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梯久美子『狂うひとー「死の棘」の妻・島尾ミホ』
(新潮社 2016.10.30刊)
 作家島尾敏雄の妻島尾ミホの生涯を追ったノンフィクション。
 島尾ミホは、大正8年10月24日に鹿児島に生まれる。その後、二歳の時に、奄美大島の加計麻呂島に住む実父の姉吉鶴の嫁ぎ先である大平家に引き取られることとなった。大平家はかつての琉球王国の支配層につらなる家系であり、義父の文一郎は村ではただ一人ウンジユ(旦那様)と呼ばれ、高い教養を身につけた人物であった。
 そのお陰もあって、ミホは、十三歳の時には奄美大島を出て、東京の日の出高等女学校で学ぶことが許された。その後、十八歳で女学校を卒業したあと、しばらく東京で勤めたが、体をこわし、再び加計麻呂島に戻ってきて、故郷の押角国民学校の代用教員となったのである。
 ミホが島尾敏雄と出会ったのは昭和19年12月のことで、彼女が代用教員をしていた国民学校に、加計麻呂島に赴任してきた特攻艇「震洋」の島尾隊長が挨拶に訪れ、そこで二人は初めて顔を会わしたのである。
 二人は、それからほどなく恋に落ちる。島尾隊長は、やがて「震洋」の第一艇の乗組員として敵艦艇に体当たり攻撃をしかけ帰らぬ人となる運命であったから、二人の恋はまるで花火のように短い時間の中で激しく燃え尽きるはずであった。
 ひと目を忍んで、二人は夜中に逢瀬を重ねた。島尾隊長が出撃命令が下された時には、ミホは「震洋」の出撃基地の近くの浜辺に出て、そこで海の彼方を望みながら自らも命を絶つつもりだった。
 しかし、島尾隊長の出撃の直前の8月15日、日本は無条件降伏となり、出撃はなくなった。恋は、そこで終わらなかったのである。戦争が終わってまもなくの8月末、島尾は、ミホと結婚の約束を交わす。ミホの養父である大平文一郎も二人の結婚を許してくれた。
 島尾は、除隊手続きのため、隊員20名を引率し、9月1日に一足先に加計麻呂島をあとにした。そして、除隊後島尾は実家の神戸に帰り、父親と再会。
 父の許しを得たあとで、ミホを迎えに行くつもりだったが、ミホは自分の方から神戸まで行くと言って、船を乗り継いで、神戸までやって来た。神戸に着いたのは、年を越えた昭和21年1月のことであった。そして、3月に二人は結婚式を挙げた。島尾敏雄二十八歳、ミホ二十六歳。
 島尾は、伝手を頼りに非常勤講師の職を得て、それで糊塗をしのきながら、雑誌に小説を精力的に書き、作家の道を模索していた。
 やがて、島尾一家は東京に出てくる。その間に子供も二人授かっている。昭和23年7月に長男伸三、そして昭和4月にマヤが産まれている。しかし、島尾が作家として認められるようになると、次第に夫婦の間に大きな亀裂が生じてくる。それは島尾の女性問題であった。
 作家島尾にとっては、浮気や不倫は創作のための「肥やし」であったのかもしれないが、ミホはそうした夫の不貞に対して不満と怒りを露わに示した。
 ミホにとっては、自分を愛して大切に育ててくれ、なによりも娘の幸せを望んでくれていた義父文一郎を一人島に残して、夫のために東京まで出てきたのに、そんな自分をないがしろにする夫の不貞は、なによりも義父への裏切りとして許せなかったに違いない。
 そして、島尾にすれば、戦時中の高揚感はすでに失われており、その時代のことを忘れられないでいるミホに対して疎ましく感じていた。死という裏打ちが失われたときエロスもまた失われたのである。二人の戦後はこうしたズレの中で始まったといえる。
 やがて、家族の中はまさに地獄と化してゆく。ミホの夫に対する不信感は極点に達し、探偵を雇って夫の不貞について徹底的に調べ上げるようになる。そして、ついに夫の日記の中に決定的な言葉を見つけて、ミホは精神のバランスを崩してしまうのである。
 結局、ミホは二度の精神科病棟への入退院を繰り返し、二度目の退院のあと島尾とミホは奄美大島に帰ることにしたのである。
 この間の二人を描いた作品が島尾敏雄に代表作『死の棘』である。
 本書ではこの作品について詳細な分析も行われていて、作品批評としても高い評価を与えられるものとなっている。
 なお、二度目のミホの入院の時に、島尾は、これからはすべて「ミホの命令に一生涯服従す」との誓約書を書いて、病院内に一緒に泊まり込んで看病にあたった。その効果もあったのか、ミホはどうにか退院し、家族ともども奄美大島に帰ることにしたのである。
 奄美大島に戻ってからの島尾は、ひたすらミホにかしづき、ふたりはオシドリ夫婦を演じた。ミホの発作がまったく収まったわけではないが、傍目から見れば仲の良い夫婦に見えていた。そして、島尾も奄美大島の文化財振興のために力を注いだ。
 また、ミホも五十歳になった頃から作品を雑誌に発表するようになった。
 なお、島尾敏雄は昭和61年11月12日に六十九歳で亡くなったが、夫の死後ミホは二十年生き、その間に彼女は作家島尾ミホとして、田村俊子賞を受けた『海辺の生と死』をはじめ優れた作品を残した。それらの作品についても本書では、詳しい解説がなされていて興味深いものとなっている。
 なお、ミホは誰にもみとられることなく平成19年3月25日に奄美の自宅で脳出血のため亡くなっている。ミホの亡骸を最初に発見したのは、祖母の身を案じて東京から駆けつけてきた孫の島尾真帆(漫画家)であった。25日に奄美に着き電話したが、ミホは出なかった。翌朝、家を訪ねると、鍵がかかっていて中からはなんの返事もなかった。仕方なく翌朝業者を呼んで鍵を開けてもらって、中に入るとすでに事切れたミホの姿があった。
享年八十七歳。

   
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