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青山透子『日航123便 疑惑のはじまり』
      (河出書房新社 2018.5.30刊)
本編の概要|「あとがき」と「解説」

「あとがき」と「解説」
 最初の「あとがき――未来の提言」はマガジンランド版のものである。なお、河出書房新社から二〇一八年に出版された復刊版では、「復刊のあとがき」が書かれていて、さらに二〇二一年の文庫化にあたって、また新たに「あとがき」が書かれている。マガジンランド版に続いて復刊版と文庫版の「あとがき」も掲載させていただく。それぞれ時期が異なるので、著者自身のその時々の思いが伝わってくるのではないかと思われる。

マガジンランド版のあとがき――未来への提言

 JAL倒産
 二〇一〇年一月十九日(火曜日)夕刻、日本航空株式会社(日本航空インターナショナル、ジャルキャピタルとともに三社)は東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請した。
 私はどうしてもこの日の数字が気になった。
 一月十九日ということは、「119」である。あの御巣鷹の尾根で大破した飛行機の個別認識記号はJA8119号機。JAは日本国籍のことで、8はジェット機の意味、その次が個別の番号となる。それが119だったのである。
 まさかの偶然だろうが、この日に破綻とは二十五年経った奇妙な廻りあわせとも思える日である。
 負債総額は合わせて二兆三千二百二十一億円と、戦後の事業会社一位という過去最大の経営破綻となったのである。これほどまでの大型倒産を不自然なまでに、NHKなどのテレビや一部の新聞等では、経常破綻や倒産という言葉を使わずに、直ちに企業再生支援機構による支援が決定して、公的資金枠九千億円投入という面ばかりを強調した。その陰で政策投資銀行による三千億円規模の債権放棄(税金)も含めた巨額の債権放棄があったにもかかわらずだ。
 また翌日の新開各紙のJALによる全面広告は、「飛び続けます」と大きな文字で書いて、その下に小さくお詫びが書いてある。順番や文字の大きさが逆ではないか。当然、世間へのお詫びが先だろう。
 前原国土交通大臣は、公共交通機関である飛行機を止めない事ばかりを強調した。
 それによって、ある日突然の倒産ではなく、事前調整型の倒産は、二月二十日に株式が上場廃止となったものの、多額の債権放棄やマイレージ保護などの報道の中で、実際にそこで働く人々に対して、何の危機感も持たせないまま毎日の延長上でその日を迎えさせた。
 これは、これから始まる企業更生に不可欠な従業員たちの自己洞察力と自己改革、そして現実の重さを認識する最大のチャンスを失ったことになる。
 人間とは所詮、お金が入ってこない(お給料が入らない)現実や解雇、さらにロビーのシャッターが朝突然閉じることや、燃料をストップされて飛行機が飛ばない、乗客がひとりもいないなどを経験し、崖っぷちに立たされないとどうしても倒産という現実を受け入れられないものだからである。
 これから三年以内という短期間に利益を上げて、一兆円規模の公的資金を返済する責務を負った従業員一人ひとりは、しつかりと心構えが出来ているのだろうか。
 いまだかつて経験したことのない大規模な更生会社に対して、当初中小企業向け融資を想定していた支援機構の人たちはきちんと再生計画を実行し、真に更生させられるのか。
 国民はこれからずっとこの成り行きを注視し続けなければならない。もし三年後に再生不可能となれば、生まれたての子どもから高齢者まで、強制的に国民ひとり当たり約一万円をJALという一民間会社へ支払ったことになる。
 いかなる理由があろうとも、経営破綻という現実を真正面から見つめて、生まれ変わるために国民から借りたお金であることを忘れてはならない。
 間違っても、世の中の人たちがどうしてもJALに存続してほしいと願ったからだとか、公共交通機関として必要とされているのだから当然だ、などと思ってはならない。
 そのとたんに、国民から見透かされて嫌われ、誰もJALなどを選んで乗ってくれる人はいなくなり、顧客を失う。
 昨年秋、御巣鷹の尾根で出会った若い新入社員たちが、自由に夢を描けないとするならば、再び破綻が訪れるだろう。

 防衛省の文書不在につき不開示
 事故直後、相模湾の極めて狭い範囲内で日航機の破壊された垂直尾翼を中心とした数々の破片や機体の部分が見つかったことがどうしても気になった。翌日の十三日だけでも二十八点以上の破片が回収されている。
 垂直尾翼の一部を回収した試運転中の海上自衛隊護衛艦『まつゆき』が、その相模湾でどのような試運転をしていたのか、何を訓練していたのか、防衛省に情報開示の法律に基づいて行政文書開示請求をしたところ、不開示決定通知が届いた。
 その理由は、「文書不在につき不開示」ということであった。
 実は、不開示決定通知書が届く前に、防衛省の事務局から電話があり、「これはない可能性があるので、請求をされても見つかりませんから、請求を取り下げたほうが良いと思います」という丁寧な(?)説明までされたが、お金を払って申し込んだ人に対して、文書がない可能性があるからやめたらどうか、とは?
 これではせっかくの情報公開の法律も泣いている。公務員の慈恵的な不作為を感じてしまった。公務員として、公に対してのサービス精神を忘れて、単に仕事したくないからであろうか?
 
