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中上健次『一番はじめの出来事』(河出文庫)
作品についてあらすじ  

作品について
 この作品は、1969年(昭和四十四年)に商業文芸誌「文藝」八月号に発表された。中上健次にとっては文壇デビューとなる作品である。その前年、『日本語について』という作品で群像新人賞に応募し、最終選考まで残ったが受賞を逃した。受賞者は『三匹の蟹』の大庭みな子であった。
 『群像』六月号に載った新人賞の選者評を読んだ「文藝」の編集者鈴木孝一は、三つの姓を持つという彼の経歴を見て、この作者は何かのっぴきならないものを抱えているのではないかと感じ中上とコンタクトをとった。話してみると鈴木の父親も熊野の出で、しかも中上の実父(鈴木留造)と同姓という不思議な縁であった。鈴木は、最初に会った時から、中上に「どうしても書きたいことがほかにちゃんとあって、それをまだ書いていないんじゃないか。僕はそれを読みたい」(高山文彦『エレクトラ―中上健次の生涯』)と言い、中上を挑発した。
 それからおよそひと月後に中上から受け取ったのが、この『一番はじめの出来事』である。鈴木は、この作品を「文藝」編集長寺田博にぜひ掲載してほしいと頼んだ。寺田も作品の出来について「これはいけるぞ」と思ったと後に振り返っているが、それから二ヶ月後、この作品で中上は文壇デビューを果たしたのである。
 だがこの作品は当時それほど注目を集めなかった。大江健三郎のエピゴーネンだという批判もあった。とはいえその後の中上の歩みをふまえたうえでこの作品を読んでみると、ここには中上健次のスティグマ(聖痕)がしっかりと刻みこまれ、紀州・熊野サーガ(物語群)へいたる力強い一歩が踏み出されていることがわかる。
 それは、なによりも兄郁平(行平)の縊死を正面から書いたことだ。この作品のタイトルである「一番はじめの出来事」が何を意味するのか、作品の中にそれを直接示す表現がないため文芸批評家たちはさまざまな見解を述べているが、商業文芸誌へのはじめての掲載という事に多少引っ掛けたのかもしれないという気もしないではないけれども、もちろんそれはほんの冗談ですませばいい話ではある。
 中上は、県立新宮高校を卒業したあと、大学受験をめざして東京に出てきたが、予備校にはほとんど通わず、新宿でジャズ喫茶に入り浸り、そこで知り合ったフーテン仲間とジャズと酒とドラッグに耽り、他方で同人誌『文藝首都』に詩を投稿するという生活を送っていた。そんな時期にたまたま、『文藝首都』に掲載されていた中上の詩を読んでいた『文學界』の編集者高橋一清から声がかかり、『文學界』の扉に毎月若手詩人の作品を載せるという企画で、中上の詩が掲載されることになったのである。商業文芸誌へのデビューということでいえば、この1968年「文學界」9月号に載った「季節への短かい一章」と題するこの詩の方が約一年早い。
 「文學界」編集者高橋一清は、後に中上に『岬』を書かせ、芥川賞受賞へと導くことになるが、この時期はまだ中上の小説については、ほとんど評価していなかった。この時期中上を詩から小説の方へ導いたのは「文藝」の鈴木孝一である。デビュー作となった『一番はじめの出来事』は当時ほとんど注目されなかったが、この作品をきっかけに中上は完全に詩作から小説へ転じ、鈴木のもとに小説作品を次々と持ち込んできた。しかしおよそ二十作にもおよぶそれらの作品はどれも掲載までには至らなかった。「文藝」にようやく第二作目が掲載されたのはデビューから二年あまりが過ぎた1971年8月で、『火まつりの日に』(「「文藝」八月号、のちに『眠りの日々』と改題」)という作品である。これは自殺した時の兄と同年齢になるという主人公が、母親から厄落としになるから熊野の御灯祭に来たらと誘われて、熊野に一時帰郷するという話であるが、ここでも中上は兄の自死について執拗に触れている。
 「たしかにぼくには、父親の違う母の血だけでつながった十二歳ほど年齢のへだたった兄がいて、彼はある朝くびれて死んだはずだった。兄の記憶は薄れている、ただ兄の縊死という白いけばをもつ表皮だけが、いつまで考えても解けぬ数学の命題のように不意にぼくの心の中に浮かびあがる。」(「火まつりの日に」)
 中上健次にとって、この異父兄の自死は、中上を無邪気な子供の眠りから目覚めさせる「一番はじめの出来事」であり、同時に、「いつまでも考えても解けぬ数学の命題のよう」な「永遠の出来事」でもあって、またそれが中上をして文学・芸術へと向かわせるスティグマでもあった。
 この作品は、山、〈秘密〉、家、川、犬、果実、雨、迷路、山、という小題がついた九つの章で構成されている。兄の自死が書かれているのは最後の「山」の章である。「山」で始まり「山」で終わる。しかし康二たちの山学校(自遊空間)の舞台である「山」は最初の「山」と最後の「山」では、そこに兄の自死が入ることによって、様相を異にする。
 最初の「山」では「風が頂上のほうからふいてくる。緑色のすすきが葉をひからせながら風に呼応して一斉にうごめき、山全体が歌をうたいだしたように騒々しく音をたてた」というように、風は「山」に歌をうたわせてくれ、康二たちの心を躍らせる。しかし、最後の「山」では「風が竹中の川のほうからふいてきて、光と音を僕の体の上にばらまいて、無表情に通過する」だけだ。そして、「みんな裂けてしまえ、と僕は耳のそばで鳴る風の音をききながら思った。空も裂けてしまえ、海も裂けてしまえ、山も〈秘密〉も裂けてしまえ、**康二もペストも竹中の川も死んだ兄も、僕の眼にちかちかはいってくる光もことごとく裂けてしまえ!」と康二はその時周りのことごとくに破壊衝動が湧き起こるのを抑えることができない。この破壊衝動は、兄の自死によって康二の中に突然湧き上がってきたものだ。母と姉と義父と兄、こんがらかった血縁の糸、その結び目がある日どこかプツリと切れる。糸はどこでどうつながっていくのか。いっそのことみんな裂けてバラバラになってしまえばいい。
 そして仲間たちは輪三郎の小屋のあたりの枯れ草に火を放つ。火が小屋に燃え移れば輪三郎は眠りながら焼け死んでしまうだろう。「でも、僕は、いつまでも賢い子供でいなければいけないのだから、輪三郎の小屋から燃えひろがった火が山に移って、僕の家のほうへいこうとするなら、この遊びをやめることをみんなに説得するだろう」子供の康二はこれからもみんなと〈秘密〉づくりや海賊ごっこに熱中するだろうが、もはやそこには無邪気なだけではない自分がいることを知るのである。
 兄の自死によって康二はもはや以前のような無邪気な子供には戻れず、「アニ」「アンニャ」の世界への第一歩を踏み出したのである。それが、まさに「一番はじめの出来事」にほかならない。それはたんに子どもから青年へという思春期におけるごく一般的な通過儀礼とは異なる。「アニ」「アンニャ」、すなわちそれは「路地」という閉鎖的共同体の中に生きることを宿命づけられた「成年男子」のことであり、また母系一族の中に生きることを宿命づけられた「男」のことである。この作品を起点として、中上はそうした「アニ」「アンニャ」の「生きざま」をこれ以降の作品の中で次々と描き出し、やがて紀州熊野サーガと呼ばれる壮大な物語群を生み出していくことになるのである。その意味でこの作品は、まさに中上文学の出発点でもあるのである。

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