著者は『永続敗戦論』でにわかに注目を浴びた41歳の気鋭の社会思想・政治学の専門家。本書は第1章〜第8章、及び終章からなる。
第1章『「お言葉」は何を語ったのか』 2016年8月の天皇の生前退位に関するテレビでの「お言葉」の裡に秘められたメッセージとは戦後民主主義の秩序を崩壊の淵から救い出さなければならないという天皇の切迫した心情であったと、著者は言う。その背景にあったのは安倍政権による「戦後レジームらの脱却」のかけ声のもとで進められようとしている憲法改正の動き、そして戦後民主主義体制全般に対する憎悪にも似た挑戦の策動などが挙げられる。こうした安倍政権の動きに対して天皇は、逆に戦争の悲惨な歴史を想起することの重要性を繰り返し強調し、大戦中の激戦地への慰霊の旅を続けてきた。 「お言葉」はそうした天皇と安倍政権との間にあるギクシャクした関係の中で発せられたものである。生前退位問題に関する有識者会議のメンバーには安倍晋三と信条を共有するといわれる多くの日本会議に縁の深い有識者が選ばれ、彼らの中から天皇の被災地訪問や激戦地を巡る慰霊の旅等の公務に対して公然と批判が出たといわれる。これに対して宮内庁幹部からは陛下の生き方を「全否定する内容」だと陛下自身が受け止めたと伝えられた。 こうした文脈の中にあらためて「お言葉」を置いてみると、天皇が現在の日本の政治状況に関して強い危機感を抱いていることが伝わってくる。「象徴としてのお務め」に関して天皇がとくに重要だと考える内容を現政権の中枢を占めるメンバーたちはむしろ問題としていない。しかしそこにこそ天皇は強い危機感を抱いているのではないか。東日本大震災・原発事故が露呈した「原子力の平和利用」という国策に至るその過程では一片の民主主義も存在しないことが明らかとなったし、安倍政権のもとでの常軌を逸した国会軽視、虚偽答弁、三権分立の破壊によって議会制民主主義も破産していることがますます明らかとなった。国民の差別感情の大ぴらな表出、そしてメディアの退却につぐ退却などを目の当たりにしていると、それはまさに戦後民主主義の空洞化さらにいえば戦後社会の総体的な劣化といってよいものである。天皇の思いもまたそうした動きに対する強い危機感に根ざしているものではないだろうか、と著者は考える。 第2章「国体は二度死ぬ」 まず、平成とはどんな時代だったのかと著者は問う。それはまさに「失われた、愚かな時代」であったという。バブルの崩壊とともに経済成長は停滞し、また冷戦の終結によってアメリカの対日姿勢は「庇護」から「収奪」へと転換した。こうしたあらたな条件に対応するための変化を成し遂げることができずに、結果として格差拡大と貧困の蔓延というあらたな階級社会を生み出すに至っている。経済成長は戦後日本人のナショナルアイデンティティでもあったわけであるから、こうした現実はアイデンティティの危機をもたらし、それゆえ却って成立不能となった物語=永続敗戦レジームへの固執を生ぜしめている。安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というスローガンとは裏腹に自民党政権がやっていることは冷戦によって基礎を失ってしまった戦後レジームを死に物狂いで維持することであった。戦後日本の「平成と繁栄」の明るいヴィジョンの裏に隠された日本人の暗い願望とは明治維新以来の欧米に対するコンプレックスとアジア諸国民に対するレイシズムである。しかし戦後の日本人は「敗戦の否認」を行うことによって、それらの願望を戦後に持ち越したのである。しかしいまやその持ち越しを可能にした条件(=経済成長と冷戦構造)は失われつつあるが、そのことを直視できずに、コンプレックスとレイシズムにまみれながらあの頃(=冷戦時代)は良かったという白昼夢にまどろみ続けている時代が平成という時代であると、著者は喝破する。 2019年5月には平成は終わる。そして2020年には明治維新から敗戦までの時間(戦前)と敗戦から現在までの時間(戦後)が等しくなる。「戦前」の歴史は近代化革命から急速な発展を経て大きな失敗へと向かった物語として語られる。