あらすじ

マーリヤ・アレクサンドロヴナ・モスカリョーヴァはモルダーソフ市の第一の貴婦人であることは誰も認めるところである。それは彼女が、誰よりも情報通であったことと、抜きんでた政治力をもっていたからである。もちろん、そのために彼女は社交界の多くの人々からはむしろ憎まれていたといっていい。 彼女の夫アファナーシィ・マトヴェーイッチは、風采は堂々としていたが、どうしようもない間抜け男で口を開いたら最後周囲をあきれさせずにはおかない。そんなわけでマーリヤ・アレクサンドロヴナ・モスカリョーヴァは、夫の退職を機に彼をモルダーソフから3キロほどの郊外の家に遠ざけてしまったのである。 夫婦には、ジナイーダ・アファナーシイェヴナという絶世の美人で23歳になる一人娘がいた。ジーナ(ジナイーダの愛称)がどうしてまだ結婚していないかというと、彼女がかつて小学校の教師をしていた青年と関係を結び、彼女が書いた恋文が人から人に渡った、という噂がまことしやかに流されたからである。しかし、その手紙は誰一人として見た者はいなかった。しかもそんな噂をあとかたもなくもみ消すのは、マーリヤ・アレクサンドロヴナにしてみればわけのないことだったのだ。 そこで、彼女はそろそろ適当な相手と結婚させなければと考えていたところ、まもなくパーヴェル・アレクサンドロヴィッチ・モズグリャコフという求婚者が現れた。若いスマートな貴族青年であったが、頭の方はちょっと抜けていて、なにやら新思想にかぶれているらしい。
それから5ヶ月ほど経ってある大事件が持ち上がった。K侯爵がモルダーソフにやってきてマーリヤ・アレクサンドロヴナの家に寄ることになったのである。K侯爵は大地主の名門貴族で、かつてはその名を社交界に轟かせた人物で、6,7年前にモルダーソフの町にも住んだこともあり、その時彼は町の幾人かの女性とロマンスを繰り広げ、多くの貴婦人たちにとても好印象を残していったのである。 しかし、その後侯爵は相続遺産をめぐって親戚の者たちが、あれこれ干渉し、彼のことを精神薄弱と言いたて、あやうく精神病院にも入れられかねない危機もあったらしい。そんなこともあってK侯爵はその後、人格も変わってしまい、まるで世捨て人のようになってしまったという。最近は、領地のドゥハーノヴォに閉じこもり、得体の知れないスチェパニーダ・マトヴェーイヴナという中年の太った女にほとんど監視されて生活しているとのことである。侯爵のすることいえば、カツラの調整や化粧をして着飾ることぐらいであったらしい。 K侯爵がマーリヤ・アレクサンドロヴナの家に寄ることになったのは、娘の求婚者モズグリャコフのおかげである。侯爵は、監視人のスチェパニーダ・マトヴェーイヴナがモスクワにいる親戚の者が危篤だとかで屋敷を留守にしたため、その留守を見計らって屋敷を抜け出したのである。そして知り合いの司祭を訪ねる途中に馬車の事故に遭い、そこにたまたま出くわしたのが侯爵の遠い親戚だというモズグリャコフで、とにかく「伯父様」を助け出し、とりあえずマーリヤ・アレクサンドロヴナの家に連れてきたのである。 モズグリャコフは、娘のジナイーダ・アファナーシイェヴナに惚れ込んでいてなんとしても結婚したいと望んでいたが、ジーナの方は、なかなか首を縦に振らず、あいまいな態度をとり続けていた。ジーナは、まだあの小学校教師との恋愛事件の傷が完全に癒えていないのだった。 その日も、モズグリャコフはジーナの返事を聞くためにマーリヤ・アレクサンドロヴナの家に来る途中だった。侯爵を二階の部屋に上げたあと、モズグリャコフはジーナに返事を尋ねるのだが、ジーナは結局まだ決心がつかない、もう少し待ってほしいというばかりだった。 