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中上健次『鳳仙花』(新潮文庫)
作品についてあらすじ  

作品について
 この作品は『枯木灘』から3年後の1980年に発表された。『岬』と合わせて三部作と言われたが、その三年後に『地の果て 至上の時』が発表されてからは、『鳳仙花』に代えてこちらを三部作とする方が多い。
 『鳳仙花』は前二作の主人公秋幸の母フサの物語である。作品としては前二作に劣らず秀逸である。文庫版の解説で川村二郎が述べているように中上作品の魅力はなんと言ってもその独自の文章表現力にある。中上の文章はまさに「語り」に近いもので、物語るひとつひとつの言葉が意味と同時に音を持ち、その音のつながりがある種の音楽を構成していて、それによって言葉は意味の束縛から解放され、読み手のなかで自由に躍動する。
 川村二郎はその語りを通して「私」の物語は「私」を超えることができ、私生児として生まれた母と同様に私生児として生まれた子の物語が、永遠の母と子、聖母子の物語に変容することになるのだ、と述べている。的確な批評といえるだろう。
 確かに中上健次の文章表現はその対象を浄化し、超俗の世界へと変転させる。登場人物たちの紀州弁の独特なリズムや紀州熊野の自然描写も影響しているだろうが、なによりもその文章表現が生み出す質の高いリリシズムによってそれが可能となる。この作品に登場する女性の多くは女郎か、女工か、行商など最下層の女たちである。しかし彼女たちは決して穢れてはいない。なりよりも彼女たちが必死で生き、決して自らを恥じておらず、潔よささえ漂わせているのだ。その生きざまを描き出す中上健次の「語り」が独特のリリシズムを生み出すのである。
 ところで、この作品のモデルである母中上ちさとは、実際にはどんな女性であったのだろうか。作者自身の言葉でみてみよう。中上健次が『文藝首都』に書いたエッセイ風の作品では次のように書いている。

 さて、その犯罪者中上健次の生成課程で重要な役割をはたす、一族の見取図をここで公表しておくことにする。文藝首都の読者にかぎって公表するのだが、ひとつはここを知ってもらわねば犯罪者宣言なんて云っても、またナカガミ一流のコケオドシだと云われそうだと云うことと、僕が露出症のような性格をもっていることに由来する。
 図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。
 母系一族としか云いようのない、わが流浪一族である。まるで原始時代のような家族構成で、母も父もむきだしのまま僕に迫ってきているわけだ。雑種の最たるものである。わが母系一族は、総力をあげて中上一家と闘い、僕なんぞは文学少年ではさらさらなかったので、中上一家の日常生活への介入にも暴力的に対応してきた。「父」の権威も家も家庭もはじめからありっこないのだ。血統書つきのひよわな二代目や三代目なんぞ、ものの数ではない、と云うのが、犯罪者中上健次の自負である。しかも超過保護で育ったときている。母や姉たちのはなしによると、僕は小学校一年生になってもまだオッパイをのんでいたらしい。小学校二年生まで僕は普通の御飯が食べられず、白飯に砂糖をふりかけてやっと食べ、十五歳ぐらいまで生きられれば良いほうだと云われるほどやせにやせたわがままな子供だったらしいのである。ところが、小学三年生のころから突然肥りだし、肥満児のハシリとあいなり、現代ではサンドイッチにされたデモのなかで機動隊から「そんなゴクツブシをやってないで、機動隊に入れよ。もったいないぞ」と声をかけられるほどになった。
 母系一族の犯罪者である僕はまた逆カイン(つまり兄殺し)の末裔でもある。六十年安保の前年、兄は首をくくって死んだのであるが、そのころから僕はグレはじめ、殴ったり殴られたりする血なまぐさい毎日を送るようになった。一度など顔がフットボールほどにふくれあがっていたこともあるし、十数人に中学校の裏山で殴る蹴るの暴行をうけたこともある。その時、中上七郎の妹つまり義理の叔母サメコが僕が袋だたきにあっているのを笑いながらみていた。僕は気絶しそうになりながら、めちゃめちゃに体を動かして抵抗したのだが、いまでもそのころの暴力的な僕自身の夢をみることがある。僕自身、いつでも暴力の衝突の現場にいたいと思うのは、逆カインの末裔にとって、アイデンティファイすることが可能なのは、暴力によってしかないと云う発想があるためなのだと思う。エデンである新宮から追放されて、僕はこの練馬のエデンの東であるノドの地にいるのである。僕はまぎれもない犯罪者だ。(「犯罪者宣言及びわが母系一族」『文藝首都』1969年4月1日発表))

