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青山透子『日航123便 疑惑のはじまり』
      (河出書房新社 2018.5.30刊)
本編の概要|「あとがき」と「解説」

 本編の概要
 本書は、著者も「あとがき」で書いているように。二〇一〇年五月にマガジンランド社から刊行された『天空の星たちへ 日航123便あの日の記憶』を親本とし、その復刊版として河出書房新社から刊行されている。
 本書では、かつてともに乗務したことがある日航機123便の客室乗務員の仲間を含めて亡くなられた乗員・乗客への鎮魂の想いが強く表に出ている。その想いから事故の真相追求の不徹底への怒りや不満が湧き出てきて、やがてそれが疑惑へとつながっていった過程を率直に語っているという印象をもった。
 とはいえ著者が最初にマガジンランド社から親本を出したのは二〇一〇年五月であり、その時点で日航123便墜落からすでに四半世紀が経過していた。「事故」が起きた一九八五年八月十二日、著者は品川区港南の日航の客室乗務員女子寮(通称 スカイハウス)にいて、翌日からの国際線乗務に備えていた。「事故」を食堂のテレビに流れる午後七時過ぎの臨時ニュースで知った。それからしばらくして各部屋にある黒電話のベルが一斉に鳴り出したのだ。家族からの問い合わせの電話だった。本人不在の部屋の呼び出し音がいつまでも鳴り止まなかったのを覚えている。
  


日航機123便の墜落現場(WEBサイトより)


 著者はその当時は「事故」が「事件」であるとは微塵も思わなかったし、その後も客室乗務員として国際線乗務を続けたのちに、日航を円満退社して官公庁、各種企業の接遇教育に携わってきた。そのかたわら東京大学の大学院に入学して博士課程を修め、その後は專門学校や大学で主に航空業界への就職を目指す学生たちの指導にあたってきた。
 もちろん事故の衝撃は、同じ航空業務に携わる者としてとても大きなものがあった。著者自身も、事故の翌日から十一日間のヨーロッパフライトを終え、戻ってまもなくの休日に、不在だった八月十三日から八月二十四日までの事故状況を知りたいと図書館へ行って新聞記事を調べたり、また友人が録っておいてくれたニュースビデオも見て、これは大変な惨事だと改めて思った。
 明日、明後日も飛行機に乗り続ける乗務員として、当然のことながら一番気になるのは事故の原因についてである。それが分からなければ、自分の職場が安心出来ないばかりか、同じような事態になった時に備えて、また新たなエマージェンシー訓練を行って再発防止に努めることも出来ないのだ。
 調べてみると、いくつかの疑問点もわいた。しかし、そこから一気に本書に辿りついたわけではない。本書の「あとがき」にも書かれているように、「二○○五年から構想を練り、書き始めたのは二○○九年からである」ということで、自分なりの心の整理がついたのは事故から二〇年後のことであったということがわかる。
 なお、本書は、序章に続いて以下のような三部構成となっている。すなわち第1部 雲海を翔けぬける、第2部 エマージェンシー 墜落か不時着か、第3部 乱気流の航空業界 未来はどこへ、である。
 ここでは、以下まず序章に簡単に触れたあと、亡くなられたスチュワーデスの先輩たちとの思い出や自分のスチュワーデス時代の思い出に触れた第1部は割愛させていただき、第2部、第3部を中心にその概略をまとめていきたい。
 
 序章 
 著者は、一九八二年十二月二十三日に日本航空のOJT(スチュワーデスの一歩手前の訓練生)として事故機と同じ羽田発大阪行きの日航123便で初フライトを迎えていた。
 初フライトの乗務日誌(フライトログブック)にはこう書かれてある。
 
 日航123便、羽田発大阪行き 定刻十八時発、十九時着
 JA8118号機−B747SR 羽田空港20番スポット
 乗客三百六十五名ノーインファント(幼児なし)
 運航乗務員五名(訓練二名含む)
 客室乗務員十五名(OJT三名含む―その一人が著者)
 乗員、乗客合わせて三百八十五名 定刻より十三分後に離陸
 キーンと張りつめた冷たい空気の中、慎めく星空に向かい、ジャンボジェット機がゆっくりと羽ばたいて、のびやかに飛び立った。
 
 それが社会人としての新しい人生の始まりであった。それから二年八カ月後の一九八五年八月十二日にあの日航123便の墜落事故が起きたのである。まさに単独機世界最大と言われる惨事だった。事故機のフライトログは以下の通りである。
 
 日航123便、羽田発大阪行き 定刻十八時発、十九時着
 JA8119号機−B747SR 羽田空港柑番スポット
 乗客五百九名、インファント(幼児)十二名含む
 運航乗務員三名
 客室乗務員十二名
 乗員、乗客合わせて五百二十四名 定刻より十二分後に滑走路15Lから離陸
 
 その事放で墜落した便名は奇しくも著者の初フライトと同じ123便。機材はJA8119号機。一番違いの飛行機。離陸の時刻も定刻より十二分遅れ。これも一分違いである。そしてなによりも著者の誕生日は八月十三日。一日違いであった。
 その時最高の思い出となるはずであった123便という便名が永久に欠番になるとは誰が予想したであろう。そして、さらに大きな衝撃が著者を襲った。
 なんと、その事故機に乗っていた客室乗務員たちは、仕事を手取り足取り教えてくれた同じグループの先輩たちだったのだ。
 初めて制服を着用してお客様の前に立った初フライトから一人前になるまで、細やかに、厳しく、時には親身になって教えてくれたあの人たちが皆、その飛行機に乗務していたのである。
 当時の日本航空の全社員は約二万一千人、そのうち客室乗務員は四千二百人ほどで、国際線と国内線に分かれ、それぞれ四十名前後をひとつのグループとして、そのグループごとに乗務していた。
 著者が配属されたTグループでは若手が入るのが二、三年ぶりとかで、随分歓迎されたのを著者は今でも覚えている。
 彼女たちと共に写る写真が、今なおその奇跡的な出会いを物語る。
 事故機となった8119号機という機体番号が書かれた飛行機をバックに、セピア色の中でほほ笑む制服姿の新人の著者はぎこちなく、借りてきた服のようで、まったく似合っていない。「その制服の着こなしは、いまひとつね」と言った先輩の言葉がよみがえる。
 驚くほどストレートな先輩の一言だったが、確かに今写真を見てもその通りである。
 しかし、Tグループで彼女たちと一緒に仕事したのはおよそ一年で、その後著者は国際線へと移っていったので、仕事をともにすることもなくなっていった。


 第2部 エマージェンシー 墜落か不時着か

 一九八五年八月十二日、じっとりした蒸し暑い一日だった。
 明日は自分の誕生日。しかし、明日からは仕事なのだ。アンカレッジ経由北回りでヨーロッパへ飛び、パリとロンドン間、ハンブルグとフランクフルト間などヨーロッパ内を飛び周り、そして再びアンカレッジ経由で十一日後に東京へ戻るという過酷なスケジュールだ。
 なんとなく気が重い状態であったが、明日からの持ち物の準備をし、部屋の掃除・洗濯を終え、寮の食堂へ向かったのがNHKの夜のニュースが始まる直前であった。
 そして飛び込んできたのが、日航機123便がレーダーから消えたというニュースであった。
 123便、それは自分にとって初フライトナンバーという想いが一瞬脳裏をかすめた。しかし、いつまでたっても墜落現場が二転三転し、正確な情報が伝わってこない。いくら夜とはいえ、場所が特定できないとは、何ということか。人命救出は時間との戦いだ。
 誰もが画面に向かって苛立ちを隠せなかった。
 結局、三時間半分のジェット燃料を搭載していたが、それが切れた頃の二十一時三十五分に羽田空港の日航オペレーションセンターから会社の記者会見が始まった。
 日航の広報部長から「日航123便の墜落を確認し、炎上中」と発表があった。
 機長の名前と機長の飛行時間。機体番号8119号機の整備状況が説明されている。
 8119号機。ここにいる誰もが何度も乗ったことのある飛行機だ。
 カタカナで書かれたおびただしい数の乗員・乗客の名前と年齢を書いた白い模造紙が壁表に張られている。
 しかし、まだ事故原因も分からず、墜落場所も特定出来ずにいる。航空会社の出来ることとは、搭乗者の名前を出すことしかない。
 名前の読み上げが延々と続く。食堂に集まった同僚の中には同期の名前を聞いて悲鳴を上げる者、そして同じ寮の仲間の名前も呼ばれ、泣き叫ぶ声も聞こえる。
 二十三時、総理官邸に対策本部が設置され、山下運輸大臣が対策本部長となる。
 誕生日に日付が変わり、八月十三日となった。
 それを機に部屋に戻った。明日からの乗務に備えて寝なくてはならないと気持ちは焦るが、目はさえる一方である。
 そっと北側に面した部屋の窓を開ける。湿気を含んだぬるい空気が入り込む。明日も暑いに違いない。北側の公園が闇の中にぼっと浮かび上がる。
 青白いこの空を墜落現場で必死に助けを求めながら見上げている人たちがいる。
 自分たちの仲間も乗客の救出に全力を尽くしているに違いない。
 今、どこかで助けを求めながら懸命に頑張る乗客と仲間たち。
 絶対に生き延びてほしい、そう心から願わずにはいられなかった。
 
