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米田憲司著

『日航123便事故 40年目の真実 御巣鷹の謎を追う』

(宝島社 2025.6.9刊)

著者略歴
 米田憲司(よねだけんじ)
 1944年、大阪市生まれ。ジャーナリスト。
 航空、軍事、司法、環境問題などの分野で活躍。日航123便墜落事故の取材当時は、しんぶん赤旗の記者であった。本書のほかに『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』(宝島社)、『この飛行機が安全だ!』(共著、宝島社)、『切り拓いた勝利への道 石播人権回復闘争の真実』『天職を貫いて見て、聞いて、考える新聞記者の世界』(ともに本の泉社)などの著書がある。

 本書は、日航123便墜落事故に関する「事故調査委員会の報告書」に対する疑問からその真相を究明すべく立ち上がった優れたジャーナリストの記録のいわば集大成ともいえるものである。
 内容の多くの点において、これまで筆者が取り上げてきた青山透子氏、藤田日出男氏、小田周二氏の著書に重なっている部分があるが、他方でいくつかの点で特筆すべき内容もある。

しんぶん赤旗の記者として日航機墜落事故を取材

 その一つは、著者がしんぶん赤旗の記者であることから、赤旗の地方記者の取材ルートを通じて多くの情報が得られ、それによってこの日航123便墜落事故報道において優れた特ダネ・スクープを生み出すことができたことである。
 具体的には、生存者の一人川上慶子さんの父親の英治さんが、日本共産党の島根県大社町の町議会議員であったことから、島根県の赤旗記者の取材により、いち早く川上慶子さんの伯母など親戚筋からの情報を通じて事故直後の慶子さんの様子などを知ることができたことが挙げられる。それによって、墜落直後に川上慶子さんは父親と妹とも会話していて、その時点では二人はまだ生きていたことがわかったのである。救出が早ければ二人は助かった可能性もあったかもしれない。生存者の落合由美さんも、墜落直後に泣き叫ぶ子どもの声や多くの乗客たちのハア、ハアという息づかいを聞いたと証言しているので、二人だけでなく多くの乗客の命が救われた可能性も否定できない。
 



(本書より)

 さらには、1995年8月27日にアメリカ太平洋軍の準機関紙の星条旗新聞に掲載された日航123便墜落事故に関するアントヌッチ米軍中尉米空軍の輸送機C‐130Hの航空機関士を)の証言を、共産党沖縄県の市議がいちはやく見つけ、赤旗本社に知らせて来たことで、翌8月28日のしんぶん赤旗のスクープが生まれた。
 星条旗新聞の記事によれば、アントヌッチ氏らは、日航123便墜落の約23分後に現場到着していて、横田基地にもその旨連絡し、日本側もおそくとも2時間後には救出に駆けつけることができたはずだ、と証言していた。この赤旗のスクープを追いかけるようにその後報道各社もこの件を報道するようになった。
 それにしても日本航空、政府・運輸省は墜落後30分ほどで、米軍から墜落地点の情報を得ていたのに、なぜ救急隊の派遣を遅らせたのか、そしてなぜ翌朝までマスメディアに嘘の情報を流し続けさせたのか。
 これに対する当時の政府・運輸省からの合理的な説明はなされていない。
 米田氏は、これに対して次のように述べている。

 事故が起きた12日から13日にかけての防衛庁・自衛隊の墜落現場の確認発表と捜索・救難の遅れが問題になったのは、墜落時は父親も妹も生きて話し合っていたとの川上慶子さんの証言や、「助けて」という複数の子どもの声を聞いていたという落合由美さんなどの証言が明らかになったためである。
 米空軍C130のアントヌッチ氏証言では、米軍ヘリが救助活動のために現場に降下していたその欠先、横田司令部から「日本の救援機が向かっているから引き上げろ」という命令が出て、仕方なく引き上げたという。もし、その段階で救助活動が行われていたら、もっと多くの乗客・乗員を救出できたかもしれない。いずれにしろその後の救助対策が迅速になり、事態は大きく変わってくることは違いない。
 したがって、自衛隊の現場確認の遅れと救難活動の遅れに批判の声があがるのは当然である。(同書 第2章「米アントヌッチ氏の証言と自衛隊の搜索救助活動」)

自衛隊による墜落地点の意図的な誤情報

 また、米田氏は自衛隊の4回にわたる墜落位置情報の誤報についても、これは明らかに意図的なもので、21:59に出された最初の「長野県御座北斜面」は、この時点で自衛隊は正確な位置情報を把握していたわけなので、もはやこれは謀略ともいえるのではないか、と批判している。その後の三回にわたって出された位置情報もいずれも誤報であり、4回目の誤報は「御座山の東5キロ」で、やっと長野県から群馬県側にはなったがまだ実際の墜落位置より北西に5キロも離れており、しかもこれが出されたのは翌日13日の午前5時10分であるからすでに夜はすっかり明けていたので、もはやなんの情報価値もなかったのである。自衛隊・警察が場所の確定を公に行ったのは、それから約20分後の午前5時37分の長野県警ヘリによる「御巣鷹山南南東2キロ」であった。NHKもこの直後にようやく正しい墜落現場を報道した。
 自衛隊は明らかに意図的に誤情報を流していた。「結論的にいえば、墜落現場の確認を、誤報によって長野側に目を向けさせ、地元の長野、群馬の捜索隊やマスコミを遠ざけたのだ。意図的でなくて、なんなのか」(同書 同前)と米田氏は怒りを隠さない。

