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太宰治『人間失格』(文春文庫)
 作品について | あらすじ 

あらすじ

はしがき
 私はその男の三葉の写真を見たことがある。一葉は、その男の幼年時代の写真で、十歳前後と推定される。大勢の女の人に囲まれ、袴をはいて立っている。首を傾け、醜く笑っている。その写真を見て、可愛い坊ちゃんですね、とお世辞を言う者もいるかもしれないが、私にはその笑顔はなんとも知れず、薄気味悪いものを感じさせる。どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこんな不思議な表情の子供の写真をこれまで一度も見たことがなかった。
 第二葉の写真の顔は、高校時代か、大学時代のもので、おそろしく美貌の学生であるが、不思議に生きている感じがしない。そしてよく見てみるとどこか怪談じみた気味悪いものさえ感じられた。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見たことが一度もなかった。
 そしてもう一葉は、最も奇怪なものである。歳の頃は分からない。ひどく汚い部屋の片隅で、火鉢に手をかざしている。無表情で、まるで印象というものがない。自然に死んでいるような、いまわしい、不吉なにおいのする写真であった。とにかく、見る者をぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見たことがなかった。

第一の手記
 恥の多い生涯を送って来ました。
 子供の時分は生活感というものをほとんど持てず、周りの人たちがどんな思いで暮らしているのか、自分には理解できずにいた。自分ひとり変わっているように思え、不安と恐怖にいつも怯えていた。隣人とまともに話すことすらできなかった。
 そこで、自分は道化を演ずることにした。道化、それは、人間に対する自分の最後の求愛であって、自分はこの道化の一線でわずかに人間とつながることが出来た。家族の者たちでさえ、彼らがどんなことを考ええるのか分からず、ただおそろしく、気まずさに堪えることができず、上手に道化を演じていたのである。
 とくに怒っている人間の顔に出会うと、自分はそこにおそろしい人間の本性を見てしまい、絶望的になる。ちょうど牛が草原でおっとりと寝ていて、突如、尻尾でビシッと腹の虻を打ち殺すみたいに、人間のおそろしい正体を不意に怒りによって暴露する様子を見て、髪の逆立つほどの戦慄的を覚え、この本性も人間の生きていくための資格でもあるのかと思うと、ほとんど自分に絶望を感じてしまうのである。
 人間に対していつも恐怖に震えおののき、自分の言動に、みじんも自信が持てず、その憂鬱を、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、おどけた、お変人として、自分は次第に完成されてきた。なんでもいいから笑わせておけば、人間たちは、自分が彼らの生活の外にいてもあまり気にしないのではないか、とにかく彼らの目障りにならないよう、家族や下男、下女にまで必死のお道化サービスをしたのである。
 父は東京への出張が多く、また月の大半は上野にある別荘暮らしだった。帰って来る時は、子供たちに沢山の土産を買ってきてくれる。ある日父から、葉蔵、今度帰る時にはどんな土産が良いかと聞かれたが、自分はそれにまともに答えることができなかった。自分はイヤなこともイヤと言えず、また好きなこともはっきりと言えない質で、そうやって答えを迫られると言い知れぬ恐怖感に身もだえするのだ。後年に到り、これが自分のいわゆる「恥の多い生涯」の重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われる。
 父は、答えに窮す自分を見て、やはり本か、と言い、浅草の仲店にお正月の獅子舞のお獅子が、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか、と訊いたのである。本が、いいでしょう、と答えたのはそばにいた長兄だった。子供たちの注文を手帖に書きとめていた父は、そうか、とつぶやき何も書きとめもせず、手帖をパチと閉じたのである。
 私は、父を怒らせてしまったと激しく後悔し、なんとかその失敗を取り返そうと、深夜客間に忍び込んで、机の引き出しにしまわれていたその手帖を秘かに開けて、そこにシシマイ、と書いておいた。シシマイなんか欲しくなかったし、本の方がましだったが、父の機嫌を直したいばかりに、そんな危険を冒したのだった。果たしてその非常手段は見事に成功を収めたのだ。
 しかし、学校では、ほとんどの生徒をうまくだまして、みんなからは尊敬される存在であったが、ある一人の全知全能の者に見破られ、木っ端みじんにやられ、死ぬ以上の赤恥をかかされたのである。
 自分は学校の成績が良かったからみんなからは尊敬されそうになったが、それからはわざと失敗や人に笑われるようなことしでかして、やがて人からお茶目に見られることに成功し、尊敬される存在から逃れることに成功したのである。