 実は、事故対策本部長となった山下徳夫運輸相は、偶然にもその8119号機に乗って福岡から東京に戻って来ていた。そして8119号機はその後東京から大阪伊丹空港へ向けて飛び立ち事故に遭遇したのだ。
 事故を知った運輸相のコメントが、新聞各紙に次のように書いてあった。
 「自分が乗ってきた飛行機がその帰りにすぐ事故に遭うなんて、何かの因縁とも感じている。機内ではアシスタントパーサーの村木千代さんにお世話になった。降りる時、お孫さんにとプラモデルのおみやげまでもらった。とても感じのよい人だったと思ったのだが、本当に何があったんだろうね。あんなやさしい気立てのよいスチュワーデスがこんな事故にあうなんて」と思わず涙ぐんだ、とある。村木さんは三〇歳のベテランのアシスタントパーサーで、温泉好きの栗原小巻似の素敵な女性だった。
 その後政府は日航事故対策本部を総理府に設置し、奇しくも山下運輸相が本部長となった。
 十二日深夜午後十一時五十分からの運輸省での記者会見で山下運輸相は、「まったく予想できない事故でびっくりしている。現段階ではまず、乗客、乗員の救出に全力をあげる」と述べたとある。
 不思議なことに、ここで事故原因を究明することに全力を挙げるとは一言も書いていない。
 中曽根首相のコメントも、「大変な惨事が起こり、遭難した方やご家族の方に、心から追悼申し上げる。原因はわからないが、政府として再びこのような惨事が起こらないよう、万全の対策を講じる」と述べているだけだ。
 普通、事故原因を徹底的に究明するという言葉が必ず付き物のように入るものだが、閣議直後のコメントにはどの新聞にもなかった。
 それよりも、再びこのような惨事が……と、再発防止に関する発言が先にきている。
 まだ、何も分かっていないのに、不可思議なコメントだと著者は思った。
 翌日の十三日に山下運輸相は現場視察のためヘリコプターで上野村を訪れ、その日の午後、上野村役場で記者会見をして、「指導・監督官庁の責任者として誠に残念で申し訳ない。ひとりでも多くの人が存命していることを望む」と語り、さらに事故の原因についての問いには、「機長もベテランで、人災ではなかったと信じている。あくまでも天災と信じたい」と述べている。
 またしても、まだ事故原因も何も詳細が分かっていないにもかかわらず、人災ではないと信じたいという言葉を発しているのに驚いた。これも事故が起きたばかりの段階で運輸大臣が言う言葉ではない。こんな事故が起きて遺憾だ、徹底的に調べるというのがごく普通な対応なのではないだろうか。
 しかし、十四日の新聞各紙によると、十二日の深夜運輸省五階会議室で政府の対策本部設置を発表した山下運輸相は、会見終了後、ソファで大きく溜息をつき、「技術的なことはわからないが、これは人災だ」とまったく違うことを述べている。
 記事では日航のたるみがミスを生んだとして、ちょうど一カ月前の中曽根首相訪欧での日航特別便における整備ミスを取り上げている。ならばより一層事故原因を追究するという一言があっても良いのではないか。山下運輸相にも、どの新聞にもその一言が見当たらない。
 また、高浜雅己機長(四十九歳)は、海上自衛隊出身で乗務時間一万二千四百四時間に及ぶベテラン機長で、海上自衛隊から東亜国内航空を経て昭和四十一年十二月に日本航空に入社、と各新聞に書いてある。
 高浜機長と一緒に飛んだ記憶はなかったが、操縦教官室の専任乗員教官であった。海上自衛隊出身ということはこの報道で初めて知った。
 ちょうど今、相模湾で機体の残骸を捜索している人たちと同じ職場の仲間だったということになる。それも奇偶なことだと著者は思った。
 この事故は単独航空機が起こした史上最悪の事故として世界中でトップニュースとして報道され、各国の首脳からの次々と見舞いの電報が届いたとある。
 特にレーガン大統領はいかなる協力も惜しまないとして、
 「われわれは、航空機事故を防止するために全力を尽くさなければならない。アメリカに出来ることがあれば知らせてほしい」と言っている。
 事故原因調査のため米ボーイング社(本社・シアトル)は、十二日、調査員五名を十三日に東京へ早急に派遣すると発表した。また、一機の事故で五百人以上の死者が出たのは前例がないとして、今回の墜落事故に強い関心を寄せており、米政府の全国運輸安全委員会(NTSB)も、事故調査に協力するために米国調査官二名を同日、派遣するとのことだ。
 ボーイング社と米政府の動きがかなり早い。これまでは、事故が起きてもなかなか動かなかったボーイング社だが、今回は随分違う印象がある。それほど事が重大だということなのだろうか。
 さらにたくさんの関連記事の中で、事故原因に直接関係する箇所を中心に読み進めると、意外なことが見えてきた。以下、日を追ってみていきたい。
 
 R5ドアが飛んだ?−八月十三日の事故原因
 事故原因についての報道を見ると、八月十三日付の朝日新聞に掲載された航空評論家たちによる座談会記事が目にとまった。
 東京航空交通管制部とのやりとりが出て「R5ドアブロークン、緊急降下中」と連絡したことを重んじて、「ドアの破損や爆破などによって、ドアが飛び、気圧が下がり、吹き飛んだドアが水平尾翼や垂直板などを破壊、操縦不能に陥ったのではないか」という説を話している。
 R5ドアとは最後尾の5番目右側のドアである。
 反対側の左5番目のドアは、クリーニング用トラックがついて、清掃作業のためによく開け閉めをするが右側はめったなことでは開けたことがないドアのひとつである。
 しかし、この説は墜落現場でR5ドアが閉まったままで発見されたことで消えた。
 
 垂直尾翼が飛んだ?−八月十四日の事故原因
 八月十四日の朝日新聞の朝刊では、相模湾の三浦半島沖の海上で垂直尾翼が発見されたと報じている。回収したのは試運転中の防衛庁護衛艦『まつゆき』で、墜落した日本航空ボーイング747機の垂直尾翼部分の後部についている上部方向舵の一部とみられたが、毎日新聞では『まつゆき』から引き渡された物体を巡視艇『あきづき』が同日午後十一時四十二分に横浜港に陸揚げした時の垂直尾翼の写真を大きく載せ、それを見ると、その物体は朝日新聞の記事でいう後ろにある方向舵ではなく、垂直尾翼の前方であることが写真からわかる。
 毎日新聞の記事では「墜落した日航機は大島西三十七キロを飛行中に、緊急事態発生、その後コントロールできないと通信。駿河湾上空で右に急旋回、そのまま群馬山中へ向かい墜落している。そのため回収された物体が機体の一部とすれば、何らかの衝撃を受けて尾翼の前方部分がちぎれて海に落ちて、操縦不能となった見方が裏付けられる」とある。
 伊豆半島東部沿岸の静岡県賀茂郡東伊豆町に住んでいるS氏が、「伊豆大島方面の上空で“ドン”という短い爆音を聞いた時、時計を見ると六時二十五分だった」と証言している記事が八月十五日付の毎日新聞朝刊にあった。
 第三管区海上保安本部によると、日航機尾翼の落下地点は伊豆半島と大島の中間地点だと潮流の流れから推定している。どちらもこの事故機がエマージェンシーコール(緊急事態発生の通報)を発信した時刻と地点にほぼ合致している。
 他の新聞でもなぜ駿河湾の海上でこの部分が発見されたのか非常に謎だと書いてある。
 それとは別に、このJA8119号機の事故歴が日航の根尾征三技術部機体グループ課長の説明によって明らかになった。七年前の一九七八年六月二日に胴体後部底部を滑走路でこすり、問題の箇所は全て修理し交換しているとのことだった。さらに八二年八月十九日に、千歳空港にて着陸時、第四エンジンを滑走路にこするという事故を起こしていた。
 なお、七年前に事故機を検証した運輸省航空事故調査委員の平栗次席調査官は検証後の記者会見で、「損傷は滑走路をこすった外板部分だけでなく、フレームなどの骨組みにも異常が見つかった」と指摘していた、ということである。
 事故歴のある飛行機だったことが分かり、その修理方法に目が向いている中で、さらに同日の各紙夕刊では次のような報道があった。
 「垂直安定板の下の部分に通常の飛行では考えられない力によってできたとみられるへこみがあることがわかった。…発見された安定板にはリベットや主要構造物の一部がついており、リベットがはずれて安定板がとれたのではなく、通常の飛行では考えられない力が加わったとみられる」
 「尾翼のうち垂直安定板は飛行機の基本構造そのもの。この部分が損傷を受けると航行する際の直進性を保つ事は出来ず、操縦は極めて難しくなる。…舵とりが出来ない状態に陥っていた可能性が強い。しかもこの部分に異常がおきていることは、コックピット内の警報装置では知る事が出来ないし、機内からも見えない。パイロットは何が起きたのか理解できないまま、操縦不能になっていた可能性もある」
 なんと、垂直尾翼が欠けたまま操縦していたとは、一体どうしてだろう。あの部分にはスパーと呼ばれる三本の桁が入って補強され、機体の中では最も頑丈な部分である。内部から与圧をかけていないため、金属疲労が生じる確率も低い。
 あらためて引き上げられた垂直尾翼の写真を見ると、これは前例のまったくない異常事態だったことがわかる。新聞各紙によると、海上自衛隊の護衛艦『まつゆき』が試運転中に引き上げた垂直尾翼の一部には、両端にもぎ取られたような跡と、何かがぶつかったような大きな穴があいていると記されている。
 一体どうしてこんなことが起きたのか。この護衛艦『まつゆき』がこの相模湾で試運転中に、たまたまタイミングよくこの落下物を拾ったのだろうか。
 上部がめくれ上がった尾翼の写真が事故の特異性を物語る、信じられない写真であった。
 
 プロの証言 機内の様子が明らかに−八月十五日の事故原因
 さらに、八月十五日付の各紙には、奇跡的に助かった落合由美子さんが語った内容が各紙でトップ記事として全文が載せてある。
 彼女は同じ寮で部屋も近く、よく見かけた大阪弁でおしゃべりの好きな楽しい先輩だ。
 彼女の証言の内容から分かることは、一瞬の減圧はあっても激しく物が散乱するわけでも、人間が機体の外へ吸い出されるわけもなく、異常発生後は次第に呼吸も楽になったということであるから、これは訓練所のエマージェンシー訓練で学んだ軽い減圧だったことを物語る。さらに、先輩方が機内で安全姿勢の指導やライフベスト着用の手助けをしながら乗客の間を回っていたという事実が手に取るように分かっていく。
 また八月十五日の報道では、墜落現場の山腹の斜面下約五百メートルの沢から、コックピット・ボイス・レコーダー(CVR)とフライト・データ・レコーダー(FDR)の両方が見つかったとある。この二つは十四日、午前零時半に東京の運輸省に運ばれた。
 なお、またこの日も三浦半島の城ケ島から西約十二キロ海上で巡視船『たかとり』が機体の一部を発見した。さらに垂直尾翼の下部を発見したのは相模湾で操業中の漁船である。どちらもねじれたり、激しく切れたりしているとのことだった。
 また山の尾根の北側において、機体の後ろ部分が見つかったが、尾部から垂直尾翼がもぎとられており、四、五十センチの垂直尾翼の付け根のみが残っていたとの報道だ。
 さらに読売新聞には、墜落寸前の垂直尾翼がもぎとられて航行している123便をカメラに収めた山崎啓一氏の写真が掲載されている。
 航空関係者は、その写真を見て、「明らかに垂直尾翼がほとんどなくなっている、これでは機体の安定を保つことは無理だ」と語り、墜落原因を示す証拠写真であることを強調した、とある。確かに高さが十メートル程ある部分が三分の二ほど消失しており、主構造部と前縁部の一部だけが、短いツノのように残っているだけである。
 