 そして、米田氏は「最後に少々ミステリアスな話になるが・・」と前置きしたうえで、群馬・高崎に住むジャーナリストの友人の話を紹介している。

 彼の取材によると、神流川での小中学生を対象にした「ガキ大将スクール」(代表 黛敏男氏)の夏季合宿訓練中の大学生が12日夕方、事故を知ったスクールの代表の指示で、墜落現場の位置方向を確かめるためバイクでぶどう峠に向かった。しかし、特に異常はなく、ぶどう峠と三岐集落の中間にある御巣鷹山方面の中の沢の林道まで入って行った。林道に入ったのは、ぶどう峠が何もないので、林道入り口の鉄製の格子状のドアを通って、何気なし捜索に入ったのだという。御巣鷹山西側に行く林道で、午後22時前後だった。林道の果てにある支流の仲ノ沢あたりに来ると、サーチライトを灯けたヘリが飛行しており、地上には懐中電灯を持った背広姿の男二人がいた。すると、青白い信号弾が上空に上がるのを視認、その直後に二人組は2000CCクラスの乗用車で林道入り口方面に向かって出て行った。大学生の話では、二人組は挨拶も言葉を交わすこともなく立ち去ったという。(同書 同前)



(本書より)

日航123便と自衛隊の関与の有無

 この話を米田氏が友人から聞いたのは事故から間もない20年前のことであるが、その10年後の再取材の際に、米田氏自身も友人とともに支流の仲の沢の奥まで行ってみたという。その結果、あの時の背広の二人組は自衛隊の関係者に違いなく、彼らは墜落現場の近くの中の沢の川原あたりのどこかに、自衛隊ヘリが降りられる適当な場所があるかどうか探していたのではないか、と思ったという。なぜなら、その場所に「ヘリで小部隊を投入すれば、村の住民の目にも届かないことになる」から、と米田氏は言う。
 そこで、米田氏が「広域消防上野出張所資料」の捜索日誌を入手して読んだところ、上野村の猟友会の人たちは、13日午前1時30分頃と同3時26分に品塩山西側の中の沢で、群馬県警の捜索隊に対して自衛隊ヘリからサーチライトで3回の点滅合図が行なわれていたという事実を確認していたことが分かった。県警からはそれは「現場確認の合図」だと説明を受けたらしいが、墜落現場とはかなり離れた地点なので、猟友会などのメンバーは信用していなかった。彼らは「あいつら何をやってんだろう、と思っていた」と米田氏に語ったという。そのうえで、米田氏は、つぎのように述べている。

 おそらく隠密裏の作戦で少数の部隊が墜落現場に行き、123便と自衛隊の関与の有無を調べた、と私は考えている。軍事的に考えれば当たり前の話で、軍事評論家もあり得る話として判断している。ヘリによる2回の合図は、中の沢の捜索隊の地点と墜落現場を目指す部隊自身のいる地点を測定確認し、墜落現場へ誘導する作戦と推測できる。前著作では「陽動作戦(敵をあざむく作戦)」の可能性も含めて記述したが、確証は得られなかった。 この中の沢の状況を今回、改めて分析してみた。小部隊でも部隊を投入するのは、それなりの関与の有無確認という根拠があるはずで、要するに三角測量の応用である。A地点(墜落現場)とB地点(中の沢と機動隊)で両地点のヘリを使って位置を確認し、移動しているC地点(墜落現場に向かう自衛隊部隊)に、その角度から求点である墜落現場に誘導する作戦である。測量方法の一種である。自衛隊ヘリはB地点の捜索隊と機動隊に軍事用語でいう標定(各種の手段で目標位置を確認する)をしていた。群馬側は予想以上に入り組んだ山と谷、尾根があり、尾根が一つ違えば、その先は見えなくなる。(同書 同前)

