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安田峰俊『八九六四』(角川書店)
 本書は1989年に起こった天安門事件に関わった青年たちへのインタビューをまとめたルポルタージュである。著者は中国の大学にも留学経験のあるルポライターで、中華圏の政治・社会・文化に関する執筆で知られる。
 インタビューした人数はおよそ60人であるが、本書で取り上げられているのはそのうちの22人である。その人物の実名または仮名と事件当時の所在地・肩書、そして取材時の年齢と職業、取材地がそれぞれ記されている。そのほとんどは天安門広場にいた学生たちであるが、なかには日本人の留学生、また当時日本に留学していて日本で支援活動をしていた中国人留学生も含まれている。

 さて、天安門事件についてだが、本書では事件そのものの概要については特に書かれていない。天安門事件に直接・間接に関わった者たちがどのような想いでその出来事に臨んでいたのか、そして彼らのその後の生き様と現在彼らがどのように想っているのかが著者のテーマであり、天安門事件とは何かを探るのが本書の目的ではない。
 そこで、ここでは天安門事件についてざっとおさらいしておこう。この天安門事件とは、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死をきっかけとして、政治改革を求める学生を中心におよそ10万人の人々が天安門広場に集まり、政府に対する抗議運動を行い、ほどなく軍・治安警察により弾圧された出来事をいう。抗議運動は胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まり、当初は天安門広場内でデモ・集会が行われていたが、その後広場周辺にも拡大していった。
 そしてやがてが上海などの中国各都市へもそうした抗議活動が波及していった。これに対してケ小平の指示により5月19日に北京市に戒厳令を布告された。これにより武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちが学生たちに対しデモの平和的解散を促したが、紫玲などの強硬派の学生リーダーたちによりデモの継続が強行され、首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は戦車を北京の通りに繰り出し、デモ隊の鎮圧を開始した。軍・警察の弾圧により亡くなった犠牲者の数は明らかにされていないが、一説には1000名以上にのぼるのではないかとみられている。
 鎮圧後、中国共産党当局は多数の参加者と支持者を逮捕・拘束したが、中心的リーダーだった学生たちの多くは国外へと亡命した。また戒厳令布告に反対した趙紫陽総書記(当時)は全役職を解任され、2005年に死去するまで自宅軟禁下に置かれた。

 事件からまもなく30年近くが経つが、抗議運動に参加した多くは学生・教員たちであった。その意味では1970年代日本の全共闘運動に似ている。
 一般に天安門事件の抗議運動は政治改革を求める民主化運動として伝えられているが、運動として明確な目標や思想的背景があったわけではなく、改革派指導者胡耀邦への追悼運動が李鵬首相をはじめとする保守派指導者への不満や苛立ちへとなって燃え上がったという側面がある。そして学生たちをはじめこの運動に参加していたのは知識人階層であり、中国では彼ら知識人階層は自分たちこそものを言うべき存在だと伝統的に考えるいわば特権階級でもあった。「本当に求めていたのは民主よりも自由だった」と元北京大学教員で現在は旅行会社の経営者である徐明(仮名)氏が述べているように、それは民主化運動でもなんでもない知識人の自由、学問の自由を求める運動でもあったと考えている者もいる。もちろん、さまざまな学生たちが参加していたので、とても一括りにすることなどできないことはいうまでもないが。
 しかし、亡命した活動家の多くがその後何らかの形で祖国の体制改革・民主化運動に関わってきたことで天安門事件はいわば中国民主化運動の象徴として西側諸国に知られらるようになった。
 なかでも王丹、ウアルカイシなどはかつての運動の中心人物としてよく知られた存在である。王丹とウアルカイシは取材時には二人とも台湾にいた。王丹は北京大学の学生自治会の幹部で運動の中心にいたが、運動の過激化とともに天安門広場の主導権は彼やウアルカイシの手から離れて紫玲ら別のグループに移っていったが、今でも彼は運動の中心的リーダーとみなされている。
