作品について
『枯木灘』は、『岬』が「文學界」10月号(1975年)に発表されてからちょうど1年後にあたる1976年「文藝」10月号に発表された。 この作品の筆を健次にとらせたのは「文藝」編集長の寺田博であった。寺田は、健次の『一番はじめの出来事』を担当編集者鈴木孝一とともに「文藝」(1969年8月号)に載せ商業文芸誌のデビューを飾らせた男である。健次は、鈴木のもとでそれから6年近く「文藝」を中心に作品創作に励んできたが、『十九歳の地図』(1973年6月号)が芥川賞候補となり、それを機に他誌からの執筆依頼も増えた。鈴木は、健次の作家としての独り立ちを見届けたうえで、『蝸牛』(1973年「文藝」3月号)の担当を最後に「文藝」編集部を離れ、出版部へ移籍した。 鈴木は、『一番はじめの出来事』以来健次を挑発し、己の出自に向き合い、とことんそれをつきつめてみたらどうか、梅干しの種の殻を割るとその中の真っ白い核があるが、その核にまで届くような作品を書けと健次の背中を押し続けて来た。『蝸牛』は、ようやくその核に届こうとする作品だった。そんな時に自分のもとを離れるという鈴木に健次は戸惑いを隠せなかったが、確かに鈴木が言うように、健次は鈴木のもとでは、作品に力が入り過ぎるところがあった。 鈴木から離れて、健次は他の文芸誌に次々と作品を発表していった。それらの作品のうち1975年1月に『鳩どもの家』(「すばる」1974年・9月)が1974年度下半期芥川賞の候補作となり、続けて同年7月には『浄徳寺ツアー』(「文芸展望」1975年4月)が1975年度上半期芥川賞の候補作となった。いずれも受賞にはいたらなかったが、続けて1976年1月に1975年度下半期の芥川賞候補作『岬』がついに受賞となった。 この受賞を、健次のために喜びつつ、悔しさを噛みしめていたのが、「文藝」編集長の寺田博であった。せっかく「文藝」デビューさせたのに、花道を自分のところで飾らせることはできなかった。寺田は、受賞のあわただしさの中で「文藝」に小説を書いてもらうのは無理だろうと、とりあえず小川国夫との対談を企画した。対談は「暴力・ディオニソス・語り」というタイトルで「文藝」(1976年2月号)に載った。 この対談が、『枯木灘』への執筆につながるきっかけとなった。対談の中で、健次は自分が今長篇を書きたいと思っているが、それは短編の長いやつではなく長篇の長篇で、そのためには作品をポリフォニックに構成しなければならない、そのポリフォニーというのを支えるのがコロスであり、語りである、と長篇への構想を語っている。ここで言うポリフォニーとは「多声部音楽」という音楽用語であるが、小説でいうなら重層的構成という意味になろう。日本の小説のほとんどは主人公が一人のモノフォニー(単声部音楽)であるが、主人公以外の人物も主人公とは独立して存在し、彼らの視点からも物語が語られるそんな重層的な構成をもつ長篇を健次はイメージしている。そして、「コロス」とはコーラスのことで、合唱隊や合唱歌を意味し、ストーリー全体を通してソロ奏者の背後にひかえる合唱隊のようにストリーを語り、時には一人一人が自分の物語を紡ぎ出す。そんな一群の登場人物たちを健次は「コロス」と呼んでいる。 小川国夫は、それを聞いて「あなたはコロスしか書いてないですね。それではあなたが目指している長篇も書けないと思うんですがね、コロスから立ち上がってくる人物がいなければ」と手厳しい助言を与えている。そしてあなたは群れが混然としているような書き方をしているが、あなたの作品の中にこんな人間もいたかというそういう人物を、残念ながら自分はまだ発見していない、と小川は言う。 健次は、「そういうエキセントリックというのは、いやなんです。結局エキセントリックになるでしょう、こんな人間もいたかということになると」と答えるが、小川はすかさず「しかし、あなたの人生観から言うと、そういう人間が出てくるはずですよ。つまりこんな人間もいたかという、人間がいちばん暗い悪をしながら、これでいいんだといってやり続けるというようなタイプね、そういうものが出てくるはずですけれども」と応じている。 健次より一回り以上も歳の違う小川は、やはり一枚上手であった。小川のこの一言は、やがて健次を長篇『枯木灘』へと向かわせるたしかな足がかりとなる。寺田は、それを見逃さなかった。それから半年あまりの時間をおいて、寺田は、健次にずばっと切り込んだ。「小川さんとの対談で話していたような、ポリフォニックな長篇小説を書いてみませんか。毎号連載で、一回百枚、それを四回以上」 結局、一回百枚で、六回の連載ということになったが、実際に他誌の原稿を何本も抱えている状態での百枚連載は、かなりの冒険ではあった。実は、この時期、芥川賞受賞後の狂乱生活ぶりに妻のかすみはさすがに耐えきれず、子供を連れて家を出てしまっていたのだ。妻との離婚話も取り沙汰されていたというが、そんな健次の私生活を耳にしていた寺田は、妻子のいない淋しさから健次はますます酒におぼれてしまうにちがいない、無聊をかこつ時間を創作にあててもらえれば、とも考えていたという。 健次は、妻子のいなくなった家で、『枯木灘』を書き始めた。毎回、締め切り一週間前から家にこもり、一気に書き上げていった。寺田は、「この作品では、小川国夫氏との対談で語っていた、コロスがフォークロアの役割をするという持論が見事に実現されていた、その意味で最終回の主役は主人公というより“噂”だった。私は『枯木灘』は成功したと思った」と後に述べている。 この作品の終幕は、主人公秋幸はもはや登場せず、路地の者たちがそれぞれに語る弟殺しや浜村龍造をめぐる噂話によって構成されている。コロス(路地の住人たち)がフォークロア(語り)の役割を担い、その語り(噂)がポリフォニーを構成しているである。まさに“噂”が主役をつとめているといってよい。この終幕は見事というほかはない。 なお、この作品では秋幸が、弟を殺すわけであるが、それは、路地の皇子である自分こそがお前の嫡男であり、王を継ぐ者であるという、実父に対する宣言と解釈できる。秋幸は、弟殺しによって、父系家族の嫡男の座をしめることになり、それによって兄を自殺させた母系からの脱却をはかったのではないかと考えられる。『岬』が母系一族の物語であるのに対して、『枯木灘』はそこからの脱却の物語といわれるが、そのテーマは、次の『地の果て 至上の時』に引き継がれることになる。 なお、実際には実父鈴木留造の二人の息子とは、健次は幼い頃よく遊んだ仲であり、二人とも義兄の健次に懐いていて、健次の葬式では息子たちは「どうしてこんなに早く亡くなるのか、俺が代わりに死んであげたかった」と葬式で泣き崩れたという。しかし、健次の死の翌年に実父留造が亡くなり、息子二人も、それから五年もたたず相次いで事故死している。 なお、『枯木灘』という小説のタイトルについて、健次はあるエッセイで次のように述べている。 「小説の題を『枯木灘』としたのも、白浜から串本あたりまでの枯木灘海岸が、そこを通りかかる度に胸を打ったからだった。というのも、奇岩が続き、崖がつづくこの美しい風景の裏に、潮風にいたぶられて作物がよく出来ず、海がありながら船をつけるによい港がないので、大きく漁を出来ないという土地の者の苦闘を知っていた。」(1983年10月1日「もうひとつの国 光と翳」より)
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