 さらに、米田氏は続けてこう述べている。

 地図で調べてみると、中の沢からカマガ沢に入って御巣鷹山の西側から墜落現場にいくことは可能であるが、当日の道無き真っ暗闇の状況を考えると、ヘリによる誘導など後方支援がないと無理である。2回の点滅合図は午前1時半と同3時半で2時間の差があり、その時点での位置確認で求点の墜落現場をめざしたことになる。隠密裏の部隊とすれば、墜落現場には午前5時前後に到着している。立命館大学の深井純一教授一行(筆者注:たまたま大学ゼミ合宿のため学生数人と現場近くに宿泊していた)は午前10時すぎに現場に到着。上野村の猟友会・消防団は午前10時20分すぎに到着している。深井教授は到着した時に自衛隊ヘリが何かを吊りあげているのを目撃している。その間、約5時間はあるが、墜落現場は広範囲で残骸が散乱しているので、何から手をつけるか、判断などできそうにない。その中で事故に関与していた「物的証拠」を見つけることなど甚だ困難である。それに事故調査前に残骸の機材を運ぶことは法律的にもできない。
 本来、徒歩で墜落現場に行くには、事故当時は奥地の木材を搬送する神流川沿いのトロッコのレール道のあった本谷から入ったほうが早いが、地元の林業関係者の案内がないと簡単には行けない。自衛隊にはそういう現地の状況は分からないし、秘密裏の作戦であるため、車が行ける林道を事前に地図で確認して中の沢ルートにしたと見られる。現在は神流川の上流に上野ダムも建設され、そのための道路も整備されて事故当時の地理的状況はまったく変わっている。自衛隊の事情で、中の沢から偵察部隊を事故現場に向かわせる、このような作戦を誰がどう考えたのかという推察も必要であるが、防衛庁・自衛隊に問い質しても軍組織の秘匿性から恐らく答えないし、特別国家公務員の守秘義務もあり、肯定も否定もしないだろう。長野・群馬の捜索隊やメディアの目を偽情報で「長野側」に向けさせている間に、偵察部隊を墜落現場に到着させて事故の関与の有無を確認していたとすると、4回にわたる誤報発表も符合する。(同書 同前)

 日航123便墜落事故については、当初より自衛隊の動きがきわめて不自然であることについては多くの関係者から指摘されていた。公式な発表では、自衛隊は日航機での異常発生(18:24)からおよそ40分後、墜落(18:56)からおよそ10分後の19:05に茨城県の百里基地からファントム2機を緊急発進させたことになっているが、青山透子氏によれば、なんと異常発生まもない18:35頃に静岡県藤枝市で低空飛行の日航機を追尾している2機のファントム機が地元女性に目撃されていた証言があるという。となると墜落前どころか異常発生後ほどなくファントム機は日航機を追尾していたことになる。(青山透子著『日航123便 墜落の新事実』第2章)
 これを裏付ける証言があることを明らかにしたのは、『永遠に許されざる者』の著者小田周二氏である。小田氏は同書で次のように述べている。

 この衝突が何であったのかを期せずして告白・証言した人物がいる。当時の航空自衛隊百里基地司令官である。
 航空自衛隊百里基地の稲吉司令官は、戦時中の軍隊で同期だった友人(岩田祐次郎氏、青島海軍航空隊吉津会会員)に電話でこう語っている。
 「えらいことをした。標的機を民間機(日航機)に当ててしまった。今、百里基地から偵察機(F-4E改造機)2機(式地豊二尉ほか)に追尾させているところだ」
 (『永遠に許されざる者』文芸社 2017.7.30刊)
 上記で稲吉司令官は「今、・・・追尾させているところだ」と述べているので、この電話は、事故発生直後だと推察される。




(本書より)

 その他にも墜落現場となった地元の小学生や中学生が残した手記にも「大きい飛行機と2機の小さいジェット機」が現場上空を飛んでいたという証言(青山氏 前掲書及び『日航123便墜落事件 四十年の真実』河出書房新社 2025.7.20刊)があり、また、当時現役の自衛官(相馬原第十二偵察隊)一等陸曹M・K氏は、『日航機大惨事災害派遣に参加して』と題する手記(群馬県警察本部発行の『上毛警友』昭和六十年十月号に日航機墜落事故特集号として掲載されたもの)で、次のように述べている。「八月十二日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後六時四十分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム二機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあったのだろうか』と兄と話をした。午後七時二十分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った」(青山透子『日航123便 墜落の新事実』より)
 藤枝市の女性の証言とこの自衛官の証言は、いずれも百里基地からファントム機2機を緊急発進させたという公式発表19:05時点の前のことである。つまり、現れるはずのないファントムジェット2機が事故発生現場からほど近い場所を飛行していたという目撃証言である。しかも、日航機の垂直尾翼脱落という異常発生時からおよそ7分後のことである。この自衛隊の情報操作をみれば、この事故と自衛隊はなんらかの関係があると考えるのは自然なことであろう。
 それゆえ米田氏は、墜落現場からメディア関係者などを遠ざけようとするかのような墜落地点に関する誤情報の繰り返しや墜落現場における不可解な自衛隊の偵察行動については、この日航123便墜落事故になんらかの形で自衛隊が関与していたかもしれず、その有無についての確認作業を行っていたのではないか、と述べている。では、どんな関与があったと考えられるのだろうか。しかし、残念なことに、米田氏は自衛隊の関与については、それ以上特に何も述べていない。