 まだボイスレコーダーを再生していないのに隔壁破壊説?−八月十六日の事故原因
 八月十六日の報道では、ボイスレコーダーの説明記事が各新聞に書かれている。
 「回収されたボイスレコーダーとフライトレコーダーは、十四日深夜運輸省内の事故調査委員会事務局に保管された。このテープの再生にはジャンボ機と同様の電源を使用した特殊な電源と再生装置が必要で、運輸省羽田空港事務局にある分室で再生する。
 ボイスレコーダーはコックピットの中での会話、計器の警報音、異常音など事故原因究明のカギとなる各種音声が録音されているはずで、墜落までの三十分間が残されている。
 今回の事故の場合、自衛隊のレーダーから事故機の機影が消えたのは十二日午後六時五十七分。したがって午後六時三十分以降のコックピット内の会話や音が収録されていると思われる。事故機が緊急信号を発したのは午後六時二十五分だから、異常事態発生から最初の五分間は収録されていないと思われる」といった内容だ。
 さらに、「来日した米ボーイング社などの事故調査担当者と米大使館員ら七人、運輸省事故調査委員らは十五日午後、相模湾で回収した方向舵の一部など落下物が保存されている神奈川県警第(横浜市金沢区)を訪れ、詳細に検分した。立ち会った同県警の話によると、国家運輸安(NTSB)のスタッフと米ボーイング社の事故調査担当者ら五人だけが中に入り、落下物を検分。五人は十三日に回収された垂直安定板の一部に注目。特に何かの強力な衝撃でちぎられたようなギザギザの切断面をみせる下部(接合部分)とさらに上部を詳しく見た」とある。
 つまりボーイング社とNTSBスタッフは、墜落現場に行くよりも、まず相模湾で回収された垂直尾翼の検分を行ったとのことだ。
 そしてまだボイスレコーダーやフライトレコーダーを解明するには時間がかかると書いてある事実。
 にもかかわらず、「日航機墜落、最初に後部隔壁破壊 客室から与圧空気が噴出 垂直尾翼を壊す」という見出しが、なぜ八月十六日の毎日新聞朝刊に載っているのだろうか。
 重要な証拠がまだ解明されていないのに、隔壁破壊の文字が踊っている。
 「運輸省航空事故調査委員会と群馬県警捜査本部は十五日、現場検証で、尾翼下にあるアフターバルクヘッド(隔壁)が爆風をうけたように破損していたことを確認した。このため、隔壁が客室内の与圧された空気に耐えられず破壊したとの見方が有力となってきた。隔壁が壊れると客室内の空気が爆発的に尾翼内に噴き上げ、内部から垂直尾翼を分解させると専門家は指摘しており、救出されたアシスタントパーサーの証言とも一致している。隔壁が壊れたのは一九七八年の尻もち事故などで金属疲労、微細な亀裂などの劣化が進んでいたことに起因するものともみられる。−略−事故調委などは、墜落原因は垂直尾翼の空中分解にあると断定、墜落現場の山中や、相模湾内で見つかった方向舵などの部品について、破損状態の分析や落下の状況について調査を進めている。−略−切り口にも内部から強い力が加えられ、もがれたとみられる形跡が認められた。一方、墜落現場周辺から回収された機体最後尾部などには、墜落時の衝撃を思わせる横からの強い力が加わった跡があり、海上から回収したものとの間には差異が認められる。しかし、回収した胴体に付着していた隔壁は破壊していた」(一九八五年八月十六日付毎日新聞朝刊)
 これは見切り発車の記事なのか? それともスクープと捉えるべきなのか。
 これを客観的に読むと、隔壁の破壊が墜落時の強い衝撃によるものかどうかまだ不明である。さらに海上から見つかったものと墜落現場の山中から見つかったものには、かなりの差異があるということだ。
 また、尻もち事故が遠因と書いてあるが、確かにそうであったとしても、まもなく行われるフライトレコーダーやボイスレコーダーの解明や分析の後に出てくるべきではないだろうか。このように見切り発車的な記事は一体どこから出てきたのだろうか。
 なお、いまだに相模湾や神奈川県内の海岸にて、墜落した機体の一部と見られる破片が次々と漂着している。十六日だけで、十七カ所に三十一個も見つかっている。これらの分析も十分していない中で隔壁破壊説が出てくる状況に一般的感覚として理解出来ないが、実際に今なお懸命に現場検証している人々はこの説が急浮上したことに、いったいどう思っているのだろうか。
 さらに尾翼の破壊については、「同機が飛行中に何らかの強い力を受け、後部から破壊されるという『航空機事故史上極めて異常な事故』としたことから、十六日、事故調内部に金属疲労、機体構造に関する専門委員会を設置、徹底した原因究明に当たることを決めた。垂直尾翼の破壊につながる直接原因は明らかではないが、尾翼の主要構造部が外からの力に極めて強いものの、内部から力がかかった場合、比較的弱い構造になっていることを重視。機体最後部にある客室の隔壁など外壁に亀裂が入り、与圧された空気が噴出して破壊が起きた可能性もあると見ており、機体構造、亀裂の原因となる金属疲労など、広範囲な分野の専門家を原因究明に当てることになった」とある。
 「運輸省、日航は、相模湾で発見された垂直尾翼の前線上部の分析を進めていたが、主要構造部の各上部が同時に吹き飛ばされたと断定した。このような破損は、外から加わる力では、衝突などのような異常な衝撃以外には考えられず、機体内側から強い力がかけられた場合には、十分可能性があるとしている。−略−
 こうした破壊力について、技術陣は、主要構造部は横風など外から加わる力には十分耐えられる設計となっているので、飛行機同士の衝突など異常な衝撃が加わったケースなど以外には、外からの力による破壊の可能性は小さい。しかし、内側から加わる力に耐えることは設計の前提になっていないため、『内部からの力には非常に弱い』としている。
 一方、生き残ったアシスタントパーサーが、@上の方でバーンという音がして、客室の空気圧が急減した現象が起きたA客室最後部のトイレの天井が落ちたと証言している。
 このことから、このトイレ上部付近から胴体下部までつながっている客室と機体後部のアルミ合金製の隔壁が金属疲労で破裂、高圧の空気が爆発的に機体後部へ流れ込んだことや、金属疲労などで、機体外壁自体に亀裂が入り、尾翼を破壊したことなどが可能性の一つとして浮かびあがってきている」(一九八五年八月十六日付読売新聞夕刊)
 この記事は非常に大きなヒントを含んでいるのではないか。
 つまり、このような垂直尾翼の破損は、外から加わる力で、飛行機同士の衝突などのような異常な衝撃で生じるのだと書いてあることになる。
 それ以外には機体内側より与圧された空気など強い力が噴出した場合にも十分考えられるとのことだ。ということは、逆に主要構造をちぎるほどの強い爆風が起きなければ、外から加わった衝突の説となる。外的要因と内的要因の二者択一ということだ。
 生存者や落合さんの証言に出ている事実は、機内で減圧現象が起きたのは一時的で、一瞬周りが白くなったがそれもすぐおさまったということだ。さらに、生存者の証言によると、爆発的空気の流れや爆風ではなかったということも分かってきた。つまり誰ひとりとして機外へ吸い出されず、機内の荷物も散乱せず、突風も吹かなかった。落合さん自身の鼓膜も無事だったからインタビューにすぐ応じられた。
 そうなるとつまり、残るひとつ、外から衝突などの強い力が加わった説も考えなければならない。
 しかし、なぜか外的要因をまったく考えずに内的要因による原因へと絞られていく。

 近くを飛んでいた飛行機がいなかった、他の接触は考えられない等の意見は出ているが、まったく事故原因からはずすことは出来ないのではないか。内的要因だけとなると、どうしても生存者の証言と食い違ってしまうからだ。
 このように新聞を読んでいくと、次の日から内的要因のみで事故原因が歩き出していったのが不思議でならない、と著者は述べている。
 