 運命の出会い
 この本は二〇〇五年から構想を練り、書き始めたのは二〇〇九年からである。
 書いている最中に、JALの赤字経営状態が浮き彫りになり、民主党による政権交代で、巨額の債務超過がようやく世間に伝わって、私的整理か法的整理かの問題を語っているうちに経営破綻し、倒産となった。
 その中で、この本を世の中に出すにあたり、お世話になった方々の最初のひとりとして、早稲田大学法学学術院教授の水島朝穂氏をあげさせていただく。
 今から十四年前の一九九六年五月十八日、明日の法律家を育成する伊藤塾にて、「新たな核時代における日本国憲法〜ヒロシマ、オキナワ、ベルリン、そしてチェルノブイリの現場から」という講演を行った水島氏との出会いによって、私の視野は広がった。
 独自のユニークな視点から国際平和を考えておられ、個性尊重、好奇心旺盛、現場主義をモットーとしている方である。
 何かの節目節目にお会いし、いつも面白いメールや情報を頂いている。陰ながら支えて頂いて心から感謝申し上げる。
 二〇〇五年にJALの現場で今何が起きているか、私の教え子たちからの声を集めて書いたシナリオをその水島氏に読んでいただいたことからこの本の構想が始まり、共通の知人を通じて出会ったのが、ノンフィクション作家、日高恒太朗氏である。
 二〇〇八年四月十一日に早稲田大学近くのイタリアンレストランでお会いした時、当時まだJALの内情は世間に知られておらず、日高氏は、「JAL内部のことを書くのは、恐らく倒産でもしない限り難しい。ただし御巣鷹山事故の先輩方を想う気持ち、それはあなたしか書けない、ぜひ頑張って筆をとってみてはどうか」とアドバイスをしてくださった。
 日高氏の著書、『不時着 特攻「死」からの生還者たち』(文藝春秋)は第五十八回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)を受賞した力作であり、私の心の師匠である。ノンフィクションのイロハを密かにこの本から学ばせていただいた。
 その出会いから一年後の二〇〇九年、一月二十三日が誕生日という、ひとりの女性編集者が日高氏と再会したが、それが編集者、石原多恵さんである。
 初めての作品で上梓することが決まって以来、未熟な私に一年以上根気よく付き合ってくれて、取材にも何度か同行してもらい、的確なアドバイスをしてくれた。
 御巣鷹の尾根登山の日に、前日までの台風で荒れ狂った天気を見事に吹き飛ばし、執念の晴天をもたらしたのは、彼女の自称「晴れ女」の意地であったと思われる。心から感謝したい。
 ご高齢にもかかわらず、上野村にて快く取材に応じていただき、当時の様子をまるで昨日のことのように詳細に説明し、その時の様々な想いを語って下さった元村長の黒澤丈夫氏に心から御礼と感謝を申し上げたい。一本筋の通った素晴らしい方である。
 また取材協力をして下さった元消防団の黒澤武士氏は、実際の現場を見た者にしかわからない話や生存者の発見時の様子を語って下さった。自家用車で一日中案内してもらい、上野村の干しシイタケや奥様の手作りの美味しい梅干しまでお土産にいただいた。
 御巣鷹の尾根の管理人、黒沢完一氏は五年前より管理を請け負ったということだが、登山道入口でお会いした時、手にはピンクと白の小菊を持ち、肩には長い鉄の足場を背負っていらした。その小さな花束を登山道入口にあった石を積み重ねた石地蔵にそっと挿して手を合わせ、これから私達がこの山へ入ることを山の霊へ告げてくれた。
 遠く離れてなかなか来ることが出来ない遺族に代わって花を供え、足場が崩れた場所を補強して通れるように道を作り、山火事が起きないように管理する日々である。今回もいろいろと大変お世話になった。
 十二月十八日付、御巣鷹の尾根から便りが届いた。
 写真同封と書かれた封筒を開けると、目に飛び込んできたのは、あの修理中だった前山先輩の墓標だった。管理人さんが送ってくれたのである。
 白い雪が周りにこんもりと積もり、墓標の両脇の雪の中に、可憐なピンクのカーネーションと黄色と白の野菊が押してあり、ふんわりとした雪が墓標を包んでいる。
 ピンクと黄色の花々が白い雪と相まってなんと素敵なのだろう。
 思わず前山先輩の優しい顔が浮かんで涙がこぼれた。
「今年最後の月命日に、お山に行って来て写真を写して来たので送りますから見てください。お体に気をつけて良いお年をお迎えください」
 そう手紙に書いてあった。優しいお心遣いが伝わってくる一枚の写真であった。

 たくさんの資料を提供してくださった群馬県警察医会副会長の歯学博士、大國勉氏にはそのお優しい心に甘えて本当に様々な面からサポートしていただいた。お嬢様が私の後輩ということもあって、気心知れた雰囲気の中で、石原さんと私と共に、遅い夏休みを取って御巣鷹の尾根に同行して下さった。高崎から下仁田駅までの上信電鉄の素朴な電車内で、初めて手にしたデジカメで私達の写真や、運転手席から見える鉄道風景にシャッターを切る姿はまるで遠足に行く少年のようで、失礼ながらとても七十歳過ぎとは思えない。元村長の黒澤丈夫氏や元消防団の黒澤武士氏とは、大國氏の紹介なくしてはお会い出来なかった。
 幾度かの手紙のやり取りで応援し励まして頂いた日々は、今でもそしてこれからも私の心に残っていくだろう。まだまだお元気で御活躍していただきたい方である。
 なお同氏の長年のご友人であり、『墜落遺体』(講談社)の著者である飯塚訓氏にも心より御礼申し上げる。
 奇跡的な出会いがもうひとつあった。
『沈まぬ太陽』の映画監督、若松節朗氏である。
 多くの困難を乗り越えて映画化の話が具体的になったそうだが、シナリオを書いては直しているうちに二年が過ぎてしまい、二〇〇八年十二月にはとうとうこれで映画化は無理かもしれないと切羽詰まった状況まできてしまったという。
 どうしても映画を撮りたいと、大阪へ向かう新幹線の中で、美しい富士山を見ながら作品の中に出てきた人達を想い浮かべると、まるで富士山が「がんばれ!」と励ましてくれたようだったと語る。そのあと、ようやくゴーサインが出て撮影が始まった。
 ボランティアで参加していた時の感想や、事故に遭遇した先輩たちの話をして、さらに教え子たちの現状を書いた私の未熟なシナリオをお読みくださった同氏は、非常に紳士的で丁寧に映画制作までの話をしてくださった。
 日本航空側の弁護団から二度ほど、名誉毀損の恐れや遺族の感情を無視した商業主義的行為として警告文を受けたこともあったということだった。
 なんと、すでに経営が危機的状況にあったにもかかわらず、弁護士費用を払いながらこのような警告文を出していたとは……とても残念である。
 そして、その警告文を出すことを考えたJALの人間たちは、次の若松氏の言葉を聞いたならどう思うのだろうか。
 設定は国民航空だが、事故が起きたことは事実であり、もしもJAL側の理解が得られれば、「このような大事故を二度と起こさぬよう、誠心誠意、絶対安全運航に努めます」というような言葉を映画の冒頭に記してみたかったとのことだ。
 まさしく国民の税金を注ぎ込んで更生会社として生まれかわるにふさわしい言葉ではないか。
 万が一、その文字がスクリーンに出ていたならば、おそらく今頃多くの乗客がJAL再生を支持して、乗っていたことだろう。
 そのチャンスを逃したばかりか、皮肉にもこの映画の封切り時にJALの巨額の赤字が公に知られて、大ヒット上映中にあっという間に会社更生法申請となってしまったのである。これも運命というものなのだろうか。
 映画化は不可能と言われて、何度も挫折をしてきたこの作品がようやく世の中に出た途端、そのタイミングで倒産となったのである。
「なんだか巨象を倒したようで、あまりに凄いタイミングになってしまった。でも僕たちの世代はあの鶴丸マークのバッグを肩から掛けて旅行をするのに憧れたなあ。ぜひ立ち直ってほしいですね」と監督は語った。
「映画に広告代理店が一切入らなかったから、テレビで宣伝が出来なかったそうですが、もしかすると、一番広告をしてくれたのは連日新聞やテレビで報道された日本航空自体だったかもしれませんね」と私が答えた。
 この作品に出演した人々も一本筋の通った方々で、自ら手を上げて出演された人たちだという。さまざまな苦労もあったと聞くが、監督をはじめ、キャスト、スタッフの皆さんも、まさに映画のテーマの「衿持」を通したのである。
 私自身、群馬での映画撮影に参加しなければ、あの時の凄まじさを肌で感じることはなかった。また控室に監修でいらした飯塚氏や大國氏と出会うこともなかった。不思議な御縁で出会えた方である。若松監督には、本書の帯も書いていただいて(初刊時)、感謝の気持ちでいっぱいである。

