あらすじ U
健彦君から電話を貰った数日後、雪ノ下さんが野々村の夢に出てきた。 どういうわけか彼と野々村は二人して山を登っていて、日も暮れたというので山の中腹でテントを張って朝を待つことにする。明け方、狭いテントの隣で眠っていた雪ノ下さんの呼ぶ声で目を覚ます。身体を起こし、手元のランプを灯して寝ている彼の顔を見ると、暑くもないのにひどい汗をかいている。顔色も真っ青だ。 覗き込んでいる野々村に薄目を開けた雪ノ下さんが喘鳴を伴った声で言う。 何千羽の鳥に襲われる夢を見たんだ。真っ黒な鳥だった。 そこで本当に目が覚めたのだった。 別段、不吉な夢という印象はなかったが、健彦君と話したあと一度も雪ノ下さんの夢など見ていなかった点と「真っ黒な鳥」という彼の夢の中での言葉が野々村は少し気になった。 明日にでも見舞いに行ってみるか‥…。 入院を知らされた日からずっと迷っていた。何しろこちらは東京から新幹線で三時間近くもかかるような遠い町に移り住んでしまっているのだ。だが、こんな夢を見たとなればやはり様子伺いに出向くのが順当に違いない。 日曜日だったので、九時を回るのを待ってから健彦君の携帯にかけるとすぐに繋がった。健彦君は静岡に戻っていた。聞けば、退院は明後日の火曜日に決まったという。肝臓の数値はもうすっかり正常値の範囲内だそうだ。 雪ノ下さんは相変わらず北新宿で独り暮らし、だと言う。二、三カ月でいいから静岡に来て養生しないかって強く言ったのですが、どうしても首を縦に振ってくれなくて、と健彦君は言っていた。 明日、午後にでも病院に顔を出してみるつもりだと野々村が言うと、父もきっと喜ぶと思います。わざわざありがとうございます、と健彦君は何度も礼を口にした。 そんなやりとりをしばらくして、野々村は電話を切ったのである。 翌日の体育の日、九時台の新幹線に乗って野々村は東京に向かった。 東京着は十二時二十分。西新宿のT医大病院には午後一時前には着けそうだ。なるべく日帰りで済ませるつもりだが、雪ノ下さんと別れた後、ことりにも連絡してみるつもりでいたので、場合によっては一泊しなくてはならなくなるだろう。それでも猫たちのことを考えると遅くとも明日の午前中までには家に戻らないといけない。 あらかじめことりに上京を知らせなかったことに他意はなかった。突然、都内から電話してびっくりさせてやろうと思ったくらいのものだった。 T医大病院は「西新宿」駅で降りればもう目の前だ。 東京は真夏のような暑さだった。 病院の正面玄関は開いていたが、今日は外来診療が休みとあって一階のフロアはがらんとしていた。時刻は二時を少し過ぎたところだ。もう昼食も済んでいるに違いない。 雪ノ下さんの病室は西病棟の1105号室。六人部屋で、左の窓際のベッドだったが、一番手前のベッドに五十がらみの小太りの患者が寝転がって雑誌を読んでいるきりで、あとは出払っているようだった。 野々村が、お久しぶり、と軽く手を挙げて雪ノ下さんの方へと近づいて行った。彼はベッドの上で胡坐を組んで読書しているところだった。 老眼鏡越しの目に不思議そうな色合いを浮かべ、あれ、どうしたの、もう東京にはいないんじゃなかったの、と持ち前の柔らかな笑みを作り、急いで文庫本を閉じ、眼鏡を外した。 昨日、雪ノ下さんの夢を見てね。これは呼ばれてるのかなと思って来てみたんだよ。 そうなんだ。遠いところを悪かったね。 こっちこそ黙って東京を離れてしまって申し訳なかったと思ってるよ。作品も売れないし、ちょっと自棄になってしまってね。誰にも言わずに出ちゃったんだ。 まあ、そのうちまた戻ってくるんでしょ。 野々村が引越しマニアであることも彼はよく知っていた。 雪ノ下さんは、ずいぶん元気そうだった。実際、顔色も常人と変わらない。野々村は持ってきたマドレーヌの紙袋とお見舞い金五万円の入った封筒を渡す。雪ノ下さんは、申し訳ないね、いつも心配ばかりかけちゃって、と言って紙袋と封筒を受け取り、上下おそろいの紺色のジャージのポケットに封筒をしまうと、ベッドから降りて床に置かれていたサンダルをつっかけ、ここじゃなんだしティールームでも行こうかと言った。 結局、ティールルームはこの時間は混んでいるから十七階のレストランの方がいいかな、と雪ノ下さんは言い、二人は最上階のレストランへ行った。 最上階のレストランもかなり混み合っていたが、とにかく広いので窓側の席に座ることができた。野々村はホットコーヒー、雪ノ下さんはバナナジュースをオーダーした。こうして鼻突き合わせてみれば、幾らか痩せたような印象もある。それより何より、髪に白いものがずいぶんと増えているのが目に留まった。雪ノ下さんも今年で六十五歳。早や「前期高齢者」と呼ばれる年齢なのだった。 その日、そこで、雪ノ下さんからひとしきり今回の入院に至る経緯を聞いた。 柄にもなく池袋から新宿まで歩いたのが大失敗だった、と雪ノ下さんは言い、夕方目が覚めて上半身が動かなくなっていると気づいたときはぶったまげたよ。しかも、じっとしてたら硬直が下半身の方までじわじわ広がっていくんだもん。血の気が引くとはあのことだった。 雪ノ下さんは必死の思いで動かない身体を少しずつ動かし、ちゃぶ台の上に置かれた携帯を取って、健彦君に電話をし、救急車を呼んでもらったのだ。あのままどこにも連絡ができなかったら全身が硬直して心臓も止まってたんだと思うよ、と雪ノ下さんは淡々とした口調で話す。 これは死ぬな、って思った経験は二度目だけど、正直な話、今回の方がリアルでヤバかった気がするよ。昔、クスリを飲んだときは直後に意識を失くして、目が覚めたら病院だったからね。 そんな会話を交わしながら、野々村は一昨日に見た夢を思い出していた。 夢の中では雪ノ下さんは青ざめた顔で何千羽の「真っ黒な鳥」に襲われたと言っていたが、どうやら不吉な報せというわけではなかったようだ。 雪ノ下さんが「クスリを飲んだ」というのは会社が倒産した直後のことだった。 最後の残り金を、生まれてはじめて行った浜名湖の競艇場につぎ込み、またたく間に丸裸となったのだ。その時彼は、神と仏もないと心底思ったそうだ。会社は倒産。 雪ノ下さんは自宅近くの公園に深夜出向き、ドーム型の滑り台の下に座り込んでビールと一緒に大量の睡眠薬を飲んだのだ。夜が更けると人っ子一人通りかかることのない住宅地の外れにある公園で、そこならば間違いなく凍死すると踏んでの決行だったという。 しかし自殺は未遂に終わってしまう。 たまたま近くを自転車で通り過ぎようとした青年が余りの寒さに尿意を我慢ができずに自転車を止めて雑木林の奥にある公園のトイレへと駆け込んだのだった。トイレから出てきた青年がふと目をやった遠くの滑り台の足元に、黒い塊のようなものを見つけ、目を凝らしてみればそれはなんと人間ではないか……。 その彼が強豪校として有名な地元高校の柔道部のコーチだったから、すっかり寝込んでいる僕の身体を抱えて大通りまで出て、タクシーを拾って救急病院に直接担ぎ込んでくれたんだよ。その迅速な対応のおかげで奇跡的に一命をとりとめることができたってわけ。 数年ぶりで再会した折に雪ノ下さんはそんなふうに話していた。 凍死寸前で病院に運ばれた雪ノ下さんはそのまま二週間ほど入院。退院後は同じ静岡市内にある大学病院を紹介されて、そこの心療内科に通うようになる。 重い鬱病と診断されたためだ。 それからはデビュー作の『ぼくらの旅行』にあるように鬱病で入退院を繰り返す時期がしばらく続いたのである。 一度は神も仏もないと確信した雪ノ下さんが、あれっと思う出来事を経験したのは、それから三年ほど経ってのことだった。 当時も二週間に一度くらいのペースで彼は大学病院の主治医のところに通っていたのだが、ある日、新しく飲み始めた抗不安薬の副作用なのか、この一カ月くらい下痢が続いている、と訴えたところ、そんな副作用があるとは聞いたこともないし、じゃあ、念のために腸の検査をしておきましょうか、と頼んでもいないのに大腸内視鏡の検査に回されてしまったのだった。 そして、翌週に検査を受けてみるとごくごく初期の大腸がんが発見されたのだ。 もし会社が潰れなくて鬱病にもなってなかったら、おそらく下痢が続いていたからって絶対病院に行ってなかったはずだから、そう考えると、浜名湖のボートレース場ですっからかんになったのもあながち悪いことじゃなかったのかもしれないって気がしてきて、あのときほど人生っていうのはつくづく不思議にできていると痛感したことはない、と雪ノ下さんは言っていた。 確かに、と当時その話を聞きながら野々村は首肯したものだ。 私たちの人生は、「神も仏もない」と断言できるようには決してできていない。 そこがまた非常に厄介なのだと常々野々村は思っているのである。 結局三時間以上も話し込んで、T医大病院を出たのは午後四時過ぎだった。外に出てみるとさすがに日は傾き、暑熱も一段落という趣きになっていた。ただ、祝日とあって新宿の街はまずまずの人出で賑わっている。 長時間、病院のレストランのソファに座りっぱなしだったこともあって少し歩きたい気分だった。