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高村 薫『土の記』(下)
 昭代が年初に亡くなり、気がつくとはや師走を迎えていた。伊佐夫は12月16日に墓掃除に行った折、ふと昭代と自分の夫婦石を作ろうと思いついた。本来ならそれは家の跡取りに任されることだったが、自分にはもはや跡取りもいないのだから、自分がそれをしても誰憚る必要はないはずだ。
 伊佐夫は思いつくとすぐに行動に移った。軽四輪を駆って、生駒市の石屋まで出掛け、気に入った石があったので買い入れ、軽四輪に積んでもらった。石はおよそ150キロはあろうという川石だ。そして家に帰る途中でホームセンターに寄ってその石に昭代と伊佐夫の名前を刻むために必要な機材を買いこむ。電動研磨機だけは半坂の自動車修理工場の松野からを借り、翌日には字の刻彫を始めていた。
 無事刻彫が済んで墓所に石を運び入れたのが23日だった。しかし石を収めその出来栄えを眺めようとして後ずさりした瞬間何かに躓き転倒、頭を激しく打ちしばらく意識朦朧となる。その瞬間伊佐夫は夢魔に襲われた。どこかの穴の中に迷い込みそこで行方不明となった祖母のヤヱの遺骨を発見し、さらには昭代の姿も目にしたのだ。もちろんそれは幻ではあったが、ヤヱや昭代の愛人がいたという半坂へと抜ける山道の途中に上谷の墓所があり、そのことが伊佐夫の意識になんらかの作用を及ぼしたのかもしれなかった。しばらく経って連れてきたトイプードルのモモの声で我に返ったが、額には大福もちほどの瘤ができていた。
 結局、伊佐夫は病院で精密検査を受け、打ち所が悪ければ植物人間だったといわれ、さすがに応え、しばらくは静かに家で過ごし年末を迎えた。大晦日には同じくその年に夫を亡くした義妹の久代が伊佐夫の家に来て二人で鍋を囲みながら年越しを過ごした。久代は亭主や昭代の気配を蹴散らすように伊佐夫にはどうでもよい話を次々と繰り出し、伊佐夫の意識は遠くどこかの薄闇に溶け出していくのだった。
 年が明けると7日は昭代の一周忌だった。娘の陽子からはアメリカから花代が送られてきていた。伊佐夫はふとしたことで一年前の昭代の亡くなった日のこと、また葬儀の時の能面のような陽子の表情などを思い出す。あの空洞のような表情はそのまま昭代と陽子の間の空洞でもあったのかもしれなかった。陽子は昭代が植物人間になってからは一度も顔を見せたことがなかった。
 大宇陀西山の菩提寺で法事は無事済ませたが、その同じ頃隣の木元の家にはミホの元亭主が秘かに身を隠すように転がり込んでいた。大阪で営んでいた塗装店が倒産し、その借金を踏み倒すためにしばらく雲隠れを決め込んだというわけだ。しかし、その目論見もあっけなく崩れてしまう。乗り捨てられた青い軽四輪が榛原荷坂で発見され、しばらく経って住民が警察に通報、それを運転していたのはどこか見覚えのある女だったという目撃情報から警察は漆河原の木元ミホを割り出し、また車の所有者の元亭主も特定された。ミホを巻き込んだ元亭主の偽装失踪は頓挫し、結局元亭主は大阪に破産手続きと会社整理のために帰ることになり、ミホも双子を連れて大阪に行くことになった。そして残された認知症の老夫婦は特養施設に入り古屋は空き家になった。
 やがて大宇陀に春がやって来る。生き物たちがにわかに動き出し、早春の暮らしは突如慌ただしくなり、伊佐夫の躁にも拍車がかかる。畑の畝立てやジャガイモの植えつけなどの合間を縫って、それでも伊佐夫は3月11日には久代の誘いに乗り、大阪にフラダンス見学と大阪城公園の梅を観にいくことにしたのだがそれも躁のなせるわざか。
 フラダンスのショーは午後1時から始まり、ゆらりゆらりのフラの舞に見とれ、ウクレレの響きに合わせる甘い歌声を耳にするうちいつしか伊佐夫は見えない丸木舟に身を委ねていた。しかしその丸木舟がふいにぐらりと揺れて夢見から醒めた。しばしショーも中断したが、まもなく再開し午後3時には終了した。
 東北地方で震度7の大地震が起こったと知ったのはホールから出ていく人々のざわめきと携帯電話のやり取りからだった。伊佐夫は16年前の阪神淡路大震災の時にはおよそ半年前に交通事故で植物状態になった昭代を病院に見舞い、半生物のような昭代を前にしながら黒煙に包まれた神戸市内の中継映像を見、こんなにも現実感のないものが二つここにあると考えていただけだった。もとより遠い東北の地で起きた地震についてどんな想像も働くはずはなかった。
