていかれた。カウンターだけの狭い店だったが、出入口そばの二席に座り、黒木は生ビール二つと鳥の塩焼き、それと肝心の広島風のお好み焼きは、黒木の勧めで、海鮮ミックスのうどん玉入りとそば玉入りを一枚ずつ頼んだ。
 生ビール一杯を飲み切ったところでようやく声が戻った。黒木に攻められて高い声を出しすぎたせいで店までの道すがらは嗄れ声でろくに話せなかったのだ。やったあ。ビールのおかげで声が戻った、とみはるがはしゃぐと黒木が頭をよしよしと撫でてくれた。
 二杯目のジョッキが空になるまではもっぱらみはるが喋った。最近の会社の様子や両親の様子、弟の直也が近いうちに父親の会社に入社する運びとなったことなどをとりとめなく話す。黒木は会社の内部事情を含めて熱心に聞いてくれた。もともと彼は相手の話を上の空で聞き流したりすることはなかった。
 あの次の日、薮さんのところへ直談判に行ったんだってな、と三杯目のビールに口をつけて、ぽつりと黒木が言った。
 お母さんが病気になったから信太即さんは大学を辞めたんだって常務が言ってた、と言うと、そうか、と黒木が素直な反応を示す。
 そんなひどいお母さん、助けてあげる必要なんてぜんぜんなかったのに、と薮本から話を聞いたとき、真っ先に頭に浮かんだことをみはるは口にした。
 その通りだな、と黒木が言う。じゃあ、なんで放っておかなかったの、と訊くと、きっと自分のこころを試したかったんだろうな。ろくでもない親でもやっぱり親だからな。お袋ががんだと知って、自分にもまっとうな人間のこころがあるかどうか、それを試したくなったんだろうな。お袋のために一生懸命に尽くしてみて、がんが治るか、お袋が死ぬかしたときに自分がどんな気持ちになるのかを俺は知りたかったんだ。
 黒木は、母親が死んでも、ちっとも悲しくなかった。この人とは最後まで他人だったと心底思い知っただけだった、と言った。ただ、死ぬ直前、俺に向かって手を合わせて、ひどい母親で悪かった。ごめんね、って涙を流しながら謝ってくれたんだ。まがりなりにもこの俺を産んでくれた人だ、と彼は言った。
 どれだけひどいことをしても最後になって謝れば済むなんて、そんなの虫がよすぎるわよ。そういう謝罪は傷つけた相手への二重の暴力だと思う、とみはるは言い、さらに、前の奥さんのことだってそう。信太即さんを裏切ったのは向こうなんだし、なのに信太即さんが仕事まで捨てるなんてメチャクチャな話だよ。だから、私はどうしても辞表を撤回してほしかった、と言った。
 薮本が気づいていたかどうかは判然としないが、みはるは、黒木が辞表を出した最大の理由は東洋電機に別れた妻の夫がいることだと思っていた。黒木という男にはそうした状況は耐えがたいことに違いないのだ。
 自分のことは思い切り棚に上げてよく言うよ、と黒木は言った。それなら、俺やお前が水鳥に対してやってることはどうなるんだってことさ。俺たちのようなとっぱずれた人間に誰かを断罪したり憎みつづけたりする資格が一体どこにあるっていうんだよ。お前だっていまこの瞬間、決して許されないことをしながら、それを水鳥に許してもらってるんじゃないのか。
 あんな男、どうでもいいのよ、思わず口をついて出た一言にみはる自身がたじろいでしまう。だが、言った瞬間に気持ちが固まったような気がした。
 来月には結婚しようって女に別の相手がいることにも気づけない男なんてどうでもいいわよ。そんな男はどんなひどい目にあっても自業自得なのよ。
 しかし、お前もメチャクチャ言うな、と黒木が呆れたような声を出す。
 だって信太即さんがいつも言うじゃない。俺もお前もどこにもいないんだって。ただ、誰かの中に住んでいるだけだって。だとしたら水鳥聖司の中に私なんていないし、私の中にも水鳥聖司なんてどこにもいやしないわ。
 だったらどうしてそんな男と結婚する?お前は、ほんとうは水鳥の中にもっと自分がいればいいと願ってるんだろ。それが不満でこうやって俺とおまんこしまくってるんじゃないのか。
 信太即さん、サイテー。ほんとバカじゃないの、と言いながら、たしかに黒木の指摘の通りだ、とみはるは思った。正直、自分がいま何をやっているのかみはるにも分からない。端から見れば無責任で支離滅裂でサイテーなのはこの私の方だと自分でもはっきりそう思う。
 だったら信太即さんはこの私と結婚してくれるの?