野々村は地下鉄は使わず新宿駅まで行ってみることにした。 歩いているうちに、いっそこのままことりには何も知らせずに帰ってしまおうか……。 一泊するのも想定してフードも水も多めに出してはきたものの猫たちのことも気がかりだった。それもあって泊りがけの旅行を手控えざるを得なくなっているのだった。 新宿駅からJRを使うと東京駅までは中央線一本だ。そのまま新幹線に飛び乗れば午後九時前には自宅に辿り着けるだろう。 目の前の新宿西口界隈には馴染みがあった。 神戸に移り住む前の一年足らずだったが、新宿中央公園そばのマンションで暮らした経験があるのだ。この周辺はことりと二人でしょっちゅう散歩していたエリアだった。 都庁北の交差点からハイアットリージェンシーと住友三角ビルのあいだの道を進む。真っ直ぐ行けば都庁舎、右が中央公園で左が新宿駅だ。かつて住んだマンションは北交差点から右に熊野神社方向へ五分ほど歩いた場所にあった。 その二人を見かけたのは、巨大な都庁舎を見上げながら住友ビル側の舗道を歩いているときだった。ふと視線を右に振ってハイアットリージェンシーホテルの出入口へと注ぐと、背の高い男女がホテル玄関に繋がる緩やかなスロープを上がって行くのが見えた。 女性の後ろ姿に見覚えがあった。 しかし、まさかとは思う。 他人の空似に違いなかった。 野々村は立ち止まってしばし、そのカップル(そういう風に見えた)を眺めた。男の方はずいぶんなのっぽだ。キュッとしまった腰に細長い両脚。白いシャツにジーンズという砕けた恰好だが背の高さゆえか見栄えがする。ちらっと見えた横顔は端正で、長めの髪が日差しに光っている。いま人気の若手俳優を連想させる容姿だった。年齢は二十代前半くらいか。 一方、隣の女もスタイルはいい。やはり上背があり長い髪をうなじの上あたりでポニーテールにしていて、首筋から肩先にかけてのラインが美しかった。顔は判然としなかったが隣の男とはいかにもお似合いの雰囲気を醸し出している。 気がついたら信号もない通りを急いで横断し、吸い寄せられるように二人の背中を追いかけていた。 ビジネス街のこの周辺は休日は人気が絶える。歩行者もほとんどいないし、車の数も極端に少なかった。それもあって人混みの苦手な野々村にとって土日の格好の散歩コースでもあった。 ホテル正面玄関の奥に二人の姿が消えるのを確かめてから、野々村もエントランスの方へと近づいていく。一体何をやっているんだ、と少々馬鹿馬鹿しい気分もあった。三十秒ほど間を置いてからホテル内に足を踏み入れる。 広いロビーは大勢の人たちでごった返している。野々村はそうした人混みに身を隠すようにしながらさきほどのカップルを探した。白シャツの青年の姿は案外すぐに見つかった。巨大なシャンデリアの直下、幾つもソファの並んだ一角に腰を下ろしている。斜めから顔を盗み見ると、なかなかの二枚目だ。一緒だった女性の姿は見当たらない。 二十メートルほど離れた柱の陰から、野々村は青年を注視していた。一分ほど経ったところでその青年のところに、例の女性がトイレの方角から近づいてくるのが見えた。 今度は彼女の顔を凝視した。凝視しながらズボンのポケットのアイフォーンを取り出す。カメラを起動させ、音の小さなLIVEモードに設定した。 男のそばに戻った女はにこやかな笑みを浮かべている。いかにも楽しげだ。男の方も満面の笑顔になっている。 野々村は周囲に一度目を配ってからアイフォーンを二人に向けてシャッターを切った。連写したかったが高い音が出るので、三枚ほど撮影する。 女性はソファには座らず、男の方が立ち上がった。 二人はまた並んでエレベーターホールの方へ歩き始めた。野々村は別の角度からエレベーターホールへと小走りで近づき、ホールの見える裏側の位置から彼らがやって来るのを待ち構えた。ホールでは十人以上の客がすでにエレベーター待ちしていた。 すぐに昇降籠が降りて来て、客たちがぞろぞろと籠の中に乗り込んでいく。二人も肩を寄せ合うようにしてエレベーターに乗った。 そのとき野々村ははっきりと彼女の顔を確認した。写真も撮りたかったがさすがにそれはできなかった。エレベーターの扉が閉まり、ホールから人の気配が消える。 それから野々村は、ホテルの出入口へと向かった。 目の裏に焼き付けた女の横顔を意識のスクリーンに呼び出して吟味する。にわかにその現実が受け入れられなかった。こんなことがあり得るはずがない、と頭の中で繰り返し呟いていた。しかし、ついいましがた若い男と共にエレベーターに消えた女性が誰であるかを野々村が誤認するはずもなかった。彼女は、間違いなく、ことりだった。 新幹線のグリーン車の中で野々村はアイフォーンを手にして、ホテルで撮った三枚の写真を繰り返し見直した。遠くからの隠し撮りだったので、相手の顔ははっきりとはしていないが、それでもズーム機能を使って最大限に拡大すれば、顔の輪郭や目鼻立ちはなんとなく分かる。 青年の方はまったく知らない人物だった。だが、女性の方は確かにことりである。 服装や持っているバッグも明らかに見覚えがあった。バッグは転居後に買って、ことりが気に入って普段使いしているものだし、東京に行くときにも提げていった。 二人は休日のあの時間帯に一体何のためにホテルに出かけたのか。ことりと親密そうにしていた連れの青年は一体誰なのか。 ことりが、別居をいいことに他の男と寝ているなんて、そんなことがあるわけがない。ことりに限って、そうやって自分を裏切るとはおよそ野々村には考えられなかった。 だとすれば、あの青年は一体誰なのか。ことりの友人知人にあんな若い青年はいない。この二十年近く一緒に暮らしてきて、そもそも彼女の「友人」や「知人」は全員が、野々村の「友人」であり「知人」でもあった。つまり、野々村との関わりのある人たちとの付き合いが、ことりの人間関係のすべてなのだ。 だから、野々村の知らない人間(男女を問わず)に対して親し気に振る舞っていることりの姿を見たのは、さきほどのハイアットリージェンシーでの一場が、初めてのことであった。 もうそれだけで、野々村には相当な驚きだったのだ。 若い男は、もしかしたらことりの親戚筋の人物だろうか。彼女には母方の従兄弟が一人いるきりで、彼は警察官をやっていると聞いたことがあるが、その従兄弟とも長じてからは完全な没交渉のようだった。野々村は、この二十年、ことりの親戚には誰一人会ったことがない。 だいいちあの青年とことりとの年齢差は親子ほどにもなろう。ことりも実年齢より十歳くらい若く見られるが、すでに四十四歳。親戚というよりは隠し子とでも考えた方がまだ合点がいくような相手なのである。 それにしてはお似合いに見えたな……。 手元のアイフォーンから顔を上げ、野々村は目をつぶって二人の連れ立った様子を思い出してみる。車両に人はまばらだから、列車がレールを滑る規則的な走行音だけが空間に満ちていた。一人で乗る新幹線は相変わらず味気ないが、今夜はまるで暗いトンネルに置き去りにされてしまったかのような心細さが一段と身に迫ってくる。 野々村は脳裡から二人の姿を消して目を開けた。同時に太いため息が洩れる。 「真っ黒な鳥」とはこのことだったのだろうか。ふとそんな気がした。 雪ノ下さんは巡礼の途上で「白い鳥」に誘われ、末期がんからの奇跡的生還を果たした。 一方、野々村は、夢の中で彼から「真っ黒な鳥」の話を聞かされ、こうしてこれから奈落の底へと突き落とされていく‥…。 我ながら考え過ぎだ。あの夢になにか特別な意味があると思えない。それはつい数時間前、当の雪ノ下さんの元気な姿を見てすぐに直感したことではなかったか。 野々村保古さま 久保山さんから、新刊の献本を預かりましたので送付させていただきます。 すっかりご無沙汰しておりますが、その後、お変わりはないでしょうか? 何より野々村さん、ことりさんがお元気でお過ごしになっていらっしゃるといいな、と心から祈っています。 うちは桃香がこの四月から小学校にあがり、私は小学生二人の母となりました。 九時スタートの保育園とちがって、二人とも八時過ぎに出て行くので、朝もぐんと早く出社できるように‥‥‥。 子供ってあれよあれよという間にどんどん大きくなるなあ、としみじみしています。 礼太郎は五年生になり、受験も少しずつ近づいてきて、毎朝五時半に起きてがんばっています(とはいえ、ダラダラして少ししか勉強していませんが)。 Kも出向先の仕事とこれまでの仕事の両輪で日々を過ごしており、なんだかとても忙しそうです。 私自身は、そうですねえ、あまり代わり映えのしない日々を送っていますが、このところ後輩たちの進歩がめざましく、すごく眩しく感じています。 こんなふうに若手の子たちのことを語れる日が来るなんて、ウルウルしちゃう感じです(笑)。 彼女たちの仕事ぶりを見ていると、自分も老け込まずにあとひと踏ん張りがんばらなくちゃと背筋がしゃんと伸びてくる気さえします。 MもGちゃんもうんとがんばっていますよー。 東京にいらっしゃる機会はありませんか? 最近は城石先生の治療は受けておられないのでしょうか? いらっしゃるときは是非連絡を下さい。