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斎藤成也『日本人の源流』(河出書房新社)
 著者は国立遺伝学研究所教授、核DNA解析の専門家である。DNA解析の知見を踏まえ日本人の源流を辿るという興味深い探究である。
 日本人の源流については従来より「二重構造モデル」というものがある。これは日本列島に渡来してきた人びとを縄文時代までと弥生時代以降に分けて考えるものである。縄文時代は狩猟採集生活が、弥生時代は稲作農耕が中心だった。縄文時代には南から北まで広く縄文時代人が住んでいたが、弥生時代に大陸から稲作が伝わり日本列島に拡大し大陸から来た人びとと縄文時代人との混血が進んだ。しかし北海道と沖縄には稲作が伝わらず縄文時代の土着民と渡来民との混血があまり進まなかった。著者が関わった研究グループでもアイヌ人、オキナワ人、ヤマト人のDNAを調べたところ確かにこの二重構造は存在していることが2012年に確認されている。
 しかし、この弥生時代に先んずる縄文時代人は一体どこからきたのか。2016年に著者たちは縄文時代人のDNAゲノム解析に成功するが、その結果縄文時代人は東南アジア人や北東アジア人とも近くなかったのである。また、言語的にも日本語とアイヌ語はその関係性が乏しく、一方でオキナワ語と日本語は近い。また日本語と近い言語がユーラシア大陸に存在しないのはなぜか、など多くの謎が残ったままである。
 そこで、著者はまず人類の源流をたどる。人類はおよそ700万年前にチンパンジーとボノボが分離してまもなく猿人と呼ばれるホモ属が誕生したとみられている。このホモ属猿人の系統からおよそ300年前に原人ホモエレクタス(北京原人、ジャワ原人、フローレス原人など)が分岐し、そしておよそ50万年前に旧人ホモサピエンスが出現した。ネンデルタール人がその代表である。さらに、およそ20~30年前にアフリカのどこかで旧人の中から新人が出現した。そしてこの新人がその後アフリカから世界へと拡大していった、というのが今のところ有力な説だ。旧人と新人とはあきらかな能力的な違いがあったとみられるが、具体的な違いなどは分かっていない。ただネアンデルタール人のミトコンドリアDNA解析の結果、現代人とは明らかに異なるものであることははっきりしている。しかし新人と旧人との混血はありえたとみられている。
 新人のアフリカ脱出はおよそ8万年前ごろとみられる。脱出のルートは大きく分けて二つがある。大陸内部を移動したインド、中央アジア、ヨーロッパ、中近東の流れ、それに対して海岸沿いを移動した東アジア、東南アジア、南北アメリカ、オーストラリア、パプアニューギニア、メラネシアなどで、日本は後者のグループに入る。
 新人はさまざまな地域で旧人から進化したという説もあるが、著者はゲノム解析の結果からみて新人はアフリカの旧人から進化して誕生し、やがてアフリカを出て各地に拡散していったとするアフリカ単一起源説をとる。
 さて、出アフリカの新人は上記のように大きく二つのルールで拡散していくが、その間に旧人との間の混血も起こったとみられる。アフリカ人以外の現代人にネアンデルタール人のゲノムが1~3パーセントほど伝わっているとみられている。そして海岸沿いに東を目指したグループは、南アジアを経て東南アジアにたどり着き、そこから南下してサフール大陸へ向かったものと、北上して東アジア、さらにベーリンジアを経てアメリカ大陸へと向かったものがある。従って東南アジアが人類拡散の要となったとみられる。
 ところで、皮膚の色は紫外線の影響を受けて変化するものとみられているが、紫外線の強さと実際の各地の原住民の皮膚の色に多少誤差がある。例えば南米の原住民は紫外線の強さの割には皮膚の色は薄い。これは彼らがその地域に移動する前に皮膚の色は薄くなっていて南下とともにメラニン化が進んだが、皮膚の色の変化は薄くなる場合(北上)よりも濃くなる場合(南下)の方が時間がかかるためとみられる。
