あらすじ
主人公は、田舎から出て来た19歳の浪人生吉岡、新聞配達をしている。同じ新聞配達員の紺野という30過ぎのうだつのあがらない男と同居生活だ。隣の部屋の斎藤は同じ予備校に通う浪人生で、彼も新聞配達をしている。 斎藤は勉強も頑張っているようだが、吉岡は勉強して大学に入ったところでどうなるんだと少し捨て鉢な気持でいる。隙あらば、なにものかになってやろう、と思っているが、そうかといって弱々しく愛想笑いをつくり、小声で愚痴を言いながら世の中をわたっていく連中の仲間入りなんて虫酸がはしる、とも思う。しかし、なにものかになれる可能性なんかありはしない。 吉岡は自分を唯一者と自己規定し、現在の置かれている絶望的な状況を受け入れられないでフラストレーションをため込んでいる。 新聞配達の寮の隣のアパートの一室からしょっちゅう夫婦の痴話喧嘩の声が聞こえてくる。カンの強そうな女の声が近所に響きわたる。やがて女の犬の遠吠えのようなすすり泣きの声が聞こえると、吉岡は、その女の声が妙にエロチックで、きまって自涜し、下着を濡らした。 吉岡の配達受け持ち地区は繁華街のはずれの住宅地だった。そこは奇妙なところで、ばかでかい家があるかと思うと、今にも壊れそうなつぎはぎはだらけの家もあった。バーやスナックがあるかと思えば、印刷工場もある。吉岡は、そこを走って配達にまわっていた。朝、この街を非情で邪悪なものがかけまわる。犬がポリバケツをひっくり返し、食いものをあさっていた。犬は近づくと歯をむき、うなり、逃げ出だそうともしない。吉岡は四つんばいになり、背後から威嚇の声をあげたが、犬は顔をねじり、唸り続けた。吉岡は立ち上がり、犬ではなく人間の姿に戻ったが、それでもまだ四つんばいになって犬の精神に対峙したいと思った。 吉岡は新聞配達の配達先で気に入らない家には地図で×をつけている。彼が気に入らないのは、新聞の配達によけいな手間をかけさせる家、そしてなんと言っても上手い具合にこの社会の機構に乗っかって落っこちないでいる人間の家だ。吉岡はそんな家の電話番号を調べ上げて、×印をつけていく。×印がたまると公衆電話からその家に電話をかける。脅迫電話だったり、いたずら電話だったり、からかい電話だったりする。 同室の紺野は、涙もろい人情屋ではあるが、金を手に入れるにはどんな商売よりも女をだますのが、手っ取り早いとその手練手管を吉岡に話して聞かせる。隣の部屋の斎藤は、あいつは先天的なうそつきだ、とはなから相手にしていない。 今、紺野はかさぶただらけのマリア様と彼が呼ぶ50がらみの女をたぶらかしているらしい。その女の前で、紺野は、ああ、救けてください、救けてくださいと甘える。 あの人はおれに、いいのよぉ、って言うんだ、みんないいの、あなた、死ぬことなんかか考えないで、生きなくちゃあ、って。あの人は、おれがいつも死ぬ、死んでしまいそうだと言ってるから、おれが死んでしまうんじゃないかと不安でしょうがないんだ。紺野は、どうしようもないやつだと後で後悔しするけど、と言う。それを聞いて斎藤が、死ねばいいじゃないか、と言う。自嘲ぎみに紺野はやっぱし三十男はきたならしいな、自分で自分を殺すなら二十五までだな、という。 紺野の話は吉岡をいらだたせる。吉岡は相変わらず地図作りに励んでいる。電話ボックスから電話帳を持ってきて、配達台帳にある名前の電話番号を調べ、それを地図に記入していく。その地図帳に職業も家族構成も出身地も書きたいと彼は思った。 吉岡の電話攻撃はだんだんエスカレートしていく。とうとう吉岡は東京駅に電話を掛け、あの玄海号が十二時きっかりにふっとぶぞ、と告げる。東京駅午後八時発のS行夜行列車だ。電話したあと、吉岡は、いったん部屋に戻り、集金帳を手に集金に出た。しかし二件ばかりで集金を切り上げ、吉岡は再び公衆電話の受話器をとり、はい、こちら東京駅ですが、という応答を充分聞きもしないで、今日の十二時にふっとばしてやる、めちゃくちゃにしてやる、と言って電話を切った。 地図帳にはさらに三重の×印がある家が三つ、二重の×印の家が四つ増えた。×印がたまると罰を加える。刑の執行が終わると、斜線で電話番号を消していく。ぼくはつくり上げて破壊する者であり、ぼくは神だった。世界はぼくの手の中にある、ぼく自身ですらぼくの手の中にある、と吉岡は思った。 紺野はまた淫売のマリアさまのところへ いそいそと出かけた。女をだますのはわるいこととかよいこととかじゃなく、もってうまれついた性みたいなもんでな、と紺野はわけしり顔で言う。ぼくは昼食を食べるために定食屋にむかって歩いた。空がまぶしく光っていた。雨あがりの風の冷たさと純粋で透明な光が心地よかった。 それはまったく発作的だった。