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高村 薫『土の記』(上)
 主人公は72歳になる伊佐夫という男。かつてシャープで技術者として働き、今はリタイアして自分の棚田で米作りや畑仕事をしている。舞台は奈良県宇陀市にある近鉄線榛原(はいばら)駅からほど近い山間部集落である。伊佐夫は上司の勧める見合い結婚で上谷という家に婿養子に入った。東京の国立の出身であるが、勤めていたシャープの工場が天理市にあり、その隣の宇陀市に上谷昭代の家があったのが縁だ。
 上谷家は宇陀市大宇陀の山間部集落漆河原(うるしがわら)地区随一の山林地主でもあり、また棚田も所有していた。妻昭代は親から受け継いだ漆河原の棚田を守り兼業農家として家計を支えてきた。お陰で一人娘は進学塾に通い、県下トップクラスの進学校奈良高校から慶応に進み、アメリカにも留学している。傍目からみたら言うことのない家族に見えるが、ご多分に漏れずそれなりにいろいろ問題を抱えていた。
 昭代の家系はまさに女系家族で、5代にもわたって男は生まれず、代々婿養子をとってきた。そして娘たちはいずれも村では評判の美人であったという。昭代もそして倉木家に嫁いだ妹久代も周りの男たちからちやほやされてきた。
 しかも、この上谷家の女たちは祖母ヤヱの失踪事件にみられるようにどこか淫靡な影を漂わせている。そのヤヱの失踪も男に絡む噂があった。上谷の女たちはよくいえばおおらかで、悪く言えば節操がないのだ。むろん昭代にもそれは受け継がれていたのだが、伊佐夫はどちらかといえば穏やかで、世事にも疎い方なので初めは夫婦の間に大きな波風が立つことはなかった。家族のなかでは伊佐夫は娘の陽子からも「歩く電信柱」とも揶揄されてきたようにもともと細かいことに気が回らない性格だった。
 その昭代は今年の1月8日に亡くなった。それからもう半年も経つ。昭代は今から16年前に原付バイクに跨がり村外れの道路でダンプカーに正面衝突し植物人間となった。以来伊佐夫はずっと看病してきた。ダンプカーの運転手山崎邦彦もつい先頃亡くなったという。その山崎邦彦が勤めていた土木会社は昭代の妹久代の夫倉木吉男の従兄弟である栂野が経営している。狭い世界である。
 伊佐夫は昭代が病床についてから棚田をなんとか自分なりのやり方で切り盛りしてきた。上谷家の棚田は高台にある自宅から少し下ったところにある。かつて地質学にのめり込み学生時代に制作した土壌モノリスを今も大事に保管している伊佐夫の米作りは周りからは理科の実験などと揶揄されているが、ようやく米作りもそれなりに実を結びつつある。また伊佐夫は棚田とは別に裏山の中腹の半坂(はんざか)に続く畦道のすぐ下のところに秘かに茶の木を育てていた。そこに自生していたものから種を採取して苗を植え今では800を超える株が育つ茶畑となっていた。
 6月の半ば頃には棚田に50センチもの大きな鯰を見つけ、伊佐夫は田圃で1か月ほど遊ばせておいたが、ついこの間捕獲して半坂の川まで運んで放流してあげたばかりだ。 妹の久代は独り身となった伊佐夫を週に三日は訪ねてきて、食べものなどを持ってきてくれ、また村の噂も知らせてくれる。山崎邦彦の訃報もいち早く久代から聞いた。久代の夫倉木は建設会社を経営していて羽振りがよいが、娘初美の婿養子俊彦はどうも頼りなく夫の吉男は歯がゆい思いをしているようだ。
 それからほどなくして伊佐夫の兄の佐野由紀夫が亡くなる。東大出の元地方公務員の葬儀は退職後すでにだいぶ時が経過しているのでひっそりとしたものだった。青梅で行われたその葬儀の折りに久しぶりに娘の陽子と再会する。陽子は夫の仁史とは別居していて、ひとり娘の彩子は今テニスに夢中になっているらしい。
 葬儀を済ませると伊佐夫は慌ただしく大宇陀の漆河原に戻ってきた。まもなく盆を迎える。そんな折陽子から電話があり、しばらくニューヨークに行くので2週間ばかり娘の彩子を預かって欲しいという。孫の彩子は母親に似てマイペースな子で、駅に迎えに出た伊佐夫の車に乗ると、学園前に寄ってテニスクラブの入会手続きをしていくという。それでも、私お手伝いするからなんでも言って、でも料理は期待しないで、と屈託ない。