K侯爵はマーリヤ・アレクサンドロヴナの家で身支度を整えたあと、夕食までには必ず戻ってくると言ってモズグリャコフと一緒に知事のところへ出かけて行ったが、その間にマーリヤ・アレクサンドロヴナは、K侯爵の訪問が大きなチャンス到来だとひらめいたのだ。彼女は、うだつのあがらないモズグリャコフよりも侯爵の方がはるかに娘の結婚には有利だという判断がはたらいたのである。ジーナの魅力で侯爵をたぶらかすのはいとも簡単に思えた。問題は娘が、それに乗ってくれるかだ。 彼女の家にはお茶の給仕係を兼ねて親戚筋の未亡人ナスターシャ・ペトローヴナ・ジャーブロヴァがいたが、用事を言いつけてそのナスターシャを部屋から追い出すと、さっそくマーリヤ・アレクサンドロヴナは娘の説得にかかった。しかし、このナターシャはなかなかのくせ者で、台所に行くふりをして、鍵穴から居間の様子が伺える物置部屋に入ってマーリヤ・アレクサンドロヴナとジーナの様子を探ることにしたのである。
部屋で娘と二人きりになったマーリヤ・アレクサンドロヴナは、娘の昔の恋愛事件から話を始めた。自分はもちろんあの男との結婚など認めやしなかったし、お前の名誉のためにもあの手紙をもみ消さなければならなかった。実はあの手紙を密かにどこかの家から盗み出してくれたのはナターシャで、おかげで彼女には二百ルーブリもふんだくられたけど、とにかくそれでこの話はなんとか下火になった。しかし、あれから二年も経つけどお前の心の中ではまだあの恋は消えていないみたいだし、いまやそれは崇高な理想のようにさえなっているに違いない、とマーリヤ・アレクサンドロヴナは言った。 ジーナはそんな話を今更蒸し返してなんになるのか、と怒って言った。そこで母親は、もしお前があの侯爵と結婚したら、お前は外国にでもどこでも行けるし、お前を中傷ばかりしているこんな田舎町を永久に見捨てることもできるのだ、それにモズグリャコフとの結婚だってあれほど嫌がっているのだからと言った。 ジーナは侯爵との結婚話に面食らい、あきれ果て、私は誰とも結婚なんかしない、と突っぱねた。ジーナが母親の打算に簡単に乗るはずもないことは母親も分かっていた。そこで、もしK侯爵と結婚したら外国に密かにあの青年を呼び寄せて療養させてやることもできるし、侯爵が亡くなったあとなら、健康を取り戻した青年と大いばりで結婚すらできるのだ、とさらに話を向けたのだ。ジーナの心が少し動いたようだった。 実際、K侯爵は外見はカツラや化粧などで一見若そうに見えたが、身体はぼろぼろで、右目は義眼、左足は義足で総入れ歯、おまけに肋骨も一本折れたままというポンコツだった。侯爵は生きてもあと1年か2年の辛抱だと母親は踏んだのだ。そうなれば、娘は侯爵未亡人として輝く未来が待っている。それまでは外国で暮らし、侯爵が亡くなってから、愛する男と結婚してもいいのだ、どうみても悪い話じゃない、というわけだ。 マーリヤ・アレクサンドロヴナは娘がまだあの青年を忘れられないこと、しかも青年が肺病を患っているらしいことも知っていた。母親はそこをみごとについたわけだ。娘が母の手に落ちそうなところで、間が悪く大佐夫人ソフィア・ペトローヴナ・ファルピーヒナがやってきた。ジーナは自分の部屋に戻った。 大佐夫人は侯爵の到来で町中の婦人連中が気が狂ったようになって、侯爵は引きずりまわしている、と伝えてきたのだ。侯爵は、知事が不在だったのでそのあと侯爵の親戚筋にあたる検事夫人アンナ・ニコラーイェヴナ・アンチーボヴァのところへ行き、そこで夕食をとることにしたらしいが、夕食までの時間、今度はナターリア・ドミートリイェヴナ・パスクージナが自分の家に侯爵を誘い出し、そこでなにやらまだ十五歳ほどの娘たちにカンカン踊りをさせて侯爵の気を引こうとやっきになっている、という話を騒ぎ立てて帰っていった。 大佐夫人が、もたらした情報はマーリヤ・アレクサンドロヴナを慌てさせた。