この物語に相当する語りを「戦後」は持っていない。「戦後」は終わっているはずなのに終わらない、終わっていないはずなのに終わっているという奇妙な時間感覚のなかをわれわれは生きている。 そこで著者は明治維新から現在までの日本近代史を「国体の歴史」としてとらえることでそのトータルな構造を俯瞰し、そのうえで「戦後」とはいかなる時代であったかという問いへの答えを模索する。 新憲法のもとで戦前の天皇制の国体的側面は否定され、清算されたとされる。果たして敗戦によって「国体」は死んだのか。この問いに対する答えは豐下楢彦『安保条約の成立─吉田外交と天皇外交』に見出される。豐下は「天皇にとって安保体制こそが戦後の『国体』として位置づけられたはずなのである」という。昭和天皇は敗戦後、共産主義に対する恐怖と嫌悪からアメリカの軍事的プレゼンスを積極的に受け入れ、国体護持を図ろうとしたことが明らかとなっている。そのうえで著者は日米安保体制を最重要の基盤とする戦後日本の対米従属体制(永続敗戦レジーム)を戦前からの連続性を持つ「戦後の国体」とみなす。 またこの日本の対米従属関係は他に類をみない厳しい従属関係にあるわけだが、その従属の事実は「温情主義の妄想」のオブラートに包まれて不可視化され、否認されている。すなわち日本とアメリカは先の大戦における凄まじい殺戮を乗り越えて奇跡的な和解による相思相愛の関係を築いたのだという物語がそうした従属関係の不可視化を支えてきたのである。さらにいえば現在の親米保守政権とその翼賛メディア機関は、「アメリカは日本を愛してくれている」という命題を刷り込むことに成功している。この「日本を愛するアメリカ」という命題は戦前の大日本帝国の「天皇陛下がその赤子たる臣民を愛してくれている」という命題と相似形をなしている。しかしこの対米従属レジームはいずれ崩壊せざるを得ない宿命にある。あたかも「戦前の国体」が形成・発展・崩壊を迎えたように、この「戦後の国体」も同じような形成・発展・崩壊の過程を辿ると著者は考える。 そして「戦前の国体」は、「天皇の国民」(明治)→「天皇なき国民」(大正)→「国民の天皇」(昭和前期)へと至ってシステムの崩壊を招いた歴史として把握できるが、「戦後の国体」も同様のサイクルを描くと著者は考える。戦後においては天皇の位置にアメリカが座ることになる。すなわち「アメリカの日本」(対米従属の形成期 1951〜1970頃)→「アメリカなき日本」(対米従属の安定期 1971〜1989)→「日本のアメリカ」(対米従属の自己目的化 1990から現在)というサイクルである。そしてこの三段階の過程は大澤真幸がいう「理想」→「虚構」→「不可能性」という概念で特徴づけることができる。大澤真幸は、とりわけ「不可能性の時代」においては人間の存在様式が「現実への回帰と虚構への耽溺」という相反する二つのベクトルによって引き裂かれるという。「日本のアメリカ」あるいは「日本を愛してくれるアメリカ」というのはもちろん虚構にすぎないが、政治・経済の領域において実際に政策決定に携わる対米従属体制内エリートたちはそれこそが唯一の現実主義的な国家方針の基礎をなすと考えているという現実がある。虚構が現実を乗っ取ってしまっているのである。まさに不可能性の時代といってよい。 またこのように天皇の位置にアメリカが座ることになったのは、単に軍事的次元や狭義の政治的次元において生起したものではない。かつて憲法担当大臣であった金森徳次郎がいみじくも天皇を「憧れの中心」と定義したように、戦後社会においてアメリカン・ウェイ・オブ・ライフもまた「憧れの中心」となっていったのであり、天皇と「アメリカ的なもの」との間には一種の交換可能性、代替可能性があったと考えることができる、と著者はいう。 第3章「近代国家の建設と国体の誕生」 ここでは「戦前の国体」の形成過程にスポットがあてられる。 明治維新によって徳川幕藩体制が倒れ、明治新政府が成立したが、それ以降も中央集権化を進める革命のプロセスは続いた。徴税権の一元化と暴力の独占は西南戦争の新政府側の勝利によって決着がついたが、その後も憲法の制定と国会開設を求める全国的な運動が広がり、反政府勢力との緊張が続いた。