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森まゆみ著『暗い時代の人々』(亜紀書房)
 森まゆみは昭和29年生まれの作家。彼女が戦前の左翼的人物たちに関心を持つようになったのは、現在の政治状況が民意を反映せず、どこか戦前の暗い時代情況に似てきたのではないかと感じ始めたからである。そしてそうした状況をおかしいと感じながらも人々はそれに異議申し立てることもせず自分たちの小さな生活を守ることに必死になっている。このような時代をどのように生きるべきか。
 そこで、戦前のあの暗い時代においても「精神の自由」を掲げて闘った人々がいたこと、彼らの灯した「ちらちらゆれる、かすかな光」を捉えようとしたものである。
 取り上げた人物は、斎藤隆夫、山川菊栄、山本宣治、竹久夢二、九津見房子、斎藤雷太郎、立野正一、古在由重、西村伊作の九人である。
 斎藤隆夫は、「ねずみの殿様」の愛称で親しまれた孤高の政治家である。彼は苦学して東京専門学校(現早稲田)を卒業し弁護士となるが、まもなく政治家を志し帝国議会議員となる。斎藤隆夫は左翼的人物ではない。むしろ保守政治家であるが、彼はアメリカ留学の経験もあり立憲政治こそなによりもまもらなけれはならないと考えていた。斎藤隆夫の名演説の最初は1925年の「普通選挙法賛成演説」である。斎藤隆夫はこの演説で当時の家父長制をも厳しく批判している。
 二度目は昭和11年(1936)5月のことである。当時の日本では次第に軍部の力が増大し、軍部に逆らう者は力でねじ伏せられていった。左翼ばかりでなく、自由主義者や文化人、そして政党政治家さえテロの餌食となった。このような状況下で斎藤隆夫はあの有名な「粛軍演説」をおこなったのである。彼は演説の中で5.15事件の裁判に対して軍部があのような圧力を加えて、軍人たちを軽い刑罰ですますようなことがなかったならば2.26事件もおこらなかったであろう、と軍部に対する容赦ない批判をしている。
 そして、最後に「反軍演説」があり、併せて三大演説とよばれている。この反軍演説は昭和15年(1939)年2月2日、斎藤隆夫69歳の時である。支那事変に関する質問という形で行われたものであるが、支那事変の長期化に伴い軍人の犠牲が増大し、もはや耐えがたいものになっているにも関わらず聖戦の美名の元に、現実の矛盾を隠蔽しているのは国民に対して許されない、と厳しい軍部批判を展開したのである。一方で戦争のお陰で甘い汁を吸っているものすらある、と戦時下の不公平は是正しなけらばならないと断じたのである。
 この反軍演説により、斎藤隆夫は懲罰動議にかけられ議員辞職を余儀なくされる。しかし、その後ほどなく選挙で再選され、議員に返り咲く。地元但馬の人々は、第一位で彼を当選させたのである。
 斎藤隆夫は、戦後吉田内閣、片山内閣で大臣を務め、79歳で亡くなっている。
 
 山川菊栄は山川均の妻であるが、二人は警察に逮捕され、そこで出会って結婚した。山川均は大杉栄、堺利彦とならぶ日本の社会主義者の先駆けで、また共産党の創設にも参画した。多くの同志が弾圧によって命を落とすなかで、何度も逮捕されながら、妻菊栄とともに幸運にも戦後まで生き延びることができた。菊栄は、青鞜社で平塚らいてうや伊藤野枝らと婦人解放運動にも携わっていた。戦後は、初代の婦人青年局長となって活躍した。
 
 山本宣治は、社会主義者であり、また生物学ならびに性科学者でもあり、産児制限運動にも貢献した。また、無産政党から出馬して帝国議会議員となり治安維持法に反対したため、右翼青年に暗殺された。
 彼が殺されたのは神田の光栄館というところで、暗殺者は黒田保久二という男であるが、彼は3.15事件で共産党の弾圧を指揮した警察官僚の大久保留次郎に使嗾されたではないかといわれている。「やません」の愛称で親しまれた。
 
 独特な美人画で知られる竹久夢二は、早稲田実業を出てからさまざまな職業を転々としながら絵筆をとり、やがて挿絵作家として活躍し、その後画家としての名声を獲得する。彼の周辺には若いころから左翼的人物が多くいた。その縁もあって幸徳秋水らが主宰する平民新聞に多くの挿絵を寄せ、社会主義者らとの交流もあったが、思想的にはボヘミアンであり、元祖ヒッピーという感じだ。恋多き男でもあり、絵のモデルとも次々と交情を結んだ。晩年、48歳でアメリカに渡り、その後ヨーロッパ各国を巡った。ナチスの台頭するドイツにも足を踏み入れた。ヒトラーが政権を握った直後の1933年、彼はベルリンにいた。ナチスに追われて店を閉めるユダヤ人たちの様子を見て、「鉄兜を着たヒトラーが何をしでかすか、日本といい、心がかりではある」と日記に記している。同年9月には日本に戻り、まもなく結核が悪化し、翌年の9月に亡くなっている。放浪の果てに彼はすっかり孤独となり、姉を除く家族とも交流を絶った。有島武郎の弟有島生馬が葬儀を執り行った。
 