事故機の操縦室音声記録(ボイスレコーダー)のテープコピーを入手

 また米田氏は、アントヌッチ氏の証言からおよそ5年後に、事故機の操縦室音声記録(ボイスレコーダー)のテープコピーが「日航123便墜落事故の真相究明に役立ててほしい」として人を介して彼のとことろに送られてきたことから、事故原因の究明へ向けて一つの大きな前進が得られた、という。
 まず、米田氏はこのボイスレコーダーのコピーが本物であるかどうか確かめるために、事故機の機長のご遺族にも聞いてもらい、本人であると確認したうえで、航空関係者を交えてその解読にあった。その結果、いくつかの事実が明らかになったと、次のように述べている。

 操縦音声記録を入手して、事故調査報告書と巻末の操縦音声記録を照らし合わせながら何回も聞いていると、会話の正確な判読とともに、事故調査報告書に記述してある部分とは違うところに気がついた。報告書の本文(115ページ)では「18時26分30秒以降数回にわたり酸素マスク着用についての声が記録されている」としているが、巻末の操縦室音声記録では酸素マスク部分は18時33分35秒にある。急減圧発生との「整合性」をとるために、本文を7分05秒繰り上げていることに気がついた。本文と巻末の記録者が違っているため整合性がないというのは通らず、酸素マスク部分を急減圧説に合わせるために捏造していることになる。事故調査報告書そのものが信用できない証拠になってしまった。事故調は極秘のボイスレコーダーが将来、外部に流れてしまうことまで考えてはいなかったのだろう。後述の「内部告発」の項で詳細に記述しているが、良心的な事故調査関係者や運輸省(当時)の役人の中には、矛盾と問題点が多い123便事故調査報告書をそのまま国民に知らせることへの抵抗を感じた人がいて、内部告発としてボイスレコーダー流出になっていったのだろう。極秘のボイスレコーダーの入手により、操縦室の操縦状況だけではなく、後述しているが、操縦室音声記録も含めて事故調査そのものへの疑惑にまでふくらむことになったのである。(本書 第3章「ボイスレコーダーの事故調分析に疑義」)

 このボイスレコーダーの記録は本物である可能性は高いが、実際にすべてがきちんと公開されているのかどうか、また改竄や削除があるのではないか、と多くの人が疑義を唱えている。米田氏もその一人である。
 米田氏は、さらに次のようにも述べている。

 事故調は、会話のない箇所や事故調にとって「不必要」な箇所だけでなく、「不都合」な会話まで削除して編集している可能性がある。本来のオリジナルなテープから、事故調にとって不必要、不都合な箇所を意図的に削除し、編集をし直して32分に収めて公表していると見ることができる。事故調の想定している「隔壁破壊⇒急減圧⇒垂直尾巽破壊」のシナリオの否定につながる会話は削除したという可能性まで合わせて考えないと、事故の真相究明にならない。(同前)

 そのうえで、米田氏は、これまで多くの元パイロットやジャーナリスト、そして奇跡の生存者などから指摘されてきたように、事故調査報告書の指摘する「急減圧」はなかった、という立場に立って、それならば何が原因で垂直尾翼は吹き飛ばされたのかを検証していくわけであるが、そこで、彼は「外的要因説と内的要因説」があるとしたうえで、次のように述べている。

外的要因説と内的要因説

 あくまで可能性の話になるが、まず、直接の原因を考える場合、機体の胴体後部でトラブルが発生していることに異論はない。外的要困は垂直尾翼が壊れたことで見ると、誰しも考えるのは何かの物体が当たったことだろう。ミサイル、無人標的機、隕石、氷塊などがあるが、垂直尾地異を破壊してしまう物体として限石や氷塊は考えにくい。当初はミサイル説や無人標的機説など唱える人もいたが、フライトレコーダーでは機首が5度近く上がってはいるけれど、機体はぶれずに直進している。
 何かが当たったのではないということだ(下の図の縦の線が「ドオーン」という異常音の時刻)




(本書より)

 米田氏は、ここで、垂直尾翼が吹き飛ばされたあと日航機はぶれずに直進しているから、という理由で外部要因を否定している。しかし、問題はその根拠とされるフライトレコーダーの資料が果たして信頼できるものであるかどうかという点である。
 ボイスレコーダーが一部改竄されたものであるという点については米田氏も認めている。であるならフライトレコーダーもその可能性は充分あるだろう。現に、衝突後の飛行高度については明らかに不自然なとことろがある。
 日航123便墜落事故の真相究明を続けている青山透子氏はその著『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社)の中で、2015年9月に著者を訪ねてきた小林美保子と名乗る女性から次のような証言を得たと述べている。彼女は、一九八五年当時二十二歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。

 八月十二日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも十七時半で終わる予定が十八時三十分頃になってしまった。
 タイムカードに打刻をして階段を下りて外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と二度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた。
 ちょうど会社の敷地内で前方に東名高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺色の線が入っていた。駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしてもいつもの航空路ではないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった。