急いでまずジーナを説得しなければと娘の部屋に行った。するとなんとジーナが母親の提案を受け入れる、と言ったのだ。彼女の本心まではつかめなかったが、一度決めたからには彼女はたとえどんな結果になろうとも対処する覚悟でいたのは確かだった。そこで、マーリヤ・アレクサンドロヴナはすぐさま行動に出た。 彼女は、まずアンナ・ニコラーイェヴナ・アンチーボヴァの家に行き、ちょうどそこにやってきた侯爵をモズグリャコフが止めるのも聞かず、無理矢理モズグリャコフともども自分の馬車に乗せて家に引っぱってきたのである。侯爵を連れて来たはいいが、モズグリャコフの前でジーナの話をするわけにもいかないので困っていたところ運良くモズグリャコフが、これから名付け親ボロドゥーイェフのところにどうしても顔を出さなくては、と言ってくれた。喜んでマーリヤ・アレクサンドロヴナはモズグリャコフを送り出した。あとはジーナに侯爵の接待をさせ、酒をたっぷり飲ませればいい。 しかし、モズグリャコフが玄関を出ようとする時、ナターシャが彼の所にやってきて、出かけている場合じゃないですよ、ジーナが侯爵のところに嫁にやられようとしているのを知らないのか、ご自分の耳で確かめられたらよいでしょう、と言って、彼を物置部屋へ案内した。その時、サロン部屋ではマーリヤ・アレクサンドロヴナとジーナによる侯爵への接待が始まっていた。侯爵はジーナの美貌に心奪われたばかりでなくその歌声にも我を忘れた。マーリヤ・アレクサンドロヴナは、その合間にしっかりと、ジーナを売り込み、瞬く間に侯爵から、私はお嬢さんを熱烈に愛している、という言葉を引きだしたのである。 そして、マーリヤ・アレクサンドロヴナが、娘を手放すのは死ぬほどつらいけど私の天使をあなたに差し上げます、と言ったので、侯爵は、さっそくこの場ですぐにでも式を挙げたい、これから領地へ使いの者をやろうと言い出した。そのとき、侯爵はあの監視女のことを思い出し、なにやら弱気になり涙にくれた。マーリヤ・アレクサンドロヴナは、今日のところはここまでと引き下がるほかなかった。 侯爵がそこを引き上げると、まもなく今までの話を物置部屋で聞いていたモズグリャコフが現れた。彼はジーナを責めた。しかしジーナはあなたに私を責める資格はない、私はあなたに何も約束はしていないと突っぱね、部屋を出た。しかしモズグリャコフは、それなら今のいきさつを町中に言いふらしてやる、と叫んだ。そのとき、マーリヤ・アレクサンドロヴナが戻ってきた。とっさにどうやってモズグリャコフをなだめたらいいかという考えが彼女にひらめいた。彼女はモズグリャコフに向かって、ジーナを侯爵と結婚させようというのはもちろん娘のためでもあるが、この結婚はあなたにとってもこれほどいい話はないのだ、と。なぜならジーナはあなたを本当は心から愛しているので、たとえ今侯爵と結婚しても、ジーナの心はあなたから離れられないでしょう、やがて侯爵は亡くなられ、あとには上流階級夫人となったジーナがあなたを待っていることになります。娘の力であなたは社交界の最高の一員になれるし、あなたにもそれなりの財産を手にすることができるわけですから、と。モズグリャコフは、ジーナに対する思いを断ち切れないが故にマーリヤ・アレクサンドロヴナの話にすがりつくほかはなかった。 マーリヤ・アレクサンドロヴナはジーナとの間は自分が取り持ってあげるから心配しなくていいと言ってモズグリャコフをなだめすかした。モズグリャコフが部屋を出ると、ジーナが入ってきた。ジーナは今の話を立ち聞きしてしまったのだ。ジーナは早くも心が折れそうになっていた。心配したマーリヤ・アレクサンドロヴナは、とにかく侯爵をすぐにでも、この町から連れ出すしかないと考え、そのために夫のアファナーシィ・マトヴェーイッチに侯爵を田舎の別荘に招待させようと企んだのである。夫の別荘まで馬車を走らせ、夫には自分の家では何も喋らずただ頷いていればいい、と言い聞かせて夫を馬車に乗せてとんぼ帰りをした。家に着くとちょうどその時、天敵の検事夫人アンナ・ニコラーイェヴナ・アンチーボヴァとその親友で大女のナターリア・ドミートリイェヴナ・パスクージナが馬車で訪ねてきたのである。
