著者は、日本の宇宙開発のパイオニアでもあり、また宇宙科学の一般への普及啓発に貢献したことから「宇宙教育の父」とも呼ばれる。 この本は、1857年生まれでコサックの血を引くとも言われるロシア宇宙ロケット開発の父ツィオルコフスキーの生涯をまとめたものである。 ガガーリンの名前は知っていても、ツィオルコフスキーの名前はほとんど知られていない。しかし、この独学の宇宙科学者の先駆的で、独創的な研究がなければ宇宙開発はもっと遅れていたであろう。 ツィオルコフスキーは、10歳の時に猩紅熱にかかりその後遺症で耳がほとんど聞こえなくなった。わずかに右耳は音が聞こえたが音声はほとんど聞き取れなかった。 このため普通に学校に通うことはできず、ツィオルコフスキーの学識は図書館での独学によって培われた。そのきっかけを与えてくれたのは16歳からのモスクワでの図書館通いで出会ったルミャンツェフ図書館の伝説的司書ニコライ・フョードロフであった。フョードロフはトルストイとも親交があり、修道僧にして卓越した哲学者であもあり、「モスクワのソクラテス」と言われた。フョードロフの導きにより、科学、数学、哲学の基礎をしっかり身につけることができた。ここでの学識がツィオルコフスキーの人生を方向づけてくれた。やがて家庭教師の仕事で自活の道が開け、さらに 教師の仕事につくことができた。 物理学と数学を教えながら、ツィオルコフスキーの関心は子供の頃から抱き続けてきたロケットで宇宙に飛び立つ夢へと向かう。そして、ついにツィオルコフスキーはロケットの推進原理に関する「ツィオルコフスキーの公式」に辿りつく。これは現在でもその有効性は失われていないという。 また、ツィオルコフスキーは空想科学小説の分野でも先駆的な業績を残している。最初の『月の上で』は1893年に出版された。彼の小説は当時の最先端の科学的な知見に裏付けられていたもので単なる空想ではなかった。続いて出版した『地球と宇宙への幻想』では歴史上初めて「人工衛星」という言葉が使われている。そして宇宙へ飛び立つための科学的な方法こそかの「ツィオルコフスキーの方程式」だったのである。1903年にそれは初めて世に出た。 さらに彼はロケット開発の具体的な計画を練り上げる。燃料には液体酸素と液体水素を使い多段式ロケットを使うというアイデアはその後のロケット開発の方向性を決定づけるものであった。残念ながらツィオルコフスキーは1935年に78歳で亡くなっているので、1957年10月4日のソ連での初の宇宙ロケット・人工衛星の打ち上げには間に合わなかったが、その指揮をしたコロリョフもツィオルコフスキーの影響を受けた一人であった。
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