またお二人にお目にかかれるのをたのしみにしております。 佐藤 裕子 C社の佐藤裕子さんからの手紙が届いたのは、自宅に戻って二日目の昼間だった。 親しい作家の一人でもある久保山聡美の新刊を送ってくれ、そこに佐藤さんの手紙が添えられていた。 野々村は現住所をほとんど誰にも知らせていない。というのも余りにも転居が頻繁なため下手に住所を伝えるとかえって先方が不便をしてしまうのだ。なので、郵便物などの送付先は、最も付き合いの深い版元であるC社の文芸編集部宛てにしていて、その他の連絡先もそこに一本化しているのだった。 関係の深いC社の中でも佐藤さんとの仲は特別で、彼女に転居すると毎回、真っ先に新住所を伝えるようにしていた。 そして、佐藤さんは野々村が最も信頼している鍼灸師の城石先生を紹介してくれたK社のKさん(雪ノ下さんの『ぼくらの旅行』の担当者でもある)の奥さんでもあった。 城石先生はKさんと佐藤さんの共通の知り合いだったのだ。 手紙の中に出てくる「Mさん」も「Gちゃん」も共に女性で、それぞれ野々村の以前と現在の雑誌の担当編集者だ。 佐藤さんもかつて野々村の書籍の担当者だったが、彼女はいま文芸部門を離れて企画部門の部長を務めている。そしてその下に前任のMさんが目下配属されているというわけなのだった。 この二日間、月並みな表現を使えば、ろくに眠ることもできず悶々としていたので、佐藤さんからの手紙は野々村にとって天佑神助の一報のように思えた。 やっぱり、肝腎なときは彼女に頼むしかないってことか……。 手紙を読み終えて、野々村はそう思う。 ここ一年ほどは無沙汰にしていた彼女が、まるで図ったようなタイミングで手書きの手紙を寄越したのがいかにもという感じがした。 佐藤さんと出会ったのは、野々村がデビューして三年目、四作目の書き下ろし長編小説を上梓してしばらく経った頃だった。当時はまだ野々村はA社の社員だったので、昔からA社とライバル関係にあるC社はさすがに注文してこないだろうと半ば諦めていた。C社は文芸出版社としては業界随一の会社だった。いずれ一緒に仕事がしたかったが、それが実現するのは自分がA社を辞めてからに違いないと思っていた。 佐藤さんは当時、そのC社の文芸部門の責任者の一人で、まだ三十手前の若さだった。ある日、会社宛てに電話があって、是非、お目にかかりたい、と言われ、野々村には願ってもない話でもあったので、C社を訪ねた。彼女の用件は意外なもので、四作目の作品をC社が主催する文学賞の一つY賞の候補作品にしたいのだが、受けてくれるだろうかというものだった。 いまにして思えば、あのときOKの返事をしていれば野々村の作家人生はまた少し異なったものになっていたような気がする。 だが、当時野々村はY賞の候補になるわけにはいかない事情があった。野々村が小説を書いていることはA社内で快く思われていなかった。おまけに、野々村は病気療養を理由に閑職に回されているにもかかわらず新作を矢継ぎ早に発表していたのだ。そのうえ、ここでライバル会社であるC社の文学賞の候補になり、万が一にも受賞してしまったらさすがに会社にいられなくなるに違いない。 野々村は、まだ三十半ばの頃、ある文芸誌の主催する新人賞の佳作を受賞したことがあった。文芸誌を刊行しているD社が設ける他の文学賞と併せた形の盛大な授賞式が都内のホテルで行われることになり、佳作の野々村も末席ながら招待を受けた。 しかし、当時在籍していた部署の上司から授賞式の直前に電話があり、今回の新人賞をいまからでもいいから辞退してはくれないだろうか、と言われたのだ。上司は、編集者は書き手になっちゃいけない。もし、きみが書き手になるんであれば僕はこれからきみをちゃんと処遇していくことができなくなる。それはきみにとっても、会社にとっても余りにも惜しい話だと思う。そう言ったのだった。(もちろん辞退はしなかったが) この上司と野々村とは“肝胆相照らす仲”で、彼は野々村に最も目をかけてくれている社内の人間の一人だった。 それから数年が経ち、野々村はパニック障害を発症して休職したのち会社に復帰した。体調もあって資料室に配属され、そこで念願の作家デビューを果たす。 デビュー作は幸運にも各メディアで取り上げられ、それなりの話題作となった。 そのあとのA社の人たちの態度も先の上司と同工異曲であった。 編集幹部の一人(この人も野々村を買ってくれていた)は、野々村を社内の小部屋に呼び出し、小説なんて書いて、きみはこれから一体全体この会社でどうやって生きていくつもりなんだ、と詰め寄ってきた。 いまはA社の経営トップとなっている仲の良かった先輩からは、野々村、とにかくペンネームに変えてくれ。そうしないとお前を編集部に戻すのが難しくなる、と説得を受けた。 ちなみにその後野々村がY賞の候補を辞退したことは、後日どこからかA社にも伝わったのだが、そのときも直属の上司に、聞いたよ。候補を辞退してくれたらしいね。本当にありがとう、と礼を言われたのだった。 A社は実は、小説家が創業した出版社だった。入社してすぐに新入社員と社長が会食した席で、社長も、我が社は作家が作った会社だから、社員全員が小説を深く愛しているということだ。そこが同業他社とは決定的に違うんだよ、と言っていた。 だが、実際は社員全員が「深く愛している」はずのその小説を、社員が書くことをA社は断じて許さない会社だった。 作家は創業者一人で充分というわけだったのだ。 一方、佐藤さんのいる文芸出版の老舗、C社の創業者は印刷会社の職工から身を起こし、やがて校正者となり、文学を愛する情熱に駆られて裸一貫で文芸出版社を起ち上げて現在に至る会社の礎を築いた立志伝中の人物だった。 野々村はS社から出したとある作品の文庫解説をC社の担当者だったMさん(佐藤さんの手紙の中に出てくるMさんだ)に書いて貰ったことがある。 S社の文庫担当の編集者から事前に送られてきたその解説を読んで一驚した。 出色の出来だったのである。 Mさんは、もとから才能を感じる担当者ではあったが(だから解説も依頼した)、ここまで書けるとは正直思っていなかった。 この人は編集者ではなくて物書きになった方がよい、と即断し、彼女に連絡して、いまからすぐに小説を書き始めて、一年以内に僕のところに作品を持って来るように、と注文した。 一方で、これだけの筆力を見せつけると社内の風当たりも相当なものになるだろうと、我が身の経験に照らして彼女の会社員としての身の上に一抹の危惧を感じた。 ヘンなことを半ば命令のように頼んでしまい申し訳ないことをしたな、といささか反省もしたのだ。ところが、C社の人たちの反応はA社のそれとは正反対であった。 文庫が発刊されるとMさんの解説を読んだ彼女の上司たちが次々に野々村に連絡を寄越し、Mさんの文章を絶賛したあげくに、いやあ、これほどの筆力を持った人を探すのはなかなか容易じゃないですよ。野々村さんには申し訳ないような話ですが、彼女にはぜひ小説を書かせたいと思ってるんです、と言うではないか。 しばらくして佐藤さんに会うと、彼女も、野々村さんのおかげで凄い才能を見つけることができちゃった、とホクホク顔なのだった。 野々村はそうしたC社の面々の様子をつぶさに眺め、“ネズミを捕る猫は白い猫でも黒い猫でも構わない”という文芸編集者としての徹底した気骨を感じた。(もっともMさんの原稿はまだ届かないのだが……)。 佐藤さんが凄かったのは、Y賞の候補を一度断ったにもかかわらず、次の年もまた連絡してきて、候補になりませんか、と言ってきたことだった。作品はもちろん別のものだった。 しかし、そのときも野々村はまだA社の社員だったから、あれこれ理由をつけて辞退した。それまでには他社からも別の文学賞の候補にならないかと持ち掛けられ断っていたから、もはやどんな候補も会社員でいる間は受けられないと腹を括っていた。 さらに驚いたのは、野々村が会社を辞めてしばらくするとまた佐藤さんが連絡してきて、Y賞の候補にならないかと誘ってきたことだった。この頃には彼女ともすりかり親しくなり、賞はともかくとして仕事も一緒にするようになっていた。 その彼女が三度目の候補を打診してきた折は、野々村にではなく先ずはことりに話を持ちかけたのだった。 ねえ、野々村さん、今度はY賞の候補を受けてくれるかなあ。ことりさん、それとなく探ってくれる、と彼女は言ったらしい。それをことりから聞いて、野々村はことり経由ですぐにOKの返事を出した。 野々村が受賞したのはその年のことで、初めて佐藤さんと出会ってからすでに七年の歳月が過ぎていたのである。 佐藤さんからの手紙を受け取って気持ちが切り替わった。 新宿での出来事はとりあえず胸におさめて追及しないことに決めたのだ。 いざとなれば、こちらには佐藤裕子さんという切り札がある。しばらく素知らぬ顔で模様眺めをして、さらに疑わしい気配を感じた時点で、彼女に頼んで真相を究明して貰えばいいだろう。佐藤さんだったらことりに直接確かめることも含めて、必ず事実を割り出してくれるはずだ。 ことりが自分以外の男と深い関係になるというのは、ここ二十年来の付き合いからして到底考えにくかった。