あらすじ
山 その日は、僕たちは放課後、秀と鉄と白河君の四人で、山の〈秘密〉の作業場に集まることになっていた。でも、鉄と白河君はまだ来ていなくて、秀と二人だけだった。仕方なく、秀と僕は蛇島の掘っ立て小屋に住んでいる輪三郎をからかいに行くことにした。秀の話だと輪三郎は最近嫁さんをもらったらしい。 竹のやりと木刀をもって輪三郎の小屋の近くまで行き、小屋に向かって石を投げ、インディアンのような雄叫びをあげた。しかし、輪三郎は姿を見せなかった。 僕と秀は輪三郎が寝込んでいるに違いないと思って、そっと小屋に近づき戸を開けた。なんと小屋のなかには万国旗や日の丸などの旗がいっぱいに張りめぐらされていたのだ。 輪三郎が僕たちに気づいて怒鳴り声をあげるのと同時に、僕たちは外に飛び出した。小屋には素裸の輪三郎がいた。輪三郎は何をしていたのか。僕は輪三郎が神様に女をいけにえに捧げようとしていたのではないかと思った。 〈秘密〉 その〈秘密〉の計画は、輪三郎の住んでいる小屋に着想を得たものだったが、また兄が戦後まもなく焼夷弾で焼けてしまった家を建て直したという話も僕たちの計画を実行するうえでおおいに刺激剤となっていた。 それは山の頂上にそびたつ一番高い建物になるはずだ。壁は杉の枝で作り屋根にはブリキの板を置くのだ。壁の材料を集めるために僕は杉の木に登り、小枝をむしっていた。 そこからは竹中の川とその川口の向こうに海が見える。ふと僕は母から聞いた大洪水の話を思い出し、恐怖を覚える。あの死んだようにおとなしい海が突然気を狂わせて襲いかかってきたら街はひとたまりもない。 僕の恐怖を白河君や鉄に悟られることを拒むみたいに、僕は杉の木を大きく揺らし、チョーセン、チョーセン、パカニスルナと白河君をからかってやろうと思ったが、口から出たのは、ほれ、虹が見える、という嘘だった。嘘つき康二、と白河君は言い、ぐみの実を投げてよこす。 そうだ、洪水が来たら、僕も仲間も母も兄も姉もこの〈秘密〉に逃げてくればいい、そしたら生きのびられる。 家 山の作業場での〈秘密〉の材料作りに熱中したため、夕食の時間に遅れて母に叱られた。姉と母と三人の夕食。姉はパチンコ店で働いている。姉が付き合っている兄やんの友達のヒロポン中毒は夜になると家の近くで口笛を吹いて姉を呼び出す。 食事しながら、僕は兄やんがヒロポンに惚れるなんて、よっぽど馬鹿やと言うとった、と言うと、姉は、兄やんだってヒロポン中毒やったくせに、いつも母やんに、俺は父やんを殺したったんや、とボケて言うとったくせに、と姉は言い、母に相槌を求め笑い声を立てた。 その日僕は兄の家に向かう道すがら、どうして自分の名前が母の兄つまり伯父たちの名前にそっくりなのか不思議に思った。康一、康二は康一郎、康次郎のものまねだ。でも考えれば考えるほど分からなかった。 兄は家全体がまるで鶏小屋になっような部屋のなかで、明日の朝、鶏たちに与えるために大根の葉を刻んでいた。兄は僕にも大根の葉を刻むのを手伝えと言い、康二、母やんのところに嘘の父やんが来とったか、と聞いた。 僕ははそれに答えず、大根の葉をとって眼のふちを怪我している白色レグホンに葉をつき出した。 それから、兄は、あした川に行ってバッテリで鮒やウナギを取りに行うと僕を誘った。僕は、あしたは土曜日だけど、学校があると嘘をついた。 兄は立ち上がり、鶏たちの餌を入れたかごを土間におろし、白河君らが来たとった、妹のイングとかポナスとかいうのも一緒に来とった、と言った。