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フョードル・ドストエフスキー『ステパンチコヴォ村とその住人』(筑摩書房)
作品について あらすじ 登場人物

作品について

はじめに
『ステパンチコヴォ村とその住人』(ロシア語原題『Село Степанчиково и его обитатели』)は、フョードル・ドストエフスキーの長編小説で、1859年、ロシアの『祖国雑記』11月号と12月号に分載された。シベリヤ流刑後にドストエフスキーの名前で発表されたものとしては、『伯父様の夢』に次いで2番目の作品となる。この作品も『伯父様の夢』と同様にユーモア小説の系列に属するものである。また、文壇復帰へ向けたドストエフスキーの並々ならぬ決意がこめられた作品で、彼は兄ミハイル宛の手紙のなかで「これこそ僕の最も優れた作品であるということも、公理を信じるように、信じて疑いません」(1859年5月9日付 筑摩書房版『ドストエフスキー全集』第15巻 小沼文彦訳)との自負を吐露している。

(注)なお、この作品に関する記述はウィキペディアのドストエフスキーの項の作品紹介の内容に酷似していますが、いずれもウィキペディアからのコピペではありません。ウィキペディアのオリジナル原稿は筆者が書き下ろしたもので本稿ではそれに拠っています。


 本作品は2部構成で、第1部は12章、第2部は6章からなる。
 この作品についてドストエフスキー自ら兄ミハイル宛の手紙で、「僕はこの作品に自分の魂を、自分の肉と血をつぎ込みました。その中には(中略)ふたつの巨大な典型的人物が描かれています。―それは完全にロシア的な人物でこれまでロシア文学によってあまりうまく示されたことがないものです」と述べている。(1859年5月9日付 筑摩書房版『ドストエフスキー全集』第15巻 小沼文彦訳)この手紙はシベリアのセミパラチンスクから兄宛に出されたもので、この時点ではドストエフスキーのシベリア生活はまだ終わっていなかった。そのことは、この作品がまだ厳しい検閲下で書かれたことを考慮する必要がある。
 『伯父様の夢』と並んであえてユーモア手法を採用したこともドストエフスキーが検閲を意識していたことは充分考えられる。そして、ここに描かれた「ふたつの巨大な典型的人物」も当時のロシアにおける保守的性格に属するものである。しかも、その一つの典型的性格であるファマー・フォミッチは、まさにロシア正教と農奴制を擁護したゴーゴリの『交友書簡抜粋』の思想を体現するといってもよい人物として描かれているのである。ペトラシェフスキー事件でドストエフスキーが逮捕・投獄された容疑が、ゴーゴリの『交友書簡抜粋』を反動的であるとして痛烈に批判したベリンスキーの『ゴーゴリへの手紙』を会員仲間の前で朗読したことによるものであったことを考えれば、そこにはきわめて複雑な思いがあったであろうことは推察できる。

 この作品は「私」=セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ(セリージャ)が語り手となって物語が進行する。登場する「ふたつの巨大な典型的人物」とは、一人は伯父のイェゴール・イリイッチ・ロスターニェフ大佐であり、もう一人は伯父の家に君臨するファマー・フォミッチである。「私」は幼い頃に両親を失い伯父の元で育てられた。誠実で、寛容で無邪気なほどのお人好しである伯父に対しては深い感謝と尊敬の念を抱いている。「私」は、今は実家を離れて都会暮らしをしているが、伯父から実家に来るようにとの手紙を受け取る。そこには結婚相手を紹介するとも書いてあった。その女性との結婚に期待をかけて「私」は実家に戻るが、そこにはとんでもない出来事が待っていたのである。

