松里公孝『ウクライナ動乱』 (ちくま新書 2023.7.6刊) |
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初めに著者の略歴を紹介する。 松里公孝(まつざと きみたか)は、日本の政治学者。東京大学大学院法学政治学研究科教授。専門はロシア史、ウクライナ史、ロシア地域政治等。
1960年、熊本県生まれ。ラ・サール高等学校を卒業後、1979年に東京大学に入学し、同大学法学部を卒業後は同大学大学院に進み、1987年に同大学大学院法学政治学研究科修士課程を修了。1991年、同博士課程を単位取得満期退学し、北海道大学スラブ研究センター(現・北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)助教授となり、2000年に同センター教授に昇任。2014年より東京大学大学院法学政治学研究科教授となる。その間、ソ連、アメリカ合衆国、ウクライナに留学をしている。(ウィキペディアより)
本書は、ソ連末期から2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻へと至るまでのウクライナ国内の政治的・社会的動向を多くの一次資料に基づき調査・分析したものである。その意味で本書はロシア・ウクライナ戦争を理解するためのきわめて貴重な研究資料であるとともに第一級の戦時ルポルタージュという側面も有している。そのため著者松里公孝氏本人もあとがきで書かれているように、本書は「非常識なほどの分量」となっている。それゆえこれを要約して紹介することはとても筆者の手に負えるものではない。 とはいえ、幸いなことに本書の各章の終わりに著者自ら「章のまとめ」を書いてくれているので、その「まとめ」を紹介して本書の要約に代えさせていただきたい。ただし、著者もかなりコンパクトにまとめてくれているので、本文を読まずに「まとめ」だけを読んでも情報量が足りず分かりにくいと感じられるところも多いかもしれない。その点はぜひご容赦願いたい。 また、第二章「ユーロマイダン革命とその後」については、今回の文庫版出版にあたって新たに書き下ろされたものであり、読者諸兄も関心の高いところであると思われるので、できるだけ詳しくその内容を紹介しておきたい。併せて、第四章「ドンバス戦争」についても、露ウ戦争の前段階となる重要な意味をもつので、多少詳しく紹介するつもりである。
第一章 ソ連末期から継続する社会変動
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第一章のまとめ 本章は、非工業化、分離翠安全保障という三争点に注目し、ソ連末期からこんにちまでの危機の系譜をたどった。 ソ連は不運なタイミングで自主解散した。世界はグローバル化と情報工学の新しい段階に入ろうとしていた。厳しい競争の勝利者になれたのは米中経済のみであった。新興国も、有利な人口構造、安い人件費、上昇する教育水準を頼りに両雄を追った。日本と旧欧州は、長期停滞に苦しんでいる。 このような条件下でソ連継承国ができたことは、短期間で資本主義先進国に仲間入りできるかのような幻想は捨て現有の生産施設を大切にしながら、世界経済(というよりむしろ地域経済)の中で自分の居場所を探すことだっただろう。現にベラルーシはそうした。その他の国は、社会主義時代に築き上げたものを破壊してしまった。 資本主義経済に移行してから三〇年経っても、ソ連継承諸国の非工業化は続いている。これら国々はもっぱら天然資源があるかないかによって、勝ち組と負け組に分化した。しかし勝ち組の代表格のロシアも、資源輸出に依存する歪んだ経済成長に満足できなくなっている。ロシアのウクライナへの侵略には、おそらく経済的な動機もあっただろう。 民族領域連邦制は、民族を政治化し、原初化した。ペレストロイカ後期には、ついに民族間の武力紛争が始まった。 プーチンは、彼の汎ルーシ主義的なウクライナ史理解に基づく歴史の講釈からウクライナ侵略を始めた。このような歴史の政治利用は、ソ連末期の分離紛争を想起させる。 当時、いくつかの自治単位は、ソ連からの離脱傾向を強める上位共和国(連邦構成共和国)から分離してソ連に残ろうとした。そのうちカラバフなど最も強硬なものは、ソ連解体後、非承認国家になり、より妥協的な自治単位(たとえばクリミア)は、不満を抱えつつ上位共和国に従った。 分離紛争に直面した国際組織は、親国家(旧連邦構成共和国)を無条件支持し、分離政体に親国家に戻るように要求した。今でもこの姿勢は変わっていない。分離政体や分離運動の側は、国際組織の仲介の公正さを信じず、頼れるものは武力かロシアだと思うようになった。 かくして、二〇〇八年以降の旧ソ連圏の戦争はすべて、ソ連末期の分離紛争の再燃という事態になったのである。 ワルシャワ条約機構が解体して二極世界的な安全保障システムが壊れると、ほんの短期間ではあったが、全欧的な安全保障の構想が生まれた。しかし、支持する国家も政治勢力もないこのような構想がNATO拡大に対抗できるわけがなかった。 しかし、その中でも、NATOへの片想いを続けるウクライナと、憲法上の中立原理を推持するモルドヴァでは、新冷戦への対応はかなり異なる。 ソ連解体後のロシア外交の最大の転換要因は、ロシアが西側に対する自立姿勢を強めたことではなく、旧ソ連諸国に対する態度が変わったことである。旧ソ連諸国の盟主・長兄でありたいという願望を捨てれば、分離政体を承認したり併合したりすることも可能になる。 プーチン政権は、ウクライナやポーランドやリトアニアにロシアがどう見られるかということには、もはや全く関心がない。そのかわり、中国やインドやトルコやアフリカ諸国にどう見られるかには細心の注意を払うのである。
第二章 ユーロマイダン革命とその後
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二〇一二年議会選挙 ヤヌコヴィチ政権が成立し三年後、議会義挙が行われた。地域党は苦戦を予想して、オレンジ革命後の完全比例代表制から、比例区・小選挙区半々の並立制に選挙制度を戻していた。そのおかげで、比例区で得票を減らしながら、小選挙区で健闘して議席数を一六六議席まで伸ばした。 ヤヌコヴィチに幻滅した東部有権者の相当数は共産党に回帰し、同党は比例区で三・六%得票して五議席伸ばした。 選挙法の改正で選挙ブロックが禁止されたため、特に右派政党の合同が進み、「統一野党・祖国党」が成立した。ティモシェンコが収監中だったため、統一戦線のアルセーニー・ヤツェニュクがリーダーとなり、一五六議席獲得した。軒を借りて母屋を乗っ取る形になったが、地方の党組織で同様の現象(ヤツェニュク派によるティモシェンコ派の圧倒)は見られた。 この選挙の結果、新党が躍進した。ボクシング元世界チャンピオンのヴィタリー・クリチコを党首とする改革民主連合が四〇議席、ハルィチナを拠点とする極右政党「自由」(オレフ・チャフヌィボク党首)が三七議席とった。 すでに二〇一〇年の大統領選挙の第一回投票では、東部系新党のリーダーであるセルヒー・チヒブコと前出ヤツェニュクがそれぞれ第三位、第四位に入っていた。現職大統領のユシュチェンコは第五位しかとれなかった。 ウクライナの有権者は、ヤヌコヴィチ、ティモシェンコ、ユシチェンコという二〇〇〇年代のスターたちに飽き、新しい政治家を求めていたのである。 EUアソシエーション条約調印の延期 多くの人が誤解しているが、欧米への経済統合はウクライナの(共産党を除く)政治家とオリガークの一致点・基本戦略であり、ここにおいて親欧・親露の対立などない。 EUとウクライナの接近は、一九九四年にウクライナが自発的に核兵器を放棄してから始まった。この年、両者の間でパートナー合意が締結された。これをアソシエーション合意に格上げすることが、クチマ、ユシチェンコ、ヤヌコヴィチ三代を通じて、ウクライナの基本外交であった。二〇一三年、EUのヴィルニュス・サミットにおいて、「深化し包括的な自由貿易協定(DCFTA)」を含むアソシエーション合意が調印される手はずになった。 しかし、その内容は、@ウクライナの市場開放が性急に求められている。Aウクライナ経済適応のための負担に見合ったEUからの援助が約束されていない。Bウクライナでは石油ガスの国際価格に見合った公共料金を国民が払えないため、国庫から逆ザヤで援助していたが、これが「二重価格」として排除されるなど、ウクライナに不利なものになっていた。 経済的に劣位にある国が優位にある国と自由貿易協定を結ぶ際には、自国の国民経済に大きな打撃を与えないように注意すべきである。特にBを遵守すると、二〇一五年に予定された大統領選挙の前年にヤヌコヴィチ政権は公共料金を大幅に値上げしなければならなくなる(公共料金の大幅値上げは、ポロシェンコ政権下で実際になされた)。 私のウクライナの知人は、アザロフ首相は役人任せで、調印直前までDCFTAやアソシエーション合意の案文に目を通していなかったのではないかと疑っていた。 当初、ヤヌコヴィチ政権は、EUとアソシエーション条約を結び、ユーラシア関税同盟にも入るという虫のいい政策を追求していたが、そのようなことになれば、ウクライナを中継点としてEUの製品がロシア、カザフスタン等にほぼ無関税で流入することになる。