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白戸圭一著『ボコ・ハラム』(新潮社)
 著者はジャーナリスト、新聞記者としてアフリカ駐在の経験もある。文章もうまく読みやすい。
 そもそもボコ・ハラムとはどういう意味かというと、ボコは「西洋の知・教育」を意味し、ハラムは「禁忌・禁止」を意味するもので、西洋文明を拒否してイスラーム教の教えに従い、最終的にイスラーム国家を目指すということである。
 2014年4月にナイジェリアのボルノ州で起きた200名以上にのぼる女子生徒集団拉致事件により一躍世界にその名が知られるところとなった。
 ナイジェリアはアフリカ諸国のなかでは最大の人口大国で1億8000万人を擁し、また経済的にもサブサハラ・アフリカ諸国(サハラ砂漠以南のアフリカ諸国)のなかでは南アフリカと並んでトップレベルにある。
 近年のナイジェリアの経済発展には目を見張るものがあるが、そのナイジェリアでなぜこのような過激なテロ組織が誕生したのか?
 本書を読むまで知らなかったことが沢山ある。まず、ナイジェリアは大きく南部と北部に分かれ、南部には主にキリスト教徒が住み、北部には主にイスラーム教徒が暮らしいる。ナイジェリア人口のほぼ半数ずつをキリスト教徒とイスラーム教徒が占める。そして経済的には南部が北部をはるかに凌ぎ、大きな経済的格差がある。しかしボコ・ハラムによるテロはキリスト教徒を標的にしたものではない。むしろ、それはイスラーム教徒を対象としたものがほとんどなのだ。ボコ・ハラムが標的とするのは北部イスラーム教徒の支配層である。この支配層はかつての植民地宗主国であったイギリスによる間接統治により北部地域の支配を認められた者たちで、彼らの多くはイギリス式の教育を受け、イギリス統治のもとで地域の支配層を形成した。
 こうしたイギリス式の教育を受けたエリート層に対して、イスラーム学校で教育を受けた知識人もいたが、彼は不遇をかこち、不満を抱えていた。
 やがて、ナイジェリアはイギリスから独立するが、独立にあたり当時の指導者たちは北部も南部にならってイスラーム法のシャリーア刑法の廃止を決定した。これがのちにボコ・ハラムを生み出すことになるのである。
 しかし、シャリーア法の全面導入を主張するイスラーム指導者は北部地域で次第に勢力を強め、ナイジェリアの民主化運動とともに2000年代に入ると北部12州の知事全てがシャリーア法の全面導入に賛同を示した。ただ、実際にその法の執行となるとさまざまな問題が発生し、支配層の多くがその厳格な施行に躊躇し、回避し続けたのである。そこからシャリーア法の厳格な施行を迫る勢力が登場する。彼らの一部は理想のコミュニティ建設を求めてナイジェリア北部を彷徨ったりしていた。それがボコ・ハラムの誕生につながっていった。
 当初はあくまでイスラーム反体制組織として警察署の襲撃などを行っていたが、初代のリーダーユスフが警察のリンチで殺され、二代目リーダーのアブバカル・シェカウの時代になると、アルカーイダとの連携を強め、過激なテロを繰り返すようになる。あの女子生徒集団拉致事件もそうしたなかで起きた。さらに、その後イスラム国とも連携するようになったが、イスラム国の衰退でボコ・ハラムもその活動は明らかに衰えてきている。拉致された女子生徒の約半数はその後解放され戻ってきたが、2017年の時点で残りは依然として不明である。
 
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