それを聞いて、僕は、昨日のポナスとのことを思い出す。 僕たちがいつも海賊ごっこをしている竹中の川にある廃船バグダッド号の船べりに向かって、ポナスがしゃがみ込んで小便をしていたのをたまたま僕が見つけ、怒鳴ってやったのだ。 ポナスはびっくりして立ち上がり、パンツを濡らして、泣き出した。僕は、やさしい声でなだめてパンツをぬがしてやり、それからポナスの下腹の裂け目に指を突っ込んだ。ポナスは僕に涙で光る顔をみせながら、言わへんよ、黙っとくんよ、と言ったのだ。 僕はまた、白河君らは何と言っとった、と聞いた。兄はそれに答えず、鶏に餌をあげていた。僕は、ポナスらは好かん、と言ってやった。兄やんはポナスを好きやけど、と兄は言い、白河君らは鶏の毛をむしるのがおもしろい言うてみにきとったんよ、と言った。 僕は輪三郎の小屋のようになっている兄の家に泊まるのは半分いやで、半分楽しい気がしていた。兄は時々電波で大魔王からの指令が来るんや、と言った。大魔王はお前らの一統はみんな裏切り者や、と言うんや、と兄は言った。兄はそれがつらくて、みんなをみのがしてくれと頼んでいるらしい。でも、大魔王がなんで僕たちを裏切り者というのか、僕には分からない。 僕は、兄やんに、いつ大浜の田中さんとこから犬もろてきてくれる、と聞く。兄は、それに答えず、話をそらすように、バッテリで眩暈して気絶しとる魚やウナギつかまえるのおもしろいど、と曖昧な笑いをつくった。 川 その日、僕たちは学校をサボって、学校が終わる頃まで山で遊んでいた。それを僕たちは山学校と呼んでいた。 白河君も秀も鉄も、まるで労働するのが楽しくて仕方ないというふうに〈秘密〉のための仕事をしていた。僕は、新宮のなかで一番高い建物になる〈秘密〉のことを考えるだけで興奮し、その興奮を追い出すように熱い息を吐き、蛇島のむこうに見える竹中の川をみた。 あの川からこちら側が僕たちの領土となる新宮の街だ。一時間半ほどの作業の後、僕たちは川に泳ぎにいった。 川に向かう途中に川をまたいで隣の街につらなる鉄橋を列車が通過しようとしているのが見える。あれは長島行か、それとも名古屋行か、などと考え、あの列車に乗っている僕と同じ顔をしたニセの康二という男を想像してみた。もしそのニセの僕が川に向かう道を歩いていて、ほんとうの僕があの汽車に乗っているとしたら、ニセの僕もやっぱりこんなふうに考えてしまうのだろか。 廃船バグダッド号で海賊ごっこをする前に、僕たちまず泳ぐことにした。素っ裸になると水は弾けるような冷たさを感じる。でも白河君はパンツをはいたまま、川に飛び込んでいた。腹を赤く腫らして、白河君は川から上がった。 僕もしばらくして急激に寒さを感じ、廃船の甲板に上がり、白河君と並んで寝ころんだ。秀と鉄が唇を紫色にさせて、体を震わせながら甲板に上がってきた。 白河君は、それからパンツを下ろし、性器のあたりに伸びている細い芽のような毛をゆびさし、カミソリでそったらこんなに黒うなって生えてきた、と言った。 僕も起き上がって、自分の下腹部をみた。僕にも細い毛が性器の付け根あたりに生えていた。僕になにが起こったのか。白河君が、お前のはまだうぶ毛やど、まだ四回くらいカミソリでそらな黒うならん、と言った。 僕は、興奮していたのか、涙が眼の奥ににじんできた。僕は素っ裸のまま甲板に寝ころび、川口の方をみていた。