プーチン政権は飴と鞭を駆使してウクライナを翻意させようとした。 アソシエーション合意への調印延期がその後のウクライナにもたらした災禍に鑑みて、私のウクライナの友人は、「調印だけして履行しなければよかったのに」と言っていた。たしかに、ウクライナがそのように行動したとしても誰も驚かなかっただろうし、革命も戦争も起こらなかっただろう。 しかし、アザロフ首相は正直に行動した。十一月二十一日、EUアソシエーション合意への調印を延期することを発表したのである。 内政の地政学化の結果として、ウクライナでは、貧困、貧富格差などの社会問題を社会問題として解決しようとする政治勢力は弱体化していた。そのかわり、「EUに入れさえすれば経済は繁栄し、国家は効率化し、汚職はなくなる」と固く信じる一定の階層が形成されていた。その人々は、独立広場(マイダン)で座り込みを始めた。 十一月三〇日未明の暴力 ここまでならウクライナ政治の日常風景である。政府のEU政策の変更に抗議することだけが目的だったら、厳寒の中でどれだけの人が座り込みを続けただろうか。 事態を一変させたのは、十一月三〇日未明の警察によるピケ参加者への暴行であった。午前四時、警察隊は、ピケ参加者に、新年のクリスマスツリーを広場に立てるために退去することを要求した。これに従った者もいたが、数百名が拒否した。警察は実力で排除し、七九人の負傷者を出した(うち七人は警官)。約三〇名の運動参加者が拘束された。 奇妙なことに、朝四時に始まった作戦なのに、インテル(フィルタシュ)、ウクライナ24(アフメトフ)、「1+1」(コロモイスキー)などオリガーク系のテレビ局のクルーが待ち構えており、警察の暴行や流血沙汰を全国放送した。大統領府か内務省から誰かが情報を流したのであろう。オリガークたちは、ユーロマイダン運動を応援することで、ヤヌコヴィチ政権を追い詰めるか打倒しようとしたのである。 なお、フィルタシュの盟友であるリョヴォチキンは、「警察の暴行に抗議して」、大統領府長官を辞任した。 ウクライナでは、独立後四半世紀、政治的対立があっても非暴力で解決してきた。それに慣れた市民にとって、十一月三○日の事件はショックであった。EU云々は吹っ飛び、弾圧抗議、不当逮捕者釈放、責任者処罰がスローガンとなり、いわば抗議が自己目的化した。親欧運動だった頃はキエフとリヴィウでしか盛り上がっていなかったのに、「学生を流血するまで殴った」ことへの抗議に変わると同時に、ウクライナ全土、社会各層に火が付いた。 しかし、運動の広がりに反比例するように、十二月一日には、「右翼セクター」などがキエフ市庁舎を占拠した。祖国党、「自由」など議会内右派もこれに合流してマイダン脇の労働組合会館を占拠した。 この後、議会内野党三党の党首―ヤツェニュク(祖国党)、クリチコ(改革民主連合)、チャフヌィボク(「自由」)―が、政権と街頭運動体の間を結ぶパイプになる。しかし、彼らには、次第に暴力性を増す街頭運動体を指導・統制する力はなかった。 この後、二〇一四年二月一八〜二〇日にピークを迎えるエスカレーションの経過は本書では割愛する。その特徴だけ列挙すると次の通り。 @ヤヌコヴィチ大統領は「抗議者の暴力は良くないが、警察の暴力にも反対」などとたびたび発言して、まるで第三者のような態度であった。暴力を放置して自然鎮静を待つにしても、天安門事件時のケ小平、十月事件(議会砲撃)時のエリツィンのように暴力的に鎮圧するにしても、国家指導者なのだから責任を負うべきではなかったか。 A警察幹部は、大統領の意図を測りかね、また強く鎮圧すると自分が解任されるため、次第に暴力化する抗議行動に対し、中途半端な対応であった。 Bどっちつかずは警察に限らなかった。たとえば最高会議は二〇一四年一月十六日に一連の弾圧法を採択したが、抗議を受けると、一月三十一日には大統領が撤回した。運動参加者は、「決然と行動すれば目標は達成できる」と再度感じただろう。なお、この方針転換は、アメリカ大使が富豪のアフメトフを通じて政権に圧力をかけた結果だったという説を紹介する識者もいる。 C警察隊が「ぶたれっ子」(日本語比喩では「サンドバッグ」)と化す反面では、特務機関が著名活動家を誘拐してリンチにかけるなど、陰湿な弾圧は続いた。抗議者はヤヌコヴィチ指導下の国家を私的なギャングのように感じただろう。 二月一八日「平和攻勢」 ユーロマイダン革命が始まると、マイダン派は、「二〇〇四年憲法への回帰」を唐突に政府への要求に含めた。二月一八日、議会内野党が二〇〇四年憲法への回帰を最高会議で提案する予定だった。これを支援するために、マイダン派は最高会議に向けて「平和攻勢」と称するデモを行った。この日だけで、デモ隊と警察隊双方に、あわせて二〇名以上の死者が出たとされる。マイダン派も銃器を用い、警察官五名が射殺された。そのうち三名がクリミアから派遣された警察官だったことが、クリミアの政情に大きく影響することになる(後述)。 翌一九日は、労働組合会館が火災に見舞われたことを除けば、マイダン周辺で大きな事件はなかった。しかし、リヴィウ州などでマイダン派が州行政府、特務機関、警察署などを襲撃、多数の銑器を入手した。この事件が、翌日、警察隊が小銃を支給されて使用を許可される原因になった。 二月二〇日、スナイパー虐殺 二月二〇日、朝九時頃から、マイダン派約三千人が隊列を組み、研究所通りに向けて警察隊を押し戻した。ここで警察隊がマイダン派を銃撃し、多数の死者が出たとされる。まさにこの銃撃が、ヤヌコヴィチ政権を崩壊させ、ユーロマイダン政権を生んだのである。 マイダン派の犠牲は何人であったか。当初、七七人と発表されたが、やがて約百人へと上方修正された。ゼレンスキー政権の成立後、ヤヌコヴィチ政権において法務大臣だったエレーナ・ルカシュが、マイダン政権が革命犠牲者の数を多く見せるために、衝突とは関係ない同時期の事故死者や病死者を加算したことを指摘した。ゼレンスキー政権も、再調査の結果として、二月二〇日の犠牲者を四七名と発表した(二〇二三年)。 ルカシュの証言後、野党系テレビ局が、水増し犠牲者の一人とされた女性の出身村を取材した。革命英雄ということで、国から手厚い死後手当をもらっているため、親は、娘の死因は二〇日の事件ではなかったとは認めない。手当で家を改修したため、村民からは白い目で見られている。 撃ったのは誰だったのか。これには二説があり、@警察隊の銃撃によりデモ隊から死者・負傷者が出たという説、Aウクライナ・ホテルなどマイダン側が管理していた建物から、第三者部隊が、デモ参加者、警官を無差別に撃ったという説がある。 @は、当然ながら、革命後のウクライナの政府、検察、司法の説である(ただし、検察は当初は第三者部隊の介入を認めていた)。Aは、イワン・カチャノフスキ・オタワ大学教授が二〇一四年以来一貫して主張している説である(文献16、17)。 Aが正しいとすると、ユーロマイダン革命中最大の悲劇・英雄劇とされているものは、実はマイダン側の自作自演だったということになる。ユーロマイダン革命に好意を持つ研究者はカチャノフスキの研究を批判するより黙殺している。前出の左派系のイシチェンコは肯定的な評価である。 虐殺の翌日、最高会議は恩赦法を採択した。この法は、革命参加者の刑事捜査を禁止し、それまでの捜査で得られた個人情報を破棄することを命じた。のち、野党は、衝突の片方だけを恩赦するのは不当ではないか、恩赦するのであれば警察官も恩赦すべきではないかと批判した。 カチャノフスキによれば、この恩赦法に基づいて、事件当初はインターネット上に溢れていた事件現場のビデオ映像が消去され、弾道分析に有益な、弾を受けた盾やヘルメット、犠牲者の司法解剖結果の一部などが破棄された。そもそも弾丸が保存されていれば、警察隊が使用を許可されていたカラシニコフ小銃の弾かどうかはすぐわかり、また線条痕を調べれば誰が撃ったかもわかるはずである。 ユーロマイダン政権は、多くの犠牲者を出した研究所通りの街路樹を伐採させ、幼木に植え替えた。二〇一九年八月、私は研究所通りで、二〇一四年の伐採を免れた老木(五本に一本くらいである)をつぶさに観察したが、弾痕を見つけることができなかった。弾を受けた木を選んで伐採したと推察するのは行きすぎだろうか。 実際、弾道分析は重要である。デモ参加者が研究所通りにバリケードを築いていた警察隊から撃たれたのであれば、弾は正面から、地面に平行に体に入るはずである。ウクライナ・ホテルなどマイダン側が管理していた建物から狙撃されたのなら、背面または側面、しかも斜め上から体に入るはずである。カチャノフスキは後者の例が支配的と主張する。これは、幸いにして消去を免れたユーチューブ上の事件映像と合致している。そもそも、被害者たちはウクライナ・ホテルを指して「あそこから撃っている」と叫んでいたのである。 二〇一七年、スナイパー虐殺の実行者を自認するグルジアの元軍人・特務機関員が、イタリアのインターネットメディアに出演して証言した。 内容のセンシティブさに鑑みて、機械的に要約すれば次の通り。 @自分たちは二〇〇三年薔薇革命に参加した。統一国民運動(サアカシヴィリ党)のオフィスに約二五人の元軍人・特務機関員が呼ばれ、マムカ・マムラシヴィリ(サアカシヴィリ政権下の国防大臣顧問、のちグルジア人部隊の司令官としてドンバス戦争に参戦)から、ウクライナで薔薇革命と同じことが起こっているから助けに行かなければならないと説得された。 