著者橘玲(たちばな あきら)氏は、主として金融小説などを著している作家。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)で2017年新書大賞を受賞している。なお、本書では統計資料などもかなり頻繁に引用しているが、学者ではないのでそれほど堅苦しくは感じない。その反面、やや掘り下げが甘いと感じるところもあるのも否めない。 とはいえ、作家的感性で、現代社会の悲劇的ともいえる現実を鮮やかに抉り出してみせてくれている。
本書は、まえがき、PART1「下級国民」の誕生、PART2「モテ」と「非モテ」の分断、PART3世界を揺るがす「上級/下級」の分断、エビローグからなる。
PART1「下級国民」の誕生
1.平成で起きたこと まず、著者は平成の30年の間に日本がどんどん貧乏くさくなった事実を指摘する。経済指標が示す通り、一人当たりの名目GDPは、平成12年(2001)の世界2位を頂点に一時的に円高で多少の起伏はあるが、ほぼ坂を転げ落ちるように下降傾向を続け、平成30年(2018)には世界26位となっている。もちろんこの間、アベノミクスの金融政策で大幅な円安誘導が行われたためにドルベースでのGDPが低下したという面はあるが、アジアの各国と比較してみてもその水準はいかなるものであるかがわかる。たとえば、シンガポール(8位)、香港(17位)と大きく水をあけられ、いまや韓国(31位)にも追い越されそうなところにいるのだ。 加えて、日本人の仕事や会社に対する意識は、ほとんどのコンサルタント会社による調査結果によると、エンゲージメント(意欲・志向性)の評価が低く、いまや日本人のサラリーマンは仕事や会社に対して積極性や忠誠心を有していないという事実が浮かび上がってくるという。 そのうえ、日本の労働者の労働時間は、高度成長期に比べれば短くなったとはいえ、依然として長時間で、しかも一人当たりの生産額(労働生産性)は、主要先進7カ国では最下位が続いているのである。 つまり、日本のサラリーマンは、主要先進国で一番仕事が嫌いで、会社を憎んでいるが、一番長時間労働しており、それにもかかわらず、一番労働生産性が低い。それがかつての経済大国日本の「真の姿」なのである。 平成の30年間、保守派もリベラル派も、年功序列・終身雇用の日本的雇用慣行こそが日本人を幸福にしてきたと叫び続けてきたが、実は日本的雇用=日本の社会の仕組みこそが、日本人を不幸にしてきた元凶だった、と著者は言う。 1995年に日経連が公表した「新時代の『日本的経営』」では、今後の労働力を@長期蓄積能力活用型、A高度専門能力活用型、B雇用柔軟型の三つに分類しているが、このBにより有期雇用のパートタイム労働者などの雇用を拡大していくとしていた。この報告書は、グローバリズムの批判者からは「雇用破壊」の元凶とされることになるが、はたしてその批判に根拠はあるのか。著者は労働経済学者の神林龍『正規の世界・非正規の世界』に依拠して通説の検証している。 それによると、確かにバブル期前夜の1982年とバブル崩壊後の2007年で比較してみると、就業者に占める非正規の割合は1982年4%から2007年12%へと3倍に増加している。しかし、この間自営業の割合は1982年の14%から2007年には7%に半減していて、正社員の割合は46%で変わっていないから、非正規の増大は自営業から非正規へ労働者が流れて行ったことが分かる。 この結果、著者は通説とは異なり、「リストラ」が流行語になった時期にも、正社員を基盤とする日本企業の長期雇用慣行は全体としては温存されたという。 しかし、全体としてはそうであるが、年齢層でみると、かなり大きな変動がある。たとえば、若い女性(22〜29歳)の非正規の割合は1982年5%から2007年22%とおよそ4倍に増えている。その大半が無業者からの参入(1982年43%→2007年26%)と考えられ、この年齢層の正規労働者は微増しているのである。 他方で、若い年齢層(22〜29歳)の男性の場合正規の割合が減って(1982年75%→2007年62%)、非正規が4倍(1982年4%→2007年15%)に増大しているのである。正社員の雇用が破壊され、「非正規に置き換えられた」という通説はこの世代の男性にはあてはまる。くわえて、無業者の割合も増大(1982年10%→2007年16%)しているが、これにはニートの増大もその背景にあるとみられる。 これらの事実から平成の日本の労働市場では、若者(とりわけ男性)の雇用を破壊することで、中高年(団塊の世代)の雇用が守られたのだ、と著者は言う。
ところで、日本の一人当たりの実質GDP成長率は、1970〜90では平均年率で3.9%だったのが、1990〜2007では1.1%と大きく低下している。その要因は、日本人の労働生産性が低いからだ、と著者は言う。それはグローバル化によって労働生産性の高い規模の大きな製造業が日本から国外へ工場を移転させた結果であるという。その逆に雇用増大をもたらしたその多くは生産性の低いサービス業であったため、全体として労働生産性の低下がもたらされた。 他方で、労働生産性の高い製造業では、工場の海外移転にもかかわらず、日本的労働慣行のもとで正社員の雇用は守られ、正社員の新規雇用は控えられ、非正規に置き換えられて、労働コストの抑制効果が図られてきたのである。 また、日本企業の生産性が上がらない要因の一つとしてIT投資の成果が出ていないことが挙げられる。IT投資自体はけっして少ないわけではないが、日本ではソフトウェアの導入にあたってアメリカのように安価なパッケージソフトで済ますことはせず、ソフトウェアを会社の組織に対応させるためにカスタムソフトウェアを導入するケースが多く、そのため導入コストが高価なものとなり、ITの導入が組織の合理化や労働者の技術形成をもたらさず、さらには異なったソフトウェアを導入した企業間の情報交換の停滞も相まって、生産性の停滞を引き起こした、と言われている。 さらに言えば、日本的雇用システムのもとでは依然として労働市場の流動性が極端に低く、また生産性の格差は産業間の格差よりも同じ産業内の企業間で拡大しており、そのためたまたまた新卒で入った会社の業績によってその先の人生が大きく左右されてしまうのである。 日本経済の低迷の原因は、つまるところ「日本市場に魅力がないから」ということになる、と著者は言う。会社は「正社員の運命共同体」であるから、「いったん入ったら出られない」タコツボと化していまい、他方で金融危機や東日本大震災のような外的ショックが襲うとたちまち「就職氷河期」となり、若者が雇用から排除されてしまう。 このような社会では、リスクをとってビジネスをしても成功が見込めないため、開業率は低く、外資の参入も増えず、生産性の高い大企業は海外に出ていってしまった。これが、平成の30年で日本経済がゆきついた無残な姿なのである、と著者は言う。
