作品について
『火宅』は、1975年「季刊藝術」32号(1月)に発表された。ちょうどその1月に、『鳩どもの家』(1974年9月「すばる」発表)が1974年度下半期の芥川賞候補となる。『十九歳の地図』(1973年度上半期)以来二度目であったが、この時も受賞は逃した。 この『火宅』が発表になる前の1974年には、中上健次は矢継ぎ早に作品を発表している。作品を挙げてみると、『蝸牛』(「文藝」3月号)、『補陀落』(「季刊藝術」29号・4月)、『黄金比の朝』(「文学界」8月号)『鳩どもの家』(「すばる」17号・9月)、『修験』(「文藝」9月号)、『羅漢』(「青春と読書」10月号)、である。このうち、『蝸牛』、『補陀洛』、『修験』という作品は、故郷紀州や中上の家族・親族に関わりのある作品である。『火宅』もその系列に入る。『一番はじめの出来事』以来、中上健次はいわゆる紀州・熊野サーガ(物語群)へと着実にその歩を進めつつあった。 『火宅』は、前年9月に「文藝」に発表された『修験』と同じように、東京で妻と二人の子どもと妻の両親と暮らす男が主人公で、酒に酔って妻に暴力を振ってしまうところも両作品に共通する。健次が、東京都小平市小川町の新築一戸建て二階家に妻子と妻の両親との同居生活をはじめたのは1973年6月からであるから、ちょうどこの作品の執筆時期に重なり合う。また、健次は作品にあるように、酔って妻かすみに暴力を振るうこともあったようだ。 高山文彦氏は、『エレクトラ−中上健次の生涯』の中で次のように書いている。「こうしたことは、現実の家庭のなかでも実際に起きていた。健次は妻のかすみに、『おれの家は。おまえの家とは全然ちがうんだ。同じようには、けっして考えてくれるな』と言い、三月三日の兄の命日を妻のかすみが忘れていようものなら、小説に書かれているような途方もない暴れかたをした」 東京での新築一戸建てのマイホーム生活という一見平和な家庭に突如嵐が吹き荒れる。それは、主人公の男の心の奥にしまい込まれた家族への愛憎のマグマがなにかのきっかけで溢れ出した時である。 『火宅』では、健次の実父鈴木捨造がはじめて作品にとり上げられた。作品では、故郷に住む母親から実父がオートバイ事故で死にかかってると電話があり、死に目に会いにくるのか、と聞かれ、主人公の男は、会いになどいかん、と答えるが、それがきっかけで彼の心の中で何かが狂いはじめる。 翌日、仕事に出て、仕事が引けてから同僚たちと飲みに出かけた。三次会でキャバレーに行き、そこで金を使い果たしてタクシーで家に帰ったが、妻の顔見たとたんに、むらむらと腹が立って、突然妻に暴力を振るい、暴れだすと止まらなくなり、部屋のソファの肘掛けを蹴り、冷蔵庫を横倒しにし、シャンデリアを叩き割った。まさに修羅場である。 きっかけは、実父が死ぬかもしれない、と知らされたことであるが、主人公の男は実父とは暮らしていない。彼が生まれた時実父は博打で捕まり刑務所に入っていた。刑期を終えて母のところに来たが、「やしのうてもくれんくせに、お父ちゃんとちがう」と母から教え吹き込まれたように彼は言ったという。実父はそれですごすごと引き上げた。 作品の冒頭で描かれるのは、義兄がその実父に手下のようにつき従う様子である。「大きな体の男だった。いったいその男がどこからやってきたのか、誰も知らなかった」そんなどこの馬の骨かもわからない男を家に招き入れたのは義兄であった。それはまだ主人公が生まれる前のことだ。 母は実父と出会う前に、結婚して息子一人、娘三人もうけていた。しかし、その夫は戦争で亡くなり、未亡人となった母は女手一つで行商して子どもを育てていたが、そんな若後家の家にやがて男は上がり込んだ。 一人息子の義兄は、その男の後をついて回った。博打もするし、つけ火もした。地元の遊郭のある一帯に火をつけたのもその男だった。義兄は、それを近くで見ていた。それから鶏頭博打で負けて牛を買うための金を失いすってんてんになるとその鶏頭場に男は火をつけたのだ。しかし、男は女、子どもにはやさしかった。やがて母はその男の子どもを身籠り、生まれたのが主人公の彼である。だが、男は母の他に二人の女もほぼ同じ頃に孕ませていた。 主人公の彼は、その男と暮らしたこともなければ、父としての思い出もない。しかし、その男はまぎれもなく血の繋がった実父であった。その男が今死のうとしている。
虫の息草の息の男に、「お父さん」と呼びかける。涙があふれる。胸がつまる。会いたい、会って、一緒に、暮らしたいと、どんなに思っていたことか、父よ、子よ、となんのてらいもなく呼びあって暮らしたい、そうなればどんなによいだろうかと、子供の時から、毎日毎日考えた。怨みは、もちろん数かずある。もしたとえ、ぼくが、あの時、親でもない子でもないと言ったところで、たった三歳ではないですか。三歳の子に、自分の言葉の責任をとれと、あれからずっと言いつづけてきたようなものです。ああ、この世に、ぼくをあらしめた男が、いま死ぬ。父よ。おれの父、ほんとうの父よ。涙がでる。あふれる。もう死ぬのですか?もうあなたは、あの世へいくのですか?兄はぼくが十二歳の時、二十四歳で首をつって果ててしまいました。祖母も死にました。伯母も死にました。親しくしていた人も、次々死にました。それなのに、もう行くのですか?
その男と結びあわせたのは義兄だった。母の腹のなかには今あの男の子供がいる。義兄は、ふと思う。「あの男が火つけなら、母の腹の中にいる子供は、火つけの子供になるのか、あの男が人殺しなら、腹の中の子供は人殺しの子供か、と思った。後悔した。いまさら手遅れだが、母が子供を妊むなら、もっとまともな、気のやさしい人に危害を加えない善人をえらんでいっしょに仕事をやるべきだった。あいつは悪人だ、鬼だ、平気で人の家に火をつける、平気で人を殴る、あいつは人の十人や二十人殺ったって痛くもかゆくもない顔をしている、あいつは悪い、あいつは、不幸をつくる、地獄をつくる」
母と実父を引き合わせた義兄の後悔は、彼にとって救いになるのだろうか。いや、それは作者健次にとって救いになっているのだろうか。いずれにしても、健次は1972年に『灰色のコカコーラ』を書いた頃とはだいぶ遠いところまで来ていた。自分の内部にばかり眼をむけ、故郷や親しい者たちに呪詛を吐きつけていた頃の健次とは明らかに違う。親しい者たちの心の内部に入り、そこから自分を見ることさえできるようになっているのだ。 健次のこうした複眼的思考は、この作品の文体にも表れている。この作品では、主客がいたるところで入れ替わり、時間軸もバラバラで、確かに読みにくいところもあるが、主人公から見た単眼的な視点ではなく視点がそれぞれの登場人物に移動していって、また突然主人公に戻って来る。これは、実はフォークナーがもちいた方法で、この作品ではまだ荒削りではあるが、この方法は、やがて『枯木灘』や『地の果て・至上の時』で大きく開花することになる。 この作品に続いて、中上健次は『岬』を「文學界」に書き、ついに戦後生まれの初めての芥川賞受賞作家となり、時代の寵児へと昇りつめていくのである。
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