著者は1958年生まれの社会学者、思想家。アカデミズムを離れ独自の言論活動を展開している。これは東京自由大学で行った「社会学の新概念」という連続講義の中から「神」と「愛・憎悪」に関する二つの講義を加筆・修正のうえ収録したものだ。 第1章は「神」概念を論じた「資本主義の神から無神論の神へ」、そして第2章は「愛・憎悪」概念を論じた「憎悪としての愛」から構成されている。 第一章において、著者はまず現代社会においてもっとも神や信仰から遠いと思われる側面こそが実は宗教現象であり、神の存在を前提としていると述べ、その神から最も隔たっている側面とは資本主義であると断じている。ところでかのマックス・ウェーバーは有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、資本主義がなぜ西欧社会で生まれたのかを問うて、辿りついのがプロテスタンティズムのエートス(倫理的行動様式)であった。しかし、ウェーバーのエートスという概念は難解だ。なぜ資本主義というもっとも世俗的な現象と逆に純粋信仰を求めるプロテスタンティズムの倫理とが結びつくのか、というのが第一の疑問であり、第二の疑問はなぜ資本主義はプロテスタンティズムとは縁のない非西欧社会へも拡大していったのかという点である。 第一の疑問については著者は、ラカン派に伝わるあるジョークを引用して紐解いてゆく。自分を穀物の粒であると思い込み、外に出ると鶏に食べられてしまうと外出もままならない精神病患者が精神分析の治療の結果どうにか自分を穀物の粒であるという妄想から解放された。彼はようやく外出がかなって家から外に出たのであるが、間もなく舞い戻ってしまったのである。どうしてかと彼に尋ねると、自分は穀物の粒ではないことは分かっているが、鶏はまだそれを分かっているのでしょうか、というわけである。 これと同じ状態に資本主義に邁進するものたちは置かれているのではないか。すなわちもはや神(妄想)など信じていないと思いつつ神(妄想)を信じている信者のように行動する先ほどの精神病患者のように。つまり資本主義ほどプロテスタンティズムの精神と掛け離れているものはないが、利益追求の人々の行動様式はまさにウェーバーが「資本主義の精神」と呼んだプロテスタンティズムの世俗内禁欲に合致しているようにみえる。この無神論的な意識とプロテスタントの行動の捻れと共存の在り方は意識のレベルでは妄想(神)を信じていないのに、妄想(神)を信じている人と同じように行動するあの精神病患者と同じである。そして実はこの精神病患者の姿はかの妄想を「場の空気」や「世間」に置き換えてみたとき、まさに現代社会の私たちの姿でもある。 ここから進んで大澤は、資本主義の行動様式を規定しているのはプロテスタントの神であり、資本主義は一種の宗教であると主張する。 そして、プロテスタントの思想の根本に人間の運命はすべて神によりあらかじめ決められているという予定説がある。この予定説は神を超越的存在と考える限り必然的に導き出されてくるものだ、と大澤はいう。さらにいえば人の運命はほとんど神の気まぐれにしか見えないこともしばしばあるがこの気まぐれにこそ神の超越性が担保されているのだという。つまり、その気まぐれが神の自由意志を人々に示すことになるからだと。 ただ、他方で予定説は神の気まぐれに対する疑問の本当の答えにはなっていないとも大澤はいう。なぜなら予定説は神は超越的存在だから神の気まぐれや自由意志など私たちには知りようもないし、知らされもしないという前提に立ち、すべては神に予定されているというのものだとしたら、この予定説というのは実はなぜこんなひどい気まぐれを神はするのかという疑問に対するは答えにはなっていないという。なぜならそれはその疑問には回答しないという回答だからであると。 ここまで来るともはや無神論に近づいている。大澤はさらに聖書の言葉を挙げながら、聖書では三位一体説のように神の位置付けすらどうやらかなり適当だ。キリストは神でありかつ人間でもあるというのはどうみても矛盾としかいいようがない。三位一体説はどうにも統一しようがないものを無理矢理統一したように見せかけるトリックであり、逆にそれらは統一しようがないということを証明しているようなものだ、ともいう。こうして大澤は神の存在がきわめてあやふやなものであることを突き詰めていく。聖書の記述には沢山の矛盾がある。神は変幻自在に立ち現れるが、それはある意味で量子力学的な存在の仕方といってもよく、だとすると神は唯一神として存在するのではなく神の多数の偏在、すなわち逆に言えば偏在の否定、不在において存在しているということになる、という。存在しない限りで存在しているという神の在り方はアラブに伝わる「12頭目のラクダ」のあり方に似ている。これはアラブの商人が遺産として11頭のラクダを遺したが、遺産の分割に当たって長男には半分のラクダ、次男は四分の一、三男は残り六分の一を取りなさいと指示した。しかしラクダは11頭しかいない、そこである賢者が見事な解決方法を示した、つまり自分のラクダを1頭加えて12頭で、それぞれ取り分を計算すると、長男は半分の6頭、次男は四分の一の3頭、次男は6分の一の2頭で、合わせて11頭になるから余った1頭は私のもので、めでたしめでたしというわけである。存在していない限りで存在しているという神はこの12頭目のラクダと同じというわけである。 こうして大澤は大胆にもこの「存在していない限りで存在している神」を媒介にその視点から現在を遡及的に見返すことができれば、不可避と思われている現在の神や信仰という宗教現象など諸々の地平を乗り越え行くことができるのではないかと、語っている。 愛と憎悪の哲学も、愛と憎悪がしばしばアンビバレントな関係にあるということを論じたもので、激しい憎悪から強い愛の絆が生まれてくるということが意外に多く、中途半端な感情からは愛すら生まれない、とも述べている。文学のテーマにも通ずるものがあるが、これくらいにしておきたい。
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