 母ちさとは二人の前夫の子ども五人と現夫中上の連れ子の六人の子どもを統べる一族の頭領である。ある時は、前夫の子どもを守るために母は中上一族と激しく闘い、ある時は中上家の妻として子どもたちを厳しく叱りつけた。弁もたち、生活力にも溢れる母ちさとは、健次にとっても時として手強い存在であったようだ。
 作家として世間に認められた頃、健次はこう書いている。

 母ほど徹底して唯物的な人を知らない。
 母は、長いあいだ息子のぼくが、本を読み小説を書くことを嫌っていた。言ってみれば南瓜の次元ではなく、活字や金銭ではかられる抽象の次元である。母には、本にとりつかれ、文字にとりつかれる人間は、ノイローゼになり自殺するという想像があった。物々交換同様の行商を長い間やっていた母には、物質の次元から身を離すと、必ず不幸がくるという確信がある。名前を出して、小説を書いているということは、人に後指さされることだと言う。人殺しをしたわけではないが、犯罪者といっしょだと言う。
 心臓病で顔はむくんでいる。高血圧の為に眠がみえなくなり、もしそのままみえなくなっても姥捨てにもしないのに、それが羞しいと、誰にも打ちあけずしばらく眼がみえるようにとりつくろっていた。
 小説とは、しなびた南瓜を、パンプキンパイにも煮物にもすることだ、と言えば不遜だろうか?
 なによりも、南瓜というのが、種だ。しんとく丸、信徳丸、身毒丸(弱法師)を、謡曲「弱法師」にするのが、小説家の仕事である。いや、小説のことにことさら限定するのではなく、いま、ここに在ることとは、と言ったほうが、ここちよい。いまここに在ることとは、しなびたひなたくさい南瓜と同じ次元に身をおくことだ。(「萎びた日向くさい南瓜」『野生時代』1975年11月発表)

 そして、母ちさとは、健次が中上家に楯突くことがあれば、それこそ手厳しく怒りをぶつけた。後年、「火まつり」という健次が脚本を書いた映画の制作中に、地元の青年の出演をめぐって義父中上七郎とトラブルになったことがある。トラブルの元をただせば選挙めぐる保守系の中上一族をはじめとする土建屋グループと青年の属する反土建屋グループの対立で、選挙では土建屋グループが勝ったのだが、それを機に古くからの中上建設の社員だったその青年が解雇されたのだ。健次は、その対応はまずい中上建設の信用を落とす、と会社を仕切っていた義兄の中上純一を説得、純一は健次の説得を受け入れたが、肝心の青年は会社に戻らない、一年ほど船に乗ると言いはじめたのだ。そこで、健次はその青年を見て、彼を「火まつり」の映画に出演させようと思いたち、映画の出演が正式に決まったら連絡するから、それまでは地道に土方をして働けと言い、青年も承諾した。青年は仕事に戻ったが、そのあとで、ふとしたきっかけでトラブルとなる。その顛末について健次はこう書いている。