ハイアットリージェンシーで見た彼女がことり本人であるのは疑いようもなかったが、男女の色恋沙汰とは別次元の何らかの理由で、あの青年とホテルに出向いたのではないか。万々が一、ことりと青年とのあいだに特別な関係が存在していたとしても、それを“可能性の領域”から“現実の領域”へと無理やり引きずり出すような真似は慎むべきとの判断もあった。 推測を現実だと思い込んで、そうだと決めてかかってしまうと、得てしてそちらの方向へと現実は推移していくものだ。今回の場合も、ことりの不実を疑って悶々としているうちに、たとえ彼女の裏切りが事実であったとしても、まずはその事実をしっかりと確認してのちに今後の対応を決めるしかない、それが最も合理的な対処法だ。 いかにもの俗論が頭の内を占めていたが、実際のところ事実を把握した時点で、野々村は恐らく非常なる驚きと困惑、そして失望と怒りに精神を激しくかき乱されて、今後の対応などおよそまともに考えられない状態に陥ってしまうに違いなかった。 父の宗一郎の代表作の一つに「等々力半睡事件帖」というシリーズ物があって、これは等々力半睡という福岡藩の元大目付の老人が藩内で起こる大小さまざまな事件を持ち前の機知と機転で解決していくという肩の凝らない連作なのだが、この作品の中での半睡翁(半分眠った人という酒落でそう名乗っている)の口癖というのが、ほっとけ、ほっとけ、というものだった。 半睡翁は、どんな難題が身に降りかかってきたとしても、それがいのちに関わるものでない限りは、とりあえずは、知らん顔をして、相手の出方を見ろ、とアドバイスするのだ。 この半睡翁の人物像はある面で父と重なるところがあった。 各所で色紙を差し出された折に父がしばしば書きつけていたのは次のような文句だ。 さして急ぐ旅でもなし。まずは峠の茶屋でゆるりと一服 野々村宗一郎 しかし、人間というのは自らが窮地に陥ったり、困った立場に立たされたり、はたまた誰かへの疑念を募らせたりすると、とかく旅の歩速を猛スピードに切り替え、峠の茶屋の存在など目の端にも留めずに千仞の谷へと真っ逆さまに転がり落ちていく。 分かっちゃいるけど止められない、とばかりに大方は悪い方へ悪い方へと可能性の現実化を推し進めていってしまうのだ。 かくいう自分も、他人からの相談事には半睡翁よろしく「ほっとけ、ほっとけ」と勧めるのを常としてきたくせに、今回のように自らの身に問題が出来すると、胸中に湧き起こってくるのはただ焦りばかりだった。 佐藤さんからの久方ぶりの手紙を受け取らなければ、数日中には伝手を手繰って東京の探偵事務所に相談を持ち掛け、さっそくことりの身辺調査に入って貰うといった殺伐とした段取りに及んでいたに違いない。 他人様には軽挙妄動を慎めとアドバイスしておきながら、その肝腎の忠言が自分の耳にだけは届かない。 人間というのはつくづくダブル・スタンダードな生き物だと思う。
そうやってじっくり腰を据えて問題に対処する道を選んでみれば、心境の変化は著しく、野々村はあの中野の賃貸マンションで出会った二十年ほど前から現在に至るまでのことりとの長い付き合いについて、あれこれと思いを巡らせるようになった。 新平という一児をなしたりくとの結婚生活は十数年間だったので、数えてみればことりとの暮らしはそのりくとの年数をもうずいぶんと上回っているのである。そういう単純な事実にもあらためて蒙を啓かれるような気分になる。 それにしても、野々村はどうして二十年もの間、ことりと生活を共にしているのだろうか。 一緒に暮らし始めたときはまだA社に勤務していたし、彼女も保育園で働いていた。だが、ことりが最初の読者となった長編小説で作家デビューを果たし、その作品がどういうわけか話題作に化け、野々村はその後三年足らずで会社を辞めたのだが、野々村が会社を退職した翌日にことりも保育士の仕事を辞めてしまったのだった。 退職当日に彼女が、保古ちゃんだけ辞めるなんてずるいよ、と言い出し、そんなことを言うなら、きみも辞めてしまえばいいだろ、と半ば売り言葉に買い言葉で返したところ、何とことりは本当に翌日、勤務先の保育園に辞表を出してしまったのだ。野々村はこれにはさすがにびっくりした。まさか本当に辞めるとは思ってもみなかった。 順調に作品を発表していたとはいえ、正直なところ、もう少しことりには働いていて欲しかった。A社を辞めたといっても、もとから給与のほとんどがりくの銀行口座に振り込まれていたので野々村たちの生活に及ぶ経済的な影響は皆無に等しかったが、当然りくたちにはA社で貰っていた給与に見合うだけの金額を今後も送金せざるを得ず、野々村にすれば、それだけの額の仕送りを毎月行っていく“体力”が自分にあるのかどうかはなはだ心もとなかった。 できればことりにはいましばらく保育士を続けて貰い、野々村たちの最低限の暮らし向きを支えて欲しいというのが切なる願いだったのだ。 後の祭りと知りつつも、そういった気持ちを辞表を出して意気揚々と引き揚げてきたことりに告げると、へぇー、そうだったんだ、と彼女はこちらの真意など眼中になかった様子で呟き、例によって、でも、大丈夫、保古ちゃんは天才なんだから、絶対うまくいくよ、と景気よく野々村の肩を叩いてみせたのである。 男女関係において決定的な殺し文句が男女それぞれに一つずつある。 男のそれは当然ながら、“俺の女房になってくれ”で、この一句に気持ちを揺らさない女性は一人もいないだろう。 だが、女性の側からの殺し文句は意外に知られていない。それは、“あなたが駄目になったら、そのときは一生私が食べさせてあげるから”だ。この言葉を説得力を持って口にできる女性は必ず結婚できると断言してもいい。 ひるがえってことりはと言えば、口が裂けてもそんな一句は吐き出せないタイプの女性なのだった。 彼女は確かに自分の持ち点のすべてを野々村に賭けているし、そういう意味では野々村以外の男に目もくれない一途さを持ち合わせていた。しかし、その大方針はあくまで自分の持ち点が底を突くまでの話であって、持ち点を託された野々村がそれを全部すってしまった場合には、彼女はそんな無能をディーラーはさっさとお払い箱にするタイプなのである。 なんとなれば、「全部賭けている」と言っても、彼女もまさかいのちまで賭けているわけではないからだ。 ことりという人は生来、感情の薄い人なので心の中に熱というものがまるきりない。 「熱血」とか「情熱」という言葉は彼女には理解できないし、理解しようという「熱意」もない。 徹頭徹尾、心の冷めた人なのだ。 そういう人だから他人の立場に立って考えるというのが非常に不得手で、たとえば「同情」や「憐憫」といった言葉で表現される感情が彼女の中には見当たらなかった。 だから、ことりには思いやりというものがない。「思いやり」という感情過多な表現をすると意外だと思われるかもしれないが、これを「察する」や「気づく」に置き換えると、分かってもらえるかもしれない。 ことりという人は、相手の気持ちや置かれた状況、彼らの幼少期の体験などを察したり、気づいたりするのがとても苦手なのである。そういうところは本多のおかあさんとよく似ている。 そして、そうした“他人様の総合的な立場”を理解できない人間というのは、実はたくさんいて、何もことりが特別なわけではない。 というよりも、世間一般の大方の人々が、そういう“他人様の総合的な立場”を理解できないままに生まれて生きて死ぬのだ。 まあ、簡単に言えば誰もが自分のことしか考えていないし、他人に対して深い好奇心を抱くことも、他人の人生について真摯に考え詰めることもしやしないのである。 そういう点では、選んだ相手が優秀なディーラーである限りは脇目も振らずに尽くしてくれることりのような女性は稀有な存在と言ってもいいだろう。 いまの時代、これと見定めた男にとりあえず自分の人生を丸ごと預けるといった向こう見ずをやらかす女性は滅多にいるものではないと野々村は思う。 一方、野々村にとっての人間はあくまで“観察対象”であり、自分自身は一個の「視点」に過ぎない。 だから野々村だってことりと同じように“他人様の総合的な立場”を理解できるわけではないし、“他人様”に対して「同情」や「憐憫」をおぼえることも滅多にない。 ただ、野々村はことりのように自分以外の人間たちに終始背中を向けるような真似はしてこなかった。 というよりも野々村は、彼女とは正反対に自らの双眼鏡をずっと“他人様”に向け続けて生きてきた。じっくりと観察し、彼らの生態を克明にノートに記録するのが自分という一視点の存在理由だと心得ている。 野々村は、どうしてそんなに“他人様”を観察するのか。なぜ一視点と化して自分の観たものを小説という形で記録しようとするのだろうか。 野々村だって自分のことしか考えていないし、他人に対して深い好奇心を抱くことも、他人の人生について真摯に考え詰めることもしやしない。そこはことりを含めた周囲の人々とほとんど変わりはない。 ただ、彼らと野々村とが決定的に違うのは、“他人様”への態度ではなくて、“自分のことしか考えていない”ときの、その自分のことしか考えないやり方(方法)なのである。 