2.令和で起きること 戦後の高度経済成長を支えた団塊の世代が中高年にさしかかる1995年には阪神淡路大震災と地下鉄駅構内サリン事件が起き、その頃からバブル崩壊の影響が広範囲に表れはじめ、やがて90年代末の金融危機へとつながってゆくことになる。 時の政府に課せられた最大の責務は「団塊の世代の生活を守ること」であった。こうして巨額の公的資金を投じて景気の下支えを図り、全国至るところに公共施設が建設されることになった。その結果、団塊の世代の雇用は守られたが、皮肉なことに彼らの子供たちである団塊ジュニアの雇用は破壊されたのである。 「労働力調査特別調査」によると2000年において失業者数が最も多いのは25〜34歳の85万人(うち中卒・高卒54万人)で、45〜54歳の50万人をはるかに上回っているのである。しかも、45〜54歳のうち大卒以上の失業者数は1割の5万人にすぎず、「働き盛りのリストラ」が声高に叫ばれたわりには中高年ホワイトカラーの雇用は極めて安泰であって、冷や飯を食わされたのは主に低学歴の中高年であったことがわかる。 1999年に社会学者の山田昌弘によって書かれた『パラサイト・シングル』は、親に寄りかかって優雅な生活を送っている若者たちを描き出し、彼らの大半を占めるフリーターも会社に縛られず自由な自己実現を目指す新しい生き方としてもてはやされたりしたが、実際のところ彼らの大半は正社員になれず仕方なくフリーターをやっているのが現実だった。 こうしてフリーターや非正規の若者はパラサイト・シングルとなり、やがて家にひきこもるようになる。「フリーター→パラサイト・シングル→ひきこもり」という現象は、1990年代半ばを起点として一直線に現在へとつながっているのである。 すでに見てきたように、若者から雇用を奪ってきたのは既得権益によって手厚く保護されてきた中高年、すなわち団塊の世代であるが、彼らは「中高年が若者の雇用を奪っている」という批判はとうてい受け入れがたいものであったから、「世代間格差をあおるのは世代間の分裂を狙うグローバリストの陰謀」だとか「正社員になれないのもすぐ辞めてしまうのも若者の自己責任だ」とかの大合唱を始めることになる。 この結果、日本では若者に対するきちんとした雇用対策がいまだになに一つといっていいほど行われていないのである。ヨーロッパでも、若年層の失業率は高い国が多いが、それでも政府は若者の失業率を減らそうと必死になって苦心惨憺している。日本とはまさに対照的である。 オランダでは、1996年にパートタイム労働とフルタイム労働の均等待遇が法制化され、「パート」は勤務時間が短いという以外「フルタイム」となんの違いもなくなり、さらに2000年には「労働時間調整法」が施行され、労働者側から労働時間の調整の要請があれば原則これに応じなければならなくなったのである。オランダの低い失業率と良好な経済パフォーマンスは、こうした雇用政策によって支えられてきたのである。 もちろん、すべてがオランダのようにうまくいっている国ばかりではないが、日本の場合は、あまりにも特殊である。とりわけ正規労働者と非正規労働者の格差は「身分」の違いといってもいいほどである。これに対して、まがりなりにも政府は「同一労働同一賃金を実現し、非正規という言葉をこの国から一掃する」と宣言し、「働き方改革」を推進する姿勢を見せているが、「リベラル」を自称する日本の労働組合はこれまで同一労働同一賃金に頑強に反対し、「日本には日本人にあった働き方がある」として「同一価値労働同一賃金」を唱えて、「正社員と非正規は同じ仕事をしていても労働の『価値』が異なるから、待遇が違うのは当然だ」とされてきたのである。これは、正社員と非正規は「身分」が違い、人間としての「価値」が違うと言っているのに等しい。リベラルを標榜する知識人たちもこのグロテスクな論理を批判しないばかりか、保守派とともに「日本的雇用を守れ」と非正規への身分差別を容認してきたのである。 マスコミも含め日本の企業や官庁、労働組合などを支配しているのは「日本人、男性、中高年、有名大学卒、正社員」という属性を持つ“おっさん”であり、彼らこそが日本社会の正規メンバーなのである。そんな”おっさん“の生活を守るためには「外国人、女性、若者、非大卒、非正規」のようなマイノリティ(下級国民)の権利などどうなってもいいのだ。 団塊の世代の雇用を守った平成が終わり、令和では2020年の東京オリンピックを境に団塊の世代はほぼ労働市場から退場するとこになり、それによってようやく「働き方改革」が進み始める、と著者は言う。2018年9月には経団連会長が企業の採用活動に時期を定める「就活ルール」を廃止すると発言し、2019年4月には経済同友会次期代表幹事が「新卒一括採用はやめた方がいい」と明言し、5月にはトヨタ自動車の豊田章男社長が「終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」と発言している。このように経営側の代表から日本的雇用の根幹を否定する発言がなされるのはこれまでは考えられなかったことである。 とはいえ、2019年6月に「高齢社会における資産形成と管理」と題した金融庁の報告書が炎上し、撤回されるという事件が起きた。「現役世代が退職後も同じように平均的家計を望むなら2000万円を目標に資産形成をした方がいい」という内容であるが、2000万円というのが一人歩きして大問題になった。70歳以上の高齢者で2000万円以上の資産を持っている割合は約3割で、全く資産を持っていない人々の割合も3割あり、高齢世帯は金融資産をほとんど保有していない3割と多額の資産を持つ3割に二極化しているのである。 資産を保有する層にとっても、資産を保有していない層にとっても年金は命綱であるから、年金受給問題に触れるのは政治的タブーであり、従って平成が「団塊世代の雇用(正社員)を守る」ための30年だったとすれば、令和の前半は「団塊の世代の年金を守る」ための20年になる以外にはないと、著者は言う。 団塊の世代が90代を迎える2040年には団塊ジュニアが前期高齢者となり、高齢化率は35%に達し、現役世代1.5人で高齢世代1人を支えることになるのである。これが高齢化のピークとなるが、その間に2026年には高齢者の5人に1人が認知症患者となり、その人数は施設の収容能力を大幅に超える730万人達するとみられる。2033年には東京の郊外にはゴーストタウンが広がり、3戸に1戸が空き家となり、全国半数近くの自治体が消滅の危機にさらされることになる。 これに対して、著者が話を聞いたある若手官僚は、政治家にとって団塊の世代は大事な票田であり、もはや政治に年金医療の抜本的改革を求めることは不可能であるから、これからは年金が破綻しそうになったら保険料を引き上げ、医療・介護保険が膨張したら給付を減らし、それでも駄目なら消費税を少し上げる。そうやって「ひたすら対処療法を繰り返す」しかないと半ば諦め顔でいう。それによって持久戦に耐えぬいても、待っているのは「下級国民」があふれるより貧乏くさい社会であり、持久戦に失敗すれば日本人の多くが難民化する「国家破産」の世界がやってくることになるだろう、と著者は言う。
PART2「モテ」と「非モテ」の分断
3.日本のアンダークラス 社会学者の吉川徹はその著『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(光文社新書)で、2015年に行われた大規模な社会調査「階層と社会意識全国調査」(SSP)をもとに現代日本人「のポジティブ感情」を分析している。ポジティブ感情とは、@自分が「上層階層」に属していると思うか(階層帰属意識)、A生活全般に満足しているか(生活満足度)、B現在どの程度幸せか(幸福感)、C自分の生き方は、おもに自分の考えで自由に決められると思うか(主観的自由)、と4つの指標で構成される。 これらの指標で、肯定的自己評価が高ければスコアが高くなり、低ければスコアは低くなる。そして、そのスコアを平均値50、標準偏差10の得点に変換し、男女、年齢(若年20代30代・壮年40代50代)、学歴(大卒・非大卒)で、8つのカテゴリーに分けてみると、以下のようになる。
1.女性 若年 大卒 52.07 2.男性 壮年 大卒 51.81 3.女性 壮年 大卒 51.72 4.男性 若年 大卒 50.75 5.女性 若年 非大卒 49.58 6.男性 若年 非大卒 48.81 7.女性 壮年 非大卒 48.69 8.男性 壮年 非大卒 47.94