 本書を書くにあたって支えて頂いた心ある方々、家族、教え子たちに感謝する。
 とりわけ私が幼い頃に一緒に暮らしたひいおばあちゃん(おっぴちゃんと呼んでいた)のしわしわの顔が浮かんでくる。その曾祖母に私の母が教えてもらった言葉がある。
 The Pen is mightier than the sword.(ラテン語では Calamvs Gladio Fortior)
 曾祖母の兄が福澤諭吉先生の下で学んで本科を卒業し、慶應義塾にそのまま残って英文学者として教えていた明治十八年頃の話である。その当時の英語の教科書で使用した戯曲のセリフが、この呪文の言葉だとつい最近分かった。それをもとにして「ペンは剣より強し」の慶應義塾マークが生まれたらしく、そのことは慶應のホームページに記されている。
 私はこの本を書くにあたって、どうしてもそれが読みたくなって探した。この本は早稲田大学中央図書館地下一階の研究書庫にあった。おびただしい数の大きな洋書の間にひっそりと隠れ、静かにたたずむ、手のひらサイズの小さな本で、赤と紫を混ぜ合わせたようなエンジ色の表紙をめくると、寄贈した人のサインがある。
 四十七ページの第二幕二場の場面で皮肉にもリシュリューが、
「偉大な人が統治している中においては、ペンは剣より強し。
 ペンそのものは何も変哲のないものだが、魔法の手にかかると、カエサル(ローマ皇帝の称号)を麻痺させることや人々に大きな衝撃的な息をのむようなことも出来る。
 国を救うのに剣は要らぬのである!」と、ペンを片手に持ち上げて叫ぶのである。
 この本のタイトルは、
『RCHELIEU OR THE CONSPIRACY』(リシュリュー、またはその陰謀)
 リシュリュー(一五八五年〜一六四二年)はフランスに実在した政治家の名前で、ルイ十三世の宰相、つまり総理大臣である。数々の策略や陰謀を描いた物語で、作者は、SIR EDWARD BULWER LYTTON(リットン卿)である。首相と陰謀とは、意味深い内容であった。
 慶應義塾福澤研究センターから届いた入社帳に書かれた先祖の名前を見て、今あらためてそのペンの力を感じている。あの世で五百二十名と共に、福澤先生もその力を強く願っているだろう。
 そして締め切り間際の三月三十一日の夕方、思いもよらない人と出会った。
 前述の機内写真を公開した小川領一氏である。
 小川氏には写真の掲載許可を取るために連絡をしたのだが、たまたま用事が出来て東京に来るという。未公開の写真も含めて見せてもよいということで、私と会って下さるという返事だった。
 正直な話をすれば、元日本航空にいた人間が遺族の方とお会いするのは、どうしても勇気がいる。その方々にとって、私は思い出したくもない鶴丸マークのついた会社にいた人間なのだ。そう思って悩みながら約束の日が来た。
 出版社の応接室でお会いした小川氏は、温和でにこやかな笑顔を私に向けてくれた。
 机の上に広げた資料の中で、写真を公開した時(一九九〇年)の新聞に載っている十一年前の自分の顔を見ながら、「若かったなあ」と笑ってつぶやいていらしたのが印象的であった。ご活躍の様子に、なんだかほっとして嬉しくなった。
 小川氏が帰られた後、もう一度毎日新聞(一九九〇年十月十三日付夕刊)を読んだ。
 二十五年前の事故当時は高校生、写真公開時は大学生、そして今、亡き父親と同じ年齢となったのだ。そのような意味において、彼にとっても今年は大変重要な年であり、長い人生の大きな節目といえる。
 写真公開時には、わざわざ羽田発大阪行きの事故機と同時刻出発(便名は永久欠番なので123ではない)の飛行機に乗り込み、父親と同じ席に座って、窓の外を眺めた、と記事にも書いてある。
 そこで何を見て、何を感じ、何を想ったのだろう。何か、重大なメッセージが込められた写真かもしれないと感じていたのではないだろうか。
 セミ同期のスチュワーデスが写っている機内写真をもう一度見てみる。新開記事によると、この写真は事故調査委員会が採用しなかった、とある。採用した写真は、外の風景を写した二枚のみであり、その理由も飛行航路を確定するためとのことだ。
 採用の枚数に制限があるわけでもあるまい。
 急減圧ではないと一目瞭然の重要な意味を持つこの機内写真を無視して、なぜ相模湾や富士山、江の島の写った写真などを採用したのだろうか。
 小川氏が提供して下さった写真を見つめながら、私は遠い昔のあの頃を思い出した。
 機内で「スチュワーデスさん、写真を撮ってください」と言われ、「ハイ、チーズ」と何百回シャッターを押しただろう。
 デジタルカメラなど無い時代、ファインダーの向こう側には、新婚さんのほんのりと赤く照れて嬉しそうな顔や、Xサインをして大笑いするお友達同士の顔、赤ちゃんを抱いてにこやかな笑顔の若い夫婦、お互いにいたわり、長い人生を共に歩んできた老夫婦、そして未来を信じて旅立つ若者たちのキラキラとした輝く笑顔があった。