 飛行機の乗客の絶叫が聞こえたというこの証言からすると、どう見てもこの藤枝市付近を飛んでいたジャンボ機はかなりの低空飛行をしていたことになるが、事故調が発表した飛行経路データ(下図参照)でみると焼津付近では24900フィート(約7590メートル)となっていて、これでは地上からはジャンボ機でも小さな豆粒程度にしか見えないはずだ。明らかに、この飛行高度はおかしい。目撃情報と突き合わせてみると、飛行高度ばかりでなく飛行経路もかなり怪しいのだ。おそらく事故発生直後の飛行経路についても改竄されている可能性が高い。しかし、フライトレコーダーは全面公開されていないので、その確証はつかめない。
 とすれば、事故調の発表データだけで異常発生後も直進していると判断し、それをもって外部要因を退けるのは、ちょっと無理があるのではないだろうか。




事故調査報告書データより作図

事故調査委員会報告書が示す「異常外力着力点」

 ところで、本当に外部要因はなかったのか。ここで、あらためて事故調査委員会の事故調査報告書を見てみよう。すると同報告書の付録6「DFDRに基づく事故機の飛行状況及び飛行経路について」の中で、「異常事態発生後に噴流や外形変化によって生じた外力(LNGF、VRTF)を推定することにより破壊のシナリオを裏付ける」として以下の付図1(116ページ)を掲載している。




事故調査報告書付図より

 この異常外力は「異常事態発生後に噴流や外形変化によって生じたもの」とされているが、噴流や外形変化がどのように生じたのかの説明はない。さらに言えば、噴流というのは客室内の空気の噴流を指すものと考えられるが、空気の噴流が外力としてある一点に着力するというのは流体力学の法則からすればありえないのである。たとえ、流出口がきわめて小さく流出先がきわめて近くとも空気であれば着力は点ではなく円状になるはずだ。しかも、流出口がきわめて小さいならば、どれほど激しい噴流が生じても、その噴流で尾翼を吹き飛ばすほどの力が生ずることは考えられない。こんないい加減な説明で異常外力の存在を説明しようとしているのは、逆に考えれば、他の異常外力が確かに存在したという事実を浮き彫りにするだけではないのか。

 青山透子氏は、この付図-1についてその著『圧力隔壁説をくつがえす』(河出書房新社 2020.7.20刊)の中で次のように述べている。

 付図-1には、異常外力の水平成分(LNGF:Longitudinal Forceの略)と、異常外力の垂直成分(VRTF:Vertical Forceの略)の着力点が明確に示されている。
 「1-2 運動の数値解析」の項目で、この図について「異常外力LNGF(水平成分)、VRTF(垂直成分)の着力点は、付録6の付図-1に記した」と書いてある。したがって、垂直尾翼の黒い丸印の部分に、異常な外力が着力したということだ。
 異常-正常のフライトでは考えられない突発的異常事態の力
 外力-外部から加わる力。外部とは大気、つまり空を飛行中に加わった力
 着力-その場所にやってきて着いた力、その着地点
 これらの力が、垂直尾翼の中央部の黒い丸印の地点で発生した。
 これらはフライトデータをもとにして異常発生の前後を計算しており、これほど道理がはっきりしていてわかりやすいことはない。(前掲書 第2章「異常外力着力点」より)

 この青山氏の説明に対して、パイロット関係者の中から出てきたのがフラッター説である。これに対して、青山氏は近著『四十年目の真実』の中で、以下のようにきっぱりと反論している。