ここから、次のような傾向があることがわかる。 @非大卒より大卒の方がポジティブ感情が高い A他の要素が同じなら男性より女性の方がポジティブ感情が高い(壮年大卒男性は例外) B他の要素が同じなら壮年より若年の方がポジティブ感情が高い(若年大卒男性は例外) そして、吉川徹氏は「現代日本社会は、(学校歴ではなく)学歴によって分断されている」として、若年ワーキングプア、正規・非正規格差、教育格差、勝ち組・負け組、上流・下流、子どもの貧困、結婚できない若者など次々に見いだされる現代日本の格差現象の正体は、じつはすべて「大卒学歴の所有・非所有」なのだ、という。つまりは、現代日本社会において、「下流」の大半は高卒・高校中退の「軽学歴」層であるという。この「軽学歴の男たち」の意味で、彼らを「レッグス(LEGs /Lightly Educated Guys)」と吉川徹氏は名付けている。なかでも、壮年非大卒男性が最もポジティブ感情が低く、社会学者の橋本健二氏も『アンダークラス あらたな下層階級の出現』(ちくま新書)の中で、「59歳以下の男性アンダークラス」の悲惨な実態を描き出している。 彼らの7割超が高卒以下の学歴で、未婚率が66.4%と際だって高く、40代以下の大半は「生涯未婚」になると推定されている。平均年収は213万円と少なく、貧困率は約3割、貯蓄を全く持たない世帯比率は42.5%にも上っている。仕事の内容に満足している人は18.4%で、収入に満足している人は5.9%しかなく、生活に満足している人も13.8%にすぎない。彼らこそ日本人男性の最下層を占める人々だと、橋本氏は述べている。
また、2000年代初めに行われたフリター調査を踏まえ、軽学歴フリターの若者たちは貧困ゆえに親からの放任によって学校からドロップアウトしたというよりも、むしろ親の多くは自分が低学歴で苦労してきたからこそ子どもには厳しい説教を繰り返すのだが、子どもたちは親の説教を聞き流して自らの意思でドロップアウトして「遊び」の世界に入っていくケースが多いという。その背景としては、経済成長と福祉政策によって貧困層にもある程度の生活水準や豊かさが享受されるようになったことが挙げられるという。 他方で、女性フリターの場合には、学歴や仕事への関心は薄く、結婚願望、専業主婦願望が強く、その多くは早婚、未婚出産の結果、やがて離婚→母子家庭へと貧困層へとまっしぐらに進んでしまうのである。 そして、こうした軽学歴フリターの若者が高校中退したり、進学しなかった理由の最も大きなものは「授業がわからない」からであり、学校はこうした学習困難生徒を救う手立て取ろうとせず、かえって選別し、弾き飛ばようになってしまっているのである。教育機関は、もはや社会を上級/下級に分断する「格差拡大装置」ともいえる、と著者は断じている。
4.「モテ」と「非モテ」の進化論 2015年の「階層と社会意識全国調査」(SSP)によると、「あなたはどの程度幸せですか?」という質問に「幸福」と回答した割合は男性67.8%、女性74.0%で、また「生活全般にどの程度満足していますか」という質問には「満足」と肯定的に答えたのは男性67.0%、女性74.1%といずれも女性が男性よりも高い結果が出ている。 社会学者の吉川徹氏は、その理由として「不安定性」の違いという点を指摘している。「不安定性」とは、@現在志向(将来のために節約・努力するよりも、今の自分の人生を楽しむ)、A競争不安(まごまごしていると、他人に追い越されそうな不安を感ずる)、B喪失不安(うかうかしてると、自分がこれまでに獲得したものを失ってしまいそうな不安を感ずる)の三点からその度合を見るもので、いずれの年齢別でも、男性の方が女性よりこの「不安定性」の度合が高くなっているのである。この違いが幸福度とも関連しているものと考えられる。 また、著者はとりわけ若い女性の幸福度が高いのは、若い女性は大きな「エロス資本(エロティック・キャピタル)」を持っているからだ、と述べている。このエロス資本は、年齢とともに減っていくので、壮年になるにつれて女性の場合は急速にポジティブ感情は低下することになる。 それでも女性のポジティブ感情が全体として男性よりも高いのは、女性の方が「つながり」をつくるのが上手だからではないかと、著者は言う。そこには、男女の性戦略の非対照性という問題が絡んでいると考えられている。つまり、男は、自分の遺伝子を後世により多く残すために相手を選ばず性交しようとする(乱交)が、女は妊娠・出産という問題を抱えているため、できるだけ多くの支援を長期的に得られるような相手を選ぼうとする(選り好み)。そのためには、男たちの「欺瞞」や「空約束」に対抗するための手段や武器が必要で、それが「情報交換」の技術を磨くこと、すなわち「つながり」を作る術を高めておくことであった、と考えられる。 ところで、著者によれば女がモテる最大の要素は「若さ」で、男の場合は「カネと権力」すなわち共同体内での地位であるという。男性の性淘汰では、「持てる者になる」(高い階級に達する)ことと、女性に「モテ」ることは一致する。 これに対して、女性の場合は社会的成功とモテるとは関係がない。これが女性は「階層帰属意識」が低くても、それが生活満足度や幸福感の低下に直結しない理由であるという。 戦後の日本社会では1970年代までは、男性(35〜39歳)の未婚率が10%以下で、30代になれば誰でも結婚するのが当たり前だったが、2015年には未婚率は35.0%と男性の3人に1人が40手前まで独身で、それにともなってを女性の未婚率も上昇したが、こちらは23.9%と4人に1人とどまっている。 かつての日本で婚姻率が高かったのは、社会が貧しく、共同生活を送らないと生きていけないからだったが、経済的に豊かになるにつれて未婚率は上昇してきた。しかし、男女で未婚率にこれだけの差があるのは、一部の男が複数の女性と結婚しているからだ、と著者は言う。もちろん重婚は認められていないのであるが、結婚と離婚を繰り返す「事実上の一夫多妻」が広がっているというのだ。 その一方で、非正規やフリターなどビジネスで成功できない「持たざる者=下級国民」は会社や共同体からも排除され、さらには性愛からも排除されてしまうのである。こうした「非モテの男」たちは、男社会のヒエラルキーの最下層に追いやられ、存在そのものを全面的に否定されるような過酷な状況に追いやられているのである。そんな「非モテの男たち(下級国民)」にとって「モテの男(上級国民)」とすべての女は自分たちを抑圧する“敵”にしか感じられないのである。これが、日本だけでなく欧米でも広くみられるミソジニー(女嫌い)の構造である。 荒川和久『超ソロ社会「独身大国・日本」の衝撃』(PHP新書)では、日本社会で急速に「ソロ化」が進んでいることが指摘されている。その著書では、2017年の就業構造基本調査に基づき、男女の年収別50歳時の未婚率が示されているが、それによれば男性は明らかに年収が低いほど未婚率が高く、年収が上がるにつれて未婚率は下がっていくことがわかる。女性の場合は、年収が最も低い100万未満が最も未婚率が低く、年収が上がるにつれて未婚率もゆるやかに上昇するが、これにより女性は年収が低いほど婚姻率が高く、年収が増えると婚姻率が低くなるとは必ずしもいえない。なぜなら女性の既婚者には専業主婦やパートタイマーなども含まれていて、そうした女性の年収は概ね低いからである。また、年収の増大に伴って未婚率が漸増するのは未婚の女性は頼れる相手がいないからこそ自ら稼がなければならないという事情があるわけである。 