それに決着をつけたのが大日本帝国憲法(明治憲法)の制定(1889)と帝国議会の開設(1990)であった。それは明治維新直後の混沌期がある一定の方向(明治レジーム=国体)へと収斂し、安定期へ向かったことを意味した。 「戦前の国体」の形成過程は明治憲法の制定から明治の終焉までとみなすことができる。そもそも憲法に定められた天皇の地位は、絶対的な神聖君主と立憲君主という二面性をもっていた。すなわち天皇は第一条の「万世一系の天皇」の統治という条文に従えば神聖君主であり、第四条の「天皇は統治権を総攬する」という条文に従えば立憲君主ということになる。この二面性はその後大正デモクラシーにもつながるのであるが、他方でこの憲法のもとでの国民の権利は常に「国体に抵触しない限りにおいて」という制約が課せられた。それが臣民=「天皇の国民」という概念であり、また臣民を自発的に天皇に従うように仕向けたものが国会開設とセットに発布された教育勅語であった。国民をこのように天皇を中心とした支配体制=国体に統合していくことが求められた背景には、明治維新の過程で政府対反政府に引き裂かれた国民の悲劇があった。革命で流された数多の血を贖うためには「天皇の正義」は「不動の真実」でなければならず、それがために天皇は「和解」のシンボルとしての統合作用を果たしえたのである。明治天皇の死に続いた乃木希典の殉死はそれを端的に物語っていた。 しかし明治天皇の死と相前後して、天皇が果たすべき革命の悲劇を浄化させるための「和解」は、やがて社会に内在する敵対性を暴力的に否認する家族的国家観へと変質し、「不動の真実」としての「天皇の正義」は対外的膨張・帝国主義的侵略の正当化と同義となっていったのである。 第4章「菊と星条旗の統合 『戦後国体』の起源」 「戦前の国体」と「戦後の国体」の違いと継続性を明らかにするためにここでは「戦後の国体」の起源を明らかにする。 まず、「戦後国体」の原点は昭和天皇とマッカーサーとの最初の会見における天皇の発言にあった。天皇はそこで戦争遂行に対する自らの全責任を貴方の国の裁可に委ねると語った、とマッカーサーは『回想記』に記している。そしてその天皇の潔い発言にマッカーサーは感動し天皇に敬意を抱いた、とされる。そして結果的にそれが天皇の戦争責任の免責と天皇制の継続につながったといわれている。 最近の戦後史研究では必ずしもこれは史実ではないとされているが、当時の日本国民にとっては、それはアメリカが「日本の心」を理解してくれたという物語として機能し、それによってかつての敵が「鬼畜」呼ばわりされたことを「不幸な誤解」にすることができるし、また戦争で死んでいった数多の同胞に対しても国民はその後に続かなければならないという義務から解放されることもになった。つまりはこれによってアメリカの庇護のもと日本人は「幸福に暮らす」ことが許されたのである。 ここから「アメリカが日本を愛してくれるから日本はアメリカに従属する」いや「アメリカが日本を愛してくれるからこれは従属ではない」という世界に無比の対米従属が生まれたのである。この観念によって従属している事実が正当化されるだけでなく、その状態が永久化される。そして従属支配を否認し続けていれば、変節の事実からも目を背けることができるのである。 さらにいえば、従属支配を否認することによって、自由を獲得したいという希求もまた永遠に始まらないのである。 「アメリカが日本を愛してくれている」というのは全くの錯誤であり、当時のアメリカの占領支配者たちが、日本人は民主主義的価値観など理解できない劣等人種だという偏見を有していたことはすでに多くの史料によっても明らかにされている事実であり、また天皇制存続も占領政策のための方便であったことはいうまでもない。 そして日本側もそうしたアメリカの偏見や軽蔑を敬意と愛情による行為だと偽り、自覚的かつ積極的に国体を維持・救済しようとしたのである。