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野家啓一『はざまの哲学』(青土社)
 著者は団塊の世代の哲学者で東北大学名誉教授。この本は著者の過去の論考から「はざま」というキーワードに沿ったものを12編集めてまとめたものである。
 「はじめに」と「おわりに」は本書の刊行にあって書き下ろされたものである。
 その「はじめに」のなかで、「はざま」という言葉はアイヌ語のハツサ(底)から来ているもので、古代の日本人がアイヌ人の居住しない「はざま」に水田を開き、境を接しつつ、いわば棲み分けをしていたのではないかという柳田国男の説を紹介して、そこから「はざま」をネガティブな意味でとらえるのではなく、「対立しつつ共存することを可能にする場所」というポジティブな意味でとらえ、さらに一歩進んで「隘路を切り開く突破口という含意をもった概念」として使いたいと述べている。つまり「はざま」の作法とは、背反するどちらか一方に定位するのではなく、その「はざま」に身を置いて新たな思索を紡ぎ出すこと、ということになる。
 例えば、現代哲学を代表する哲学書のベストスリーを挙げるとすれば、著者はL・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、ハイデガー『存在と時間』、そしてフッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を挙げると述べたうえで、フッサールはガリレオによる物理学的客観主義とデカルトによる超越論的主観主義の「はざま」に身を置き、近代哲学を構成する数々の二項対立概念の「はざま」を見据えながらその隘路を切り開こうとした哲学者であり、さらにハイデガーの『存在と時間』は存在者と存在のはざまを思索した書であり、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は言語と沈黙のはざまで思考をつきつめようどした書であると述べている。
 さて本書は、5つの「はざま」で構成されている。T.未知と既知のはざま、U.科学と哲学のはざま、V.言語と哲学のはざま、W.科学と社会のはざま、X.記憶と忘却のはざま、である。それぞれのテーマに沿った著者の論考が数編ずつ配置されている。
 特に印象に残った論考は、Vの言語と哲学のはざまの中にある「フッサール現象学と理性の臨界」である。
 フッサールはまさに最後のデカルト主義者ともいわれるように、デカルトの理性主義の系譜に置かれる。デカルトの「コギト」の概念の不徹底を乗り越え、さらにそれを突き詰めたうえで、いわゆる現象学的還元を経て、人間の理性を「超越論的主観性」と理解するに至る。これはデカルトにおいては主観の存在(理性)と客観的対象(対象物)は自明のものとされているが、それが自明であるということを一旦括弧に入れて、あらためて意識(理性)から独立した客観的存在が確かに存在するのかを突き詰めて問いただすというのが、現象学的的還元と呼ばれるものだ。まずは自明なものされている眼前の客観的世界の実在性に関する自らの確信について、一旦その判断を停止(現象学的判断停止 エポケー)して、あらためて意識(理性)と客観的世界の関係を捉え直してみると、どうなるだろうか。フッサールは、どんなに判断停止をしてみたところで、眼前の世界は意識に現れる「現象」として存在し続けることは疑いないと結論づける。とすれば、客観的世界を存在たらしめているのは我々の意識に現れる「現象」であり、その「現象」が意識に現れるのは意識が絶えず世界あるいは対象へと向かっているからだ、とフッサールは考えた。
 これを意識の志向性と名付け、この意識の志向性によって世界と意識は根源的な相関関係をもつことになる。この時、意識は対象を意識を超越した客観的存在として確信するのであるが、それは意識のこの志向性に支えられているのである。このように対象を意識から超越したものとして意味づけ、そのような存在性格を付与する意識の働きをフッサールは「超越論的」とよんだのである。こうして「超越論的主観性」という概念が生まれた。これはデカルトの「理性」とほぼ同義である。
 しかし、フッサールはこの新しい概念によってデカルトの曖昧さを超克したが、しかしデカルトの「コギト」(我思う故に我あり)が身体を持たない純粋な精神であったように「超越論的主観性」もまた人間の身体からもまた大地からも切り離されていた。しかし、やがてフッサールは「超越論的主観性」そのものが「身体」の機能によって根源的に条件付けられていることを認めないわけにはいかなかった。こうしてフッサールは最後の近代(モダン)哲学者で有るとともに、最初の脱近代(ポストモダン)哲学者となるのである。フッサールが思索したその足跡から存在論を軸にしたハイデガーが現れ、身体論を軸にメルロ・ポンティやサルトルの実存論的現象学が生まれた。そしてフッサールとハイデガーからデリダの脱構築が生まれ、ポストモダン哲学へと繋がっていくのである。  
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