 隔壁破れ垂直尾翼破壊が原図か?−八月十七日の事故原因
 この日の新聞は、全紙一面がすべて隔壁破壊説で埋め尽くされている。
 産経新聞では隔壁に亀裂が生じて、与圧された機内の空気が尾翼へ急激に流れ込み、垂直尾翼を吹き飛ばしたとある。尻もち事故の後遺症が考えられるとしている。
 毎日新聞では、日米合同現場調査で隔壁(アフター・プレッシャー・バルクヘッド/直径四・五六メートル)が破裂していたことを確認し、客室内部で与圧された空気が尾翼内に爆風となって流れ込んだための事故としている。(十六日に合同調査実施)尻もち事故の修理ミスも原因のひとつではないかとのことだ。
 ただし同日朝日新聞夕刊では、事故調査委員会のメンバーのひとりがこのような発言をしている。
 「事故直後十三日に機体後部が見つかった谷底で、お椀状の原型をとどめたほぼ完全に残った隔壁を発見。アルミ合金製の隔壁に放射状の亀裂が数か所入っていることを確認した。写真に収めているのでその後分析が必要。隔壁はその後捜査活動の中で、エンジンカッターで切断されてバラバラになったらしい」
 したがって破裂ではなく、エンジンカッターでバラバラにしてしまった後に検証しているという事実だ。
 なお、上毛新聞はその内容を十八日付の紙面でこう書いている。
 「事故調査委員会は一七日午後も四時まで墜落現場で、原因究明の大きなポイントである機体後部の与圧隔壁の残骸などが山積みにされているスゲノ沢で隔壁を中心に調査を続行した。調査場所周辺にはロープが張られ、報道陣は一切シャットアウト、調査活動を見ることは出来なかった。午後四時前、再び墜落現場近くのヘリポートに現れた藤原次席調査官は、調査については『ノーコメント』としながらも、今日はスゲノ沢にある胴体や機首部分を見た。とだけ語った」とある。
 報道陣はすべてシャットアウトした中で検証が行われたということである。地元の新聞らしい丁寧な記事である。
 いずれにしても、圧力隔壁は当初ほぼ完全に残った状態で発見され、十五日の救出活動中にカッターで切断した際に五分割された。その後に検証し、検証過程は報道関係者を締め出して行われたという事実が分かる。
 ちなみに客室内では、飛行中は〇・八気庄前後の状態に保っており、この与圧はボーイング社の資料によるとジャンボジェットの場合、約二万五千フィート(七千六百二十メートル)上空で、一平方メートルあたり、三から四トンの圧力となる。このため胴体、隔壁など安全率も考慮して十数トンの圧力にも十分耐えられるように設計されているのである。
 さらに破れた隔壁発見という記事の中で隔壁の現状を次のように書いてある。
 「この隔壁は遺体収容作業時に、遺体確認と運び出しの邪魔になるとして切断され、再度調査委員が発見現場を訪れた時は、亀裂と放射状の骨組みにそって細かく切り刻まれたうえ、積み重ねられていた」
 細かく、切り刻まれて積み重ねた状態になっている隔壁を調査するということか?
 各新聞記事には、必ずしもその原因を全面的に支持しているとは言えない部分も見られる。
 「亀裂と収容時の切断面と判別は可能と話しており、隔壁の破損が飛行中に起こったのか墜落した衝撃によるものかは、現段階では不明としている…客室部分からの与圧は均一にかかるため、お椀状のアルミ合金製表面材は、数か所がめくれ上がるような形になる。しかし、機首から地面をこするような形で山頂へ向け墜落しているため、フレームの破損でめくれ上がることも考えられ、運輸省内部などにも、客室内の与圧が加わってのものとは速断出来ないとする見方もある」
 隔壁の破損は、飛行中なのか、墜落衝撃によるものか、さらに救出活動の中でカッターで切られた際に亀裂が入ったかどうか不明だとある。切断面を詳細に調べることが不可欠のようだ。
 さらに隔壁破壊が墜落の原因とすると、客室内を爆風が吹きぬけることが前提条件となる。
 そうなると爆風によって生存者たちの体にはどんな症状が出ていたのだろうか。
 爆風が吹くほどの急激な減圧となると、耳は聞こえなくなり、航空性中耳炎となる。さらに肺から一気に空気が吸い出されることにより、肺出血もありうる。しかし、医師のコメントでは四名に見られる症状としては骨折しか見当たらないということだ。当然落合さんやほかの生存者もインタビューに答えていることから、鼓膜は破れていない。しかも助かった四名は皆最後部の席であり、ちょうどトイレの向こうにある隔壁に一番近い席である。このトイレの前の席で、垂直尾翼を吹き飛ばすほどの最強の爆風を体験した四名が生き残っているという事実…。
 この説は本当なのだろうか。どうも客観的事実と食い違っている。
 もうひとつ不思議なことがあった。事故直後早々に来日していた米国国家安全委員会(NTSB)、米航空局(FAA)、同機を製造した米ボーイング社の三者からなる米政府事故調査団は十六日午前九時二十分すぎに、米軍のヘリで現地入りし、墜落現場を中心に日本の事故調査委員会と初めて合同調査を行った、とある。
 「初めての合同調査」とあるが、十三日にアメリカを出発して今まで日本側と会わずに、どこで何をしていたのだろうか。相模湾で回収された垂直尾翼の検分を、墜落現場へ行くことよりも先に独自で行った以外は、一切ニュースになっていないのが気になった。
 
 ボイスレコーダーの一部解明−八月十八日の事故原因
 「『機首を上げろ』と冷静な機長」というタイトルで毎日新聞、「隔壁破壊で墜落が固まり、整備点検に手落ち」とあるのが産経新開、「尾翼の大半がまだ洋上にあり、原因なお調査」というのが朝日新聞だが、読売新聞では、「隔壁破れ垂直尾翼破壊」のタイトルの下に、「隔壁説をボ社は否定」ということで、ボーイング社が否定した記事を載せている。
 「シアトル十七日UPI共同によると、群馬県の山中に墜落した日本航空のボーイング747ジャンボ旅客機を製造した米ワシントン州シアトルのボーイング社スポークスマンは、十六日、客室後部の圧力隔壁(アフターバルクヘッド)が破壊され、垂直尾翼などを吹き飛ばしたのが墜落原因、との報道を否定した」(一九八五年八月十八日付読売新聞)
 ボーイング社が日本側の隔壁説を否定している大変重要な報道内容だ。わざわざこの早い段階で否定するということは、よほど確信があるからと思われる。
 さらに毎日新聞でも同じ内容の記事が出ていたが、さらに次のように詳しく書いてある。
 「同スポークスマンは、『墜落の際、機体から散乱した与圧隔壁の破片を調べたが、腐食や金属疲労の証拠は発見されなかった』と述べ、与圧隔壁をめぐる日本側の見方を否定した」とある。
 つまりボーイング社は、日本側の事故原因報道を否定していることになる。このジャンボ旅客機の製造元である会社が自らの調査に基づき、隔壁による破壊で、垂直尾翼が吹き飛んだという説には異議を唱えたことになる。もう一度繰り返すが、調査係員がそう言うにはきちんとした根拠があるに違いない。日本側の報道と異なる見解が明確に示されたことになる。
 なお、垂直尾翼の胴体と取り付け部分については、リンク付近その他もきれいな形で見つかっており、これで十五日に出たリンク部分の説も否定されたことになる。
 ボイスレコーダーも雑音が多くすべてが解明されていない状況の中、機長が必死に操縦していた様子だけが発表された。
 この日は初七日だが、まだ遺体確認が終わっていない人も多く、法要も出来ない状態であった。
 
 日航による隔壁破壊実験結果を発表−八月十九日の事故原因
 揺れ落ちていく機内で遺書を書いた人たち。四名の生存者による証言など、次々と機内の様子が明らかになっていく。さらに墜落後、生存者の周辺では、かなりの人たちがしばらくの間生きていたことが分かった。多くの人の声を聞き、ヘリコプターの音を聞き、助け合って生きながらえることを願っていた様子が痛々しいほど分かってくる。
 さらにこの日の新聞記事には、日本航空の技術陣が客観的事実を基にして実験を行ったというのもある。
 「日本航空の河野宏明整備部長は十九日の記者会見で、垂直尾翼の破壊と隔壁の破裂について、推論として、『突風など、何らかの外圧で垂直尾翼が壊れ、それと同時か、直後に機体の歪みに耐えられず、隔壁が破裂したと推定も出来る。』と外的要因強調の見方を明らかにした」(一九八五年八月十九日付毎日新聞夕刊)
 その根拠となる実験で、機体に大きな穴があいて垂直尾翼の内部に客室内の与圧空気が吹き上げられた場合、同尾翼のどの部分が最初に壊れるかを検証した結果が次の通りである。
 垂直尾翼に客室からボーイング社が想定している上限圧力をかけた場合、日航の計算では、最初に同尾翼トーション・ボックス(主要構造部)の最上部(前桁ウエーブ)が吹き飛んだという結果が出た。しかし、実際の事故の状況を見ると、前桁ウエーブは壊れておらず、その下の部分から破壊されていることを重視し、同部長は、隔壁が破壊し、垂直尾翼が下からのプレッシャーで破壊されたとは考えにくいと指摘した。
 加害者側の人間の実験だからと退ける人もいるかもしれないが、これは科学的なデータに基づく客観的な実験であるから、他の人がやっても同じ結果となる。それだけは動かせない事実であろう。
 読売新聞八月十九日付夕刊にも同様の記事があり、実験の詳細が出ている。
 「日航のコンピュータ解析実験の結果を発表。機内の与圧を八・七PSI (一インチ四方にかかる圧力の単位、事故機は八・九PSI)とした場合、一番先に壊れるのは垂直尾翼最上部のふたで、次は垂直尾翼の中央にあるトーションボックスと尾翼の仕切りであることがわかった。しかし、相模湾から発見された垂直尾翼の前線上部は、トーションボックスの一部も一緒になって吹き飛ばされていた。この様な壊れ方は、突出した与圧だけの力ではとても考えられにくく、他に外部から別のもっと大きな力が加わらなければならない、という。その力がなにかについては、日航は垂直尾翼に働くねじれ力もあるとする一方、晴天乱気流(CAT)や突風などのようなものがきっかけとなり、垂直尾翼に何らかの変形が生じる場合もある、としている」(一九八五年八月十九日付読売新聞夕刊)
 
 当時の天候は他の飛行機も飛んでいる中でCATの報告もなく、天気は安定していたという記事もあった。
 このほかにも産経新聞にて、日時は前後するが、「日航技術陣が面目をかけて、垂直尾翼の強度実験を行ったことがある。隔壁に大穴があいたことを想定してのことだが、その結果はやはり、一番強度の弱い垂直尾翼の突端が壊れ、ついで、前縁部がはずれる、という順番になった。単にはずれるのならば、海上で見つかった前縁部がなぜ、主要構造体の外板がもぎとられたようにくっついていたのか?」(一九八五年八月二十二日付産経新聞朝刊)
 海上から引き上げられた破片と実験結果が違うことが分かる。事故原因と言われはじめた隔壁破壊で、機内から爆風が吹き上げたとしても、実際に回収した破片の状態にはならないのだ。それだけではなく、もっと強力な外圧力がなければこのような破片とはならないと語る。
 強力な外圧力、外からの信じられないほどの力……。予想が出来ない外からの大きな力とは……。

 それにはもっと客観的証拠となる破片を海から引き上げなければならない。次々と海上から上がってくる破片はすでに四十五点となっている。さらに十九日午後二時四十分ごろ、神奈川県真鶴町、真鶴港北東の相模湾で日航機の破片らしい物が漂流しているのを横須賀海上保安部の巡視船『たかとり』が発見回収したとある。それは垂直尾翼の一部とのことだ。
 この破片を出来る限り集めて、客観的事実に基づいてひとつずつ解明することが最も重要であることが見えてくる。
 
