本書では、採り上げられている怪物は、東条英機、石原莞爾、犬養毅、渡辺和子、瀬島龍三、吉田茂の6人である。そして7つの謎とは、第1章「東条英機は何に脅えていたのか」、第2章「石原莞爾は東条暗殺計画を知っていたのか」、第3章「石原莞爾の“世界戦争”とは何だったのか」、第4章「犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか」、第5章「渡辺和子は死ぬまで誰を許さなかったのか」、第6章「瀬島龍三は史実をどう改鼠したのか」、第7章「吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか」である。
第1章「東条英機は何に脅えていたのか」
東条英機の運命を変えた事件は二・二六事件である。これは陸軍の皇道派と呼ばれた急進的な青年将校が1936年(昭和11年)に起こしたクーデタであるが、その黒幕は真崎甚三郎大将であった。東条は皇道派に批判的なグループのリーダー格で後に統制派と呼ばれた。二・二六事件の前までは陸軍内では皇道派が優勢で東条は満州の関東軍憲兵隊司令官に左遷されていた。しかし、二・二六事件が天皇によって逆臣とされたことによりにわかに東条は表舞台に引き出されることになる。二・二六事件から二年後には陸軍次官となり、それから三年後の1941年10月には首相に就任している。東条の首相指名は、”虎穴に入らずんば虎児を得ず“のたとえ通りに、東条の強権をもって陸軍内の強硬派を抑えこもうというのが天皇をはじめその側近たちの狙いであった。とくに天皇は日米開戦には反対していた。なんとしても交渉で解決すべきだと考えていたのである。天皇から首相指名の大命を拝した東条はできる限り天皇の意向に沿うよう陸海軍内の強硬派を抑え、外交努力に力を入れる姿勢を示そうと努力したことは疑いないようだ。しかし、そうした姿勢をとればとるほど東条は、かつて陸軍大臣時代に戦争も辞さずという姿勢をとっていた過去の「自らの影」に脅えることになる。東条に対して裏切り者という批判がかつての東条を支持していた人々から沸き起こってくることは避けられなかったからである。 結局、東条は外交努力によって多少の時間稼ぎはしたが、程なく日米開戦を決断するに至る。天皇が望んでいた日米開戦回避をなしえなかった責任として逆に東条はなんとしても日米戦争に勝たなければならないと強い決意を固めていた。しかし東条の戦争観は戦争の勝敗を決めるのは最後はなにくそという国民の思いがどれだけ強いかにかかっているのであり、負けたと思った時が負けなのだという精神論に依拠していた。そのため、戦況を冷静に判断することができなかった。戦況の好転が望めないまま権力の集中化を図り、やみくもに一億玉砕の覚悟を国民に求めて本土決戦へと突き進もうとした東条に対して、やがて反東条の包囲網が形成され、結局は1944年7月敗戦のおよそ1年前に退陣を余儀なくされた。
第2章「石原莞爾は東条暗殺計画を知っていたのか」
石原莞爾は昭和期の軍人のなかでも特異な存在である。石原は軍人以外にも軍事思想家、東亜思想家、さらには宗教家であり、戦中のみならず戦後も生き延びて多くの人々に感化を与えた。東条は石原の関東軍副参謀時代の直属の上官で参謀長であった。二人は奇しくも軍の中枢部から遠方の関東軍にいわば左遷された身であった。東条は軍の中枢を握る皇道派と対立し、他方石原も満州での不拡大を唱え、軍中枢から疎んじられていた。しかし満州国は日本が支配すべきだと考える東条とあくまで満州国は独立国家であると考える石原との溝は深かった。石原にすれば東条は「思想も意見もない軍人」であり、東条からすれば石原は「軍の統制を乱す軍人」であった。二人の対立は太平洋戦争末期まで続き、石原は憲兵隊から常に監視を受けていた。太平洋戦争に対する石原の考え方はこの戦争はあくまでも「日華和平」のための戦争であり、いずれ起こる日米世界最終戦争の前哨戦のようなものであるから一定の枠内で戦争を収めるべきだというものであった。それに対して東条は日米戦争はあくまで石油供給体制の確立のためであり、そのためには中国も軍事的に制圧して日本の支配下に置くべきだと考えていた。1941年3月に石原が予備役に編入されて以降も石原は自ら創設に関わった東亜連盟の活動を続けるが、東条から憲兵隊を通じて執拗な圧力を受け続けた。 東条と石原の対立は東条暗殺計画にも影を落としている。