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中上健次『補陀落』(河出文庫)
作品についてあらすじ  

作品について
 この作品は、1974年4月に『季刊芸術』第29号に発表された。作品のタイトルである補陀落(ふだらく)とは、観音菩薩の降臨する霊場のことで、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山を補陀落山ともいう。インドの南端にあるとされている。
 ほぼ同時期に発表された『蝸牛』でも中上健次は、自らの親族に関わる出来事を作品の中心テーマに据えている。そして、続くこの作品では、のちの『枯木灘』にも登場する健次の異父姉で母と前夫との間に生まれた4人の子供のうちの一番下の娘君代に焦点があてられている。
 この作品では文子(ふみこ)となっているが、彼女は中学を卒業して大阪のクリーニング店へ奉公に出された。それは、母ちさとが健次を連れて土木作業員の中上と一緒になってまもなくのことで、健次がまだ小学2年生のことである。
 その後、この君代は在日韓国人のヤクザの男と所帯を持ち、その男は博打打ちだったが、金回りはよく、健次はニセ学生の頃には義父からの仕送りの他にこの義姉からも仕送りを受けていたのである。
 この作品の主人公康二と同じように、作者中上健次も東京に出て大学を目指し勉強していたが、結局大学には入らず、予備校にもろくに通わず義父と義姉からの仕送りを受けながら新宿のジャズ喫茶に入り浸り、酒とドラッグにおぼれフーテンのような生活をしていたのである。この作品の康二はちょうどその時期の健次と重なる。
 1971年の『文藝』8月号に発表された「火まつりの日」(後に「眠りの日々」と改題)に当時の自分を振り返った次のような箇所がある。
 「女の味もわからず、不意に昂揚し急速に萎える精神をもち、絶望だ絶望だとしゃべりちらし黙りこんでいた十八歳の少年のころ、ぼくは東京の街をうろつきながら、ハイミナールやドローランをのんで酔ってすごしたのだ。自分の外側のことばかりに気をとられ、内部になにがあるのかのぞいてみようなどとは思わなかった、ぼくはその街でであったぼくと同年齢の少年や少女と友だちになるたびに、得意気にぼくの郷里の風景や、兄が首をくくって自殺したことを物語のようにかたってきかせた。」
 それからやがて健次はジャズ喫茶で知り合った女たちから女の味を覚える。そのうちの一人文子という女はいつの間にか健次の部屋に転がり込んできたのだ。この作品に出てくるフーテン女というのは、たぶんそんな女の一人であろう。あるエッセイでこう書いている。

 一度、帰りたくないという文子を、強引に家まで送っていった事があった。というのは文子の馬鹿さかげんにうんざりしていた。一緒にデパートに行くと、知らない間に万引する。すれ違った女の子が自分に眼(がん)つけたと言い出し、近寄って一言二言物を言い、いきなり手に持っているショルダーバッグで相手を殴りつける。すぐに嘘とバレるのに、またしてもTBSのプロデューサーから俳優になる気ならいつでも来てくれと言われていると言う。その文子にウンザリしていたし、それにその頃、風月堂でウエイトレスをしていた女の子に気が移っていたので、家出して来て部屋にいついている文子を家に送っていったのだった。
 その家につき、びっくりした。父親が出て来て強引に上がらされたが、四畳半一間ほどの家に両親、妹二人がいると言う。文子はまた嘘を言っていたのだった。金持ちだし、大学生の兄がいる。私が持っていたランボーの詩集の写真を見て、「美しいのよね」とそのランボーの顔が兄に似ていると言った。
 文子は不思議な女の子だった。いや十八歳の私が不思議な人間だったのかもしれない。朝、歩いて新宿にたどりついた二人は「汀」の前を通り、洋菓子屋の二階の喫茶店に入る。ミルクをきまって飲む私にかんしゃくを起したように「ミルクなんてね、人間が飲むもんじゃないんだから」と言い、自分の注文した緑色のソーダ水がどれくらい椅麗かひとくさりしやべる。その店はいつもひなげしが飾ってあった。ランボーを私同様に好きだったのは、ランボーの顔が気に入っているからであり、その店に入るのは、飾ってあるひなげしが好きだったからだった。下のレジで私が金を払っている間に、文子は陳列ケースの上に積み上げてある洋菓子を一つ、盗む。(「性や暴力の根」1979年4月25日『青春と読書』に発表)