 私もたくさんの乗客たちと一緒に、カメラに収まった。
 あの時、小川氏の御家族も楽しい旅行の帰りであった。そして突然の事故。
 奇跡的に彼の手元に届いたこれらの写真は、きっとご両親と妹さんからのメッセージだったのだろう。
 そのメッセージを受け取るのは、小川氏と弟さん以外にいないのである。
 私たちに出来ることは、たくさんの笑顔を一瞬にして奪ったこの事故について、もう一度思い出し、考えてみることではないだろうか。
 五百二十名の星たちが、天空で私たちを見つめている。
 その声なき声がこの本を手に取って読んでいただいた一人ひとりの心に届くことを願ってペンを置く。
二〇一〇年 四月
 事故後四半世紀の桜の季節にて。お読みいただいて本当に有難うございました。
青山透子

 続いて、文庫版のあとがきも掲載しておきたい。親本から一〇年余の歳月を経てさらに深まった著者の想いがよく伝わるものと思われる。
 
   復刊のあとがき
 「あの夜、上空を飛んだ飛行機の中には、事故機がこの下で燃えていると視認した者もいる、方法も技術もある、なのになぜ十時間も墜落位置を特定しなかったのか。そこに公的な責任感による位置を探求する動きや、そこが何処と特定する公的意思がまったく働いていなかった!そう断言せざるを得ない」
 これはこの本が初めて書店に並んだ時、帯に記した故黒澤丈夫氏から頂いた貴重な言葉である。
 日航123便の墜落現場であった上野村の村長として、当時の政府による「公的な責任感」 のなさや、墜落現場特定に「公的意思がまったく働いていなかった」ことに対して何十年経っても怒りがこみあげてくる、と声を震わせながら語っておられた。この黒澤丈夫氏との出会いが私を突き動かしたと言っても過言ではない。
 今日においても、公的な仕事のずさんさや公文書改ざん事件といった当時と一向に変わりがない現実にも共通した「怒り」を感じる。本署はそのような多くの人々の「怒り」の声に支えられて再び出版することになった。あるご遺族からは「自分も学生の皆さんと同じような疑問を持っていた。読み進めて行くことで一緒に授業を受けている気持ちになり、内容がわかりやすく、私の疑問が吹き飛んだ」という感想も寄せられた。この本を通じて新たな出会いが生まれ、あの日の疑問を共有する人たちとの輪が広がっていったのは、嬉しい限りである。
 そして今、さらなる疑問を解明すべく、善意ある方々から提供された証拠物を調査し、新たな証言を得ながら次の本を執筆しているところだ。
 黒澤氏が私に灯した怒りの炎は消えることなく多くの人たちに受け継がれ、その炎はまるでオリンピックの聖火のごとく、真実をあぶりだすまで消えることはないだろう。未来の空のために、一人ひとりが消さない努力をし続けてこそ、空の安全が保てることを認識しなければならない。私たちは決してあきらめず、炎を燃やし続けていかなければならないのである。
 新版にあたり、河出書房新社の皆様、編集者の西口徹氏に心より感謝申し上げる。
 二〇一八年 五月 平昌オリンピックの年にて
 青山透子

 なお、二〇二一年の文庫化にあたって、また新たに「あとがき」が書かれている。単行本から約三年後に刊行された文庫版であるが、この三年間の著者の精力的な歩みはまさに驚異的なものがある。興味深い話が多く記されているので、ぜひこちらもお読みいただければと思う。