 しかし家に帰り、テレビを付け大津波が港や町や空港などを呑み込んでいく映像を見て思わず釘付けになった。ほどなくニューヨークにいる陽子からは福島の原発で放射能が漏れているらしい、ほんとに大丈夫か、と聞いてくる。陽子も孫の彩子も伊佐夫にニューヨークに来て一緒に暮らそうという。心配はいらん、と言って伊佐夫は電話を切った。
 地震のニュースを聞くうちにかつて同僚だった平井のことを思い出した。女房が新興宗教に凝って亭主の勤め先や同僚の家にまで勧誘に押しかけるようになったため工場を辞め、女房と子供を連れて気仙沼に帰ったのだった。震災の衝撃的な映像は伊佐夫だけでなくそれを見た人々の心になにかしらの異変を引き起こした。しかし人々は生の営みを止めるわけにはいかない。
 翌日目覚めると伊佐夫は心身に異様な力が漲っているのを感じて茶畑に出ていった。想像を超えた天変地異が夥しい死者を生み出し、一夜のうちに生き残った者の世界を一気に組み換え、死者たちは山のような課題を突きつけてくる。それを背に生き残った者は為すすべもなく立ち尽くすか、何を為すべきかもわからずとりあえず忙しく動きまわるかだが、伊佐夫は後者だった。
 茶畑から家に戻ると住所録から平井の電話番号を探し出伊佐夫は、メモ用紙に書き付けたが、しかし平井の安否を知ったところで自分に一体なにが出来るのかを自問し、結局そのメモ用紙を握り潰していた。こんな時に限って意味不明の行動に出る。それでも伊佐夫は座り込んだりはしない。生きるという単純な生命の倫理に従って活動し続けるだけで、ものを思う苦痛から逃れるためというよりは、むしろ死者たちによって組み換えられた世界を自分の足で踏みしめ、どこがどう変容したのかを見て取ろうとする本能のなせるわざといってよかった。伊佐夫は午前中は畑仕事に精を出し、午後からは棚田の田越しにも取りかかった。トラクターで棚田を往き来しながら土を掘り起こしていく。
 日が傾き掛けた頃、久代が軽四輪で現れ、福島で原発が爆発したんですよ、陽子ちゃんが電話掛けてきてお父さんに外に出ないよう言うてって泣いてるのよ、早く電話してあげて、と叫ぶ。家に戻ってテレビを付け、それから陽子に電話する。爆発は原子炉ではなく、それを納めた建屋の方だとその時テレビが伝えていた。陽子の叫び声、アメリカのニュースでは福島ではメルトダウンが始まっているって、外国人が国外脱出を始めているのよ、お父さんも早く逃げて、久代叔母さんと沖縄へでも行って、と。
 伊佐夫は、声を嗄らす陽子に、強い口調で、陽子、もう言うな、こっちのことはこっちで考えるから、と言って電話を切った。そうだ、結局、人間のしたことは人間の手でなんとかするほかなく、何も出来なくなったときは耐えるほかないのだ、と伊佐夫は思う。
 福島の原発事故の影響は大宇陀にも及んだ。桑野の家にも一時福島から遠い親戚筋にあたる母子が避難してきたし、桑野の二人の息子達も東北でボランティア活動を始めていた。伊佐夫は気仙沼に入るという次男の真也に元同僚の平井の消息を尋ねてくれと頼んだところだ。そして震災後は農道からの景色がどこか違って見えるような気もした。
 伊佐夫は今年は種蒔きから全て自分の手で稲の苗を育ててみることにしていた。しかし播種の日をついうっかり忘れていて、今朝起きがけに桑野に今日は種蒔きしますんやろ、後で真斗を手伝いにいかせますわ、と言われてそれに気づいたのだが、苗代作りから始めて、種籾や育苗箱、それに手動の播種機まで用意してあれだけ準備万端整えて来たのに、当の播種日を忘れるなんてあってはならないと人知れずショックを受ける。しかし、播種作業は思ったより手間取り、手伝いに来てくれた真斗の助けなくしてはその日のうちに用意した20箱の育苗箱に播種をして苗代に運び終えるところまではいかなかっただろう。
 そして真斗は気仙沼の弟からのメールで、平井の消息も教えてくれた。平井は去年亡くなっていて、息子さんが水産会社を継いでいて、奥さんと息子夫婦は今は避難所にいるという。避難先の住所も教えてくれたのでお見舞いを送ると奥さんの平井俶子から長文の手紙が届いた。大津波は背教者に下された神の審判だと信仰者たちは言いますが、いやむしろ神が罰したのはかつての私の仲間たちである信仰者たちであり、もっといえば罪のない人々を巻き添えにした神こそ死んだのです、と自嘲的な棄教の告白が書き連ねられ、夫が奈良に行こうと私を呼んでいますので、その折りには大宇陀にも伺うつもりだと書いていた。