ところでモズグリャコフだが、マーリヤ・アレクサンドロヴナに言いくるめられて自分なりに納得したように思えたが、しばらく町をふらついている間に、次第にマーリヤ・アレクサンドロヴナの言葉に疑念をいだきはじめた。なにより彼女が狡猾で嘘ばかりついている女であることを思い出したのだ。それからジーナにしたって自分を愛しているなどとはとても思えないと気がつかないわけにはいかなかった。 モズグリャコフは、歩き回った末に気がつくとマーリヤ・アレクサンドロヴナの家の前まで戻って来ていた。一階のサロンには婦人連が集まっているようだったが、彼は、そのまま黙って二階の侯爵の部屋に行き、侯爵としばらく話をした。そこでモズグリャコフは、復讐のために、ある計略がひらめいたのだ。侯爵としばらく話をして彼の口から、この家の娘さんに結婚の申し込みをしたのだ、という言葉を聞き出したとき、モズグリャコフはすかさず、それはいつのことですか、そうか伯父さんまた夢をみたんですね、と言ってやったのである。 すると侯爵は、そうかあれはやっぱり夢だったのか、と言い、モズグリャコフは、夢に決まっていますよ、思慮分別のあるあなたがそんな向こう見ずな申し出をするわけはないし、もしも親戚の連中がそれを知ったらそれこそ狂人扱いされてしまいますよ、と言うと、侯爵は確かにそうだ、あれは間違いなく夢だったよ、親戚の連中はそんなことしたらまた精神病院行きだと言うに決まっている、結婚の申し出なんてするはずがない、と言った。 伯父さん、階下に行って、みんなから何を言われても、あれは夢だったと言うんですよ、そう何度も釘を刺して、モズグリャコフは先に階下に降りた。階下では、すでに婦人連が集まり皆恐ろしく狡猾な目をして、これからどんな事態が待ち受けているのか期待と焦りの色を浮かべていた。 そこにモズグリャコフが現れた。マーリヤ・アレクサンドロヴナは動転した。ボロドゥーイェフのところからいらしたの、とマーリヤ・アレクサンドロヴナが聞いた。モズグリャコフは、いいえ伯父様のところからです、と答えたあと、侯爵はもうまもなく参りますよ、今はすっかり正気を取り戻して、マーリヤ・アレクサンドロヴナにいろいろお世話になったお礼を申し上げて、お別れの挨拶をすることになっています。客人たちは動揺した。そのとき、例の大佐婦人ソフィア・ペトローヴナ・ファルピーヒナが一杯機嫌でやって来て、私だけのけものとはひどいじゃないの、とマーリヤ・アレクサンドロヴナに怒りをぶつけ、私はお宅のナターシャからなんでもすっかり聞いて知っているんだから、と叫びたてた。あの老いぼれ侯爵をペテンにかけて、誰も嫁にもらってくれないあんたの娘さんに結婚の申し込みをさせたっていうじゃないの、と大声で言った。 マーリヤ・アレクサンドロヴナが怒って、いますぐそんな話をやめなければそれ相応の手段に訴える、と脅すと、大佐夫人はひとしきり他の婦人たちの侯爵へのあさましい誘惑事件を暴き立ててから帰っていった。騒ぎのあとまもなく侯爵が降りてきた。