  文庫版あとがき
          二〇二一年 五月一日
                 青山透子

 今年、ご遺族の有志が、日本航空株式会社に対して、同社が所有するボイスレコーダーとフライトレコーダーの情報開示を求めて、東京地方裁判所に提訴した。ちょうどこの文庫本が皆様のお手元に届く頃には、民事訴訟が始まっているはずである。私たちは、司法が政治的圧力に屈せずにまっとうに機能することを願っている。そして、この世界最大単独機墜落事件の全容が、私たちの「知る権利」によって、明らかになる日を待ち望む。
 それにしても、いつから私たちは騙されていたのだろうか。
 実行犯は三十六年間も黙止し、無責任に事実を否定し続けたことになる。
 時の政権に媚びた人々の面目のために、膨大な時間を失った。
 無自覚だった私たち国民も真相の隠蔽を許してしまった。そして五百二十一人(胎児を含む)を闇に葬った。
 ご遺族は、どこに救いを求めればよいのだろうか。
 騙した側は、騙されていたご遺族の苦悩を軽んじているとしか思えない。
 今後、日本航空が公共交通機関と名乗りたいのであれば、勝手な都合で事実を歪め、それを正当化することなく、さらに謝罪のチャンスを自ら消し去ることなく、一切を受け入れて情報を開示することこそが、まともな会社として生き残れる唯一の道であろう。
 世論はこれを見逃すことなく、マスコミが政府寄りのうがった報道を出すことがないように監視しなければならない。報道関係者は使命感を持って現実を直視した報道をしてほしい。
 あれは事故ではなく……「事件」であったのだから。
 二〇一〇年、この本の親本『天空の星たちへ日航123便あの日の記憶』(マガジンランド/復刻版『日航123便墜落疑惑のはじまり 天空の星たちへ』河出書房新社、二〇一八年)が世に出た年に、日本航空は倒産した。しかし、国はこの一民間企業に異常とも思えるような救済を講じた。その陰に何があったのだろうか。
 私は、日航123便の事実を知った「時の政府の人」が、倒産によって日本航空安全啓発センターに展示しているものや、展示していない証拠物が行き場をなくし、それらの隠し場所を失い、唐突に真相が明るみになってしまうことを恐れたのではないかと思っている。また倒産時にバラバラになった社員たちによって、なんらかの事実が明らかになることを危倶し、超法規的措置で救済したのではないだろうかと考えている。日航側は、過去にこれだけ泥を被り、身代わりとなって政治的取引をしたのだから、当然のことながら私たちを救う義務がある、という態度で迫ったのだろうとも推定される。倒産の半年前、新聞報道にあった「社外取締役の出張中を狙って不意打ちのように、緊急増資の取締役会議を開いた日航の態度」という事実からも、その隠蔽体質が浮き彫りになった。
 日航123便の墜落が一九八五年の自民党政権下での出来事であったとはいえ、倒産当時(二〇一〇年)の民主党政権にとっては、その原因を知って驚愕したことだろう。知った以上は、なんらかの懺悔の気持ちが生まれたのかもしれない。人気取りとも言われたが、前原誠司国土交通大臣(当時)が、自民党の歴代大臣が避けていた御巣鷹の尾根登山に参加したのは事実である。その時、一緒に登山をした英国カーディフ大学のクリストファー・フッド教授はその当時のことを回顧して、私に次のように言った。
「前原大臣は登山の最中、神妙な顔つきで、『自衛隊が一晩じゅうかかっても墜落場所を発見出来なかったというが、そんなわけはない』と語ったことを覚えている」。
 クリストファー・フッド教授は、私が二〇二〇年に出版した『日航123便墜落圧力隔壁説をくつがえす』(河出書房新社)に寄稿して下さったが、その中で「JAL123便に起こった事は殺人だ」と、墜落現場で証拠品を見る機会があった関係者から聞いた話も寄せてくれた。
 ただ十一年前は、クリストファー・フッド教授も私も、まだその本当の意味がよくわかっていなかった。もし、二〇一〇年に私が「異常外力着力」の存在を知っていたならば、この本の書き出しは全く異なっていたはずである。そして、その後の『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』、『日航123便墜落 遺物は真相を語る』、『日航123便墜落の波紋そして法廷へ』、と続き、『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』には至らなかったであろう。
 そういう意味でも、あらゆる事実の解明に全力を注ぐきっかけとなった、この『日航123便墜落疑惑のはじまり』は、真相究明の出発点となった。また、群馬県警察医の大國勉氏との出会いは、その後の私の調査研究の方向性を決定づけた。なによりも、連日の夕立で真夏の山中は高湿度になっていたのにもかかわらず、灯油の一種であるケロシンというジェット燃料によって、人間の体がまるで表裏をひっくり返したかのように真っ黒になっていることの不自然さに気づいたきっかけとなったのである。さらに、上野村の標高一六三九メートルほどの、高度とすればそれほど高くない山脈を縫うように落ちた飛行機の乗客乗員が、細切れの体で炭化する理由も不可解であった。こういった私の視点を通じて一般市民の方々が、「これはおかしい」、「これは不自然だ」と、誰もが当たり前に思う事実が積み重ねられていき、「ペン」という武器で、世間に「事件」であることを伝えるきっかけとなったのである。
 『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』のカバーには、「異常外力着力点」が書かれた事故調査報告書「別冊」の図を使用した。この研究資料「別冊」の存在を発見したのは、二〇一三年にネット上にアップされた数年後であるが、パイロット組合の関係者から、事故調査報告書が出た当初から「別冊」の存在はあったはずだと聞いた。私自身はネット上で発見するまでは、一般人同様その存在はわからなかったのだが、それに対して「実は前から知っていた」という後出しジャンケンのような発言もあった。それならばなぜその人は、そしてなぜ事故調査委員は、異常外力着力点を詳細に調べなかったのだろうか。それを知っていた人間が、特にパイロットならば、「異常外力」の調査をするように訴えるのが当然の務めではないのか。しかし、たとえば元日本航空機長の杉江弘は拙著の目撃情報や遺族の話を貶める本を意図的に出版して、逆に攻撃してきた。遺族のためだからといって拙著を茶化す押し付けがましい週刊誌記事も一部出た。しかし、これらは墜落原因に疑問を持つ遺族たちの怒りに火をつけることになった。この事件を問う人を潰すという意図が見え見えだったからである。特に、自分の体験を証言したご遺族の吉備素子氏の怒りは収まらなかった。そしてこれ以上真相究明を妨げられないよう、公正な場での判断を願って、裁判を起こす決意を固めた。
 このような反応は、機長仲間の「触れてはならない違法な状況」を隠したい一心だったのではないだろうか。または、過去に借りのある人に頼まれたのかもしれない。しかしそれは自己保身であるだけでなく、521人もの命を軽んじ、世間を敵に回しても守りたいものがある、ということになる。これは真実を知りたい遺族に対して泥をぶつけるような行為である。
 論理的に考えれば誰もがわかるように、「別冊」には異常な外力が衝突した図解がある。その時の音声記録とフライトレコーダーの数値から見ても、外力が着弾したと同時刻に爆発音があり、垂直尾翼の崩壊は着弾地点から始まったのは明らかだ。たとえ後部圧力隔壁が破損したとしても、直接的な原因は「異常外力着力」である。
 これが長年信じ込まされてきた墜落原因のからくりである。
そこで、誰もが思うことは、なぜ事故調査委員会は「異常外力着力点」の存在を詳細に調べなかったのだろうか、いや調べられなかったのだろうか。つまり真犯人は誰か、という点である。この事件を調査した事故調査委員は、なぜこの「異常外力」の存在を記したものの、意図的に無視した発表をしたのだろうか。今更ながら、三十六年も経て、「お国の為に口を閉ざしている」などという言い訳は通用しない。ここで問われているのは、人としての良心の問題である。
 国の軍隊が関係したと思われる航空機墜落の隠蔽は闇が深い。
 民主主義が徹底している自由の国フランスですら、五十一年ぶりに自国軍による誤射という航空機墜落原因の隠蔽が、やっと明らかになったくらいなのである。
 二〇一九年九月十日の「ガーディアン(The Guardian)」紙において、五十一年前にエールフランス航空1611便がニース沖の海に墜落したのは、実はフランス海軍による演習ミスであったと報道された。
 一九六八年九月十一日、九十四名を乗せた飛行機が、コルシカ島からニースまでの飛行中にレーダーから姿を消した。墜落原因は機内火災だと報道されたが、実は違っていたというのだ。というのも、事件発生直後に現場へ急行したフランス軍は、演習中のフランス海軍艦艇が艦対空ミサイルを誤射していたことを確認していたのだ。しかし、墜落調査の文書や写真は消され、フランス海軍艦艇Le Suffrenの航海日誌のページが切り取られ、遺族はブラックボックスのデータが破損されていると聞かされた。海底から引き上げた残骸はフランス軍当局によって没収され、徹底した隠蔽がなされた。
 五十一年間も軍事機密扱いとして真実が伝えられなかった遺族たちは、こんな長い間、機密にする理由がわからない、即刻開示してほしいとエマニエル・マクロン大統領に訴えた。マクロン大統領も機密が解除されることを望むとして、ようやくフランス国防省の大臣、フロランス・パルリ氏が、機密解除を決定したのである。冷戦という時代的背景を考慮する必要性もなくなっている今、真実を聴くためだけに、五十一年間も待たなければならなかったという遺族の言葉が重い。