野々村は、本当に自分のことしか考えないためには、自分自身を“存在と非存在のくびき”から解き放つ必要があると思っているのだ。 この“存在と非存在のくびき”とは、人間という存在は、死んで、その人のことを知っている人がこの世からみないなくなってしまえば、人は完全な無となり、非存在となるが、私たちが死んだとしても、その後も、世界は姿形を変えながらも永遠に存在し続けていくだろう。 つまり、世界全体は確固として存在しているというのに、その小さな一部分であるはずの私たちは、あたかも最初から存在しなかったかのように死んでしまえば何の痕跡も残せないのだ。 私たちの中にある根源的な不満というのは、そうした世界の永遠性と自己の惨さとのあいだの余りに酷なギャップにあるに違いない。 野々村が自分自身を一個の「視点」に過ぎないと考えるのは、この根源的な不平不満から解放されたいがためだった。 世界が永遠であるとすれば、その一部である私たちも恐らくは永遠なのだ。 世界だけが永遠で私たちのみが幻影である、というそもそもの捉え方が間違っているのだと野々村は考える。 自分や他人、山川草木ことごとくが一瞬の明滅ののちに一切の痕跡を残すこともできず夏の夜空の打ち上げ花火のように消え去ってしまう――そう自分が感じてしまうのは、自分が一個の「視点」に過ぎないからだ。 実際には、自分以外のすべては永遠に存在し、自分という「視点」のみがスイッチが入ったり切れたりするようにときどき切り替わる。 すべては存在し、どこにも消えずに存在し続けている。 永遠とは「時間が存在しない」という意味なのだから、それは当然でもあろう。時間が存在しないのであれば、世界とは、あらかじめ用意されているすべての可能性、すべての存在ということになる。 この世界にはすべてがある。すでに死んでしまった人たちも、これから生まれる人たちもすべてのものが、もういまここに存在している。 一個の視点に過ぎない自分が、手の中の双眼鏡を持ち上げ、両眼にあてがい、レンズを遠くへと向ければ、たとえぼんやりとかすんではいても過去から未来までのかなりの領域を見渡すことができる。そして、自分がその双眼鏡を手放すと(つまり死んで視点が切り替わると)、一時的に視界は途切れるが、当然ながら双眼鏡に映っていたものは存在し続けている。 一個の「視点」に過ぎない自分には、そのことがどうやっても理解できないだけのことなのだ。 そして野々村にとって、私というのは「私という体験」である。 私という体験とは、双眼鏡を覗いてさまざまな事象や他人との関わりを観察することに他ならない。その双眼鏡のことを私たちはときに五感と呼び、直感や霊感と呼び、思考や洞察と呼び、そして記憶と呼んでいる。 私という確かな存在があらかじめ用意されているわけではなく、私は「私を体験する」ことによって私になり、私でいられるに過ぎない。 その意味では、私が私を体験するというのは、私自身の五感や直感や霊感、思考や洞察、そして記憶というものを観察すること、要するにそうした双眼鏡自体を経験することでもある。 私という一個の「視点」は私自身を観察しているとも言える。 だからこそ、野々村はことりのように外部に背を向けるのではなく、手の中の双眼鏡をいつも周囲のさまざまな人たちや出来事に向け続けているのだ。 野々村は自分以外の人間や事物を観察することで、自分自身の五感や直感、霊感、思考や洞察、記憶を味わい続けている。 それが野々村にとって最良の“自分のことしか考えない”方法なのである。 野々村は作品の内容に関して担当編集者と相談したことがないし、書き上がった原稿を渡したあとも、編集者からの「こうして欲しい、ああして欲しい」という要望に応じることはほとんどない。ある編集者が「面白くない」と言う原稿は、別の社の編集者に持ち込めばいいと考えている。そういう自由を手放さないためにも割の合わない書き下ろしを中心に仕事をしてきたのだ。 だから、野々村は編集者だった頃も、自分が好きになれない原稿についてあれこれ注文を付けることはしなかった。面白くないと感じた作品はすぐに作者に返却し、自分には合わなかったから、別の社に持ち込んで下さい、と率直に伝えていた。 しかし、思わぬ失敗もある。文芸誌の編集者だったとき、かねて愛読していたFさんに原稿を依頼したことがある。彼はすでに人気作家だったが、何度か候補になっていたもののA賞は未だ受賞していなかった。A賞はA社が主催しているから、当然、野々村のいた文芸誌に作品を寄せるのは受賞への最短コースであった。というわけでFさんも快く注文を引き受けてくれ、しばらくすると原稿ができあがってきた。 渡された原稿を一読し、野々村は気に入らなかった。Fさんのこれまでの作品に比べると見劣りがするように思えたのだ。さっそくFさんと会って、その旨を伝え、原稿は返却した。 Fさんくらいの作家だと、受け取った原稿は当然ながら編集長にも読ませるのが通例だったが、このときの野々村は独断でやりとりして、編集長には事後報告で済ませた。わざわざ編集長に読ませるまでもないと判断したのである。 それから二年近く過ぎた頃だろうか。 野々村が返した原稿がK社の文芸誌に掲載された。その時は野々村はすでに文芸誌の編集部を離れていたが、新聞広告で見覚えのあるタイトルを見つけて、へぇー、あれが載ったんだ、と思った。そして、さらに半年後、その作品がなんとA賞の最終候補に残り、あげくにはA賞を受賞したのである。 穴があったら入りたい、という言葉があるが、Fさんの受賞の報に接した瞬間の心境はまさにそれで、生まれてはじめて、穴があったら入りたい、と野々村は思った。 次の日、FさんがA社にやって来た。 A賞とN賞の受賞者は発表翌日にA社を訪ね、社長以下、A社のお歴々と親しく懇談するというのが慣例となっていたからだ。 受付から、Fさんが野々村さんにお目にかかりたいそうです、と連絡があって、野々村は覚悟を決めて彼の待つ一階のサロンに降りて行った。 Fさんは心底やさしい人だったから、面と向かって頭を下げ、お祝いを述べるとニコニコ笑っていたが、野々村の方はと言えば、久しぶりの彼と話しているあいだじゅう、「穴があったら、世界で一番深い穴に入りたい」とずっと思っていた。 そういうわけで、作品と編集者の相性というのは確実に存在する。 野々村のデビュー作も大手の出版社二社から突き返された作品だった。三番目に読んでくれた丸川書店の編集者たちが出版を決断してくれ、彼らのおかげで野々村はなんとか作家というものになりおおせることができた。 担当編集者からの忠言に耳を貸すことはない、と先ほど記したが、まるきり言うことをきかないというわけではない。彼らが熱心に、こうした方がいい、と勧めてきたときは、そんなに気になるんだったら、きみが書き直したものを見せてよ、とこちらから提案することにしている。 最初はみんな呆気に取られるが、どうやら野々村が本気で言っていると知って、提案に乗ってくる担当者もいて、例えばC社のMさんもその一人だった。中編小説のラストがしっくりこないというので、それだったら自分がこうしたいというラストを書いて持ってきなよ、と言ったら、本当に書いて持ってきたのだ。それがなかなかの出来だったので、自分の書いたラストをやめて彼女の原稿と差し替えたのだった。 そういう経緯があったものだから、野々村は彼女に文庫解説を注文したのだった。 Mさん以外にもそういうことはあった。野々村は自分の作品にあれこれ注文を付けられることは好きではないが、彼らが盤石の信念をもって、こうして欲しい、と具体的に提案してきた時は本気で応じる心構えでいた。 野々村のデビュー作(註:『一瞬の光』角川書店 2000年1月10日刊)は千二百枚(四百字詰原稿用紙)の大長編で、丸川書店で出版が決まる前、大手出版社二社でけんもほろろの評価を受けて突き返された作品だった。 一社目の編集者は内容そのものが出版に値しないと判断したのだが、二社目の編集者は内容以前にその原稿枚数に最初から否定的な態度だった。 ことりにも激賞された作品だったし、中身には自信があった。二社の編集者から却下されても落胆したわけではない。必ずどこかの版元から出版できるだろうと信じていた。 だが、そうは言っても断られた二社のほかに伝手のある出版社はなかった。加えて千二百枚の大長編を許容してくれる新人文学賞など存在しない。いかにして出版までの道筋をつけようかと思い悩み始めていたときに救いの手を差し伸べてくれたのが、会社の同僚だった山下進一君だったのだ。 山下君とは「月刊A」の編集部で一緒に働いた仲であり、加えて野々村がA社の労働組合の委員長をやっているときに副委員長として支えてくれた人物でもあった。 ちなみに山下君は彼自身もノンフィクション作家であり、かつてコロンビア大学ジャーナリズムスクールに留学した折の卒業研究を復社後すぐに一冊にまとめ、その後、今度は日本の通信社や新聞社を舞台にした大型ノンフィクションをものして評判を取った人でもある(むろんどちらの著作も版元はA社ではない)。 