 著者は日本人の源流を尋ねるに際して、古い時代から日本列島に住む人びとをヤポネシアと呼ぶ。ヤポネシアは大きく北部、中部、南部に分かれる。北部は千島・樺太・北海道、中部は本州・四国・九州、南部は奄美・沖縄・南西諸島である。これはアイヌ人、ヤマト人、オキナワ人に対応している。ヤポネシアに最初にやってきた人間は発掘されている人骨からみると3万2000年前で、沖縄那覇市の山下町第一洞窟遺跡から出土している。なお、石器はおよそ4万年前からのものが出土しており、それから判断すると約4万年前からヤポネシアに人間が住むようになったと考えられる。
 石器時代が約2万年ほど続き、今から1万6000年前あたりから土器が使われるようになった。ヤポネシアで最初の縄文土器は大平山元遺跡から出土した無紋土器である。その後現れる縄文土器を含めて以後弥生式土器が現れる約3000年前までを縄文時代という。そして、弥生式土器を使った人々は大陸から渡ってきた人びとで彼らはもともと住んでいた土着の縄文人と混血を繰り返し、本州・四国・九州ではヤマト人と呼ばれる日本人の多数派を形成したが、北海道と沖縄・奄美ではこの混血はほとんど進まず縄文人のゲノムが残ったとされる。
 問題は、弥生人が中国北東アジアから流れてきた人びとであることは考古学的知見からもほぼ間違いないが、縄文人といわれる人々が果たしてどこから来た人びとなのか。東南アジアからという説が有力だとされているが、北方アジアという説もある。
 そこでDNA解析の出番である。1991年に初めて縄文人のミトコンドリアDNA塩基配列が確定されて以来、およそ100例の縄文人の人骨のDNA塩基配列が決定されている。
 さて、著者の研究室では神澤秀明氏を中心に2009年から2016年の7年間に渡って縄文人のDNAの核ゲノム解析が進められ、福島県新地町にある三貫地(さんがんじ)貝塚から出土した縄文人人骨の臼歯4本からついにDNA核ゲノムの塩基配列にたどり着いたのである。
 そこから各地の現代人の核ゲノムと三貫地縄文人の核ゲノムの比較を行い、その結果は予測された通り、三貫地縄文人の核ゲノム配列はアイヌ人ともっと近似性が高く、次に近いのがオキナワ人で、最後が東京近郊のヤマト人となった。
 また三貫地縄文人核ゲノム配列の結果から縄文人が北方系か南方系かについてはどちらともいえないという結論になった。しかし縄文人人骨の核ゲノム解析は日進月歩であり、各地の遺跡から発掘された人骨からより状態のいい縄文人核ゲノムが得られている。最近では北海道礼文島の船泊遺跡から発掘されたものからヒトゲノムの80パーセント以上が得られているという。
 さて、縄文人核ゲノムから彼らが北方系か南方系かの判断はできなかったが、いずれにしてもヤポネシア人の源流には縄文人と弥生人という二つの系統がいわゆる二重構造をなしているという説はベルツの「アイヌ琉球同系説」から大きな影響を受け、国立博物館の山口敏氏や東大の埴原和郎氏により1980年代に確立された。そしてDNAゲノム塩基配列の比較検討から著者もオキナワ人とアイヌ人が同系であるというベルツの「アイヌ琉球同系説」を確認したと2011年に発表している。
 ところでこの土着縄文系と渡来弥生系がいつの時点で混血を開始し、その割合はどの程度であるのかについてであるが、渡来人が現在の東アジアの大陸系の人々と仮定して縄文人ゲノムと渡来人ゲノムの系統樹からその混血率を計算するとヤマト人には14~20パーセントの縄文人のゲノムが伝わっていると推定され、そこから逆算して開始時期を計算すると55~58世代前でおよそ1375年から1740年という結果となる。つまり西暦3~7世紀で古墳時代に相当する。時あたかも大和朝廷による東北地方(蝦夷)の平定が進められた時期でもある。またオキナワ人の場合でみると縄文人と弥生人の混血が進んだのは43~44世代前で飛鳥時代から平安時代に相当する。オキナワ人に受け継がれた縄文人系のDNAは27~30パーセントと推定されている。なお、日本列島中央部における縄文時代の最大人口は縄文中期でおよそ30万人程度とみられている。