 さて、この日本においてはどうだろうか――。
 こういった墜落原因を調査する場合、情報開示は可能か不可能かという選択肢はそもそも間違っている。民主主義国家を名乗るのであれば、フランスのように何年経ったとしても情報を開示するのが当たり前だ。機密事項を永遠に機密にする権利は誰にも与えられていない。
 加えて、日航123便の場合、ボーイング社の修理ミスによる墜落と認めているのだから、そもそも機密事項には当てはまらない。異常外力が誰によってもたらされたのか、それを公表したら信頼をなくす、という消極的な話では済まされない。これは、521人の殺人事件なのだから……。
 そこで重要なのは、私たちのすべき役割は何かということである。
 一九八五年当時、高速で飛んでいる飛行機の垂直尾翼に、外力、つまり武器をもって命中させられるのは、自衛隊(または米軍)しかいない。もしも他国なら、自衛隊のスクランブル発進をかわして国内へ入り込むことになる。北海道や日本海を超えて東京のど真ん中、相模湾上空を飛ぶ飛行機をピンポイントで攻撃、垂直尾翼にヒットさせたことになるが、近隣諸国から飛んできたと仮定しても、そのようなミサイルは当時としては技術的に不可能だ。そもそも、攻撃に至る前段階で自衛隊が排除しているはずである。また、使用されたミサイルの種類から考えても、わざわざ危険を侵した上で爆薬を搭載しない武器を使うというのでは理屈が合わない。日本国を攻撃するならば、爆薬入りの実弾で行うだろう。従って、炸薬無しミサイルで演習中の自衛隊か在日米軍によるものとなり、警察関係者とご遺族の証言や、日本航空広報担当者の間では、当初は北朝鮮のミサイルと思われていたが、その後は、実は米軍にやられた、という説が流言となっていた。
 米軍説は誰も確認したことがない、いわゆる「うわさ」の類であった。このような重要なことが、例えば社内でも広報の人間が吹聴するのであれば、それはすでに機密ではない。まことしやかに、「実はここだけの話」として米軍説を唱えるのは、逆に言えば、その裏に隠された真実があるからこそ、偽りのうわさを流したとも考えられる。本当のことはいともたやすく流布しない。
 従って、一般人には「後部圧力隔壁説」で通し、当時のジャーナリスト、評論家、マスコミ関係者、一般の自衛隊員、日本航空関係者(当事者となった整備を中心に)には、「米軍にやられた説」を流し、真相は限られた自衛隊トップの数名と、ごく少数の大臣や数名の官僚だけが知るものにしたのだろう。
 外務省の要人に聞いたところでは、都合の悪いことは何でも他国、自衛隊ならば米軍のせいにすれば、日本人は恐れてしまい、それ以上誰も立ち入らず、その結果あっという間に忘れ、解決するらしい。しかし、二〇二一年の今、これでいいはずがない。
 自国の問題を解決するために、他国を利用していたとすれば、嘘の上塗りを未来永劫続けなければならず、もし真相が発覚したらどうしようという恐怖心が生まれる。
 そこで事実を指摘する人物や目撃情報、真相が書かれた本をこまめに探して潰すように組織的にネット上に書き込みをさせ、権力に弱い人に「真相」を潰すための本を書かせて、当時の関係者が全て死亡するまで隠蔽し続ける。このように長きにわたって隠蔽工作が必要だとなると、超高齢化社会の日本では、気が遠くなる時間が必要だ。官僚や政治、マスコミの世界では、当時の事情を知る関係者の生き残りが、世代交代を行わずにいつまでも真相が出にくい環境を維持し続ける。特に日本の場合は、権力を持つ長老者がそこにいるだけで、モノを申すことが出来なくなる人も多い。しかし、果たしてそれが将来の為になるのだろうか。これでは、長老者によって若者たちの自由が奪われ、世界の変動に対応した政治すら出来ない。現在のコロナ禍において、オリンピック会長だった森喜朗氏の男女差別言動報道に起因する辞任騒動にもそれは見られた。
 失態を隠すということが、さも美徳であるがごとくに教え込まれた世代やそういう人間は、同調圧力という武器を振りかざし、自ら国の未来を壊すことになる。
 もし、「自衛隊のミス」であれば、自衛隊自身が、防衛のためというベールに包まれて悪事を見のがし、自浄作用が働かないとすれば、日本はその程度の国に成り下がってしまうことは必須であり、こういった隠蔽体質の組織に未来はないだろう。せめてもの罪滅ぼしとして、当時を語る人物がいる今こそ、そしてご遺族がまだ生きている今こそ、防衛省は困難を恐れずに再調査という「勇気」を振り絞るしかない。日本政府もフランスを見習って、覚悟を決めるほうが、逆に支持を得られる時代なのである。フランス海軍は、五十一年間もかかってしまったものの、自ら開示して陳謝することで、最終的には必ず事実を公表するという信頼を得たのだから。
 もし、「米軍がやった」いうのであれば、在日米軍の協力で、日米合同再調査を行うべきである。それが主張できないのであれば、自ら進んで相手のせいにしてもらっていると言っても過言ではない。
 また、もし「自分たちのミスを相手国にかぶせていた」とすれば、心からの謝罪しか道はない。いまさらながらだが、これをきっかけとして戦争など起きない。