なんのことはない、八方塞がりになった野々村は山下君に作品を丸投げし、持ち前の馬力を発揮した山下君が丸川書店の軍司智史さんに原稿を持ち込んで、めでたくも出版を決めてきてくれたのだった。 さて、そうやってようやく出版に漕ぎつけた長編小説だったが、丸川書店書籍編集部の江藤達也さんが担当者と決まり、今後の出版スケジュールや内容の細部について相談したいということでさっそく面談をする運びとなった。 しかし、その打ち合わせの席で、担当の江藤さんからラストシーンについて、読者の中には光が見えないというか、あまりにも辛い結末だという見方をする人もいるかもしれない、と言われ、野々村は驚く。 物語の最後で、意識不明の状態で入院していたヒロインは、主人公の懸命の看護もあって意識を取り戻すことになっていた。病院の屋上で真っ青に晴れ渡った空を眺めながらヒロインとの思い出に浸っている主人公のもとへ看護師が近づき、彼女の意識が戻ったことを告げるのだ。そのラストシーンを読んだ読者が、「光が見えない」「余りにもつらい結末」と受け止めるとは野々村には到底思えなかった。 そこで、江藤さんが持っている原稿の束を受け取り、最終ページをめくって、野々村は驚愕した。 なんと、あるはずの最後のページがなくなっていたのである。 物語は屋上でヒロインを回想するシーンで終わり、そのあとで看護師が背後から駆け寄って来て彼女の覚醒を告げるシーンがすっかりなくなっていた。 直後、山下君に電話し、その件を確認すると、彼はこともなげにこう言ったのだ。 ああ。あれですね。僕はヒロインが目が覚めないままの方がずっといいと思ったんで、軍司さんに原稿を渡すときにわざと最後のページを抜いておいたんです。あのページがなくてもちゃんと終われる文章になっていたし。 作家にとって、物語のラストはゴールラインだ。まして千二百枚の長編となれば、それはまさしくマラソンのゴールと呼んでもいいだろう。 ところが山下君は、何の断りもなく、その最後のゴールラインをどこかへうっちゃつてしまったのだった。 野々村はあまりのことに唖然としてしまい、言葉を返す気力も湧いてこなかった。 結局、その最終ページがよみがえることはなかった。デビュー作は山下君の強引過ぎる提案の通り、「余りにもつらい結末」のままで出版されたのだ。江藤さんをはじめとした丸川書店の面々も熱烈に山下君の考えを支持したからだった。 三カ月余り毎日食べ続けていると、さすがに芽が実の食パンにも飽きてきた。相変わらずおいしいのはおいしいのだが、そのおいしさが薄まりぼやけてしまうのは仕方のないところではあろう。 ことりとは二日に一度は電話で話したし、ラインのやりとりは毎日だった。声の様子もラインの内容も別段、いままでのことりと違いはない。 雪ノ下さんについては、健彦君から連絡があった直後に伝えていたが、体育の日に上京して直接病室に見舞ったことはむろん伏せていた。 実家の改築工事は渋滞気味のようだった。当初は年内には完成のはずだったのだが、常子や亮輔一家が新居に入居できるのはどうやら年明けになりそうな気配だった。 亮輔が、設計士の引いた図面にあれこれ口出しをして工期が遅れているらしい。リフォームと言ってもほとんど新築同然なのだから工期がずれ込むのもままあることだろうし、改築資金の大半を負担する長男の亮輔がマイホームの仕様にあれこれ口を挟みたくなる気持ちも分からないではない。 ごめんね。すっかり不自由させてしまって、とことりにしてはめずらしく殊勝な言葉を口にする。 だけど、きみの方こそずっとおかあさんと一緒だと気詰まりだろう。来年までかかるんだったら、年末年始は早めに帰ってくればいいよ。亜香里ちゃんが冬休みに入れば奈々子さんも手が空くわけだしね、と野々村は言った。 それがそういうわけにもいかないみたいなのよ、とことりは意外な反応を見せた。 年末年始に、亮輔一家はハワイに行く予定なのだという。 いくらなんでも、改築で物入りのいま、あげく病身の母親を置いて一家でハワイに行くというのは解せなかったし、そのあいだもことりに常子の世話を任せるというのでは、慣れない独り暮らしを強いられている野々村に対してもあまりに遠慮のない態度ではなかろうか。 そういうこちらの気配を察したのだろう、ことりが慌てたように事情を話す。 実は亮輔の妻奈々子さんの伯母さんがハワイにいて、もう余命いくばくもないらしく、どうやらその伯母さんが相当の資産を持っていて、それを奈々子さんに相続させたいからということで、年末年始にハワイに来て貰いたいと急に言って来た、ということのようだ。 亮輔さんたちは、その伯母さんの遺産目当てで家族揃ってハワイ詣でってわけか。じゃあ、年末年始はきみがそっちに居残っておかあさんと二人で年越しするってことだね、と野々村は言った。 年越しなんてしないわよ。ツネちゃんと二人で年越しなんて絶対イヤだよ。三十日くらいには帰って、せめて三が日はそっちにいるつもり、とことりは言った。 だけど、そのあいだおかあさんの面倒は誰が見るの、と訊くと、ことりは、それくらいはツネちゃんに独りでやって貰うしかないわよ。敦子さんもいるんだし、と言った。 敦子さんというのは、「文具のホンダ」の隣で薬局をやっている常子の友人だったが、今の仮住まいのマンションからは離れている。 しかし、そのマンションでたった一人で年越しさせるってわけにもいかないだろう、と野々村が言うと、ことりが困ったような声を作る。 だが、野々村は、三十日くらいには帰って、せめて三が日はそっちにいるつもり、という先ほどの彼女の一言にカチンときていた。旦那を半年も放ったらかしにしておきながら年の変わる大事な時期にたった五日しか戻って来ないとは一体どういう料簡なのか。 そもそも東京にいた時期も滅多に実家に寄りつかなかったことりが、いくら特段の事情があるとはいえ亮輔一家のハワイ行きをすんなり認めて常子の面倒を見続けるというのは不可解だった。普段のことりであれば、それだったらおにいちゃんだけこっちに残ればいいじゃない、くらいのことは強く言い立てたに違いない。 リハビリ中の常子を一人きりで年越しさせるのも現実的ではない。となると、亮輔が妻子だけをハワイの義理の伯母のもとへ送るのが一番簡単な問題の解決法であろう。 そのくらいのことはことりにだって分かっているはずだ。 じゃあ、年末年始、僕がそっちに行くしかないってことか、とことりの真意を占いたくてそう持ち掛けてみた。 保古ちゃんがこの部屋に来るの。だけど、ここで三人は無理だよ、とことりは言った。 どこか近所のホテルでも借りればいいんじゃない。一人で年越しなんて僕だって御免だし、といって、おかあさんを放ってきみが戻ってくるのもさすがにまずいんじゃないの、と言うと、それもそうだけど……ことりの歯切れがすこぶる悪い。 彼女としては年末年始、申し訳程度に数日こちらに戻り、あとはずっと常子のもとで過ごしたいのが本音という気配もあった。 新宿で目撃したあの青年の顔が脳裏にちらつかざるを得ない。 ま、だいぶ時間もあるし、いまからそんなこと考えなくてもいいか、と野々村は深追いは禁物と気づいてこの話を打ち切ることにした。 それもそうね。おにいちゃんたちのハワイ行きだって最終的にどうなるか分からないし、とことりも同意する。 そういったやりとりを交わしたのが、二日前の十月十五日のことだった。
芽が実の食パンに飽きたからといってパン食を放棄したわけではない。 とりあえず別のパンに乗り換えてみたのだ。 佐藤さんの手紙で気分が変ったのも手伝い、手紙が届いたその日のうちに車で十分ばかりのデパートに出かけて地下に入っている幾つかのパン屋を巡った。 全国チェーンのベーカリーが販売している「長時間熟成ブレッド」が実は大当たりだった。芽が実のパンとはまた全然違うのだが、一口食べて思わず「ウマッ」と声が出るほどの味だったのである。 昨夜はスモークサーモンとアボカドでサンドイッチを作ってみた。六枚切りの「長時間熟成ブレッド」二枚を使い、たっぷりバターを塗った一枚の上にサーモン、薄切りのアボカド、さらし玉ねぎを敷き詰め、盛大にマヨネーズをかけてスライスチーズで蓋をする。そこへもう一枚を載せてパンパンにふくらんだサンドイッチをラップにくるんでぎゅっと圧をかけ、ラップのまま半分にカット。すると持ち重りはするものの食べている最中に“荷崩れ”を起こさない立派なサンドイッチが出来上がる。 一口食べると、これがもう素晴らしいうまさで、「長時間熟成ブレッド」が芽が実の食パン以上にサンドイッチに適しているのを発見したのだった。 「長時間熟成ブレッド」にしたことで、例のネットで買ったポップアップ式のトースターに復活のチャンスが巡ってきた。というのも、「長時間熟成ブレッド」は、あの超ハイカロリーバタートーストよりも当たり前にトースターで焼いて食べた方が味が引き立つのだ。 独居生活も次第に板につき、最近はネット情報を大いに活用して自炊に精出すようになっていた。そこへもってきてことりの突然の“不倫疑惑”も浮上し、いや増しに自炊熱は高まっている。