兄に山学校のことがみつかったら、嘘ばかし言うて大人をだます子供は、尻の穴に焼けひばし突っこんたるど、と兄に脅されるかもしれない。 でも、僕ももうすぐ子供でなくなる。僕は川と海のさかいをみていた。川は流れて海に入り込み、そのままのみこまれたちまち同化されていく。僕は眼を閉じたまま眠りの準備運動のように意味のない問題と答えを考えはじめた。 犬 山で作業をしていると、夕方サイレン塔のサイレンが鳴り火事が舟町あたりで起こった。僕たちは作業の手を休め、火事を見ていたが、火事はたいしたことはなく、また作業に戻った。 僕たちが、黙々と作業に打ち込んでいると、闘鶏場からの帰りらしい兄が熊のような顔した太った仔犬を一匹かかえて山を登ってきた。兄は僕をみつけ、仔犬を僕に見せた。兄が犬をもらってきてくれたうれしさよりも兄に〈秘密〉をみられたことに僕は熱い羞恥と戸惑いを感じて、夕焼け色にそまった兄をみつめていた。 僕は兄のやさしさを感じとめたまま不思議なはずかしさに体をつつまれ尻もちをつき、尻尾を振っている仔犬を抱き上げた。 兄は、その犬が子供産んだら、一匹くれと田中さんが言ってたぞ、と言い、それから僕たちの作業場に入り、半分ぐらい出来上がっている僕たちの〈秘密〉をみて、なにを作っとる、と聞いた。僕は仲間たちに合図を送り、兄の質問を聞かなかったように犬を草むらにおろした。 兄は、しつこく白河君に、なにをつくっとると聞いた。僕は白河君にダメとサインを送る。白河君は、なにかわからんもの、と下手な嘘を言った。それから鉄がサイレンみたいなもの、と言った。 兄は、ナニカワカランモノ、さいれんミタイナモノ、とうつむき低い声でつぶやいていた。白河君が、さっき舟町のほうで、火事があってサイレンがなってた、と言った。僕は、うつむいてひとりごとをつぶやく兄を仲間たちが見ているのに羞恥を感じていた。 フナマチモエタ、ノダマチハ? 仲間たちは兄の言葉の意味がわからなかった。兄は僕たちが住んでいる野田町も火事で燃えてしまわなかったのか、と言っているのだ。 野田町はそんな簡単に燃えんよ、と僕が言うと、兄は、かってに嘘の父やんといっしょに康二らがうつりすんだ家がかんたんにもえん?、あほらしい、と言った。そんなに火事になってほしいんやったら、兄やんの家がある春日町が燃えたらええのに、と僕は言った。 カスガモモエル? 僕は兄の顔を見ないように仔犬を草むらにおろし、白河君たちに道具を片付けるように合図した。兄はまだ意味の分からないことをぶつぶつつぶやいている。 僕は片付けを始めた。夕陽が下の朝鮮部落のブタ小屋のトタン屋根にあたり、色のついた眩しい光を反射させている。 片付けを終え、僕たちは山を下る。仲間たちは仔犬に付ける名前を口々に言いあい、笑い声をあげていた。僕は、あの酒飲みめ、まるで輪三郎みたいにわけの分からないことを言って僕をはずかしがらせる、と思っていた。 果実 僕は仔犬にペストという名前をつけた。ペストは怠け者ですぐに太ってきた。僕は母に仔犬が子供を産んだら家で飼ってもいいか、と聞いたが、母は家の人の数より多い犬を飼ったりしたら、どっちが飼い主か分からなくなる、と言い反対された。僕は母の言うことを聞くつもりはなかったが、もしどうしても反対されたら、〈秘密〉で飼ってもいいと思っていた。 ペストがたくさん仔を産んで、ペストは〈秘密〉の大親分になる。それから輪三郎の飼ってる猫と戦争して勝ったら、ペストは山中の女親分にもなれる。 兄は酔っていた。僕の顔を見ると、あのサイレンみたいなものはできたんか、と訊いた。まだできあがらん、とぶっきらぼうに答えた。康二らはなんにも兄やんには教えてくれんのやなあ、と兄が笑って言った。僕は兄やんが飲んできたら好かん、と言った。酒を飲んだ兄はいつも母を怒らせ、姉を泣かせる。