 しかし自分の本性はお茶目とは対照的なものであった。自分は、その頃もう下女や下男から哀しいことを教えられ、犯されていたのである。しかし、そのことを父や母にも誰にも言わなかった。訴えても、結局無駄だと思っていたのである。自分の身近にいた人間たちは、互いをあざむきあっていながら、あざむきあっていることさえ気づかないみたいに、清く明るく朗らかに生きている。それが自分には難解すぎ、人間たちは自分にその要諦を教えてはくれなかったので、自分は誰にも訴えようとは思わなかった。その自分の孤独の匂いが、多くの女性から本能によって嗅ぎ当てられ、後年自分がつけ込まれる要因の一つになったような気もする。つまり、自分は女性にとって恋の秘密を守れる男であったというわけである。

第二の手記
 中学に入学して、生まれてはじめて他郷へ出た。故郷でさえ自分は道化をうまく演じてこられたのだから、他郷ではそれはもっとたやすいものだった。しかし、自分の正体を完全に隠蔽し得たと思った矢先に意外にも自分は背後から突きさされたのだ。それは竹一というクラスのなかでももっとも体が貧弱で、体育の時間はきまって見学で、学課もできない白痴に似た生徒だった。自分はれいによって体育の時間に鉄棒でわざと派手に失敗をやらかしみんなから大笑いされたのだが、その時見学していた竹一がいつの間にか自分の背後に来ていて、背中をつつき、ワザ、ワザ、と言ったのである。
 まさかあの竹一に見破れるとは、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれ燃え上がるのを眼前にしているような思いにとらわれた。それからは不安と恐怖の日々だ。
 そこで、自分は必死になって竹一に近づき彼を手なづけようとした。そして、学校帰りに夕立があったその日、傘もなく立っている彼に傘を差しだし、家まで引っ張りこむことに成功した。二階の自分の部屋に上がると、竹一が耳が痛いというので、耳を見てやるとひどい耳だれだった。竹一を自分の膝まくらで寝かせ耳掃除をしてあげていた時、竹一がふいに、お前は女に惚れられるよ、と言ったのである。思わず、自分は顔を赤らめ、笑っただけだったが、しかしその言葉にかすかに思いあたることもあったのである。
 自分は幼い頃から、女性のなかで育ってきて、ほとんと薄氷を踏むような思いで、その女性たちと付き合ってきた。女性というものは、男とは全く違う生きものという感じで、しかもこの不可解で油断のならない生きものは、奇妙に自分をかまうのだ。
 女は男よりもよけいに道化にかまうのだ。それに女は適度ということを知らず、際限なく自分に道化を求め、その限りないアンコールに応えようとして自分はヘトヘトになってしまうのだった。
 自分が、中学時代に世話になったその家は五十代の小母さんと二人の娘がいて、姉は一度他家に嫁いだが、出戻りしてきた三十近くの娘で、アネサと呼ばれていた。下の妹は、まだ女学校を卒業したばかりでセッちゃんという。
 二人の娘たちは暇さえあれば自分の部屋に来て、自分にかまうのだ。ある時には、アネサが、突然部屋に入ってきて、寝ている自分の布団の上に倒れ込んで、泣きながら、葉ちゃんが、私を助けてくれるのだわ、こんな家、一緒に出て行ってしまった方がいいのだわ、助けてね、助けて、と激しいことを言うのだった。
 自分は、女からそうした態度をみせられるのは初めてではなかったので、過激な言葉にも驚かず、布団を出て、机の上にあった柿をむいて、その一切れを手渡してあげたのだった。アネサは、それで気持ちがおさまり、恥ずかしそうにして部屋を出ていったのである。
 竹一は、女に惚れられるという予言の他にもう一つ、お前は、偉い絵描きになる、という予言をしたのである。この二つの予言を竹一によって額に刻印されて、自分は東京へ出て来たのだった。
 東京の高等学校に合格し、寮に入ったが、寮生活になじめず、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらって上野桜木町の父の別荘に移った。父がいない時は、一日家で本を読んだり、絵を描いて過ごした。父がいる時は、学校へ出かける振りをして、洋画家の安田新太郎氏の画塾で、デッサンの練習をしたりしていた。
 その画塾で知り合った画学生から自分は酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想とを知らされた。その画学生は、堀木正雄といって自分より六歳年長で、私立の美術学校を卒業して、絵の勉強を続けているというが、私にとっては彼は生まれて初めて見る本物の都会の与太者だった。
 堀木は遊び上手で、いかに安くいかに沢山楽しみを得るかについてはとても長けていた。堀木に連れられて遊ぶうちに、酒も、煙草も、淫売婦も自分には人間恐怖を一時でもまぎらわすことの出来るずいぶん良い手段であることも分かってきた。とりわけ、淫売婦は、自分には人間でも女性でもない、白痴か狂人のように思え、そのふところの中でかえってぐっすり眠ることが出来たのである。
 淫売宿へ通いつめ、いつのまにか堀木に言わせれば自分は大層な女達者になっていたようなのだ。女たちが、本能によってその匂いを嗅ぎあて、寄り添ってくるという卑猥で、不名誉な雰囲気を漂わせてもいたらしい。事実、周りの女から手紙が届いたり、プレゼントが届けられたり、買い物先の女店員や煙草屋の娘たちが自分に見せる好意によって、自分がどこか女に夢を見させる何かを持っているというのは否定できないようにも思えたが、それを堀木ごときに指摘されたことに屈辱に似た思いを抱いたことも事実であった。