万万が一、ことりがよその男に奔るような事態に立ち至った場合は、まずもって日々の家事全般が、目下のようなお遊び程度の状況とは様相を一変させて本気の本気で我が身にのしかかってくる。 なかでも何より大事なのが一日二回の食事をいかにこなすかだろう。 半年くらいなら外食や買い食い、出前で充分に凌げるし、事実、そうやってここ三カ月余りをやり過どしてきたのであるが、これがさらに一年、二年と常態化するとなれば、そんなやり方では到底、身体も財布も持たなくなってくる。 そう考えると、料理の技術を多少とも身につけておくのは必須と言っていい。 現実にことりの裏切りが明らかとなり、還暦間近で彼女に去られて独りぼっちの不遇をかこつ身となれば、その時点から一念発起、包丁を握って料理に励むなんて絶対にできるわけがなかった。 情けない話だが、そんな事態に遭遇すれば、精神に痛打を浴びるのみならず自らの健康や暮らしまで木っ端微塵に粉砕されてしまう可能性大だった。 野々村は、浮き輪もなしに海に投げ捨てられた子供よろしく、日常生活という大波に飲み込まれ、あっという間に波間に消える末路となりかねない。 だとすると、こうして“不倫凝惑”などと余裕をかまして妄想を逞しくしているあいだに、いざというときの備えを図っておくのは決して無駄ではないと思われる。 サンドイッチか……。昨夜の分厚いサンドイッチを思い出して独りごちる。 サンドイッチというのは、空腹を満たし、野菜や動物性たんばく質など必要な栄養素を摂取するには、最も簡便かつ美味しい料理であろう。何より火を使わずに作れるというのが素晴らしい。その上、持ち運びにも便利ときている。ことり不在の生活が長引けば、サンドイッチは野々村にとっても今後非常にありがたい「料理」になってくれるに違いない。 サンドイッチといえば思い出すことがあった。独り暮らしになって昔を回想する機会が多く得た。それと共に、いままですっかり忘れていたことを不意に思い出したりする。記憶というのは消えるのではなく隠れるのだ、と改めて思い知った気分だ。
Rさんの昼食は毎日サンドイッチだった。 それも出来合いのものではなくて、必ず家から持ってきた手作りのサンドイッチだ。具はハムと卵。 Rさんとは二年近く同じ部署(A賞とN賞の事務局)で隣同士の机だったが、ハムサンドと卵サンド以外は見たことがなかった。 昼飼時になると彼はいつも担いでいる大きなリュックの中から、これまた大きな密封容器を取り出し、それを自分の机上にどんと置いて、飲み物は決まって会社地下の自販機で買って来た缶コーヒーだった。 密封容器の蓋を開けるとびっしりとサンドイッチが詰まっている。 いまにして思えば、あの量は半端なかった気がする。それこそ食パン半斤分くらいあったのではなかろうか。大量のハムサンドと卵サンド。大ぶりのそれを一つずつ丁寧に取り出して、Rさんは黙々と野々村の隣で食べ続けるのだった。 野々村はといえば、昼食はほとんどとらなかった。当時は夕食だけの一日一食で、その夕食でさえスナック菓子やチョコレートをつまんでそれでおしまいにする場合も再々だったのだ。 パニック障害を発症する以前で、野々村には食事への興味がまるでなかった。少年時代はアポロ計画の全盛期とあって、チューブ入りの「宇宙食」が未来の食べ物としてさかんに喧伝されていた。それを見て、一刻も早く「宇宙食」が普及することを子供心に願ったものだ。 だが、夢の「宇宙食」が一般化することはついぞなく、野々村は仕方なくチョコレートやスナック菓子をその「宇宙食」の代用品として口に入れる習慣を身につけていった。 本を片手にながら食い″を励行していた。会社に入った後も長くその習慣が抜けなかったのだ。勤務中に空腹をおぼえたときは仕事机の引き出しの中に常備してあるチョコレートを取り出して、本を読んだり書き物をしたりしながらちょこちょこ食べていた。 野々村は上司のT部長と共にA賞とN賞の選考に専念していたが、Rさんは同じ部署といってもA賞、N賞以外のA社が主催する各賞(例のノンフィクション賞をはじめいろいろとあった)を担当していた。 野々村は三十半ばで、Rさんの方はもう四十代後半、T部長とさほど年齢も変らなかった。肩書は部長につぐ次長だったが、およそ出世とは無縁の人であった。 かつてのRさんは将来を嘱望される有能な雑誌記者だったという。それが編集長になろうかという四十手前でなぜかコースから外れ、編集の第一線から足を洗ったのだった。 野々村が配属されてきたときはすでに部署にいて、古株のT部長と一緒にA賞とN賞の担当をやっていた。野々村とバトンタッチする形で、彼は他の賞の担当へと移ったのだ。 Rさんの昼ご飯が、どうして毎日サンドイッチなのか、野々村はずっと不思議に思っていた。何度か詳しい理由を訊ねようかと考えたが、何となく憚られものがあって口にできない。 そのサンドイッチがお世辞にも美味しそうには見えなかったし、いかにも不細工だったからだ。このサンドイッチは、一体誰が作っているのだろう、そう思って、一緒に机を並べて数日したところで一度訊いたことがあった。 Rさん、毎日サンドイッチなんですね。奥さんのお手製ですか、と。 Rさんは、いや、これは女房が作ってくれてるわけじゃないんだ、と言った。 じゃあRさんが毎朝自分でこしらえているんですね、と訊くと、いや、そういうわけでもないんだけどね……。 あとは口を濁してRさんは詳しく教えてくれなかった。 そんなこともあって、彼の“奇妙な昼食”にそれ以上切り込んでいくのが難しくなってしまったのだ。 しかし、じゃあ、一体誰があんな不細工なハムサンドと卵サンドばかりのサンドイッチを毎日Rさんに持たせているのだろう。しかもあんなにたくさんの量を腹におさめ続けて、当のRさんは飽きたりしないのだろうか。何か、どうしてもあのサンドイッチを食べなくてはならない特別な事情がRさんにあるのではないか。 一カ月が三カ月、三カ月が半年と時が過ぎるほどに野々村の密かな疑問は膨らむ一方だった。 Rさんは社内でも群を抜く巨漢だった。 それもそのはずで、彼は大学時代、有名な重量級の柔道選手だったのだ。大学二年時の全日本選手権では準決勝まで進み、一時はオリンピック候補の一人として名前が挙がったほどの逸材だった。大学は、いわゆる柔道の名門大学ではなく地方の国立で、その大学の柔道部では彼一人が傑出した存在だったようだ。 四年生のときに膝に大怪我を負い、その傷が癒えることなく柔道家の道を断念せざるを得なかったという。 そうしたRさんの来歴は当然ながら社内周知で、野々村自身もRさんの畳の上の雄姿をなんとなくだが記憶に留めていたくらいだった。 彼と同じ部署になって半年余りが過ぎた頃、まったくの偶然で、野々村は、Rさんの“奇妙な昼食”に秘められた特別な事情を知ることになる。 当時、野々村は親しい官僚や若手政治家たちと月に一度、夜の勉強会を開いていた。勉強会と言っても堅苦しいものではなく、十人近くのメンバーがそれぞれ都合のつく回だけ顔を出し、持ち回りで店を選んで酒食を共にし(もちろん自腹)、さまざまな時勢の課題について完オフ(完全オフレコ)で自由に議論するというおおらかな会合であった。 大体はメンバーだけの集まりだったが、たまにゲストとして局長クラスの官僚や閣僚経験者などが飛び入り参加することもあり、またそれぞれが同僚や後輩でメンバー入りを望む候補者たちをお披露目方々ゲストとして同伴することもあった。 その日は郵政省(現総務省)の役人が部下を一人連れて来ていた。野々村と同世代と見られるそのゲストの課長補佐が、なんとRさんの柔道部の後輩だったのだ。 そこで、野々村は、酒も入って銘々の口が柔らかくなってきたところでさっそく件の課長補佐氏に声を掛け、H大の柔道部だったら、RさんというOBをご存じないですか、と訊くと、その補佐氏は、もちろんよく存じ上げていますよ。R先輩は我がH大柔道部の伝説的存在ですから、と言ったのだ。 野々村が、今同じ部署にいるというと、彼は、あのR先輩と同じ部署にいらっしゃるんだ、と先だって野々村が差し出した名刺をポケットの束から抜き出しあらためて眺めていた。共通の親しい知り合いの話から入ると打ち解けるのに時間がかからない。野々村たちは年齢が近いこともあってすぐに意気投合した。 いろんな話を交えたあと、ふと思いついてRさんの“奇妙な昼食”の件を持ち出した。事細かに説明を加え、あんなに来る日も来る日もハムサンドと卵サンドばかり食べ続けているのは、きっと何か特別な理由があるからだと思うんです。先輩後輩のよしみで、Rさんから思い当るような話を聞いたことはありませんか、と問いかける。 すると補佐氏はしばし思案顔になった。何か考えているようだったが、答えを探しているというよりは知っている答えを伝えていいものかどうか逡巡しているふうに見て取れた。 何かご存知なんですね、と単刀直入に突っ込んでみる。どんな訊き方をしたところで、答える人は答えるし、答えない人は答えない。それならストレートに訊ねるのが一番だと野々村は長年の取材経験から学んでいた。 