A偽造パスポートを使って入国した。ウクライナ側の指揮者はセルヒー・パシンスキー(アレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行下で大統領府長官、そののち最高会議議員)だった。指揮者の中には元アメリカ軍人もいた。実行者の中にはリトアニア人もいた。 B最初、自分たちの任務は、警察隊を撃って、彼らがデモ隊を撃つよう仕向けることだと思っていたが、ウクライナ・ホテルの現場では、カオスを起こすために誰でも無差別に撃てと命じられた。 C報酬は前金が一〇〇〇ドル、実行後に五〇〇〇ドルであった。 言うまでもないことだが、こうした暴露情報はすぐに信じてはならない。むしろウクライナ政府に近いメディアがどう反論したかが重要である。しかし管見では、反論は「証言者たちの身分証明書の英語のスペルに間違いがある」、「サアカシヴィリ政権は二〇一三年〜一四年にはすでに倒れていたのに、できるはずがない」、「番組制作者は親露的な人物である」といった優れないものであった。 虐殺から間もなく、当時のエストニア外相とEU外務上級代表の電話会話がリークされた。エストア外相は、デモ隊の犠牲者と警官の犠牲者から摘出された弾丸が同一であると検死医から聞いた、だから新政権は調査を真面目にしないのではないか、やったのはヤヌコヴィチではなくて、いま新政権を構成している人々ではないかと話したのである。 もし二月二〇日虐殺が自作自演であるとすれば、それは革命参加者にとって最大の屈辱であるから、二月二〇日虐殺の疑惑徹底究明というのは、当時は(真面目な)革命参加者の要求であった。ロイターが報道したように、犠牲者の遺族の中には、警官を冤罪で罰しても犠牲者は浮かばれないので、真犯人を捕まえてほしいという声もあった(文献27)。 もし、二月二〇日虐殺が革命側の自作自演だったと証明されていれば、マイダン政権がその後存続できたかどうか疑問である。なぜ真相解明の声が国の内外で下火になったかというと、ロシアがクリミアを併合したせいだと思う。「ウクライナの政権の言い分を疑うことは、プーチンの擁護である」という、今日まで続くマスコミや知識人の自主規制が始まったのである。 二〇一九年の大統領選挙において、ユーロマイダン革命に付随する諸事件の見直しは、ゼレンスキー候補の政策の一部であった。前述のルカシュ元法相の暴露にも示されるように、ゼレンスキー政権発足当初には、マイダン革命を見直そうとする清新な雰囲気があった。たとえば、二〇一四年二月一八日の地域党オフィスにおける職員殺人事件の捜査が始まった。 しかし、このような新しい流れは、ゼレンスキー政権がポロシェンコ踏襲に立場を変えるにつれ、立ち消えてしまったのである。 ヤヌコヴィチの逃亡 二月二二日にも部分的に銃撃戦は続いた。政府側はやる気を失っていたが、マイダン側は武装した応援隊が続々と地方から到着した。すでに二〇日から、独・仏・ポーランドの仲介の下で、ヤヌコヴィチと野党三党代表―ヤツェニュク、クリチコ、チャフヌィボク―の間の交渉が夜を徹して続けられた。 二二日午後四時には、ヤヌコヴィチと野党代表が合意に調印した。キエフの中心部から警察隊を撤退させること、二〇〇四年憲法を復活すること、二〇一二年十二月までにヤヌコヴィチは辞任し、臨時大統領選挙を行うこと、マイダン派は武警放棄・引き渡しすることを定めていた。ロシア代表は、部分的には交渉に参加していたが、仲介人として合意文書に署名することは拒否した。 ヤヌコヴィチは実際に警察をキエフ市中心部から退去させ、最高会議は、二〇〇四年改正憲法の効力を復活させる決議をあげた。最高会議が単独で憲法改正することをウクライナ憲法は認めていないので(事前に当該改憲案この場合は二〇〇四年憲法への復帰の合憲性に対する憲法裁判所の「結論」が必要である)、この改憲は達意である。とはいうものの、体制側は合意を守ったのである。 ところが右翼セクターのリーダーであるドミトロ・ヤロシュは、合意文書がヤヌコヴィチの即時辞任を含んでいないことを不満として、武器の引き渡しを拒否した。 野党指導者との合意が自分の命の保証にはならないことを知ったからかどうかは定かでないが、ヤヌコヴィチは、一日午後一〇時四〇分、キエフから逃亡した。口実は、翌日、ハルキウで開催される予定だった南東ウクライナ・クリミア各級代議員大会に出席することだった。しかし、彼はこの会議には姿を見せず、ハルキウからドネツクへ、ドネツクからクリミアヘと逃げ回り、結局、ロシアの特殊部隊に救助された。 なぜ大統領執務室にとどまり、自決しなかったのか。理解に苦しむ。街頭暴力が憲法体制を覆そうとするとき、憲法に殉ずるのが大統領の任務ではないのか。 二月二二日、南東ウクライナ・クリミア各級代議員大会 ヤヌコヴィチ大統領が出席しなかった南東ウクライナ・クリミア各級代議員大会は、ハルキウ州知事ムィハイロ・ドブキンが二月初めに開催を呼び掛けていたものである。これは、類似した地方代議員の大会がオレンジ革命中の二〇〇四年一一月二九日にルガンスク州のセヴェロドネツクで開催された効果の再現を狙っていたので、ここで歴史を遡る必要がある。 二〇〇四年大統領選挙後、中央選管がヤヌコヴィチの当選を発表すると、これを不正選挙とみなすハルィチナ諸州議会とキエフ市議会は、新大統領への不服従を決議した。これに対抗して、ルガンスク州議会は、自州を「南東ウクライナ自治共和国」に改編することを決議し、ロシアのプーチン大統領に援助を要請した。 セヴェロドネツクの各級代議員大会は、ユシチェンコが大統領になった場合には、南東ウクライナにオートノミ−を樹立すると決議した。ドネツクとルガンスクの州議会は、自らを「ウクライナ連邦」の「自治共和国」に改組するための住民投票を行うこと、キエフに税を上納するのをやめること、警察・検察などを州議会に従属させることを決めた。 その後、一二月八日、最高会議において大統領選挙の決選投票をやり直すことでオレンジ派と反オレンジ派の妥協が成立したので、セヴェロドネツク大会やその他の地方議会の決議は実行されなかったが、これらがユシチュンコ政権にとって良き警告になったことは間違いない。一〇年前と違い、二〇一四年の南東ウクライナ・クリミア大会は殺伐としていた。会場となったスポーツ宮殿の周りには、千人以上のマイダン派も集結して、彼らが「分離主義」とみなす大会に圧力をかけた。 大会決議は、前日・前々日にピークを迎えたユーロマイダン革命を糾弾した。日く、「違法暴力集団は武器を引き渡さなかった。中央政府諸機関の建物を占拠し続けている。非武装の市民や警官を殺し続けている。ウクライナ最高芸議はテロルの条件下、武器による脅しの下で作業している。このような条件下で採択されている議会の決定は自由意思によるものか、正統で合法的なものか疑わしい」。 この認識に基づき、代議員大会は、ウクライナに「憲法秩序と法治主義が回復されるまでは、地方自治体が国家権力を掌握する」と決議した。勇ましいが、一〇年前の大会の決定と比べるとあまり内容がない。 実際、大会が示したのは、マイダン派にどう対応していいかわからない東部勢力の混迷ぶりと分裂であった。ドブキン・ハルキウ知事やヘンナージー・ケルネス・ハルキウ市長は、ウクライナの領土保全の重要性を訴えた。会場の横には、大会の結果を集まった市民にすぐに報告するためのステージまで設置してあったのだが、マイダン派に襲撃されることを恐れて、ケルネスなどは演説を終えるとそそくさと公用車で逃げ去った。 この大会には、クリミアの分離を防ごうと絶望的に闘うモギリョフ・クリミア首相が(クリミア分離派と一緒に)出席した。 他方、ハルキウの親露民族団体オプロト(防壁)のリーダーであるエヴゲニー・ジリンは、武装したマイダン派の東征に備えるために、東部自治体の予算で自警団を作ることを呼びかけて議場の喝采を浴びた。なお、オプロトのドネツク支部は、やがてオレクサンドル・ザハルチェンコ人民共和国元首の支持母体となる(第五章参照)。 ユーロマイダン政権の成立 ヤヌコヴィチ大統領が二月一二日深夜にキエフを逃亡すると、最高会議の地域党会派は崩壊した。 二月二二日、最高会議議長ヴォロディムィル・ルィバク(地域党)と共産党議員の副議長は辞任した。新議長として、最高会議はトゥルチノフ(祖国党)を選出した。 さらに最高会議は、ヤヌコヴィチは大統領職を放棄したものと認定し、五月二五日に臨時大統領選挙を行うことを決定した。賛成票三二八票のうち三六は、地域党議員が投じた。ウクライナ憲法は、大統領解任の理由として、辞任、重病、弾劾、死亡の四つしか認めていないので、このヤヌコヴィチ解任は違憲である。 二月二三日、地域党会派は、ヤヌコヴィチとその取り巻きが、ウクライナの危機状況に責任があるという声明を発表した。同日、最高会議はトゥルチノフを大統領選挙が行われるまでの大統領代行に任命した。 前述の通り、二月二一日には、最高会議は二〇〇四年憲法(首相大統領制)を復活させていた。この憲法に基づき、二月二七日、最高会議は、祖国党のヤツェニュクを首相として選出した。支持した三七一議員のうち、マイダン諸派を結集した新会派「ヨーロッパ選択」が二五〇議員、地域党が九三議員(閣外協力)であった。 