著者文京洙(ムンギョンス)は1950年生まれの在日二世で朝鮮近現代史の専門家。立命館大学国際関係学部准教授。両親は済州島出身の在日。本書は2008年4月に出版されたものをあらたに文庫版として「現代文庫版あとがきにかえて」を加えて2018年2月に出版されたものである。 さて、済州島というと今や韓国でも有数の風光明媚な観光名所として知られる。しかし、戦後まもなくの1948年済州島で起こった四・三事件は島全体を巻き込む凄惨なジェノサイドであった。 日本の敗戦により植民地支配から解放された朝鮮半島では解放後まもなくソウルに朝鮮建国準備委員会が結成され、1945年9月6日には「朝鮮人民共和国」の樹立が宣言された。この準備委員会は人民委員会の名で呼ばれるようになる。当初米軍当局も人民委員会を頼りにしていたが、ソ連との間で信託統治を巡って対立が生じ朝鮮国内でも左右両派での対立が深刻化したため、米軍当局は左派中心の人民委員会を次第に抑え込み、左右両派の合作による臨時政府を起ち上げようと画策する。これに対して左派勢力は1946年10月ゼネストで対抗、全土でデモや暴動が拡大した。これを機に米軍当局は左派勢力の徹底弾圧にまわる。いわゆる「10月人民抗争」である。これによって中央での左右合作政府構想は頓挫し、米軍当局はやがて旧親日派を含む右派勢力を中心とした政府を南側だけの単独選挙によって作り上げようと目論む。単独選挙実施を巡って左派の南朝鮮労働党は反対闘争を繰り広げるが、指導部が次々と検挙され抑え込まれていく。 こうした中央での動きと済州島での状況はやや異なっていた。中央ですでに機能不全に陥っていた人民委員会が済州島ではしっかり機能していたのだ。 済州島の人民委員会の中心にいたのは南朝鮮労働党のメンバーたちであったが、その活動を担っていたのはイデオロギーよりも生活共同体の利益のために活動していた地元の名士を含む広範な人々であった。当初は米軍当局とも協調関係が続いた。また済州島の左派勢力は本土での人民抗争にも参加しなかったので、1946年末頃までは人民委員会は島内で確固とした支持を得ていたのである。 しかし1947年の三・一節記念行事を巡ってついに本土の左右両派の対立の渦に済州島の左派勢力も巻き込まれていく。この記念行事の実施をめぐって米軍当局とも対立し、それを強行した左派勢力に対して軍・警察との間で偶発的な発砲事件が起こり、6名の民間人が死亡した。これに対して左派勢力はゼネストで対抗した。ゼネストを機に米軍政当局も左派勢力に対抗する形で知事の更迭、極右知事の任命、警察幹部のすげ替えなどあからさまな圧力をかけはじめた。これが済州島を左派勢力の巣窟とみなす右派勢力を勢いづかせた。こうした動きに後押しされるように済州島へ大挙して流れこんできた右派勢力の一つに西北青年会がある。これは北朝鮮での社会改革を嫌って南に逃れて来た越南青年たちによって組織された反共右翼団体である。彼らは米軍政当局や知事、警察の後ろ盾を得て、ギャング顔負けの暴虐非道の限りを尽くした。こうして済州島での左右両派の対立は抜き差しならない状況を迎える。 米軍政による幹部の一斉逮捕などにより次第に追いつめられた南労党は1948年3月初めについに武装蜂起を決定する。決行日は4月3日未明と決められた。蜂起に参加した人数はおよそ300名、小銃、手斧、竹槍など軽武装の武装隊は島内の半数にあたる12の警察署と右翼団体幹部宅を襲撃した。武装隊の死者は2名、警察、右翼の死者は14名を数えた。しかし武装蜂起とはいえ規模はそれ程大きくはなく、また「単独選挙反対、祖国の統一・独立」を掲げてはいたが、警察や右翼の弾圧に対する自衛・反抗の性格を帯びていて島民の多くの支持も得ていた。 しかしこの武装蜂起は米軍政にとっては5月10日に予定していた選挙に対する重大な挑戦と映った。米軍政は当初治安部隊で対処しようとしたが、その後国防警備隊第九連隊の派遣を指示し、軍部隊による鎮圧を図る。 しかし第九連隊長金益烈は武装隊司令官の金達三との間で和平交渉を持ち、4月28日に武装解除を条件に首謀者の身の安全を保障するという和平合意に達していた。しかし直後に米軍政は和平を認めず第九連隊長金達益を電撃的に解任し、鎮圧作戦の強化に乗り出した。これに対して武装隊も単独選挙阻止をめざし選挙管理委員への襲撃などのゲリラ闘争を拡大したため、済州島ではきわめて低投票率となり、選挙は無効とされた。米軍政は再選挙をめざすが、武装隊の抵抗が激しく無期延期とせざるを得なくなる。 しかし済州島以外の南朝鮮地域での選挙は順調に行われ、5月末には大韓民国の国号が決まり、8月15日に李承晩大統領のもとで建国が宣言される。また北朝鮮でも翌9月に金日成政権が誕生した。 他方、済州島ではここから米軍政による本格的な鎮圧・討伐作戦が始まる。