侯爵はいつもと変わらぬ様子で愛嬌を振りまいていた。マーリヤ・アレクサンドロヴナが夫のアファナーシィ・マトヴェーイッチを侯爵に紹介した。夫は妻に頷くだけで何も喋るなと言われていたので、「うむ」と頷くだけだったが、侯爵が、あなたはなんで赤い頬っぺたをして笑ってばかりいるのか、と聞いた時に、夫は思わずぷっと吹き出してしまったので、みんなは笑い転げた。 マーリヤ・アレクサンドロヴナは、話題を変えるために侯爵に、昨夜はよく眠れましたか、と聞いた。侯爵は、実に素晴らしい夢を見ました、と言った。婦人連が口々にどんな夢かと尋ねると、侯爵は、絶対に秘密です、と言った。すると誰かが、侯爵は夢の中でどこかの美人にひざまずいて恋を打ち明けられたに違いありませんわ、と言ったのだ。侯爵は、婦人連からどこの美人かとさらに追及されると、一番魅力的で、清純なお嬢さんだよ、ともらしたのである。 婦人連は、いっせいにジーナの顔を見た。みんなは、それなら結婚なさるといいわ、私たちが結婚させてあげますわ、とはやし立てた。モズグリャコフが、伯父様、と叫んだ。マーリヤ・アレクサンドロヴナは、婦人連がこの結婚話を騒ぎ立て、笑いものにしようとしているは分かっていた。そこで、彼女は先手を打つことに決めたのだ。みんなさん、と彼女は言った。私どもの家庭の重大な秘密を、今日ここで発表させていただきたいと思います、侯爵もそれをお望みのようですから、と言うと、侯爵は、そう私も嬉しく思うよ、とわけが分からないままに言った。マーリヤ・アレクサンドロヴナは、続けた。そうです、今日侯爵が私の娘の美しさにすっかり心を奪われて、結婚の申し込みをされるという光栄を授けてくださったのです、と。 みんなは驚愕のあまり茫然としてしまった。しかし、この一撃の効果はまもなく訪れた。婦人連は、ジーナと侯爵の結婚話を事実として受け止めなければならないと考えはじめたのである。やがてみんなは、途方にくれたジーナを取り囲んでお祝いの言葉を述べたあと、侯爵にも祝福の言葉を浴びせた。侯爵も、私も嬉しい、みなさんのご親切は忘れません、と答えた。しかし、そのあと侯爵は言った。それにしても私が驚いたのは、この家のご主人であるマーリヤイワーノヴナが、実にみごとに私の夢を見抜いてしまったことなんだ、たいした洞察力だ、と。 マーリヤ・アレクサンドロヴナが、あれは夢ではなく現実で、それこそおごそかに結婚の申し込みをなさったではありませんか、と言うと、侯爵はジーナに向かって、マドモアゼル、まったくあれは素晴らしい夢だったよ、今あなたの前でそれを告白することができたので、私は幸せだ、と言った。マーリヤ・アレクサンドロヴナは、まだ引き下がらず、あくまで夢ではなく現実にここであったことで、ちゃんとした家庭でそんな冗談は禁物です、と言い立てた。 侯爵は、彼女の追及にもなんとかもちこたえていたが、マーリヤ・アレクサンドロヴナにジーナの歌のことを持ち出されると、急に、そう言えば、なんだか実際にあったことのように思えてきた、と言い出したのである。そこで、すかさずモズグリャコフが助け船をだし、ジーナの歌を聞いたのは確かでしょう、でもそのあと横になって休まれた時に、夢の中で結婚の申し込みをされたということではありませんか、と言うと、侯爵は、そうだよまさにその通りだったんだ、マーリヤ・ワシーリイェヴナ、あなたは勘違いしているんだ、あれはまさしく夢だった、と言った。 その時マーリヤ・アレクサンドロヴナはこの仕掛け人がモズグリャコフだと悟った。モズグリャコフに向かって、なんて卑劣な男か、この恨みは絶対はらしてやる、と息巻いたあと、夫のアファナーシィ・マトヴェーイッチにもこんなに恥をかかされて黙っているなんてそれでも一家の主人といえるのかと八つ当たりした。アファナーシィ・マトヴェーイッチは、妻よ、お前が実際になにもかも夢に見たんじゃないのか、と言った。マーリヤ・アレクサンドロヴナは夫に飛びかからんばかりであったが、周りに引き止められた。もはや婦人連の間には爆笑の渦が広がっていたのである。