 パイロット関係者の中にはいまでも垂直尾翼破壊は「内圧によるもの」と言う人たちがいる。
 二〇一三年に公開された垂直尾翼に異常な外力が着力した事故調査付録の図を指さし、これは「外力」ではなく、「空力中心」のようなものだと言い、外から何かが当たった可能性ではなく、急減圧で外板がはがれる時の空気の流出や、その後の空気抵抗の増大も含めた全体的表現だといって「異常外力着力点」を否定する人がいる。これは大きな間違いである。彼らは意図的に航空力学に話をずらし、垂直尾翼崩壊の痕に発生した外板がパタパタと擦れたフラッターの存在を強調することで、フラッター説を唱えた。
 そこで、パイロットが知らないジャンボ機の垂直尾翼の細かい構造にヒントがあることを、元日航整備士が私に教えてくれた。それは、「垂直尾翼は密閉空間ではない」ということである。
 それを詳細に説明していきたい。
 まず、パイロットが頻繁に動かす水平尾翼や垂直尾翼の可動部分は、その可動域、つまり動かす部分の胴体に扇状の穴が開いている。操縦で動かすだけのパイロットはその基本的な構造がわかっておらず、形状について何も理解していない。
 動く構造ゆえ、当然動く部分にビス穴があり、可動させる部分とつないでいる。その可動させるためのビスには扇状の穴がいくつも開いており、そこから空気の流動が常に生じるのである。
 つまり垂直尾翼は、風船のような密閉した空間ではない!
 これをどれほどの人がわかっているのだろうか。垂直尾翼について議論するためには、まずこの点から始めなければならない。
 さらに、その可動域にある扇状の穴の開放部分は、雨や異物の進入を防ぐために、フェアリングと呼ばれるカバーで覆ってあり、このフェアリングも尾翼が稼働すると共に動く。そのフェアリングが覆っている部分には多数のビス穴の開口部があるのだ。この開口部分に万が一、大きな空気圧がかかった場合は、それをカバーしているフェアリングが空気の圧力で押し出され、その結果、垂直尾翼内の空気が外に逃げていく仕組みだ。
 したがって、垂直尾翼の外圧と内圧は常に同等で強い圧力などがかからない構造になっている。
 頑強な垂直尾翼の大部分を、しかも一瞬で吹き飛ばす空気圧がそもそも垂直尾翼内に溜まる構造ではないのだ。
 それを世間は空気の逃げ場がない風船のような尾翼だと思い込み、そこが破裂したと思い込んでいる。これらは垂直尾翼の構造を知らない人間による大きな勘違いである。
 たとえパイロットが独自に考え出したフラッター説であっても、最初のきっかけはわからないままであり、何かによって破壊された後にフラックー状態でパタパタと周りの千切れた外板が擦れて落ちていったのであって、最初に何が起きたのかはわかっていないのである。(同書第2章 検証9「異常外力着力点が『外力』である明確な理由はなにか」)

 青山氏が述べているように、垂直尾翼の構造が常時空気を外に逃がす仕組みになっているとすれば、後部隔壁の一部破壊によって各室内の与圧空気が一気に尾部に流れ出し、それによって垂直尾翼の大部分が一瞬で吹き飛ばされたという「後部隔壁説」はそもそも成り立つはずがないということである。それを前提にした説明はすべて虚構であると断言してもよい。にもかかわらず、あえて「異常外力の着力点」などという説明図を挙げているのはなぜか。おそらく事故調査委員会は、万一なんらかの「異常外力」の証拠が提示された場合のいわば保険として、これを提示したのではないか、そんなことも勘ぐりたくなるほど稚拙きわまりない説明である。
 しかし、米田氏はこの「異常外力の着力点」については特に何も触れていない。

 本書において、米田氏は、アントヌッチ氏の証言の全文翻訳、そして、奇跡的に一命をとりとめた落合由美さん(当時日本航空客室乗務員でたまたま非番で帰郷のために乗客として日航123便に乗り合わせ、事故に遭遇した)のインタビューの全文、さらに独自に入手したボイスレコーダーの全文とその一部の独自解読結果など、多くの貴重な資料を掲載してくれており、まさに一読の価値のある書籍であるが、残念ながらいくつか重要な点については充分な検証がなされていない。その一つが自衛隊の関与についてである。

事故調の「後部隔壁破壊説」は明らかに誤り

 日航123便墜落事故について筆者はこれまで青山透子氏、藤田日出男氏、小田周二氏のこの事故に関する書籍を取り上げてきた。三者とも事故調査委員会の出した調査報告書に述べられた「後部隔壁破壊説」に対しては米田氏と同様、これを否定している。事故調のこの説は、「急減圧はなかった」という落合由美さんの重大な証言を一切黙殺したうえで作り上げられた偽りの説だからである。ちなみに、この「落合証言」は日航の元パイロット藤田日出男氏宛に事故調の内部告発者からもたらされ、藤田氏の著書『隠された証言 日航123便墜落事故』(新潮文庫)によって公にされたものである。もしこの内部告発がなかったら、この「落合証言」も闇に葬られていたかもしれない。
 繰り返すが、この「急減圧」がなかったということは、「後部隔壁破壊によって垂直尾翼が吹き飛ばされる」という事故調の説はその前提から崩れ去ることになるのである。
 しかも、この「落合証言」を裏付ける証拠はその他にいくつも存在する。例えば、ボイスレコーダーに記録された音声を聞けば高浜機長をはじめ操縦室にいたパロットたちは誰も酸素マスクをつけていなかった。彼らの声はくぐもっていないし、彼らは普通に会話しているので鼓膜の異常なども生じていなかったことがわかる。そしてなによりも以下の事故発生直後に客室内の様子を写した写真(遺族より提供された)を見れば、酸素マスクは降りているが、客室内は整然としていて意外に穏やかだ。「急減圧」があれば、ダッシュボードが開くなり、備え付けのものなどが客室内に散乱するなりの事態が起きていたはずである。とするなら多少の「減圧」はあったかもしれないが、明らかに「急減圧」ではなかったということになる。いや、「減圧」すらなかったかもしれない。垂直尾翼での異常発生による機体の振動に反応して酸素マスクが降りたに過ぎなかった可能性すらあるのだ。




機内の様子(webサイトより)