 また自分は、堀木から共産主義の読者会にも誘われ、やがて彼らの仲間の一員と思われるようになった。マルクス経済学の考えは自分なりに理解することはできたが、人間には経済だけでは割り切れない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、それに怯えきっていた自分には、唯物論によって人間に対する恐怖から解放され、希望の喜びを感ずるという事はできなかった。それでも、その会のなかでは自分はれいのお道化をやってみんなからはおどけ者の同志として会にはなくてはならぬ人気者にさえなっていったのである。
 自分がその会に熱心に参加したのは、その会が非合法ということにあった。それがむしろ自分には居心地が良かったのだ。自分は世の中の合法の方がかえっておそろしく、非合法の海の中に飛び込んで、やがて死に至る方がいっそ気楽に思えた。
 自分は生まれた時から日陰者という気がしていて、世間から日陰者と呼ばれてる人たちに逢うと自分は優しい心でいられるのだった。犯人意識といってもいいし、あるいは脛に傷を持つと言ってもいいが、その傷は自分の血肉以上のもので、その傷の痛みこそ生きている証のようなものであって、そんな自分には地下運動のグループの雰囲気が安心でき、居心地が良く肌があった。
 他方、堀木の方は、自分を紹介して以来会には顔を見せず、相変わらず遊びの方に熱心だったようだが、自分は次第に非合法の活動を安心してまかせられる人間として重宝されるようになっていったのである。
 しかし、それからまもなく父が別荘を引き払って故郷に隠居所を建てるということになり、下宿生活を余儀なくされるようになると、たちまち金に不自由するようになり、質屋通いを繰り返すようになった。
 そして高等学校へ入学して二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件を起こして、身の上が一変したのである。
 その頃自分に特別に好意を寄せる女が三人いた。一人は下宿屋の娘で、その娘は、自分がへとへとになって部屋に帰るときまって便せんと万年筆をもって下から二階の自分の部屋に上がっきて、ごめんなさい、下では妹や弟がうるさくてゆっくり手紙もかけないと言って、一時間以上も机に向かっているのだ。相手をするのも億劫なので、たいては何か買い物などの用事を頼むことにしていた。
 もう一人は、女子高等師範の文科生のいわゆる「同志」だった。その女性は、運動の用事でいやでも顔を合わせなければならなかったが、やたらに自分に物を買ってくれ、私を本当の姉だと思っていてくれていいわ、と言われ、そのキザに身震いしながら、そのつもりでいるんです、と愁いを含んだ微笑を作って答えた。しかし、ある夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、その人に帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやったら、あさましく狂乱の如く興奮し、そのまま車を呼んで、自分を秘密のアジトに連れ込んで、朝まで大騒ぎを演じてくれたのだ。とんでもない姉だと、秘かに苦笑したものだ。
 また同じ頃、自分は銀座の大カフェの女給から思いがけぬ恩を受けたことから、その恩にこだわり、身動きできないほどの関係へと至った。女の名前はツネ子だったと思うが、定かではない。その頃には、堀木に頼らずとも一人でカフェに顔を出すこともできるようになってはいたが、それでもそれはうわべだけのことで相変わらず無我夢中のへどもどの挨拶で、たえず追われるような思いがつきまとっていたのだ。そこで、大きなカフェの酔客の中に紛れこむことができたら、気持ちも少し落ち着くのではないかと思い銀座の大カフェに十円持って入り、十円しかないんだから、そのつもりで、と相手の女給に言った。女給は、心配いりません、と少し関西なまりのまじる声で言った。その一言が、自分の震えおののいている心を鎮めてくれた。 
 カフェで飲んだあと、その女に言いつけられた通り、銀座裏の屋台の鮨やで、まずい鮨を食べながら女を待ち、それから本庄にある大工の二階の女の部屋に行った。女は、自分より二歳年上で、夫がいて、去年広島から二人で東京へ出て来たが、夫は詐欺罪で捕まり、今は刑務所にいるらしい。
 ツネ子は、毎日夫の差し入れで刑務所に通っていたが、明日からやめる、と言うのだった。女は、体全体に侘しさの気流を纏っていて、その気流に包まれると、自分の陰鬱の気流と程よく溶け合い、わが身の恐怖と不安からも、離れることが出来るのだった。
 しかし、朝になるのと、自分はもとの軽薄な、装えるお道化ものに戻っていて、傷つけられることなくこのまま別れたいと、お道化の煙幕を張りめぐらし、金の切れ目が縁の切れ目とか、なんとか言って、長居は無用とばかりに、顔も洗わず、引き上げてきたのである。
 カフェの勘定も全部ツネ子に負担させた負い目もあり、また一夜限りの女にまた会ったりすると烈火のごとく怒られるような気がして銀座から足は遠のいた。しかし、一月ばかり経った十一月の末に、神田の屋台で堀木と飲んでいて、屋台を出たあと、堀木がもう一軒とねばるので、自分は酔っていたせいもあり、それなら夢の国にでも連れていってやる、と堀木をあの銀座の大カフェに連れていくことにしたのである。
 俺は今夜女に飢えているんだ、隣に座った女給にきっとキスしてみせる、と堀木は騒いでいた。その店に入るとツネ子ともう一人の女給がやって来て、もう一人の女給が自分の隣に、そしてツネ子が堀木の隣に座った。その時、自分の目の前でツネ子が堀木から猛烈なキスを受けると思うと、嫉妬を感じるというよりも、なんだか不憫な気がした。