 また著者は日本列島といっても実は、博多・大阪・名古屋・横浜・東京という現在の大都市を結ぶ中心部とそれ以外の周辺部の「内なる二重構造」が存在するのではないかと考えている。たとえばそこから外れる出雲の人々と東北地方の人々とが地理的には離れていても共通性が高いのは渡来人との混血率が中心部に比較すると同程度に低いからと考えられる。
 そこで、著者はヤポネシア人の2015年に『日本列島人の歴史』で三段階渡来モデルを提唱している。
 第一段階は約4万年前~約4400年前(旧石器時代から縄文時代中期まで)で、この時代は約1万2千年前までは氷河期で日本列島は大陸と陸続きのところが多くあったため、北は千島と樺太、さらに朝鮮半島、東アジア中央部、台湾などのルートがあったとみられる。しかし彼らの起源はいまだ謎である。
 第二段階は、約4400年前~約3000年前(縄文時代の中期と後期)この時代は朝鮮半島、遼東半島、山東半島の沿海部の漁労を主とする採取狩猟民だった可能性が高いが、彼は日本列島中央部の南部に広がり先住民と混血していったとみられる。
 第三段階は、前半(約3000年前~約1700年前、弥生時代)と後半(約1700~現在)に分けて考える。この段階を通じて朝鮮半島を中心にユーラシア大陸から渡来民が流入したが、前半は主として日本列島中央部の中心軸に沿ってその居住地域を拡大していった。それに対して中心軸以外では渡来民との混血はほとんど進まなかった。いわゆる「うちなる二重構造」と呼ばれる地域差が生まれた時期でもある。後半になるとそれがさらに顕著になるとともに第一段階の渡来民の子孫はそれぞれ北海道と沖縄奄美に移り住み、第二段階の渡来民が東北地方にも拡大していった。
 以上が第三段階渡来モデルの概要であるが、このようなDNA核ゲノムのデータによる研究以外にもいくつかの他の方法もある。たとえば男性のみがもつY染色体の系統から日本列島人の特色を見てみるとやはり東アジアや東南アジアに多くみられるO系統はヤマト人では50パーセント以上だが、アイヌ人では0パーセントで、オキナワ人でも38パーセントにとどまる。ここから弥生時代以降に稲作を伝えた人々はこの地域のO系統の人々だった可能性が高い。また、日本列島人のなかにわずかだがD系統がみられるが、このD系統は世界中でもチベットなどごくわすかの地域にしかみられない。このことは縄文時代以降に日本列島に渡ってきた人々がかなり特異な人々であることを示す。D系統の分岐は人類の出アフリカ前後というかなり古い時代で、しかも東アジアや東南アジアには全くみられず、わずかにチベット人とインド洋のアンダンマン諸島人のみにみられるということは東アジア沿海部や朝鮮半島からのルールとはと異なるルートから渡ってきたのではないかと推測される。
 父系性遺伝情報のY染色体に対して、母系性遺伝情報の特色をもつミトコンドリアDNAのデータ分析手法からは著者のいう「うちなる二重構造」が裏付けられたという。
 また、血液型の分析手法からは、O型の対立遺伝子(血液型は二つの対立遺伝子からなるが、つまりは一つでもO型の遺伝子をもつ場合)の分布状況を日本列島の中心部と周辺部に分けてみてみると、地域的には北にB型の頻度が高く、南にA型の頻度が高い傾向がみられるが、逆にO型対立遺伝子の頻度は中央部より周辺部の方が多くみられる。このことは第二段階の渡来人(縄文時代の中期と後期)は、のちの弥生系の人々よりもO型対立遺伝子の頻度が高い人々だったということになる。
 その他に言語や地名からのアプローチもある。ただ、日本語や琉球語の源流については依然として謎である。
 地名については著者は時代が遡るほど地名は短くなる傾向がみられるという。そして、沖縄と北海道を除く東日本(中部・関東・東北)と西日本(九州・中国・四国・近畿)の市町村の地名について検討したところ二文字以下の地名は東日本で9パーセント、西日本で12パーセントだった。集落の形成はやはり第三段階の渡来人の移住とともに進んだのだろうか。
 このようにさまざまな角度からのアプローチも動員しながらまだまだ謎の多い日本人の源流を探求していきたい、と著者はいう。
   
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