東条暗殺計画を立案したのは大本営参謀本部の津野田知重少佐だとみられている。彼は石原思想の影響を受けていた。戦況の悪化を憂慮した津野田たちはすみやかに中国大陸からの無条件撤兵と対英和平工作を早急に行うためにいち早く東条退陣・軍の粛正を図ることが喫緊の課題とした意見書をまとめた。東条退陣は天皇の御聖断が望ましいが、それが無理ならば暗殺もやむを得ないという硬軟両構えで臨むとされた。暗殺の実行者に名乗りを挙げたのは、武術家の牛島辰熊であった。津野田と牛島は先の意見書を石原に直接会って見せている。石原は、計画に明確な否定も肯定も示さなかったが、東条という男は殺されなくては所詮分からん男だよ、反省なんてできない人間なんだと言ったその言葉は暗に非常手段に賛意を示したものと二人は受け止めた。石原のほかにも三笠宮、小畑敏四郎中将にも見せたという。 暗殺の方法は東条が皇居内での閣議を終えて車で平河門から出て祝田橋にさしかかるカーブでその道端の溝に隠れて青酸ガス弾を車めがけて投げるというものであった。実行日は1944年7月18日とされたが、ちょうどその決行日に、東条は天皇から退陣を促され、総辞職となったのである。 東条退陣のあとを継いだのは小磯国昭であった。牛島は小磯に石原の入閣を勧め小磯も承諾しその旨を伝える巻紙を認め、牛島はその巻紙を持参して石原の説得にあたったが、石原は「老骨その任に耐えず」と固持したと伝えられる。
第3章「石原莞爾の“世界戦争”とは何だったのか」
石原は1940年9月に『世界最終戦論』を出版している。同書において石原は次に来る「世界戦争」によって人類は戦争と別れを告げ世界は一つになると考えた。その前段階として世界は四つのブロックからなる国家連合の時代に入る。すなわち@ソ連を中心とする社会主義国家の連合体、A南北アメリカの連合体、Bヨーロッパ、C日本・中国を中心とする東亜、の四つである。そして最終的には東亜と米州が最終決戦を行うだろう、と説いた。そしてその時期は第一次世界大戦から50年内外と彼はみていた。そして大東亜戦争はこの世界最終戦ではなく、その前段階であり、イギリスの支配から東亜を解放し東亜大同の基礎を確立することによって最終戦争の根拠地を築くこととされた。 石原のこの考えからすれば、当然満州事変以降の戦線拡大は受け入れられるものではなく、参謀本部作戦部長として彼は戦線不拡大、さらには日華和平、満州からの日本軍の完全撤兵をも視野に入れていた。しかし作戦課長の武藤章を初めとして参謀本部内の拡大派の勢力も強く、現地部隊の戦線拡大を追認せざるを得ない状況となり、まもなく彼は拡大派の陸軍大臣杉山元により関東軍参謀副長に左遷されることになるのである。 石原が参謀本部に着任した当時は陸軍内で皇道派と統制派の対立が最高潮に達していた時期で、統制派のリーダーである陸軍省軍務局長の永田鉄山が皇道派の相沢三郎中佐に局長執務室で斬殺された日が石原の初出勤日であった。石原は皇道派にも統制派のいずれにも属していなかったが、昭和維新が必要だという点で心情的には皇道派に近かったといえる。しかし武力を用いて政府中枢の実権を握るという考えには反対しており、二・二六事件の際には参謀本部作戦課長として戒厳参謀の立場で断固討伐の任にあたった。石原は自ら陸軍大臣官邸に赴き、代表に面会して、国家改造の意思は諸君らと同じであるにせよ武力による行動は許されない、断固討つのみ、と伝えたという。それでも石原には事件の首謀者たちをそそのかしたという噂がつきまとっていた。その噂の発信源は真崎大将の取り巻きとみられる者たちだったとみられているが、皇道派のなかにも石原への評価は分かれていたようだ。石原は自分たちを理解してくれていると説く青年将校たちも少なからずいたようだ。 また、石原の東亜連盟の考えに共鳴する人々は中国国内にもいた。日本と中国は互いに協調して東亜大同を結び、イギリスの植民地解放を実現していくという考えのもとに、日本と蒋介石政府との和平工作を企図したいわゆるトラウトマン和平工作を極秘裏に進めたのは中国版の東亜連盟に連なる人物であった。この工作はトラウトマンの失脚によりとん挫するが、蒋介石政府のなかにも石原の思想に共鳴する人物が確かに存在していたことを著者は1991年に台湾在住の陳立夫から直接証言を得ている。
第4章「犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか」