 彩子はテニスクラブに通い、また地元の花火大会を同世代の親戚の子供らと楽しんだあと東京に戻ったが、戻る前に母親の陽子がニューヨークで新しい仕事を見つけ自分も母親と一緒にニューヨークに移住すると打ち明けた。それから母親の陽子は8月6日に正式に離婚した、とも。伊佐夫には前からなんとなく予想できたことでもあった。彩子が東京へ戻った23日の翌日、陽子から明日ニューヨークに発つと電話があった。
 8月も末になると、稲も出穂を迎える。出穂を過ぎると稲は登熟期に入り、日照や気温に大きく左右されるので天候ばかりが気になる時節だ。そんな天気の心配をしているうちに稲穂は次第に重みを増してくる。
 伊佐夫が棚田の様子を見に行っていたその日、珍しく久代の娘の初美が車でやってきて、倉木が急性白血病で入院したことを知らせた。見舞いに行くと、倉木は娘婿や社員たちへの愚痴を述べ伊佐夫には健康そうで羨ましいと弱音を吐いた。
 久代が帰りがけに伊佐夫を見送りがてらお茶に誘い、こんなことなら姉と喧嘩してでも伊佐夫さんと一緒になっていればよかったと言った。その言葉は16年前に昭代が交通事故で入院した時にも久代の口から聞いた。奈良女子大の英文科を出た久代はかつて昭代と伊佐夫をめぐって鞘当てめいたやりとりがあった。そして久代は姉が半坂で遭っていた男のことは知っていたのか、と伊佐夫に聞いた。ほらあのホンダのディーラーの男。
 実は伊佐夫は栂野の高校時代の同級生で半坂で自動車修理工場を経営する松野からつい最近そのホンダのディーラーの話は聞いていた。軽四輪が故障したので松野のところに修理のためにレッカーで運ばれて行った時のことだ。伊佐夫はその時ふと17年前にも同じようなことがあったことを思い出す。その時も松野の修理工場に軽四輪をレッカーで運んできたのだが、その日自宅のすぐ下にある近畿自然歩道の入口の脇に昭代が立っ ていたこと、その道が修理工場のある半坂に続いていること、そして昭代がトミさんと会ってきたと言ったこと、さらに修理工場のそばに車のディーラーをしているという男の姿を見たことを突然思い出したのだ。
 そして、松野にあの時のディーラーの男はどうしているのかと聞くと、近藤モータースの近藤という男なら名古屋へ移ってもう亡くなったと聞いていると教えてくれた。さらにトミさんというのは上谷家の山仕事をしていた田崎のカミさんだろう、もう亡くなったらしいと言った。
 久代の言葉で、あの事故前の夏の記憶が呼び覚まされる。その時伊佐夫と昭代の夫婦関係は冷え切っていた。伊佐夫は昭代の無断外泊が二日目となったその日、自宅で独り昭代の帰りを待っていた。伊佐夫もいざという時のために着替えと現金を入れたボストンバッグを用意していた。そこへ昭代が帰ってくる。伊佐夫は、男か、と昭代に問うが、昭代は無表情な視線をちらりと向けただけでそれを無視する。それで勝負はついた。そ のあとはまたいつものお決まりの互いに目を合わすこともない日常へと戻るだけだ。
 それでもそんな関係をなんとか変えたいと思ったのか、伊佐夫は事故があった8月8日の直前の6日か7日に神戸のオリエンタルホテルを予約したことを昭代に伝えていた。
 事故は8月8日の夕刻に国道166号線に抜ける県道の大宇陀岩室と大宇陀西山の境界のカーブで起きた。原付バイクのタイヤ痕にブレーキ痕がなかったとはいえ、ダンプカーの運転手の山崎邦彦が飲酒運転でもあったことからどう見てもダンプカーには不利だった。伊佐夫は、あの事故はむしろ昭代が加害者ではなかったのか、あれは昭代の自殺行為だったのではないかと心の片隅で思い続けているが、そのことについては少なからず罪悪感を抱えながらも沈黙を続けている。
 それから秋を迎え、稲刈りの時期となる。10月6日がいよいよ刈り取りの日だ。同じ垣内(かいと)の桑野の親戚から例年にならって若い3人の手を借り、さらに榛原額井(ぬかい)に住む上谷の分家の上谷隆一と和枝夫妻、それと寝坊で遅れ赤いポルシェで乗りつけた倉木の娘婿の俊彦も加わって伊佐夫の棚田の刈り取りも無事すんだ。今年はかなりな疎植栽培であったが思った以上に収穫はあった。