 しかし、事態は思わぬ展開となる。やめた、と堀木が言い、さすがにおれもこんな貧乏くさい女には、と閉口し切った顔でツネ子をじろじろ眺め、苦笑したのである。堀木のその言葉は、案外でもあり、意外でもあったが、自分の気持ちが撃ちくだかれたのは確かであった。酒を浴びるほど飲み、酔っぱらい、ツネ子と顔を見合わせ、哀しく微笑み合い、ただの貧乏くさいだけの女だな、と思うとともに、金のない者同士の親和感が胸にこみ上げてきて、ツネ子がいとしく思われ、生まれてはじめて、自分から恋の心が動くのを感じたのであった。
 前後不覚に酔い、眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていた。ツネ子の部屋だった。金の切れめが縁の切れめなんて冗談かと思うていたけど、ややこしい切れめやな、うちが、稼いであけても、だめか、とツネ子が言う。だめ。
 それから、女も休み、夜明けがた、女の口から死という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようだった。自分も世の中への恐怖、わずらわしさ、金、運動のこと、女、学業、考えるととてもこのうえこらえて生きて行けそうにもなく、その提案に気軽に同意したのである。
 しかし、まだその時は実感として「死のう」という覚悟はできていなかった。どこかに「遊び」がひそんでいたのだ。でも、その後で二人で浅草の六区をさまよって、喫茶店に入り、牛乳を飲んだのだが、女にあなた、払うておいて、と言われ、財布を開けたら銅銭がわずかに三枚だけしかなく、愕然としているところへ、女に財布を覗かれ、あら、たったそれだけ、と言われたのだ。無心の声ではあったが、それだけにズシンとこたえた。はじめて自分が恋したひとの声だけに痛かった。かつて味わったことのない奇妙な屈辱、とても生きてはおれない屈辱であった。その時、自分からすすんで死のうと、実感として死を決意をしたのであった。
 鎌倉の海に飛び込み、女は死んで、自分だけ助かった。その事件は父の名とともに新聞でも取り上げられた。自分は海辺の病院に収容され、故郷からは生家とは義絶となるかもしれぬと伝えが来た。しかし、そんなことより死んだツネ子が恋しく、めそめそ泣いてばかりいた。
 収容された病院で左胸に故障があるのを発見され、そのおかげで、自殺幇助罪という容疑で警察に連れていかれたが、病人扱いということで、保護室に入れてくれた。
 その翌日に、警察署長から取り調べを受け、起訴になるかどうかは検事殿が決めることだが、身元引受人となる人がいたら、電報か電話で横浜の検事局まで来てもらうよう頼んでおいた方がいい、と言われ、父の別荘に出入りしていた書画骨董商の父がいつもヒラメと呼んでいた独身の渋田という四十男に電話を掛けて頼んだ。ヒラメは人が代わったみたいに、威張った口調だったが、とにかく引き受けてくれた。
 お昼過ぎに、麻縄で胴を縛られ、その麻縄の端を若い巡査に握られて、電車で横浜に向かった。自分は、罪人として縛られるとかえってほっとして、気持ちが落ち着くのを感じたほどだった。
 ただ、そのあとに実は冷汗三斗の生涯忘れられぬしくじりがあったのである。それは検事の取り調べの時だった。四十前後の端正な顔立ちの物静かな検事だった。取り調べに対しての陳述の時に、突然咳が出て、袂からハンカチを出し、ふと血を見て、この咳もまた何かの役に立つかもしれぬとあさましい駈け引きの試みを起こし、ゴホン、ゴホンと二人ばかりおまけのニセの咳を大袈裟に加えて、ハンカチで口もとを覆ったまま検事をちらりと見た、間一髪、ほんとうかい、と物静かな微笑。今思い出しても、キリキリ舞いをしたくなる。あの竹一から、ワザ、ワザと言われた時以上に地獄に落とされた気分を味わった。
 取り調べの結果、起訴猶予となったが、一向に嬉しくなく、惨めな気持で、検事局の控室のベンチに腰掛け、ヒラメが来るのを待っていた。背後の高い窓から夕焼けの空が見え、?が「女」という字みたいな形で飛んでいた。

第三の手記
 竹一の二つの予言のうち、惚れられる、という予言は当たったが、もう一つの偉い画家になるという予言ははずれ、自分はわずかに無名の下手な漫画家になることができただけだった。
 鎌倉の事件により、高等学校は追放となり、身元引受人のヒラメの家の二階三畳間に監視付で幽閉の身となった。監視役は、ヒラメの骨董店の店番をしている十七,八の小僧で、その男はどうやらヒラメの隠し子だそうだが、事情があって渋田は親子の名乗りをしていないと以前家の者から聞いたことがある。
 実家からの仕送りも、ヒラメ宛に送られてきて、その金で自分の食事などの生活費もまかなわれていたようだ。また、これから先のことについて実家の方では、とにかく四月から学校に入り直すこと、学校に入れば学費も生活費も保証するとヒラメに伝えてきていたらしいが、ヒラメはそんなことは何一つ言わず、なにやら恩着せがましく、あなたがもし改心し、私に真面目に相談をもちかけてくれたら、私も考えます、などと言うのだった。
 三月も末の頃、これから先や将来のことをどう考えているのかと聞かれ、画家になるつもりだと答えたら、ヒラメにせせら笑われ、そんなことでは話しにならない、一晩まじめに考えてみなさいと言われた。結局、一晩寝ても何も考えは浮かばず、あけがたになりヒラメの家から逃げた。