地域党が自壊し、マイダン派に事実上合流したことは、革命推進にとって有利な状況に見えるかもしれない。しかし、これにより、分離派をウクライナ国家に繋ぎとめていた脆い橋が落ちてしまった。 第二章のまとめ ウクライナの現代史を概観すると、社会を分断し、紛争を暴力化しようとする力と、具体的な争点に取り組み、紛争のイデオロギー化を避けようとする力の相克であったという印象を受ける。 ウクライナの最大問題は経済の後退であり、そこから様々な社会問題が生まれている。しかし、そこに目を向けず、「正しい」地政学的選択をすれば、経済危機も汚職や宗教問題も憲法問題も一挙に解決すると信じている人々がいる。 錯綜して相互に相殺していた争点軸が地政学的対立に一元化され、非常に危険な社会状況がユーロマイダン革命の前夜には現出していた。 政治亀裂の地政学化に、暴力という第二のファクターが加わる。それは、情勢を人工的に不安定化するための暴力であるかもしれないし、敵対者を怖気づかせるための暴力であるかもしれない。 「スナイパー虐殺やオデサ労働組合放火事件は、ドンバス戦争や露ウ戦争の暴力に比べればたいしたことはないではないか。昔の小さな暴力になぜそんなにこだわるのか」と言う人もいるかもしれない。私は、一つ一つの暴力事件を事実解明せず、司法的な決着をつけないから、暴力規模が等比数列的に大きくなってきたと思う。 他方では、紛争のイデオロギー化を避け、現にある問題に目を向けようとする力学も存在する。ウクライナの有権者が、二〇一四年にポロシェンコ、二〇一九年にゼレンスキーに投票したのは、それぞれが対立候補よりも穏健で現実的だと思われたからだった。 実際に、ゼレンスキー政権の初期には、地名変更運動やウクライナ正教会への迫害が止められ、ユーロマイダン革命関連事件の捜査が始まった。残念ながら、これらの流れは長続きしなかった。 分権改革の中で市長党が成長し、指導者の実務能力が強調されたのも、一方では単に地方恩顧政治を正当化するためだが、他方では、イデオロギーの衝突で統治が混乱し、ライフラインが最終的に破壊されることを防ごうとする国家理性の現れだった。 分権改革で、新幹線建設のような全国家的なインフラ整備はなくなったが、露ロ戦争前でも、ウクライナはそれどころではなかったのである。
第三章クリミアの春とその後
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第三章のまとめ クリミアには、ロシア編入のチャンスが三回あった。@一九九一年八月から一二月まで、Aメシュコフ時代、B二〇一四年である。編入に失敗した二回と、成功した最後の回を比べると、団結したエリート集団の存在と、安全の所在が成否を分けたファクターだと推察される。 一九九一年一月の住民投票においてクリミア自治共和国を「ソ連の」連邦構成主体と定義したことは、ウクライナがソ連から独立する際にソ連に残るための伏線だったのに、まさにその状況が生まれた一九九一年八〜一二月にこのカードを切ることができなかった。 バグロフ・クリミア最高会議議長は、「いまウクライナ共和国からの分離を掲げることは危険だから」と訴えて、クリミア人を行動させなかった。実際、クリミア人は、カラバフや南オセチアで何が起こったか知っていた。どんなに不満があろうとも、ウクライナ共和国が主導する流れに身を任せた方が安全と彼らは感じたのである。 因果応報、一九九四四年のクリミア大統領選挙で、バグロフはメシュコフに打ち負かされた。ここでソ連共産党以来の人脈政治は打破されたわけだが、メシュコフには、それに代わる組織も指導力なかった。クチマは大統領になったばかりで威厳ある統治を行っており、クリミア人の目から見て、メシュコフよりも頼りがい、安全性があった。 メシュコフのイデオロギーは、クリミア・リージョナリズムよりも、大ロシア・ナショナリズムに近かったように思う。 地元エリートを地域党にそのまま包摂した結果、二〇〇九年までのクリミア・エリートは四分五裂していがみあっていた。その後、マケドニア人と対時した結果、クリミア土着派というエリートの自己表象が初めて生まれた。この集団意識は、ユーロマイダン革命と対峙する中で強まった。民衆レベルでさえ、「マイダン暴力対クリミア」という二項対立は急速に広がった。 アクショノフは、危機管理指導者であることにより、「クリミアの春」の原動力であった安全という価値を今日に伝え、外部指導者と外部資本を排除することにより、クリミア・リージョナリズムを統治に定着させたと考えられる。
第四章 ドンバス戦争
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近未来ウクライナ大統領に秋波を送るプーチン 四−五月、マイダン政権側は、マリウポリ事件に見られるように、五月一一日に予定された、人民共和国の独立を問う住民投票を武力を用いてでも阻止し、ウクライナ残部では五月二五日に大統領選挙を行って、自らを正統化するつもりだった。 分離派はこの逆で、住民投票によって人民共和国の独立を正統化し、ウクライナ大統領選挙がマイダン革命を事後正統化するのは阻止する構えだった。分離派活動家は、ウクライナ側の選挙管理委員会を襲撃し、投票用紙を棄損し、選挙管理委員を誘拐した。妨害は功を奏し、ドネツク州で大統領選挙が行われたのは、州の西部辺境のみだった。 五月七日、つまり住民投票四日前、OSCE代表との協議の後、プーチン大統領は、ウクライナ大統領選挙を行うことの意義を認めると同時に、人民共和国は住民投票を延期するよう提言した。 それ以前、ラヴロフ外相やドミトリー・ペスコフ大統領府スポークスマンは、「人民共和国が不参加を表明している下で、ウクライナ残部で大統領選挙を行うことはウクライナの分裂を固定することになる」という趣旨の発言をしていた。つまり、五月七日のプーチンは、分離派はおろか、自分の部下とも正反対の提案をしたことになる。 この頃、プーチンの頭の中で、「ドンバスは(分離派をトップに置いたままで)ウクライナに戻す」という、後のミンスク合意につながる政策が固まりつつあったと私は思う。 その最大の動機は選挙である。米国の政治学者ポール・ダニエリも指摘したように、ロシアがクリミアとセヴァストポリ市を併合しただけなら、約二〇〇万票の親露票がウクライナから消えるだけである。しかし、クリミアに加えて、三〇〇万票から五〇〇万票のドンバスの親露票(人民共和国の実効支配領域の広さによって増減)がウクライナから消えたとすれば、ウクライナ大統領選挙ではウクライナのNATO早期加盟を掲げるような候補しか勝てなくなる。 したがって、「クリミアはとったがドンバスはウクライナに押し戻す」というのが、ロシア指導部にとって最も旨味のある政策だったのである。 プーチンは、大統領選挙での勝利が予想されていたポロシェンコとの間で、「ウクライナがクリミア問題を棚上げするのなら、ドンバスがウクライナに帰るよう分離派を説得してあげよう」という形で手打ちに持ち込む意図だったのではないだろうか。クリミア併合に全く抵抗できず、他方、ドンバスの分離主義に対しては過剰反応していたウクライナの指導者たちにとって、このような甘言はまんざらでもなかったはずである。 プーチンにとっては、「マイダン革命から生まれた政権は正統でない」という一点は、クリミア併合の正当化根拠であり、譲ることはできなかった。しかし、五月二日のウクライナ大統領選挙が楔(みそぎ)になり、新政権が正統性を回復すると考えれば、その新政権との間で「クリミア棚上げ、ドンバス再統合」で手打ちすることも可能である。 独走する人民共和国 プーチンの住民投票提言は、ドンバス二共和国住民に大きなショックを与えた。ドネツク人民共和国では、五月七日には共和国指導者たちは市部・郡部に出払っており、たまたま首都に残っていた若い代議員、従軍記者のドミトリーが説明を求めて共和国政府庁舎(旧州彗建物)前に集まってきた市民に対応することになった。 ガウは、「すでに多くの人が住民投票のために死んだ。ここで折れてしまったら、死んだ人にいったいどう申し開きするのか」と述べて、市民を説得した。心打つ言葉だが、「死者への責任」というマイダン派と同じレトリックを使ったことは、指摘しないわけにはいかない。 また、ガウは、「もし人民共和国がプーチンの提言に従って住民投票を延期したら、世界は人民共和国をプーチンの傀儡とみなすだろう」とも市民に訴えた。 ロシア指導部のドンバス政策はクリミア政策とは全く違うということが明らかになった後も、ドンバス住民は、「住民投票さえ成功させればロシアを押し切ることができるだろう。プーチンは嫌々かもしれないが私たちを引き受け、私たちを内戦から救ってくれるだろう」と素朴な幻想を抱いていた。 これに対して、人民共和国のリーダーたちは、「住民投票の結果はおそらくロシアを動かさないだろうし、逆に、この投票の結果、確実に内戦が始まる。それを覚悟の上、投票されたし」とは市民に伝えなかったのである。 ドネツク空港空爆 五月一一日の住民投票は、ドネツク人民共和国の「独立」を承認したが、その後も、タルータ知事と人民共和国の間の二重権力は続いた。州行政府職員は、タルータが所有・経営するホテルで仕事を続けた。行政府と人民共和国リーダーの間の行政庁舎返還等をめぐる交渉も続けられた。 