 その後、ボイスレコーダーの内容やフライトレコーダーによる分析が進み、運航乗務員たちが突然、予想不可能な事態に陥り、自分たちの置かれた状況が理解できないままに、コントロールがまったくきかないジャンボジェットを三十分ほど必死に飛ばし続けて墜落した過程が明らかになっていく。
 なぜか機長は操縦不能を繰り返し叫んでも、トラブルの原因には答えていない。
 また、ボイスレコーダーの交信内容が書かれた紙面にもなにが起きたのか、言葉として出ていない。ちょうど緊急発信が六時二十五分二十秒で、それ以前のボイスレコーダーが消えているから、事故の前触れとなる言葉が消えているせいかもしれない。
 フライトレコーダーのデータによると、突然異常な衝撃が記録されているのは、午後六時二十四分三十秒とある。
 また別の動きとして、上毛新聞八月二十三日付には、米国調査団がヘリにて午前十一時四十五分、山頂のヘリポートに到着し、さっそく隔壁破片をジグソーパズルのように組み合わせて復元していたとある。
 さらに現地入りしている運輸省航空事故調査委員会の藤井洋次席調査官は、「圧力隔壁は一見して大穴と言えるような大きな裂け目はなかった」と語っている。
 吹き飛んだような大穴がない――。

 これが、事故調査官が語る事実であることに間違いがないということだ。
 
 さまざまな調査・分析を行って、事故からおよそ二年後の一九八七年六月二日に最終事故調査報告書が橋本龍太郎運輸大臣に提出されている。その経緯については後に述べるとして、とりあえず報告書に基づき、高度と時間、ボイスレコーダーを並べてみた。垂直尾翼が吹き飛ぶ程の急減圧が起きた場所で、飛行機がどういう状態だったのか、ポイントだけを再現してみる。(地図上の場所は図1参照)
 @事故発生確定位置
 伊豆半島と大島の間上空
 時間:18時24分35秒
 高度:23900フィート
    (7284・72m)
 スピード:300ノット
 ボイスレコーダー音声
 「ドーン」
 「なんか爆発したぞ」
 「スコーク77」(18時24分42秒)
 A時間:18時25分18妙
 高度:23900フィート
   (7284・72m)
 スピード:310ノット
 
 この報告書では急減圧回避に不可欠な急降下がない。一年後のタイ航空機圧力隔壁破壊事故では一気に高度を下げている。それでも垂直尾翼は吹き飛ばない程度だった。
 B時間:18時27分07秒
 高度:24400フィート
   (7437・12m)
 スピード:310ノット
 
 高浜機長「両手でやれ」
 佐々木副操縦士「はい」
 福田航空機関士「ギアダウンしたらどうですか? ギアダウン」(18時38分32秒)
 普通の正常な会話である。意識が低酸素でもうろうとしているわけではない。
 *1ft(フィート)=0・3048m、1kt (ノット)=0・514444m/S
 
 不思議だ。このフライトレコーダーが出るまで、隔壁破壊による突風で急減圧が発生したと全紙が報道していた。だが、このフライトレコーダーの記録によると、急減圧ならば機内の酸素が薄くなるため、それを回避するために不可欠な緊急降下がまったく行われていないことになる。時系列に見てみるとすぐ分かる。高度は下がらず、むしろ緊急発生時は上昇している。そしてその後三十分も飛行している。
 ということは、当初隔壁破壊で一気に降下したのではなく、降下が必要になるほど急な減圧ではなかったのだということが、スチュワーデスとして訓練をした者にすぐ理解できる。したがって当然のことながら機内で、物も激しく飛び散らず、人も飛びあがらず、外へ吸い出されずに済んだのだろう。
 それゆえ四名の生存者の鼓膜は大丈夫で、すぐインタビューに答えられたのだと分かった。この事実が、爆風が発生するほどの減圧はなかったことを物語る。
 
 その後、一九八五年八月二十七日の第一次中間報告では、ボイスレコーダーとフライトレコーダーの解読が中心で、隔壁には一言も触れていない。
 だが突然、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙で驚くべき記事が掲載される。
 それは、日航機墜落事故の原因究明にあたっている米当局者に近い筋の人が明らかにしたという。
 当人が特定できないにもかかわらず、もっともらしく力強い記事だ。
 「同機の墜落事故原因は一九七六年、大阪空港での着陸の際、同機が尻もち事故を起こした時の修理の不備による可能性が強いことが明らかになった」(一九八五年九月六日付ニューヨーク・タイムズ紙)
 同紙によると、大阪空港での尻もち事故の際、ボーイング社の専門チームが派遣された。この時、客室と尾翼構造部分を遮蔽している与圧隔壁の修理に二列にリベットを打つべきところを一列に打ったままにとどめたことが明らかになった。
 この修理法によって隔壁が弱くなり、今回の事故で垂直尾翼が吹き飛ぶ原因となったという。
 修理ミスについての詳細が載っているこの記事は、日本での発表ではなく、米国の新聞に載ったのである。
 
 なぜ唐突にもこんな記事が米国から出たのだろうか……。
 「日航整備部門によると修理はボーイング社への全面委託でその指摘が本当かどうかは不明とある。日本の事故調査委員会はこの報道を重視」と書いてある。(一九八五年九月七日付毎日新聞朝刊)
 日本の国の事故であるにもかかわらず、事故原因特定につながる情報が、米国より流れてきたこの事実をどう受け止めれば良いのだろう。
 これに対して、日本の運輸省事故調査委員会では、リベットが一列だといって直ちに欠陥とは言い切れないが、問題の部分がボーイング社の修理マニュアルでどのような扱いをすべきと規定しているか究明する方針としている。
 それにしても、なぜ米国の新聞社が事故原因を報道したのだろうか。
 その日の夕刊各紙では、直ちに「怒りの声」として、ボーイングの手抜き修理と日航、運輸省の甘すぎた点検を取り上げている。
 「修理を請け負ったボーイング社がなぜリベット打ちで致命的な手抜きをしたのか。日航や、安全をチェックする運輸省はそれをどうして見逃したのか」
 すべては手抜き修理を行い、それを見抜かなかったことへの非難と怒りである。
 もしそれが真実ならば当然のことだ。私自身も情けないほど怒りが込み上げてくる。
 ただ、もう一度冷静に考えてみる。なぜ米国の新開にこれが突然載ったのだろう。
 
 九月七日付の毎日新聞夕刊に小さい記事で、日本の運輸省航空事故調査委員会の八田桂三委員長は心外な表情で、「米当局者が事故調査委員会の公開に先がけて、調査過程を明らかにするのは好ましくない。この点はNTSB(米国国家運輸安全委員会)側にも事情をただしたい」と語ったとある。それは当然の抗議だろうと、誰もが思うことである。
 しかし、その次の日の新聞を見て驚いた。まったく別のことが書いてある。
 それは実は、日本側が本当はすべて事前に知っていたというのである。
 新聞なのでタイムラグがあるが、夕刊の記事を書いた時、つまり昨日のボーイング社の修理ミス記事が出た午前中は、事実を確認してみる、とか、分からない、などとあいまいなコメントを繰り返していた日本側もついに、その日の午後五時からの記者会見で一転して、この内容はすでに知っていた、少なくとも第一次中間報告発表よりも前の八月二十七日から分かっていた、という記事である。
 「事故調査主権は事故発生国にあるのに、当方に何の連絡もせず、ボーイング社が一方的に声明を出したのは遺憾である。隔壁を東京に運んでから(接合部を)十分調べることにしていたのに・・と藤富久司事務局長。知っていた事実を公表しなかったことよりも、ボーイング社に先を越され、いわばメンツをつぶされたことの方が重大、と受け止めているようなムードだった」(一九八五年九月八日付毎日新聞朝刊)
 この記事では、航空事故調査委員会運営規則第十八条には、事故調査により知り得た事実は、可能な限り発表するよう努めるものとする(一九八五年当時)、と定められているのだが、先月の二十七日にこの事実を知りながら、事故調査委員会は隔壁には一言も触れていなかったことになると追及している。
 これに対して、八田委員長は、まだ発表の段階ではなかったと弁明し、逆にこちら側に何の連絡もなく、なぜ突然発表したのか、信義に反すると不快感さえ表している。
 航空評論家たちは、日本の事故調をお粗末だと言ったり、ボーイングは自首したのだと言ったり、また修理ミスを見逃した運輸省をかばったのか等々、色々な意見を述べている。事故調独自に専門家を総動員し、調査した上で自信を持って公表すべきだという意見、米国に対して弱腰だという考え方など、実に混乱している様子がうかがえる。
 委員長の八田桂三氏は、この一カ月後の十月九日に辞任した。その後任として、武田唆氏が、第一〇三回国会の議員運営委員会にて任命、承認された。
 
 NTSB−米国国家運輸安全委員会。大統領の直属機関として大変な権威を持つところである。そこに所属して日航機墜落事故原因究明にあたっていた何かしらの近い筋の情報として書かれた、修理ミスが原因という断定的な記事。
 事故発生後二十五日目にして、唐突にニューヨーク・タイムズ紙で発表された事故原因であった。
 その後一気にボーイング社の修理ミスを見逃した日航側、そして運輸省のチェック体制批判へと世論が集中してくる。
 米国での一報道から始まったこの事故原因は、まるで、敷かれたレールの上をただ走ることだけを強要されたように、日本側の事故調査委員会も、修理ミスから生じた圧力隔壁の亀裂から爆風が吹き、垂直尾翼を内部から吹き飛ばした説へと傾いていく。
 ふと別の新聞に目をやると「ようやく十七日ぶりに機長の遺体確認」の文字が目に飛び込んだ。
 高浜機長の遺体は下顎の右側部分のみが見つかり、歯の治療を受けた歯科医からカルテ、レントゲン写真を取り寄せて照合し、ようやく判明したとのことである。遺族は顎のみの対面であった。
 さらに機長について、八月三十日の新聞各紙の記事で、ひとつの縁というべき、驚くべき事実を知った。
 なんと機長の奥様の母方の生家があるのが、この事故現場である群馬県上野村の隣に位置する多野都万場町というのだ。これは奇跡に近い偶然だ。
 そこには奥様の親族も住んでいるため、高浜機長は家族で墜落現場近くの「ぶどう峠」付近の道路をドライブしたことがあった。その際、上野村周辺の山々の風景がとても気に入っていたという。
 高浜雅己機長−享年四十九歳。飛行時間、一二、四二三時間四一分であった。
 そして墜落の寸前まで機長を支え、ありとあらゆる手段を模索しながら限界を超えてもなお、飛行機を飛ばすことのみを考え続けて逝った二人がそばにいた。
 佐々木祐副操縦士は、B747運航乗員部米州第一路線室第二グループに所属した。
 このフライトではB747操縦教官室所属の専任乗員教官、高浜雅己機長の指導の下で機長席実務訓練として左席(機長席)に座っていた。
 前日は「お父さん」として、二人のお子さんと一緒に近くのプールへ遊びに行ったのが最後となった。お母さんも一緒でとても楽しそうにしていたよ、とお子さんは悲しく語ったという。
 佐々木祐副操縦士−享年三十九歳。飛行時間、三、九六三時間三四分であった。
 福田博航空機関士は、運航乗員訓練部に所属し、B747技術教官を務めていた。
 次男を交通事故で失うという不幸がありながらも、いつも優しく穏やかで、心身の健康を維持するためのジョギングを欠かさず、マラソンランナーとして大会に参加していた。ベテランの良き教官として訓練生を自宅に呼び教えるなど、面倒見のよいお父さんのような存在であったという。家族は二度も事故による不幸に耐えなければならなかった。
 家族を失うことの悲しみを身にしみて知っている人だからこそ、最後まで必死に計器を動かしていたに違いない。
 福田博航空機閑士−享年四十六歳。飛行時間、九、八三一時間〇三分であった。