 ヒラメの言う通り、自分は将来についての考えもしっかりと決まってないような状態で、このままヒラメの世話になっているのも気の毒だし、たとえを何か志が決まったとしてもその更生資金をヒラメから援助してもらうのかと思うと心苦しく、いたたまれない気持だったのだ。
 夕方、間違いなく帰ります。左記の友人の許へ相談に行ってきます、というメモを部屋に残した。友人というのは堀木のことで、住所も記しておいた。もちろん、ヒラメの所に戻るつもりはなかったし、本気で堀木のとこを訪ねるつもりもなかったのだが、どう考えても訪ねていける友人など他に見つかるはずもなく、結局浅草の堀木の家を訪ねて行ったのだった。
 堀木は在宅していた。家は、階下で老父母と若い職人の三人が下駄の鼻緒を造っていて、堀木は二階のひと間だけある六畳間を使っていた。二階に上がると、今日は忙しいんだ、出かけなければならない、と堀木は冷淡な態度を見せた。田舎育ちの自分からすれば愕然と目を見張るほどの都会人の冷たいエゴイズムの一面をそこに見る思いがした。
 それでも、堀木の母親がお汁粉をご馳走してくれた。堀木もそれを美味しそうに食べ、自分も食べたが、とても質素なもので、うまいとは言えなかったが、かえって都会人のつましい本性が垣間見え、内と外をちゃんと区別している東京の家庭人の実体をみせつけられているようにも思え、人間の生活から逃げ回ってばかりいる薄馬鹿の自分だけが完全に取り残され、堀木にも見捨てられたような気配にただ狼狽し、たまらなく侘しい思いにとらわれた。
 失敬するぜ、悪いけど、と堀木が言った時、堀木のところへ女性が訪ねてきた。そこから、事態は急展する。その女性は雑誌の編集者だった。堀木に頼んでいたカット
を受け取りにきたのだった。堀木がそのカットを手渡したその時、今度は電報が届いた。堀木がその電報を見て、顔がみるみる険悪になった。それはヒラメからの電報だった。お前、こりゃ、どうしたんだ。とにかくすぐに帰れ、おれが送り届ければいいが、そんな時間はねえや、と堀木が言うと、女が、お宅はどちらなのですか、と訊いた。大久保です、と答えると、そんなら、社の近くですから、と女が言った。
 女は、シヅ子という名前の甲州生まれの二十八歳で、シゲ子という五歳になる娘と高円寺のアパートに住んでいて、夫とは五年前に死別していた。
 はじめて男めかけのような生活をした。
シヅ子が新宿の雑誌社の勤めに出かけたあと、シゲ子の面倒をみて一日を過ごす。一週間ほどそんな毎日が続いた。アパートの窓から見える電線にひっからまった奴凧が風に吹かれ、破られ、それでも電線に絡みついて離れずにいるその様を見るたびに、苦笑し赤面し、夢にさえうなされたものである。
 酒代や煙草銭くらい自分でも金を稼がなければと思っていたところ、シヅ子が漫画を描いてみたら、編集長に頼んでみてあげるからと言ったのだ。シゲ子に描いてあげていた漫画を見て、漫画の腕を見込み、社の漫画雑誌に描いてみたらと言ったのである。それがキッカケで、自分の漫画が雑誌に掲載されるようになった。
 そして仕事ばかりか、家出の後始末やらなにやらほとんど全部、この男まさりの甲州女の世話を受けて、結局、シヅ子の取り計らいで、ヒラメ、堀木、シヅ子の三人が会談して、自分は故郷の実家からは全くの義絶となり、シヅ子と「天下晴れて」同棲ということになったのである。
 漫画もそこそこに認められ、酒代や煙草銭も手に入れることができたが、自分の心細さはますますつのるばかりで、そんな沈み切った気持で連載漫画を描いていると、ふと故郷を思い出し、あまりの侘しさに涙をこぼすこともあった。かすかな救いはシゲ子であった。その頃シゲ子は、自分のことをお父ちゃんと呼んでなついていたが、そのシゲ子にも、ある日、シゲ子は、本当のお父ちゃんがほしい、と言われ、くらくら目まいを覚えた。この者も、あの「不意に虻を叩き殺す牛のしっぽ」を持っていたのである。
 あの堀木は、自分の家出の後始末に立ち合ったこともあり、アパートに時々顔を出しては、更生の恩人のような顔して、あれこれと説教めいたことを言ったりした。女道楽もこのへんでよさないと、世間が許さない、という堀木の言葉に、世間というのは君じゃないのか、と思ったが、その言葉を呑み込み、冷汗、冷汗と笑っただけだった。
 しかし、世間とは個人じゃないか、という考えを持つことで、自分は今までより多少自分の意思で動くことができるようになった。毎日、シゲ子のおもりをしながら、各社の注文に応じて、ただ酒代が欲しいばかりに、実に陰鬱な気持で、漫画を描き、そうして、シヅ子が社から帰るとぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンドバアで酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰ってきて、唄いながら、シヅ子に衣服を脱がされ、シヅ子の胸に額を押しつけて眠ってしまうそんな日常だった。
 次第に飲酒量も増え、高円寺駅付近だけでなく、新宿や銀座にも出かけ、外泊もするようになり、またあの情死事件以前の、いやそれ以上に荒んだ野卑な酒飲みになっていた。ちょうどあの奴凧に苦笑してから一年が過ぎた葉桜の頃に、ついにシヅ子の衣類を質屋に出し、その金で銀座で飲み続け、二晩外泊して、三日目の晩にアパートの部屋の前まで来たが、ドア越しに聞こえるシヅ子とシゲ子の幸せそうな親子の会話を聞いて、この二人の間に自分という馬鹿者が入って、二人を滅茶苦茶にしてしまう、そう思うと神様に祈りたい気持ちになり、それっきりアパートには帰らなかったのである。