 新宿ジャズ喫茶時代の健次は、自分は故郷から東京へパッシングしてきたのだ、と本気で考えていたようだ。パッシングとは、故郷のしがらみを捨て、しがらみのない東京で正体不明の男として生きることだ。文子はそんな正体不明の男に似合いの女だった。
 さて、この作品の主人公康二は、まだ親のスネをかじり、そのうえ遊び金を使い果たして、義姉のところにまで金の無心に来たのだ。義姉から金を借りるために、康二はこれまでさんざん繰り返されてきた義姉の家族話を黙って聞いている。
 まずは、兄やんの話からはじまり、それから死んだ木下の父やんの話、そして母やん、一時気のふれた姉のシイちゃんの話。そして康二の実父捨造、それから今の義父中上へと続く。義姉のなかで亡くなった義兄が次第に美化されていく。兄やんはおまえをいつも可愛がっていた。お前だけはいつも食べ物はちゃんと与えられていたけど、兄やんもあたしらもみんながまんしてきたんだ。お前はしあわせやものやな、と義姉は言う。康二は黙って聞いているが、義姉とはまた少し違う思いがある。
 例えばこの作品より少し前に書かれた「灰色のコカコーラ」(1972年『早稲田文学』10月号)には、こんな表現がある。

 母の母親、つまり祖母が古座からぼくたち親子の様子をみにきていたころ、祖母がぼくにヨーカンをくれると言うのに要らないと首をふって唾を吐いたと難くせをつけ、兄が殴った。それは確実に難くせなのだ。ぼくはその時のくやしさをくり返しくり返し思いだし、絶対に忘れない。そうだ、とぼくはドアのノブを手につかみ左右にゆすり前後にひっぱったり押したりしながら思った。兄が首を縊ったと聞いたとき、そらみろ、と思ったのはそのせいかもしれない。みんな死んでしまえば良いんだ。

 一人だけ父親の違う兄姉の中で育った末っ子の健次が、心に傷をかかえずに育ったとは考えられない。その傷を癒やすためにも、おそらくパッシングの時期も必要だったのかもしれない。そして、やがて健次は詩や小説という形で表現することでそうした内面の傷を昇華させていったのだ。
 義姉の話を聞きながら康二は、自分もいつか独り立ちして、義姉たち見返してやりたいと思っている。しかし、そう思うだけで、今はまだドラッグにおぼれて現実逃避していたい甘えた自分がいるのだった。
 それにしても、この作品で描かれている義姉文子(例の新宿の文子ではない)は、どこか神々しい。自分たちがどれだけ悲惨な思いをしたかを語りながら、それに比べたらお前はしあわせもんやな、と言って、康二に金を貸してくれるのだ。
 そういう兄姉に囲まれて康二はここまで育ってきたわけだが、そんなことには何の価値もないかのように金を義姉からせびり取ってフーテン女のところに帰っていく康二の姿は、逆に義姉の神々しさを際立たせているのである。義姉をこのような形で描くことができたことは、作者健次はすでにもろもろの心の傷から遠いところにいる。「灰色のコカコーラ」の作者とは大きく変化しているのがわかる。
 ところで、この君代の夫は在日韓国人であるが、その後、運良く大金を手に入れて、故郷に錦を飾り、大型スーパーなどを経営する身分となったようである。中上健次が一躍有名作家になってから韓国に取材旅行をした際には、義姉のところにも立ち寄り、そのスーパーの落成式に参列して大歓迎を受けたという。やはり、義姉には幸運の女神がついているのであろうか。

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