その結果、アメリカン・デモクラシーへの敬意と愛着を装いながら、戦後民主主義を腐朽するがままに任せることによって内心でのそれへの軽蔑と嫌悪の念を満足させてきたのが、現在に至るまでの状況である。―つまりは表面上の敬意と愛情、そしてその真の動機としての軽蔑・偏見・嫌悪を日米が相互に投射するという過程が戦後の「天皇制民主主義」の成立過程の本質であった。そして天皇制民主主義の成立とは「国体護持」そのものだったのである。 第5章「国体護持の政治神学」 ポツダム宣言の受諾を巡って時の政府は「国体護持」をその最後の条件としたが、この時点での「国体」とはあくまでも天皇を主権者とする「専制君主制国家」であった。この条件が連合国に受け入れられるのかどうかは最後まで曖昧なままであった。しかし、ポツダム宣言を受諾すれば天皇及び日本国政府はGHQ(連合国軍総司令部)長官マッカーサーの支配下に置かれ、その後の占領政策の遂行により軍国主義の撤廃と民主主義の確立がなされた時点において日本国民のもとで新しい政体が決定されるという連合国の回答を、天皇及び政府は「天皇制は護持される」と都合よく解釈してポツダム宣言受諾を決定したのである。そして占領政策のもとで明らかに「占領君主制国家」としての天皇制は根本的に変更されたにもかかわらず、時の首相吉田茂は「国体は毫も変更されない」と胸をはったのである。しかし1951年のサンフランシスコ条約の締結は日本が「専制君主制国家」から「民主主義国家」に変身したことを内外に認めることを前提としていた。すなわち日本人の主観性の次元においては国体は護持された一方で、客観的次元での国体は変更されたのである。 しかしこの国体は護持されたという擬制は、占領政策終結以降も引き続き占領下と同様主権を自発的に放棄し憲法よりも日米安保条約が優越するという対米従属をその代償とすることによって可能となるものであった。 そしてマッカーサー三原則の「天皇制の存続」「戦争放棄」「封建制度の撤廃」は、連合国内の天皇の戦争責任を追及しようとする国々から天皇を守るためにどれも欠かすことのできない原則であった。それはまさに戦争を放棄し、平和的で民主的な国家の建設を天皇の号令のもとで始めるということを内外に示すものであった。そして占領下のもと平和国家として再出発しようと準備していた日本は東西対立の激化という事態に直面する。そこで日本はあらためて「天皇制の存続」のためにも在日米軍基地の恒久的使用を認める日米安保条約を結んだのだ。その結果として「平和国家」の中に世界最大の軍隊の基地が存在することになるわけであるが、その矛盾に蓋をする役割を担わされたのが沖縄である。つまり、天皇制の存続と平和憲法と沖縄の犠牲化は三位一体をなしており、その三位一体こそ「戦後の国体」の基礎である日米安保条約体制にほかならない。しかしこの世界に類を見ない対米従属体制=「戦後の国体」が国民統合をむしろ破壊する段階に至った今、その矛盾が凝縮した場所=沖縄において日本全体が直面している国民統合の危機はもっとも尖鋭なかたちで現れているのである。 いずれにせよ「戦後の国体」においても、天皇を不動の権威と担ぎ現実的支配は別の者が担うという伝統的な権力の図式は踏襲されている。占領時代は現実的支配者はマッカーサーであった。占領時代終結後はアメリカに追随する親米保守勢力がその位置を占める。坂口安吾が『新堕落論』でいみじくも書いているように藤原氏の昔から「最も天皇を冒涜する者が天皇を崇拝していた」のであり、戦後の親米支配層はまさにこの藤原氏の末裔といってよい。しかし、冷戦終結によって「天皇とアメリカ」が曖昧なまま権威と権力を分け合っている状態は終る、と著者は言う。共産主義の脅威が去った後はアメリカが天皇ないしは日本のために慈恵的君主として君臨する意味はもはや存在しないからである。とすれば、権威と権力を備えたアメリカを受け入れるのか、それとも現実的権力としてのアメリカと現実的な付き合い方をするのか、いずれしかない。親米保守支配層は前者の選択しかないというが…。 第6章「『理想』の時代とその蹉跌」 戦後の対米従属レジームに対する内発的な抵抗であった60年安保を乗り切ったことによって対米従属レジームの安定が確立された。