 そして、京橋のスタンドバアの二階にまたも男めかけの形で転がり込むことになった。自分もその頃にはようやく世間というものが分かり始めてきたような気がしていた。結局、世間というのも個人と個人の争いであって、その場の一本勝負で勝てばいいのだ。世間の難解は個人の難解でもあり、そう考えることで、世の中という大海の幻影におびえることから多少解放され、あれこれと際限ない心遣いをすることもなく、幾分図々しく振る舞うことも覚えたのであった。
 京橋のスタンドバアのマダムには、わかれて来た、と一言告げ、その日から自分は、その店の客のようでもあり、亭主のようでもあり、使い走りのようでもある、得体の知れない存在となったのであるが、「世間」は少しもあやしまず、自分は常連客たちから葉ちゃんと呼ばれ、優しく扱われたのである。
 そして、世の中というものに対して自分は今まであまりに意識過剰であったことに思い至り、世の中というものはそんなにおそろしいところではないと思うようになっていた。漫画家としても、相変わらず無名の漫画家であったが、子供相手の漫画家雑誌ばかりでなく、大人向けの卑猥な雑誌にも裸の絵などを上司幾太(情死生きた)というペンネームで画いたりしていた。
 その頃、バアの向かいの煙草屋に十七,八のヨシちゃんという色白の処女がいて、言葉をかけ合うようになった。煙草を買いに行く度に、彼女には、いけないわ、お昼から酔ってばかりいて、と注意されていたのだが、年が明けて厳寒の頃、酔って煙草を買いに出て、煙草屋の前のマンホールに落ち、ヨシちゃんに引き上げられたのだった。その時、ヨシちゃんに傷の手当てをしてもらいながら、自分はヨシちゃんに酒をやめると誓ったのである。
 しかし、翌日にはその約束も守れず、また飲んじゃったよとヨシちゃんに言うと、彼女はそれを信じず、ウソ、ウソ、ウソというばかり。店の中に坐ったヨシちゃんの白い顔は汚れを知らぬ紛れもない処女の顔であった。考えてみれば、自分はそれまで年下の処女とは寝たことがない、そう思うと突然結婚したいという思いが胸をつく。処女性の美しさというものは、やはりこの世に生きてあるものだ、結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、とその場で決意し、いわゆる「一本勝負」で、花を盗むことをためらわなかったのである。
 そうして自分たちは結婚し、それによって得た喜びはかならずしも大きくはなかったが、その後に来た悲哀は、凄惨といっても足りないくらい、想像を絶する大きなものであった。自分にとってやはり「世の中」は、底知れずおそろしいところであった。そんな一本勝負などでなにもかも決まってしまうところではなかったのである。
 煙草屋のヨシ子と隅田川近くの二階建ての小さなアパートの階下の一部屋に住み、酒はやめて、漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけたり、喫茶店に入り、花の鉢を買ったりして暮らした。なによりも、自分を真から信じてくれる小さな花嫁の言葉や仕草を見ているのが楽しく、自分もひょっとしたら、人間らしくなることがてきて、悲惨な死に方などせずにすむかもしれないという甘い思いをひそかに胸にあたためはじめていた。
 その矢先、堀木が現れた。よう、色魔、というお決まりの台詞とともに、今日は高円寺女史からのお使者なんだ、と言った。忘れかけると、怪鳥が羽ばたいてやってきて、記憶の傷口をその嘴で突き破る。
 その日以来、自分たちは再び旧交をあたためあうかたちになり、京橋のバアや高円寺のシズ子のアパートにも泥酔して二人で押しかけ、泊まったりしたのであった。
 そんな交友が続いた蒸し暑いある夏の夜、堀木と二人で自分のアパートの屋上に上がって納涼の宴を張った。酒をのみながら二人は他愛ない悲劇名詞か喜劇名詞かのあてっこという自分が考えた言葉遊びをやった。悲劇名詞はトラジディのトラ、喜劇名詞はコメディのコメ。煙草は、と一方が問い。トラ、と相手が答える。注射、トラ。死、コメ。たわいもない言葉遊びだ。
 他にも、対義語(アントニム)のあてっこというのもある。黒のアントは白。けれども、白のアントは赤、赤のアントは黒なのだ。花のアントは、と自分が問うと、堀木は月だと答える。月は、同義語(シノニム)だよ、と言うと、それなら蜂だ、いや、むら雲、花に風で、風だ、と堀木はどんどん脱線していく。
 罪のアントは、と問うと、堀木は法律だと言う。自分は、罪ってのは、そんなもんじゃない、と言うと、堀木はそんなら罪のアントは善良な市民、俺みたいなものさ、と言う。違う、善のアントは悪で、罪のアントではない。
 うるせえなあ、それじゃやっぱり神だ、それなら間違いない、腹が減ったなあ、と堀木は言う。今、階下でヨシ子がそら豆を煮ている、と言うと、ありがてえ、大好物だと堀木は言い、そうだ、ツミのアントはミツ、密の如く甘しだ、腹が減った、何か食う物持ってこいよ、と言うので、それなら自分で持ってきたらいいじゃないか、と言うと、堀木は、ようしそれなら下に行ってヨシちゃんと罪を犯してこよう、と立ち上がる。