ぼくは、煙草屋の前の赤電話の受話器をつかみ、ダイヤルをまわし、ばかやろう、てめえ、まともにおてんとうさまおがめると思ってるのか、皮剥いで足に針金つけててめえの販売店の軒からぶらさげてやっからな、と言って受話器をおいた。それから吉岡は電話ボックスに入って、再び東京駅に電話し、玄海号に兄がダイナマイトを持って乗るから、列車がふっとんで、めちゃくちゃにならないうちにとめようと思ったのさ、朝四時にセットしてあるんだぞ、と告げた。 その夜、紺野がかさぶただらけのマリアさまからだまし取ってきた現金九万八千円を吉岡に見せて、おれはこれでここから出て行ける、と言う。吉岡は、ぼくは女を全然知らないから、それでトルコに連れていってくれよ、と悪戯のつもりでそう言うと紺野は、この金の使いみちはそれが一番かもしれない、と言う。 かさぶただらけのマリアさまは人に裏切られ、だまされたりするほど、輝やかしくうつくしいこころとしてひかるんだ、と紺野は言う。この金はダイアモンドのような、ほんとうに人間の真心を結晶させた金なんだ、きみには分からないなあ、痛いいたいと思いながらつかいはたそうとする気持、と言い、その時、隣のアパートから夫婦の喧嘩声が聞こえてきた。 いっそのことこの子とあたしを殺してくれ、と叫ぶ女の声、それから、かっぱ野郎、女と寝ることと女を殴ることしか能がないくせに、ちくしょうてめえだけ一人前みたいに思いやがってえ、殺してやる、とまた叫んだ。それから体が窓にあって硝子が砕ける音がする。 紺野は、そのやりとりを聞いてずるずると鼻水の音をたてながら泣いていた。吉岡はなにもかもみたくないと思った。自分が生きていることが、そのことが生きるにあたいしないことのように思えた。希望がなかった。 吉岡は部屋を出た。紺野から聞いていた電話番号に、電話した。あのう、ぼく紺野の弟ですが、と言うと、こんのさん、わかりませんが、と相手の女が言う。吉岡はかまわず続ける。紺野さんにあんたはたぶらかされてる、あんたなんでしょう、あいつに金わたしたの、あいつはそれを遊びまわる資金にしようとしてるんだよ。なんのことがわかりませんが、どちらさまでしょう、と相手はとぼける。あいつをかばわなくたっていいんだ、あいつの言うことなんか、みんな嘘なんだ、九万八千円だましとられたんだよ、あんなやつは死にたいというなら死なせてやればいいんだ。 吉岡は、それから相手を責める。おまえだって、うじ虫のように生きてそれをうりものにしてるのならさっさと首でもくくって死んでしまったらどうだよ、だいたいごうまんだよ、自分一人この世の不幸しょってるなんて顔をして、人に、死ぬんじゃない生きろなんて言うの。あいつに更生資金として九万八千円をめぐんでやったと思ってるだろうが、あいつはそれをトルコで使いはたすんだと言ってるよ。おまえなんか、そんなに生きてるのが苦しいんのなら、さっさと死ねばいいんだ。きたならしいよ、みぐるしいよ。 もしもし、わたしおおばやしですが、と女は言った。だから、おれは、あまえみたいなやつがこの世にいることが気持ち悪くて耐えられない、腹立たしくってしょうがない、嘘つきやがって、と言葉を吐きちらすように言うと、不意に受話器の向こうから触るとぽろぽろこぼれてしまいそうなこまかい硝子細工でできたような声がし、死ねないのよお、ずうっと前から死ねないのよお、ゆるしてほしかったのお、なんども死んだけど、生きてるのよお、とうめくような声が続いた。吉岡は、嘘をつけ、と言った。嘘だと思わないととりかえしがつかないことをしてしまったようでがまんならなくなってしまうと思った。ああ、ゆるしてよお。 吉岡は電話を切った。そして、二度ほど適当にダイヤルを回して、出た相手に暴言を吐きちらした。それから、東京駅に電話し、玄海号をふっとばしてやる、と言った。出た駅員が、爆破するんですか、と訊くので、爆破なんて甘っちょろい、ふっとばしてやるんだ、と言った。駅員は、どうしてそんなことするのか、目的はなにか、などとしつこく言い、それからどうして玄海号なのか、と訊く。吉岡は、任意の一点だよ、一線と他の線が交錯する部分、その点を消しゴムで消すんだ、いいか、今日の十二時きっかりに爆破するからな、ふっとばしてやるからな、受話器の向こうで、なぜ任意なのか、としゃべる声が聞こえた。 電話を切ったあと、自分の体が空っぽになってしまったように感じた。これが人生なのだと彼は思った。氷のつぶのような涙がこぼれで出てきた。それを拭うと、不意に体の中の固く結晶したなにかがとけてしまったように眼の奥からさらさらしたあたたかい涙が流れ出した。吉岡はとめどなく流れ出す涙に恍惚となりながら電話ボックスの歩道につっ立って声を出さずに泣いているのだった。
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