 喉元までその言葉が出かかっている。が、それもまた真実の言葉とはほど遠いような気がした。めずらしく急速に酔いが回ってきた感じがする。頭のなかがごちゃごちゃしてくるのが分かる。今日、南青山のドレスショップの鏡の前に立った自分の姿がまざまざと瞼の裏によみがえってくる。あんなお嬢様ドレスなんて私にはちっとも似合わないし、どんなに着飾ってみたってたかが知れている。その現実を否応なく見せつけられて、私はただむなしい気持ちになるだけだ。
 黒木が母親の死を悲しめなかったように、この私も自分の結婚や結婚式をどうしても喜ぶことができない。子供の頃からそうだった。きれいなお嫁さんの姿を目にしても憧れたことなど一度もなかった。あんなことは美しく生まれついた女たちだけが嬉々としてやっていればいいのだといつも冷めていた。さして美しくもない自分がそんな無意味なことに労力を費やすのは時間の無駄だとずっと思ってきた。黒木は私が水鳥にもっと愛されたいのにそうすることができなくて、それで自分と寝ているのだと言う。たとえ百歩譲ってそうした一面があったとしても、それはほんのごく一部だ。私はただ自分にそぐわないようなことはしたくない。それだけなのだ。私にとっては水鳥と一緒にいるときよりも黒木とセックスしているときの方が何倍も気持ちいいし、たのしい。だから私は黒木と再び縒りを戻した。水鳥と定期的にセックスをするようになって、私は黒木とのセックスがとても懐かしく、そして恋しくてどうしようもなくなったのだ。その意味では、私はただそれだけの理由で黒木とセックスをしまくってるにすぎない。
 最初に付き合っているとき、一度黒木がこんなことを言ったことがあった。
 俺はほんとうはこういう関係が一番好きなんだ。会いたいときに会って、やりたいときにやって、そのたんび後腐れもなきゃ、嫉妬も執着もない。無理して一緒に暮らして、お互いを縛りあったりあらさがしをしたりもしない。そういう関係が死ぬまでつづけば、俺はそれが一番いいと思ってるんだ、と。
 みはるは、そんなこと言っても、もし子供ができたらどうするのよ、と詰め寄ったが、黒木はしれっとした顔で、そんなもん、産みたきゃ勝手に産めばいいだろ、と自らの過去のことなどすっかり忘れたようなセリフをいけしゃあしゃあと吐いたのだ。なんて無責任なの。どうかしてるわ、とみはるはとりあえず反発してみせたのだが、実は、心の深い部分でその黒木の言葉に激しく同意していたのだった。
 だからこそ、そんな自分がとても恐ろしくなって、それから間を置かずにみはるは黒木と別れてしまったのだ。
 みはるは、酔っ払ってしまって、店からの帰り、黒木の背におんぶされて、黒木のマンションに戻った。すれ違う人々が不思議そうな顔でみはるを見ていた。黒木の部屋ですこし眠ってから家に帰った。

 父と母と三人での夕食は簡単に終わった。
 父も母も式のことにはほとんど触れてこなかった。食卓を離れるとき、明日は早いから、あんまり夜更かししちゃだめよ、と母が言い、そうだな。それがいい、と父が同調しただけだった。娘が嫁いで行く前の晩とはこんなものなのだろうか、とみはるはそのあっけなさに拍子抜けしてしまった。
 三階の自室に戻り、カーテンがひらいたままの大きな窓を開けた。日は長くなっているが、それでも八時を過ぎれば昼間の光はひとかけらもなくなる。
 七月に入ったばかりの東京地方は梅雨のまっさかりだが、ここ数日は好天に恵まれていた。明日五日も朝から晴れるとの予報が出ている。
 今日は聖司とは一言も話していなかった。みはるは一日から休みを取っているが、聖司は昨日まで会社だった。式の前日は電話もやめておこうと約束しているので、今夜は連絡はない。彼も実家に帰って両親や妹と食事をしているはずだ。
 直也は帰ってこなかった。七月いっぱいでラジオ局のバイトをやめることになっているが、父の会社への就職を決めた直後に正社員の話が持ち上がって、それを断るかどうかでずいぶん悩んだ一時期があったと昨日の電話で初めて聞いた。明日は夜まで大事な収録が入っているんだ。申し訳ないけど、明後日直接式場に行くよ、と直也は申し訳なさそうに言っていた。先日久々にこの家で会ったときも感じたが、父の病を境にして彼は見違えるようにしっかりしてきている。