しかし、そこでそれまで一言も口をきいていなかったジナイーダ・アファナーシイェヴナが興奮のあまり身体を振るわせながら、前に進み出て、周りを挑むように見渡しながら沈黙を破って母親に話しかけた。お母さん、もうこれ以上嘘をついて自分を汚すようなことはやめてください。責任は私にあるのです。私が首を縦に振ったために、こんな陰謀のようなことが起きてしまったんですから、と言い、母親が制するのも振り切るように、次に侯爵に向かって、どうぞ私たちをお赦しください、私たちはあなたを騙したのです、侯爵という位に目がくらんで、あなたをたぶらかそうとしたのです、でも私は真剣にあなたの玩具となり、踊り子となり、奴隷になるつもりでした、と言ったところで彼女は言葉をつまらせた。 侯爵は、涙が出るほど感動して、私はあなたと結婚しますよ、お望みとあれば、しかしあれはたしかに夢だったんだ、と言いモズグリャコフの方を伺った。ジーナは、それからモズグリャコフの方を見て、あなたに対しても私は未来の夫として考えようとしたこともありますが、それはこの呪われた町から抜け出したいと思ったからで、けっして愛していたわけではありません。でも、私は、あなたと結婚したからには、きっとやさしい貞淑な妻になっていたに違いありません。それにしてもあなたはずいぶん残酷な復讐をしてくれましたね、でも、それがあなたの誇りをくすぐるものであるならば・・それからもしも一度でも私を愛してくださったことがあるならば・・と言ったところで、モズグリャコフは、突然僕は卑劣な男です、と叫んだ。彼は、ジーナの思いがけない行動に思わず立ちすくんでしまったばかりでなく、なんと自らを裏切ってしまったのである。確かに侯爵は結婚の申し込みをされたが、自分が侯爵をペテンにかけて夢だと信じこませたのです、と言い出したのだ。 侯爵は、私は結婚してもいいと思っているんだが、君が私にあれは夢だと説き伏せたのではないか、と言った。モズグリャコフが、よく考えて言ってください、大事なことなんですから、と言うと、侯爵は、じゃあ初めから順を追って思い出してみよう、と言い、マーリヤ・アレクサンドロヴナとのやりとりをひとつずつ口にした。その話のなかでどこかの奥さんが来て砂糖をみんな食べてしまった、と侯爵が言うと、ナターリア・ドミートリイェヴナがマーリヤ・アレクサンドロヴナに向かって、あなたは私があなたの家の砂糖を盗んでいると触れ回っているって聞いたけど、私のことを泥棒よばわりするなんて、と叫んだ。侯爵は、みんな夢だよ、と言った時、マーリヤ・アレクサンドロヴナが、いまいましいビヤ樽だわ、とつぶやいたのでナターリア・ドミートリイェヴナは、私がビヤ樽ですって、じゃああなたは何様なんですか、とマーリヤ・アレクサンドロヴナに食ってかかったが、ビヤ樽というのも出てきたな、と侯爵が言ったので、ナターリア・ドミートリイェヴナは侯爵にも切れてしまった。私がビヤ樽なら、あんたなんて片端じゃないですか、と言ったのだ。それを機にマーリヤ・アレクサンドロヴナも、おまけに片目じゃないの、と毒づき二人は侯爵の身体の秘密を次々に暴き立てたのである。侯爵は、たまらずこんな所にはいられない、とモズグリャコフに連れられて家をなんとか抜け出した。
マーリヤ・アレクサンドロヴナにとってその夜の出来事は取り返しのつかない大きな不名誉と恥辱であったが、さらに手ひどい試練が彼女を襲った。次の日の早朝、一人の老婆がマーリヤ・アレクサンドロヴナの家を訪ね、母親に気づかれないようにと小間使いに懇願してジーナを起こして欲しいと頼んだのだ。ジーナが行くと病気で寝ているワーシャのところに一緒に来て欲しいと言った。 ジーナは、老婆について行くことにしたのだ。ワーシャは、危篤であった。二人は1年半ぶりに再会を果たした。ワーシャは死の床で、ジーナに詫びた。ジーナが結婚式を延ばして欲しいと言ったあと、自分は手紙を出して脅迫まがいのことまでしてしまったが、あれはまさに人間の屑のすることだった、すべては自分が悪い、と言った。