しかし討伐隊として派遣を指示された軍の一部から派遣を拒む反乱が起こるなど本土でも政情不安が高まり、10月22日に南朝鮮全土に戒厳令が敷かれる。それを機に済州島ではいわゆる焦土作戦が始まる。左派の武装隊は山岳地帯に逃れゲリラ闘争を展開するが、これに対し討伐隊はまさにジェノサイドとも言ってよい一般村民を含めた徹底的な虐殺行為を行ったのである。討伐隊による犠牲者は一万人を超え、武装隊のほとんどは戦死または刑死となった。1949年4月には武装隊はほぼ鎮圧され、5月には再選挙が実施されている。 もともと済州島では本土地域に比べて一族門中にとらわれない村落共同体の結束が強く、外部に対しては独立・自治意識が強い。だが、四・三事件がもたらした権力への異議申し立てがもたらした代償はあまりにも大きく彼らの昔ながらの気質は無残にも打ちのめされてしまったといってよい。四・三事件以降は島民はとにもかくにも強者に付くことが生きる術と思い込むようになった。こうした島民の心理的トラウマはいわゆる「レッド・コンプレックス」と呼ばれた。済州島ではもともと農業以外の産業が乏しく大半が自給作物であったが、零細農家が多く春から秋のまでの春窮期(ポリッコゲ)には政府からの貸与食糧に頼るほかはなく、それが一層島民を卑屈にさせた。その結果、済州島はその後与党の強力な支持基盤となっていったのである。 60年代には韓国経済がいわゆる「漢江の奇跡」ともいわれる経済成長を実現し、その恩恵を済州島でも受けることになる。電気、道路、水道などのインフラの整備も進み、果樹栽培などのあらたな収入の途も開かれた。さらに70年代、80年代には観光開発が進み、91年には観光所得が島の最大の収入源となった。他方でこうした観光開発の結果島内の土地の多くが内地資本によって買い占められるという実態も次第に明るみとなり、島民の怒りを呼び覚ますことにもなった。それは済州島開発特別法反対運動として広範な島民を巻き込んだ大衆運動として繰り広げられた。その過程は済州島の島民が四・三事件以来のレッドコンプレックスを乗り越え済州島社会の主体として蘇る契機ともなったのである。また、それは四・三事件の議論をタブーの領域から引き出し「四・三運動」として四・三事件の真相究明や被害状況の解明、さらには犠牲者遺族への補償問題などへの取り組みへと向かわせることにもなった。もちろんその背景には1980年代半ば以降の韓国での民主化要求運動とその帰結としての1987年の六月抗争における「6.29民主化宣言」があることは確かである。 さらに金大中大統領候補による四・三事件の真相究明の公約は、政界における四・三論議の端緒を開くことにもなった。しかしこの時期における四・三事件の論議は当事者たちにおいてはどこか寒々としたものであった。四・三事件を民族解放闘争の文脈で位置づける民主化運動の知識人たちの論理は島民の心情とやや乖離していた。それでも92年再び金大中大統領候補が四・三特別法の制定を公約に掲げ、また金泳三文民大統領が誕生したことにより世論の風向きも変わりはじめた。そうしたなかで苛烈な弾圧により追いつめられた自衛的な生存権闘争として四・三事件の真相究明を求める声が島民のなかにもひろがっていった。92年3月には済州道議会に四・三特別委員会が設置され、事件の調査や慰霊事業が始まる。 さらに1998年の金大中大統領の誕生は四・三運動にとって大きな追い風となった。この年は四・三事件からちょうど50周年にあたり記念行事が各地で開かれるとともに四・三事件の国会レベルでの取り組みも本格化し、また済州島でも四・三事件の「真相究明と名誉回復」のための特別法制定促進運動が高揚をみせた。そして2000年1月に四・三特別法が制定される。この特別法のもとで「済州四・三事件真相調査報告書」がまとめられ、2003年10月に国会において正式に採択された。 この報告書は四・三事件をあくまでも人権中心の視角からとらえたもので、特定のイデオロギーの観点にたつものではないが、国家の過ちを指摘し、人間の尊厳や人権の観点にたって事件の被害者への慰霊と和解に向けた議論を促す土壌を生み出す役割を果たすこととなった。 2005年1月には済州島は「世界平和の島」として韓国政府によって公式に指定された。指定の理由を蘆武鉉大統領は「済州島が四・三という歴史の痛みを乗り越えて真実と和解という過去清算の模範を示した」と述べた。また2006年4月には蘆武鉉大統領は済州島を訪れ四・三事件五八周年の慰霊祭にも参加し、「国家権力による誤りは整理せずに済ませることは出来ません」と当事の政府の誤りを認め、犠牲者の名誉回復は国家として果たさなければならない最小限の道理である、と述べている。 こうして犠牲者の名誉回復、政府の手による真相調査、国の責任の明確化と謝罪、という過去清算のプロセスが実現したのである。 