 伯父の家には、娘と息子と叔母の他に、母親とその取り巻きや親戚筋にあたる資産家の女性と貧乏貴族青年、さらに子供達の家庭教師している若い女性などが暮らしていた。伯父が「私」に結婚相手として薦めようとしていたのは、この家庭教師だったのだが、実は、伯父はこの家庭教師のことを内心では深く愛していたのである。しかし、母親もその取り巻き連も伯父を親戚筋にあたる資産家の女性と結婚させようとしていて、その家庭教師をできれば家から追い出したいと考えていたのである。
 母親と取り巻きだけならまだしもそこにファマー・フォミッチというやっかいな男が伯父の前にたちはだかることになる。この男は、母親の亡夫である退役将軍の書生をしていたのであるが、夫が健在の頃は言ってみれば気むずかしい夫の小間使いであり、打たれ役であり、道化役であったのだが、少しずつ夫の陰で権勢を伸ばし、夫人に取り入って、夫が亡くなってからは完全に将軍夫人をも支配下に治めてしまったのである。しかもあろうことかファマー・フォミッチは将軍夫人の自分への崇拝と畏敬の感情をうまく利用して伯父の家でまさに自分こそがご主人様であるかのごとくに君臨していたのである。
 彼は、家の召使いや農奴たちには容赦のない男だったが、同時に主人たる伯父に対しても貴族としての徳行を示すべきだと容赦のない注文をつけてくる。お人好しで善良な伯父は、歳の離れた若い娘との結婚はやはり他の者たちにも受け容れられないだろうと、自分の気持ちを抑え、思案のうえひねり出したのが、甥である「私」とその女性との結婚という案だった。それならば、これから先も彼女を自分の家に置いておけるというわけだ。
 「私」はたんなるダシに使われるだけの存在すぎないのであるが、伯父の本心を知ったあともけっして伯父への恨みを持つことはなかった。初めは期待が裏切られショックを受けるが伯父の誠実で善良な性格を知っているので、むしろ彼を援護する側にまわることになる。母親とファマー・フォミッチなどその取り巻き連中と伯父との対決は、まさに活劇そのものである。ファマー・フォミッチの目もくらむような圧倒的な弁舌の前に、伯父の運命はもはや決せられたも同然であるが、ファマー・フォミッチは最後にどんでん返しをやってのけるのであった。

 「私」は最後までファマー・フォミッチに対しては反感の情を失わないが、結局ファマー・フォミッチは、まるで手品師のようにすべてをまるく収めて、相変わらずご主人様のように君臨し続けたのである。しかも伯父の彼に対する敬愛の気持ちも最後まで揺らぐことはなかったというわけである。ファマー・フォミッチという人物に対する反感と受容、ここにドストエフスキーの葛藤をみることができるのではないだろうか。
 ドストエフスキーは、ゴーゴリから多大な文学的影響を受けたが、『交友書簡抜粋』におけるゴーゴリの思想は彼にはとうてい受け容れ難いものであった。だからこそ彼は、かつてこれを痛烈に批判したベリンスキーの『ゴーゴリへの手紙』に共感を抱いたわけであるが、他方で、シベリア流刑後の今の自分の中ではそれを否定し、放逐し去るだけではすまない何かが生まれていた。その何かは、たんに検閲への配慮だけではないであろう。それは、おそらく彼がこの後もさらに優れた作品を生み出す原動力となっていったものであるに違いない。

 ともあれ、この作品ではドストエフスキーの筆はまさに躍動していると言ってよい。作家丸谷才一がドストエフスキーの「全著作のなかから何か一つと請われれば、たぶん『スチェパンチコヴォ村とその住人』を選ぶことになるのではないかという気がする」(「読まれないドストエフスキー」河出書房新社版『ドストエーフスキイ全集』第7巻月報)と言ったというのも頷ける。ドストエフスキーもこの作品に絶対の自信を持っていたし、もしこれが読者に受け容れられなければ、自分は絶望するしかない、と考えていたようだが、残念ながら成功を収めることはできなかった。しかし、彼はけっして絶望はしなかった。それからわずか1年ほどで彼は『死の家の記録』と『虐げられた人びと』というさらなる傑作を世に送り出すのである。なお、著名な俳優・演出家であるスタニスラフスキーは自ら脚本を書き伯父役を演じたが、まさに当たり役となり「自然に完全な一体化」が生まれ「真の俳優の幸福」(スタニスラフスキー『芸術におけるわが生涯』)を味わうことができたと述べている。


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