60年安保は「戦前の国体」における大日本帝国憲法発布前後の状況に類比される。60年安保によって岸内閣は退陣に追い込まれたが、日米安保条約体制=「戦後の国体」は継続・強化された。しかし日米安保条約及び岸に対する国民の激しい怒りは改憲による正面からの再軍備という自民党本来の志向性を長きにわたって挫けさせた。アメリカは日米安保条約に基づいて日本の基地を自由に使用できるが、日本の軍事力を米軍の補助戦力として使うには大きな制約を伴うことを意味した。すなわちそれは「親米・軽武装」という「吉田ドクトリン」の確立ともいってよく、「貧困と戦争としての時代」に決別し「平和と繁栄としての時代」への転換を可能にするものとしてある意味理想的なものであった。 しかし「理想の時代」は「戦後の国体」のさらなる虚構性とねじれによってやがてその終焉を刻印される。1967年の非核三原則は平和国家の外観を確立するものであり、そして1972年の沖縄返還は敗戦によって失われたものの最終的な回復を成し遂げたことを意味し、この二つによって戦後日本は平和国家としてのアイデンティティを確立したとみられている。しかしこの両者の実態は言うところの「非核」「核抜き本土なみ」とは程遠いものであった。そうした虚妄の平和国家のもとで経済的利益の追求にひた走る日本人の姿に三島由紀夫は絶望し、自衛隊の決起を促すために自衛隊駐屯地への突入を試み、その果てに割腹自殺を図った。他方で、東アジア反日武装戦線は戦後日本を「日帝本国」と呼び、そこで経済活動に励む日本人を「小市民=日帝の寄生虫」として打倒の対象としたのである。三島由紀夫の死と東アジア武装戦線のテロリズムは政治的ユートピアを求める「理想の時代」の終焉、言い換えれば「アメリカの日本」である現実に対する原理的な異議申し立ての終焉を意味したと同時に、来るべき「アメリカなき日本」の時代への移行を刻印するものであった。 第7章「国体の不可視化から崩壊へ」 この章では「戦前レジームの相対的安定期」から「崩壊期」、すなわち「天皇なき国民」から「天皇の国民」へと向かう時代を概観する。「戦前レジーム」と「戦後レジーム」におけるそれぞれの相対的安定期には以下の四つの共通点がある。つまり、第一が「国体の不可視化と存在理由の希薄化」である。戦前のその象徴が存在感の薄い大正天皇であり、戦後はニクソンショック以降のアメリカのプレゼンスの低下であろう。第二には「国際的地位の上昇」である。戦前は第一次世界大戦で戦勝国の一員となり国際連盟の常任理事国となったことが挙げられ、戦後はアメリカに次ぐ経済大国となり、アジアにおける西側陣営の最大勢力として冷戦の勝者となったことであろう。第三には、「国体の自然化・自明化」が挙げられる。第二の日本の国際プレゼンスの上昇が第一の「国体の不可視化」に貢献したことは疑いないが、「国体の不可視化」は「国体の清算ないし無効化」を意味するものではなく、むしろ不可視化によって国体は一層強化され深く社会に浸透したのであり、意識されなくなるほどに国体は自然化、自明化したということである。そして、最後の第四は、「主体的な選択の放棄と国際的地位の凋落の遠因」である。これは第二の裏面として国際的地位が向上し、影響力が増大した時期に進むべき方向性を主体的に選択することに失敗した結果として生まれた。最も大きな力を持った時にその力をどう用いるべきかについて構想力を欠き、無力だったということである。 さて、この「戦前レジーム」の相対的安定期は、いわゆる大正デモクラシー期にあたる。一般には政党政治が発達し、明治憲法下でも安定した民主政治が行われていた時期とみなされるが、実際にはこの明治レジームの転換期は不安感と焦燥感に満ちた時代でもあった。その象徴が明治末期に起こった大逆事件である。明治政府のフレームアップによって多くの社会主義者、無政府主義者が虐殺された。この事件は、明治政府自身による明治レジームの挫折とみることができる。