恋愛と縁のない若い男性は日本だと「非モテ」と呼ばれるが、アメリカだと「インセル(Incel=Involuntary celibate非自発的禁欲)」と呼ばれ、この言葉はネット世界に急速に広まった。2014年5月、エリオット・ロジャーという若者がカリフォルニア州サンタバーバラで無差別発砲し、6人を死亡させた事件では、この22歳の童貞ロジャーは自らを「インセル」と名乗り、自分を相手にしない女性への復讐が目的だとユーチューブに犯行声明を出したのである。この事件によってロジャーはインセルの「神」に祀りあげられ、その後アメリカでは2015年以降インセルによる銃の乱射事件が相継いでいる。インセルの世界では「モテ」はチャド(Chad)と呼ばれ、魅力的な女性はステイシー(Stacy)と呼ばれて、チャドとステイシーの恋愛ゲームから自分たちは排除されていると彼らは思っているのだ。チャドは、男性の上位20%で、そこに女性の80%を占めるステイシーが群がっている。その結果、男性の80%を占めるインセルが、わずかに残された20%のそれほど魅力のない女性を奪いあわなければならなくなるのである。 アメリカのインセルのほとんどはトランプ支持者で、彼らは白人でありながらアンダークラスに追いやられた「プアホワイト」で、インセルと全く同じ自己意識を有している。これは実はアメリカだけの現象ではなく、イギリスのブレグジットにせよ、フランスの黄色ベストデモにせよ、先進国を中心に社会を揺るがす出来事の背景にはつねに「マジョリティの分断」があり、日本も例外ではない。 恋愛の自由市場の中で男はきわめて強い競争圧力にさらされ、その結果「非モテ」の男性は性愛から排除されることで人生をまるごと否定されるかのような思いにとらわれることになる。にもかかわらず、LGBTのような「見えやすいマイノリティ」ばかりが声高に取り上げられ、「マジョリティのアンダークラス」である「非モテ」の存在は黙殺されてきた。評論家の御田寺圭は『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』(イースト・プレス)の中で、捨て犬の保護施設では、毛並みの明るい小柄な犬は比較的容易に引き取られていくが、大きく黒い犬は引き取り手が限られ、ほとんど殺処分となることから、これを「大きく黒い犬」の問題と名付けた。現代社会では、「非モテ」の男性こそ「大きく黒い犬」だというわけだ。 こうした「インセルの反乱」は日本だけでなく、いまや先進国の共通の現象になりつつある。2016年5月には韓国でも、ソウルの繁華街にある商業ビルのトイレで、当時23歳だった女性が見知らぬ男によって刃物で何十回も刺され殺される事件が起きた。その犯人が、逮捕された時に警察官に「社会生活で女性に無視された」と語ったと伝えられ、韓国社会に大きな衝撃を与えた。 そうした事件の一方で、日本ではつい先頃、元農水事務次官の父親が44歳のひきこもりの長男を刺殺するという事件が起こったが、ネットではその父親に対して「よくやった」と賞賛の声が寄せられている。社会からも性愛からも排除された男が復讐すると「神」になり、そのような男を共同体から排除すると「英雄」とみなされるのである。
PART3 世界を揺るがす「上級/下級」の分断
5.リベラル化する世界
人類史を振り返ってみると、ホモサピエンスが誕生してからおよそ50万年経つが、今から約10万年前には、原生人類(サピエンス)とネアンデルタール人を合わせてもおよそ50万人ほどで、サピエンスがユーラシア大陸全体に拡散した1万2000年前(氷河期の終わり)でも、世界人口はおよそ600万人程度であったと推定されている。 それが、紀元前1万年前から西暦元年あたりまでに間に起こった農業革命によって世界人口は100倍ほどにも増加したと推定されている(人口爆発)。その間に生産力も増大したが、人口も増大したため、一人当たりの富は産業革命が起こる18世紀半ばまでほとんど変わらなかったとみられている。 しかし、18世紀半ばに始まった産業革命は、「豊かさの爆発」を引き起こした。一人当たりの富は、まさにウナギのぼりに上昇を続けてきたのである。産業革命は、同時に技術革新と知識革命をもたらし、近代(モダン)という、それまでの歴史世界とは異なる「アナザーワールド」を出現させたのである。 そして、産業革命後の18世紀半ばから20世紀初頭までを「前期近代」といい、この時代は科学技術による豊かさの追求が中心で、富が土地・資源(領土)と結びついていたため、先に近代化を果たした国々が他国を侵略し、植民地化するという植民地主義(帝国主義)がはびこった。それが結局は列強国同士の戦争を引き起こし、二つの世界大戦へと至るわけである。そして、この世界大戦は、数千万人という死者を出し、人類はアウシュビッツとヒロシマを経験してようやく「戦争の世紀」に終わりを遂げたのである。 戦後は東西冷戦と言われた厳しいイデオロギー(思想的)対立の時代もあったが、大量の核兵器を保有する米ソ超大国のもとではもはや大国間の戦争は不可能となり、国家の存在意義は、領土の拡張から経済成長=国民の豊かさへと変わった。これが「後期近代」の始まりであり、「福祉国家」の誕生である。 とりわけ西側先進国はアメリカを中心とする自由貿易によって空前の繁栄を実現し、一般の庶民でさえもとてつもない豊かさを手にすることになったのである。 こうした豊かさを背景にして、価値観の大きな転換が起こった。それは、一言でいうなら「わたしの人生は私が自由に選択する」というものである。18世紀半ばの産業革命によって豊かさの相転移(劇的変化)が起きたとすれば、20世紀半ばには、価値観の相転移が起き、人びとは「自由な社会」というアナザーワールドを生きるようになったのである。 著者は、政治的自由を「Liberty(リバティ)」と呼び、「自由な社会」を目指す運動を「Liberal(リベラル)」と呼んで区別している。こうしたリベラルの運動は、1960年代末のアメリカでベトナム反戦運動、公民権運動、ヒッピーカルチャーとなって若者を中心に高揚し、やがて日本やヨーロッパにも拡大していった。そしてこうしたリベラルの運動は、やがて男女の平等を求めるウーマンリブやフェミニズムへと広がっていった。 後期近代の中核に位置する価値観は、「自分の人生を自由に選択する」という自己実現であるが、これは「平等」という価値観と結びつく。なぜなら「他者の自由を認めなければ自分の自由もない」からである。リベラルの価値観のもとでは、「私が自由に生きているのだから、私の利益を侵さない限り、あなたも同じように自由に生きる権利がある」と考える。従ってすべての人が自己実現の権利を持つという考えからすれば、国籍や人種、性的志向など「自分ではどうしようもない属性」によってその人の自由を奪うことは許されないということになる。こうしたリベラルの考え方は、いまや国際的な潮流になっているのである。 このようなリベラルな社会は、前近代の身分制に比べれば、もちろん素晴らしい社会であるが、他方でリベラルの負の側面も認識しておく必要がある。自己実現と自己責任はコインの表裏であること、自由が共同体の解体へとつながることである。 リベラルな社会では人種、出自、宗教、国籍、性別、年齢、性的志向、障害の有無などよる差別はいっさい認めない。なぜなら、それが本人の意思や努力ではどうしようもないものだからだが、反面で「本人の意思(やる気)で格差が生じるのは当然だ」「努力は正当に評価され、社会的な地位や経済的ゆたかさに反映されるべきだ」という能力主義(メリトクラシー)が強まることになる。自由(自己実現)と自己責任が光と影であることは、フランスのサルトルが『存在と無』(1943年)のなかでいち早くこう指摘している。 「人間は自由の刑を宣告されている。なぜなら、いったんこの世に放り込まれたら、人間は自分のやることなすことのいっさいに責任を負わされるからだ。人生に意味を与えるかどうかは、自分次第なのだ」 こうした「自己実現=自己責任」の論理は、1960年代以降アメリカで「自己啓発」として花開くことになる。自由な社会で「自分らしく生きる」ことを称賛するこの考えは、人生は自らの力で切り開くものであり、そこから得られる達成感こそ至高の価値とするものである。 北欧は、世界で最もリベラルな社会と言われているが、スウェーデン、デンマーク、オランダなどでは国家(社会)と国民(市民)の関係はギブ・アンド・テイクで、「社会に貢献してる者だけが社会からの給付を受けられる」という価値観が急速に広まっている。社会がリベラルになればなるほど、選択の結果は本人が引き受けなければならない。つまり、誰もが自己実現できるリベラルの理想世界は、究極の自己責任の世界なのである。