犬養毅はいわゆる「憲政の神様」と呼ばれ、議会政治を守り抜こうとしたが、5.15事件で軍部の凶弾に倒れた悲劇の政党政治家と一般には知られている。もちろんその見方が間違っているわけではないが、孫の犬養道子氏が「犬養毅という政治家も多くの矛盾を背負った政治家だった」というように、犬養毅にも後世の評価からすれば幾つかの大きな負の面があったことは否定できない。そのひとつは野党時代に政友会の代議士として民政党内閣が調印したロンドン軍縮条約に対して「統帥権の干犯である」と激しく攻撃し、それが結果的には軍部の台頭を誘導することにつながったことである。さらに、1931年12月の犬養内閣誕生の際に陸軍大臣に皇道派の荒木貞夫、内閣書記官長に関東軍の事変拡大派である森恪を任命し、結果的に満州事変から日中戦争へと戦争拡大への道を拓いてしまったことである。この人事が犬養道子氏が言うように“虎穴に入らすんば虎児を得ず”を企図したものであったとしても、もはやそのような術策が通用する時期ではなかったことを見抜けなかった責任は重いと言わざるを得ない。内閣誕生からわずか半年足らずの1932年5月15日に犬養毅は皇道派の青年将校達の凶弾に倒れる。襲撃の影を見抜いていたのか、という点に関して言えば、これも犬養道子氏の証言によるが、組閣から程なくして閣議で犬養と書記官長森恪との間で満州事変を巡って激しい議論となった。森恪が「支那を一挙に取り押さえる」と犬養に食ってかかったのである。犬養が繰り返し森を諭したが、森は聞き入れず閣議後、「兵隊に殺されるぞ」と吐き捨てるように言ったという。その晩、道子氏の伯母の夫である外務省に勤める斎藤という男から「兵隊に殺させるという情報が久原(政友会幹事長)の筋に入っている」と電話があった、と道子氏は証言してる。しかしそれを聞いても犬養は平然としていた、という。 それからほどなくして犬養毅は首相官邸で血気盛んな青年将校により暗殺される。この時襲撃した青年将校に犬養が「話せばわかる」と言ったと伝えられているが、道子氏が母親からは聞いたところでは「まあ、靴でも脱げや、話しを聞こう」であり、「話せばわかる」とはいっていないと証言している。 犬養道子氏は1932年5月に祖父毅をテロで殺され、そしてそのおよそ10年後の1941年10月には父健がゾルゲ事件に連座して逮捕されている。健は裁判で無罪とされたが、その事件以来世間から厳しい目で見られ続けてきた。
第5章「渡辺和子は死ぬまで誰を許さなかったのか」
ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の作者で知られるノートルダム清心学園理事長の渡辺和子は、二・二六事件で凶弾に倒れた渡辺錠太郎陸軍教育総監の娘でる。渡辺和子はその著において自分の周りの小さな世界の中だけでもいいから「できるだけ人を赦して笑顔」で過ごしなさいと説く。しかし、著者が彼女とのインタビューにおいて二・二六事件に触れた時、渡辺はきっぱりと「二・二六事件は、私にとって赦しの対象から外れています」と答えている。そして渡辺和子は、「私がもし怒りを持つとするならば」と前置きしたうえで「父を殺した人たちではなく、後ろにいて逃げ隠れした人たちです」と言った。特に真崎甚三郎に対しては青年将校たちを唆しておきながら、天皇が断固討伐を命じると、態度を一変させたわけだが、そうした人間の醜さに対しては渡辺和子は強い怒りを持っている、と述べたのである。
第6章「瀬島龍三は史実をどう改鼠したのか」
瀬島龍三は平成19年に95歳でなくなっている。その人生はまさに波乱に富んでいる。大本営参謀、シベリア抑留生活、伊藤忠商事の経営スタッフ、行財政改革の臨調委員などである。そしてソ連のスパイ説も根強くあった。元警察官僚の佐々淳行は一貫してスパイ説を主張してきた。その真偽のほどは定かではないが、瀬島は多くの謎を抱える人物であることは間違いない。 佐々はその著書『インテリジェンスのない国家は滅びる』で瀬島が関わったと考えられる事件として1987年に発覚した東芝機械ココム違反事件を挙げている。この事件は東芝機械がソ連に対して当時東側諸国への輸出が禁じられていた工作機械などを輸出していたことが発覚し、ココム(対共産圏輸出統制委員会)違反とされた事件である。その輸出の仲介役として伊藤忠商事の瀬島が絡んでいた。佐々は瀬島の取り調べを当時の中曽根内閣に進言したが、瀬島が中曽根内閣のブレーンであるとの理由で不問に付されたので、関わりの詳細は分からない。 