 その稲刈りの場に例年にない珍客がいた。俊彦が車に乗せて連れてきた茶色のトイプードルと桑野の隣の木元家の娘で花模様のマタニティードレスを着たミホである。
 木元家の老夫婦は腰痛とリュウマチが悪化して今年も稲は植えていないが、稲の代わりに秋蕎麦が植わっていたので、いずれ垣内の手で刈り取りをすることになるだろうが、妊婦のミホは田んぼの畔の近くに座り込んでトイプードルを膝に乗せ撫でている。伊佐夫は妊婦の姿から昭代も自分もニューヨークで子供を産んだ陽子の妊婦姿をほとんど知らなかったことを思い出したりしていた。俊彦は仕事でトラブルが起きたと言ってトイ プードルを置き去りにしたまま先に帰り、結局伊佐夫がしばらく預かってあげることになる。
 倉木の病状は芳しくなかった。先日見舞いに訪ねた折りに伊佐夫は久代が買い物に出てる隙に倉木吉男から、結婚前の話だがと言って商工会の旅行で行ったプーケット島での話を聞いた。そこのナイトクラブである女を見染め、二度目に行った時には女の家に泊まった。そして子どもができ女から日本に連れて行って欲しいと頼まれ、万事休すで、やむなく向こうに出向いて結婚はできない、子どもは堕ろしてくれと頼んで50万円を渡して来たという。
 結局その女は子どもを産み自分で育てると言って写真を送ってきたそうだ。フォンという女だそうだ。こうして病院のベッドで点滴の管につながれて死にかけながら思うことは仕事でも家族でもなく昔の女の肌のことなんだ、と倉木は言う。伊佐夫には倉木はもしかしたらその女にうまく騙されていたのではないか、あるいは本人もそれに気づいていて人生から消し去りたい思い出だったのかもしれないが、それが倉木の頭のなかで 記憶が組み換えられ、日本人の観光客を手玉にとった現地の売春婦がやさしい微笑みを浮かべた生娘に変身したのではないかとも思う。
 こんな病人が今更懲りないことですなあ、頭の中がどうにかなってますんや、と言う倉木に対して、伊佐夫は自分も似たようなもので現実と夢の境すらなくなって気がつくと昭代に話しかけてますよ、でも自分には艶っぽい話はひとつもないと言うと、倉木が、何をいいはる、お宅には昭代さんという女神がいはったやないですか、と言われ伊佐夫は、よかったのは肉付きだけですよ、と答えたが、倉木はそれが大事なんだ、と言う。 なるほど夫婦円満の秘訣はそれですか、うちはどこで間違ったのでしょうか。倉木はさあどこでしょうと言い、二人の短い笑い声が病室に響いた。
 結局、伊佐夫の棚田三枚から収穫された籾米は810キロとなり、さらに精米所で精米されて30キロ米袋で19袋の玄米となった。伊佐夫は、ニューヨークの陽子や倉木、上谷隆一、そして亡くなった兄嫁の所などに新米を送った。預かったトイプードルのモモは毛が伸び放題で仕方なくトリミングサロンに出向き、短くカットしてもらった。
 一方妊婦のミホが病院にも姿を見せていないと周りも心配し、漆河原地区長の堀井が木元の家に公的扶助の話をしにいったという。ミホのお腹には双子の胎児が宿っていた。伊佐夫が聞いたところではミホは堕ろし損ねたらしい。
 11月3日に木元家の秋蕎麦の刈り入れを伊佐夫と桑野、鈴木の垣内三軒で済ませた。その日の夜ミホが産気づいた。木元の爺さんと桑野が飛び出してきて救急車を呼んだから木元の前で待っていてくれという。区長の堀井からも電話があり、助産婦をそちらに行くよう手配したが、とりあえず救急車が来たらそれに乗せてくれと言った。救急車も助産婦も到着する前にミホは双子の一人目を産み落とし、二人目の頭が産道から出始めたところに助産婦が来て胎児を取り上げ、前後して到着した救急車にミホと新生児二人は乗せられて病院へ運ばれていった。
 それから半月後倉木吉男が感染症により亡くなった。久代からの連絡で伊佐夫は軽四輪を駆って倉木家に向かったが、県道へ出るところで入れ違いに農道へ入ってきたタクシーとすれ違った。タクシーにはミホと乳児二人が乗っていたが、伊佐夫もミホも互いに相手には気づかなかったようだ。

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