同時に、個人の自由(自己実現)を最大化するリベラルな社会では、価値観の多様化は避けられず、それぞれの利害も異なるようになって、それまでのコミュニティがいたるところで解体・変質をまぬかれないことになる。欧米における教会を中心としたコミュニティがそうであり、日本でも町内会、労働組合、PTAといった「中間団体」でさまざまな問題が噴出している。 他方で、ますます複雑化する社会のなかで人びとは、個に閉じこもるようになる。その結果として先進国の都市部を中心に「ソロ化」が急速に進んでいるのである。
このようにゆたかさを背景にして社会が大きく変わりつつあるなかで、「わたしはわたし」という個人化された社会では生き方のモデルが大きく変わり、すべてのひとが個人でリスクを負わなければならなくなる、とドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは『危険社会 新しい近代への道』(法制大学出版局)の中で述べている。そうなれば、ハイリスクな人生を「自由意思で」選択した個人のなかから多くの「負け組」が出ることは避けられないが、かといってもはやかつての身分制社会に後戻りすることもできない以上、私たちは「リスク社会」を生きるほかはないのである。 また、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは『近代とはいかなる時代か? モダニティの帰結』(而立書房 1990年)で、「再帰的近代」という概念を提示し、前近代的な身分制社会では、自分が何者かの定義は「身分」によって決まっていたが、「身分」がなくなった後期近代では、「自分を定義するにあたって自分を参照する」ことになるという。つまり、「自分は何者か」を問う時に、外部の基準がなくなってしまえば、あとは内部(自分自身)を基準にする以外ない。こうして「自分で自分を参照する」再帰的近代では、人びとは「自分らしさ」にこだわり、「ほんとうの自分」を探し続けることになる。 また、前期近代においては、資本家と労働者という階級対立があり、失業は個人の問題ではなく「階級問題」だという「大きな物語」があったが、後期(再帰的)近代では、労働者も自由な意思を持つ「個人」であって、「労働者階級」という自己認識を持たず、経済的な成功も失敗も個人の責任の問題とみなされる。かつてのプロレタリアートは、もはや階級や社会階層を構成しない「プレカリアート」と呼ばれるようになる。そして経済的苦境も個人の生き方の問題とされ、本人たちも「自己責任」を内面化していく。 こうして「社会」から「個人」へと視点が変わる再帰的近代では、「自己」を正しく把握・管理することが重要になり、そこから人びとは「自己分析」「自己コントロール」によって自己の価値の最大化を目指す「キャリアビルディング」に励むようになる。 その一方で、イギリスのリーズ大学のユダヤ系社会学者ジークムント・バウマンが『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(大月書店)などで明らかにしたように、リベラルな社会では伝統的なコミュニティ(共同体)は解体し、人びとは液状化し、やがて液状化社会(リキッド・モダニティ)の最下層を構成する人たちは社会から「ポイ捨て」されることになる。バウマンが指摘した「ポイ捨て人間」とは、難民やホームレス、失業者、そしていつ解雇されるか分からないエリート・ビジネスパーソンまで多岐にわたる。このように「液状化」した後期近代(リキッド・モダニティ)は人びとが自由に生きることができる社会ではあるが、つねに誰かを排除し続けなくては「秩序」を保つことができない社会なのである。人類史上未曾有の繁栄の陰では「余分な」ひとたちが廃棄物処理場に送られ、リサイクルされ、ゴミ山にポイ捨てされているのである。 このようにみてくると、ベックの「リスク社会」、ギデンズの「再帰的近代」、バウマンの「リキッド・モダニティ」は、いずれも同じひとつの現象について述べている。すなわちそれは「自由な個人が自己実現する」という、これまでの人類史ではあり得ない「異常」な体験であり、この体験は1980年代には「ポストモダン」(近代以降)と呼ばれたが、それは間違いである、と著者は言う。なぜなら、この体験は「近代(モダン)という理念(自己実現と自己責任)の完成形」にほかならないからである、と。 そして、この「高度化した近代」が液状化=流動化するのは不可逆的であり、もはや後戻りすることはありえない。だとすれば、コミュニティの解体はこれからもますます進行し、人間関係は学校、会社、軍隊などの固定的なものから、ネット上のコミュニティのような即興的なものに変わり、仕事もフリーエージェントが集まってプロジェクト単位で行われるようになっていくはずである、という。 こうした劇的な変化に適応できないひとたちがあちこちに吹きだまり、社会を大きく動揺させることになる。その結果、「上級/下級」の分断を加速させる後期近代の光と影はますますくきっきりと見えくるのである。
6.「リバタニア」と「ドメスティックス」 産業革命とともに知識社会が成立すると、技術は指数関数的に「進化」し、その結果、テクノロジーは人びとの理解を超えたものとなり、いまや平均的な人間の適応力をも超えようとしている。こうして最先端のテクノロジーを開発する少数の知識層(その象徴がシリコンバレーの起業家)に莫大な富が集中する一方で、基礎的な技術を理解することはもちろん使いこなすことすら困難な「デジタル難民」が大量に生み出されていく。 テクノロジー爆発によってとてつもなくゆたかな「知識社会」が到来すると、人びとは共同体のくびきから逃れ、一人ひとりが自由な意思によって自己実現を目指すようになる。これが「リベラル化」である。また、進化したテクノロジーは、国境を越えたヒト、モノ、カネの移動を可能にする。これが「グローバル化」であり、このように「知識社会」「リベラル化」「グローバル化」は三位一体の現象なのである。 他方で、1970年代以降現れた右傾化は、「反知性主義、保守化、排外主義」を掲げていたが、これはヒッピーカルチャーにみられるドラッグ、フリーセックス、極端なアファーマティブアクションなどへの反発や行き過ぎた「知識社会化、リベラル化、グローバル化」に対するバッククラッシュ(反動)という面を確かに持っていた。 しかし、こうした右傾化によってリベラルが「敗北」したかというと、全くそんなことはない。むしろ、ヒッピーカルチャーにどっぷり浸かっていたアップルの創業者スティーブ・ジョブズがアメリカだけでなくいまや世界の最も影響力のある偶像となっているように、ヒッピー的なライフスタイルを取り入れた若い富裕層(ニューリッチ)は「ボボズ(BOBOs)」=「Bougeois-Bohemian」(ブルジョア・ボヘミアン)と呼ばれ、これは、もともと社会的責任を逃れ享楽的に暮らすフランスの若いエリートを揶揄する言葉であるが、今では西海岸に台頭する新しい富裕層に使われ、彼らはジーンズやTシャツなどカジュアルな服装を好み、会社に所属するのではなく、フリーエージェントとして好きな仕事をし、休日は自然の中で過ごすことを好む。こうしたボボズのライフスタイルが、いまや世界中に広まりつつあるのだ。彼らは、政治的にはリベラルで、トランプのような「ギラギラした金持」を軽蔑し、テクノロジーによる「よりよい未来、よりよい世界」を信じている。このように「ヒッピーカルチャーの勝利」はますます明らかになりつつあるのだ、と著者は言う。