 事故原因は―その後の展開
 航空事故調査委員会による事故調査において事故原因はどのように明らかにされていたのか、その経緯を以下にまとめておこう。
 ・第一次中間報告(一九八五年八月二十七日発表)
 この報告書での事故原因は、亀裂が生じた隔壁が破壊されて、急激な減圧による爆風が吹き、垂直尾翼を内部から吹き飛ばしたという隔壁破裂原因説である。
 実はその報道の七日前の八月二十日付新聞各紙に、
 「日航へ立ち入り検査・運輸省隔壁主因を認める」という内容で、衆議院運輸委員会が開かれた席での運輸省側の答弁が書いてある。
 墜落事故の原因究明の質疑の中で、山下運輸大臣は、「警察、事故調査委員会の捜査が本格的に始まったばかりで、まだいつ頃判明するかわからない。相当時間がかかる様子だ」という答弁をしている。
 運輸省の大島航空局技術部長は、「ジャンボ機の一斉点検では特に不具合は見つかっていない。日航立ち入り検査だが、今回は整備関係を重視する」と述べた。
 さらに、運輸省の航空事故調査委員の藤富事務局長は、「機体後部に何らかの不具合がみられて、これが原因の一つであると思われるが、ただちにこれだという段階ではない」と答えている。
 一番注目を浴びた発言は大島氏が、
 「私どもは圧力隔壁が事故に重大なからみがあると理解している」
 と言ったことで、山下運輸大臣の、「まだ捜査が始まったばかり」という答弁とは対照的である。
 大島氏はなぜそんなに早く理解が出来たのだろうか。
 
 ・第二次中間報告(一九八五年九月十四日発表)
 九月六日付けで突然発表されたニーヨーク・タイムズ紙によるボーイング社の修理ミス説が主力となり、七年前の大阪空港における尻もち事故の修理を全面委託されて請け負ったボーイング社が、後部圧力隔壁の修理の際、決められたリベットより少ない数で修理したことによって金属疲労が生じ、それが原因で隔壁が破壊された、との見解が示された。
 これを受けて各新聞や雑誌では、
 「ボーイング社は、世界中を飛んでいるたくさんのジャンボジェットの構造にミスがあるのではなく、悪いのはあの修理ミスを行った一機のみであるとしたくて発表したのだろう」
 とか、「わざわざ弱いところを作るような修理をしたとは、信じられない。あれほどひどい修理をよく日航はだまって通したと思いますよ」という意見があり、さらに、「事故調にお願いしたいのは、単なるつじつま合わせではなく、事故原因を突き詰めてもらいたい、今後に役立つようにしてほしいということだ」
 などの声が上がった。
 なお、後部圧力隔壁についてだが、それは乗務員たちの目にも、お客様の目にも、直接見えない場所にある。通常の整備中にものぞいて見えるものでもない。
 新開写真では、むき出しの圧力隔壁が四方八方にひび割れている姿が出ていた。
 事故現場で生存者救出の際や遺体を収容するためにカッターで切った部分も、激突した時にひび割れたであろう部分も、金属疲労でひび割れたという部分も、すべてごちゃごちゃの状態で、ビリビリに割れている無残な姿が、「これが原因だ!」というように写っていた。
 
 ・最終事故調査報告書(一九八七年六月十九日)
 橋本龍太郎運輸大臣に提出されたこの報告書の内容は、やはり、事故機が一九七八年六月二日に大阪空港で胴体後尾部を滑走路にこすった際にボーイング社が修理し、その修理ミスを起因とした後部圧力隔壁が、疲労亀裂となって破壊されて急減圧が生じ、垂直尾翼を突風が吹き飛ばしたというものであった。
 日航側もその修理ミスを見逃したということで責任を指摘された。 
 報告書のほとんどは修理の際にミスをした断面周や隔壁の状況説明である。
 乗客、乗員の死傷についての解析では、機体前方部は即死状態、後方胴体のさらに後方にいた生存者は奇跡であるとした。
 また、運航乗務員は急減圧による低酸素状態で操縦したことにより、知的作業能力、行動能力がある程度低下したものと考えられるとした。
 さらに捜索活動については、登山道がなく落石危険の多い山岳地域であり、夜間ということで機体の発見及び墜落地点確認まで時間を要したことはやむを得なかったとしている。
 即死ばかりではないはずだ。墜落後生き残った人たちの声がしたということが生存者の落合さんや川上さんの証言であった。でもあれはすべて奇跡として想定外ということなのだろうか。
 高浜機長、佐々木副操縦士、福田航空機関士は、意識がもうろうとしながらあの神業的なエンジン出力操作を三十分も行ったということか。減圧があったとしても、不思議なのは高度が下がらず、むしろ上昇していたではないか。
 そして自衛隊が墜落地点確認までに時間を要したのは、夜間のせいと山のせいということなのか。
 この報告書を受けて、新聞各紙の反応、および専門家たちからは、
 「航空学上は妥当な内容と思われるが、なぜ修理ミスが発生したのかという部分の具体性がない」
 「生存者の発言が全く取り上げられていない」
 「発表されるたびに修正されてきたボイスレコーダーの生の音声自体がまったく公開されていない中で、報告書の内容は事実に関する以外は、すべて事故調査委員会の見解にすぎない内容である」といった声が寄せられた。
 
 整備ミスなのか…
 この事故が起きるまでは、日本航空の整備は世界一だと社員全員が誇っていた。
 ボーイング、米国連邦航空局、ユーザー航空会社の三者でとり決めた飛行時間よりも、早めに整備点検を行い、日本人らしく細かい部分まで念入りであるとの評価で、世界各地の航空会社から整備の依頼が来ていたのである。
 さらに発展途上国においては、日本航空の中古飛行機を買いたいという希望が多く、それほどまでに丁寧に整備をしているという評判であった。
 そして何よりも、私たち乗務員が皆、このプロの威信を懸けて行う整備を信頼していた。それで安心して毎日フライトが出来たのである。
 整備士が出発前に最後の点検をしている姿や、前のフライトで故障が生じた場所を必死に直している姿を機内で見かける時、その真剣なまなざしと、油で汚れたつなぎ姿が実に頼もしく思えたことが何度もある。
 これらはすべて幻想だったのだろうか。
 客室乗務員たちは親しみを込めて、いつも彼らを「整備さん」と呼んでいた。
 昼夜仕事をしながら国家資格を次々取り、仕事に取り組む姿勢を尊敬していた。
 整備士とは、心から飛行機を愛し、愛機が無事に帰ってくることを願って、日々地道に仕事をしている人たちだ。コツコツと経験を積みながら国家資格を取り、それを誇りとしてプライドを懸けて仕事をするプロの集団である。
 機械ばかりに頼らず、懐中電灯を片手に機体の隙間に潜り込み、這いつくばり、ポケットからルーペを出して太さ三ミクロン(0・003ミリメートル*ミクロンは一九九七年に法定計量単位から削除されて現在は一ミクロン=1マイクロメートルとなっている)の亀裂を見つける。エンジン表面に液体が付いていれば、内部から漏れたオイルなのかどうかを、舐めて確かめた時代もあった。
 金属板の貼り合わせ部分は、たたいた音で異常を察知する。常に集中力を高め、職人芸のように五感も六感も働かせてチェックするのである。
 あの時、墜落現場での現場検証、事故調査委員会の調査に立ち会ったある整備士は、バラバラになってしまったジャンボジェットを目の当たりにし、日頃夜を徹して這いつくばって舐めるように整備をし、自分の子どものように愛おしい飛行機の無残な姿に、本当に残念で、残念でたまらない、無念だ…と絶句した。
 そして自分たちが体を張って整備した飛行機が、多くの人の命を奪ってしまった現実に、耐えきれない様子だった。
 羽田整備工場メンテナンス・コントロール室調査役で遺族のお世話係を担当したT氏は、事故から一カ月後の九月二十一日に、心労からか、「死んでお詫びをする」と遺書を残して果物ナイフで首や胸を数カ所刺し、自殺した。
 T氏は終戦まで満州航空で働いていたとのことで、トンボのようなフォッカー・スーパー・ユニバーサルという飛行機をこよなく愛し、いつも勤勉であったそうである。
 戦後、満州航空のノウハウと人材を中心として日本航空が設立された。その時に入社し、満航時代の同期と再会してその頃の教訓をいつも語っていたそうである。
 「だろう良かろう事故のもと」
 これを聞き、飛行機整備や運航乗務員は常に肝に銘じていたという。
 この精神をもってしても、プロである整備陣が事故機の原因を見抜けなかったのか。その後輩たちへの悔しさからの死なのだろうか。
 
