修治がふたたびあつみの前に現われたのは、それから一週間余の後のことであった。しばらく見ぬまに、彼はかなり憔悴しているように見えた。市村座の最終日の切符を手渡すと、そうそうに帰っていった。その後しばらくして『不在地主』を市村座の楽日に二人で観劇した。熱演した各俳優の印象を情熱的に語る修治の話にあつみは聴きほれていた。しかし、修治は、あつみに逢いたくても、また当分の間は会えないという。月末までお金が自由にならないというのだ。それなら月末までの勘定は私が一時立替えてあげると言うと、その後、修治はまた以前のように度々ホリウッドに姿を現わすようになった。 しかし11月に入っても、いっこうに立替金を返済してくれる気配はなかった。あつみがその事で修治に催促したのは、彼女自身これ以上の負担にもはや耐え切れなくなっていたからだ。彼の返事は「もうすこし待ってくれ。田舎からの送金が遅れているのだ」とのことだったが、あつみにも、それ以上の催促はとてもできなかった。修治に逢えないのはあつみにとってもつらい。「つぎに来る時に、きっと持って来てね」それだけ言うのがやっとであった。 翌々日、修治はまたもあつみの客になっていた。立替金の返済どころか、その日のホリウッドの勘定すら所持金でまかなうことができなかった。あつみはやむなく支配人に頼んで、修治の勘定を特別にツケ(売掛)にしてもらうことにしたのだが、期日は修治の言葉を信じて20日迄とし、保証人は彼女自身ということにした。ツケが利くことに安心したのか、それからの修治は、まるであつみの胸にのめり込むように、毎晩のように通ってきた。人知れぬ深い悩みごとでもかかえているのか、まるで泣きながら酒を飲んでいる感じで、あつみが呆れるほどの無茶飲みであった。
七里ヶ浜心中事件と『人間失格』
上記は、長篠氏によって明らかにされた津島修治(太宰治)と田部あつみの運命的な邂逅の様子である。著書『太宰治 七里ヶ浜心中』には取材源までは明かされていないが、長篠氏が他で書かれているところによると、修治が運び込まれた鎌倉恵風園の中村善雄博士や当時修治と同時期に入所していた学生、さらにはあつみの兄姉や順三の友人などかなり広範囲にわたって直接聞き取り取材をされたようである。なお、高面順三は、戦争末期に広島で被爆され亡くなっているので直接彼の話は聞けていない。ただ戦時中に田部あつみの姪の田部愛子(長兄達吉の長女)が高面順三と同じ職場で働いていたことが分かっている。高面は再婚し、子どもを三人設けていたという。子どものうち次女は疎開していて被爆を免れたが、妻と二人の子どもはともに被爆死している。 さて、太宰は、『人間失格』では、相手の女性とはわずか二回しか会っていないように書いているし、また事件から5,6年後に書かれた他の作品でも三、四回ほど、などとあり、会ってほどなく心中まで至ったように書かれている。しかし上記を読むと、かなり頻繁に店を訪れ、またデートも重ねていたようである。事件当時、小山初代との間で結納が交わされ、この事件のあとに太宰は小山初代と結婚していて、前期の作品が書かれた時期には二人は夫婦(昭和12年6月に離婚)でもあったので、そのような事情を考えれば、相手の女性にかなりのめり込んでいたという事実はできれば触れたくないことなのかもしれなかった。 また、『人間失格』では、「こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金のない者どうしの親和」から「ツネ子がいとしく、生まれてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました」と書かれているが、演劇や文学についての話に興じ合い、二人で観劇などのデートを重ねていたという姿は、「貧しき者同士の親和」とはだいぶ趣が異なる印象を受ける。
心中へ至るまでの二人の足跡
では、この二人はその後、どうやって心中にまで至ったのだろうか。長篠氏の『太宰治 七里ヶ浜心中』と太宰の友人小館保の「証言」その他からその足取りをみてみよう。 心中事件の直前に、広島で理髪店を営むあつみの兄武雄が、広島からあつみのところに遊びにきていた。武雄はあつみたちのところにしばらく滞在し、東京見物などをして、11月24日に広島に戻った。新橋駅まで見送りにきてくれたあつみが列車が動き出してから、「お母さんにお土産の一つも買ってあげられなくて……。月末まで兄さんがいてくれたら、お店で立替えているお金もはいるし、お母さんに何でも買ってあげられたのに……」と、涙ぐみつつ呟くように言ったその声が、兄の武雄の耳の底にこびりついて離れなかったという。 兄の武雄を駅に見送った翌朝、あつみは順三と激しく口論した。順三が、すぐにも広島へ帰りたいと言い出したのである。口喧嘩の最中に外へ出て行った順三は、そのまま昼食にも戻ってこなかった。「そんなに帰りたければあなた一人で帰ればいいでしょう」と、あつみにそう言われたことが、よほどこたえたのであろう。 その日、あつみは、支配人室へ呼びつけられ、二十日の期限がとっくに過ぎていると、支払いの督促を受けた。もう少し待ってくださいと頭を下げるしかなかった。店を出てから、あつみは順三の夜食にと寿司折を土産に買って帰ったが、順三は家に戻ってこなかった。 次の日、ホリウッドに出ると、修治が郷里の友人四人を引き連れてやって来て、あつみも交えて騒いだ。小館保もその中にいた。修治たちは閉店まで飲んだ。あつみも彼等に付き合い、店を出て、タクシーに分乗し、下宿先である高田馬場の常磐館に向かった。しかし、あつみと修治は途中本所東駒形で車を降り、そのまま大工の二階の部屋に行き、その夜二人はその部屋に泊まった。そこは、少し前に初代を一時匿うために借りていた部屋であった。また『人間失格』ではツネ子が借りていた部屋とされている。 翌26日は、浅草に出て、六区を歩き回り、それから吾妻橋を渡って隅田川の川べりを上流に向って歩いた。人通りのほとんどない堤上に腰を下ろし、そこで、修治が「実は勘当されてしまったんだ」と言った。それは修治の結婚話に絡んで起こった分家除籍のことだった。分家に伴う財産分与も行なわれていないので、事実上はたしかに勘当同様の措置だった。 この分家除籍後の11月24日に津島家より小山家に結納が届けられていた。つまり、その日の二日前には、既に青森では結納が滞りなく交わされていたのである。
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