世界がどんどん「リベラル化」しているにもかかわらず「右傾化」しているように見える理由として、もうひとつは先進国を中心に「知識社会」に適応できないひとたちが増えていることが挙げられる。 テクノロジーの進歩によって、仕事に要求される技能・知識のハードルは高くなる一方で、単純労働は人件費の安い国外やあるいは移民労働者へと置き換えられていって、従来の自国労働者が「ポイ捨て」されてしまうのである。その影響がもっともはっきり表れたのは、シリコンバレーが「知識社会化」を牽引するアメリカであった。 トランプを熱狂的に支持する白人のブルーカラーの人びとは、「プアホワイト」とか「ホワイトトラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれている。彼ら低学歴層の白人の死亡率は、全国平均の二倍以上であり、彼らはまさに「見捨てられた人びと」で、トランプはそれを「発見」して熱烈な支持者に変え、強大な権力を手にしたのである。 ところで、アメリカでは経済格差が極端に拡大しているが、これはけっして「強欲な資本主義」による結果ではなく、たんに市場規模が大きいからだ、と著者は言う。著者によれは、世界の根本原理は、フラクタル(複雑系)であり、洪水や地震、株式の値動き、宇宙の銀河団の配置に至るまでこの「根本原理」が支配している、という。 この複雑系の原理によれば、不確定要素が大きい事象においては、通常みられるような「正規分布」は成り立たず、ほとんどの事象は平均近く(ショートヘッド)に集まる一方で、頻度は低いが平均値がほとんど意味をなさないようなスケールの大きな事象も一定程度起こる(ロングテール)「ベキ分布」と呼ばれる特異な分布を示すと言われている。富の分布もこの「ベキ分布」を示すので、格差の拡大は必然であると、著者は言う。 そして、著者はネットワークの拡大による格差の広がりは「悪」ではなく、「よいこと」であると述べ、「GAFA」のような「勝ち組」が牽引することで、インターネットはますます使い易いものになり、すべてのユーザーがその恩恵を受けている、という。また、世界の富が増大した結果、膨大な数のひとたちがそこから利益を得ていて、その結果、グローバル化によって数億人が貧困から脱出したことで、世界全体における不平等は急速に縮小している(ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』)、と著者は言う。ただし、世界が「全体として」ゆたかになった代償として、先進国の中間層が崩壊したのである、と。 1990年代初めに、クリントン政権の労働長官を務めたリベラル派の経済学者ロバート・ライシュは世界的ベストセラーとなった『ザ・ワーク・オブ・ネイションズ』(ダイヤモンド社)で、「グローバル化」と「知識社会化」がアメリカの中流階級を崩壊させると警告していた。ライシュは、将来のアメリカ人の仕事は、@ルーティン・プロダクション(定型的生産)、Aインパースン(対人)サービス、Bシンボリック・アナリスティック(シンボリック分析的)サービス、に分かれると予測したが、1990年当時と2014年の就業実態をみると、@の仕事に従事する人びとは1990年では雇用全体の25%程度であったが、2014年には20%以下となっていて、賃金の中央値は15%も減少していた。それに対してAの仕事に従事する人びとは1990年ではおよそ30%であったが、2014年には50%近くに達していて、賃金の中央値も1990年の水準を下回っていた。一方、Bの仕事は「知的でクリエイティブな仕事」で、これに従事する人びとは1990年では約20%であるが、ライシュの予測した通り、この仕事の従事者はその後も増大し、そしてとりわけこの層の賃金の上昇は著しく、アメリカの富は、この層に属する人びとに集中する結果となっている。 いまや、アメリカでは最富裕の上位400人が所有する富が下位50%の富の合計を上回り、上位1%がアメリカの個人資産の42%を所有している。ライシュは、そこで大企業や高所得者から税を徴収し、それを原資に公教育を立て直すことをめざしたが、ライシュの期待に反して、アメリカでは低所得の子どもと高所得の子どもの学力差は拡大する一方であった。この事態に対して、教育は無力なばかりか、経済格差をさらに拡大するように働いていたのである。 こうして、アメリカではBの仕事に従事する富裕層と呼ばれるいわゆる「新上流階級」の人びとと、低所得の「新下流階級」の人びとでは住む場所も異なり、いわゆる棲み分けが進んでいる。保守派の政治学者チャールズ・マレーは、アメリカのヨーロッパ系白人で、大学・大学院を卒業した知識層と高校を中退した労働者層とで、その後の人生の軌跡がどのように異なるかを膨大な社会調査のデータから検証したうえで、認知能力において上位20%の新上流階級が暮らすベルモントと下位30%の労働者階級が住むフィッシュタウンという架空の町を設定し、それぞれの「暮らしぶり」を見てみると、いずれの基準でもベルモントにはフィッシュタウンよりも圧倒的に高い割合で「幸福の条件」がそろっているという結果が出ると述べている。 このフィッシュタウンに相当するペンシルベニア州フィラデルフィアの低所得者層の暮らしぶりを見てみると、日本におけるアンダークラスの人びとの暮らしぶりときわめて酷似していることが分かる。そこでは、女性は、早婚で、母子家庭が多く、男は定職を持たずブラブラしていて、酒やドラッグにおぼれ、コミュニティは崩壊して、町全体が「新下流階級」へと落ちてしまっているのだ。先進国では、どこも同じことが起きているのである。