 一九八八年十二月一日に、群馬県警特別捜査本部は、事故は日本航空、運輸省、ボーイング社の過失が重なつて起きたとし、業務上過失致死傷の疑いで、日航十二名、運輸省四名、ボーイング社(氏名不詳)四名、合計二十名を前橋地検に書類送検した。
 日本航空側の十二名とは、一九七八年にボーイング社の修理後、領収検査を行った整備本部の技術部、検査部、羽田整備工場検査室長ら六名と、一九八四年十一月に事故機のC整備(三○○○時間ごとに運行を止めて、四、五日かけて行う詳細点検で、後部圧力隔壁についても詳細な点検を行う整備のこと)を行った羽田整備工場点検重整備部の六名である。
 しかし、一九八九年十一月二十二日午後、前橋地検は群馬県警から業務上過失致死傷容疑で書類送検された日航十二名、運輸省四名、ボーイング社四名の計二十名と、さらに遺族側から告訴、告発された三者の首脳ら十二名(うち一人重複)の合計三十一名を全員不起訴とした。不起訴か。全員が罪を問われなくなったのだ。
 それから、幾度も再調査を望む数々の声はかき消され、誰ひとりも起訴されることなく、罪を問われることもなかった。
 五百二十名の命(衝撃で胎児が母体から外に出たことで五二一名という場合もある)が失われたこの大事故は一九九〇年に時効となり、誰も刑事責任を問われず、事故そのものが封印され、重い蓋がされたのである。
 あの事故後は、例年になく客室乗務員の結婚や出産による休職や退職者が多く、私もその中のひとりとなった。それは事故がきっかけというよりも、人生で何を一番に考えるべきか、自分の人生をどう生きるべきかについて、より一層深く考えた人が多かったからだろう。
 私の初フライトの便名でもあった「123便」は一九八五年八月三十一日をもってタイムテーブルから消え、永遠に欠番となった。
 スチュワーデスという職業に、JALというロゴマークに、亡くなった先輩方の誰もが憧れてプライドを持って仕事をしていたこの時代。
 あの突然起きた最悪の事故に立ち向かい、最善の方向へ持って行くことのみを考え、自らの恐怖も押し込め、乗客の安全を一番に考えて冷静に対処していった原動力となったのは、その強い愛社精神に裏打ちされた気持ちやプライドではないか。
 先輩たちは乗客と向き合い、最後の瞬間に何を思ったのか。
 おそらく、全員が生き抜くことを考えていたのだろう。
 パイロットを信じ、整備を信じ、会社を信じ、国を信じ、そして己の力を信じる。
 誰もが裏切られることなど思ってもいなかったのだ。
 安全に不時着することを想定して機体から即座に脱出し、その後救出されることを願って、それまでは自分たちの責任として必死に乗客を守り、生き延びるのが自分の使命だと。
 きっと、そう思っていたに違いない。
 私は、長年飛んでいた先輩たちにとって、多くの新人スチュワーデスの中のひとりでしかない。たった一年間しか一緒に飛ばなかった私をあの世で先輩たちが覚えているかどうか分からない。
 そんな自分に出来ることは何か…とにかく、いつまでも彼女たちの事は忘れずにいようということである。
 心の奥底に声が響き、瞼に彼女たちの笑顔が浮かぶ――。
 夢がかなって自由に飛び回っていたあの頃の自分と共に生きていた人たち。
 その輝ける思い出と一緒にいつまでも心に留めておくことが、自分に出来るただひとつのことかもしれない。
 
 
 第3部 乱気流の航空業界は 未来はどこへ
 
 「墜落」についての「疑惑」は、著者が日航を退職後、航空業務に関する教育・指導に関わるなかで芽生え、次第に大きく膨らんできたのである。
 直接的なきっかけとなったのは二〇〇一年の新学期での講義で出た「ポストカプセルから届いたはがき」に関する話題であった。くしくもあの「事故」の起きた一九八五年につくば科学万博が開かれていたが、そこでの目玉企画は郵政省の『二十一世紀のあなたに届ける夢の郵便』だった。“ポストカプセル2001”のポストに会場で投函されたはがきと全国から会場へ送付された手紙を郵便局で十六年間密封保管し、二〇〇一年の元旦に届けるという企画であった。
 講義の中でひとしきりその話題で盛り上がったあと、著者は学生たちにつくば科学万博があった同じ年に起きた日航123便の墜落事故について聞いてみた。しかし、ほとんどの学生から「親が話をしていたような気がする、自分たちは覚えていない、あまり詳しく知らない」という答えが返ってきた。
 それを聞いて、「あの事故で亡くなった先輩たちのことを私だけの思い出にしてはいけない。航空業界を目指す学生たちにもっと当時のことを語り続けなければいけないと、強く思った瞬間であった」と著者は記している。
 著者自身も事故原因の結論が出て関係者が不起訴処分となってからは、この問題にあまり注目することなく、過去の出来事として記憶の向こう側にしまいこんでいたのだが、これではいけないと再びこの事放と向き合う決意をした、と述べている。
 まずは早速著者は、自分の講義の中で学生たちに新聞切り抜きをもとにした新たなレポート課題を出した。
 @一九八五年の日航123便事故当時の新聞を図書館で調べて事実関係や事故の詳細を知り、自分の言葉で要旨をまとめること。
 A多くの記事の中で一番心に残った記事を選び、それに対する感想および自分の意見。さらにこれから航空業界で働きたいと思っている自分が就職した場合、航空会社はどうあるべきか、どういう意識の中で働くことが重要かということを書く。新聞記事のコピーを添付して、自分の言葉で書くこと。事故を知る身近な人たちへのインタビューが出来ればそれも加えること。インターネット上の文章をコピーすることは絶対不可で、自分で図書館へ通って調べること。
 
 その課題を通じて、学生たちの手で多くの資料が集められ、議論をする中で著者も含めて圧力隔壁の破壊を事故原因とする一九八七年六月に出された政府の『航空事故調査書』への疑問が次々と浮かんできたのである。
 まず取り上げたのは、学生が見つけ出した一枚の写真であった。それは一九九〇年十月十三日に遺族から新開各紙に公開されたもので、なんと墜落直前の機内を撮ったものである。
 


日航機123便の機内の様子(WEBサイトより)

 この写真について著者は次のように書いている。
 「墜落直前の日航ジャンボ機の中で酸素マスクが落下している中、半そで姿の乗客一人ひとりが落ち着いているように見える。全員が座りながら、酸素マスクを口に当てている様子を確実にしっかりと写している。
 通路真ん中に立っている姿はあの時代の懐かしい制服で、赤いベルトを締めた紺色のニットワンピースを着ている。恐らく後方担当スチュワーデスだ。顔がマスクで見えないのが残念だ。短く切った髪の横顔に酸素マスクを当てて、乗客の酸素の出具合をチェックしているようだ。決まった列にはインファント(幼児)分の酸素マスクが余分に付いているが、それを吸いながら移動し、乗客一人ひとりとコミュニケーションをとっている様子である。こんな時でもクルーらしい雰囲気を出しているその写真を見て、正直言って驚いた」
 そして、新聞に公開された写真を見た学生たちの率直な感想は、なんと落ち着いた機内だろうということだ。
 「突発的な緊急事態、エマージェンシーが発生して、機体後方で穴があき、突風が吹き、すべてが吸い出されてもおかしくないほどの急減圧があった直後とは思えない。さらに、急減圧があれば、一瞬で凍傷になるくらいのマイナス何十度の低気温になるはずだが、そんな体験をした後にも見えず、皆半そで姿である。フライトレコーダーによると高度はむしろ少し上昇しているのだから、減圧があればさらに凍えるほど寒いはずである。これは一体どう説明すれば良いのか。
 中央に写る客室乗務員もエベレスト山頂なみの気温でいるとも見えないし、ハットラックと呼んでいた頭上にある荷物収納箇所が、激しい突風と減圧にもかかわらず、物が飛び出した形跡すらない。酸素マスクが落下していなければ、まったく通常のフライトと同じ風景がそこにあった」
 
 実は、日航機事故の一年二か月後の一九八六年一〇月二十六日、大阪伊丹空港へ向かっていたタイ国際航空機が土佐湾上空を航行中に、機内のトイレで乗客が手榴弾を爆発させて、圧力隔壁が破損し急減圧が発生、大阪空港へ緊急着陸した事件があった。この時、爆風でトイレ壁面が破れ、圧力隔壁に大きなダメージを与えて大穴があいた。
 それにより機内にものすごい勢いで突風が吹き、物が飛び交い、乗客は耳に異常を訴え、乗員・乗客計二百四十七名のうち、乗員三名、乗客十一名が重症、乗客九十五名が軽症を負っている。
 この爆破事故の圧力隔壁破壊によって起きた急減圧の状況と比較してみても、日航123便の事故における機内の状況はあまりに違い過ぎる。
 写真が掲載された翌日の読売新聞の朝刊記事でも「機内は意外に落ち着いている」という印象だと書かれている。
 しかも、タイ航空機の場合は急減圧に対処するため一気に高度を下げているが、日航機では逆に高度を上げているのである。急減圧の中で高度を上げることはさらに減圧をもたらすことになるのでそれ自体ありえない。さらに言えば圧力隔壁に大穴が開いているにもかかわらずタイ航空機の垂直尾翼はびくともせず、尾翼一部に穴も開かず、吹き飛びもしなかったのである。
 これではどうみても圧力隔壁の破壊によって垂直尾翼が吹き飛んだという調査報告書の説圧力隔破壊説は成り立たないのではないか。学生たちを含めて著者自身にもそんな疑問が大きく膨れ上がったのも当然であった。
 誠に残念なことに、その写真が出た時点の約二か月前に事故責任を問われた日航十二名、運輸省航空局検査官四名、ボーイング社四名全員が不起訴となり、一九九〇年八月十二日には単独航空事故として史上最大の墜落事故において誰ひとり刑事責任は問われることなく、時効を迎えていたのである。
 なお、この写真については、事故から一年後の一九八六年八月十二日に新聞各紙で以下のような報道があったと学生が授業で発表している。
 「この写真は午後六時二十四分の異常音の後で、急減圧減少による白い霧が立ち込めたという生存者の証言を裏付ける証拠資料として重要視している」
 「遺族に渡したが、事故にはもうかかわりたくない、騒動に巻き込まれるとして、遺族が群馬県警に預けた。墜落直前の機内写真は例がなく、同県警では捜査上の重要資料として公開せずに保存することを決めた」
 「カメラとフィルムは捜査上の重要証拠として押収し、プリントした写真だけを遺族に返そうとしたが遺族から保管を頼まれた」
 この公開に踏み切った遺族である息子さんは、その理由として、「おやじはすごいものを残したんだなあ。亡き父親の執念が残したフィルムを公開することで、事故の責任が今もってはっきりしないが、ぜひ事故原因解明につなげてほしい、航空機だけでなくすべての技術の進歩に役立つことを祈っている」と語った、とある。(一九九〇年十月十四日付読売新聞朝刊)
 この方は事故当時十六歳で、両親と妹をこの事放で亡くしたのである。弟さんと自分は旅行に行かなかったらしい。
 それにしても遺族が騒ぎに巻き込まれるといやだという事故当初の姿勢と、一九九〇年に公開に踏み切った姿勢にあまりの隔たりがある。
 父親が執念で撮影したという奇跡の写真――もし彼のように父親、母親、妹を一瞬で亡くしたとしたら、その思いが込められた写真をわざわざ保管してくれなどと頼むのだろうか。亡き父親は息子に託したかったから必死に身を乗り出して写真を撮ったのではないか。
 各新聞に必ず言い訳のように、「すべては遺族からの願いによって保管をした」という文字が入っているのが、逆にわざとらしく感じる。
 それにしても残念なのは、事故原因の最終報告書が提出される前や、時効成立の前にこの写真が一枚、一般に公開されていたならば、結論は違う方向に向かっていったかもしれないことだ。
 ひとりの人間が極限の状況の中、執念で撮影した写真がすべてを物語るとすれば、誰もその事実を否定することは出来ないし、真実を隠す権利など、いかなる理由があろうとも誰にもない。ましてやそれを捻じ曲げることで生む利益は何もないはずである。
 万が一、そのようなことがあったとするならば、魂の叫びがそれを絶対に許さないだろう。公開時大学生だった遺族と年齢が近い学生たちは、もし自分の父親が撮った写真ならば、父親の叫び声を聞く思いだと言った。
 すでに発表された事故原因と、事故発生直後の現場写真を見比べて、誰もが感じた疑問を抱きながら、学生たちにとってその一枚の写真は生涯忘れる事が出来ないほど目に焼きついたに違いない、と著者は述べている。
 