事故原因はなんだったのか――自衛隊の関与はあったのか

 だとすると事故原因はなんだったのだろうか。いち早くこの問題に取り組んで来られた青山氏は、その著青山透子『日航123便 墜落の新事実』をはじめとして数々の書籍において一貫して自衛隊の関与を主張してきた。そして、近著『日航123便墜落事件 四十年の真実』(河出書房新社 2025.7.20刊)のなかでも次のように述べている。

 一九八五年八月一二日、翌週から始まる米軍との合同訓練を控えて、手順の確認や試運転の一つとして無人標的機を飛ばした。当時の世相から考えると日航123便をソ連機に見立てた仮想の標的としてミサイル発射訓練も行った。しかし、相模湾上空で無人標的機が日航機に衝突した。そう考えると筋が通る。航空自衛隊ファントム戦闘機二機もそのテストのサポートに入っていたため、急いで追尾したところ、垂直尾翼の様子を見て仰天した。その追尾の様子が、静岡県藤枝市上空や上野村近辺で複数の人たちに目撃されており、その目撃者の中に現役自衛官もいた。後ろからスーと白い煙のようなものを出しながら飛ぶ小型の「真っ赤な飛行機」を目撃した大人もいた。高浜機長は、右側窓外に飛行している朱色の飛行物体を見て、およそ自分の経験から何が起きたのかを悟った。(同書 第三章 「事件は終わらない――声なき声を聴け!」)

 このように青山氏は、「自衛隊の標的機が日航123便の垂直尾翼に衝突して破損・大破させた」という説を早くから主張してきたが、小田周二氏もこの説を支持している。すでに述べているように小田氏はその著小田周二『永遠に許されざる者』(河出書房新社 2017年7月30日刊)の中で、あの重大証言を明らかにしたのである。
 すなわち、航空自衛隊百里基地の稲吉司令官が、戦時中の軍隊で同期だった友人(岩田祐次郎氏、青島海軍航空隊吉津会会員)に電話でつぎのように語っていたという事実だ。
 「えらいことをした。標的機を民間機(日航機)に当ててしまった。今、百里基地から偵察機(F-4E改造機)2機(式地豊二尉ほか)に追尾させているところだ」
 小田氏は、なおかつ日航123便は、御巣鷹山の山中でこの自衛隊偵察機のミサイルによって第4エンジンを破壊され、最後のとどめを刺されたのだ、とも主張している。

 もう一人、落合由美さんの「急減圧はなかった」という事故直後の証言を内部告発者から入手し、その事実をその著『隠された証言』(新潮文庫 2006年8月1日刊)の中で明らかにした元パイロットの藤田日出男氏は、事故原因については「フラッター説」を取るとして以下のように述べている。

 方向舵の破壊とボイスレコーダーに記録された低い周波数の振動、機内に風が吹かなかったこと、方向舵のゴムの圧着痕など、現在我々が手にしている事実を基に、事故原因を推定した仮説が「フラッター説」である。
 フラッターというのは、方向舵が、風の強い日に旗やのぼりなどがパタパタとはためく状態と同じようになる現象で、過去にはこのために墜落した飛行機が少なくない。
 翼が破壊される原因としては、かなりの件数を占めていたものである。最近では設計段階でのテストなどにより発生は少なくなった。しかし、方向舵を動かすための油圧シリンダーを支えている部分にひびが入る例があって、油圧の支えがなくなり、破損した部分が方向舵の表面に変形を与えると、気流の乱れを生じてフラッターが発生する可能性も考えられる。
 ジャンボのような大型機になると1秒間に12回も機体の飛行方向を動かすには方向舵は重すぎるため、方向舵のヒンジ(蝶つがい)が破壊されたとも考えられる、という。
 従って、藤田日出男氏は、「後部隔壁説」は否定し、外的要因説に立っているが、自衛隊の関与については否定的立場である。

垂直尾翼の歪みとダイバージェンス破壊

 では、米田氏の主張する事故原因説はなにか。彼は、元科学技術庁・航空宇宙技術研究所で空気力学部長の要職にあった遠藤浩氏の意見を聞いて、「垂直尾翼本体・外板取り付けリベットが長期間の使用で緩み、ダイバージュンス(限度を超えた変形が際限なく起きる)によって、垂直尾翼の断面形状が変わり、時速800km/h以上の空気の動圧に耐えられなくなって、機体に歪みが生じ損壊する」というダイバージェンス破壊説を主張している。そして、日航123便は提出された飛行計画では巡航速度467ノット=864kmとなっている、とも述べている。
 また、それを裏付ける状況証拠として日航の整備技術者の藤原源吉氏が指摘している尻もち事故によって機体後部に変形が生じ、それが最後部の化粧室ドアの開閉の不具合に関与していた可能性などについても触れており、また藤田日出男氏もその著作『隠された証言』で「後部トイレのドアは飛行中に開閉できなくなることがあった。これは飛行中、空気の力を受けて胴体が変形していた証拠で、この事実は垂直尾翼に変形があった疑いが濃くなっている」と指摘している点も踏まえ、地上の点検では異常が発見できなくて、飛行中の機体後部の歪みによってトイレドアの開閉に不具合があったと思われる、と米田氏は述べている。
 そのうえで、さらに次のように述べている。