瀬島のスパイ説にはシベリア抑留時代のことが絡んでいる。シベリア抑留者からの証言では抑留時代に将校団の仲間からは”赤いナポレオン“と呼ばれていたらしい。またシベリア抑留時代に瀬島は東京裁判のソ連側証人として1946年9月に証言台に立っているのである。これについては瀬島が後に『文藝春秋』の手記(昭和50年12月号)で語っているところによると、自分がなんのために東京に連れて来られたのかは事前に全く知らされていなかったと述べているのである。しかし、これは事実に反する。著書は図らずもアメリカ公文書館に残されていた東京裁判の資料から、実はソ連は東京裁判の証言に立たせるために三人の軍人を選んで、事前に周到な準備をさせていたことを突き止める。証言者の一人であった草場辰巳中将は東京に連れて来られてから秘かに隠し持っていた毒薬を飲んで自決したのであるが、草場中将が所持していた日記にそうした事前の準備の詳細が綴られていたのである。従って瀬島が事前に全く知らされてなかったというのは嘘である。瀬島は時としてこうした嘘を平然とつく。それは瀬島個人の手法というよりは昭和陸軍の軍官僚に通ずるものであった。瀬島はこの軍官僚の体質を戦後社会でも顕わにしていた。それが瀬島スパイ説と容易に結びつけられることになったのであろう。 山崎豊子の小説『不毛地帯』の登場人物壱岐正は瀬島龍三がモデルだという噂が巷間に広まっているが、瀬島はその噂さえ利用している節がある。歴史に振り回されながらも戦後社会で意欲的に活躍し続ける壱岐正の姿はまさに日本人の範の一つたり得ているが、それにうまく自分を重ね合わせ、いわゆる「なりすまし」を演じているようにさえ見える。著書は山崎豊子に直接それを確かめたが、山崎は瀬島モデル説をきっぱり否定し、むしろ瀬島がモデルだと言われて困惑しているとも言った。
第7章「吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか」
吉田は戦時下では外務省の長老の立場にいたのであったが、公職にはつかず、大磯と永田町の私邸を行ったり来たりしていた。陸軍、憲兵隊は吉田は反戦グループの中心人物とみられていて、ヨハンセンの符丁で呼ばれていた。大磯の私邸には女中と書生という立場で憲兵隊の隊員と陸軍兵務局の情報工作員が入り込み、それぞれ互いの立場を知らず吉田の監視を続けていた。 東条退陣後、戦況の悪化を背景に天皇周辺では和平を模索しようとする動きが高まってくる。昭和20年2月には天皇は和平派の重臣から直接意見を聞いた。その時、近衛文麿は天皇に上奏文を手渡したのである。その内容は、もはや敗戦は必至であり、しかも陸軍内には共産勢力がはびこっていて、敗戦ともなれば共産革命の危険性も高い、そうならないうちに一刻も早く終戦を迎えるべきだ、というものだった。この上奏文は実は吉田茂の手で書かれたものであった。そしてこの上奏文は吉田のもとに入り込んでいる工作員の手で全文が写しとられ陸軍の首脳陣が目を通していた可能性が高い。憲兵隊が吉田を流言飛語を撒いているとの名目で逮捕したのは4月15日であった。しかし吉田の逮捕に対しては外相はじめ閣内でも異論が出て、およそひと月あまりの投獄生活ののち釈放されている。結果的にこの逮捕劇は吉田にとって後に大きな勲章となった。 敗戦のおよそ2か月後に外相となり、それからおよそ半年後の昭和21年5月に首相に就任している。すでに憲法改正案は閣議決定され議会の審議中であった。吉田が首相に就任しから憲法改正案が議会で可決・成立までのおよそ半年間吉田は新憲法成立にそれこそ心血を注いだ。吉田は新憲法の公布日を11月3日としているが、この日は戦前は明治節(明治天皇の誕生日)とされ、この日を吉田が選んだのは新生日本を満州事変から大東亜戦争終結までの変調期から明治維新以降の元の日本に戻したいという思いがあったのだろうとみられている。 また、吉田は米軍の占領政策とも向き合い、サンフランシスコ講和条約の締結による占領期の終結に多大な貢献をしたことも事実である。そして平和憲法に対しても最後まで変わらぬ護憲の姿勢を崩さなかったのである。それはなによりも第一は自らの政権で新憲法を制定し、天皇の地位を守ったという自負であり、そして、第二には憲法改正を旗印に政界復帰を果たした鳩山一郎に対する強い対抗意識であったと考えられる。
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