 ウアルカイシ、紫玲は直後に亡命したが、王丹は国内に残留して事件から1か月ほど後に逮捕されている。仮釈放、再逮捕を経て1998年のクリントン訪中の際の米中の政治的駆け引きの結果としてアメリカに亡命している。その後ハーバードで博士号を取得し、2009年からは台湾に移住して大学教員を勤めている。その後、2017年7月に再度アメリカに拠点を移している。王丹は台湾でも民主サロンを主宰し、大陸からの留学生との交流を続けていた。これからも彼は「活動を止めない」と名言している。彼はまさに筋金入りの民主化運動の闘士である。
 彼は、1994年日本の月刊誌『現代』7月号に天安門事件の総括を公にしているが、それによれば、運動の失敗の原因は以下の四点である。@思想的基礎の欠如、A組織的基礎の欠如、B大衆的基礎の欠如、C運動の戦略・戦術の失敗。つまり、運動はごく狭い知識人たちの運動にとどまり、指揮系統も要求内容も絞りきれず、したたかな交渉戦略も欠いたままいたずらに国家中枢の占拠を続けてしまった結果として敗北に至ったというわけである。
 奇しくも2014年に台湾で起こったヒマワリ学連はまさに王丹が総括した上記の四点をすべて克服して見事に政府にその要求を呑ませている。王丹はウアルカイシとともに立法院に立て籠もっていた学生たちに陣中見舞いをしている。リーダーの陳為廷が彼の教え子であったからであるが、ヒマワリ学連に関連して王丹が著者に述べた天安門事件は「『たとえ中国を変えなくても世界を変えた』といえるはず」という言葉はあながち大袈裟ともいえないだろう。
 他方ウアルカイシは、北京師範大学の学生自治会の幹部だったが、王丹を理論派だとするなら彼は天性の煽動家であった。ウイグル族系の血筋である彼は、今では相撲取りのような体格となっていたが、相変わらず話し振りは立て板に水のごとくで、人を惹きつける魅力があると著者は言う。ウアルカイシは自分たちの主張はたぶんに幼稚なところもあったが、自分たちは歴史により与えられた責任を果たそうとしたのだ、と述べている。ただ多くの犠牲者を出したことに対してはいまだに罪悪感を背負い続けている、それは一生続くものだ、と言う。彼は今台湾でビジネスマンとして働き、二児の父となり、その息子たちも天安門事件に参加した学生たちと同じ歳を迎えている。
 また、最後まで強硬派のリーダーで「父よ、そして母よ、悲しまないでください。たとえ死んでも悲嘆にくれないでください」「わが祖国への忠誠をこのような絶望的な方法でしか表せないことをどうかお許しください」という感動的な演説で有名となったあの紫玲は、著者とのインタビューには応じていない。彼女はアメリカに亡命したあと現地男性と結婚してIT企業の経営者となり、しばらく運動を離れ、その後キリスト教福音派の信仰を得て、2012年には「私は彼ら(ケ小平・李鵬や戒厳兵士)を赦す」という文章を発表したことで、多くの人々の困惑や反発を招いている。
 最後に日本でいまや保守系論客として活躍する石平にもインタビューしている。彼は天安門事件当時は日本に留学していて、日本で在日中国人留学生の連帯組織を作り、中国大使館にデモを仕掛けるなどの活動に参加している。しかしその後ほとんどの留学生たちは運動から離れて、今では中国で活躍している者も多い。石平はその後日本に帰化し、反中国共産党の立場から日本のジャーナリズムで活躍している。彼が八九六四の鎮圧に今でも相当な憤りとトラウマを抱いていることは、その後の著作からも伝わってくるが、ここ最近の彼の言動を見ていくと近年の日本でのナショナリズムブームに乗せられているような印象を受ける。そんな著者の懸念をよそに石平は「私が愛国者になったのは、ある意味で『自分のため』であった。自分の帰属感をみたすためであったともいえるのです」と答えている。必ずしも日本の右派論壇を援護するのが本意ではないという意味にもとれる。
 いずれにしても天安門事件当時は多くの学生・知識人たちが政府への異議申し立てに立ち上がったが、その後の中国ではそうした学生・知識人の動きはほとんど見られない。この点は、奇しくも全共闘運動以降の日本の状況と似ている。このような若者たちの従順さやシラケは、おそらくかつての学生運動の挫折体験が強すぎたからであろうと、著者は述べている。
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