兄は上がり口に座って、包丁をたたみにつきたてて、母と父と姉をにらみつけていた。外から家に入ってきた僕に兄は、康二もそこへ坐れとどなった。母が、康二は坐らんでもええ、と強い声で言った。 その包丁で刺すんなら刺したらええ。どこの国の子供が、親や妹弟が幸せにいっとると言うて、ねたんで包丁つきつけるもんがある? 父が、母の話の続きのように、酒を飲んで、包丁もってはなさんと、素面ではなそらよ、とゆっくりした声で言った。みんな嘘だ、と僕は思った。兄は酒のいきおいで気抜けのした殺意というものを演技しているだけだし、父も素面の時にはけっして話をしようとは思っていない兄に対話を求めている。 殺すと言うたら、殺すど、と言う兄に、母が、親を刺したいんなら刺せと言うとるやろ、康二、かまわんさか母やんや父やんやミチコに包丁の先でもふれたら、警察に言うてこいよ、と言った。 姉が泣き出した。姉は、母やんがその男と住んでからうちの一統はこんなことばっかしやっとる、と言った。姉が、その男と言ったので、母が誰のおかげでおまえはここに住んどる、と母は姉をにらみつけた。 姉は、ここへ来たのは母やんがここへ住んださかよ、わたしはパチンコ屋につとめて自分のことは自分でやっとる、この男の世話になにひとつなってない、今の母やんは兄やんやわたしらになにひとつ母やんらしいことしてくれんがい、と言った。 母は姉を平手でぶった。姉は大きな声で泣きはじめる。でていけ、でていけ、康一もミチコも母やんが母やんでないと言うなら、どこへでもいってしもたらええ。ああ、いくわ、わたしはどこへでもいくわ。 僕は大きな声をあげて泣いた。僕が泣くことでしか、母の怒りをしずめ、兄と姉のささくれだった感情をおとなしくさせる方法はないのだ。 うるさい、五年生にもなって泣くな、と父が、どなった。母は僕をそばに坐らせ、父に、あんたにはこの子の泣く気持がわからんの、となじった。母と父が言い争う。 兄と母が喧嘩しようと、母と姉が喧嘩しようと、母と父が喧嘩しようと、子供の僕にはまったく関係ないことだ。僕はみんなで劇をやってるような気がしていた。彼らはみんなでそれぞれの役を演じているのだ。 母は、兄に、母やんらにどうしてほしいのか、と訊く。母やんに別れよ、と言うのか、昔のように康一を父やんみたいにして、自分の子供ばかしの家で、母やんらしいことをせえと言うん? 兄は違う、と言う。じゃあ、どうしろと言うのかという母の問いに兄は、わからん、とひとこと言ってそれきり黙り込んでしまった。 兄やん、いこ、と姉が兄を促し、わたしはもう子供と違うし、パチンコ屋でも、飲み屋にでも勤めて食べていける。 それを聞いて母は怒ったような荒い声で、いけ、いけ、出ていけ、自分ひとりでおおきなったような顔されるのは、わしはつらいわ、どこへでも自分達の好きなところ行ったらええ。 雨 僕は、インディアンたちに襲われる夢を見ていたらしい。インディアンのひとりが僕をつかまえようとし、僕の下腹部がかがり火で照らし出される。僕は、母やんに助けを求め、それから叫び声をあげらながら兄や父にも助けを求めて逃げだす。 雨が振っている。雨は不安をまきちらす。僕は寝ながらパンツの中に手をいれて性器を触った。