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太宰治『人間失格』(文春文庫)
 作品について | あらすじ 

作品について

作品後半は、入水心中後に発表される
 この作品は、太宰治の代表作とも、最高傑作とも言われる。作品は「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」「一」「二」及び「あとがき」から構成されている。
 このうち「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」は太宰の生前である昭和23年6月1日付発行の「展望」6月号に発表されているが、「第三の手記」「一」「二」及び「あとがき」は、太宰が玉川上水で山崎富栄とともに入水自殺(6月14日)した後の7月1日付発行の「展望」7月号(「第三の手記」「一」)と続く8月1日付発行の「展望」8月号(「第三の手記」の「二」と「あとがき」)にそれぞれ発表されている。
 太宰が『人間失格』全二百六枚を脱稿したのは亡くなるおよそひと月ほど前の5月10日頃とみられる。4月29日から、筑摩書房主古田晃の計らいで、太宰は大宮市大門町三丁目百三番地の小野沢清澄方の奥の八畳と三畳との二間を借り、三畳の間を仕事部屋として『人間失格』の「第三の手記」の「二」を執筆した。小野沢清澄は、駅前繁華街で「天晴」という天麩羅屋を営業していて、その店の客として親しかった古田晃に依頼されて、引き受けたのだという。小野沢清澄によれば、「毎朝九時ごろに起き、昼ごろから茶ぶ台に向かった。かたわらに辞書を置き、三時間ほどペンを走らせ、夜はゆっくり時間をかけて食事をするという、規則正しい生活を送っていた。」「書損じの原稿用紙で、くずかごは毎日一杯で」「連れの女の人は、いつも静かに編み物をしていた。」(太宰治『年譜』より)という。この連れの女は、山崎富栄である。

『人間失格』は前半生を自伝的に綴った作品
 この作品は、太宰の誕生から二十七歳までの前半生を自伝的に綴ったものである。太宰治の生家津島家は青森県内でも屈指の資産家であった。太宰治は、明治42年6月19日に父津島源右衛門と母夕子(たね)の第十子、六男として誕生、戸籍名は津島修治である。母夕子は病弱であったため、太宰は乳母に育てられた。小学校時代は、成績優秀であったが、「第一の手記」にある通り悪戯が過ぎて「修身」と「操行」は「乙」と評定されている。
 小学校、高等小学校を卒業して青森中学に入学、「第二の手記」にある通り、はじめて実家を離れて親戚筋にあたる家から通学した。クラスでは級長であったが、持ち前の茶目っ気を発揮し、人気者となった。中学卒業後は地元の弘前高等学校に入学し、その3年後に同校を卒業し、東京帝国大学仏文科に入学、東京へ出てきている。「第二の手記」では、この時、東京の父の別荘で父と暮らしたと書いているが、実は太宰の父親は、太宰が中学を卒業する直前に五十二歳で亡くなっているので、父との関係については事実とは異なっている。

紅子の出奔と七里ヶ浜心中
 太宰が東京に出てきてまもなくの昭和5年10月1日に青森の芸者置屋野沢家の抱え芸者紅子(べにこ 本名:小山初代おやまはつよ)が、修治の手招きで突然上京するという事件が起きた。この紅子の出奔には太宰の義弟小館保のほか友人平岡敏男、葛西信造らが手を貸している。上京した紅子は、一時葛西、小館の住む下宿に隠れ、その後本所駒形のブリキ屋の二階を借り、そこに匿われた。
 長兄津島文治の依頼もあって、野沢家の主人の息子(野沢謙三)が修治のところへ訪ねて来た。たまたまその時紅子は修治の下宿先に来ていて、紅子の居所を津島家も知ることとなる。その後、11月上旬になって長兄文治が上京して修治と対談し、「結婚するならば津島家と絶縁すること。それを条件に大学を卒業するまで毎月120円ずつ仕送りする」旨の覚書を手交するなどして落籍手続きのために紅子を青森へ連れ帰ったのである。文治と修治との会談は、11月9日前後のことだったと推測されるが、なんと19日には金木町役場において、津島修治の分家除籍の手続きが完了している。実家から分家除籍を迫られたのは、芸者の血筋の者を津島家に入れたくないという祖母イシの強い意向があったとも言われるが、長兄はむしろ太宰の文筆活動(「地主一代」など)や共産党へのシンパ活動が津島家及び自身の政治生命にも悪影響をおよぼすのではないかと危惧していたともいわれる。
 長兄は、分家除籍のうえで小山初代との結婚を認め、小山家のところには、津島家より11月24日付で結納覚書が届けられ、月末までには小山初代が上京する段取りとなっていた。
 ところが、小山初代との間に結納が交わされたその4日後の昭和5年11月28日夜半に太宰治は鎌倉郡腰越町小動崎(七里ヶ浜)で、田辺あつみ(本名 田部シメ子)と心中事件(田部シメ子は死亡)を起こしているのである。作品では、「第二の手記」においてツネ子という名前で出てくるが、銀座の大カフェの女給で、夫は詐欺罪で刑務所に入っていて、「へんに疲れていて貧乏くさいだけの女」、と書かれている。しかし、銀座のカフェ「ハリウッド」に一緒に繰り出したことのある太宰の義弟小館保は、「原節子に似た理知的な顔だちは東京でも滅多に見ない美しさだった」(「かまくら春秋」昭和60年5月)と証言している。
  


田部あつみ

田部あつみの生い立ち
 では、この田部シメ子とはどんな女性だったのか。伝記作家長篠康一郎の『太宰治七里ヶ浜心中』からみてみよう。
 田部シメ子は大正元年12月2日、広島県安佐郡字小河内で、田部(たなべ)島吉、シナの四女として生まれた。島吉夫婦にとっては七人目の子であった。自分たちの子供は、もうこれでおしまいにしたいとのねがいから、これが最後の子という意味で、生まれたその子にシメ子と名付けた。後に移り住んだ広島県内の福島町は広島駅附近の東松原に対して西松原と呼ばれたところで、子供時代のシメ子は西松原の器量好し”と福島町界隈でも評判であった。この頃から彼女はシメ子という名前をきらい、田部あつみと名乗るようになった。
 また小学校時代に学業成績が良好であったあつみは、その後大正14年4月広島市立第一高等女学校に入学している。ところが、あつみは在学中に芝居に夢中になり、昭和3年頃当時地元に公演に来ていた松旭齋天勝一座の楽屋を訪ね、内弟子にして欲しいと、強引に頼み込んだことがあった。しかし、父島吉は頑として認めず、弟子入りは実現しなかった。あつみは、その後女学校へもあまり登校せずにそのまま学校を中退してしまった。
 やがて、あつみは昭和5年4月に、広島市内の東新天地の喫茶店「チロル」で働くようになった。その経営者があつみより5歳年長の山口県出身の高面順三であった。高面は、文学青年でもあり、「チロル」には作家や詩人、画家なども多く集まって来て、店には芸術的な雰囲気がいつも漂っていた。色白で、小柄(身長152センチ・42キロ位)なあつみは「チロル」でもひと目を引いた。あつみはすでに高面順三と同棲していて、家族も二人は結婚するものと思っていた。
 しかし、もともと小山内薫の熱烈な讃仰者であった高面順三は、自分もいつか役者になりたいという夢を持っていた。たまたま築地小劇場で役者をしていて体を壊して帰郷していた旧友から東京の新劇界に関する生々しい話題を聞いて、一気にその夢が大きく膨らみ、あつみが店にきてからほどなく順三は上京を決意するに至った。
 はじめは戸惑っていたあつみも順三の熱意に負け、店をたたんで昭和5年の7月に二人は東京へ出てきた。東京では、劇団にいた旧友の先輩である鈴村夫妻の住む借家の二階にしばらく間借りすることにした。その家は日比谷公園のすぐ脇の内幸町にあって、銀座にも近かった。その家から二人はよく築地小劇場に通った。
 しかし、鈴村の知り合いを通じて演劇関係の仕事を紹介してもらう手筈であったが、その知り合いが順三の上京直前に検束されてしまい、加えて、当時演劇界そのものが未曾有の不況におちいっていたので、演劇関係への仕事に就くことなど望むべくもなかった。仕事を探すため高面は職業紹介所にも行ってみたがうまくいかず、そんなある日、悪いことは重なるもので、歌舞伎座で芝居を観ての帰り途、銀座の雑踏の中で順三は財布をすられてしまった。
 それ以来、意気消沈し何事に対しても意気地がなくなってしまった順三を、田部あつみはなんとかして立ち直らせようと励ましつづけた。広島へ帰郷するにしても、せめて一年は頑張らないと恥ずかしくて帰れない。「私が働きます」とあつみは順三に言った。

   

左:田部あつみ(16歳) 右:高面順三(22歳)

田部あつみと津島修治の出会い
 あつみは、鈴村の妻よし子が働いていた銀座のカフェー・ホリウッドで一緒に働かないかと前から勧められていた。自分はとても銀座のカフェーなどで勤まるまずはないと思っていたが、よし子の話では、銀座のカフェーといっても、ホリウッドはどちらかというと学生の客も多く、閉店時間もきっちりしていて安心だし、衣裳が心配なら私のものを貸してあげるからとも言ってくれたので、決心がついた。
 順三の承諾を得て、8月からあつみは銀座のホリウッドへ勤めに出た。着物と帯は、鈴村の妻よし子からの借着であった。風呂敷に包んで持って行き、控室で着替えた。お店は想像していたより広かった。
 あつみが勤めはじめた頃に受け持ったテーブルに学生をまじえたグループ客があった。眼鏡をかけた長身の若い男がこの仲間の親分格とみえて、「若様」とか呼ばれていたので、あつみには彼等の東北訛りとともに印象に残った。
 閉店時になって、裏の出入口のところに順三が迎えに来ていた。二人はそこからネオン輝く銀座の街を歩いて家まで帰った。
 田部あつみが、修治と親しくなったきっかけは、彼が二度目に、ひとりでホリウッドへ現われたときである。ホリウッドに勤めに出てから約一カ月後のことであった。初対面の時は、取巻き連中のお追従にいい気になっている彼を「田舎の馬鹿若様」とあつみはひそかに思ったりもしたが、なにしろ初めて客席にはべるのだから、緊張していてそれ以外は特に覚えていない。
 二度目に顔を出した修治は初対面のあつみのちょっとした親切に心惹かれたからだ、とそんなことを言っていたが、客と相対しての二人きりの席というのは、あつみにとってはどこか気づまりであった。口かずの少ない客なので、ビールを注ぐのと煙草の火をつけるだけ、話題らしいものはなにもない。もういい加減に腰をあげてくれないかな、などと思いあぐんでいたとき、となりのテーブルについていたよし子が、「ちょっとツネ子さん、あそこの壁にかかっている裸体の絵、あれ、誰の絵なの?お客さんが訊いているから教えてよ」と声をかけた。ツネ子という名は、以前に客に人気のあった女給の源氏名を、あつみが入店した翌日から踏襲していたのである。
 「あれね。右のほうはルノアールの『水浴』。もちろん複製よ。左のほうは、スーラの『ポーズする女たち』だと思うわ」その返事に、「田舎の若様」がオヤッというふうに、あらためてあつみの顔をまじまじと見つめた。ふたりの間に話題がほぐれたのはそれからである。「若様」は、東京帝国大学の学生で、津島修治だとはじめて名前を明らかにした。ちょうど大学が夏休みの頃であった。
 その後の修治は、三日にあげずあつみの客になっていた。東西の絵画はもとより文学、演劇と話題には事欠かなかった。ことに文学の話になると、修治は人が変ったように能弁になった。あつみにとってなにより嬉しく思えたのは、修治の話しかたが女給を相手とする態度でなかったことだ。ひとりの女性として接してくれたことに、あつみは自分の心が微妙に揺れ動くのを意識しないではいられなかった。修治から観劇の誘いを受け、あつみが応じたのは、そうした思いがあったからである。
 二人が観たのは、市村座の「ゴー・ストップ」という芝居であった。作貴司山治、演出土方与志の作品で、労働者による組合運動とそれを切り崩す暴力団との対立などが舞台では演じられていた。芝居を観ての帰途、修治は、あつみを家まで神田から日比谷まで歩いて送って行った。あつみは、順三と一緒の生活を、まだ修治にひとことも話していなかった。むしろ、話せなくなっていたと言ったほうがいいかも知れない。
 新学期の始まる頃になっても、修治のホリウッド通いは相変らず続いていた。田部あつみと再び芝居を観に行ったその帰途、修治はこのつぎには小林多喜二の『不在地主』を初日に観に行こう、とあつみに約束し、市村座で上演される予定の左翼劇場の第十七回公演のチラシをあつみに手渡した。
 約束していた10月初め、小林多喜二『不在地主』の初日には、修治は現れなかった。実は、この間に青森から紅子(べにこ 本名:小山初代おやまはつよ)が上京していたのである。
  


小山初代(紅子)

 修治がふたたびあつみの前に現われたのは、それから一週間余の後のことであった。しばらく見ぬまに、彼はかなり憔悴しているように見えた。市村座の最終日の切符を手渡すと、そうそうに帰っていった。その後しばらくして『不在地主』を市村座の楽日に二人で観劇した。熱演した各俳優の印象を情熱的に語る修治の話にあつみは聴きほれていた。しかし、修治は、あつみに逢いたくても、また当分の間は会えないという。月末までお金が自由にならないというのだ。それなら月末までの勘定は私が一時立替えてあげると言うと、その後、修治はまた以前のように度々ホリウッドに姿を現わすようになった。
 しかし11月に入っても、いっこうに立替金を返済してくれる気配はなかった。あつみがその事で修治に催促したのは、彼女自身これ以上の負担にもはや耐え切れなくなっていたからだ。彼の返事は「もうすこし待ってくれ。田舎からの送金が遅れているのだ」とのことだったが、あつみにも、それ以上の催促はとてもできなかった。修治に逢えないのはあつみにとってもつらい。「つぎに来る時に、きっと持って来てね」それだけ言うのがやっとであった。
 翌々日、修治はまたもあつみの客になっていた。立替金の返済どころか、その日のホリウッドの勘定すら所持金でまかなうことができなかった。あつみはやむなく支配人に頼んで、修治の勘定を特別にツケ(売掛)にしてもらうことにしたのだが、期日は修治の言葉を信じて20日迄とし、保証人は彼女自身ということにした。ツケが利くことに安心したのか、それからの修治は、まるであつみの胸にのめり込むように、毎晩のように通ってきた。人知れぬ深い悩みごとでもかかえているのか、まるで泣きながら酒を飲んでいる感じで、あつみが呆れるほどの無茶飲みであった。

七里ヶ浜心中事件と『人間失格』
 上記は、長篠氏によって明らかにされた津島修治(太宰治)と田部あつみの運命的な邂逅の様子である。著書『太宰治 七里ヶ浜心中』には取材源までは明かされていないが、長篠氏が他で書かれているところによると、修治が運び込まれた鎌倉恵風園の中村善雄博士や当時修治と同時期に入所していた学生、さらにはあつみの兄姉や順三の友人などかなり広範囲にわたって直接聞き取り取材をされたようである。なお、高面順三は、戦争末期に広島で被爆され亡くなっているので直接彼の話は聞けていない。ただ戦時中に田部あつみの姪の田部愛子(長兄達吉の長女)が高面順三と同じ職場で働いていたことが分かっている。高面は再婚し、子どもを三人設けていたという。子どものうち次女は疎開していて被爆を免れたが、妻と二人の子どもはともに被爆死している。
 さて、太宰は、『人間失格』では、相手の女性とはわずか二回しか会っていないように書いているし、また事件から5,6年後に書かれた他の作品でも三、四回ほど、などとあり、会ってほどなく心中まで至ったように書かれている。しかし上記を読むと、かなり頻繁に店を訪れ、またデートも重ねていたようである。事件当時、小山初代との間で結納が交わされ、この事件のあとに太宰は小山初代と結婚していて、前期の作品が書かれた時期には二人は夫婦(昭和12年6月に離婚)でもあったので、そのような事情を考えれば、相手の女性にかなりのめり込んでいたという事実はできれば触れたくないことなのかもしれなかった。
 また、『人間失格』では、「こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金のない者どうしの親和」から「ツネ子がいとしく、生まれてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました」と書かれているが、演劇や文学についての話に興じ合い、二人で観劇などのデートを重ねていたという姿は、「貧しき者同士の親和」とはだいぶ趣が異なる印象を受ける。