リベラル化の大潮流のなかで、アメリカでは「白人至上主義者」が「自分たちは人種主義の犠牲者だ」と主張するようになった。中産階級から脱落しかけている白人ブルーワーカーたちは、東部や西海岸のエリートからバカにされ、アファーマティブアクションによって黒人からも「抜け駆け」されて今や自分たちこそ「被害者」だと思っているのだ。ヨーロッパでも、排外主義の政党・政治家に票を投じる白人は、押し寄せる移民によって自分たちの仕事や権利が奪われるのではないかと怯えている。こうしてマジョリティである白人がアッパークラスとアンダークラスに分裂することになる。 とりわけアメリカのプアホワイトあるいはホワイトトラッシュと呼ばれる白人たちは、自分が白人であるという以外に誇るものがなく、その結果「白人至上主義」へと傾斜していく。そしてトランプ支持のプアホワイトたちは黒人やマイノリティに寛容な白人リベラルを激しく憎悪しており、こうしてアメリカ社会は「上級国民(白人リベラル)」と「下級国民(プアホワイト)」の分断によって収拾のつかない政治的混乱に放り込まれることになったのである。 さらに、サイバーリバタリアンと呼ばれる自由至上主義者たちの多くはシリコンバレーの起業家・投資家やエンジニアであるが、経済的にはリベラルよりも裕福で、プアホワイトとは全く共通点はないが、「政治的正しさ」(PC=ポリティカル・コレクト)ではなく、「科学(テクノロジー)」を優先することで、しばしばリベラルと対立する。その代表格がトランプ支持のピーター・スティールでかつてテスラ率いるイーロン・マスクと一緒に手掛けた金融ベンチャーで大富豪となり、いちはやくフェイスブックに投資し成功を収めたことで伝説となった人物である。彼は、リベラル派の主張するポリティカル・コレクト、すなわち性別や人種による一切の差別は不当であり、すべての人間の能力には生得的な違いはなく教育により誰もがその可能性を有している、という考えを厳しく批判している。 ピーター・ティールは、その著『ゼロ・トゥ・ワン』(NHK出版)で、「ダーウィン主義はほかの文脈では筋の通った理論かもしれないけれど、スタートアップにおいてはインテリジェント・デザインこそが最適だ」と述べ、「宇宙や自然界の神秘は科学だけでは説明できず、知性ある(インテリジェントな)なにかよってデザインされた」とも主張し、この反理性的な信念を、”神“から特別な才能を与えられた者たち(ギフテッド)がテクノロジーのちからによって世界を「デザイン」するのだと読み替える。これがティールの言う「インテリジェント・デザイン」という考えであり、ここに彼の危険思想が見事に現れている。 「サイファーパンク」「クリプト(暗号)アナキスト」とも呼ばれる「知能至上主義者」たちが、中流から脱落しつつあるトランプ支持の「プアホワイト」の陰謀論者たちを引き連れ、ポリティカル・コレクト(PC)のきれいごとをまき散らす「エリート主義」のリベラルと敵対する。この異様な構図が知識社会の深い「闇(ダーク)」を象徴している。(木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』イースト・プレス)
サイバーリバタリアン(勝ち組)とプアホワイトが手を組むのは、「敵の敵は味方(リベラルへの憎悪)」からだという考えもあるが、社会学者の片岡えみ氏は「誰が教師を信頼しているのか」という論文で、「自己中心的な親ほど学校や教師に無理難題を要求する」という通説を検証しているが、ここでいう「自己中心的」とは「他人に迷惑をかけなければ、なにをしようと個人の自由だ」という価値観で、日本ではとかく批判的に受け取られがちであるが、欧米では「自由主義」の大原則でリバタリアンの多くはこのように考える。 そして、片岡えみ氏は、この「自由主義的価値観」が性別と学歴によってどのような違いがあるのかを明らかにしている。それによると、女性では、学歴が低い中卒者が一番高く(肯定的)、学歴が上がるにつれてほぼ低下傾向を示すのに対して、男性の場合は、中卒者が最も高く、専門学校卒者までは低下傾向を示すが、そこから反転して、学歴が上がるにつれて上昇していき、大学院卒では高卒よりも高くなるのである。ここから分かるのは男性においては、中卒・高卒の低学歴層と大学・大学院卒の高学歴層が自由主義の価値観を共有しているということである。これは、日本だけでなく、アメリカのリバタリアンも同じで、「自分の好きなように生きる」という人生観においてヤンキーとエリートはよく似ているのである。 ヤフーニュースに対して寄せられるネットの膨大なコメント(ヤフコメ)を分析した文化人類学者の木村忠正氏は、ヤフコメの特徴は、「嫌韓・反中」や「反日・売国奴への批判・攻撃」で、それは理性的な批判というより直感的情動といってもよく、そこにはある種の気分(道徳的感情)が働いていて、こうした気分によって形成されるネット世論を木村氏は、「非マイノリティポリティクス」と名付けている。「非マイノリティ」とは、「マジョリティとして十分な利益を享受していないと感じている人びと」のことで、要するに、彼らは「生活保護」「ベビーカー」「少年法(未成年の保護)」「LGBT」「沖縄」「中韓」「障害者」などあらゆるマイノリティ保護に対する批判的・非寛容の立場から、マイノリティの人権の主張を「弱者利権」「被害者ビジネス」とみなし攻撃しているのである。これは、まさに「マジョリティのアンダークラス」の人びとの意識と同じである。 アメリカでも日本でも、おそらく世界中で「主流派(マジョリティ)」の分断が進んでいるが、それはすべての社会が「知識社会・リベラル化・グローバル化」の強大な圧力を受けており、そこから膨大な数の人びとがこぼれ落ちているからである、と著者は言う。
イギリスのジャーナリスト、デイビッド・グッドハートは、先進国のマジョリティは、二つの種族に分断されると説いた。すなわち、「エニウェア族(Anywhere)」と「サムウェア族(Somewhere)」である。エニウェア族は、仕事があればどこにでも移動して生活できる人びとで、大学に進学し、専門職につき、進歩的な価値観を身につけ、成果主義や能力主義にも適応でき、グローバル化や欧州統合にも賛成し、移民や同性婚にも寛容である。一方、サムウェア族は、中学・高校を出て地元で就職・結婚して子どもを育てている人びとで、個人の権利より地域社会の秩序を重視し、宗教や伝統的な権威を尊重する「ふつうの人びと」である。 イギリスのブレグジットによってエニウェア族とサムウェア族の分断が明らかになったわけであるが、それはもはや現代社会が人種や民族、宗教によって分断されているわけではなく、高学歴層の新上流階級(エニウェア族)と低学歴層の新下流階級(サムウェア族)という形での「知能」による分断が進んでいるということを示すものであった。 著者は、このエニウェア族(新上流階級)を「リバタニア」、サムウェア族(新下流階級)を「ドメスティックス」と名付けている。そして、「リバタニア」は、「白人」や「黒人」「キリスト教」「イスラーム」などひとつのアイデンティティに過剰にこだわる「アイデンティティ主義者」を嫌い、国境を越えた仮想コミュニティを自分たちでつくるようになる。他方で、アメリカの白人主義者や日本のアイデンティティ主義者などの「ドメスティックス」は、白人であること、日本人であること以外に誇示するものがないから、彼らは、「反移民」や「嫌韓・反中」を叫び、ひたすらアイデンティティやナショナリズムにこだわるのである。 東アジアでは、日本と同じように韓国にも、中国にも「反日」を叫ぶアイデンティティ主義者がおり、互いに憎み合っているが、その一方で東アジアにもリバタニアは広がっており、グローバル企業で働く日本人は、国内の「ネトウヨ(ドメスティックス)」よりも、韓国や中国のリベラルなビジネスパーソンに親近感を抱くであろうし、また韓国や中国のリベラルも国内のドメスティックスよりも日本のリベラルに親近感を感じているはずである。 このように「知識社会化・リベラル化・グローバル化」の大潮流のなかで、「リバタニア」というグローバルなリベラル(自由主義者)の仮想共同体と、国や人種・民族、宗教ごとに分断された多くの「ドメスティックス」が生まれつつある。 こうした状況が最も先鋭化しているのがアメリカで、トランプが再選されれば、アメリカの「リバタニア」は、自分たちの社会に興味を失うであろう。また、イギリスのリバタニアもEU離脱派の「ドメスティックス」をもはや同胞とはみなさなくなり、彼らはインターネットのバーチャル空間で「リバタニア」とつながり、また国境を越えてビジネスしたり、バカンスを楽しんたりするようになるであろう。つまり「ボボズ(リベラル)」たちが現実世界から撤退しはじめるのである。 もちろん、これはアメリカやイギリスだけでなくなく、フランスもイタリアもそして日本も例外ではない。これこそが、私たちが今体験している「リベラル化する世界の分断」なのである。