 それにしても罪のアントは、と自分は考えている。ドストエフスキーの罪と罰、作家は罪と罰をシノニムと考えず、アントと考えていたのか。絶対に相通ぜざるもの、ドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底、ああ分かりかけた、いや、と頭を巡らしているその時、おい、とんだ、そら豆だ、来い、と堀木の異様に殺気だった声。堀木と自分は屋上から二階、二階から階下へ下りていこうとして階段の途中で止まり、堀木が見ろと小声で下を指差す。自分の部屋の小窓があいていて、そこから部屋の中がみえる。そこに二匹の動物がいた。ぐらぐらと目まいに襲われながら、自分はこれもまた人間の姿だ、おどろくことはないと胸のなかで呟き、階段に立ちつくしていた。
 掘木が大きな咳払いをし、自分は屋上に駆け上がり、そこに体を横たえ、夏の夜空を仰ぎ見ていると、凄まじいばかりの恐怖が襲ってきた。自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよすべてに自信を失い、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対する一切の期待、喜びから永遠にはなれるようになったのである。自分の生涯における決定的な事件であり、自分は真っ向から眉間を割られ、そうしてその傷はどんな人間に接する時でも痛むのであった。
 堀木は長居は無用とばかりに、ヨシちゃんは許してやれ、お前だってろくな奴じゃないんだから、と言い残して去って行った。
 自分はそれから焼酎を飲んでおいおい声をあげて泣いた。いつの間にか、ヨシ子がそら豆を山盛りにした皿を持って背後に立っていた。相手の男は、自分に漫画を描かせて、わずかな金を置いていく三十前後の小男の商人だった。ヨシ子を許すも許さないもなかった。ヨシ子はひとを疑うことを知らない女だったのだ。ヨシ子が汚されたというより、ヨシ子の信頼が汚されたということが、自分にとっては苦悩の種となった。ヨシ子は、その夜から自分の一顰一笑に気を使うようになったのである。
 妻の不貞。しかしヨシ子と男の間になんの恋愛感情もなく、ヨシ子の人への信頼が引き起こした悲劇であるなら、それは夫である自分の決断ひとつで済む問題だ。不貞を許せないというなら離縁すればいいし、我慢して許すことができるなら、丸く収まるはずだった。しかし、自分たちの場合、夫になんの権利もなく考えるとなにもかも
自分が悪いような気がして来て、怒るどころか小言一つも言えない状態であった。
 自分は、さらにアルコールに逃げ、焼酎を買う金欲しさに漫画もほとんど猥画に近いものを画くようになり、いつも自分から視線をそらすヨシ子を見ていると、こいつはあの商人と一度ではなかったのではないか、堀木と、いや他にも、と疑惑は疑惑を生み、さりとてそれを思い切って問いただす勇気もなく、不安と恐怖にのたうち回って、ただ焼酎を飲んで酔っては、ヨシ子にいまわしい地獄の愛撫を加え、泥のように眠りこけるのだった。
 その年の春、自分は致死量の睡眠薬ジアールを飲んで、自殺をはかった。しかし三日三晩死んだように眠りこけ、目覚めた。そのジアールは、実はヨシ子がひそかに買い込んで隠していたものを偶然見つけたものだった。ヨシ子はいつかは自分でやる気で隠していたに違いなかった。
 医者は、過失として警察に届けるのを猶予してくれた。そのおかげで事件にならずにすんだ。目覚めると、枕元にはヒラメと京橋のマダムがいた。ヒラメは、この前も、年の暮れの忙しい時だったが、いつも年の暮れをねらってこんな事をやられたひには、こっちの命がたまらない、と不機嫌に言う。
 マダム、と自分は言い、ぽろぽろ涙を流し、ヨシ子と別れさせて、と自分でも思いがけない言葉が出た。マダムは溜息をもらし、それから自分は、さらに実に思いがけない滑稽な、それこそ阿呆らしい失言をしたのである。
 僕は、女のいないところに行くんだ。
 ヒラメは大声を上げて笑い、マダムもクスクス笑い出し、自分も涙を流しながら赤面の態であった。
 ヨシ子は、自分がヨシ子の身代わりとなって毒を飲んだとでも思い込んでいるらしく、以前よりも一層自分に対しておろおろして、何も言っても笑わず、ろくに口もきけないような有様なので、アパートにいるのがうっとうしく、つい外に出て安酒をあおる事になるのであった。
 東京に大雪が降った夜、酔って銀座裏を歌を小声で呟きながら歩いていて、突然喀血した。雪の上に大きな日の丸の旗ができた。しばらく、しゃがんで、それから汚れていない雪を両手ですくいとって顔をあらいながら泣いたのだ。
 それから立ち上がり、とりあえず近くの薬屋に入った。そこで出会った薬屋の奥さんは顔を見合わせた瞬間に、首を上げ、目を見張り、棒立ちになり、自分を見た。ああ、この奥さんも、きっと不幸な人なのだ、不幸な人は、人の不幸にも敏感なのだと、思ったその時、その奥さんが松葉杖をついて危かしく立っているのに気づいた。駆け寄りたい気持ちを抑えて、その奥さんと顔を見合わせているうちに涙が出てきた。すると、奥さんの大きな眼からも涙がぽろぽろとあふれて出た。
 その夜は、そのまま家に帰ったが、翌日また、その薬屋に来て、素直に自分の体のことを話し、奥さんに相談した。とにかく、お酒をやめなければ、と言われた。奥さんのご主人もやはり肺病で、菌を酒で殺すんだと言って、酒浸りになって命を縮めた、という。奥さんは、未亡人で、独り息子は医大に行っていたが、父親と同じ病にかかり、休学入院中、家には中風の舅がいて、自身は小児麻痺で片脚が効かない。松葉杖をつきながら、奥さんは、薬品をいろいろそろえたくれた。そして、これはどうしてもお酒を飲みたくなった時のためのお薬と言って渡してくれたのが、モルヒネの注射液だった。