 式場は父と母がそうだったように帝国ホテルだった。福澤の家の者は叔父や叔母をはじめ、いとこたちも全員帝国ホテルで挙式しているので、みはるや聖司に選択の余地はなかった。みはるの方の主賓は経済産業大臣、水鳥の方は慶応の医学部長の職にある父方の伯父がつとめることになっていた。出席者は約三百人、盛大な披露宴が予定されている。
 自室で三十分ほど時間をつぶしたあと、時刻が八時半になったのを見届け、みはるはあらかじめ用意しておいたスニーカーを持って部屋を出た。食事中にお風呂は自室のシャワーをつかうとそれとなく伝えておいたので、いまから明朝まではたとえみはるがいなくなったとしても両親が気づくことはない。西側の非常用の階段を降りてキッチンの端の勝手口から外に出た。
 上野毛の駅まで五分ほど歩き、タクシーに乗って飯田橋駅に向かう。首都高はがらがらで黒木のマンションの前には四十分足らずで着いた。
 タクシーを降りて、みはるは狭いエントランスのドアを引く。一カ月前に神楽坂のお好み焼き屋で泥酔して以来、一度もここには来ていない。黒木に電話することもなかったし、向こうから連絡してくることもなかった。
 だが、黒木は明日がみはるの結婚式だということは知っているはずだ。
 四月二十日、誕生日の日に初めてここに来た。部屋に上がると黒木はなぜかバースデーケーキを用意していた。みはるが、何でこんなもの買ったのよ、と訊くと、ただの習慣だよ、バカ、と黒木は言った。みはるは気にもとめない素振りで受け流したが、ほんとうは身体が震えるほど驚いていたのだった。
 ただの習慣、と黒木は言った。その言葉を額面通りに受け取るならば、彼はみはると別れてからいままでずっと、みはるの誕生日のたびにケーキを買いつづけていたということになる。もし、万が一、その日、みはると再会するかもしれないから。もし、万が一、その日、みはるがやって来るかもしれないから……。
 そして今日はみはるの挙式の前日なのだ。
 だとすれば黒木はもしかして……。
 この一カ月、みはるはずっとそのことばかりを考えて時を過ごしてきた。
 速度の遅いエレベーターがやっと一階に降りてくる。
 みはるは一つ息を詰めて、それに乗り込む。
 もし黒木が部屋にいて、みはるがやって来るのを待っていてくれたとすれば、みはるの人生はその瞬間から大きく変転し始めることになる。
 五階でエレベーターを降りる。薄暗い廊下をまっすぐに突き当たりまで進んだ。
 黒木の部屋のドアの前で立ち止まったみはるの視線は、チャイムを押す前にある一点に釘付けになった。
 「KUROKI」とタイプ打ちされた表札がなくなっていた。自分の顔からじわじわと血の気が引いていくのが感じられる。
 それでも諦めきれずにチャイムを鳴らした。静まり返った廊下にドア向こうのベルの音が鮮明に響く。室内に誰かいる気配は皆無だ。ゆっくりドアノブを握って回してみた。施錠されていることが分かる。
 新聞受けには、B5サイズのビニール袋に入った東京電力の「新規申込書」の書類一式があった。
 黒木がいなくなってしまった、という事実を容易には受け入れられなかった。
 彼が不在だったり、訪ねたものの有無を言わさず追い返されたりといったケースは想定していた。だが、黒木が自分の前から消えてしまうなどとは想像だにしていなかった。
 あの黒木はもうどこにもいない……。
 会社も辞め、もともと身寄りもない彼は、こうして姿を消してしまわれると探すすべのない煙のような存在だった。
 みはるは「新規申込書」の入ったビニール袋を右手でくしゃくしゃに握りしめ、もはや二度と開くことのないドアの前に呆然と立ち尽くす。
 私、来たんだよ。やっぱりそうするしかないって覚悟を決めて来たんだよ。
 なのに、一体どうしたの?どうしてこんな形で終わらせてしまうの?
 みはるは泣きたいと思った。大声で泣き叫びたいと思った。
 だが、彼女の瞳からはたった一滴の涙さえ出てはこなかったし、まるで喉の奥を塞がれたみたいに、その口からは嗄れ声一つ吐き出されてくることもなかった。

 
戻る          トップへ