心中へ至るまでの二人の足跡
 では、この二人はその後、どうやって心中にまで至ったのだろうか。長篠氏の『太宰治 七里ヶ浜心中』と太宰の友人小館保の「証言」その他からその足取りをみてみよう。
 心中事件の直前に、広島で理髪店を営むあつみの兄武雄が、広島からあつみのところに遊びにきていた。武雄はあつみたちのところにしばらく滞在し、東京見物などをして、11月24日に広島に戻った。新橋駅まで見送りにきてくれたあつみが列車が動き出してから、「お母さんにお土産の一つも買ってあげられなくて……。月末まで兄さんがいてくれたら、お店で立替えているお金もはいるし、お母さんに何でも買ってあげられたのに……」と、涙ぐみつつ呟くように言ったその声が、兄の武雄の耳の底にこびりついて離れなかったという。
 兄の武雄を駅に見送った翌朝、あつみは順三と激しく口論した。順三が、すぐにも広島へ帰りたいと言い出したのである。口喧嘩の最中に外へ出て行った順三は、そのまま昼食にも戻ってこなかった。「そんなに帰りたければあなた一人で帰ればいいでしょう」と、あつみにそう言われたことが、よほどこたえたのであろう。
 その日、あつみは、支配人室へ呼びつけられ、二十日の期限がとっくに過ぎていると、支払いの督促を受けた。もう少し待ってくださいと頭を下げるしかなかった。店を出てから、あつみは順三の夜食にと寿司折を土産に買って帰ったが、順三は家に戻ってこなかった。
 次の日、ホリウッドに出ると、修治が郷里の友人四人を引き連れてやって来て、あつみも交えて騒いだ。小館保もその中にいた。修治たちは閉店まで飲んだ。あつみも彼等に付き合い、店を出て、タクシーに分乗し、下宿先である高田馬場の常磐館に向かった。しかし、あつみと修治は途中本所東駒形で車を降り、そのまま大工の二階の部屋に行き、その夜二人はその部屋に泊まった。そこは、少し前に初代を一時匿うために借りていた部屋であった。また『人間失格』ではツネ子が借りていた部屋とされている。
 翌26日は、浅草に出て、六区を歩き回り、それから吾妻橋を渡って隅田川の川べりを上流に向って歩いた。人通りのほとんどない堤上に腰を下ろし、そこで、修治が「実は勘当されてしまったんだ」と言った。それは修治の結婚話に絡んで起こった分家除籍のことだった。分家に伴う財産分与も行なわれていないので、事実上はたしかに勘当同様の措置だった。
 この分家除籍後の11月24日に津島家より小山家に結納が届けられていた。つまり、その日の二日前には、既に青森では結納が滞りなく交わされていたのである。
  


小山初代への結納覚書

 修治はその時初代との結婚について話した。それを聞きながらあつみは泣いた。語る修治も何度か鳴咽していた。聞き終えて、こんどはあつみが順三との生活のことをはじめて話した。いつのまにか辺りはとっぷり暮れて、銀座の店に出るにはもはや時間が経ち過ぎていた。しばらく無言で暗い川面を眺めているうち、どちらともなく死≠ニいう言葉が、ふいに口をついて出た。
 翌27日には、修治はあつみを連れて築地小劇場で証明係をしていた青森中学時代の同級生の中村貞次郎を訪ねている。中村も以前ホリウッドに繰り出した仲間の一人であった。それとなく最後の別れのつもりだったのだろうか。別れ際、中村は「うまくやれよ」と言った。その夜、二人は神田の万世ホテルに泊まった。そのホテルの便箋に「初代どのへ」として、「お前の意地も立つ筈だ。自由の身になったのだ。万事は葛西、平岡に相談せよ」「遺作集は作らぬこと」と遺書を書いた。葛西、平岡、とは初代の上京の手引きの片棒も担いでいた葛西信造、平岡敏男のことで、葛西は青森中学の同級生で東京美術学校に、平岡は弘前高校の一年先輩で東京帝国大学経済学部に在籍し、太宰とともに共産党のシンパ活動に関わっていた仲間である。
 そして、28日の夜、津島修治と田部あつみのふたりは、鎌倉七里ヶ浜に連なる小動崎(こゆるぎさき)の畳岩に向かい、この岩の上で催眠剤カルモチンを多量摂取(二人でおよそ300錠)した。



昭和5年頃の小動崎・畳岩


令和元年の小動崎・畳岩
(周辺はテトラポットで囲われている)


心中事件をめぐる関係者の応対
 その同じ時刻、内幸町の家では、高面順三があつみの帰宅を待ちわびていた。ちょっとした諍いから家を飛び出してしまった順三は、一夜を外で明かしたことを後悔したが、家に戻ってもあつみの姿がみえないので、夜になってホリウッドへあつみを迎えに行った。同僚の女給たちが帰ってゆくのに、あつみはなかなか姿を見せなかった。ドア・ボーイに訊ねると、「きょうはお休みしたらしい」という。
 順三は一睡もせず朝を迎えたが、とうとうあつみは帰って来ない。事故にでも遭ったのか、と思うと居ても立ってもいられなかった。鈴村夫妻からの助言もあって、午後になっても帰って来なければ、警察に家出人捜索願いを出すことにした。二十七日、二十八日とも依然としてあつみの消息はつかめない。順三は心当りの場所へ出向いて、必死であつみの行方を探しつづけた。
 鎌倉警察署から連絡が入ったのは、29日の午後であった。順三はただちに鎌倉へ飛び、そこで現場から届けられた腕時計、櫛、財布などの遺留品から帝大生との心中の相手が確かにあつみであることを知らされ愕然とする。帯だけは、鈴村の妻よし子から借りていたもので、丁寧にたたんで風呂敷に包んであった。
 その日の朝、腰越の畳岩で発見されたとき、女性のほうは、着物の裾の上から脚と足頸のあたりを腰紐で結び、頭を崖下の方に、足を海に向けて倒れていたが、両手を合掌するかたちに組み、まるで眠ってでもいるように安らかな死顔であったという。警察の係官から、あつみと心中を図った帝大の学生は、七里ケ浜の恵風園に収容されていて、まだ昏睡中だが、医師の診断では生命に別条ないことなどが告げられた。
 田部あつみの亡骸は、検死ののち荼毘に付された。荼毘の場に高面順三は現れなかった。遺骨は一旦津島家番頭の中畑慶吉が預かり、その後中畑慶吉の宿泊先を訪れた順三に引き渡された。順三は、相手の男性に会いたいと申し出たが、中畑慶吉は面会謝絶を理由に断り、今後この件について一切の関わりを持たないことという念書を順三に書かせ、見舞金として現金百円を渡した。この時の念書が中畑慶吉の手許に残されていた。
 誓約書には、「山口県玖珂郡米川村大字西長野茅/高面順三」の署名と捺印があり、「昭和五年拾弐月式日」付で「中畑慶吉殿」宛に「一金壱百円也/右ハ今般自分の内縁の妻田部シメ子に関して御恵与下され候事確に拝受仕り候/右事件に付き本籍地なる親元田部島吉に電信にて問合せ候処自分に一切任せるとの返電に依り後日該事件に対しては絶対自分責任を持ち苦情など申し上げる事無くて候」(安藤宏「新資料・中畑慶吉保管文書より」)とある。
 また、中畑慶吉は後にこの時の順三の様子を「やせた小柄な人物でした。おまけに神経衰弱―今でいうところの強度のノイローゼだったのです。三十前のようでした」と語っている。
 結局、修治との面会を締めざるを得なかった順三は、あつみの骨壷を胸に抱き、最後の別れに七里ケ浜の砂浜で写真を撮ってもらい、遺骨と共に広島へ帰った。田部あつみの遺骨は、広島市郊外の菩提寺に埋葬された。墓碑には田部シメ子の俗名も戒名も刻まれていないが、菩提寺の過去帳には、「昭和五年十一月二十八日、釈妙晃信女、島吉ノ子、田部シメ子、十九歳」とある。十九歳というのは数え年であるから、今の満年齢なら十七歳である。あと五日経てば、満十八歳の誕生日を祝える直前であった。あつみの遺骨が埋葬されるとき、順三の要望もあって、遺骨を半分に分け、順三が自分の故郷に持ち帰って納骨したという。

偽装心中説も――謎の多い事件
 さて、作品『人間失格』では、浅草で喫茶店に入った際に飲み物代も払えないほど財布の中には銅銭が三枚しかなく、ツネ子にたったそれだけ、と言われたことが心中決行の決め手となった、と書かれているが、上記をみると、二人は浅草で遊んだあとホテルに泊まり、その間に一説には歌舞伎座で歌舞伎を観たという話もある。死ぬつもりで、有り金を使い果たすつもりであったのかもしれないが、貧しい者同士の道行きとはどこか程遠い印象はぬぐえない。
 猪瀬直樹氏は、これは太宰が津島家からの分家除籍を逃れるために仕組んだ擬装心中だったのではないか、という説を述べている。つまり心中事件を起こせば小山初代は怒り、結婚話を破談にし、それによって自分の義絶も避けられるというわけである。太宰は睡眠薬のカルモチンは飲み慣れていて致死量も十分心得ていたはずだが、田部シメ子はカルチモン服用がはじめてだったため効き過ぎて死に至った可能性があるというわけだ。(『ピカレスク−太宰治伝』)
 そして『人間失格』では、ツネ子の方から死の話が出て、自分も「金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きていけそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました」と書かれているが、はたしてこの心中事件は、太宰が主導したものなのか、それとも相手の女性なのか。謎は多い。生き残った太宰は自殺幇助罪に問われるが、長兄文治らの働きかけもあり、起訴猶予となっている。

太宰の前期作品からみた七里ヶ浜心中事件
 太宰は、この七里ヶ浜心中事件について、『葉』(昭和9年4月)、『道化の華』(昭和10年5月)、『虚構の春』(昭11年7月)、『狂言の神』(昭和11年10月)、『東京八景』(昭和16年5月)、『人間失格』昭和23年6月)など6つの作品で触れている。この事件により心中の相手が亡くなり自分だけが生き残ったことは太宰にとって生涯消えない負い目となっていたことは疑いない。もちろん、これらの作品で語られていることが事件の真相や作者太宰の本心を必ずしも伝えるものではないが、『人間失格』に至るまでのそれらの作品において、太宰はどう語っているのだろうか。事件について関わる箇所を次にみておこう。
 太宰の作家活動は一般に、前期(昭和9年〜昭和12年)、中期(昭和13年〜昭和20年)、後期(終戦〜昭和23年)に分けられるが、『葉』から『狂言の神』までは前期作品で、『東京百景』が中期、そして『人間失格』が後期にということになる。
 事件から四年後に書かれた『葉』においては次のような記述がある。
 「のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意(わざ)と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった」
 これが、事件についてはじめて触れたものである。ただ、この作品ではなぜ心中を選んだのかは書かれていない。さらに、翌年に発表された『道化の華』では、こう書く。
 「僕はこの手もて、園を水にしずめた。僕は悪魔の傲慢さをもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ」
 これは主人公大庭葉蔵の告白である。たとえ小説であろうとも、自らの手で相手を沈めその死を願ったと告げることは殺人容疑をかけられる危険性がないとはいえない。そこで、小説では、これは主人公「大庭葉蔵」の言葉であり、書き手の「僕」をこの「大庭葉蔵」とは別に登場させることで、この言動はあくまで小説としての「虚構」であることを読者に伝えようとしている。ちなみにこの「大庭葉蔵」は、のちに『人間失格』の主人公(葉蔵)の名前としても使われることになる。
 そして心中の原因について、『道化の華』では、友人小菅の口を借りてこう言わせている。
 「みんな女が原因だときめつけてしまっていたが、僕は、そうではないと言って置いた。女はただ、みちづれさ。別の大きな原因があるのだ」
 そして主人公葉蔵は、「虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。悪徳の巣。疲労。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶった。言ってしまおうかと思った。わざとしょげかえって呟いた。『ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかもが原因のような気がして』」と語る。
 また、翌年の『虚構の春』という作品では、こう書かれている。
 「私は、仲間を裏切りそのうえで生きて居れるほどの恥知らずではなかった。私は、私を思って呉れていた有夫の女と情死を行った。女を拒むことができなかったからである」
 さらに、続く『狂言の神』では、こうも書く。
 「有夫の婦人と情死を図ったのである。私、二十二歳。女、十九歳。師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに、入水した。女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄な女性だけを尊敬している」
 そして、入水の原因については、自分たちは兵士(これは非合法活動家という意味か)だったが、自分だけ仲間から逃げて仲間5人は殺された。「私は大地主の子である。地主に例外は無い。等しく君の仇敵である。裏切り者としての厳酷なる刑罰を待っていた。撃ちころされる日を待っていたのである。けれども私はあわて者。ころされる日を待ち切れず、われからすすんで命を断とうと企てた」と表現している。
 『葉』(昭和9年4月)から『狂言の神』(昭和11年10月)までのいわゆる前期の太宰はあたかも自虐ネタで笑いをとる芸人のごとく、自分の心中事件さえもネタにして、あれこれと脚色をほどこしながら実験的で斬新な作品を書き続け、小説家の途をめざして生きるか死ぬかのギリギリの綱渡りのような格闘を続けていた。この時期の作品はのちに『虚構の彷徨』三部作及び『晩年』としてまとめられるが、処女作「思い出」をはじめとしてこれらの作品は自殺することを前提に、遺書として書き続けられたものである。
 さて、あらためてこれら前期の作品から江ノ島心中事件を見てみると、「女は、ただみちづれさ」(『道化の華』)と書かれていたり、「女を拒むことができなかったから」(『虚構の春』)と書かれていたりして、この道行きを主導したのが、どちらだったのかをむしろ曖昧にさせている。また「つないだ手を苦しまぎれに俺が故意(わざ)と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった」(『葉』)と書かれ、「われはよみがえるとも、園は死ね、と願ったのだ」(『道化の華』、筆者註:「園」は心中相手の名前)とも書かれていて、愛し合う男女の心中というイメージからはほど遠く、「女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互いまったく別のことを考えていたらしい」(『道化の華』)とも書いている。
 ちなみに、最初の『葉』で書かれていた、最後に女が叫んだという自分ではない名前とは、『虚構の春』では「海野さーん」となっていて、それは自分が女に使った偽名で海野三千雄という作家の名前から借りたものだった、と書かれている。つまり、相手の女は自分の名前を最後に呼んだというわけだ。また『虚構の春』では江ノ島心中の前日は帝国ホテルに泊まっていたとも書いている。
 また、その時の心情については「僕はどうしてあのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだろうね」(「道化の華」)と葉蔵に語らせるが、それに続いて「もう彼の言葉を信じてはいけない、彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだろう」とも書いているのである。また『狂言の神』では、「私は世の中でこの人間だけを、この小柄な女性だけを尊敬している」とも書かれているが、けっして愛とか恋などという言葉は使われてはいない。