しかし他方で四・三事件は過去清算をめぐるアポリアともいえる難題を抱えこんでいる。四・三事件が1948年の「単独選挙・単独政府反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国という国家がその「単独選挙」による「単独政府」として生まれた国家であるという歴史的事実こそがまさにそのアポリアなのである。韓国では悪政に対する民衆の正当な抗議行動を「抗争」と呼び、例えば光州事件も「抗争」とされている。しかし四・三運動ではこの四・三武装蜂起の歴史的意義づけを棚上げにしてあくまで国家権力による犠牲・受難の視点から過去清算が進められてきたのだ。そのため四・三事件を「共産暴動」とする反共保守勢力の側からも、また四・三武装蜂起を「抗争」と意義づける左派勢力からも批判にさらされてきた。 そもそも四・三武装蜂起は軍政警察や右翼の横暴に対する自衛的かつ限定的な反抗という側面と単独選挙阻止に見られる民族統一運動という二つの側面を持っていた。ただこれまでの実証研究を踏まえれば、より前者の側面が強かったというほかはない、と著者は言う。その理由として挙げられるのは武装隊が単独選挙の直前に武装解除を含む和平交渉に応じているという事実である。もし単独選挙阻止が目的ならばこれは説明が付かないのではないか。少なくとも四・三事件は当初においては済州島の自治共同体の危機に根ざす外部勢力に対する反撃としての性格を色濃く帯びていた。しかし、その後南北の分断政権が誕生する頃には否応なく北朝鮮の民主基地路線に基づく統一戦略の一環に組み込まれていったと見るべきではないだろうか、と著者は言う。 なお、文庫版にあたって追加された「あとがきにかえて」では、2007年に李明博政権が誕生し、さらに2017年に朴槿恵大統領が弾劾によって解任されるまでの逆風の時代を振り返っているが、たしかにこの期間は四・三問題は足踏み状態が続き、また右派勢力による揺り戻しの試みも強まったが、四・三をめぐる政策が後退したというわけでもない、と著者は述べている。もはや政権が代わっても変更不能な国の方向として定着しているということであろう。 ただ、その後の研究によりいくつか新たな問題も提起されてきた。 一つは、4.28和平交渉に関して第九連隊長金達益の記した回想記を掲載した『国際新聞』の資料が見つかり、これまでの彼の遺稿『四・三の真実』とは内容が異なることが明らかとなった。回想記は和平交渉からわずか2カ月あまりで、遺稿より早い段階で書かれたものであるから、回想記の方が真実に近いのではないかと、それを公表した研究者は述べている。回想記によると武装隊司令官金達三は単独選挙の中止を要求したとされている。(遺稿では単独選挙については触れていない)さらに金益烈は金達三の要求を全て拒否したが、武装隊は武装解除や下山の要求を受け入れた、と述べていること、があらたな点である。これをどう評価するか、武装蜂起の意義づけと絡む重大な問題であるので、今後研究者たちの評価に注目していく必要がある。 さらに、四・三事件に対する北朝鮮の見方についても紹介されている。北朝鮮の四・三事件に対する評価は当初から「済州島人民の闘争」と「南労党の指導」を分離し、闘争の失敗は南労党の「破壊策動」(指導部に巣くう米CIAのスパイによるもの)にあったとする点で一貫しているが、韓国では四・三事件は基本的に国家権力に対する自己防衛的な性格から出発した米軍政と警察・北西青年会の弾圧に抵抗した平和民衆抗争の性格を帯びていたとする見方が支配的となりつつある。 しかし、四・三事件を明確に「抗争」と位置づけるには、まだ乗り越えなければならない壁がいくつもある。その一つが犠牲者認定の問題である。2001年9月の憲法裁判所の決定は四・三事件の犠牲者の中から、南労党済州島党の「核心幹部」と「武装隊の首魁」を除く、というものであった。この点についてはこれまでの過去清算が「受難と和解」の視点から行われてきたということで済州島の運動団体や遺族たちの間でもあまり問題とならなかった。しかし、この決定は四・三事件における武装蜂起の意義づけを棚上げするというこれまでの過去清算からみても矛盾したものである、と著者は指摘する。何故なら南労党済州島党の「核心幹部」と「武装隊の首魁」を除くという判断は四・三武装蜂起が大韓民国の「自由民主的基本秩序や大韓民国のアイデンティティー」に反しているというそれ自体イデオロギー的な歴史的評価を前提にしているもので、これは棚上げ論に反するとことになる。 いずれにしても四・三問題はまだすべてが解決したわけではない。真の過去清算と和解に向けた研究・論議はこれからも続いていくことだろう。
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