というのも明治レジームとは国民を臣民として天皇を翼賛すべき存在ととらえていたが、その臣民の中に大逆を起こす人間がいることを自らフレームアップさえ使ってさらけ出したのであり、それは明治国家の公式イデオロギーと現実が乖離していることを国家自らが告白していると言ってもよい事態といえる。 大逆事件に対する当時の世論の反応には天皇制の両義性が色濃くみてとれる。そもそも明治レジームにおける天皇制とは人々を貧富貴賤に拘わらず国家の一員=天皇の臣民としてとらえ、その臣民による翼賛と輔弼によって国体が成り立つとしたものであるが、だとしたらこの明治レジームのなかに「国民が天皇を〈国民の天皇化〉する」原理も含まれていたといってよい。徳冨蘆花は、大逆事件で処刑された幸徳秋水たちは維新の志士を引き継いで自由平等の新天地を夢見た者たちであるから、天皇はそうした彼らを臣民として抱擁してほしいと訴えた。そして天皇が「国民の天皇」になることを妨げている「君側の奸」たちを批判したのであった。蘆花のこの考えをさらに徹底したのが北一輝であった。1906年に発表された『国体論及び純正社会主義』は明治維新の近代革命の要素をさらに深化させてユートピア社会の実現をめざそうとするものであった。北は社会主義者との交流により大逆事件で逮捕されているが、その後1919年には『国家改造案原理大綱』を発表し、さらにそれを改訂した『国家改造法案大綱』はほどなくして超国家主義運動のバイブルとなり陸軍皇道派の青年将校たちを惹きつけていった。やがてそれが2.26事件へとつながっていったのである。明治の「天皇の国民」型のレジームは、天皇が君民のヒエラルキーの頂点を占める媒介項として国民統合をなすのに対して、北の「国民の天皇」を目指す運動は天皇を円の中心として君民が相互に水平的に結合する状態をイメージしたものであった。それは「天皇だけが統治の正当性を担いうる」という国体の掟を侵さないかたちで統合の原理を実質的に変更しようとする試みであった。 しかしその試みは、天皇自身によって断固として拒絶される。なぜなら青年将校たちは天皇への「忠義」を信奉しながら自ら打ち立てた「道義」を天皇の意思に優先させること憚ろうとはしなかったからだ。主観的にいかに自分たちこそ最もよく「国体の本義」を体現する者であると自己規定していても、「天皇との距離の近さ」が国体の道義の源泉であり、彼らはこの原理と正面から対立してしまったのである。天皇にとって自分の預かり知らぬところで「道義」が打ち立てられ、それが一人歩きすることはなによりも嫌悪すべきことであり、避けなければならなかったのである。 正統性の源泉を天皇との「近さ」だけにしか認めず、天皇から離れた道義を一切認めないという道義的退廃こそまさに「国体」そのものの姿だった。太宰治は敗戦後、こう書いている。「東条の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものはなかった。からっぽであった。怪談に似ている」と。 第8章「『日本のアメリカ』─『戦後の国体』の終着点」 戦後アメリカの経済的・政治的ヘゲモニーは1970年前後に揺らぎを露呈し始める。そのアメリカのヘゲモニーを支えてきた要因の一つは日本である。アメリカの「対ソ戦略」・「中国封じ込め政策」によって日本は戦争で失った韓国、台湾などの経済的後背地をアメリカの庇護のもとで回復することができた。そしてその結果として高度経済成長を実現しえた。東西冷戦構造は日本にとっては平和主義のもとでの経済発展を保証するきわめて大きな条件であった。しかし1971年の米中国交正常化は、そうした日本への寛大な保護者の役割を果たそうというアメリカの必要性が今後は失われていくことだろうということを意味した。 それに対して日本はアメリカへの自己犠牲的な献身で応えた。米中接近は中ソの離反を促進させ、続くレーガン政権による米ソの熾烈な軍拡競争とその延長線上でソ連東欧圏の崩壊がもたらされたわけであるが、その間日本はアメリカを財政面でも支え続けたのである。日本にとって冷戦構造は対米従属による果実もたらしてくれるものであったにもかかわらず、その構造を壊すことに積極的に加担し、「共産主義を最終的に打ち破った偉大なアメリカ」の実現に献身的な貢献をしたのである。 