太宰の中期作品からみた七里ヶ浜心中事件
 では、中期の『東京八景』ではどうだろうか。この事件については、次のように書かれている。「銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌倉の海へはいった。破れた時は、死ぬ時だと思っていたのである」と。その破れた時というのは、二重の絶望のことで、一つは元芸妓の小山初代という女性が自分との結婚が決まって一旦津軽に帰ったのだが、それきり安心して便りも一度しか寄越さない。自分は肉親を仰天させて、母親に地獄の苦しみをなめさせてまで戦っているのに一人安心してしまっている。毎日でも手紙を寄越すべきだ。自分に対する愛情が足りない、という絶望。もう一つは、非合法活動での自分の限界が見えてきたことに対する絶望。
 この小山初代とは後に太宰は心中未遂事件を起こすことになるのだが、事件を起こした時はまだ婚約したばかりの頃だ。さらにこうも書く。「H(註:初代)との事で、母にも、兄にも、叔母にも呆れられてしまったという自覚が、私の投身の最も直接的な一因であった」と。それにしても、どれもあまり説得力がないといわざるを得ない。それならなぜわざわざ初代を東京に呼び寄せたりしたのか。初代が置屋を抜け出せば、当然修治のところへ行ったと疑われるのは火を見るよりも明らかだったはずだ。それに手紙を寄越さないから絶望した、というがそれがなんで自殺の原因となるのか理解に苦しむ。
 非合法活動の限界というのは、おそらくその二ヶ月ほど前の9月に弘前高校の一年先輩で信頼する左翼活動家の工藤永蔵が東京帝国大学を除籍されたショックが大きかったのではないかと考えられる。もし、自分も大学を除籍になれば長兄からの送金は停止されてしまう可能性があったからである。それも初代の上京の直前の出来事だった。
 いずれにしても、この中期における「東京八景」では、すでに離縁している初代を悪者に仕立て、諸々の事件の原因を彼女に帰してしまおうという姿勢が窺える。ただ、ここでは自分から女を誘った、死の原因は自分が破れた時と書いていて、心中を主導したのが自分であるとことを示唆している。
 また、「東京八景」のなかで、太宰はこの時期の自分について次のように振り返っている。「私は、再び死ぬつもりでいた。きざといえば、きざである。いい気なものであった。私は人生をドラマと見做していた。いや、ドラマを人生と見做していた」と語っている。そして、遺書として書いた「思い出」によって太宰は死ぬつもりでいたが、逆に「思い出」が認められて、そこからさらにもっと書いておきたいという欲が出てきた、と述べる。そして「死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一連の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮、青くさい気取った感傷にすぎなかったのかもしれない。けれども私はその感傷に、命を賭けていた」
 「これが出来たならば」と命を賭けたそれらの作品は『晩年』と『虚構の彷徨』という二冊にまとめられるわけだが、その時期の作品「道化の華」には、こうも書いている「僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいであるが、仮に一言こたえて置こう。『復讐。』」
 これは主人公葉蔵とは別に登場する作者の言葉である。では、一体なにに対する「復讐」なのか。饗庭孝男氏は講談社文庫版『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』の解説で、「生活において敗れながら表現において他者と釣り合うという意味での『復讐』であった。したがってそこには生活者における無能力と破綻を表現において償うという苦痛にみちた行為があった」と述べている。
 また、饗庭孝男氏は「人生をドラマと見做していた。いや、ドラマを人生と見做していた」という太宰の考え方には現実と芸術との関係がよく表れているとし、「彼は現実のなかに芸術の素材となるべきものを求めたのではなく、むしろ芸術のなかに人生を生きる契機を求めようとしていたのであった」とも述べている。
 そうであるならば、作品から太宰の関わった事件の真相を探ることはほとんど意味をなさないわけである。それでも、読者に「本当のところはどうだったのだろう」という思いを抱かせてしまうところが、多くの読者を太宰作品へ惹き込んできた所以であろう。

偽装心中説の背景となるカルモチン自殺未遂事件
 ところで、死ぬ間際の作品『人間失格』においては、もしかしたら作者は真実を語っているのではないか、と読者は期待するかもしれない。はたしてそれはどうであろうか。『人間失格』では、先にも述べたようにこの七里ヶ浜心中に関して、女から「死」の言葉が出て、自分もそれに気軽に同意して、鎌倉の海に飛び込んだと書かれていて、『東京八景』とはまた一転して、心中を主導したのは相手の「女」であるとされているのである。
 そうなると、どうみてもこの心中事件は、どこか唐突で、なにか裏がありそうな感じをいだかせる。それが猪瀬説などを生む要因ともなっている。その背景の一つとして、津島修治がその一年前(昭和4年12月10日)の弘前高校在学中に下宿先で起こした擬装自殺と疑われる睡眠薬の多量摂取を図った事件が挙げられよう。この時も、七里ヶ浜心中と同じ催眠剤カルモチンが使われている。この時の摂取量は七里が浜の時のおよそ三分の一程度とみられ致死量からほど遠いが、当時の下宿先では大騒ぎとなり、実家から次兄英冶が駆けつけている。学校には「神経衰弱による睡眠薬の飲み過ぎ」と届けが出され、修治はそのまましばらく学校を休み、年が開ける昭和5年1月7日まで母親夕子と大鰐温泉へ湯治に出ている。
 この事件は、結果的には修治には好結果をもたらしたのである。当時、修治は弘前高等学校三年生で、学業を疎かにして小説を書くかたわら、青森の街に出かけて、義太夫を習い芸姑遊びに耽っていた。その頃修治がよく通っていたのが小料理屋の「おもたか」で、そこに芸妓置屋玉屋から紅子を呼び寄せなじみになったりしていた。

  

左:料亭「玉屋」右:小料理屋「おもたか」

 しかし気がつくと学期末で、翌日に迫る試験の準備は全くできておらず、このまま試験を受ければ落第する可能性すらあった。しかも、文筆活動では弘高の新聞雑誌部の上田重彦(石上玄一郎)の勧めで新聞雑誌部に所属し『校友会雑誌』の編集にたずさわり、また自らその雑誌にいくつかの作品を発表したりしていたのであるが、部を取り仕切る上田重彦は弘高社研のリーダーでもあり左翼活動家でもあった。
 その年の春に、いわゆる4.16事件(昭和4年)と呼ばれる治安維持法による共産党員およびそのシンパ活動家に対する一斉検挙があり、これによって壊滅的打撃を受けた共産党は、弘高の出身の田中清玄らが中心となって党再建をめざしていた。いわゆる武装共産党時代である。そのため弘高はじめとして全国の高等学校の社研メンバーたちは党再建のための使い走りをさせられていた。当然上田にも警察の厳しい監視がついていた。結局上田をはじめ社研に所属する10名の活動家は翌昭和5年の1月16〜17日に一斉逮捕されることになった。
 修治が、カルモチンの多量摂取により病院に運ばれたのはこの逮捕の約ひと月前であった。つまりちょうど彼が学校を休み、静養している間に学内左翼分子に対する厳しい内偵が進められていたのである。本来なら、上田たちとも交流があり、『交友会雑誌』にも関わっていた太宰にも累が及んでも不思議はなかった。その意味でこの「自殺未遂」は絶妙なタイミングであった。他方で彼は静養中のこの時期に、東奥日報から新たに出された左翼的傾向の文藝雑誌『座標』に地主階級を批判的に描いた「地主一代」を寄稿、発表したりしている。そして3月3日には上田をはじめとする活動家に処分が下された。上田は放校処分となり、あわせて7名が放校・退学処分となり学校を去った。修治は、その直後に東京帝国大学仏文科を受験し、運良く合格し、高等学校もなんとか卒業(71名中46席)できたのである。

どうも腑に落ちない偽装心中説
 この「自殺未遂」が彼にとっていわば「成功体験」となった可能性はある。押し寄せてくる諸々の災難を一挙に吹き飛ばしてくれたようなものだったからだ。そういう意味では、今回の七里ヶ浜心中も、猪瀬直樹氏が言うように、その目的は別のところにあったのではないかと考えることはできなくもない。しかし、果たして「心中未遂」によって、初代は結婚をあきらめるのだろうか、いや結婚を諦めたとしても、長兄文治が分家除籍を撤回するだろうか、どうもこれらの点が腑に落ちないのである。擬装心中とするなら、あまりもリスクが大き過ぎるような気もするのだ。
 そこで、少し角度を変えてこの事件をみてみよう。太宰はこれらの作品のなかではこの心中は入水心中であったと書いているが、はたしてそれは事実だったのだろうか。『虚構の春』では、道行きの様子を次のように具体的に書いている。
 二人は岩の上で睡眠薬を飲み、「大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて、両脚をぶらぶらうごかしながら、静かに薬のきく時を待って居ました」そして突然薬が効いて二人は岩の上で身を悶え、のたうちまわり、「折りかさなって岩からてんらく、ざぶんと浪をかぶって、はじめ引き寄せ、一瞬後は、お互いぐんと相手を蹴飛ばし、たちまち離れ」ていった、と。つまり睡眠薬を飲んでから海に転落したと書かれているのだ。

はたして二人は「入水」していたのか
 では、実際はどうだったのであろうか。まず、当時の新聞報道を確認してみよう。
 事件を報道した各地の新聞から、要点のみ抜粋すると、以下のようになる。
 「相州腰越小動神社裏海岸に二十九日午前八時頃若い男女が催眠剤をのみ倒れているのを発見、七里ケ浜恵風園療養所に収容手当の結果、男は助かったが女は死亡した。」(東京日日新聞二十九日発行夕刊)
 「二十九日午前八時頃相州腰越津村小動神社裏手海岸にて若い男女が心中を図り苦悶中を附近の者が発見、七里ケ浜恵風園にて手当を加えたが、女は間もなく絶命、男は重態である。」(東奥日報三十日発行朝刊)
 上の記事では心中があった場所はそれぞれ「相州腰越小動神社裏海岸」と、「相州腰越津村小動神社裏手海岸」となっているが、その後、東奥日報には、第二報として次のような記事が掲載された。
 「十一月二十九日朝、中ノ瀬七里ケ浜で銀座ホリウッド・バーの女給田辺あつみ(十九)とカルモチン心中を図り、女は絶命し、生き残った帝大生仏文科一年生津島修治(二二、本県北郡金木町出身)は、その後七里ケ浜恵風園に入院加療中の処一時は重態を伝えられたが、爾来、漸次経過よく一命をとりとめる見込みが充分である。鎌倉署では同人の病状の快復を待って自殺幇助罪として一応引致取調を行ふ筈である」
 この記事は、第一報より三日後のものである。心中事件の現場については「中ノ瀬七里ケ浜」と改められ、また第一報では二人とも収容されたとあるが、ここでは「女は絶命」とされ、男のみ収容されたと訂正がなされている。そしていずれの記事にも入水(投身)という文字は見当たらず、「若い男女が催眠剤を飲み倒れている」あるいは「カルモチン心中を図り」と書かれているのである。長篠氏のその後の検証によれば、二人が睡眠薬を飲んで心中をはかった場所は、腰越側の「小動神社裏海岸」ではなく七里ヶ浜側の小動崎と地続きとなった畳岩というところで、そこは波に侵されないかなり広い平たい岩場であった。29日午前8時頃、出漁しようとした近くの漁夫の一人が、この小動崎の突端につづく畳岩に、若い男女が倒れているのを発見した。女性のほうは既に死亡していたので、漁夫は男の方を背負って近くの七里ケ浜恵風園にかつぎ込んだということが判明した。
  


干潮時、間近に見る畳岩(右手が小動崎)

入水心中説は疑わしい――カルモチン心中か
 この長篠氏の検証により、太宰の作品を通して推察された入水(投身)自殺説は疑わしいものとなった。猪瀬直樹氏の言う通り、「常識的に考えて、大量のカルモチンを飲み、睡魔に襲われた情況で晩秋の海に飛び込んで生還できるわけがない。もし入水していたら二人とも確実に死んだはずだ」(『ピカレスク』)ところが、太宰治は助かっているので、二人は入水していないと推定される。そして、長篠氏も入水心中説に疑問を投げかけ、カルモチン心中説に立ったうえで、二人が飲んだ量は致死量には達していないが、田部あつみが死亡したのは、「あつみが小柄な女性であったことと、睡眠薬に慣れていないところへ、一時に多量を服用したことから、残念なことに急性肺炎などの余病併発し、体力を保ち得ず死亡(嘔吐と吐蕩による窒息死)するにいたったものと推測される」(太宰治『七里ヶ浜心中』)と述べている。
 これによって、にわかに擬装心中の可能性が浮上したともいえるが、しかし、入水しなかったからと言って太宰が助かるという保証があったわけでもない。カルモチンへの免疫は多少あったとしても、師走間近の寒風吹きすさぶ浜辺での睡眠薬多量嚥下は、低体温症による死のリスクもかなり高いはずだ。もちろん、確実な死を求めるならば、海に入ればいいわけで、おそらく太宰もそのつもりで、すぐに飛び込める岩場を選んだのだと思うが、やはり太宰には最後の最後まで生への執着を断ち切ることはできず、かといって「とてもこの上こらえて生きていけそうもなく」(『人間失格』)、ギリギリのところで最後はこのロシアンルーレットのような「カルモチン心中」へ至ったと、筆者は推理しているが、いかがであろうか。
 その意味では、この心中は太宰が主導したもので、「女はただ、みちづれ」(「道化の華」)だったともいえるが、他方で田部あつみの方にも、死への傾斜は少なからずあったと考えられる。美人で聡明なあつみにとって夫を助けるためとはいえカフェの女給に身を落としてしまったという忸怩たる思いはあっただろうし、そのために夫との間にも争いが絶えず、夫はノイローゼになり、あげく夫に対する不貞、店への借金、無断欠勤となって、もはや先が見えない状況にあった。そうして二人の間にどちらからともなく「死」という言葉が飛び出し、二人はその言葉に搦め捕られるように、「心中」へと至ったのではないかと考えられる。

積み木崩しのような太宰の状況
 以上、状況証拠と作品に書かれたものに基づいて七里ヶ浜心中をみてきたが、修治からすれば、それはやはり「なにもかもが原因のような気がして」(『道化の華』)としか言ようがなかったのではないだろうか。当時の修治を取り巻く状況を見てみれば、とても擬装心中などを企図する精神的余裕などあるはずもなく、まさに「生きていけそうもない」(『人間失格』)状況であったと言っていいだろう。
 原因につながるいくつかを具体的に挙げるならば、まず弘高・東大の先輩で修治とも身近に接し信頼していた左翼活動家工藤永三が東大を除籍処分(昭和5年9月18日)となったこと、すぐ近くに住んでいた敬愛する三兄圭治の病死(結核性膀胱カタル−昭和5年6月21日)、『座標』誌への「地主一代」の掲載中止を長兄文治に強く求められたこと(圭治の死後まもなく)、財産分与なしの分家除籍、ホリウッドでの多額の借金、初代との結婚をめぐるごたごた、等々である。これでは積み木崩しのようになにかちょっとしたきっかけがあれば、すぐにでも崩壊へと突き進みかねない状況にあったと言っていいだろう。田部あつみがたまたまそこに遭遇してしまったのである。

「入水」は「道化の美学」としての虚構
 ただ、もし二人が海に投身していないとするなら、なぜ太宰は作品では、「一緒に身を投げた」(「道化の華」)、「入水した」(「狂言の神」)、「海にはいった」(「東京八景」)、「海に飛び込みました」(「人間失格」)等とすべて入水心中としているのか、その点での疑念は残る。もちろん、小説は虚構である。作者が真実を告白しなければならないという義務などない。それを踏まえて考えてみるならば、おそらく太宰は、作品のなかでは、土壇場まで逡巡に逡巡を重ねて最後の最後に腰砕けとなったぶざまな己の姿を曝け出したくなかったのではないか。そこで、すでに巷間に喧伝されている「入水心中」という「虚構」にすがったのであろう、と筆者は推測する。そしてそれはけっして「偽装心中」を「隠蔽」するための「虚構」ではない。作家太宰治の「道化」の美学としての「虚構」であった。
 その一方で、人間津島修治は、たえず死を口にしていたが、本音では人一倍死を怖れていたのだ。「斜陽日記」の太田静子は娘の太田治子にこう語っていた。「私は、死ぬのが恐い人間だから、何度も自殺を試みた太宰のような人の傍にいたらきっと死ぬのが恐くなくなると思ったの。でも太宰は人一倍、死ぬのが恐い人だということがわかったわ」(「明るい方へ」)と。

