あらすじ
兄はかつてその大きな体の男の手下となって悪事の手助けをしていたことがある。その男が火付けをやったあの大火事の時も、兄は男に従っていた。遊郭から出た火は常磐町、中地頭、新道にかけて佐倉家が所有するその一帯を焼き尽くした。 仁王立ちになって腕を組み、燃え上がる炎にみとれているその男を兄は怖いと思った。男はこの土地の者ではない。いわゆる流れ者であった。どこの馬の骨か、なにもかも謎だった。 男と兄は大火事のあと上田の秀の家に行った。家にはかつて遊郭にいた女郎のキノエがいて、男を見るなり、きのうはおもしろかった、うちら、胸すうっとした、と言った。キノエは上田の秀にその昔遊郭に売り飛ばされ、景気が良くなってまた身受けされたらしい。 それから男たちは酒を飲んだ。兄は、くたびれて、その家で眠ってしまった。兄の家には母と三人の妹がいた。父は亡くなっていた。母は行商をして子供たちを育てた。兄は大きかったので、母は兄がどこで何をしようと気にもかけなかった。 目覚めたら雨が降っていた。雨を見ると兄は息苦しくなった。行商の母や妹たちのことが気になってしまうのだ。真ん中の妹は肋膜を病んで、かろうじて生き延びた。人見知りの病弱な子だった。 亡父はこの娘の病気をなおすために山を売り払った。大手術のおかげで、妹は生き残った。 男は博打もやり、博打がもとで傷害沙汰も起こした。男はいつの間にか、兄の家に出入りするようになり、母は身ごもった。 妊娠六か月の時、男は博打で捕まった。男は母の他に二人女をつくり、同時に妊ませていた。母は大きなお腹をかかえ、拘置所に行きその男をなじった。 男が刑務所を出た時、彼は満三歳だった。男は真っ直ぐ母のところに来たが、彼は、やしのてもくれもせんのに、お父ちゃんと違うわい、と言ったという。彼は覚えていない。しかしその一言で母は男を拒み、顔もみせるなと追放した。 その男が死ぬ。一昨日の夜母から電話で知らせがあった。オーバイで木の切り株に激突しあばら骨を折り、危篤だという。母が、男の死に目に会いに来るか、と訊いたが、会いになどいかん、と彼は答えた。 男の視線をいつも感じていた。兄は彼が十二の時に二十四で自殺した。その死者の視線をずっと感じてきた。しかしその男の視線は生きているものの視線だった。 その電話で、彼の女房も、それから一緒に住んでいる女房の母親も、帰ったほうがいいんじゃない、と言った。彼は、死に目に会えないくらい、どうだというのか、と言った。 彼は、女房と四歳と一歳九か月の二人の娘と女房の両親の六人で一つ屋根の下で暮らしている。家は一年前に女房の両親とローンを折半して買った二階建ての建て売りだ。 ピアノ調律師をしている父が、ここにピアノを置こうと思っている、と話題を変えた。彼は積み木で遊んでいる娘たちを見ていた。眼に涙のようなものがにじんだ。 翌日は夜勤だった。仕事の間もその男のことやその男を母に引き合わせた兄のことをぼんやりと考えていた。 仕事の帰り同僚と飲みに行った。三次会のあとキャバレーに寄り、タクシーで家に帰った。車から降りて、眠たそうな、迷惑そうな妻の顔も見て怒りがこみ上げた。どこの馬の骨だと、と言って彼は家に入るなり、髪をわしづかみにして女をなぐった。壁にもたれ、うな垂れる女に足蹴りを喰らわせた。 言ってみろ、馬の骨がどうしたというんだ、と言うと女は、あなたが言ったのよぉ、私たちはうなずいただけよ、と言い泣き崩れた。彼はさらに蹴りつけた。 お父さんのこと、あなたがそう言ったのよ、と女が言う。おれは馬の骨さ、あいつも馬の骨さ、これからあいつのことお父さんと言ったら、その首の骨へし折るからな、あいつはお父さんなんかじゃない、馬の骨や、馬の骨で上等や。ふと悲しくなった。みんな死ぬ、誰もいなくなってしまう。 ソファの肘かけを足で思い切り蹴ると肘かけは壊れて飛んでいった。それから冷蔵庫を倒し、食堂の椅子を振り上げて、居間のシャンデリアをこなごなに叩き割った。 朝、目覚めると、女は娘たちの部屋で下の娘を抱いてうずくまっていた。家全体が妙に静かだった。上の娘と女の両親はいなかった。階下の居間はきれいに片づけられていた。 彼はソファにもたれ外を見ていた。死ぬも生きるも皮一重のところにいると思った。サルビアの花が揺れていた。死んでしまいたい、と思った。お前など生きている価値などない死んでしまえ、みんな大人しく生きているのに、我慢して耐えていきているのに。 彼は兄の顔をおもい浮かべた。この頃よく兄の夢を見る。ずっとどこに行っとったかとさがしてたんや、と兄に言った。 兄と男のことを思った。その男が来て暮らしぶりは急速に良くなった。男は女、子供には優しかった。一番上の妹と三番目の妹はすぐ男になつきお父ちゃんと呼んだが、二番目の妹はそう呼べなかった。