白河君のように毛は生えていない。兄の体がそばで動くような気がした。やっぱり兄の家になんか泊るのではなかった。この寝部屋のむこうから二百羽あまりの鶏の四百あまりの眼球が僕をにらんでいるのだ。僕は恐くなり、涙が眼をふさぎ、鼻腔からあふれ出してきた。 なにを泣いとるんな、康二は?兄が目を覚ました。兄が僕の髪をなぜる。僕はまるで子供だ。低いかすれ声をあげながらぐみの実の汁のような酸い涙をたくさん流した。 兄が僕に兄の布団に入るように合図した。 それから僕は兄に昔話をしてくれるようねだった。 兄が話はじめる。戦争が終わって、兄やんたちは食うために焼け跡に麦畑とサトイモ畑を作りました。 その頃父やんが亡くなり、兄やんはみんなが住めるように家を建てました。兄やんはまるで父やんのようにして、母やんらのために働いていました。 兄やんはその頃、はやりたての白い背広を着てよくダンスをして遊んでいました。正月に着るものがないと、兄やんは駅前のシマダ洋服店から母やんとミチコと康二の新品の服を盗んできました。母やんが警察に引っぱられ、家宅捜索を受けました。母やんは泣いて、いつも警察に引っぱられるようなことはしないでくれと頼みました。 僕は兄の腕を枕にして寝たまま、もう二十六歳にもなる兄の物語を反芻していた。僕は眼を大きく開いたまま眠ろうと思った。僕が一番恐いのは、眠っている最中に、なにもわからないまま死んでしまうことだ。 兄の低いいびきが聞こえる。今も雨が降っている。もし雨がずっとふりつづき、竹中の川が氾濫して海と呼応して大洪水をおこそうとも、あの〈秘密〉に避難すれば兄も姉も母も仔犬も助かることができるのだ。僕は兄の腕から頭をはずし寝返りをうった。 迷路 〈秘密〉はほとんどできあがっていた。あとは天井にとりつけるブリキの板と〈秘密〉の内部に敷くやわらかい草を刈り取ってくればよかった。僕たちはススキの葉をナイフで切りとり、切りとった葉をかかえて〈秘密〉に運びこんだ。草のにおいが僕を上機嫌にさせた。 ブリキの板はどこからもってきたらええん、と鉄が訊くと、白河君が、ブタ小屋のブリキ板を黙ってはがしてきたらええ、そんなことぐらい簡単やど、と言った。そやけど、ブタ小屋をもっとる朝鮮人に怒られるやろうがい、と僕は言う。 白河君はもうすぐ朝鮮人はみんな国に帰る と母やんが言ってたから、大丈夫だと言う。白河君も帰るのか、と秀が訊いた。 俺は帰らん、と白河君は言った。 〈秘密〉の中で寝泊まりするならもっと大量の草を刈ってきてもっと分厚くしなければならない。草どもの手や足についた肉の部分はやがて乾燥させられ寝ころぶ僕たちを死臭で圧倒するだろう。 どうして白河君は帰らんの、と僕は訊く。 俺は朝鮮人と違うもん、と白河君は言う。 なんで白河君は朝鮮人と違う、と秀がそう訊ねた。白河君は秀の言葉に腹立ったらしく、柱を足で蹴ってから唾を吐いた。 朝鮮人は好かん、と白河君は言った。 僕は、白河君も僕も大嘘の子供なんだ、と思った。朝鮮人なのに、朝鮮人じゃないといい、朝鮮人を嫌う白河君は、嘘の父やんと一緒に母たちと生活する僕と同じような大嘘つきなのだ。 僕たちは、それから竹藪のなかを通りぬけ、輪三郎の小屋の裏に出るため、細い道を歩いた。茨の枝が竹の葉の先にまで蛇のようにからみつき、まるで森のなかをさまよいこんでいるようだった。 白河君と鉄が草むらのなかに走りこんでいく白い猫をみつけ、大きな声をあげた。