打算の結婚と長兄と結んだ「覚書」
 さて、この心中事件は、修治にもちろんなんの成功ももたらさなかった。修治は失意のどん底にあり、ほどなく郷里に帰り、南津軽郡碇ヶ関温泉の柴田旅館に投宿し、しばらく静養したのち、長兄の指示により柴田旅館で小山初代と仮祝言を挙げた。太宰はこのときの仮祝言について、昭和9年の短篇「葉」の中で、「私たちは山の温泉場であてのない祝言をした」となんとも投げやりな表現をしている。他方、長兄にすれば一日も早く所帯を持たせて、実生活上の諸問題に責任を取らせなければならないと考えたのである。従って、この結婚ははじめから打算の産物であった。ロシアンルーレットで、「生」を選ばされた修治は、流れに逆らわず唯々諾々と周囲の指示を受け入れ、とりあえず生きていくことにしたのである。初代も、心中事件を知って、泣きわめいたと言われるが、芸妓の身から若い大地主の息子に落籍してもらえるのだから事件に目をつぶることなどわけもなかった。
 年が明け、昭6年1月27日長兄文治が上京、修治と面談し、両者は「覚書」を結んだ。それによれば、修治は今後小山初代と同居生活を営む限り昭和8年4月まで生活費として月々120円の仕送りを保証してもらえることになった。ただし、以下の項目に該当する事実が明らかになった場合には仕送りを停止するという条件がついていた。「帝国大学ヨリ処罰ヲ受ケタルトキ」「刑事上ニ付キ検事ノ起訴ヲ受ケタルトキ」「理由ナク帝国大学ヲ退キタルトキ」「妄リニ学業ヲ怠リ、卒業ノ見込ナキトキ」「濫リニ金銭ヲ浪費セルトキ」「社会主義運動ニ参加シ、或ハ社会主義者又ハ社会主義運動へ金銭、或ハ其ノ他物質的援助ヲナシタルトキ」「操行乱レタルトキ」の七項目である。
  


長兄津島文治と津島修治の覚書(一部)

非合法活動時代の津島修治
 初代は2月に上京した。神田岩本町の二階建て借家の一階に住んだ。ほどなく党活動家の工藤永蔵がやってきて重要人物を匿ってほしいと頼まれ、引き受けている。その後、修治は隠れ家や活動家の集まりのために部屋を提供し、転居を繰り返しながらずるずると資金提供を含めて自らも党活動の末端を担うようになる。
 当時、雑誌『座標』に発表(昭和5年7〜11月)した「学生群」という作品の主人公青井の以下のような言葉は太宰の当時の心境をよく表しているように思える。
「彼とて帰省の度毎に、今更ながらブルジョアの糜爛した生活に無限の憎悪を感じるのではあつたが、それも長くて一週間が程の事で、あとはもう魚の臭いも御存じなく、お梅や、冷蔵庫にメロンがあるから、なんぞと、だみ声を張り上げて我が身は藤の長椅子にごろごろしながら、レコードをかけ、映画雑誌でもひろげて居やうと言ふ呆れ果てた有様。之は立派な裏切だ! 心から憎むべきものだ。そう気附いて愕然とする。とつてつけたやうに何か革命的な書籍を引つ張り出す。表情さへ深刻にして、二、三頁読む。それから真面目に考へ込む。僕は駄目な男だなあ、第一に意志が弱い、勇気が無い。僕は逆立ちしたつて闘士には成れない。共鳴者、あの見栄えのしない財政的支持者が僕のギリギリの役割だ。よろしい、自分一個人の英雄心は此の場合、潔く捨ててやる。椽の下の力持ちだ。阿呆と言はれやうが何と言はれやうが、自分さへガツチリしてたら屁の河童だ」(「学生群」)
 また、太宰は『人間失格』のなかで、この時期を次のように振り返っている。「非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というものの方が、かえっておそろしく(中略)外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到る方が、自分には、いっそ気楽のようでした」と。修治は追われるように住処を転々とし、その間に二度検挙されていて、次第に自分の限界も見えてきたが、それでも死にいたることもなく彼等と関係を続けていた。
 長兄に社会主義運動との関わりが知られれば送金は停止されることになっていた。修治の様子は長兄文治の耳にも入っていたが、あまり強硬な措置をとれば修治を追い詰め、手ひどいしっぺ返しをくらう危険性があるのでしばらく様子をみようと長兄は考えていたところ、昭和7年の7月に思わぬ事件が起こった。それは、修治の甥(次姉としの長男)で青森中学に在籍していた津島逸郎が左傾活動の疑いで警察に検挙され、取り調べの結果、修治から思想的な影響を受けたという疑いが濃厚となったのである。長兄は、これを知って「覚書」の第6項に違反するとして、当分の間仕送り停止するとの文書を修治に送りつけた。ただし、内密に青森の警察署に出頭して、左翼運動からの離脱を誓約すれば、大学卒業までは仕送りを続ける。さもないときには、今後一切絶縁する、というものであった。長兄から、一切絶縁すると突きつけられて太宰はいよいよ切羽詰まった。煩悶の末、修治は帰郷し、警察に出頭、取り調べを受けた。津島逸郎の件では書類送検となったが、その後、昭和7年12月にあらためて青森検事局から出頭を命じられ、昭和8年1月9日に今後いかなることがあっても非合法活動には関係しない旨の誓約書に署名し、以後左翼活動と完全に縁を切った。まさに「私ひとりが逃げた」(『狂言の神』)のである。

捨て身の創作活動――芥川賞候補へ
 仕送りは90円に減額されたが、期限は昭和9年4月まで延期された。残り1年3ヶ月、その間に修治は自分の人生になんとか区切りをつけなければならない。修治は、筆名を太宰治とし、遺書のつもりで「思い出」を書いた。するとこの一編では、書き足りないような気がしてきて、次々と作品を書き、後にそれが『晩年』『虚構の彷徨』という短編集にまとめられることになるのは、先にも述べた通りである。
 またこの間に彼は井伏鱒二に師事し、作品の発表の場を少しずつ得て、彼の捨て身の創作活動がやがて周囲にも認められるようになっていった。そして昭和10年8月に発表された「逆行」(『晩年』に収録)が第一回の芥川賞候補となったが、残念ながら次席に終わった(受賞作は石川達三『蒼氓』)。選考委員の川端康成が「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」と選者評を書いたのに対して、太宰は、「川端康成へ」と題し『文藝通信』に、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と激しい怒りをこめた文章を発表したのは有名な話である。「生活に厭な雲あり」とは痛いところを突かれたな、と太宰は思ったかもしれないが、それと作品の評価とどう関係があるのか、と彼は言いたかったはずだ。「私は、あなたのあの文章の中に『世間』を感じ、『金銭関係』のせつなさを嗅いだ」と同じ文章の中で太宰は述べている。賞の選考にあたって文学とは別の価値基準が働いているのではないかと彼が強い危惧の念を抱いたことが伺われる。
 それでも第二回の芥川賞に際して、自分を評価してくれている選考委員の佐藤春夫に手紙を送り、「芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうしてどんな苦しみとも戦って、生きていけます。元気が出ます。お笑いにならずに、私を、助けて下さい」(昭和11年2月5日付書簡)と必死の訴えをしている。佐藤春夫から翌々日に返信があり、すぐ自宅へ来いとあったので、小石川の佐藤邸へ出向くと、ただちにパビナール中毒治療のために入院せよ、と忠告を受け、やむなく2月10日に佐藤春夫の弟が勤める芝区の済生会芝病院に入院した。2月20日に退院しているが、その間も度々病院を抜け出し、壇一雄ら悪友と浅草などで飲み歩いていたという。太宰が退院してからまもない2月26日には陸軍青年将校二十二名、下士官、兵約千四百名、右翼若干名が、完全武装のうえ首相官邸などを襲撃、高橋大蔵大臣、斎藤内大臣、渡辺教育総監などが射殺される、二・二六事件が発生しているが、こうした社会の動きとはほとんど無縁なところで太宰は生きていた。
 結局、第二回の芥川賞は該当なしで終わった。選考の経緯をあれこれ探り、「芥川賞、菊池寛の反対らしい。とうとう極限まで掘って掘って、突き当たった感じ」(昭和10年8月13日付書簡)と親戚筋の小館善四郎宛に書き送っている。第三回(昭和11年8月)では川端康成に「何卒 私に与えて下さい 一点の駆引ございませぬ」(昭和11年6月29日書簡)と懇願の手紙を送ったが、過去に一度候補になった作家は選考の対象としないという規定が設けられたため候補にもならなかった。

芥川賞をめぐる師匠井伏鱒二、佐藤春夫との騒動
 この第三回の芥川賞をめぐって、太宰は師である井伏鱒二とも、さらに井伏の師でもある佐藤春夫とも悶着を起こしている。第三回の芥川賞に際しては、太宰は受賞発表のひと月前の7月11日に、上野精養軒で6月に出版された短編集『晩年』(砂子屋書房)の出版記念会を、佐藤春夫、井伏鱒二、保田與重郎、亀井勝一郎、壇一雄、丹羽文雄、尾崎一雄、山岸外史などおよそ四十人を招いて開いており、加えてあらたな作品「虚構の春」も芥川賞の元締めでもある『文藝春秋』7月号に掲載予定が決まっていて、選考委員の佐藤春夫からも良い感触を得ていたので、もはや芥川賞は自分の他には考えられない、と確信していた。故郷の中畑慶吉にも、「『晩年』アクタガワショウ(五〇〇)八分ドホリ確実。ヒミツ故ソノ日マデイハヌヨフ」(8月4日付)と書き送っている。
 しかし、8月11日に発表になった第三回芥川賞は、太宰は候補にもならず門前払いであった。「芥川賞の打撃、わけわからず、問ひ合わせ中でございます。かんにんならぬものがございます。女のくさつたやうな文壇人、いやになりました」(8月12日付)と義弟の小館善四郎(小館保の弟)に書き送っている。この時太宰は谷川温泉に静養に来ていた。芥川賞がほぼ確実だという感触を得ていた太宰は芥川賞をいわば自分の人生の花道とし、それを以て自らの人生に決着をつけるつもりでいたのかもしれない。
 この時の心情を『東京百景』では、「金が欲しかった。私は二十人ちかくの人から、まるで奪い取るように金を借りてしまった。死ねなかった。その借財をきれいに返してしまってから、死にたく思っていた」と書いている。太宰にとって芥川賞は、名誉もさることながら、それ以上に五〇〇円という賞金が喉から手が出るほど欲しかったのである。
 しかし、思わぬ結果に逆上し、『新潮』に載せる「創世記」に追記する形で「山上通信」なる一種の暴露文を発表したのである。その「山上通信」で、太宰は、佐藤春夫から芥川賞について「お前ほしいか」と訊かれ、ぜひ「もらってください」と頼んだ、と内輪話を公にしたのだ。芥川賞はほぼ確実だ、などと密かに吹聴していた自分への照れ隠しのつもりであったのかもしれないが、文壇のしきたりからすればまさに常軌を逸した行為である。「山上通信」には、井伏の実名も出し、井伏がこの一文を出すことを了承したかのごとく受け取られかねない表現もあり、佐藤、井伏という二人の文学上の後ろ盾にそれこそ赤恥をかかせてしまったのである。
 加えて、中条百合子が『東京日日新聞』(九月二十七日付)の「文芸時評欄」で、「私は、文学に、何ぞこの封建的な徒弟気質ぞ、と感じ、更に、そのやうな苦衷、或は卑屈に似た状態におとしめられてゐることに対して、ヒューマニズムは、先づ、文学的インテリゲンツイアをゆすぶつて、憤りを、憤るといふ人間的な権利をもつてゐるのであるといふ自覚を、呼びさますべきであると思つたのであつた。」と述べて、文壇における師弟関係の前近代性を酷評したことから、太宰を評価していたさすがの佐藤春夫ももはや黙っていられなかった。佐藤は中条百合子のこの一文に刺激されて、実名小説「芥川賞」(『改造』昭和11年・11月)を書き、「中条百合子が重要視して事実と思つて読んだらしいところはまるで作者の妄想にしか過ぎないからである。太宰の作品は創生記に限らず全部幻想的といふよりは妄想的に出来てゐる。」と述べ、さらに「太宰が相手の心理を把握するに奇態な才能を抱いてゐる妖人物であることはこの一作でも知れる。しかしその手腕を悪用してこの男は創作の自由といふ美しい仮面の下で世にも不徳な事共を憤然と仕出かしてゐる。――自分の憤慨は偏にそれに懸つてゐる。」として、太宰の主張は妄想から出たものであって、事実ではないと断じたのである。そのうえで、「僕は今太宰治を異常に憎悪してゐる。しかし同時に彼の無比な才能を讃歎してゐる。この矛盾が自分のこの作をする動機である。単なる憎悪だけであつたら自分は笑つて彼を唾棄したであらう」とも述べている。
 太宰はその間に、佐藤に手紙を乱発し、井伏にも謝罪の手紙を書くが、周囲の目からみても太宰の錯乱ぶりは明らかであった。

鎮痛剤パビナール中毒と太宰の錯乱
 この時期、太宰は鎮痛剤パビナールの中毒に陥っており、妻の初代も当時の太宰の深刻な状態を心配して、井伏氏に報告していた。太宰がパビナール中毒にかかったきかっけは前年(昭和10年)の4月に腹膜炎で入院し、その時に病院で処方されたパビナールをその後も常用するようになったためである。この常用は、芥川賞の受賞を逃したことで、さらに拍車がかかり、もはや尋常ではない状態であった。「一日に三十本乃至から四十本注射する由」と井伏は初代から聞いていた。とりあえず井伏に報告したのち中畑慶吉、北芳四郎の二人を交えて話し合った結果、なんとかパビナール中毒の治療のために太宰を入院させなければならない、という話になった。
 この時のことを太宰の友人山岸外史氏は『人間太宰治』の中で、次のように書いている。
 「そこでいろいろ秘策が練られた結果、いちおう太宰を騙しておいて、太宰の胸部疾患のために静養という名目をつけることにした。結核療養所に入るということで太宰をつれだすことがいいということになったのだと思う。その軍師は井伏鱒二氏であり、その実行委員兼誘導員が、初代さんになったようである。井伏さんも太宰のことは心配していたのであり『だいいち、友達にわるいのばかりがいる。あの方も処置しないといけない』といったそうである。太宰は、その井伏さんにはなかなか気がねがあったようである。」そして、「太宰入院の作戦は、なかなか巧妙をきわめていた。正直な太宰は井伏さんを信じ、初代さんの言を堅く信じていた模様がよくみえる。(略)太宰はあくまでも結核療養所のつもりでいた。井伏夫人はこの作戦には最初反対だったらしいが、しかし、井伏氏は『非常手段として』『最後の手段として』『これ以外にはありません』といって、断乎、その方針をすすめたようである。」

脳病院への強制入院と「人間失格」の烙印
 さて、小説『人間失格』では、最後に主人公が周囲の人たちからサナトリウムと偽って脳病院に入院させられることになるのだが、これは昭和11年11月13日に井伏鱒二氏や妻の小山初代より結核の治療のために療養所に入ると言われて、約一カ月板橋区江古田の武蔵野病院に入院させられた経験にもとづいていることは言うまでもない。
 作品では、悪友の堀木と長兄の番頭のひらめから勧められて、妻のヨシ子と主人公の四人で車に乗って病院へ行く。主人公はそこはサナトリウムと思っていたが、脳病院であることを入院してから知ることになるのである。
 井伏にとって、太宰のこの入院は、「山上通信」での太宰の常軌を逸した言動をパビナール中毒症状からくる精神錯乱によるものと断定した師佐藤春夫(「小説芥川賞」)の顔も立つ結果となり、あわせて太宰の中毒症状の治療にもなるわけで、まさに一石二鳥であった。しかし太宰にとっては、騙されて脳病院へ入院させられたという無念さとともに、周囲から狂人扱いされ、自分は「人間失格」の烙印を押されたのだ、との思いが終生続くことになる。
 ただ、この武蔵野病院では太宰は思わぬ知遇を得ている。太宰の主治医となったのは若い中野嘉一という慶大医学部出の医師で、在学当時から詩作に熱中し、武蔵野病院に副院長として赴任した昭和十年ころにはシュール・レアリスム系統の詩誌『リアン』の同人として活躍していた。前衛的な新進作家太宰治の名も詩人の間でも評判になっていたらしく、また保証人が井伏鱒二であるということからも、太宰の入院には特別の関心を抱いていたようだ。医師の立場で患者の太宰と個人面談するときでも話題はいつのまにか文学のことになっており、太宰もまた中野医師に親近感を示すようになっていった。
  


中野嘉一博士(桜桃忌にて)

 入院当初は、院長や主治医に対しても、「インチキ病院、インチキ医者、退院したら警察に訴えてやる」などとさんざん嫌味を言っていた太宰も、文学を語り合える中野医師とはいつのまにか親しくなり、退院の日にはお礼として次のような献辞をしたためた『晩年』一冊を贈っている。