 5月に入って陽子に男ができたと知らせてきたのは伊佐夫が送った学資保険300万円のお礼の電話をかけてきた孫の彩子だった。そして5月26日には伊佐夫は早朝から茶畑の新芽を摘み、中蒸して手揉みの新茶約1キロを一人で丸一昼夜かけて作った。新茶を取りに来た久代から陽子が再婚するつもりらしい、相手は32歳の獣医だと聞く。彩子はビーグル犬に似たアイリッシュだとも言っていた。
 6月に入るといよいよ田植えだ。今年は5日と決まった。その前々日に分家の上谷隆一から電話で一家で手伝いに来ると知らせてきたが、その折り伊佐夫が学生時代に作成し大切に保管していた土壌モノリスを寄贈して欲しいという県立高校があると言われ、すぐさま応諾した。こんな古い標本が役に立つものか、と秘かな興奮をおぼえた。そうかと思えば悪い知らせもある。平井俶子が夫と一緒に奈良に行くと避難所を出たまま行方が分からなくなった、と警察から問い合わせがあった。息子に大宇陀の上谷の家にも立ち寄ると言っていたらしい。
 やがて田植えも終わり本格的な梅雨の季節となった。6月9日は雨が上がっていたので昼過ぎに伊佐夫は棚田の用水路を点検して歩いた。その日伊佐夫は屑神社の前に留めた自転車と見慣れない携帯電話の少女を目にし、半坂へ出る道を尋ねられたのだが、それから4日後にテレビのニュースでその少女が行方不明となっていること、福島から母親と兄弟とともに自主避難してきていたことを知る。
 伊佐夫にはその少女のことは記憶がどうも曖昧だった。警察にも少女のことを尋ねられたが、まったく覚えていなかった。そう言えばこの頃いろいろなことで記憶が不確かだ。アナログ放送が終わるのでテレビを買い換えなければならないことも久代に言われてようやく思い出す。なのに昔のことは鮮明だ。久代に『テンペスト』という映画を見に行かないかと言われた時も、高校生の陽子が昭代に向かって、農家でもシェークスピアぐらい読みなさいよ!と怒声を上げ、そこへ昭代の平手が飛び、割って入った伊佐夫に陽子の投げたペーパーバックが飛んできたのだが、それが横文字の『テンペスト』だったことははっきり覚えているのだ。
 行方不明の少女は、その後近くの道路工事に来ていた土木作業員に近畿自然歩道で襲われ、抵抗したため殺されて半坂の小峠から西に入った登山道に遺棄されたことが、犯人の自首により判明した。そのニュースを土間で聞いていた伊佐夫は頭の中に異変を感じ、下半身がふわふわして上がり框に尻餅をついてしまった。たまたま来ていた久代に救急車を呼んでくれと頼んだ。脳外科で検査の結果、脳の右側に直径9ミリの脳梗塞が見付かり、さらに動脈硬化による頚動脈の狭窄も確認された。確定診断の結果伊佐夫は認知症ではないが、脳に軽度の虚血性白質病変があり、それが物忘れの原因であるということだった。結局5日間入院し、休養と投薬のお陰で伊佐夫は元気を回復したようだった。退院したその日に鍬を手にして畔を歩く伊佐夫の姿があった。
 それからほどなくして伊佐夫は棚田に鯰の姿を見つけた。体長60センチほどもある大きな鯰、そうだそれは伊佐夫が去年自分の棚田で見つけて花子という名前をつけてしばらく面倒をみて、その後半坂の川に放流したあの鯰に違いなかった。長雨で流されまた棚田に舞い戻ったのだろう。伊佐夫は早速ペットショップで120センチのアクリル水槽を購入し花子の新たなねぐらとした。
 盆には新婚の陽子がアイリッシュの夫と娘の彩子を連れて大宇陀にやって来た。ウインブルドンでのテニス観戦のあとネス湖などスコットランドの景勝地を観光したあと日本に立ち寄り東京でディズニーシーに寄って、そのあと奈良に入るという。大宇陀には7月14日に着くらしい。アメリカから遠来の客が来ると聞いて漆河原では区長の堀井をはじめ垣内の連中もぜひ歓迎会を開こうと浮き足立つ。陽子に電話でそれを伝えるとそれなら本郷温泉のお座敷を借りましょう、費用は私が持つからお父さん予約しておいてと察しがいい。
 陽子の夫ケヴィンはどうやら陽気なお調子ものらしい。彩子ともウマが合うそうだ。若い頃は獣医よりも舞台俳優を目指していたという。