鉄がこの道をずっと行ったら猫島に出るかもしれん、輪三郎はその猫島の親分で、あいつは猫島に迷い込んできた子供をみんな白い猫にしてしまうかもしれん、と言う。 坂になっている道を登りきると、そこは輪三郎の小屋の裏側の竹中の川に面した崖だった。崖の端にいた鉄が輪三郎が〈秘密〉を壊しに行っとる、と怒鳴った。輪三郎が僕たちの〈秘密〉に向かって歩いていくのがみえた。 こら、気違い輪三郎、〈秘密〉をちょっとでも壊したらおまえの小屋をめちゃめちゃにしたるど、秀がどなった。僕は輪三郎の姿をみながら、不安が体中にわきおこりはじめているのを感じた。たぶんあいつは僕たちををいけにえにするためにつかまえようとしているのだろう。あいつはもしかすると兄の言う大魔王かもしれない。 あんな小屋に住んどるのは気違いといえば気違いやし、正直もんと言うたら正直もんやと、母やんらが言うとった、だからてごたりしたらあかんのやと、と鉄が言う。白河君があんな気違いかまうもんか、と言う。 そこの崖から僕たちの〈秘密〉は最初よく見えなかった。壁に使った杉や椿の枝にだまされ、すぐには〈秘密〉をみわけられなかった。鉄に言われてやっと塔のような〈秘密〉をみつけた。それは山と空に描いた僕たちのだまし絵なのだ。 〈秘密〉は堂々と建っていた。あとはブリキの板を天井にとりつけるだけだ。もし白河君がブリキの板をはがしてこれなかったら、僕もこっそり兄の家の物置小屋の少しさびついたブリキ板をはがしてこようと思った。 山 兄が死んだ。朝ご飯を食べている時、姉とヒロポン中毒が体をふるわせながらとび込んできて、兄やんが、くびつったんよ、と泣きながら言った。母も大きな声をあげて泣いた。 虫の知らせか知らんけど、昨日おかしなこと言うとるとおもたさか、朝寄ってみたら、柿の木に首つってぶらさがっとったん。子供の頃からずっと朋輩やった兄やんがやで、首をつっとるんや。 ヒロポン中毒はそう言うと、涙を流し、つらいよ、俺はつらいよ、と首をふった。 僕は涙を流している母や姉やヒロポン中毒を茫然としてみつめていた。どうしてよ、なんにも悪いことせんのに、どうしてよ、と母は泣いている姉に低いつぶれた涙声で言い、姉をかばうようにして畳に二人して尻もちをついた。 それから兄の遺体が棺に入れられて運ばれてきた。午前八時半。ちょうどほんとうの学校では朝礼のある時間だ。その日は仲間たちと嘘の学校である山学校の約束があった。僕は、遅れていくことにした。 僕の家に野田町や春日町の人々が次々とやってきて涙を流して帰る。兄は菊の花の入った棺のなかで眠りこけている。どうしてみんな急に泣き出したりするのだろう。僕は全然悲しくなんかないし、首をつって死んだからと言って泣いたりなんかしない。 ペストを抱いて、かばんを持たずに山学校をするために、僕は山に向かった。僕はしばらくして振り返って僕の家を見た。兄はあの家で眼を閉じ、黙っているのだ。眼がかすんで、ぬくい涙が流れ出した。嘘だ、みんなことごとく嘘だ。 僕はふたたび山の頂上を目指して登りはじめた。兄やんが首をつって、死んだ。それははずかしいことだ。このことは得意になって仲間内に話すことではない。僕は涙を腕でこすりゆっくりと作業場にむかって歩いた。僕は依然として子供なのだ。 白河君と秀と鉄は輪三郎の小屋を襲撃するための武器を準備していた。 僕は、白河君にブリキ板をはがしてこなかっか、と訊いた。白河君ははがしてこなかった、と言った。