 君は私の直視の下では、いつも、おどおどして居られた。私をあざむいた故に非ずして、この人をあざむいてゐるのではないかしら、といふ君自身の意識過乗の弱さの故であらうか。私たち、もつと、きつぱりした権威の表現に努めようね。
 ひとりゐて/ほたるこいこい/すなつぱら
               太宰 治
 中野嘉一様

 この中野嘉一のカルテが、偶然にも著名な精神科医の宮城音弥の手許に残されていたのである。そして、中野医師はそのカルテに、「最後に麻薬中毒の土台としての性格として『精神病質者』(性格異常者)なる診断名を付している」と宮城音弥氏は伝えている。(「一つのカルテ」昭和53年12月「桜桃」)つまり、中野医師の診立てによれば、太宰はいわゆるサイコパスとされていたのである。

怒りの矛先は初代へ――そして初代の不貞
 太宰のようなタイプの人間は、身近にいる人間に強烈な影響を及ぼさずにはいられない。この強制入院に絡んで太宰から最も激しい恨みを買うことになったのは、妻の初代である。初代が強制入院の手引きをしたことで、太宰はその怒りの矛先を初代に向けた。この入院体験をもとに書かれた『HUMAN LOST』は、この時のひと月の入院生活を日記の体裁をとって振り返ったものだが、その中のある一日に「妻をののしる文」というのが書かれている。
 「人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一個の梨の投入をさえ試みない。君は、いったい、誰の嫁さんなんだい。武士の妻。よしやがれ!
 ただ、T家よりの銅銭の仕送りに小心よくよく、或いは左、或いは右。真実、なんの権威もない。信じないのか、妻の特権を。
 含羞は、誰でも心得ています。けれども、一切に眼をつぶって、ひと思いに飛び込むところに真実の行為があるのです。できぬとならば、「薄情。」受けよ、これこそは君の冠。」
 しかも初代は、太宰が入院しているこのひと月の間に、太宰の義弟小館善四郎と「姦通」の過ちを犯してしまうのである。太宰の姉きやうの次男小館善四郎は帝国美術学校(現武蔵野美術大学)の学生であったが、太宰が入院する直前に手首を切る自殺未遂事件を起こして阿佐ヶ谷の篠原病院(そこは以前太宰が盲腸炎で入院したところ)に入院し、そこに初代が看病に出かけていって病室で過ちに至ったのであった。これは二人で内密にしておくはずであったが、年が開けて昭和12年の春、小館は初代が太宰に喋ってしまったと早とちりして、自ら過ちを告白してしまたったため太宰の知るところとなった。
  


太宰治と小山初代

水上温泉心中未遂事件と初代との離婚
 この小館善四郎の告白により、太宰と初代の関係にさらに決定的な亀裂が入ることになる。『東京八景』では、次のように書かれている。
 「Hは、もう、死ぬるつもりでいるらしかった。どうにも、やりきれなくなった時に、私も死ぬ事を考える。二人で一緒に死のう。神さまだって、ゆるしてくれる。私たちは、仲の良い兄妹のように、旅に出た。水上温泉。その夜、二人は山で自殺を行った。Hを死なせては、ならぬと思った。私は、その事に努力した。Hは生きた。私も見事に失敗した。薬品を用いたのである」
 この水上温泉心中未遂事件(昭和12年3月)の後ほどなく二人は離婚へと至る。
 この初代の姦通・離婚劇は、『人間失格』における、家に出入りする雑誌者の男に犯された妻ヨシ子、その現場を目撃した夫葉蔵の苦悩とアルコールへの耽溺、さらには妻ヨシ子が責任を感じて自殺用にと隠しておいた致死量の催眠剤を見つけ、それを葉蔵が自ら飲み干して自殺を図るのだが、失敗しそのあげく離婚に至るという話とも重なり合うところがある。
 水上での心中未遂事件は太宰の人生における大きな節目となっている。太宰はそれまではちょっとしたきっかけで自殺未遂を繰り返していた(昭和四年十二月カルモチン自殺未遂、昭和五年十一月江ノ島カルモチン心中未遂、昭和十年三月鎌倉縊死未遂)のだが、昭和十二年三月の水上心中以降、亡くなる昭和二十三年六月までのおよそ十年間は自殺を図ることはなかった。

最後の愛人山崎富栄との出会い
 さて、『人間失格』について語るときには、やはり太宰の最後の愛人である山崎富栄について語らなければならないだろう。太宰と山崎富栄との出会いは、昭和22年3月27日三鷹の若松屋という屋台のうなぎ屋である。
 山崎富栄は、ミタカ美容院の見習い美容師今野貞子からその屋台に夕方になると飲みに来る作家がいて、弘前高等学校の出身だと聞いてぜひ会ってみたいと思った。富栄の敬愛する亡くなった兄年一(としかず)が同じ弘前高等学校の出身だったからである。
 山崎富栄は、大正9年東京本郷の生まれの二十七歳。父晴弘と母信子は大正二年に全国で最初の美容学校である東京婦人美髪美容学校を設立した美容界の功労者である。娘富栄はその父母から将来は後継者たるべく育てられた。女学校を卒業したのち、美容の技術の修得に努めるとともに日大第一外国語学院でロシア語、YMCAで英語を学んだ。その後父が設立した銀座オリンピア美容院で美容師として働き、またその経営に携わった。
 そして、昭和19年12月に三井物産の社員であった奥名修一と結婚している。しかし、奥名は、結婚後まもなくマニラ支社に赴任し、そこで現地召集となり、戦闘に参加したまま行方不明となる。戦死公報が届いたのは、太宰と出会った四か月後の昭和22年7月であった。富栄は夫がマニラに赴任したあと、美容学校の講師として校長(父)、副校長(母)を助けて働いたが、学校の本館は軍に接収され、新館は戦災に遭い全焼、銀座の美容院も罹災した。富栄は父母とともに母信子の弟が住む滋賀県八日市町に疎開した。
 戦後、富栄は三兄輝三男(戦病死)の妻山崎つたとともに鎌倉で美容院を開いたが、義姉つたには幼い遺児が二人いて生活が苦しいので、自分は鎌倉の店から手を引いて義姉に店を任せようと考えた。美容学校の卒業生のツテで、塚本サキ女史が経営するミタカ美容院に勤めることになったのは昭和21年の11月のことである。太宰が疎開先の金木から三鷹に戻って来たのが11月14日でほぼ同時期ということになる。

  

左:山崎富栄(18歳) 右:山崎富栄(22歳)

 富栄の美容師としての腕は素晴らしく、評判を聞いて店には新劇の女優なども富栄を指名して遠くから通って来たりしたという。彼女の腕を見込んだ塚本女史は、12月に進駐軍専用のキャバレー・ニューキャッスル内に美容室を設置し、富栄を主任として今野貞子とともに派遣した。富栄は、昼はミタカ美容院で、夜はキャバレーで夜遅くまで働き、銀座の美容院の再開のための資金作りに励んでいた。山崎校長夫妻は学校再開へ向けて焼け残った本館を買い戻そうと奔走し、そのための資金調達のために銀座で美容院を経営しようと計画していたからである。
 富栄が太宰と会ったのは、ちょうど夜遅くまで働き続けていた頃で、稼ぐことに必死になって心がカサカサに乾いていた時期でもあったのかもしれない。3月27日付の日記に次のように記している。
 「新聞社の青年と、今野さんと私とでお話した時、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持がして涙ぐんでしまった。」(山崎富栄『愛は死とともに』)

愛の泥沼の中へ――死ぬ気で恋愛してみないか
 他方、太宰は、その一週間ほど前に、『斜陽』のかず子のモデルでもあった太田静子から懐妊を告げられていて、4月2日付の友人田中英光への手紙には、「もっとも僕もいま死にたいくらいつらくて(つい深入りした女なども出来、どうしたらいいのか途方にくれたりしていて)ひとの世話どころではないが・・」などと書き送っている。そして3月30日には次女里子(後の作家津島佑子)が生まれている。次女が生まれる前にすでに太田静子のことを妻美知子にも疑われ、静子にはしばらく手紙を出さないでくれと書いたばかりであった。



大田静子(女学生時代)

 そうした泥沼の中、太宰は自分の作品を一度も読んだこともないが、真っ直ぐで純心な山崎富栄に傾斜していく。
 富栄は、5月3日の日記に太宰に「死ぬ気で恋愛してみないか」と言われたと書き、「でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でも若し、恋愛するなら、死ぬ気でしたい・・・」と書き綴っている。
 真面目でうぶな富栄を手玉にとるのは、言葉巧みな太宰にとっては赤子の手をひねるようなものであった。日記を読んでいくと、富栄が太宰の手練手管にまんまと乗せられていく姿が手に取るようにわかる。日記には、「戦闘開始。」(3月27日)や、「人間は恋するために生きている」(5月10日)や「蛇の如く慧く、鴿の如く素直なれ」(5月10日)など『斜陽』の中の言葉が書き込まれている。まだ『斜陽』が発表される(同年『新潮』7月号)かなりの前の時期である。
 ゲラ段階のものを富栄にも見せていたのか、あるいは語って聞かせたのか定かではないが、それは恋する女を「美化」し、「理想化」する言葉のシャワーだ。富栄がおのれの中の葛藤に躓かずに、太宰にとって都合の良い「恋する女」に跳躍するためのジャンプ台でもある。文学にスレていない富栄にとって、そうした小説の言葉は心の奥にズシリと響いたに違いない。
 加えて、出版関係の面々に富栄を引き合わせ、一緒になって飲み戯れることで富栄の教養人としての見栄を満足させてやることにもぬかりがない。富栄は美容師とはいえ、英語にも堪能でまた美容関係の専門知識も深くなかなかのインテリだった。自分は一介の美容師では終わらないという思いは強かった。
 小説家の太宰と昵懇になっているという噂がたち、美容院の経営者の塚本女史から注意された時には、富栄は大きな屈辱を味わい、日記にも「教養のない主人に使われる人間の、まあ、何と可哀想なこと」(6月10日)と、悔しさの中にも強い矜持の思いをにじませた言葉を書き記している。

妻美知子を恐れる太宰
 さらに、太宰は妻美知子の存在も逆に富栄を引き寄せるための手段として利用している。日記にこうある。「悪いけど、私も奥様は怖い。初めての日の夜―“こわいんだ。僕はこわいんですよ。救ってくれ”と仰言ったお言葉を想い起こす。不幸な家庭。奥様って、女学校の先生のような感じのするお方だと思った」(7月23日)これはその夜、散歩に出て太宰の自宅の庭先からこっそり家の中の様子を覗き見した時の印象を書いたものである。


津島美知子

 妻美知子とは、井伏鱒二の手を通して紹介され、昭和14年1月に結婚している。旧姓を石原美知子といい、明治四十五年の生まれで、甲府高等女学校を経て、東京女高師(お茶の水女子大の前身)を卒業後、山梨県立都留高等女学校で地理・歴史の教師をしていたことがある。まさに女学校の教師だったのである。
 また、美知子の亡くなった父親石原初太郎は東京帝国大学を出て、中学、高等師範などで教師を勤めた教育一筋の人でもあった。そして美知子の兄佐源太は東京帝国大学医学部に進んだが、在学中に病死している。また弟も水戸高校からやはり東京帝国大学理学部に進学している。まさに美知子は超高学歴の家庭で育ったインテリ女性だった。
 そんなインテリ女性がなぜそれほど売れてもいない文士ふぜいのところに嫁にきたのか。井伏鱒二という名の通った作家の紹介ということもあったが、亡くなった兄と太宰がたまたま同じ年に東京帝国大学に入学していたという縁、そして兄の追悼文集の中に、太宰と弘前高校で同期で東京帝国大学医学部に進んだ津川武一が追悼文を寄せていて、太宰がそれに気づき、それを知って兄を敬愛していた美知子が太宰に兄との因縁を感じたということなどが二人を結びつけるきっかけになったようだ。
 美知子は文学少女ではなかったが、国語の教師になりたかったというだけあって、文学に対する素養は十分にあった。太宰の名を知るまで、太宰の作品を読んだことはなかったが、第一回芥川賞をとった石川達三の『蒼氓」は読んでいた。縁談の話があってから、美知子は旅行先の本屋で買い求めた太宰の『虚構の彷徨』を読み、「会わぬさきからただ彼の天分に眩惑されていた」(『回想の太宰治』)という。

職業作家太宰治を育てた妻美知子
 太宰にとって美知子との出会いは、実に幸運なものであったといってよいだろう。ドストエフスキーとアンナ夫人との出会いを思い起こさせる。新婚時代は娘が産まれるまでは、口述筆記などで、美知子は太宰の創作の手助けをしているが、甲府から三鷹時代において職業作家としての地歩を固めるうえで美知子の貢献はきわめて大きなものがある。
 またそれはたんに創作活動への貢献というだけでなく、生活面での貢献が大きい。浮足立っていたそれまでの太宰の生活に少しづつ根が生えてきたのは美知子のおかげだろう。美知子の性格は、教え子の倉田ふさ子によれば「つつましく、しとやかな方でした。しかし、しんは強く情熱的な方だったと思います」と「石原美知子先生の思い出」という冊子の中で語られているが、美知子の『回想の太宰治』を読むと、確かにその通りだと納得させられる。実に聡明で、冷静沈着、でしゃばりることなく、かといって言うべきときにはきちんと言う、そんなタイプである。呑兵衛で生活力に欠け、甘えん坊で、弱虫で、寂しがり屋の太宰に寄り添い、時には叱咤し、時には励まし創作活動へと向かわせた。
 もちろん、初めは美知子にとっても太宰のような男は手に余る存在だったようだ。「太宰のような常識圏外に住む人と私はそれまで接触したことがなかった。御崎町時代は何もわからず暗中模索していたようなものである」(同前)と書いているように、はじめからうまく行ったというわけではない。しかし、やがて美知子は太宰をうまくコントルールする術を身に着けていったようだ。太宰にも、不満はあったろうが、彼は酒を飲んで憂さを晴らしていた。ただ、美知子が「太宰の酒は一言で言うと、よい酒で、酒癖の悪い人、酒で乱れることをきらった。」(同前)と述べているので、飲んで妻にからむことなどはなかったようである。
 「妻と子」のために、太宰は頑張って作品に打ち込むが、ただどうしても心の中に「憂さ」が澱のようにたまっていく。昭和14年8月に『新潮』に発表された「八十八夜」には、心にたまった憂さを晴らそうともがく中年作家の悲喜劇が描かれているが、作家太宰の当時の心境がその作品に反映されている。
 他方で、美知子の方でも折に触れて不満を夫にぶつけることはもちろんあったであろうが、物事に動ずることの少ない美知子に対して太宰はある種畏怖の念を抱いていたと推察される。『ヴィヨンの妻』の椿屋のサッちゃんは美知子のそうした一面を画き出している。
 しかし、「母性的慰撫を妻に求めることの困難であるのを感じとり、次第に妻以外の女性にそれを求めていったようにも想像される」(前掲『山崎富栄の生涯』)と長篠氏が書いているように、太宰にとっては美知子は甘えさせてくれる女性ではなく、まさに恐妻でもあった。

太宰と富栄はやがて男女の関係に
 話を富栄に戻そう。太宰は富栄の前で恐妻家ぶりを曝け出す。それを聞いて、家族や恐妻から彼を守り救ってあげなければならないと富栄の母性本能がくすぐられていく。太宰は、時には甘え、時には突き放し、時にはすがる。そうして富栄は太宰の胸に転がり込んでいく。
 二人が深い関係になったのは、5月の半ば頃とみられる。
 「お別れする時には、一度はあげる覚悟をしておりました。性的の問題というものは、慎みが必要だし、社会生活の全面と絡みあって、真面目に扱われてゆくのが本当だということを御承知のはずなのに。
 至高無二の人から、女として最高の喜びを与えられた私は幸せです。
 Going my way 行け、吾等が道、人生、成りゆきに委せましょう。自然に委せましょう。私はもう何時お別れしても悔いない。しかし、出来ることならば、一生、御一緒に生きていたいと希わずにはいられない。」(5月21日)
 出会って「恋」に落ち、そこから「男女の関係」になるまでにおよそ2ヶ月が経っているが、それは富栄にとって長かったか、短かったか。相手が作家とはいえ、「姦通」は今日の「不倫」よりも世間の見る目ははるかに厳しい時代である。