つまりレーガン政権以降40年以上にもわたってアメリカは世界の覇権国であり続けているが、それは日本の自己犠牲的な献身に支えられてきたといってよい。その過程で日本はアメリカからのさまざまな経済的要求を唯々諾々と受け入れ、その必然的結果として90年代以降から続く「失われた30年」が引き起こされたのである。 それではなぜこうした隷属といってもよい対米従属が続いているのであろうか。その一因としてアメリカの軍事力が挙げられるが、在日米軍基地の存在や日米安保条約を隷属の理由に挙げるのは適切とはいえない。ドイツも置かれている状況は同じなのに日本のような卑屈な対米従属をとってはいない。またフィリピンは経済力では日本より劣るのにアメリカ軍に対する対応は日本よりはるかに主体的である。 日本が在日米軍基地を受け入れている理由はその時期その時期で二転三転してきた。敗戦当初は「占領統治」であり、その後「東西対立における日本防衛」や「自由世界の防衛」となり、冷戦後は「世界の警察による正義の警察行為のため」とされ、近年は「中国や北朝鮮の脅威に対する抑止力」とされるに至っている。 しかし、結局は対米従属を合理化するそれらの言説はただ一つの真実に達しないための駄弁にすぎない。すなわち日本は独立国ではなく、またそうありたいという意思すら持っていないし、さらにはそのような現状を否認すらしているという真実に。 ニーチェや魯迅が言うように本物の奴隷は奴隷である状態をこの上なく素晴らしいと思い奴隷であることを否認する奴隷である。異様な対米従属=隷属を否認したうえで「国体」は護持されていると考える戦後保守派の人々はさしずめ本物の奴隷であろう。さらには本物の奴隷は自分が奴隷であることを思い起こさせるような自由人を非難するのである。「戦後国体」の崩壊期と目すべき安倍政権の長期化の中で政権に批判的な言動に対して与党保守派からの「反日」「親中」「反米」のレッテル貼りが横行している。彼らにとっては「反日=反米」であり、従って逆に言えば「愛国=親米」という図式となる。「戦後の国体」がアメリカを媒介としてはじめて「護持」しえたのであるから、「国体」への信奉はアメリカへの信奉となり、それを突き詰めていけば、もはやアメリカ自身に天皇そのものとして君臨してもらうしかないというところまでいくほかはない。示威行動において旭日旗とアメリカ国旗を掲げる極右の姿がそれを象徴的に物語っている。 加えて「親中」についてであるが、そこには明らかにレイシズムが潜んでいる。サンフランシスコ講和条約と日米安保条約のとりまとめ役を果たしてジョン・フォスター・ダレスは戦後対日支配の要点は日本人の欧米人に対するコンプレックスとアジア諸民族に対するレイシズムを利用することだとみなしていた。そうすれば日本はアメリカに従属し、アジアで孤立し続けるだろうとダレスは見通していた。 ダレスの見立て通りに、日本は経済成長によって欧米に追いつき、アジアにおけるアメリカの重要なパートナーとして引き続き一等国であり続けることによってそのコンプレックスとレイシズムを満足をさせてきたのである。 しかし、「欧米の仲間入り」はバブル期において対米進出した日本企業に対する欧米のバッシング・レイシズムの前に挫折を味わい、さらに今や中国を初めとするアジア諸国の経済的台頭により「アジアで唯一の一等国」という観念も無惨なほど根拠なきものとなり果てている。その結果として、いわば集団発狂のような現下の見苦しいレッテル貼りや卑しいレイシズムが横行し、個人と社会の劣化が進行しているのである。 ところで、現在安倍政権下で憲法改正が具体化していく可能性が高まっているが、実は憲法論の次元でいえば、矛盾の根本は憲法の条文と自衛隊の存在との間ではなく、憲法と日米安保体体制の間にあるのである。戦後の日本人は憲法9条を持つ平和国家であるというアイデンティティとアメリカの戦争への世界最大の協力者であるというアイデンティティの間にある矛盾はほとんど認識することなく、二つのアイデンティティの奇妙な共存を続けてきた。