ドネツク州におけるスラヴァンスク、クラマトルスクのような北部中心都市とドネツクの間の距離、南部中心都市マリウポリとドネツクの間の距離のいずれも一〇〇キロメートル強で物理的な違いはないのだが、北部とドネツクの間の距離感の方が大きい。マリウポリとドネツクルートであるバフムト―ゴルロフカ間はうっそうとした森であり、その中を一本道が通っているのみである。ドネツク市にとってマリウポリは近く、州北部は遠いという空間感覚は、政治や軍事における距離感にも反映される。 二〇一七年に私がザハルチェンコ支持団体のオプロト(防壁)の職員から聞いた話だが、ドネツク市民は、ギルキンが北部で暴れていても対岸の火事で、自分自身に戦争が迫っているとは感じなかった。百万都市に向かってキエフの新政権が戦争を挑むなどと想像できなかったのである。この認識を変えたのが五月二六日のウクライナ軍によるドネツク空港の空爆だった。 ポロシェンコがドネツク空港を空爆したおかげで、タルータ知事にはドネツク市での居場所はなくなった。これ以上ドネツク市にとどまれば自分と行政府職員の命が危ないと悟ったタルータは、六月−三日にウクライナがマリウポリを奪還すると、急いで州都をマリウポリ市に移してしまった。 マリウポリ市もドネツク市と同様、五月中旬まで情勢は比較的平静であった。むしろ、五月九日のマリウポリ事件の後、このままでは内戦になると痛感した市指導者と人民共和国支持者の間でかえって協力の機運が高まった(第二章参照) マリウポリで両陣営間の対立が激化したのは、アフメトフらが人民共和国に反対する姿勢を鮮明にしたウクライナ大統領選挙直前のことだった。 その他の都市の状況を総合しても、ドンバス戦争の開戦日はギルキンが暴れ始めた四月一日ではなく、ポロシェンコ新大統領がドネツク空港を空爆した五月二六日に求めるのが妥当である。 ではなぜドンバス戦争四月開戦説が根強いのだろうか。その説の方が、自らを被害者として描きたいウクライナ政府に好まれるということもあろう。私見では、もっと直接的な理由は、当事者ギルキンがドンバス紛争における自分の功績を誇大宣伝してきたことである。ジェラルド・トールのような優秀な研究者でも、ギルキンの自己宣伝に見事に引っかかっている(文献28)。 ギルキンがドネツク人民共和国の国防大臣だった五月一六日から八月一四日までの間、同共和国は実効支配地域の大半を失った。八月、ロシアが人民共和国支援を強めると同時にギルキンは解任された。私はその頃、たまたまドネツク市にいたが、彼の解任を惜しむ声は全く聞かなかった。 その後、プーチン大統領がミンスク合意を掲げて対ウクライナ戦争の抑えに回ると、ギルキンはロシアと人民共和国指導部への反対派になった。二〇二二年に露ウ戦争が始まると、ロシア軍指導部のだらしなさと作戦の拙さを徹底批判するビデオをユーチューブ上で多数リリースして人気を博している。 なぜこのような人物が言うことを西側の研究者が真に受けるかと言えば、ソーシャルメディアの使い方がうまいからである。政治家にとってはソーシャルメディアの使い方がうまいことは美徳かもしれないが、軍人の能力が軍功ではなくソーシャルメディアの使用の巧拙で評価されるようでは世も末である。 第四章 「ドンバス戦争」のまとめ ドネツク州には、垂直的な産業構造、地域企業の経営者が有権者を容易に動員できる企業城下町、中小ビジネスの未発達と人文インテリの弱さ、社会問題から住民の目を逸らさせるためのリージョナリズムなど、集権的な恩顧政治に有利な条件がいくつもあった。これらの条件を生かして、二〇〇二年の議会選単においてドネツク州の地域党はクチマ与党連合に貢献した。 一九九九年の大統領選挙に辛勝した後も、政治危機に見舞われ続けていたクチマ大統領は、ドニプロペトロウスク閥からドネツク閥に乗り換えた。オレンジ革命のため、ヤヌコヴィチはクチマの後継者にはなれなかったが、野党時代に地域党はますます強くなった。 しかし、容易に選挙に勝てる恩顧体制が出現したおかげで、産業近代化や社会問題への取り組みは遅れ、一九九〇年代には共産党に投票することで蒸気抜きされていた市民の不満が鬱積した。 このため、少数のマケドニア人を除いて、指導者がロシアに寝返ってしまった「クリミアの春」とは異なって、ドネツク州の「ロシアの春」は、極端な階級対立の様相を呈した。それまで州を支配していた富豪のほとんどはウクライナ支配地域に移住した。 エスカレーションに対案はあっただろうか。本章で触れたことに基づけば― @マイダン政権が、地域党系の知事を解任せず、分離派に攻撃を集中して孤立させることはありえただろうか。 Aマイダン政府が「連邦化」をめぐる交渉に応じることはありえただろうか。(その前提として、ドネツクの地域党組織が、シシャツキー知事が解任された下でも、州議会を基盤にして「連邦化」運動を展開しなければならなかったが。) Bウクライナ政府が「反テロ作戦」によってドンバス住民全体を敵に回すのではなく、活動家に的を絞った特別作戦を行うことは可能だっただろうか(タルータ知事の主張)。 Cポロシェンコがプーチンの秋波に応じ、五月二六日にドネツク空港を空爆しないことほ可能だっただろうか。 D国際社会がウクライナ軍の民間家屋砲撃を批判することがありえただろうか。 E二〇一七年、ポロシェンコ政権がドンバスを経済封鎖しないことは可能だっただろうか。 私は、このすべての問いにつき、否定的に答えざるを得ない。ドンバス分離派は、マイダン革命の既成事実を受け入れるか、絶望的な武力抵抗をするかいずれかしかなかったのである。
第五章 ドネツク人民共和国
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ロシアの介入の強まり 上記の成り行き任せの人事から明らかなように、両人民共和国が発生からしてロシア大統領府のプロジェクト、傀儡だったという見解は妥当ではない。 @ロシア指導部は、自国の安全保障上の死活の問題についてさえ統一した方針を持たないのが普通である。これは、旧ソ連圏の政治隠語では、「クレムリンには十の塔(プーチンの部下)がある」と言われる。プーチンの部下のうち誰かが東部ウクライナの分離を焚きつけていたからといって、それが政権全体の方針とは言えない。 Aクリミアの分離派指導者がロシア指導部との密接な連絡の上で政変を起こし住民投票を実施したのに対し、ドンバスの分離派活動家は、「住民投票さえ成功させれば、プーチン政権は自分たちを助けざるを得ないだろう」という見込みで行動した。こういう行動は、プーチンが最も嫌うものである。 Bドンバスの分離派の中では左翼が多く、プーチンらは嫌悪を感じた。またドンバス分離勢力の実態がロシア国内で報道されると、ロシアの左派勢力の利益になりかねない。 Cロシア指導部は、紛争が起こった際に自分の味方を助けるために急いで介入するということはせず、味方に自力生存能力があるかどうかをまず見極める。二〇〇八年第二次南オセチア戦争、二〇一四年ドンバス戦争、二〇一五年シリア戦争、二〇二〇年第二次カラバフ戦争、すべてそう行動した。 立場が自分に近いからといって「自力生存能力がない者を助けても仕方ない」と考えるのである。このため、ロシアの軍事介入はいつも手遅れ気味になる。これはおそらく、ソ連末期のアフガニスタン介入失敗がロシア指導者に刷り込んだ心理的障壁である。 Dロシアはすでにクリミアを併合していた。これに加えてドンバスまでウクライナから離脱すると、ウクライナ内での親露票が極端に減り、ウクライナがNATOに入ってしまう恐れがあった(前述)。 ウクライナの観察者の中には、ロシアが両人民共和国を明白に援助するという立場に踏み切れなかった二〇一四年六−七月を「チェチェン・コサック期」と呼ぶ人もいる。ここで、「チェチェン・コサック」とはロシアからの義勇兵を指す。 義勇兵の中には、ロシア社会で自分がマージナルであることへの腹いせから隣国の疑似革命運動に身を投じた人も多かっただろう。こうした人々がたしかに人民共和国の役に立った場合もあり、その非常識な行動が共和国住民の顰蹙を買った場合もあった。ロシアの側としては、国内で厄介者であるマージナル層がドンバスで戦死してくれればよいが、革命思想に感染して帰還されては困る。 ロシア指導部がこのような煮え切らない態度を改め、やがてミンスク合意に結実する政策を追求するようになるには三つの契機があった。 @プーチンの秋波にもかかわらず、大統領選挙で勝ったポロシェンコがドネツク空港を空爆してドンバス戦争を全面化したこと。 A七月一七日のマレーシアMH17機撃墜事件。 B八月一七日にウクライナ軍がルガンスク市の中心部に突入し、同時期ドネツク市も包囲が狭められるなど、両共和国が存亡の危機に立たされたこと。 Bに至って、ロシア指導部は、「人民共和国が滅びない程度には助けるが、人民共和国がウクライナを軍事的に追い詰めたり、分離独立を主張したりするところまでは助けない」という妥協点を選んだ。これがミンスク合意の基礎になる。