 続いて、学生の発表の記事で目を引くものがあった。
 公訴時効の確定直前に遺族側からの強い要望で一九九〇年七月十七日に開かれた事件担当であった山口悠介前橋地検検事正による異例の説明会についてである。
 記事は時効直前の八月三日付毎日新聞朝刊に載っていたもので、説明会は前橋地検三階にある検事正室で行われ、参加者は遺族側二十一名、弁護士二名、山口氏とのやりとりは五時問にも及んだとある。
 山口氏はこの年の前年、一九八九年九月まで東京地検の次席検事であり、リクルート事件、平和相互銀行事件など、数々の政財界の汚職事件を手掛けている、いわばやり手の検事である。
 その山口氏はこう述べている。
 「私が検事正になったとたん、すでにマスコミが『検察、不起訴か』などと報道し始めた。いったいどうなっているのかと驚いた。さらに捜査会議を開いたら、部下の検事はだれもこの事件は起訴出来ないと言った。それでも私は様々な角度から捜査した。
 捜査の結果、わかったことは修理ミスかどうか相当疑わしいということだ。事故原因には色々な説がある。タイ航空機の時には、乗客の耳がキーンとしたという声があったが、今回はない。圧力隔壁破壊がいっぺんに起きたかどうかも疑わしい」
 この発言の中にあるタイ航空機事故は、機体後部の圧力隔壁が破損して、大阪国際空港に緊急着陸した、前述のあの事件である。
 この時、乗客の証言からはドーンという破壊音とともに、機内与圧が急激に低下し、白い水蒸気のような気体が充満し、八十九名が一瞬で航空性中耳炎になった。
 山口氏は日航機事故では「それがなかった」と指摘、従来の隔壁説に大きな疑問を投げかけている。さらに山口氏は一気に発言している。
 「まず、ボーイング社が修理ミスを認めたが、この方が簡単だからだ。落ちた飛行機だけの原因ならいいが、全世界に飛ぶ飛行機の欠陥となると売れ行きも悪くなり、打撃も大きくなる。そこでいち早く修理ミスとした。
 事故調査委員会の報告もあいまいだ。(膨大な書類を指して)これを見ても真の原因はわからない。事故後の機体や遺体の写真、ボーイング社、日航、運輸省関連調書、何をみても事故の報告書でしかなく、それからは本当の原因などは何もわからない。皆さんはわれわれが何か特別に大切なものを持っているように思っているかもしれないが、本当に原因は不明なのです
 そう言って、すべての書類の入ったキャビネット二十本以上を遺族に見せた。その凄惨な事故の写真の数々を見た遺族たちは言葉を失ったという。
 この山口発言に対して、遺族の方たちは、「何をいまさら!言い逃れか!それは、あなたたち検察が十分調査しなかった、自分の仕事をしなかったからなのではないか」と怒ったそうであるが、冷静に考えればこの検事は事故調査の結果、委員会で出した結論に疑問を呈しているとも受け取れるのではないかという感想を学生は述べていたと著者は紹介している。
 この山口発言に対してある評論家は、「わが国最高のメンバーである調査委員会の報告書を疑うのならば根拠を示せ」と批判し、マスコミも山口発言を無責任過ぎると叩いたそうである。
 
 次に学生が取り上げた記事もとても注目されるものだ。
 一九九五年の八月二十九日の新聞記事において、米軍の準機関紙である『パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス』(星条旗新聞)の八月二十七日付号に掲載された米空軍第三四五戦術空輸団に所属していた元中尉のマイケル・アントヌッチ氏の以下の証言が載っている。
 「一九八五年八月十二日に発生した日航ジャンボ機墜落事故直後の当日夜、六時四十分ごろ、C130輸送機で沖縄の嘉手納基地から横田基地に戻る途中の大島上空にて、日航機の機長が緊急事態発生と告げる無線を傍受した。墜落の二十分後には群馬県上野村にある御巣鷹の尾根の墜落地点に到達して、煙が上がるのを目撃した」
 この報告を受けて、同日午後九時五分に米海兵隊救難チームのヘリが厚木基地から現場に到着して、隊員がロープで現場に降りようとしたのだが、在日米軍司令部がある横田基地に連絡をすると担当の将校が、「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という帰還命令を出したという。
 事故の生存者のひとりで日航アシスタントパーサーだった落合由美さんの証言では、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と言っている。これについてアントヌッチ氏は、落合さんが見たのは海兵隊のヘリだった、と証言しているのである。
 このことを伝える日本の各新聞記事をまとめると、在日米軍のヘリコプターが自衛隊より約十二時間も早く墜落現場上空に到着しつつも、上官の指示で現場には降りなかったということである。
 最後にこの元軍人は、「在日米軍は事故直後にすでに現場を発見しており、もっと多くの命を救えたはずだ」と述べている。
 
 学生たちがこの記事を読んで、信じられない、これじゃ、まるで見殺しじゃないか、と怒りの声を上げたのは当然だ。彼らだけではない。恐らく、この事実を聞いた人、この記事を読んだ人たちすべての気持ちは同じだ。怒り以外の何ものでもなく、心底驚いた証言である。こんな重大なことが事故後十年も経ってからはっきりとした形で明らかになったのである、と著者も述べている。
 事故発生時から深夜にかけて、確かに墜落現場は二撃一転した。最終的には次の日の早朝、空が明るくなってから明確になったのだが、それでもまだNHKは異なる場所を繰り返し報道していた。
 事故当初の報道では明け方まで墜落現場は分からなかったとあるが、報道機関に偽りの情報が知らされていたということか。十年後の元軍人のこの証言によれば、墜落の二十分後に墜落場所は群馬県上野村、御巣鷹の尾根付近とはっきりと分かっていたことになる。
 この日は米軍輸送機C130から連絡が防衛庁・空幕に入って、その直後、日本側は茨木県百里基地を緊急発進したF‐4EJファントム戦闘機二機も場所を確認したという動きが記録されているが、正確な現場の位置を特定したのは翌朝であった。
 しかし、なぜ米軍が帰還命令を出してせっかくの救出もせずに戻り、その連絡を受けている日本側はそれより十時間も後に現場に到達したのだろうか。
 落合さんの証言では、墜落直後は周りでたくさんの声がして、多くの人たちが実際に生きていたのである。
 まさかそれを見殺しにするつもりで、わざわざ遅く行ったわけではないだろう。
 人命よりも大切な「何か」を守るためだったとでも言うのだろうか。
 何かを隠している?
 何のために?
 次々と浮かぶ疑問に、新聞記事の切り抜きだけでは答えが見えてこないような気がする。
 いずれにしても十年後に見えた真実とは、墜落現場は墜落後二十分ほどで分かっていたということだ。米軍側が人命救助のために現場に向かったヘリコブターから救助隊が降りる直前に、帰還命令が出て降りられなかった。日本側が断ったのか?それともそれは何らかの作為だったのか。誰かの指示によって、せっかく生き残っていた人たちが亡くなったのか。消し去りたくても消せない疑問が次々頭に浮かんできた、と著者は述べている。
 なお、テレビでもこのことを取り上げた番組もあった。アントヌッチ氏はこの事実を誰にも語るなと言われていたそうである。ご自身は事故を伝える翌日の報道を開いて愕然としたという。
 「なんと、あれからすぐに救出したのではないのか、朝まで墜落現場不明とは?なんということだ、もっと多くの人を救出出来たのに……」と絶句した、と手記の中でその胸のうちを明かしている。(カリフォルニア州サクラメント市発行『サクラメント・ビー』一九九五年八月二十日付)
 しかし、この元軍人に対し、一部の遺族が日本に来てこの内容について講演してほしいと言ったそうだが、騒動になりそうなので断ったとのことである。その後、なぜか急に何かの圧力があったかのように態度が明らかに変化したという。なお『サクラメント・ビー』紙に書かれたものと同じ内容で、『パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス』紙一面に、かなり長文で出ている。日本語訳は『御巣鷹の謎を追う』(米田憲司著/宝島社)に詳しく書かれている。
 
 以上、学生たちとともに著者が抱いた「疑惑」にいくつかを紹介してきたが、この他にもまだまだある。その内容については本書をお読みいただきたいので、このあたりにしておきたい。
 なお、次ページには「あとがき」及び文庫版に掲載された「解説」を載せていいる。「あとがき」は二〇一〇年五月にマガジンランド社から刊行された親本の「あとがき――未来への提言」と二〇一八年五月刊行の復刊版の「復刊のあとがき」、さらに二〇二一年七月刊行の文庫版の「あとがき」がある。「解説」も含めそれぞれ時期が異なるので、日航機123便墜落問題をめぐる状況にも変化が生じており、それに伴って著者の想いにも変化が見られる。そのあたりをぜひ読み取っていただければと思う。
 
 
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