太田静子の懐妊・出産をめぐって
 こうして二人の関係が深まる間にも、太田静子のお腹の中の赤ちゃんは次第に大きくなっていた。産婦人科で診察を受け、妊娠4ヶ月と診断された太田静子が、太宰にこれからのことを相談しようと弟の通を伴って三鷹の太宰の仕事部屋を訪ねたのは、富栄が「女としての最高の喜び」を与えられた三日後の5月24日のことであった。
  


太田静子

 太田静子は、そこで思わぬ冷遇を受ける。三鷹の「すみれ」という小料理屋で、太宰は編集者たちとの打ち合わせと酒宴の席に静子と弟を招き入れたが、二人と話をしようともせず、二人はただ黙って座っているほかはなかった。そこから「千草」という店に移り、弟通はそこで帰った。その「千草」には店の目の前に住んでいる富栄も顔を出し、そこで静子と富栄は顔を合わせているが、互いの事情についてはまだ何も知らない。静子について、太宰は「斜陽」の日記を借りた人程度のことは富栄に伝えていたかもしれないが、もちろん身籠っているなどとは一切話していないし、また静子にしても、富栄が太宰の新しい愛人だとは思ってもみなかった。その夜、静子は太宰の友人である画家桜井浜江宅に太宰と泊まり、翌日は太宰が静子をモデルに絵を描き、その絵を額縁に入れて静子に手渡した。結局静子はその絵を抱えて、太宰に何も相談することなくすごすごと帰って行った。



「千草」跡のビル(三鷹駅前)


「千草」跡碑

富栄の部屋で太田静子の弟に出生証を手渡す
 それから半年経って、静子に娘が生まれた。静子の弟の通が太宰に娘への命名と出生証を求めて三鷹までやって来た。太宰は、富栄の部屋で通と会っている。「斜陽のひと」と太宰が男女関係だったということを富栄はもちろん知らされていなかった。太宰は、娘に「治子」と命名しようと思うが、どうだろう、と富栄に訊く。富栄はなんともいえない表情で頷くしかない。
 この時の心境を、富栄は日記につぎのように書いている。
 「斜陽の兄君を前にして、”いやです″なんて、申せませんし、この時ばかりは、ほんとうに何とも言えない苦しさでした。御自分のお子様にさえお名前から一字も取ってはいらっしゃらないのに。」(昭和22・11・16)
 裏切られたという思いは強かった。
 「もう、死のうかと思いました。苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられてゆくみたいでした。」
と日記に綴っている。



山崎富栄が住んでいた野川家


「千草」の斜め向かいの野川家跡
現在は葬儀社となっている

 太宰が、静子の弟通をわざわざ富栄の部屋に呼んだのは、この頃すでに太宰には富栄のややひとりよがりな愛情が疎ましいと思うところもあったからではないか、という見方があるが、それはどうであろうか。むしろ、富栄の前に静子との関係を曝け出すことによって、富栄への無条件の信頼と依存を示そうとしたのではないか。
 泣きじゃくる富栄に、太宰は甘い言葉を連ねて富栄を一層自分に引き寄せている。
 日記を見てみよう。
 「ね、もう泣くのやめな。僕の方が十倍もつらくなっているんだよ。ね、可愛がるから、その代り、もっと、もっと可愛がるから、ごめんね」
 私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、わかっていたのです。でも泣くまい、そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が泪を湧かせてしまうのです。
 「泣いたりして、すみません。」
 「僕達二人は、いい恋人になろうね。死ぬ時は、いっしょ、よ。連れてゆくよ」
 「お前に僕の子を産んでもらいたいなあ」
 「修治さん、私達は死ぬのね(注・二行抹消)」
 「子供を産みたい」          (同11月16日)

太田静子への対応をめぐって二人はある種の同志的な関係へ
 この出来事は一時的にせよ二人の関係にギクシャクしたところも生じさせたが、他方で静子の存在は富栄にとって太宰の妻美知子に対する罪の意識を薄れさせてくれるものでもあった。そして富栄の方では太宰の気持ちが静子へ向かわないようより一層太宰を離すまいという思いを募らせていくことになる。
 富栄は、そしてこう書く。「死にたい位のくやしさで、泪が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に救って下さい。教えて下さい。主よ、御意ならば我を潔くなし給うを得ん。わが意なり、潔くなれ。」
 さらに、その二日後の日記にはこうも書いている。
 「私は奥様と同じように、あなたが斜陽の人に逢うことはいやです。若し逢ったら、私死にます」
 「逢わない、誓う、ゲンマン。一生、逢わない」
 十八日 よる。
 修治さんに、書いたものをおみせする。
 勝つよ、僕達は勝つよ、と仰言って下さる。
 「愛の問題だよ、これぽっちも(と、小指の先を示して)愛情がないんだよ」
   (昭和22年11月18日)



富栄の部屋で仕事する太宰



「千草」でくつろぐ太宰

 その日、静子の上の弟武が養育費の送金の確認にやって来た。以後、富栄は、静子からの手紙の管理や、養育費の送金などを一手に引き受けることになる。『斜陽』がベストセラーとなったことで、静子からの便りも頻繁になり、金銭の無心も続き、静子への対応をめぐって太宰と富栄はある種同志のような関係になってゆくのである。それがまた、太宰の富栄への依存をますます深めていくことにもなる。
 「母のように、乳母のように、妹のように、姉のように、子供のように、恋人のように、妻のように、愛して、愛して、愛してゆく。ほんの瞬間の憩いにでも、私がなることが出来れば、わたしはそれで、もういいの。」(昭和22・11・25)
 そして、年が明けてまもなくのこと、日記にこう書かれている。

 おひとりになられてから、ウトウトなさっていられると、太田静子さんのお使者がみえてお手紙を、お手渡しする。
 「読んでごらん」と仰言ってみせて下さる。
 「今までの中で一番下手なお便りですね」と言ったら、
 「うん、一番ひどいよ。自惚れすぎるよ。斜陽の和子が自分だと思ってるんだなあ。面倒くさくなっちゃったよ」
 「二人で、何んとかしてゆきましょう」
 修治さん、急に泣かれて、
 「サッちゃん、頼むよ、僕を頼むよ」
 「修治さん、いつでもおそばについております」
 「独りで苦しまないで、よろこびも、苦しみもー緒にしたいのです」
 「僕を良人だと思ってね」
 「そう信じていますわ。信じて生きておりますわ」
 「みんなが、僕を、僕を……」
 「修治さん、泣かないで……泣いちゃ、駄目。ね、あなたのお母さまのぶんも、わたしは守ります」
 「うん、守ってね。僕を守っていてね。いつでも僕のそばにいてね」
 修治さんが可哀想で可哀想で、みんなが何故、もっと、もっと大事にしてあげないのだろう。
 神様、わたしの命をおとりになってもかまいません。どうぞ修治さんを救ってあげて下さいませ。あのかたの倖せのためなら、わたしはどんなことでもいたします。お願いします。お願いします。神様          (昭和23年1月10日)

 太宰の娘でもある太田治子氏は、「太宰は思いがけずこの日記を引き写してしまった箇所が多いことに、おののきを感じていたかもしれない。死を前にして強迫観念も強まっていた彼は、訴えられることも考えたように思う。太田静子からではなかった。いかにも揺るぎのない堂々とした風貌の弟の通の顔が浮かんだ」(『明るい方へ』)はずだと書いているが、太宰が『斜陽日記』に絡んで太田家側から何らかの圧力を感じていたことは否定しがたい。
  


太田治子氏

 太田静子も頻繁に手紙をしたためている。昭和23年5月9日の日記には「伊豆からの御手紙が回送されて来る。ハボタン集の第二回目。母子共健在は何より。No.22を認める。」と書かれている。ハボタンというのは娘治子の愛称である。娘の近況を伝える手紙も含めて静子からの手紙は、富栄が手紙を管理している間にも20通を超えるまでになっていたのである。
 『斜陽』には、確かに『斜陽日記』からの引き写しが多い。盗用、剽窃とみられても仕方のないレベルであった。しかし、太田静子自身は、『斜陽』の中で自分の日記が新たな生命を与えられることを願っていたし、「かず子の最後の手紙を、太宰からの自分たち母娘への遺書だと思ったからこそ母は生きてこられた」(太田治子『明るい方へ』)という状態であるから、太宰を訴えることなど考えもしなかったであろうが、周囲の者たちが黙っているかどうかについては必ずしも安心はできなかった。妻美知子に知られることなく、静子母子への応対もしなければならない太宰にとって、何事もテキパキこなせる富栄はもはや太宰にとって欠かせない存在であり、その力にすがる他はなかったのである。

『人間失格』の構想はかなり前から
 さて、こうした状況のなかで、昭和23年の春から太宰は『人間失格』の執筆にとりかかる。実は『人間失格』の構想は、かなり前から太宰の中にあった。甲府から三鷹に居を移して間もなくの頃の作品『俗天使』の中に、次のように書いている。

 私は、弱行の男である。私は、ご機嫌買いでる。私は、とりでもない。けものでもない。そうして、人でもない。きょうは、十一月十三日である。四年前のこの日、私は或る不吉な病院から出ることを許された。きょうのように、こんな寒い日ではなかった。秋晴れの日で、病院の庭には、未だコスモスが咲き残っていた。あのころこの事は、これから五、六年経って、もうすこし落ちつけるようになったら、たんねんに、ゆっくり書いてみるつもりである。「人間失格」という題にするつもりである。

 「俗天使」が書かれたのは昭和15年で、ちょうどその六年後の昭和21年1月25日付の堤重久宛の手紙に「断り切れない義理のあるところに、二、三作品を発表しなければならぬが、しかし、四月頃から『展望』に戯曲を書く。それから或る季刊雑誌に長編『人間失格』を連載の予定なり。その季刊雑誌は、僕がその長編執筆中は、他のどこにも書かずとも僕の生活費を支給してくれるらしい。僕も三十八だからね。(君も、もういいとしになったろう)四十までには、大傑作を書いて置きたいよ」とあるから、長年あたためてきた構想はほぼ計画どおりに進んでいたようである。
 しかし、この手紙を出した時は太宰はまだ青森の金木の実家にいて、その直前に太田静子から母が亡くなったという手紙を受け取り、伊豆の下曽我にいる静子に手紙を出している。

 「拝復、いつも思っています。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思っていました。正直に言おうと思います。おかあさんがなくなったそうで、お苦しい事と存じます。いま日本で、仕合せな人は、誰もありませんが、でも、もう少し、何かなつかしい事が無いものかしら。私は二度罹災というものを体験しました。三鷹はバクダンで、私は首までうまりました。
 青森は寒くて、それに、何だかイヤに窮屈で、因っています。恋愛でも仕様かと思って、或る人を、ひそかに思っていたら、十日ばかり経つうちに、ちっとも恋しくなくなって困りました。旅行の出来ないのは、いちばん困ります。(略)一ばんいいひととしてひっそり命がけで生きていて下さい。コヒシイ」
        (昭和21年1月11日)

太田静子からの手紙がきっかけで、『斜陽』の執筆が先に
 こうして、太宰は静子からひさしぶりに手紙をもらい、何度か文を交わすうちに静子からは苦しい胸のうちを明かされる。
 当時、静子は母が亡くなり、手持ちの物を売りながら生活している状態で、これから先のことについて不安を抱えていた。そこで、静子は具体的に次の三つの案を示して身の振り方を太宰に相談している。すなわち「一、私より若い作家と結婚して、マンスフィールドのやうに、小説を書いて生きてゆく生活。二、私をもらつてやらうと仰つしやる方のところへ再婚して、文学なんか忘れてしまつて、主婦として暮す生活。三、名実とも、M・Cさまの愛人として暮す生活。」で、「この三つのうち、どの道が一番よろしいでせうか?」と問いかけているのだが、宛名を「太宰治様(私の作家。マイ・チェーホフ。M・C)」としているからM・Cさまとは太宰のことをさしていた。
 太宰からは「御手紙拝見、『いさい承知いたしました。』/私は十一月頃には、東京へ移住のつもりでゐます。下曾我のあそこは、いいところぢやありませんか。もうしばらくそのままゐて、天下の情勢を静観していらしたらどうでせう。もちろん私はお邪魔にあがります。さうしておもむろに百年の計をたてる事にしませう。あわてないやうにしませう。あなたひとりの暮しの事など、どうにでもなりますよ。安心していらつしやい。」(昭和21年9月頃)との返事が届くが、その頃、見合いの話しも持ち上がっていた静子は、太宰からもっとはっきりとした答えが欲しかった。
 静子は、その後も手紙を書いたが、太宰からは、差出人の名前を変えて欲しい、と妻の目を憚るようなちょっと腰のひけた手紙が来た。しかし、静子は、妻の目を気にする太宰の思惑などおかまいなしに、思いをぶつける手紙を書く。
 「……苦しい一日が過ぎて、夕方になつて考へついたことは、行くところまで行きたい、といふことでございました。……私はもう、小さいことは、考へないことにいたします。/赤ちやんがほしい……。/それから二人で、長春やモスコオやパリへ行きたいと思ひます。/今度、下曾我へいらつしやいましたら、母の思ひ出の日記(大学ノートに書いたいわゆる「斜陽日記」−引用者)を見ていただきたいと存じております」(昭和21年10月頃)と。
 その後、さらに手紙のやりとりのあと、金木の太宰から最後の手紙が届く(昭和21年10月頃)。

 でも、いつも思つてゐます。私の仕事をたすけていただいて、(秘書かな?)さうして毎月、御礼を差し上げる事が出来ると思ひます。毎日あなたのところへ威張つて行きます。きつと、いい仕事が出来ると思ひます。あなたのプライドを損ずる事が無いと思ひます。さうして、それには、附録があります。小さい頃、新年号など、雑誌よりも附録のほうが、たのしうございました。/十月中旬に東京へ移住します。移つたら知らせます。もうこちらへ(金木へ)お手紙よこさぬやう。

 太宰は静子の日記が手に入ると確信したことで、津軽の実家を舞台に没落貴族をテーマにした小説の構想が閃いたのか、昭和21年11月14日に金木から三鷹に戻ってくると、野原一夫という『新潮』の若い編集者からぜひ長編を書いて欲しいと言われて、すぐさま「斜陽」というタイトルで長編を書くつもりだと引き受けている。太宰が太田静子の日記を見るのは、それからおよそ三カ月後の昭和22年の2月21日、静子の住む下曽我の大雄山荘であった。
 こうしたいきさつから「人間失格」に先立って、太宰は「斜陽」の執筆へと向かうことになったのである。「斜陽」が予想以上に評判が良く、太宰は一躍流行作家となり、その身辺も慌ただしくなった。作家としても引っ張りだことなるが、それ以上に女性問題でも振り回される日々が続く。

予定より二年ほど遅れて『人間失格』の執筆へ
 ようやく『人間失格』にとりかかることができるようになったのは、昭和23年の春で、予定より2年ほど遅れていた。まだまだ落ちつけるような状況ではけっしてなかったが、筑摩書房社主の古田晃に背中を押されるようにして、3月7日から熱海の起雲閣にこもり、稿を起こした。身の回りの世話をやくために富栄が側に付き添った。
 この熱海滞在は、3月末まで続き、ここで『人間失格』の「第一の手記」と「第二の手記」を書き上げている。熱海に着いた翌日の夜、太宰が太田静子のことを持ち出したようだ。富栄は、「伊豆の方に、こゝに来てもらつて話をつけやうかと思ふ、と仰言るので、背筋がすうつと寒くなつて、力が抜けて、少しふるへ出してしまつた」(3月9日)と日記に書いている。富栄の拒否により静子母子との再会は実現しなかった。
  


娘治子を抱く太田静子

  なお、帰京後は「千草」の仕事部屋で「如是我聞」第二回の口述筆記(筆記者:野平健一、新潮社)と『井伏鱒二選集』第二巻「後記」の口述筆記(筆記者:石井立、筑摩書房)を行い。その後引きつづき富栄の部屋で「人間失格」の「第三の手記」に取りかかったことが、富栄の日記に書かれている。
 そして、4月29日から大宮の小野沢方に滞在して、5月10日頃までに「人間失格」を書き上げている。太宰と富栄が玉川上水で入水心中するのは、6月13日のことで、その間に、太宰は「如是我聞」の口述筆記を続けながら、朝日新聞の連載小説「グッド・バイ」の口述筆記(筆記者:末常卓郎)も始めている。