第五章 「ドネツク人民共和国」のまとめ 人民共和国は、その存在期間中に性格を大きく変えた。当初の社会革命的な性格は失われ、反欧米の地政学プロジェクトに矮小化させられた。スルコフの政治技術者たちは、共和国の建国の父たちをパージし、無政党民主主義を定着させることで、この矮小化を助けた。 「二〇一四年の理想に帰れ」というスローガンが現実性を失ってしまったため、旧ソ連の他の非承認国家とは違い、人民共和国では再民主化・再動員は起こりにくくなった。 露ウ戦争が近づくと、はじめはスルコフが、やがてプーチン自身が、まるでドンバス急進思想の影響下に落ちたかのように、反一極世界・反植民地主義を唱えるようになった。しかし、この革命的言説は、クルチェンコ事件が示したように、ドンバス経済が自立性を失って、ロシアからの資金流入に頼り切っている現状とどうもしっくりこない。帝国主義に抵抗するのは、勤労者が生き生きと働ける社会を作るためではないのか。 私見では、「二〇一四年の理想」に替わる共和国市民の紐帯の根拠になったのは、ウクライナ軍の砲撃による被害者意識だったと思う。ロシア指導部は、後に露ロ開戦を正当化するために、ドンバス戦争=ジェノサイド論を持ち出した。しかし、ドンバスの弁護士たちが国際刑事裁判所に訴状と資料を送っていたとき、ロシア指導部は助けなかった。 他方では、もともとは「ヨーロッパが手本」と思っていた自治体運動リーダーのザゴルィコは、西側がドンバスの民間人砲撃を黙認したことに怒り、人民共和国運動に合流した。 ドンバスの人々がパトロンとしてのロシア、いまや母国となったロシアにいろいろ不満を抱くにしても、西側が自分たちに対してやったことへの怒りが勝るうちは、彼らが地政学的志向を変えることはないように思う。
第六章 ミンスク合意から露ウ戦争へ
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本章のまとめ ドンバス戦争の外交的解決策としては、カラバフ紛争等とは違ってland-for-peaceは提案されなかったのでミンスク合意、つまり連邦化政策のみが追求された。連邦化は、コミットメント問題を引き起こし、紛争当事者の利益に反しているので、稀な例外を除いて成功しない政策である。 だからといって、ミンスク合意が有効だった七年間が無益だったというわけではない。戦闘も砲撃も低水準に抑えられ、犠牲者の数は減った。露ウ戦争開戦までのドンバス戦争の総犠牲者約一万四〇〇〇人のうち大半は、二〇一四−一五年に亡くなった犠牲者だった。ミンスク合意期をあしざまに言うプーチンは、自分が始めた戦争を単に正当化したいだけにすぎない。 ミンスク合意は停戦協定にすぎず、持続的な和平条約に転化しなかったことは事実である。しかし、第一次オセチア戦争を終わらせたダゴムィス条約、沿ドニエストル紛争を終わらせたモスクワ条約、アブハジア戦争後に結ばれたモスクワ合意、第一次カラバフ戦争を終わらせたビシケク条約―以上の停戦協定のうち、根本的な和平条約に転じたものなど一つもない。にもかかわらず、これら停戦協定が生きていた間は、戦闘は低水準で犠牲者数は皆無だったか、少なかった。 そもそも分離紛争は、「国の領土は大きければ大きいほど良い」、「領土を失うことは人間が手足をもがれるのと同じ」などという国家表象を人々が捨て、国連信託統治のような非・主権国家的な解決法が大規模に採用されるようにならない限り、解決が難しい問題なのである。最も現実的な紛争回避策は、一時凌ぎの停戦協定を、綻びを繕いながら何十年でももたせて、人々の国家表象や国際法の通説的解釈が変わるのを待つことである。分離紛争を「解決」して恒久的な平和を目指そうなどとすると、かえって戦争を誘発する。 現にドンバス戦争でも、連邦化政策が実現されない中で、軍事的な解決が志向されるようになった。ゼレンスキー政権は第二次カラバフ戦争でのアゼルバイジャンの勝利から大きな刺激を受けた。 ロシアの軍事指導者内では、両人民共和国を承認して保護国化する「二〇〇八年オセチア・アブハジア型」の案、親国家であるウクライナを叩く「一九九九年ユーゴスラヴィア空爆型」の案を支持する二派が現れて競合した。 親国家破壊=体制変更型の電撃戦が失敗すると、潔く失敗を認めて撤退するか、すでに払った犠牲を正当化するために、戦争目的を領土獲得にエスカレートするかの選択が迫られた。ロシア指導部は、当然ながら前者は選ばない。その割には、領土獲得戦争にふさわしい追加動員や戦線の合理的縮小も行われず、二〇二二年九−一一月の敗走と退却につながった。 ロシア指導部は、敗走の後、ようやくまともな戦争指導体制を構築し、クリミアヘの陸上回廊死守の構えである。「ドンバス解放」という公式の戦争目的からすれば、バフムト奪取の後はクラマトルスタとスラヴァンスクに進撃すべきだが、ロシア指導部にとっては、これら二都市よりもアゾフ海沿岸のメリトポリやベルジャンスクの方がずっと重要なので、ドンバス戦線での戦いに、近い将来に決着がつくとは考えられない。
終章 ウクライナ国家の統一と分裂
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本書のまとめとしてまず強調したいことは、ウクライナの問題は、策一義的にはウクライナの問題だということである。プーチン政権の長期化によるロシア政治体制の病弊、NATO指導者の野心など、様々な外的要因はあろうが、それらを織り込み済みで政策を展開するのがウクライナの職業政治家の責任である。 そうした舵取りができる勇気、知性、責任感を持ったウクライナの指導者は、おそらくレオニード・クチマが最後であった。それ以後のウクライナでは、勇気、知性、責任感を持った政治家はごく少なくなったか、選挙に勝てなくなった。ここで「ウクライナ」を「日本」に置き換えていただけば、私がウクライナに対して酷で尊大な要求をしているわけではないことはおわかりいただけよう。 ウクライナの再生に協力したいと考えている日本の市民には、ウクライナについて知ってほしいと思う。善意は知識の代わりにはならないし、プーチン政権を打倒しても、ウクライナはよくはならない。 分離紛争への実証的アプローチ 二〇〇三年に出版された分離紛争に関する古典的な論文集において、編者であるブルーノ・コピエテルスは、現状の(つまり当時の)分離紛争研究が規範的・演縛的であることを批判した。二〇年経っても事情はあまり変わらず、二〇二二年にland-for-peaceについての本を出したベルグとクルサニも、同じ嘆きを繰り返した。 実際、国際法に詳しい人の中には、国際法上の数個の命題を組み合わせれば、あらゆる分離紛争に通用する解決法が見つかると信じる人たちがいる。しかし分離紛争は千差万別であり、万能薬はない。分離紛争の解決法は、個々の紛争が抱える歴史、民族、経済などの文脈から自由ではない。 分離紛争への実証的な関心がないということは、一九六〇年の植民地独立付与宣言以来、国家が、自分が国家としての資格があるということを実証しなくてもよくなったことと結びついている(第三章参照)。 こんにちのウクライナは、民族解放運動の結果生まれたのではなく、ソ連の解体の結果生まれた。民族解放運動から生まれた国家であれば、独立達成までに地域や住民が試練のふるいにかけられるから、相対的に小さな領土しか持たないが、言語、歴史認識、建国理念の点で同質的になる蓋然性が高い。そのような国家であれば、特定の歴史認識を共有することを市民に義務付けたり、多言語主義ではなく単一国語主義をとったりしても、市民の不満は少なかったかもしれない。 しかし、ソ連の自壊の結果、たなぼた式で生まれた広大なウクライナは、先祖伝来ウクライナ語ではない言語で話し、書き、考えてきた住民、ウクライナ民族史観で英雄とされる人物たちに祖先が迫害された住民も抱え込んでしまった。そうした場合には、第一章で述べた中立五原則(@多言語・多文化主義、A国定イデオロギー・国定史観の拒否、Bそのかわり経済成長、文化・学術・スポーツ振興などを国家目標にする、C中立外交、D非暴力主義)に基づいて、民族国家ではなく、市民的な国家を作ることが妥当な戦略であっただろう。 残念ながら、独立後三〇年間のウクライナは、この反対の方向に向かって進んできた。特に、いわゆる親欧米政権においては、「経済実績が悪いので、選挙が近づくと民族主義=国民分断に頼る。その結果、ますます経済が悪くなる」という悪循環も見られるようになった。 ダレグ・ザバラフが指摘するように、市民的な国家建設を選ぶことは、ポスト・ソ連国家にとってはそもそも容易ではなかった。ソ連においては、原初主義的な民族観が優勢である反面、「ソヴェト・ピープル」(中国の「中華民族」に該当)という標語に代表される多(非)民族的な市民概念、公民的な国家概念も喧伝され、原初主義的な民族観に対してバランスをとっていた。 しかし、この非民族的な市民概念は、共産主義イデオロギーと密接に結びついていたので、共産主義イデオロギーと共に葬り去られてしまった。共産主義に替わりうるイデオロギーとしては、全国レベルでリベラリズムが弱体だったため、連邦構成共和国を基盤とする原初的民族主義しかなかった。 塩川伸明『国家の解体』(二〇二一年)が示すように、ゴルバチョフの戦略は、社会主義経済は放棄しても、通常の資本主義(社会民主主義)国家としてソ連を維持することだったが、ソ連という国家はあまりに直接に社会主義と結びついていたため、それは無理であった。ソ連型市民アイデンティティについても同じことが言えるのである。 ソ連時代には、「ソ連が多民族国家であるだけでなく、個々の連邦構成共和国も多民族共和国なのだ」ということがよく言われた。