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フョードル・ドストエフスキー『ネートチカ・ネズワーノワ』(新潮社)
作品について あらすじ 登場人物

作品について

はじめに
『ネートチカ・ネズワーノワ』(ロシア語原題『Неточка Незванова』)は、フョードル・ドストエフスキーの中編小説で、1849年に『祖国雑記』1月号、2月号、5月号に発表された。ドストエフスキーは同年4月23日にペトラシェフスキー事件に連座して逮捕されたため、5月号には、作者ドストエフスキーの名前を出すことは許されず、この作品も未完に終わった。シベリア流刑前の最後の作品となる。ドストエフスキーは1846年12月の時点で、兄ミハイルに宛てた手紙の中でこの作品について次のように書いている。「僕は一心不乱に書いています。なんだかわが国の文学界全体、雑誌や評論家連中を相手どって訴訟でも起こしたような気がしてなりません。そこで「祖(国)雑記」に掲載される三部にわかれた僕の長篇小説でこの一年間も文壇の首位を確保して僕に悪意をいだいている連中の鼻をあかしてやるつもりです。」(1846年12月17日付の手紙 筑摩書房版『ドストエフスキー全集第』第15巻 小沼文彦訳)

(注)なお、この作品に関する記述はウィキペディアのドストエフスキーの項の作品紹介の内容に酷似していますが、いずれもウィキペディアからのコピペではありません。ウィキペディアのオリジナル原稿は筆者が書き下ろしたもので本稿ではそれに拠っています。

 この小説が執筆時の1846年は、ドストエフスキーが文壇にデビューした年であり、1月には『貧しき人々』、そして2月に『分身』、10月に『プロハルチン氏』が発表されている。しかし、『貧しき人々』以降の二つの作品については本人の期待と意気込みに反して、あまり評判が良くなかった。そこでなんとかして自分の名声取り戻したいと必死になっていた時期でもある。
 結局雑誌掲載までは、それから約2年あまりを要したことになるが、不運なことにドストエフスキーは政治的事件(ペトラシェフスキー事件)に連座したため、途中で筆を折ることを余儀なくされてしまう。逮捕後の1849年6月20日に弟アンドレイに監獄から宛てた手紙において、『祖国雑記』5月号に掲載された『ネートチカ・ネズワーノワ』の第三篇について、「僕のいない留守に、僕の知らないうちに掲載されてしまったので、僕はその校正刷りさえも見ていないような始末なのだ。僕は心配でならないのだよ。いったいどんな形で掲載したのかそれにあの長篇を妙に歪めたりはしなかったかと思ってね!だからぜひその号を送ってくれないか。」(前掲書)と頼んでいる。
 しかし、この5月号に掲載されたものには作者ドストエフスキーの名前は検閲局により削除されていたのである。ドストエフスキーは、シベリア流刑後も結局この作品を書き継いで完成させることはなかったが、1860年に『著作集』が出版されるに際し、雑誌に発表された原稿に手を加え、現在のような中編作品としての体裁が整えられた。

 「ネートチカ・ネズワーノワ」という名前は、日本語訳をすれば「名無しのなし子」と言ったような意味あいで、母親がつけた愛称である。本名は「アンナ」で作品中では「アンネッタ」とも呼ばれている。ネートチカの父親は彼女が2歳の時に亡くなり、母親はその後イェフィーモフという風変わりな音楽家と再婚する。
 ネートチカのこの継父に対する幼少期の痛ましいともいえる愛慕の情は、それに続く侯爵令嬢カーチャへの甘いうっとりとするような愛慕の情との対比を際だたせる役割を果たしている。そうした両極端ともいえる境涯を経てネートチカは、さらにカーチャの義姉にあたるアレクサンドラ・ミハイロヴナの家に引き取られ、そこで経済的・社会的には恵まれた家庭に見えるアレクサンドラ家の痛ましいともいえる夫婦の暗闘に触れることになる。
 激しく悩みながらも彼女はそれを受け止め、できればそのもつれた糸を解きほぐそうともがく。アレクサンドラ・ミハイロヴナを前にしてその夫ピョートル・アレクサンドロヴィッチとネートチカの間で繰り広げられるきわどい追及劇においても、すでにネートチカは堂々と渡り合えるほどに成長を遂げていたのである。もしこの作品が書き継がれていたら、カーチャとネートチカの再会後のドラマがどのようなものになったのか、非常に興味がそそられるところであるが、それは読者の想像に委ねるしかない。


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