 九津見房子(くつみふさこ)は、16歳の時に講演会で山川均に出会い、その影響で社会主義者となる。堺利彦の娘の堺真柄、中曽根貞代らとともに社会主義の婦人団体赤瀾会を創設、山川菊栄や伊藤野枝らが顧問として支えた。九津見房子は、また山本宣治らの産児制限運動にも携わっていた。治安維持法で逮捕、服役、5年3ヶ月札幌刑務所に服役した。服役中に夫の三田村四郎が転向し、出獄後は獄中転向者の救援活動に携わっていた。その後ヨーロッパ彼女は山本宣治の親戚高倉輝の紹介で沖縄出身の画家でアメリカ共産党員の宮城與徳を知り、宮城の誘いでゾルゲ事件に関わり逮捕される。ゾルゲと尾崎秀美は死刑となり、彼女も懲役8年の刑を受けた。
 戦後まもなく出獄するが、ゾルゲ事件などについては多くを語らなかった。夫三田村四郎は山川均らともに労働運動などにも携わったが、やがて反共路線をとるようになり、反組合側に回った。九津見房子は、三田村四郎とともに過ごし、1980年に89歳の生涯を閉じた。
 
 古在由重は、東大総長である古在由直を父に持ち、母はジャーナリストの清水紫琴である。理系が専門であったが、その後哲学に惹かれ戸坂潤、三木清などと「唯物論研究会」を組織する。東京女子大で教える傍ら共産党にも入党し、左翼活動を続けた。また、東京女子大の教え子の田中美代と昭和12年に結婚している。治安維持法により逮捕、裁判を抱えながらゾルゲ事件で逮捕された尾崎の弁護人探しに奔走したりした。盟友の戸坂潤と三木清は獄中死している。
 戦後、古在由重は共産党員として原水爆禁止運動や家永教科書裁判に関わり、闘う哲学者としての活動を続けた。その後1984年に共産党を除名された。1990年に88歳で亡くなっている。

 最後に、西村伊作を取り上げている。西村伊作は、1921年に自由な教育で知られる文化学院を創設したことで知られる。
 西村伊作の叔父の大石誠之助は医師であったが、日露戦争に際して、非戦論の演説を行うなど当時の幸徳秋水らと交流があった。大逆事件に際して、叔父大石誠之助も逮捕、投獄され死刑となった。西村伊作もこの事件に関連して取り調べを受けている。
 西村伊作は莫大な財産を相続し、山林経営に携わる傍ら、地元新宮にバンガロー風の二階建て建築物を建てたりした。これが現在の西村伊作記念館となっている。
 また、与謝野晶子・鉄幹夫妻とともに自由な教育をする学校の設立を企画し、お茶の水の駿河台に文化学院を創立した。昭和10年のことである。その後関東大震災で校舎は全壊したが、昭和12年に新しい校舎を完成させ、文化学院は当時の蒼々たる教師を揃え、ユニークな授業を行った。文学、美術、演劇、映画、ファッション界に多くの人材を輩出した。しかし、軍国主義が隆盛するとともにこうした自由主義的な教育に対する締め付けも厳しくなり、西村伊作は学校経営の一線を退いていたが、学校での講話のなかで、「天皇はなくてもよい」などと発言したことから不敬罪で逮捕され、裁判にかけられたりした。こうしたなか、昭和18年東京都は文化学院に対して閉鎖命令を出した。生徒はそれぞれ別の学校に振り分けられた。
 戦後、西村伊作の裁判は終戦によりうやむやになり、文化学院も昭和24年には再興された。西村伊作は再び院長に復帰した。昭和38年78歳の生涯を閉じた。
 西村伊作は、豊かな資産を持ち、汗水流して働く必要のない恵まれた家庭環境で育った。彼の座右の銘は『我に益あり』で、これはどんな不愉快なことでも、苦しみでも、損害でも、すべて自分の生涯にとって益のあることだと思う負け惜しみの精神だ、という。有り余るほどの資産が彼を支えてくれていたという現実に裏打ちされた余裕もあったであろうが、時代への反骨精神は並々ならぬものがあった。
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