しかし、ソ連後に出現したのは、(たいして多数派でもない)基幹民族を中心とした民族国家であった。 ただし、非基幹民族に保証される権利の水準は、国によって異なる。たとえばカザフスタンの大学には必ずロシア語セクター(言語学級)がある。つまりロシア語で大学入試を受け、ロシア語で大学の卒業論文を書くことも可能である。 第一章で述べたように、一九七五年CSCEヘルシンキ最終文書の国境線不変更原則(第三項)は、少数派の人権保護(第七項)とセットになって意味を持つものである。これは別に規範的な議論をしているのではなく、少数派の権利を保護しない国家の国境線は安定しないという事実の話をしているのである。 国民の団結を高めるのは繁栄と福祉の向上であって、イデオロギーや言語の強制ではない。国境線不変更原則は無菌環境の中で鎮座しているのではなく、社会的要因の影響を受ける。二〇一四年九月にポロシェンコ大統領がいみじくも指摘したように、経済成長なしに分離紛争は解決できない(三五八―三五九頁)。 中国や韓国の平均賃金が日本のそれを大きく凌駕する日が来ても、日本人が中国や韓国に大量移民することは考えられない。言語障壁があるからである。ウクライナとロシアの間に言語障壁はない。 むしろ、ウクライナのロシア語話者は、ウクライナ語をマスターしない限りウクライナでは公務員にも弁護士にもなれないが、ロシアでは自分の母語のままでなれる。 ウクライナ経済の衰退が続いたとしよう。平和な状態ならウクライナからロシアやベラルーシに高資格者が流出するだけだろうが、経済衰退に加えてユーロマイダン革命のような暴力野放し状態になると、個人的に移住するのではなくて地域ぐるみでロシア(やハンガリー)に移ろうとする不心得者が今後も出ないとは限らない。 身体のアナロジーで領土を考える非合理 「国家の領土は広ければ広いほどいい」、「領土を失うのは手足をもがれるのと同じ」といった情緒的な国家表象が変わらない限り、分離紛争を防止し解決するのは難しい。 領土には最適規模がある。維持するのに経済的コスト、防衛上のコストが高すぎる地域、分離紛争の感染源になりかねない地域(ドンバスにとってのクリミアなど)は、親国家がむしろ積極的に放棄・割譲する発想があってもよい。 その場合、親国家は、割譲した領土が隣国の軍事基地になることへのおそれを、当然抱くだろう。それを防ぐためには、隣国への割譲ではなく、信託統治や共同主権のような主権国家的でない解決法を追求すればよい。このためには現行の信託統治制度の改革が必要になるが、こうした問題については、第一章で紹介したロバート・ジャクソンの研究を参照されたい。 「領土には最適規模がある」という発想があれば、ソ連解体の際に、紛争地域を抱えていた連邦構成共和国は、むしろ積極的に四月三日連邦離脱法を適用し、その後の内戦を防いでいただろう。近未来の独立国としての自分の領土を極大化したいという欲が強すぎて、それができなかった。 国家を分ける前に、南ネーデルランドや北アイルランドを親国家に残したような合理的な領土調整ができなくて、戦争になったとしよう。この場合、兵士や民間人の犠牲を出したことによって、領土表象がますます情緒化するかもしれない。他方、苦い薬を飲まされたことで、領土問題を合理的に解決しようと志向するようになるかもしれない。 ウクライナにおいては後者が勝った。二〇一四年の大統領選挙でポロシェンコがティモシェンコに勝ったのは、ティモシェンコがポロシェンコよりもクリミア問題で強硬で、有権者に不安を抱かせたからである。 二〇一五年、ハルキウの社会学者は、同州住民の二人に一人は、「ドンバスなしのウクライナ」というスローガンを支持していると言っていた。というのは、前年の内戦中に、血まみれの負傷兵がドンバスからハルキウ市の病院に多数運び込まれるのを市民は目撃していたからである。ミンスク合意を実施してドンバスを取り戻すということは、内戦の火種を再び抱え込むということである。「ドンバスもクリミアもないウクライナ」、「ドンバスのために、なぜウクライナの青年が死ななければならないのか」という主張は、実は西部ウクライナやディアスポラの一部(アレクサンダー・モテイルなど)に強いものだった。 これは、モルドヴァのむしろ右派・親ルーマニア勢力の中で、「沿ドニエストルとはさっさと縁を切って、EUに入った方がいい」と主張する人が多いのと同じである。 しかし、「ドンバスもクリミアもないウクライナ」という主張は、およそ二〇一六年頃からか、心では思っていても口には出せないものになってしまった。国境線を変えられては困る欧米や国際機関が、援助を挺子にウクライナを「励まして」、強硬姿勢に戻したと思う。 この事情は、カラバフ戦争敗戦時にはカラバフは永遠に失われたと思ったアゼルバイジャン人が、一九九六年のOSCEリスボン・サミットに励まされて強硬姿勢に戻ってしまったのと同じである。 それでもなお、ウクライナ市民のクリミア観は、さほど情緒化しなかった。ラズムコフ・センターというウクライナの定評ある社会学調査会社の二〇二一年の調査によれば、「クリミアが将来帰ってくる可能性があるか」という質問に対して、「ある」が四三%、「ありそうにない」が四四%だった。 一見、桔抗しているようだが、奪還の方法をみると、@「制裁を強めることで、ロシアが返す」が四七%、A「ウクライナで改革が進み、生活水準でクリミアを越えることにより帰ってくる」が四六%、B「軍事的方法を用いてでも取り返す」が二八%であった。 @については、ロシアが侵略戦争でも開始しない限り、西側がロシア制裁を当時以上に強化することはなさそうだった。Aは健全な考えだが、近い将来には難しかろう。Bは、侵略戦争開始以前はウクライナ人の一致点にはなりにくい主張だった。 つまり、一見、クリミア奪還について楽観論と悲観論が括抗しているようだが、楽観論者は(おそらく本人たちの目にも)非現実的な根拠をあげていたのである。 分離運動の社会的背景 ウクライナの分離紛争を、米露の地政学的対立の一事例とみるのは間違っている。ユーロマイダン運動がそうであったと同様、クリミアの分離運動にも、人民共和国運動にも、その背景には、社会主義解体後のウクライナの貧困化に対する不満、社会的不公平への怒りがある。 それに加え、本書は、エリートの構造が分離運動の在り方を左右することを示した。クリミアでは、一九九一年一月住民投票において、ウクライナが独立する場合にはウクライナから離脱できる地雷を仕掛けておいたにもかかわらず、バグロフ最高会議議長は安全志向からウクライナ指導部との妥協を選んだ。 バグロフを大統領選挙で倒したメシュコフは、議員や地方自治体指導者と紛争状態に陥り、エリートの地域団結を作り出すことができなかった。 その後もクリミアのエリートはばらばらの状態だったが、二〇〇九年から一三年までのマケドニア人支配に対抗する中で「クリミア土着エリート」という統一的な自己表象が初めて生まれた。 ユーロマイダン革命への評価をめぐり、マケドニア人とクリミア土着エリートの対立が深まった。マイダン勢力がクリミア・タタールを動員したことによって、クリミア土着エリートは、ロシア特殊部隊を招き入れてでもクリミア分離政権を成立させるところまで踏み込んだ。 したがって、二〇一四年のクリミア政変を推進したイデオロギーは、大口シア民族主義ではなく、クリミア地域主義である。アクショノフはこれを踏襲して、政変時には誰も予想しなかった長期政権を打ち立てたのである。 ドネツク州のエリートは、産業構造など様々な要因からコンフォーミズム志向が強かった。一九九四年に州知事になったシチェバニは、ドニプロベトロウスク州閥との闘争に敗れた。その後、ドネツク州閥は、二〇〇二年までかけて地域党を建設し、南東ウクライナの諸州閥を従えていった。 地域党はオレンジ革命でいったんは野に下るが、すぐに態勢を立て直し、二〇〇二年大統領選挙でヤヌコヴィチのリベンジを果たした。この過程でクリミアも植民地化した。 こうして、ヤヌコヴィチと地域党は、ドネツク州議会の議席占有率九〇%以上という驚異的な体制を打ち立てた。しかしこれはヤヌコヴィチ個人に権威と利権を集中する恩顧体制であり、マイダン革命の中でヤヌコヴィチが逃亡すると、南東部ウクライナ全域で機能停止した。 このため、南東ウクライナの地方エリートは、マイダン派の東征にも、人民共和国派の分離運動にも対抗できなかった。「クリミアの春」では、少数のマケドニア人を除く上層エリートも完全にロシアに寝返ったが、ドネツクでは上層エリートは丸ごと追放された。ドネツク人民共和国の中心的活動家がかつてのマージナル層であることは否定できないが、工場、学校、警察などの中堅指導層も、ウクライナ時代と変わらず職場にとどまり、共和国議会の多数を構成している。 私は内戦開始後、二回、ドネツク人民共和国を訪問したが、公共交通、清掃など、行政がしっかりしているという印象を持った。いかなる革命も裏切られる運命にあるのかもしれないが、二〇一四年の「クリミアの春」、「ロシアの春」も例外ではない。クリミアではアクショノフの恩顧体制が定着し、ドネツク州では「産業ドンバス」の伝統は失われ、ロシアからの援助に完全に依存した経済になってしまった。 二〇二二年の露ウ開戦がなかったら、クリミアやドネツク州でもいつか再民主化の波が起こっただろうか。