そしてワーシャは、自分は偉大な詩人となって君が僕のことを認めてくれる日が来ることをあれからずっと願っていたが、もう自分は死ななくてはならない、どうかジーナ、君は長生きして幸福になってほしい、とジーナの手を取り涙を流した。 ジーナは、あなたは私にとっては永遠の人、私は結婚なんてしません、とワーシャを慰めた。一方マーリヤ・アレクサンドロヴナは、ジーナがあの男の家にいると知って何度も使いをよこして、また自分でもやってきてジーナにすぐ家に戻るように伝えたがジーナはワーシャのところに泊まるといって聞かなかった。ワーシャは、その翌々日亡くなった。ジーナは彼が亡くなるまでずっと側についていたが、やがて十字を切り、亡骸に接吻し、家を出た。すると、まもなくモズグリャコフが現れ、ジーナに、今からでも自分はあらためてあなたに結婚の申し込みをしたいと思っている、ここを離れてどこかの田舎町でひっそりと結婚式をあげればいいじゃないですか、と迫ってきたのである。ジーナは彼を一瞥しただけで、返事もしなかった。モズグリャコフはそれで悟ったようでそのまま姿を消した。 ところで、侯爵はモズグリャコフに連れられて宿屋へ行ったのだが、その夜に発病して危篤に陥り、それから三日目に亡くなった。モルダーソフの人たちは、哀れな侯爵を死に至らしめたマーリヤ・アレクサンドロヴナ家の者たちを厳しく非難した。葬式のことで、モズグリャコフはどうしたものかあれこれ悩んでいたが、彼がジーナのところに現れたのもそんな時だったのである。まもなくたまたま侯爵の親戚にあたるシチュペチーロフ侯爵が町を訪れ、彼が葬儀を取り仕切った。自称甥のモズグリャコフは、本物の親戚が現れたので、あとかたもなく姿を消してしまった。マーリヤ・アレクサンドロヴナはもちろん葬儀に顔を出さなかったが、実はジーナがワーシャのところから戻って来てすぐに彼女は娘と一緒に郊外に引き移ったのである。さらにその一週間後にはモスクワに移り、やがてマーリヤ・アレクサンドロヴナの市内と郊外の領地は売りに出された。
モルダーソフの街での騒動から早くも三年の月日が経つが、その後モズグリャコフはペテルブルグで首尾よく職に就くことができた。だが、しばらくすると彼はある学術探検隊に志願して辺境の地の学術調査に加わることになった。そして、はるか遠隔の地の総督のところにたどり着いたのである。総督は探検隊の一行を自宅の舞踏会に招待した。それは総督夫人の命名祝のためであった。 総督夫人は若く、大変な美人との噂であったが、その夜、夫人に挨拶する段になってそれがなんと着飾ったジーナだったのでモズグリャコフは肝をつぶした。しかも、彼女はモズグリャコフのことなどまったく気づかなかったのだ。参会者からモズグリャコフが得た情報では、総督夫人は名門出の令嬢で、また母親は最上流出で非常に頭のいい方だという話だった。また彼女の夫のことなどは誰も知らないようであった。それからモズグリャコフはマーリヤ・アレクサンドロヴナの姿を見かけたので思い切って声をかけてみた。マーリヤ・アレクサンドロヴナは、一瞬ぎくりとしたようであったが、愛嬌たっぷりに、お久しぶりね、と言い、ペテルブルグの彼の友人のことをしきりに尋ねるのであった。モルダーソフのことなどもちろんお首にも出さなかった。モズグリャコフはダンスの間、何時間もジーナのことを目で追い続けていたが、ジーナはまったく彼に気づきもしなかった。モズグリャコフは打ちひしがれた気持ちになって宿へ戻ったが、翌朝には仕事で町の外へ馬車で出かけることになった。彼は雪原を馬車に揺られしばらく空想に耽っていたが、やがて一眠りして目覚めると気分も変わり元気を取り戻した。
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