「恥」、「後悔」、「自責の念」
 ――衝突は避けられるものだった。私は艦長として責務を果たしていなかった。
 私の役割は愛する家族を亡くした遺族や、えひめ丸に乗っていて負傷した人に謝罪することであり、一生これらの気持ちを抱え続けるだろう――

 この言葉は、二〇〇一年二月九日(現地時間)、愛媛県の宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」がハワイ沖で米海軍の原子力潜水艦に衝突されて、生徒を含む九人が亡くなった事故に際して、二十年経った二〇二一年二月一〇日に、当時の潜水艦の艦長だったスコット・ワドル氏が自身の書簡に書いた言葉である。あわせて、この書簡の最も大切な意味は、「愛する家族を亡くした遺族や、えひめ丸に乗っていて負傷した人に謝罪すること」というスコット氏の謝罪文が報道されたことだ。当初は海難事故として処理し、自国軍の責任を認めようとしなかったアメリカも、ハワイの日系人や市民社会による熱心な働きかけによって責任を認めた。これが人として当然の誠実な姿勢であって、米軍は怖い、という勝手な恐れよりも、市民の果たす役割は重要なのだ。
 二〇二〇年七月二十八日、私はご遺族の吉備素子氏を会長として弁護士、研究者、有識者、一般賛同者と共に、「日航123便墜落の真相を明らかにする会」を立ち上げた。私たちは、この事件の関係者が過去の過ちを直視し、誰もが納得するような結論が出るように働きかけている。そして日米双方が、とりわけ日本国の防衛省と国土交通省が、長年の放置と圧力隔壁説という偽りの結論についての再調査をし、遺族へ謝罪することを目標としている。
 なお、私たちは情報公開法に基づいた正当な手続きを経て、国土交通省外局運輸安全委員会に情報開示を求め、その結果を得た。二〇二〇年三月十日に出されたその答申書の全文は『日航123便墜落圧力隔壁説をくつがえす』に掲載した。この結論を簡単に言えば、日航123便については現在調査中であり、調査を継続しているから国立公文書館に引き渡す必要はなく、情報公開は出来ないと言い張っている。しかし、そのわりには異常外力は調査せず、相模湾から引き上げもせずに、結局のところ情報公開にまともに応じず、全く口を閉ざしたままである。
 また、日航安全啓発センターという、未来永劫嘘をつき続けるために造ったプロパガンダ施設は、乗客への裏切りだけではなく、公共交通機関として存続する資格すらない会社の所産と言われても仕方がないものとなっている。どの国でも国益優先の内容で展示することはあるがそれは国立であって、日本航空のような一民間企業がやるべきことではない。株式会社である日本航空は株主への説明責任がある。しかしこの対応は、大株主とのもたれ合いの役割を果たすものであったとしても、株主一人ひとりへの説明責任を放棄したものだ。ましてや、521もの命と引き換えに、偽りの内容を強調するような展示をすべきではないのである。それに加担させられた元社員たちは、生涯にわたる「沈黙」と引き換えに、その後の人生に暗い影をもたらされる。生きている限り、精神を病み続けている。当事者だった自衛隊員も同じだろう。これらを強いた人間たちは、当時の部下を、社員たちの暗闇の心情をどれほどまで理解しているのだろうか。
 本当の信頼関係はいつまで経っても偽りの関係からは生まれない。それは一人ひとりの良心に基づく、ちょっとした勇気から生まれていくものである。
 文庫化に際して、解説文をお寄せ頂いた「日航123便墜落ボイスレコーダー等開示訴訟弁護団」団長の三宅弘弁護士に、深く感謝申し上げます。
 今年の三月二十六日、ご遺族が東京地方裁判所に提訴した訴状には、この本を含む五冊の拙著が「証拠方法」の欄に記載されました。ご遺族と共に真実を究明することを快くお引き受け下さった三宅弘弁護士を筆頭に、数名の弁護士の皆様にも心から感謝いたします。
 いつも私を支えて下さっている読者の皆様、河出書房新社の皆様と担当編集者の岩本太一氏、ご遺族の吉備素子さんと市原和子さん、そしてこの本をきっかけとした数々の奇跡的な出会いに感謝いたします。

 なお、以上の著者のあとがきに加えて、本書には三宅弘弁護士の「ミネルヴァの梟」と題する「解説」も掲載されているので、三宅氏の略歴とともに以下に紹介させていただきたい。