「グッド・バイ」の執筆と太宰の想い
 この「グッド・バイ」という小説は、島田という三十八歳の雑誌編集長が主人公で、彼はなかなの美男子で闇商売で金を儲けて愛人を十人近く養っているが、日頃の不節制のためか最近は身体が弱ってきて、そろそろ愛人とも手を切って、家でも買って田舎に疎開させている女房と子どもでも呼び寄せたいと思っているが、さてこの愛人たちとどうやって別れたらいいのかと思案していたところ、たまたまある文壇の老大家の葬式で会った初老の文士にそれをもらすと、名案があるぞ、と言われた。その名案というのが、とびきりの美人をどこからか見つけて来て、事情を話して自分の女房というということになってもらって、その美人を連れて愛人のひとりひとりを歴訪する、そうすれば効果てきめん、女は皆引き下がる、というわけだ。たまたま島田は、以前に闇の取引をしていた頃に知り合った担ぎ屋の女に街でばったり会う。その女は、声はひどいが、スタイルも顔も美形、今はひどい格好をしていてとても美人とは見えないけれども、衣装をそろえ、化粧をさせればそれこそ絶世の美女に変身すること請け合いだ。そこで、事情を話して、その女にニセの女房になってもらうことにして、いよいよ愛人のところへ出かけていくことになるわけだが、最初に行くのが、日本橋のデパート内にある美容室で働く三十前後の戦争未亡人である青木さんという女である。
 「美容室で働く三十前後の戦争未亡人」、これは自分のことかと富栄は思ったはずだ。当初、このコメディ・タッチの「グッド・バイ」の原稿二回分を読んで、「ユーモア小説風で、面白い」(5月18日)と書いていた富栄も、「グッド・バイ」執筆と相前後して、太宰が女に惚れられて困っている話を持ち出した途端に、その言動もおかしくなってくる。「グッド・バイ」の主人公が女たちと別れるために女房代りに連れて歩く、「洋装の好みも高雅。からだが、ほつそりして、手足が可憐に小さく、二十三、四、いや、五、六、顔は愁ひを含んで、梨の花の如く幽かに青く、まさしく高貴、すごい美人」も、富栄にはひそかに太宰と接触を図っている女子大卒の二十六歳の(すごい美人)と重なり、自分もまた「グッド・バイ」のように金で別離を強いられる女の一人になるのではないかとの思いが頭をよぎる。
 5月22日の夜、二人はそのことで話し合う。

「――随分な人です……。
 “死ぬ気で僕と恋愛してみないか。責任をもつから”と言われて、親も兄弟も棄てて、世間も狭く歩いている私。それでも、恋とか、愛とかいうことより以上に、兄妹といいたいような血のつながりを感じ合っている私達だからこそ、こうしたことも話し合い、修治さんも本性をむき出しにして下さるのだ、とも思う。(中略)
 すごい美人だ、なんて。私は泣きました。グット・バイのこと、病気のこと、身にまつわる女性のことども、私は生きていなければいけない。可哀想なこの子を守るために、と思わずにはいられない。
 女子大のお嬢様で(父君は医者)あるあの女のひとと、万一ご一緒になってもちろん何から何まで、つまりブルジョアであり、美貌であり(修治さんのいう手足小さく背スラリとして、道ゆく人がみな振りかえる)、学あり、フランス語も話し、衣裳も常にパリッとしていて―。
 「そういう女のひとと生活して、それで最後になれば、あなたも一番倖せのことなのでしょう……」
 「いや、最後になるかどうか、そこは判らないんだ」
 「それじゃいけませんわ。私から離れて、次々にまた女のひとを変えるなんて、お子様方が大きくなって、結婚をなさる時など、一体、どういうことになるとお思いなのですか。あなたのお友達の方連だって、もう信用しなくなるでしょう」
 「だから、何にもならない前に、皆お前に言ってるんじゃないか。離れないで守ってね。僕は、本当に駄目なときがあるんだ。一生僕のそばにいるって言ってね。サッちゃんでおしまいにする方が、僕自身のためなんだから―」
 ……書きたくても、書けないことばが、次々に生まれてきます。
 私より前からおつきあいしていた女子大生。それから伊豆。
 それから私。それからまた女子大生の手紙に戻る。
 いろいろ考えてみても、修治さんの仰言る通り、たとえ、私を方便的に一時は利用していたとしても、胸を開いて、いま、心を読まして下さるのは、私一人きり。伊豆の人は、「据膳」で愛情は全くないとのこと。女子大生のひとには、伊豆に子供のあることも言っていない。私ひとりきりなのだ。修治さん、結局は、女は自分が最後の女であれば……と願っているのですね。頬を打ち合い、唇をかみ合い――
 和解も喧嘩も最初から私達二人の間にはなかったのね。私はあなたの“乳母の竹や”であり、とみえであり、そして姉にもなり、“サッちゃん”ともなる。離れますものか、私にもプライドがあります。
 五月雨が、今日もかなしく、寂しく降っています。
「死のうと思っていた」とお話したら、ひどく叱られた。「ひとりで死ぬなんて!一緒に行くよ」
 (昭和23年5月22日)

 サッちゃんというのは、富栄の愛称で漫画の「スタコラサッちゃん」から来ている。太宰は、「ヴィヨンの妻」の椿屋のサッちゃんと同じこの愛称が気に入っていた。
 この夜のやりとりが富栄の日記の通りであるとするなら、「グッド・バイ」は最後の道行きへ向けて富栄の決心がゆるぎないものであるかどうかを確かめるためのものでもあったような気がする。もし、これで富栄があんまりだと怒り、太宰と別れると言い出すようならば、それはそれで仕方ないとも考えていたのではないだろうか。
 翌々日の日記に、富栄は覚悟のほどをこう記している。

 修治さんは気の弱いかたなのです。「優しい」ということの、本当の意味は今の私には解らなくなりました。文学的な苦悩、これは才能に恵まれていられるので、さほどではない様子で私には、女のひとのこと――これは結局、奥様へのやるかたない哀しみに帰るのでしょうが――の方が幾重にも深い苦悩になっていられるのです。お酒をのむことも、そうした恐怖の連続をうち切りたい心からなのです。私は、いろいろの心のいきさつを超越して「頼む」といわれたおことばを守って、「離れないで、僕を守って」といわれたおことばを心に刻んで、命あるかぎり守り度い。笑われない人になるように。赤い糸でつながれた愛情が、あなたを信じさせてくれますもの。信じておりますとも、ご一緒に、どこへでもおとも致します。あなたも、私を、グッと引きつけて、お側へおいて下さいませ。
 (昭和23年5月24日)

太宰が富栄と別れたがっていたというのは疑問
 この時期、太宰が富栄と別れたがっていたと、証言する人は何人かいるが、はたしてそうだったのかは疑問が残る。例えば、「グッド・バイ」の口述筆記を担当していた朝日新聞社の末常卓郎は「グッド・バイのこと」(『朝日評論』昭和二三・七)の中で太宰から聞かされた作品の構想に触れ、「主人公なる雑誌記者は、もちろん太宰治自身と考えていゝ。彼は自分の容ぼうには相当の自信を持つていたし、多くの女にほれられた。(中略)彼は現実にもこういう女と別れようとしていた。あの山崎富栄もその一人であつた。彼が仕事部屋を借りていた『千草』のお主婦の話によると、死ぬ少し前、太宰の方から別れ話を持ち出し、幾日かいざこざの日が続いた。だけど結局二人は別れ得なかつたのだ。別れるといえば、女は自殺してしまうという。ほかの女に太宰をとられるなら、暴力でも彼を奪いかえして見せるとおどす。太宰はもはやどうにも出来なかつたのである」
 もちろん、これが担当記者の営業トークだというつもりはないが、心中事件当時は、太宰の関係者の周辺で無理心中説が唱えられていたことも考え合わせなければならないだろう。新聞、雑誌などのメディア関係の人たちには流行作家太宰の突然の死は、大きな損失であったから、富栄に対する恨みがましい思いを抱く者も多かったと聞く。当然そのことは割り引いて考えなければならないだろう。
 確かに、富栄は青酸カリを持っていると太宰にも言い、いざとなったらいつでも死ねる、と普段から言っていたという。日記にも、「父から返事が来た。修治様 私が狂気したら殺して下さい。薬は、青いトランクの中にあります。」(昭和22年十一月三十日)と書いている。これは太宰との付き合いを認めて欲しいと父親に書いた手紙の返事が届いた時だ。内容は書いてないが、厳しく戒める手紙であったのであろう。戦時中に国から勲章を受けたこともある教育一筋の厳格な父親が、妻子ある作家の愛人になることを認めるなどどだい無理な話ではあった。富栄はまさに「死ぬ気で恋愛」していたのである。
  


山崎富栄 父とともに


太宰は、富栄を口説いた時点ですでに死を覚悟していた
 太宰ももちろんそれは分かっていた。「死ぬ気で恋愛してみないか」と富栄を誘ったのは自分なのである。
 今さら、「グッド・バイ」というわけにはいかない。そして太宰自身も、すでに死を覚悟していたのだと思う。
 太宰研究の第一人者でもある相馬正一氏は、この時点で太宰が自殺を決行しなければならない理由は見当たらないとして、その理由として@『太宰治全集』(八雲書店)が第一回配本(第二巻『虚構の彷徨』)を迎えたばかりであること、A『井伏鱒二選集』全九巻の巻末解説を太宰は引き受けていたが、まだ第四巻「後記」までしか書いていなかったこと、B『新潮』の「如是我聞」は第三回が六月号に載ったばかりで、第四回分の原稿を書きおえていたが、その最後を「売り言葉に買ひ言葉、いくらでも書くつもり」と結んでいて、このあと相手(筆者註:志賀直哉)の反応をみる気持ちでいたことがうかがわれること、C朝日新聞の「グッド・バイ」は、第十回までの校正刷に太宰の手で赤入れがされていて、さらに三回分の原稿ができているところをみると、とても中絶する気があったとは思えないこと、D『展望』六月号に掲載された「人間失格」は太宰の自信作であっただけに、完結した時点でその反響を確かめたかったはずだ。連載第一回を見ただけで死を思い立つとは考えられないこと、の五点を挙げている。
 そのうえで、相馬死は次のように述べる。「若いころから絶えず〈死〉の想念に凝り憑かれて生きてきた太宰にとって、〈死〉は〈生〉の終着駅であるよりは、むしろ憩いと安らぎの宿であった。実人生で少しでも困難なことに逢着すると、その都度太宰は〈死〉に救いを求めようとした。時に〈死〉と戯れることすらあった。おそらく、昭和二十二年から翌二十三年にかけて、文学的には流行作家として栄光の座にあったときですら、世俗の柵にまといつかれて幾度か〈死〉を夢見たこともあったのではないかと思う。しかし、先に挙げた幾つかのやりかけの仕事を犠牲にしてまで――つまり、作家のプライドを放棄してまで情死を決行しなければならない必然性は、どこにも見当らない。」と。(「評伝 太宰治」津軽書房)
 確かに、説得力がある説である。しかし、筆者は、太宰はおそらくその前年の五月に「死ぬ気で、恋愛してみないか」と言って富栄を口説いた時点で、すでに死を覚悟していたと思う。女を口説く時に、「死ぬほど」だとか「死んでも」だとか、「死」を口にするのは太宰の常套手段ではあるが、この言葉を吐いたのは静子から懐妊を知らされ、さらに妻美知子が次女を出産してほどなくのことである。この先に待っているものが、「家庭の崩壊」と「愛」の泥沼だとしても自らそこに身を投ずるつもりだったのだと思う。

作家のプライド云々の次元をこの時すでに太宰は超えてしまっていた
 そして「如是我聞」の執筆を決意した時点で死の覚悟は決定的なものとなった。文壇の老大家志賀直哉を「おまえ」呼ばわりすること自体、尋常ではない。井伏鱒二が執筆中止を求めて来て、それを断れば義絶されることも覚悟していたと思う。つまりは、作家のプライド云々の次元をこの時すでに彼は超えてしまっていたのである。
 「如是我聞」の書き出しにおいて太宰が「この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような自分の意思によらぬ『時期』がいよいよ来たようなので、様々な縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設け、こんなことは大袈裟とか、或いは気障とか言われ、あの者たちに顰蹙せられるのは承知の上で。つまり、自分の抗議の書を書いてみるつもりである」と書いている。
 これは、ポーズでもなんでもない。「自分の意思によらぬ『時期』」と書いているようにまさに天命を授かったという覚悟を語っているのであり、それによって自ら断頭台に登る覚悟でいたのである。
 「如是我聞」で、太宰はこう書いている。「一群の『老大家』というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。/家庭である。/家庭のエゴイズムである。/それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。」
 あるいは「家庭の幸福」(『中央公論』昭和23・8)では、帰宅時間ぎりぎりに出産届を持って来た女を、時間だから明日にしなさいと言って受付を拒否し、「きょうでなければ、あたし、困るんです」と切願する女を尻目にそのまま帰宅してしまう戸籍係の男を描き、その日のうちになんとしても入籍しなければならない事情のあった女は、「その夜半に玉川上水に飛び込」み自殺するのだが、確かにその戸籍係には「何の罪も無い。帰宅すべき時間に、帰宅した」だけであるからと書く。しかし、作者は、そうした官僚的エゴイズムをまえに次のような結論を導き出す。
 「所謂『官僚の悪』の地軸は何か。所謂『官僚的』という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当り、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」
 もちろん太宰とて、「家庭の幸福」を願わないわけではなかった。しかし、誰かが「家庭の幸福」に勤しんでいるその陰で、陰惨な悲劇に見舞われている人たちもいるという現実。それが、例えば官僚や銀行員や医者の場合であってもそうであるが、作家ということになれば、なおさらそういうことに思いを致さなければならないのではないか、と太宰は考える。

作家というのは、人々に「おいしい」ものを提供するのが仕事
 「如是我聞」では、さらに述べる。「人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。」だから、作家というものは、あるいは芸術家というものは、人々に「おいしいもの」を味わってもらうよう提供することが大事なのに、老大家たちは自分の「家庭の幸福」に汲々としている有様で、彼らは「みな、無学である。暴力である。弱さの美しさを、知らぬ。それだけでも既に、私には、おいしくない。/何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である。私は、日本の(この日本という国号も、変えるべきだと思っているし、また、日の丸の旗も私は、すぐに変改すべきだと思っている。)この人たちは、ダメだと思う。/芸術を享楽する能力がないように思われる。むしろ、読者は、それとちがう。文化の指導者みたいな顔をしている人たちのほうが、何もわからぬ。読者の支持におされて、しぶしぶ、所謂不健康とかいう私(太宰)の作品を、まあ、どうやら力作だろう、くらいに言うだけである。」
 これは、「『斜陽』なんていふものを読んだけど、閉口したな」と述べた志賀直哉とそれに同伴する者たちへの反撃であった。太宰は、文壇という牙城の親分におさまり、ふんぞり返っている老大家とその取り巻きに己をかえりみず闘いを挑んだのである。
 「如是我聞」の第四回分の原稿を書き上げたあと、太宰は自宅には帰っておらず、亡くなるその日まで、富栄の部屋で過ごしている。長篠康一郎氏はその著『山崎富栄の生涯』において次のように書いている。「太宰が自宅へ帰りたがっているのに富栄が帰そうとしなかったのだ、とまことしやかに語る先生方も多いときく。しかし、富栄が一日中太宰の傍から離れなかったとしたならともかく、彼女はその後何度も外出しているし、本郷の八雲書店まで訪ねていることからみても、太宰にその意志があったなら何時でも帰宅できたのではあるまいか」

二人は覚悟のうえの心中であった
 太宰の周辺では、まことしやかに「無理心中説」がとなえられていたという。しかし、太宰の自筆の遺書が、山崎富栄との連名のものともにのこされていたのである。この事実は、これが覚悟の上の心中であったことを物語っている。たとえ、富栄が太宰の前で死んでやると脅かしたとしても、太宰に無理やり遺書を書かせることなんてできはしない、と筆者は考える。
 連名の遺書は「千草」の鶴巻夫妻(鶴巻幸之助・増田ちとせ)に宛てたものである。
 永いあいだ、いろいろと身近く親切にして下さいました。忘れません。おやじにも世話になった。おまえたち夫婦は、商売をはなれて僕たちにつくして下さった。お金の事は石井に              太宰 治

