これはアメリカで出版されたもので、著者は高校生の時にアメリカに編入学し、その後プリンストン大学を1994年に卒業。オックスフォード大学で博士号を取得し、主に政策研究を専門としてオックスフォード大学他で教鞭をとってきた。
この本は専門研究というよりもアメリカに人向けに「日本側からみたパールハーバー」という視点から書かれたものである。 そもそも高校生の時にアメリカ人の同級生から「日本はどうしてパールハーバー攻撃をしたの?」と聞かれて、自分もろくに答えられなかったという経験がこの本を書く原点となっている、という。また、最近のアメリカ人のパールハーバーに対する無知にもうながされて、その真相を主として日本側から探ってみようとしたものだ。 一般向けとはいえ、日本の政治・軍事中枢での意思決定のプロセスに対する検証は、実に丹念に、丁寧に行われていて、関心する。しかも、その当事者たちの生い立ちや内面の葛藤などもさまざまな角度からの資料を丹念に集めて提示してくれるので、そこに関わる人たちの息づかいさえ伝わってきそうな、迫真力をもつドキュメンタリーとなっている。 話の中心は、1941年6月22日のドイツ軍のソ連侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦から日本が真珠湾攻撃に突入する同年12月8日までの約半年の日本政府中枢での迷走ぶりを描き出すことにおかれている。とりわけ一番の課題は日米交渉であった。アメリカはまだその時点では、ヨーロッパの戦争にも参戦していなかった。ただ、太平洋方面については、特に中国における日本の侵略行為を不愉快に思い、蒋介石への支援要請へ動き出そうしていた。一方で、日本はバルバロッサ作戦の直後から、火事場泥棒よろしく南部仏印への軍の進駐を画策した。 バルバロッサ作戦に乗じてソ連侵攻に打ってでるべきだ、という松岡洋右外相の主張を抑えて、7月2日の御前会議での決定を経て軍は南進政策を進めた。結果、アメリカは日本に対してより厳しい姿勢をとることになる。日本はアメリカがヨーロッパ参戦と太平洋戦争の二つの戦争は回避したいに違いないとの希望的観測を前提に、アメリカから三国同盟からの離脱、中国からの完全撤退を求められても、のらりくらりと抵抗を続けた。交渉継続か、開戦か、結局最後まで腰の座らぬまま追い詰められるように勝つ見込みのきわめて小さい日米戦争に、あたかも一か八かの大博打に打って出るかのように突入していったというのが真相に近いようである。 冷静に考えれば全くと言っていいほど勝ち目のない戦争に対して、天皇も含めて、東条英機首相、近衛前首相、東郷外相、賀屋蔵相、など多くの閣僚は避戦論に傾いていたが、統帥部を含めた連絡会議では、どうしても和平の声を上げることができないのだ。本音と建て前のズレもあるが、臆病者とみられ狂信的なナショナリストからのテロを受ける恐怖も付きまとっていた。時代の空気は、現代の我々からの想像をはるかに超えたものがあったのだろう。その意味では、日本人が戦争を選んだという見方もあながち間違いではないかもしれないが、ごくわずかな肝の据わったリーダーたちを見殺しにするしかなかった国のシステムにも大きな欠陥があったとみるべきなのだろう。
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