 酒から逃れられるのならば、とそのモルヒネを使うようになった。モルヒネを打つと、不安も焦燥もおさまり、甚だ陽気な能弁家になって仕事もはかどるのだった。そして一日一本のつもりが、二本になり、四本になった時には、それがなければもはや仕事もできないようになっていた。
 深夜、薬屋の戸をたたいたこともあった。寝巻き姿で出てきた奥さんにいきなり抱きついてキスして泣く真似をしたこともある。すでに自分は完全に中毒患者であった。恥知らずの極みで、その薬品を得たいばかりに、春画のコピーをはじめ、そうして薬屋の奥さんとも文字通りの醜関係さえ結んだのである。
 死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱりアパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりであった。
 今夜、十本一気に注射し、そうして大川に飛び込もうと覚悟をきめたその日の午後、ヒラメと堀木があらわれた。そして自分は車に乗せられ、そのまま脳病院に収容されたのである。人間、失格。もはや自分は、完全に、人間で無くなった。
 それから三カ月経ち、故郷から長兄がヒラメを連れて自分を引き取りに来た。長兄から父が胃潰瘍で亡くなったことを知らされる。兄からは、自分の過去は問わない、生活の心配もしなくていいから、東京を離れて田舎で療養生活をしてくれ、と言われ、かすかにうなずいた。
 父が死んだことを知ってからは、自分はいよいよ腑抜けたようになり、自分の苦悩の壺も軽くなったようで、まるで張り合が抜け、苦悩する能力さえ失っていた。
 長兄は、自分の生まれ育った町から汽車で四,五時間ほどのところにある暖かい海辺の温泉地に、古いけれど広い茅屋を買い取って自分に与え、六十に近い赤毛の醜い女中を一人つけてくれた。
 それから三年と少し経ち、自分はその間にテツという老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦喧嘩みたいな事をはじめ、病気の方は一進一退の状態であった。
昨日は、テツに村の薬屋でカルチモンを買ってもらって寝る前に十錠飲んで寝たのだけれど、一向に眠くならず、そのうち猛烈な下痢が襲ってきて、不審に思って薬の箱をみると、それはヘノチモンという下剤だったのだ。「癈人」はどうやら喜劇名詞のようだ。眠ろうとして下剤を飲み、しかもその下剤の名前は、ヘノチモン。
 いまは、自分には幸も不幸もない。
 ただ、一さいは過ぎていきます。
 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た「人間」の世界において、たった一つ真理らしく思われたのは、それだけだった。
 ただ、一さいは過ぎていきます。
 自分はことし、二十七になり、白髪がめっきりふえたので、たいていの人から四十以上に見られる。

あとがき
 この手記を綴った狂人を、私は直接関与知らないが、この手記に出て来る京橋のスタントバアのマダムについては、ちょっと知っている。この手記には、昭和五、六、七年のころの東京の風景が描かれているが、私が京橋のスタントバアに二、三度立ち寄ったのは、昭和十年頃だったので、この手記を書いた男にはおめにかかる事ができなかったわけである。
 しかし、今年の二月にたまたま千葉県船橋市に疎開している友人を訪ねたおりに、その町で立ち寄った喫茶店で、その店の女主人となっていたかつての京橋のマダムに偶然にも再会したのである。
 その折にマダムに、あなた葉ちゃんは知っているかしら、と訊かれ、知らないと答えたが、三冊のノートブックと三葉の写真を手渡されたのであった。マダムは、何か、小説の材料になるかもしれませんわ、と言ったが、その三葉の写真に心引かれ、とりあえず預かる事にして、それを抱えて友人宅を訪ね、友人と酒を酌み交わして、一晩泊めてもらって、朝まで一睡もせずノートに読みふけった。
 その手記に書かれてあるのは昔のことであったが、現代の人が読んでも興味をもつに違いない、へたに人の手を加えるよりは、このままどこかの出版社に頼んで発表してもらったほうが、有意義な事のように思われた。
 翌日、喫茶店に行き、ノートと写真をしばらく貸してもらうよう頼み、手記を書いた男の消息を尋ねてみた。その手記と写真が送られてきたのは十年ほど前で、差出人の名前も住所も書かれていなかったという。
 十年も前なら、もう亡くなっているかもしれないね、これはあなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。しかし、あなたも相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、僕がこの人の友人だったら、やはり脳病院へ連れて行きたくなったかもしれない、と言うと、マダムは、あの人のお父さんが悪いのですよ、私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれてお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、神様みたいないい子でした。


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