解 説 ミネルヴァの梟
                   三宅弘(みやけ ひろし)
略歴
弁護士、京都大学博士(法学)。第二東京弁護士会会長や日本弁護士連合会副会長、関東弁護士会連合会理事長等を務め、内閣府公文書管理委員や総務省「情報公開法の制度運営に関する検討会」委員等を歴任。現在は日航123便ボイスレコーダー等開示請求訴訟弁護団を務める。著書に『監視社会と公文書管理−森友問題とスノーデン・ショックを超えて』(花伝社、二〇一八年)など。

 本書の著者青山透子は、元日本航空客室乗務員。日本航空に入社後、まず地上業務を学ぶため各地空港や市内支店等で地上研修を受け、その後、国内線と国際線とにそれぞれ振り分けられて配属された。国内線に配属後、国際線に移行し、世界中を飛び回り、三十カ国の三十七都市を訪れて、ようやく自信がついた。丁度その時期、一九八五年八月十二日に起きた日航123便の事故を伝える新聞記事で、同便に搭乗していた客室乗務員の六人全員に「再会」した。
 日航123便に搭乗していた客室乗務員は、かつて同じグループで働いた先輩たちだった。本書は、その先輩達を含む被害者五百二十名と一人の胎児に対する鎮魂の書である。あの惨劇を繰り返さないために当時の様子を克明に記録しようと動き出した筆者は、新聞記事を徹底的に洗い出した。まさに、報道機関の報道は国民の「知る権利」に奉仕するものであった。この洗い出しをふまえて、現場となった上野村の当時の村長、地元消防団員、歯科医師ら、関係者にも取材を重ねた。現場百会、これは私が先代弁護士から教わった造語であるが、現場に立つと、新事実が顕れ、前提事実と重なり合い、真実に迫る。法律事務家にとって、特に大切な言葉である。本書の筆者は、まさに、これを科学者として励行した。そして、次第に恐るべき疑惑が浮上した。青山ノンフィクションの誕生を告げる、鎮魂のドキュメントである。
 本書筆者の著作は、直近の『日航123便墜落圧力隔壁説をくつがえす』まで五冊ある。本書はそのすべてのはじまりとなった一冊である。この五冊の著作をふまえて、現在、東京地方裁判所において、日本航空123便ボイスレコーダー等開示請求訴訟が始まっている。訴訟では、航空事故調査報告書が本件事故原因として正式に発表した日航123便後部の圧力隔壁説を否定し、模擬ミサイルが本件123便機の垂直尾翼の「異常外力着力点」に誤射されたことが本件事故の原因であると主張している(炸薬なし模擬ミサイル誤射説)。
 航空事故調査報告書の発表から二十六年経った後に公表された航空事故調査報告書付録・JA8119に関する試験研究資料には、明らかに垂直尾翼上の異常外力着力点が指摘されている。圧力隔壁説では、この着力点を無視した立論が展開されているが、異常外力着力点にこだわって本書を読むだけでも、「何らかの衝撃を受けて尾翼の前方部分がちぎれて海に落ちて、操縦不能となった見方が裏付けられる」(本書155頁)、「誰ひとりとして機外へ吸い出されず、機内の荷物も散乱せず、突風も吹かなかった。(後部圧力隔壁の側に位置していた)落合さん自身の鼓膜も無事だったからインタビューにすぐ応じられた」(本書168頁)などという圧力隔壁説を疑う事実が読みとれる。
 一九八六年十月二十六日タイ国際航空の爆破事故の際に圧力隔壁破壊によって起きた急減圧の状況と比較しても、「日航123便の事故とはまったく異なる状況」。本件123便機では、「墜落直前の日航ジャンボ機の中で酸素マスクが落下している中、半そで姿の乗客一人ひとりが落ち着いているように見える」という写真が存在していた(本書272、490頁)。本件123便機に向かって、動力を持つオレンジ色の円錐か円筒状の飛行物体が、窓の外に飛行していたことを明らかにする写真もある(『日航125便墜落圧力隔壁説をくつがえす』143頁)。
 筆者は、本書刊行後も、目撃証言を聴取し、墜落前に大きい飛行機と小さいジェット機二機が追いかけっこ状態にあったことや、静岡県藤枝市、群馬県上野村で真っ赤な飛行機が飛んでいたことが目撃されたこと、という事実を掌握している(『日航123便墜落の新事実‐目撃証言から真相に迫る』、『日航123便墜落圧力隔壁説をくつがえす』)
 さらに歴史を遡ると、一九七一年七月三十日には、飛行訓練中の自衛隊機が全日空ジェット旅客機に空中接触して旅客機を墜落させた全日空雫石自衛隊訓練機衝突事故が起きている(仙台高等裁判所昭和五十三年五月九日判決・判例時報890号15頁)。当時、多くの機長たちが常に自衛隊機によって仮想敵のようにされている、と新聞で大々的に報道されていたという。巡航ミサイルの開発や訓練が実施され、一九八五年八月十二日から見ての次週から日米合同訓練があるため、模擬ミサイルをもって全日空機ではなく、当時は半官半民の日本航空の元自衛官である機長が操縦する本件123便機を仮想敵として、予備的な訓練が行われていたとしたら、圧力隔壁説を前提とする事故報告とは異なる仮説が考えられる。
 その仮説に基づき本書を改めて読む時、鎮魂のドキュメントの中から、疑問点が氷解するように思う。
 私たちは、二〇二〇年一月八日にイランの首都テヘランを飛び立ったウクライナ航空752便が離陸直後にイラン軍(革命防衛隊)の地対空ミサイルで撃墜された事実を知っている。
 自衛隊違憲論も根強かった当時をふり返るに、もしも模擬ミサイル誤射説が真実であったとしたら、その後の防衛政策は今あるように展開していたであろうか。また、二〇一五年の安全保障法制の採決強行は実現できていたであろうか。一九八五年当時、巡航ミサイルの開発と訓練を国家秘密として扱ったうえで、本件123便機の墜落原因が調査されていたのではないか。「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」。本書は、その疑いをふくらましてくれる。

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