 泣いたり笑ったり、みんな御存知のこと、末までおふたりとも御身大切に、あとのこと御ねがいいたします。誰もおねがい申し上げるかたがございません。あちらこちらから、いろいろなおひとが、みえると思いますが、いつものように おとりなし下さいまし。このあいだ、拝借しました着物、まだ水洗もしてございませんの、おゆるし下さいまし。着物と共にありますお薬りは、胸の病いによいもので、石井さんから太宰さんがお求めになりましたもの、御使用下さいませ。田舎から父母が上京いたしましたら、どうぞ、よろしくおはなし下さいませ。勝手な願いごと、おゆるし下さいませ。      富栄
 昭利二十三年六月十三日
 追伸
お部屋に重要なもの、置いてございます。おじさま、奥様、お開けになって、野川さんと御相談下さいまして、暫くのあいだおあずかり下さいまし。それから、父と、姉に、それから、お友達に(ウナ電)お知らせ下さいまし

 これらの遺書とともに、美知子宛と思われる太宰の筆書きの遺書も残されていた。(ただしこれは破り捨てられていたという)
―簡単に解決可―信じ居候 永居するだけ皆をくるしめ こちらもくるしく かんにんして被下度 子供は凡人にても お叱りなさるまじく 筑摩、新潮 八雲 以上三社にウナ電(註、−線簡所の字句不明)
皆、子供はあまり出来ないようですけど、陽気に育てて下さい あなたを きらいになったから死ぬのでは無いのです 小説を書くのが いやになったからです みんな いやしい 欲張りばかり 井伏さんは悪人です

 美知子夫人はこの事件について昭和24年1月の『婦人公論』に談話を発表している。その中で彼女は次のように述べている。「女……恋愛、それは太宰の生活にたえずまつわりついていたように思われています。しかし、みんな本当の恋愛ではなかったのだ、と私は信じています。作家というものは本当の恋はできないものだ、作家は常に傍観者なのだ、と太宰は言っておりましたが、私もこの言葉がわかる気がします。太宰ばかりでなく、太宰のお友だちの誰彼を見てもそれは言えることでした。けれども、この創作上のたわむれから、彼を死へ導くような結果が生まれようとは、太宰自身も考えていなかったことでしょう」と。そのうえで、こう述べる。「私には思いあたることがあるのです。それは太宰を決定的に死の方向へすすませたものは、あの『斜陽』だということです。最近届いた太宰全集の『斜陽』の号に新潮社の野平さんも書いておられますが、太宰は『斜陽』の執筆にともなって生まれたあの事件のために、非常な自責の念に苦しめられていたということを理解して下さる方は少ないのではないかと思います。」
 彼女らしく、事件をきわめて冷静に受け止めている。心中事件といっても、これは作家の「創作上のたわむれ」であり、男女の恋愛の果ての心中とは異なるのもだ、として妻の立場に一点の揺るぎもないと見栄を切ったのである。しかも、この時点で、太田静子との間では「斜陽日記」をめぐる問題も決着がついていたといってもいいので、ある程度余裕のある発言といえるであろう。
  


井伏鱒二(写真右端)と太宰治(その隣)
昭和15年4月


むしろ大きかった「井伏さんは悪人です」の反響
 むしろ、遺書にあった「井伏さんは悪人です」という一文が、報道され、そちらの方が大きな反響を呼んだ。井伏鱒二は、すぐさま六月十七日付の『時事新報』に、「悪人″にされた」という見出しで次のような談話を載せている。

 わたしのことを悪人だといつているそうだが全然思いあたるふしはない、太宰君とわたしとの関係は非常に密接で、青森の太宰君のお兄さんのところから毎月十日、廿日、丗日と三回に分けて送つてくるお金をわたしが受取つて太宰君や奥さんに渡していた、これは太宰君が直接受取るとみんな酒代になつてしまうからでいつもわたしは酒をやめろ∞雑文を書くのはやめて小説を書け≠ニうるさく忠告したのでうらまれたのかも知れない、今年の一月太宰君は催眠剤を飲みすぎて死にかけたことがあり意識をとりもどしたときわたしに三十分間あんたのことを恨みつづけた≠ニいつたことがある、太宰君は最も愛するものを最も憎いものだと逆説的に表現する性格だからそういうつもりでいつたのだろう、太宰君は文学だけで生きていた人だから、最近書けなくなつたと錯覚を起して苦しんで死んだのではないかとわたしは考えている。

 井伏は、「悪人」だと言われて思い当たるふしがないから、太宰のこの言葉は「最も愛するものを最も憎いものだと逆説的に表現した」ものと受け流した。井伏流の飄々として対応だが、これで一件落着とはいかなかった。文壇雀たちが喧しい。そこで、井伏の師佐藤春夫が、助け船を出す。「井伏鱒二は悪人なるの説」(昭和23年11月15日「作品 二号」)の中で次のように書いた。
 「所詮人並の一生を送れる筈もないわが身に人並に女房を見つけて結婚させるやうな重荷を負はせた井伏鱒二は余計なおせつかいをしてくれたものだな。あんな悪人さへゐなければ自分も今にしてこんな歎きをする必要もなくあつさりと死ねるのだがなあ。井伏鱒二のおかげで女房子供に可愛そうな思ひをさせる(と太宰は井伏を悪人にして一切の責任をこれに転嫁した)井伏鱒二は悪人なりの実感のあつた所以である。それ故あの一句の影には太宰の、女房よ子供よこの悪い夫を悪い父を寛恕せよといふ気持を正直に記す気恥しさを「井伏鱒二は悪人なり」と表現したのであつた。あの一句からこれだけの含蓄を読み取り、この心理的飛躍と事実の歪曲とを知る事が出来ないでは、結局太宰の文学は解らないわけである。」
 こうしてこの件は、一件落着となる。しかし、それからだいぶ時が経ち、平成に入ってから川崎和啓氏が「師弟の訣れ 太宰治の井伏鱒二悪人説」(『近代文学試論』平成3年12月)と題する論文で、当時の太宰が井伏に対して抱いていた不信感を暴き出した。筑摩書房から太宰の死後ほどなく刊行された井伏鱒二選集は、太宰が、全巻解説を書くから筑摩からぜひ選集を出したらどうかと井伏に提案し実現の運びとなったものだが、その刊行が決まって選集の解説を書くために井伏の作品をあらためて読み直している時に太宰は衝撃的な事実を知った。井伏の作品の中にそれまで見たことのない『薬屋の雛女房』という作品を初めて目にしたのである。それは、薬屋の若妻を主人公にしているものであるが、その中で船橋時代の太宰と初代の姿があからさまに描かれていて、精神病院での運動会での患者たちの滑稽ぶりなどが面白おかしく描かれていたのである。太宰は、パビナール中毒の頃の自分の姿がこんな形で茶化されていたことを知って、大きな屈辱感に打ちひしがれた。この作品が発表されたちょうどその頃、太宰は井伏の勧めで甲府に移り住んだばかりであり、井伏にはその後結婚の仲人役も引き受けて貰って人生の再スタートの恩人だと思ってきたが、自分の知らないところでこんな卑劣な事があったとは。太宰は、暗澹たる思いであった。
 当初その作品も第二巻に入る予定であったが、太宰は第二巻の作品の解説を渋り、結局その作品を選集からはずさせたのだが、それだけでは気持ちが収まらず、第二巻の「青ヶ島大概記」を用意周到に残しておいて、そこで太宰なりの意趣返しをやっている。この第二巻の解説は「青ヶ島大概記」の成立をめぐるエピソードが中心となっているが、太宰は、解説の中で、自分はこの作品の清書をお手伝いしたのだが、「私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於いて、日本の作家に天才を実感させられたのは、あとにも先にも、たった一度だけであった」とベタ褒めしているのである。
 しかし、実はこの作品は井伏が民俗学者折口信夫から借りた「伊豆国付八丈島持青ヶ島大概記」からそのおよそ六割を盗用したもので、そのことは太宰と井伏しか知らなかった。その作品を太宰は、わざと「天才」だと持ち上げたのである。
 太宰が亡くなって、その楽屋落ちを知る者はいなくなったが、この解説が、太宰の死後ほどなく出版された『如是我聞』に収載されているのを見て、井伏は肝を冷やしたはずである。いずれどこかで自分から言い出すしかないと腹をくくった。昭和31年の「社交性」という一文で「私の『青ヶ島大概記』という記録物は、資料からそのまま文章を引用したところが可成りある。太宰君は実際にその場に立ち会って真相を知っているにもかかわらず、讃めるに事欠いて粉本そのままの文章のところを抜粋し、私に天才を感じて戦慄したと書いている」と明かし、「不正直を生理的に厭やがった太宰にして、こんなことを書くのは私に対する皮肉だと思って間違いない」と記している。

盗用、借用疑惑なら太宰だって偉そうなことはいえない
 さらに、平成12年には猪瀬直樹氏が『ピカレスク』において、井伏の代表作『黒い雨』も、その多くが閑間重松の被爆日記「重松日記」からの借用から成っていることを明らかにし、さらに井伏の出世作といわれる『山椒魚』も、井伏本人はチェーホフの「賭け」からヒントを得たと言っているが、実はロシアの風刺文学の作家サルイティコフ=シチェドリンの「賢明なスナムグリ」と瓜二つであることを、ロシア人の日本文学研究家グリゴーリイ・チハルチシビリが明らかにした(1993年『新潮』9月号「井伏鱒二作品におけるチェーホフ的なもの」)ことまで暴露したのである。
 太宰は、もちろんそんなことまでは知る由もない。それに盗用、借用疑惑ならば太宰だってそれほど偉そうなことはいえない。彼の主だった作品の多くが他人の日記をもとに書かれていて、『斜陽』などは、「斜陽日記」からほぼそのまま書き写しているような箇所が随所にあるのだ。そう考えると、太宰の「井伏=悪人説」も、それほど杓子定規に受け取らなくてもいいような気もするのである。佐藤春夫が言うようなところで収めておいてもいいようにも思える。

玉川上水に入水――遺体が発見されたのは幸運であった
 さて、だいぶ寄り道をしてしまった。富栄の部屋で遺書をしたためたあと二人は、竹行李を利用した木箱の上に太宰と富栄の二人の写真を並べ、その前で線香を焚いたとみられる。部屋はきちんと整頓され、遺書の他に「斜陽日記」のノート数冊も置かれ、富栄の字で伊馬春部氏に宛てて、「伊豆の方にお返し下さい」と書かれたメモが残されていた。昭和23年6月13日の深夜、二人はその部屋を出て玉川上水の堤下に行く。そこで、二人は最期の死出の盃を交わし、互いの身体を紐で結んで、入水心中をする。



二人が出たあとの富栄の部屋
立てかけた竹行李の上に二人の写真が置かれている



二人が入水した当時の玉川上水

 梅雨どきの、水かさの多い時期である。玉川上水で身投げすると死体はほとんど水の下に沈んで上がって来ない、と言われている。津島家の番頭中畑慶吉は、太宰の思い出として次のようなことを述べている。

 太宰が美知子さんと結婚して三鷹に所帯を張ってからというものは、彼にとってうるさい存在だった私もさすがに少々遠慮して、それほど頻繁には訪ねませんでした。それでも、月の十日前後には必ず井伏先生の所に挨拶に行っていました。昭和十五、六年のことでした。下連雀の太宰の家を訪ね、連れだって吉祥寺駅に向う途中、玉川上水の際に、溺れた生徒を救おうとして自らも水死した松本訓導の碑がありましたので、私は彼にこういいました。
 「松本訓導の例を見るまでもなく、この玉川上水というのは自殺者にとって、大変都合のよい形をしていると聞いております。あなたは以前、鎌倉で心中をはかった。女性によって、しかも水によって死ぬ運命にあるのだから、どうせ飛び込むならこの辺りはいい場所ですよ」
 てっきり笑い出すと思っていたところ、彼は真面目な顔つきで、「ええ、自分でもそう思っておりました。ここはよさそうな場所だと考えていました」と神妙に答えたのにはびっくりいたしました。そこで、やったのです。その言葉を聞いたからというわけではありませんが、私は三鷹へ行く度に二カ月に一度くらいでしょうか酒を二本とか牛肉をぶら下げて三鷹警察署に立ち寄っていました。
 「三鷹のこういう所に住んでいる太宰という文士がおります。彼は自殺の憂いがなきにしもあらずなので、いつ、あなた方の手でお世話になるかもしれません。よろしく警戒下さいますよう」
 (「月刊 噂」昭和48年6月)



玉川上水脇に建つ松本訓導殉難の碑


松本訓導殉難の碑について


 かなり前から、死ぬならば、玉川上水がいいと太宰が考えていた可能性は高い。それにしても中畑慶吉というのは、まさに凄腕のコンシェルジェである。何年も先のことを見越して、しっかりと手を打っているのである。太宰の家から近い、玉川上水の堤に二人が残したとおもわれる小皿、小瓶などが見つかったが、二人の遺体は警察の大々的な捜索、さらには太宰家、山崎家の懸命の捜索にもかかわらずなかなか見つからなかった。遺体が通行人によって発見されたのは入水から1週間近く経った6月19日、入水現場からおよそ一キロほど下ったところであった。二人の遺体は抱き合ったまま浮き上がっていたという。
 遺体が運良く発見されたのは、玉川上水を管理する水道局が捜索本部の要請で門扉を加減する減水を数日間に限って例外的に認めてくれたからである。そうでなかったらおそらく梅雨のこの時期に遺体が上がることはまずなかっただろう。水道局が減水を認めたのは、太宰の「心中事件」が大々的に報道されて社会問題にもなっていたからであろうが、もしかしたら中畑慶吉の「気配り」が奏功したのかもしれないとも思う。
  


晩年の中畑慶吉氏

二人の遺体は別々の火葬場へ
 二人の遺体は、川から引き上げられて、いったん「千草」の土間に運ばれ、そこで検視が行われた。「骨にするまで見たくないのです」と言う美知子夫人の意志により太宰の遺体は自宅に寄らずそのまま堀之内の火葬場へ運ばれた。富栄の遺体は太宰関係者の意向もあったのか、少し遠い田無の火葬場へと運ばれ、それぞれ別々の場所で火葬された。太宰関係者の中には、太宰が富栄に殺されたと言うものさえいて、富栄に対して悪感情を抱いている者が多くいたのである。
 火葬後、太宰の遺骨は下連雀の自宅に、そして富栄の遺骨は野川家の富栄の部屋に運ばれ、それぞれ通夜が営まれた。父山崎晴弘は、娘の遺言でもあるから遺髪の一房でも傍らに埋めて欲しいと懇願したが、太宰家側には受け入れてもらえなかった。
 太宰の遺骨は三鷹の禅林寺に納められ、一方富栄の遺骨は永泉寺に納められたが、父晴弘は墓の建立を許さず、一本の墓標が建てられていただけであった。しかし、父の死後、山崎晴弘校長の遺徳を偲び、卒業生で組織されたお茶の水会によって昭和36年3月に山崎家の墓が建立された。
 また、父晴弘は、連日のように出版社が押しかけて来たにもかかわらず、富栄の「日記」の出版を認めず、遺骨とともに埋葬するつもりでいたといわれる。ところが、遺体発見後、太宰の死は富栄による無理心中だという説が流布されるに及んで、「このままでは富栄が太宰さんに尽くしたことも、すべて無になってしまう」と幾度か家族会議を重ねた末に許可したと言う。日記は、死後からおよそ3ケ月後の昭和23年9月に『愛は死とともに』(石狩書房)のタイトルで刊行された。
 なお、遺体が発見された6月19日には、三鷹禅林寺で太宰を偲ぶ「桜桃忌」が昭和24年より毎年催されている。「桜桃忌」の名付け親は友人の今官一である。また、お茶ノ水会有志によって詳月命日にあたる6月13日に毎年文京区永泉寺にて富栄の法要が行われてきた。さらに、昭和42年以降は太宰文学研究会の会員有志により、太宰治と彼を支えた山崎富栄、田部あつみ、小山初代を共に供養する法要が6月13日に白百合忌として営まれることになったという。
 はや、太宰の没後70年以上の歳月がながれることになった。

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