男を母に引き合わせた兄も、おいさんと呼んでいた。 二番目の妹はよく熱を出した。兄は妹を背負って母と駅前の病院へ出かけた。金がないときは母に言われて博打場まで男を探しに行った。 男に、兄やんよぉと彼が声を掛けられのは確かに小学校三、四年の頃だった。その頃は母は今の父と暮らしていた。男は川遊びしている彼を川端の木陰から見ていたのだ。 男は母方の伯父と組んで馬喰をやっていたが、それもうまくいかず博打にのめり込んだ。闘鶏の博打をやっていたある日、兄が見ている前で、男は負けてすってんてんになった。兄が、牛を買いにいけんなぁ、と言うと男は、牛を買う金ぐらい、どうにでもなる。どうにでもならんだら、どうにでもしたったらええんやろ、と言った。 その夜、男は家にいなかった。そして闘鶏場から火の手が上がった。母に止められたが、兄は火事場に走った。男が火事を見ていた。闘鶏場と牛馬小屋も火につつまれた。その火事もあの男が火をつけたのだ。あの時の遊郭の火事と同じように。男は兄に家に帰って寝て待ってろ、明日朝になったら、牛を連れて来たる、と言った。 サルビアの花が風に揺れていた。昨夜酒を飲んでいる時は男のことを忘れていた。それが家に帰るなり、思い出した。男を父と思ったことは一度もないが、その男が、母が体を許し俺を産むために必要な一滴の精液の提供者であることは確かにだった。しかし、それがなんなのだ、と彼は思う。木の切り株に激突して死ぬ死に方はその男にふさわしい。 そう思うそばから、ふいにその男に会いたいと思いが胸をつく。会って、一緒に暮らしたいとどんなに思っていたことか、もうあなたは死ぬのですか、あの世にいくのですか。 彼は起ち上がってトイレに立った。それから下の娘をあやし絵本を読んであげた。昨夜のことが嘘のように思えた。救けてほしいと思った。俺は素直で、従順な男でありたい。優しい人間、善人でありたい。 女が降りてきた。トイレに入った。長い時間だった。トイレから出てきて女は、別れようよ、と言った。 自分の娘が半殺しにあってるのを見るのは両親にとっても地獄よ、あなたは酔うと鬼になるんだから。あんたは昨夜のこと何も覚えてない。お父さんとお母さんが朝全部片づけたんだから、あの人たちの気持ちも考えてみてよ、地獄よ、地獄、おまえが地獄をつくるんじゃないか。 そうか、別れてやるよ、ただしおまえも、あまえの親たちも、二人のこどももぶち殺しといてな、と彼は言った。 殺すなら、殺したらいい、それであんたは本望でしょう。 彼は娘を抱き上げ頭をなぜた。もう、いやなのよ、酔うたんびにおそろしい目をするの。昨日、あんたは帰ってくるなり、わたしをサンドバッグのように殴りつけたのよ、あなたのお父さんをわたしが馬の骨だと言って暴れ、そのうちあれは馬の骨だ、わたしがそれを認めないと言って暴れた。 あいつはお父さんじゃない、と彼は言う。 いってることも、やってることも、めちゃくちゃなんだから、世界はあんただけを中心に回ってるわけじゃない、みんなそれぞれ生きているんだ。あんたは自分だけがこの世の中心だと思っているんでしよ、だけどあんたとわたしはどこが違うのよ。 この家だって両親からすれば、あの歳でやっと落ち着いた家じゃないか、それをめちゃくちゃにした。あんたは、血も涙もない人間の皮をかむった鬼だよ、人間じゃない。 なんとでも言え。彼は痛かった。体のどこかがじんじんと痛み鳴っているようだった。その男はもう痛む体からとき放たれ自由になったのだろうか、壊れていても、痛んでも生きていてほしい。 彼は女になじられながら考えていた。その男は彼のなんにあたるのか。こどもを抱えながら目に涙がにじんた。 兄やんと言った男の声が聞こえる。あの日、男が火を放った。兄はそれをそばでみていた。それは男が博打で負けたあとだった。兄が、その火事を見に家から飛び出した。兄やんは、母さんとこへもう帰れ、と男が言った。 男はそのあと女郎のキノエのところへ寄った。上田の秀はとっくに別の女を作って家を出ていた。キノエのお腹は大きかった。 キノエが、いっぺんに三人の女のお腹大きいさせて、どうするつもりやら、面白い人やな、しかし、三人生まれてくる子供ら苦労するでえ、と男に言った。 兄は真っ直ぐ家に戻った。そこは母の家だった。母は子を妊み、ここで産もうとしている。ここは母の巣だ。 あの男が火をつけたなら、腹のなかの子供は火付けの子供か、あの男が人殺しなら腹のなかの子供は人殺しの子供か、と思った。兄は後悔した。母が子供を妊むなら、もっとまともな、気の優しい、人に危害を加えない善人を選んで仕事をやるべきだった、と思った。あいつは悪人だ、鬼だ、平気で、火を付け、人を殴る。あいつは不幸をつくる、地獄をつくる。 彼は思った。その男は、いま頭の骨をくだき、顔面をつぶし、あばら骨を折っている。
|