 案の定、本郷温泉の宴会場では飲めや歌えの大盛りあがりとなった。やがてかっぽれの掛け声に乗って桑野が踊り出し、興奮したケヴィンは庭に飛び出して溜池の傍らで彩子と一緒になって『マクベス』の有名な台詞の一つを絶叫したかと思うと、突然池に飛び込んだのだ。彩子の悲鳴が上がった。翌朝ケヴィンは風邪をひいたようだが、その日の夕方には関空へ向けて発っていった。
 その年の夏は晴れ間があまり続かず、雨続きだった。台風もやって来て崖くずれが相次いだ。久代は退院後はずっと上谷の家で過ごしており、伊佐夫は久代と一緒になるのもいいかなと思ったりもするが、一つ屋根の下で暮らしていても、若くない男女の間では二人の思いはすべて未然のままで何もかたちにならなかった。
 8月に入ると稲も幼穂形成期に入り伊佐夫は穂肥撒きなどの作業に追われる。そんな時期にミホの一家が里帰りした。まもなくお迎えが来ると噂される母親の見舞いを兼ねてのものだったが、どうやらミホの亭主は再び塗装関係の会社を興して、すっかり羽振りが良くなっているという。双子用のベビーカーを乗せアロハシャツと短パンという格好の亭主を連れて大型のRV車で集落の農道を上がってきて、木元の実家のあったところに車を止めた。亭主をそこに残してミホは垣内の家々に挨拶に回る。
 上谷の家に来るなり、おばさん上谷さんと一緒になりはったの?と言い、久代がアホなこというもんじゃないですよ、ここは私の生まれた家じゃないの、とあっさりいなした。ミホは上等な水羊羹を手土産に持ってきた。久代と双子をあやしながら世間話を交わすうち、ミホは昔うちが貧乏やったから、この家が羨ましかった、いつも美味しいお菓子があって、陽子さんが食べはらへんから言うて昭代さんによう食べさせてもろた、と言った。
 伊佐夫はその話を聞きながら苦い思い出が甦る。陽子が甘い菓子を食べないことも知らず勤め帰りにあちこちの菓子を買って帰っていたが、あるときその事実を知りショックを受け、それでもしばらく意地になって菓子を買い続けたその頃のどす黒い心地が今もどこかに残っているのだ。久代の方も、そうした菓子がある時期から昭代によって半坂の田崎の家に運ばれ後家のトミさんの胃袋に収まっていたことを思い出し、夫のいない昼間に集落の目を盗んで裏手の杉山を抜けていく姉の姿は果たして自分の眼で見たものか、それとも噂が織り上げた想像なのかわからないままぼんやりと空を仰ぐ。
 ミホが来た翌日の4日夜は榛原の花火大会があり、その次の日は久代の夫倉木吉男の新盆が大宇陀栗野の大蔵寺で行われた。伊佐夫も参列したが、住職の長い読経があり、途中からはどこからともなく私語が混じりはじめ、上谷さんいっそ久代さんと一緒にならはったらどうですかなどと囁きかけてくる者もある。読経のあと住職の法話があり、墓には真新しい卒塔婆が建てられた。
 翌6日は漆河原集落の年に一度の道作りがあった。男性13名、裏方の女性10名で集落一帯の雑草を刈り込み、道をつける作業だ。道作りの作業は正午前には終わり、午後からは区長の堀井の屋敷で宴会となった。そこではやはり各地で頻発するがけ崩れから地元の共有林の斜面になんらかの対策が必要ではないかということが話題となった。話を聞いていた伊佐夫も同意するが、突然うわっ昭代さんかと思うた!と言う声の先にスカートを翻して座敷に料理を運んで来た久代の姿を見て伊佐夫もどきっとする。そして伊佐夫の大脳皮質が暴走する。みんな知っていたんだろう、うちの昭代が半坂に通っていたのを!気の毒な亭主だと俺を憐れんでいたんだろう!それだけではなくて昭代の事故は自殺だったと知っていたんだろう!知っていて黙っていたんだろう!気がつくと、周りには酒宴の笑い声が響いていた。
 8月前半は晴れて暑い日が続き、稲も順調に育ち8月24日に出穂を迎えた。ちょうどその日の翌日マリアナ諸島の西で台風が発生し、9月3日に高知県東部に上陸し、中国地方を縦断して日本海に抜けたが、紀伊半島をはじめ関西地方に記録的な降雨量をもたらし、奈良県内各地でも大規模な深層崩壊と土石流が発生し、死者・行方不明者は26名を数えた。そのなかには大宇陀漆河原の2名も含まれる。

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