 私自身は、垂直尾翼の空気圧による歪みがR5ドアあたりまで及んでいたので、当初の「R5ドアブロークン」のボイスレコーダーの記録になったと考えた。それで垂直尾翼が損壊し、油圧系統が破断して操縦不能になって32分後に墜落したと考えている。隔壁そのものの金属疲労や亀裂は進行していた可能性はあるが、隔壁の破壊は尾根への激突によって生じたと見ることができる。
 前述してきたように、事故調査報告書のボーイング社の尻もち事故の修理ミスで、ウェブ接続部で進展していた金属疲労亀裂によって隔壁強度が低下し、客室与圧に耐えられなかったという推定は、間違っているというより意図的に違う事故原因にしたものだといえる。
 日航123便のB747SR-100型機(JA8119)の事故原因の真相は、運航乗員のボイスレコーダーで判断できる対応状況や生存者の証言、福田航空機関士の「ボディギア」発言、後部トイレドアの開閉不具合、相模汚から回収された垂直尾翼の歪みなどから、圧力隔壁の破壊ではなく、垂直尾翼の破壊から始まっていることが動かせない事実である。
 (同書 第6章「垂直尾真の歪みでダイバージエンス発生」)

 このダイバージエンス説に従って米田氏は、日航123便のボーング747SR-100型機(JA8119)が飛行計画では巡航速度は時速467ノット=864kmとなっていたが、「時速800km/h以上の空気の動圧に耐えられなくなって、機体に歪みが生じ損壊する」事態に至ったとしている。しかし、そもそもボーング747SR-100型機の標準巡航速度はマッハ0.85(時速約912km)といわれており、もしそれを下回る速度で航行していたにもかかわらずダイバーチェンスに至ったとすれば、日航123便(JA8119)は初めから飛行してはいけない機体だったということになるのではないか。そうなれば、日航の機体整備・運行管理に重大な落ち度があったことは明らかなので、その責任は重大である。
 ダイバーチェンスを裏付ける状況証拠として米田氏は、以前に起きた尻もち事故によって機体後部に変形が生じ、それが最後部の化粧室ドアの開閉の不具合に関与していた可能性についても触れている。日航の客室乗務一員の話では「事故機は事故が起きる1か月前に、飛行中に機体最後部の化粧室ドアが金属的な異常音を出しながら勝手に開いたり閉じたりしていて、みんな気味悪がっていた。それで整備関係者に知らせたけど、地上整備点検では異常なしとなった」とも述べており、しかも「上部から部外者に絶対漏らしてはならぬ」と口止めされている事実があったともいう。
 この123便が以前に尻もち事故を起こしていた機体であることからすれば、なぜ地上整備点検で「異常なし」として済まされたのか、これは結果論では済まされない重大なミスではなかったのか、そこまで踏み込んだ検証が必要だったのは明らかである。それが「後部隔壁説」で逆に見過ごされてしまったのではないかという気もする。
 これらの事実が、もし裁判などで明らかになっていれば、日航123便墜落事故の真相究明は大きく進展した可能性はあったと思われるが、残念ながら遺族たちが起こした刑事告訴はことごとく不起訴となっている。また、民事訴訟も、国内21件、米国12件の訴えすべてが、1993年4月2日までに、裁判をすることなく和解に終わってしまったのである。
 日航が頑なに事故の原因解明に欠かせない多くの資料を未だに公開していないのは、日航にも相当に後ろめたい事実がある可能性も否定できないのかもしれない。

 このように、事故原因については事故調査委員会の「後部隔壁破壊説」は問題外としても、依然としていくつかの説があり、果たして何が本当の事故原因であるのか明確になったとは言い難い。墜落事故からすでに四十年を過ぎたというのにいまだにこの事故は、多くの謎を秘めたままである。
 その原因は、政府が、伊豆半島沖に沈んでいる垂直尾翼の残骸やAPU(補助動力装置)などを引き上げず、またボイスレーコー及びフライトレコーダーの全面開示をして来なかったからである。520名もの犠牲者を出した飛行機事故であるにもかかわらず、あまりにお粗末な事故処理だと断じざるをえない。
 1985年8月12日に起きたこの日航123便墜落事故は、まさに史上最大規模の犠牲者を出した飛行機事故であったからこそ、その事故原因を徹底的に究明し、その結果をこれからの人類全体のための教訓として残すべきだったのであるから。
 あのような嘘で塗り固めた事故報告書など、それこそ国家としての恥さらしではないのか。今からでも遅くない。政府、日本航空、自衛隊その他関係者は断固たる英断を下すべき時だ。

 
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