カラバフでは一九九四年の休戦協定から再民主化運動まで五年かかり、アブハジアでは一九九三年の休戦協定から一一年かかっている。 継続する社会変動とトランスナショナリズム 国や民族が画然と分かれた東アジアに住む我々にとって、旧ソ連空間はわかりにくい。だから日本人は、太平洋戦争時の日米関係や、今後ありうる日中戦争のアナロジーで露ウ戦争を認識する。大統領の下、国民は団結してロシアと戦っているというイメージは、判官贔屓の私たち自身にとって心地よい。しかし、これは事実ではない。ウクライナ住民の戦争評価は地域により様々である。 そのうえ、交戦国間に言語障壁が存在しない。情報空間は単一である。国が築くネット上の障壁は簡単に突破できる。だから、両国の軍の司令部の戦況報告は、国民が敵の軍司令部の発表も視聴しているか、要旨は知っているということを前提にしてなされる。 ユーロマイダン革命という衝撃的な歴史的事件に遭遇して、露ウ両国が分極化したのではなく、露ウ両国内で賛成対反対派に分かれたのである。マイダン革命の継承を唱えるウクライナの体制は、プーチンの権威主義を嫌い、マイダン革命に好意を持つロシアの反体制勢力と協力した。ウクライナの政府系テレビにはロシアの反体制活動家がしばしば出演した。同様に、マイダン革命を糾弾するロシアの政府系テレビの討論番組には、ウクライナの左派や南東野党の政治家が盛んに出演した。しかし、両国における体制側マスコミの強さは如何ともしがたく、それに加えてゼレンスキー下のウクライナでは、野党系テレビ局は放送免許を剥奪された。こうして、八年の戦間期を通じ、マイダン革命への賛否をめぐるトランスナショナルな亀裂は、露ウの国家間対立へと矮小化していった。 これは、ロシア革命をめぐって各国で激化した左右対立が、やがて冷戦という国家間対立に堕落していったのと同じである。 二〇一四年、ロシアの軍需産業は、ウクライナの軍需産業から自立していなかった。これが、二〇一四年にロシアがウクライナへの全面戦争を始めなかった理由のひとつであった。ロシアは八年かけて、軍需の輸入代替を完了した。 ウクライナ正教会は、ロシア正教会内の自治教会である。民族派の教会は、教会法上の地位を持っていなかった。民族派の教会は、二〇一八−一九年にコンスタンチノープル世界総主教がパトロンになったことで合法的な地位を得たかのようだが、高位聖職者の叙任(神品機密)に疑問点があることなどから、正教世界で広く承認された教会ではない。主に世俗的な愛国者を惹きつける教会であるため、日曜礼拝はガラガラだとよく言われる。 戦後のウクライナがEUへの道を歩むとすれば、教会法上正統なウクライナ正教会に対する弾圧は緩めざるを得なくなる。 ソ連解体時に領土調整せず、クリミアをウクライナが抱え続けたことも、視点を変えれば、ロシアとウクライナの間のトランスナショナルな癒着関係を促進したと言える。ロシア高官は、クリミアでマケドニア人が地元エリートを過度に虐めないように、ヤヌコヴィチ政権に圧力をかけていた。 今後、万一ロシアがザポリジャ州、ヘルソン州をウクライナに返さなかったとしても、それらが普通のロシア南部州になるとは私は思わない。それらは、ロシアの中のウクライナになるだろう。ましてや、十年戦争とおびただしい流血で独特の政治空間となった両人民共和国を、どうやって同化するのか、ちょっと想像がつかない。 ユーロマイダン後のウクライナとプーチン政権とは共鳴しあう関係にある。ユーロマイダン革命なしにこんにちのプーチンは考えられないし、プーチンがいなかったら、オレンジ革命のときにそうだったように、ウクライナは革命前のウクライナに戻れたかもしれない。 この戦争が落ち着いたら、ウクライナは、憲法再改正、二〇一二年言語法復活、脱共産法廃止等により二〇一三年以前のウクライナに戻し、プーチンには勇退してもらうのが、両国にとって一番良いと思う。しかし両体制は、お互いの延命を頑固に助け合う関係にあるので、それは起こりそうにない。 いずれにせよ、露ウは切っても切れない関係にあり、両者が普通の主権国家として綺麗に株別れすることはありえない。 おまけに、露ウ関係は環黒海地域全体にスピルオーバーする。プーチンは、エルドアン・トルコ大統領に自らのウクライナ政策を応援してもらうために、同盟国であるアルメニアの主権を平気で犠牲にする。 モルドヴァの政治は、ウクライナ政治を良き反面教師とし、両極化や地政学化を避けてきた。しかし、マヤ・サンドウ大統領が最近(二〇二三年五月)とみにゼレンスキー化してきたため、それも続かないかもしれない。 政治がトランスナショナル化した環黒海地域では、国内政治、国際政治、トランスナショナル政治を画然と分けようとすること自体にあまり意味がないのである。本書も示したように、この三層は相互作用しながら、一体となって広域政治を形成する。まあ、環黒海全体の話は、別の本で続けたい。
あとがき
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二〇一二年度から、私は仲間と一緒に科学研究費補助金を取って、「競争的権威主義体制の比較」というプロジェクトを始めた。私はウクライナ地域党を担当し、同党の本拠地であるドネツク州と、ドネツク閥が植民地化したクリミアで調査を開始した。ウクライナ研究者としては変な話だが、ドネツクやシンフフェロポリを訪問したのは初めてだった。 翌年の秋にユーロマイダン革命が始まり、研究対象であった地域党そのものが消滅した。私は、「ウクライナ動乱」プロジュクェクトを立ち上げて、研究を続けた。しかし、もはやクリミアやドネツクで現地調査することは困難になっていた。 内戦ピークであった二〇一四年八月には、ドネツクに行くこと自体には何の制約もなかったがミンスク合意で軍事境界線が定まると、その向こう側に行くにはウクライナ保安庁(特務機関)の許可が要るようになった。許可を取るのは三年がかりの仕事で、その次にドネツクを訪問できたのは二〇一七年八月だった。 私は、許可をくれたことにつき、ウクライナ特務機関に心から感謝している。二〇一六‐七年にドネツク人民共和国になかなか入れなかった待機中に行った、戦線に隣接するマリウポリとタラマトルスクの市政の研究は、光栄なことに、Nationalities Papers誌の年間最優秀論文賞をいただいた。 しかし同時に、進行中の紛争を研究することの効率の悪さに驚いた。ウクライナは私の研究対象国の中で、私にとって一番大切な国である。しかし、ウクライナだけを研究しているわけでも、現状分析だけをやっているわけでもない。当時、定年退職までたった八年を余す身で、ウクライナ動乱研究に膨大な時間を取られてよいのかと悩んだ末、このテーマを棚上げした。 研究というものは、棚上げしたらしたで恋しくなるものである。普通なら、恋しくなったら戻ってきたらいい。しかし、その後、COVIDパンデミックと戦争で、ウクライナに行くことは不可能になってしまった。 二〇二二年の春、ちくま新書の松田健氏に提案されて、「ウクライナ動乱」で新書を書くことにした。一年以上待たせ、ご覧のように非常識な分量になってしまった。 釈明すると、露ウ開戦は、真剣な知的反省を私に迫ったのである。私は、ウクライナ動乱研究以前は、カラバフなど古参の非承認国家研究に力を割いていた。その知見を加味して、ソ連崩壊後の分離紛争を総括してみたいと思った。露ウ開戦後の一年間の思索の結果が、第一、二、六章である。第二章「ユーロマイダン革命とその後」は、完全な書下ろしである。 クリミアとドンバスにかかわる第三、四、五章は、二〇一〇年代の半ばに私が現地で研究し、英語で発表した作品の邦訳と追補版である。ロシア支配に移った後のクリミア政治については、おそらく本書が世界で最初の研究である。 「はじめに」で述べたように、本書の典拠を確認したい読者は、本書の下地になっている次の諸論文の注を見ていただきたい。 前述の通りアメリカで賞をいただいた論文だが、実はドンバス紛争は、ここでは背景でしかない。これはマリウポリ、タラマトルスタという企業城下町において、主要企業の経営者たちが内戦中にどう市行政を支えたか、内戦後のポロシェンコ政権の働きかけにどう対応したかに注目した、恩顧政治の研究である。 ・松里公孝「ルーシの歴史とウクライナ」『歴史・民族・政治から読むロシア・ウクライナ』(東京堂出版、近刊)。 ウクライナという国、地域が現れたのは、ソ連時代の共和国を含めても一九二二年のことなので、それ以前の歴史をこんにちのウクライナ領土から見ようとして無理がある。近世まで広く受け入れられていた地理単位、人間単位はルーシ(人)なのだから、この視点から東スラブ地域の広域史を見直さなければならないと提言した。 ・松里公孝「ロシアとウクライナのテレビに関する事情−露ウ開戦で何が変わったか」『海外事情』第七〇巻第六号、二六−二六頁。 研究者が現地に行けないいま、ウクライナやロシアのテレビニュ−スを直接視聴することが重要になっている。主要な局、討論番組、有名ブロガーなどにつき紹介した。 最後になるが、またとないチャンスを与えてくれ、辛抱強く原稿の提出を待ってくれ、かなりの分量の原稿を本にまとめてくれた筑摩書房の松田健氏にお礼を言いたい。 二〇二三年五月一七日、東京 松里公孝
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