しかし東アジアの情勢の激動化によってその矛盾は誤魔化しようのない形で姿を現しつつある。安倍政権は、アメリカの「良き同盟国」の方向へと露骨に舵を切ったわけだが、それが取るべき唯一の選択肢ならば、我々は「アメリカ帝国の忠良なる臣民」としてアメリカの弾除けになる運命を喜んで甘受するほかはないであろう。 終章「国体の幻想とその力」 かつて中国文学者の竹内好は「一木一草に天皇制がある」と言ったが、仮に「天皇制なるもの」が、空気のように遍在して、日本社会の在り方を永久に規定しているのだとしたら、その支配から逃れることは永久に諦めるほかはないだろう、と著者は言う。しかし、著者は本書においては天皇制あるいは国体をあくまで近代日本が生み出した政治的および社会的統治機構の仕組みとしてとらえることに限定した、と述べている。一木一草の揺らぎにまで天皇制の痕跡を求めずとも、十分検証できるほど近い歴史的起源をたどることでその機能を把握できるはずだという確信に基づいてそうしたのだ、と。 われわれにとって身近な天皇制とは古代的意匠をまとった近代的構築物であり、天皇の存在および天皇制という統治機構は近代化を意図してつくられた装置にほかならなかった。そうであるからこそ戦後においてアメリカニズムと天皇制との間に代替可能性が生まれ、アメリカニズムはわれわれを取り巻く物質的生活において、それこそ一木一草に宿るものとなり得たのである。 安丸良夫が指摘した「戦前の国体」における@「万世一系の皇統・支配秩序の永遠性」、A「祭政一致という神政的理念」、B「天皇と日本国による世界支配の使命」、C「文明開化を先頭に立って指導するカリスマ的指導者としての天皇」という四つの基本的観念は、「アメリカを頂点とする戦後の国体」においては、それぞれ@は「日米同盟の永遠性」に代わり、Aの祭政一致とは司祭者が権力を保持する神政政治を意味するが、その司祭者は今日では「グロがーバリスト」と称される専門家集団たちがその役を務め、彼らが神聖皇帝たるアメリカ大統領の意思を忖度して差配を振るっているわけである。Bはかつては「八紘一宇」と呼ばれたが、今日ではそれは「パックス・アメリカーナ」に代わっている。そしてCはアメリカニズムの推進である。 さらに言えば、日本の国是といわれる平和主義も、今や「アメリカの平和主義」といってよいものとなっている。では「アメリカの平和主義」とはどのようなものか。それは世界中に部隊を展開しつつ、現実的・潜在的敵を積極的に名指し、時にはこれを叩き潰すことによって自国の安全、つまり「自国民の平和」を獲得するという「平和主義」である。安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、この「アメリカの平和主義」の考え方に日本の安全保障政策を合わせようとしているようにみえる。それはアメリカの軍事戦略との一体化であり、実質的には自衛隊の米軍への完全な補助戦力化、さらには日本全土のアメリカの弾除け化を意味する。 最後に天皇の「お言葉」についてであるが、この「お言葉」はある意味で「天皇による天皇制批判」といってよいものであり、この「お言葉」によってわれわれ自身が、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのかという問いを自らに問いかけざるをえなくなったといえる。しかし、「お言葉」における霊的一体性、霊的権威を認めることは、「天皇の権威主義的な神格化」につながるという批判も予想されるが、著者がその考えをあえて公表する動機は今上天皇の決断に対する人間としての共感と敬意からであると述べている。 「お言葉」を読み上げた天皇の姿の中に著者は闘う人間の激しさをみたという。天皇が何と闘おうとしているのか、その「何か」を本書において能う限り明確に示そうとしたのは「天皇の闘いには義がある」と確信したからであるとも言う。 そして「お言葉」が歴史の転換を画するものとなるか否かはひとえに民衆の力にかかっていると著者はいう。
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