 私の母への愛情の裏に、ぴったりと貼りついた憎悪がある。もちろん、そのような憎悪が一元的なものでなく、それは憎悪というより畏れ、畏れというより思慕というものに変幻するものである事を自覚しているが、事を明せば、映画監督の元で進行している「火まつり」なる映画がそもそもの発端だった。(中略)シナリオも書き終え、前後数回、映画監督が新宮に顔を出し、青年の出演を決めたようだった。ただ決定したと思っていたのは、私だけかもしれない?映画監督は例のヌラリタラリで、青年に直接、決定したと言っていず、青年の方も、独得な保身術で、映画と土方の両方に、二股をかけていたらしいのである。映画に出演が決定した時、突然、義父か義兄に言い出そうと思っていたのだろう。
 結局、どう転んでもドジでバカな目に会うのは私で、青年が元に復したのはすべて話しての事だと思っていた私は、義父や母との雑談の席で、青年が映画に出るのはよい事だと言ってしまった。義父はえっと驚き、次に、何の悪意で自分の組の人夫を引き抜くのだ、という意味の口ぎたない罵言雑言としか言いようのない言葉を浴びせかけた。母がその数倍の悪意で、青年の祖父の代にまで遡った悪を言いはじめ、私はただただ打って一丸となって火の玉となって、青年の映画出演ををたき潰そうとする老夫婦を見ているだけだった。
 二十四歳で自殺した兄は、酔った勢いで暴れ込んできて、酔いがさめた時にはじまるこの自己中心的な罵署雑言と悪意にたたき潰されたようなものだった。
 母の悪意によって、青年は見事にひんむかれ、祖父の代からなまっくらで、二心のある煮ても焼いても食えない男となった。「岬」や「枯木灘」「鳳仙花」に出てくるフサとは大違いで、露骨である。
 聞いているうち腹が立ち、憮然としたまま家を出て、そのまま、映画監督と青年を呼び出し、青年にすぐ、映画に出るから組にバイトのつもりで戻ったのだ、そうでなかったらいまごろ船に乗っているのだ、と言って来い、と言った。二人は出かけていった。出処進退のはっきりしないヌラリクラリが通じると思っているよく似た二人である。(「もうひとつの国・光と翳」1983年10月1日所収)

 それでも、年老いた母ちさとは孫に囲まれて、穏やかな表情を見せる時もあった。

 母は元気であった。いや、いまこの原稿を書いている二日の午後十一時、母は湯上りの髪にタオルをまいて、「健次、これをネネにかけたれよ」とタオルケットを持ってくる。はやく寝ればいいのに、ぼくが起きてるものだから、熊のようにシュミ−ズ一枚でうろうろしている。
「うちに来てくれとった加藤さん、いまヤクルトいっしょうけんめい配っとる加藤さんが、まあ、奥さん、と言うんや。みんな紫陽花は花もち悪りと、花ざかりを切ってきてちょっと萎んだら、これはもうあかんとポイとすてるが、わたしは、その時ああそうかいとうまあわせるけど、そんなこと嘘やで。殺生やわ。奥さん、紫陽花が萎れても水に一晩つけたりなあれよ。そう言うんで、だまされたつもりでやってみた。ほんま、また生きなおした。それで思たんや、ああ病気もこういうんと一緒やな。医者というのは、水みたいな役をしてくれるんやな。裏の石垣にね、鳳仙花の落ち生えがあったんやのに。ちょっとしか土がないとこに。わしは他の人みたいに花なら咲いとる花だけ美しとは思わせんの。それで裏へ洗濯もの干しに行くとき、その鳳仙花みまもった。大丈夫やろか? おまえもえらいとこに根ェおろしたもんやね。いっつもそう一人で話しかけてみとったん。それがねェ、えらいもんや、土から根がとび出して、いまにも引き抜けてしまいそうやのに、太い茎になった。大丈夫やろか、花つけるやろか?そしたらな、他の花畑のに劣らんほど鈴なりに花つけてな。実イつけて枯れた」
 そう語る母の孫は、ぼくの二人の娘をいれて十二人いる。普段は、夫婦二人で広くがらんとした家が、夏休みになるころから、さながら雨天体操場とも変わりはじめ八月十二、三あたりが毎年のことながらピークとなり、父と母の家は子供であるぼくたちの孫でゴッタ返す。(「鳳仙花の母」『さんでージャーナル』1974年8月発表)


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