エピローグ 知識社会の終わり
アメリカの白人至上主義者は、「自分が白人であること以外に誇るものがない人たち」であるが、これは人種という「自分が最初から持っていて、相手がそれを手に入れることがぜったいに不可能なもの」をアイデンティティ(共同体への帰属意識)としている点で、「男性であること」をアイデンティティとする男性優越主義者と似ているところがある。 これに対して、日本で「ネトウヨ」と呼ばれる「日本人であること以外に誇るものがない」愛国原理主義者の場合は、国籍をアイデンティティとしていて、国籍は変更可能であるから、彼らは意に添わない者たちを「在日認定」して、「日本人でないもの」の側に排除し、帰化して「日本人」にならないよう外国人(地方)参政権に強硬に反対し、「朝鮮半島にたたき出せ」と叫ぶのである。 現代社会を蝕む病は、脆弱なアイデンティティしか持てなくなった人たちが増えていることで、その結果として世界中のあらゆる場所でアイデンティティが不安定化し、憎悪がぶつかり合う事態となっている。その背景には「格差」が拡大し、社会が「分断」されていることがあるが、それはまた「後期近代」のとてつもなくゆたかな世界が、知識社会化・リベラル化・グローバル化の「三位一体」の巨大な潮流を生み出し、この「とてつもない変化」が、先進国諸国において同時多発的にこうした「問題」を引き起こしているともいえるのである。 産業革命以降の知識社会は、論理・数学的能力と言語運用能力を持つ者が富と名声を独占する人類史上きわめて異常な社会であり、このような急激な変化に対応できない人びとがそこからこぼれ落ちていくことは避けられない。知識社会における経済格差とは、「知能の格差」の別名でしかないのである。 そして、知能の生得的な違いは、現代社会における最大のタブーで、これまで「言ってはいけないこと」とされてきたが、世界中でポピュリズム運動が台頭するに及んで、いよいよこの問題から目を背けることができなくなった。トランプ現象にせよ、イギリスのブレグジットにせよ、ポピュリズムとは「下級国民による知識社会への抵抗運動」だからである。 この困難な問題に、いったいどう対処すればいいのか。著者自身にも、妙案があるわけではないが、ひとつだけ確かなのは、フランスの黄色いベストのような「左派ポピュリズム」「マルチチュード(連帯しない群衆)」とかの運動には、問題の解決につながるなんらの「希望」も見出すことはできないということである、と言う。そして、20世紀の革命運動が無残な結末を招いたあと、残された希望は、「テクノロジーによる設計主義」だけだ、と著者は言う。 この「設計主義」には、大きく「右派」と「左派」に分けられる。「自由」を尊重するサイバーリバタリアン右派は、個人に「正しい選択」を強制するのではなく、よりよい生活習慣にナッジしていく(そっと肘で押す)政策提言を行っている。 ダニエル・カーネマンやエイモス・トベルスキーが創始した行動経済学では、私たちは必ずしも「合理的経済人」ではなく、不合理な選択をする「人間(ヒューマン)」であることを明らかにし、そのうえに立って、2017年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーは法学者のキャス・サスティーンとともに、このバイアスを逆に利用することで正しい選択に誘導するさまざまな手法を提言している。そのひとつが昇給とともに積み立て額が自動的に増えていく企業年金などの仕組みである。こうした「人びとが無意識のうちに合理的な行動をするように環境を最適設計すればよい」というサイバーリバタリアン右派のナッジは、「おせっかいな自由主義」とも呼ばれている。徴税・再配分という国家の“暴力”を最小限にして、個人の自由な選択(たとえ誘導されたものであっても)を尊重しているからである。 しかし、これは漸進主義であって、「問題」を一気に解決することはできない。やらないよりましかもしれないが、小さな改良をいくら積み重ねても巨大な社会の分断を修復することはできそうもない。 こうして「理想主義者」であるサイバーリバタリアン左派は、一発逆転の満塁ホームランを夢見るようになる。それが、すべての国民に「健康で文化的な生活」を保障するユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)である。 しかし、著者はベーシック・インカムに対しては懐疑的である。世界に多くの貧困層が存在するなかで、先進国のなかでもし仮に財政的に余裕のある国がベーシックインカムを導入したとしたら、それがたとえその国ではギリギリの生活費であったとしても、貧困層には夢のような金額であり、世界中の貧困層の若い女性たちがその国の男性と結婚しようと殺到するに違いなく、そうした貧しい人びとの「経済合理的」な行動によって、裕福な国のベーシックインカムは確実に破綻する、と著者は言う。 しかし、遠い将来、なんらかのイノベーションによって、全世界のすべての人びとに「健康で文化的な生活」を保障するだけのお金を配ることができるようになったとしても、「幸福な社会」は実現できないだろう、と著者は言う。なぜなら、ベーシックインカムでは「モテ/非モテ」問題は解決できないからである、と。 もし、誰もがあくせく働く必要がなくなれば、思春期の若者から、壮年や高齢者まで、人生の興味・関心は性愛(男はセックス、女は恋愛)に集中するようになにちがいなく、もはや誰も結婚せず、家庭を作ろうとも思わない「自由恋愛世界」となり、一夫一妻制のしばりも意味を失うであろう。そうなれば、少数の男(チャド)が多数の女(ステイシー)を独占するようになるだろう。それは、まさに「インセル(非モテ)」が恐れるディストピアそのものである。「経済格差」がなくなれば、その根底にある「性愛の格差」がよりはっきりと姿を現し、今よりさらにグロテスクな社会となるに違いない、と著者は言う。 ところで、知識社会における経済格差が、「知能の格差」の別名だとするなら、知能の違いが人生に影響を与えなくなれば、「知識社会」は終わり、知能格差によって引き起こされる「上級/下級」の分断もなくなることになる。 高等化した知識社会では、テクノロジーの性能が人間の平均的な適応力を越えてしまうため、高い知能を持つ一部の人たちにしか理解できず、こうして一部の「特権層」に富が集中することになる。しかし、テクノロジーの指数関数的な性能向上により、AIが人間の知能をはるかに上回るようになったら、もはやどんな人間もテクノロジーを理解できなくなり、AIロボットは勝手に進化していく。そうなれば、「技術」と「魔術」の区別はつかなくなり、知能は意味を失って知識社会は終わることになるだろう。 子どもたちの間では、勉強して有名大学を目指すよりユーチューバーの方がずっと人気があるという。これは「教育の危機」とも言われているが、私たちの社会が「知識社会」の終わりに向けて「進化」しているのだとすれば、正しい選択をしていることになる。 人工知能が人間の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)は2045年とされている。もしかしたら、令和の時代に、臨界状態から相転移に至る「知識社会」の終わりを目にすることになるかもしれない、と著者は言う。
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