今日は屋根を作る計画だったはずだ、と僕は言い、ブリキ板がなかったら雨が降って〈秘密〉の中がびしよじしよになってしまう、と言った。 そんなこと言うても簡単にははがせんもん、と白河君が言う。僕は、白河君が自分ではがしてくる、自分ならはがしても怒られない、と言ったじゃないか、と責め立てた。 嘘つき、白河! しょうもあるもんか、糞嘘つき康二! 秀と鉄がにらみあった僕たちをみている。 ペストがおそるおそる〈秘密〉に入ろうとしている。不意に川のほうから風がわきおこって木や草の葉を騒々しく音をたてて作業場にも入ってくる。 愚劣なことだ。僕の嘘つきがまだ子供だからしょうがないように、白河君の嘘つきもしょうがない。子供が大きくなるのには嘘の生活以外になにがあるか。僕も白河君もまだ子供なのだ。 ブリキ板がないので僕たちはなんにもすることがなく、草むらに寝転んでいた。午前十時半。パルプ工場のサイレンが鳴った。 子供の頃から朋輩やった兄やんがやで、首をつっとるんや、つらいよ、俺はつらいよ。涙が眼球の奥からあふれ出し、目尻をつたって耳の穴のほうにゆっくりと落ちた。 僕はあおむけのまますすきの葉を手でひっぱりながら起きあがろうとした。葉刃で手を切った。くすぐったい痛みを感じながら雨粒のような血をみつめ僕は立ちあがった。 ペストを口笛で呼びながら、僕は蛇島のほうへむかって走った。みんななにもかもことごとく裂けてしまえばいい、と僕は心のなかで叫んでいた。僕の疾走の行く手をさえぎるものはすべてうちほろぼしてやる。翔べ、翔びあがれ! 僕は転んでしまった。仲間たちが、どうしたんな、と駆けよる。ペストが僕の顔色を舐める。みんなが笑う。 秀が、輪三郎のとこへ行って石ぶつけてこうか、と言うので僕たちは賛成した。 風が、強くふき、山中に騒々しく音楽を鳴らせる。突然、楠の木が梢を身をくねらせ、白く光る葉裏をふるわせ、嘲笑いはじめる。嘲え、嘲え、僕ははずかしく死んだ兄の唯一の弟だ。 僕たちは椎の木の葉どもがたてる嘲笑いの渦のなかを雄叫びをあげながら輪三郎の小屋にむかった。途中、白河君が、小屋のまわりにわらをつんで、火、つけたろか、と言う。あいつ、小屋のなかで焼け死ぬど、と誰かが言う。 僕は白河君にマッチ持ってきたのか、と訊く。あったりまえやげ、と白河君が言った。あったりまえに輪三郎はぼうぼう燃える、と秀が歌うように言い、みんなが笑う。僕たちは上機嫌のまま蛇島にむかって歩いた。 その時、はじめて、どこからがほんとうでどこからが嘘かわからなくなる。 僕はただ笑っていた。ちりちりと音をたてて枯草に火がつく。風が竹中の川のほうからふきあがってきて、火は急にいきおいを増し、輪三郎の小屋を燃やしてしまおうとその手をのばす。輪三郎は眠りながら焼け死んでしまう。 でも、僕はいつまでも賢い子供でいなければならないから、輪三郎の小屋から燃えひろがった火が山に移って、僕の家のほうへいこうとするようなら、この遊びをやめるようにみんなを説得するだろう。僕は上機嫌のまま走り寄ってきたペストを抱きあげた。 僕はまだまだなにも知らないように、みんなと〈秘密〉づくりや海賊ごっこを楽しんでいなければならない大嘘つきの子供なんだ。嘘つきの子供もたちだけの手でつくった嘘うそしい〈秘密〉に、僕らは熱中するのだ。僕はそう考えて、やさしく僕自身を笑ってみた。風がいっそう強くふきはじめ、山中の木々や草どもをうごめかせた。そして、あったりまえに輪三郎はぼうぼう燃える。
|