そのサンドイッチは恐らくRさんのお嬢さんが作っているんだと思いますよ、と補佐氏は意外なことを口にした。 一人娘なんですけれど、そのお嬢さんが心を病んでいて、Rさんはいつもそのことを心配されているんです。入退院を繰り返す時期もあったようなんですが、この一、二年はだいぶ落ち着いておられてRさんの家で一緒に暮らしているんだそうです。一年ほど前にお目にかかったとき『最近は毎朝、娘がお弁当を作ってくれるんだよ』ってとても嬉しそうに話しておられましたから、そのお弁当というのが、野々村さんのおっしゃっているサンドイッチのことなんだと思います。 補佐氏からそこまで説明を受けて、野々村はようやく合点がいった気がした。 補佐氏は、このことは野々村さん一人の胸におさめておいて下さい。先輩もご家庭の話はあんまりする方ではないので、と言ったが、野々村も、もちろんです。誰にも言うつもりはありません。Rさんも含めて、とそう約束して、この会話を終わらせたのだった。 野々村は勉強会の帰り道、補佐氏から聞いた話を頭の中で反芻した。 Rさんが毎日大きなリュックから取り出す、あのさして美味しそうにも見えない大量のサンドイッチは、心を病んだ一人娘の何よりの回復の証なのだろう。 だからRさんはひと切れも残さずに腹におさめ、それを日々繰り返しているのだ。 娘にとっても父親のために毎朝早起きしてハムサンドと卵サンドをこしらえることが生活の大事な柱、もしかしたら生きるためのよすがにさえなっているのかもしれない。 編集長目前で突然第一線から退き、定時出退社の可能な現在の部署に異動したのも娘さんの抱える病気が背景にあったことは間違いない。 野々村は想像を巡らしながら、いまの部署に来る二つ前に在籍した「週刊A」のLデスクのことを同時に思い出していた。 Lデスクは能力、人格共に優れた誰もが一目置くA社のエース編集者だった。 そのLデスクが退職したのは野々村が一つ前の部署である言論誌に異動してほどなくのことだ。退職理由は「一身上の都合」だったが、会社の将来を担うと目されていた人物がいきなり辞めたのだからあれこれと憶測が社内で飛び交ったのは当然だった。 Lデスクには週刊誌時代に特段の世話を受け、また親しくもしていたので、懇意の他の数人の同僚と同じく、野々村には本当の退職理由が分かっていた。 Lデスクの場合もRさんと同じように我が子の抱えたトラブルが原因だった。 中学生の息子の家庭内暴力がエスカレートし、デスクは不在がちの家に妻や他の子供たちを置いておくことができなくなり、都内に借りたアパートで息子と二人暮らしを始めていた。とはいっても週刊誌のデスク稼業だから息子の行動に完壁に目を光らせることなどできるはずもない。 彼が辞表を出す三カ月ほど前、すでにずいぶん以前から学校にも通わなくなっていた息子は父親が校了で一晩空けている隙を狙い、家族が暮らす鎌倉の実家にタクシーで乗りつけ、金属バットでベランダの窓ガラスを叩き割って家に押し入り、寝入っていた母や妹たちにバットを振るった。さらにその挙句に室内に灯油をまいて火を放ったのだ。かろうじて死者は出なかったものの、この火事でデスク宅は全焼、両隣の家も半焼となった。 それから一カ月以上、Lデスクは事件の後始末で仕事どころではなくなった。重傷を負った妻子の看護や逮捕された息子への対応、さらには類焼した家の人たちへの謝罪と補償などなど。事件から三カ月後、一通りのことを済ませた上で、Lデスクは最終的に仕事ではなく家族を選ぶ決断をしたのである。 実は、野々村がRさんと机を並べるようになったのも新平の体調不良とそれによるりくの精神不安が大きな原因の一つだった。 前部署の編集長にそういった家庭事情を説明し、毎月の締め切りや校了で会社に泊まり込むことも多い雑誌編集から書籍編集の仕事への配置換えを依頼したのだ。 しかし、総務部長は、前例がない、と言ったうえで、いかに野々村君といえども、そんな個人的事情に基づく異動願いをおいそれと受け入れるわけにはいかない、としてどうしても首を縦に振らなかった。やむなく会社関連の各賞を所轄する事務局へと移ったのである。 その話を編集長に聞かされた瞬間、野々村は、いざというとき、この会社は社員を助けてはくれないのだな、と悟ったのである。 話は少し先に飛ぶが、野々村がパニック障害を発症して資料室に回されたとき一緒だったMさんも、もとはすこぶる優秀な広告マンだった。口八丁手八丁でおまけに筆も立ち(事実ミステリー評論もやっていた)、企画広告を立案させたら彼の右に出る者はいないと言われ、幾つものタイアップ広告を実現して、広告業界の大きな賞も受賞していた。まさしく広告部のエース格だった。 そのMさんが資料室勤務に落ち着いたのも、やはり家庭の事情が原因だった。 娘さんが同級生たちの激しいいじめに遭い、学校に行けなくなるだけでなく自殺未遂を繰り返すようになる。愛娘の世話と治療にMさんは奔走するのだが、その過程で、彼自身も重い鬱病を発症してしまったのだった。 野々村は社会人になって、この日本社会で出世の階段を上っている人々は、無責任能力と共感欠如能力という出世に不可欠な二つの適性を兼ね備えている人たちだと考えるようになった。 これは野々村が所属したA社においてもそうだったし、さらには野々村が雑誌記者として見聞きした数多くの組織においてもその通りであった。 この国で出世したいなら、まずは責任感を放棄(無責任能力)し、家族や部下、友人知人、取引先への同情や憐憫、あわれみといった感情を放棄(共感欠如能力)しなくてはならない。 組織で出世した人たちは、自分の能力が競争相手に比べ秀でており、そのおかげで厳しい出世レースにおいて勝ち続けてきたからだと思い込みがちだが、それがとんでもない誤解や錯覚であることに早く気づいた方がいい。 彼らはレースに勝利したのではなく、多くのまともな競争相手(RさんやLデスクやMさんたち)が責任感やあわれみの感情に従ってレースから降りてしまったがゆえに、かろうじて勝者と呼ばれるようになった(つまりはレースに最後までしがみついた)に過ぎない。 少なくとも頂点に立った時点でその程度の「謙虚さ」を持っていなければ、組織をうまく運営していくことなど夢のまた夢だと野々村は思うのだが、しかし、そうした「謙虚さ」というのは責任感や共感能力と密接にリンクした資質だけに、組織のトップに駆け上る段階で「謙虚さ」を持ち合わせた人の多くが脱落してしまうのもまた事実なのである。
A社時代の野々村は筆が達者なことで知られていた。作家の息子だったし、自分もやがてはこうして物書きになっているわけだから、上手に文章が書けたのは当然と言えば当然の話だった。 生まれ持った記憶力のおかげもあって、たとえば談話や対談、座談会などをまとめるのも得意だった。内容もさることながら、そのスピードには恐らく周囲の誰もが呆気に取られていたと思われる。 雑誌の企画で一時間や二時間なりのインタビューや対談を行うときは必ず録音するか、時間的な余裕がなければ速記者に同席して貰って内容を記録する。普通はそうやって速記者が作ってくれた速記録をもとに構成を組み立て、それから各担当編集者がインタビュー記事や対談記事に仕立てていくのだが、野々村の場合は、ほとんど記憶だけを頼りに記事を作り、速記録は確認材料として使う程度だった。 ひたすら本や資料を読み、取材をするか誰かにインタビューを行い、最後にそれを活字に落とし込むという雑誌編集の仕事はとにかく楽しかった。加えて、親が作家だから作家付き合いも苦にならない。作家の方も野々村に対しては半ば身内扱いという態度で接してくれた。 極度の人見知りで体力もなかったので新聞記者は恐らく務まらなかっただろうが、筆者や識者をあいだに立てて社会の様々な事象に向き合う編集者は野々村にとって「天職」と呼んでもいいものだった気がする。 好きこそものの上手なれというのもあって、入社して数年も経つと、野々村は“仕事のできる編集者”として社内外で認知されるようになっていた。 若い時分の野々村は自分が「月刊A」の編集長にならないと思ったことはなかったし、実際に編集長の座につけば雑誌は再び黄金時代を迎えるだろうと確信していた。 要するに、「A社で一番仕事ができるのは自分だ」と本気で信じるほどの増上慢をかましていたのである。 だが、そうやって自信が深まれば深まるほど、その一方で、何だか後ろめたいような、割り切れないような奇妙な思いが強まっていったのも事実だった。 本当は作家になりたいくせに一体いつまで編集の仕事をやるつもりなのだという真っ当な後ろめたさもむろんあった。だが、それにもましての心中の疚しさの原因となっていたのは、自分が本当に一番優秀なのか、という素朴な疑問だった。 A社に入った野々村が、自信をふくらませていきつつもどうしてもその疑問を脳裏から払拭できなかったのは、会社のシステムに根本的な問題があったからだった。 野々村は二十代の頃、「週刊A」の編集部でグラビアページを二年ほど担当していた。 そのときに同じグラビア班で一緒に働いた王さんという女性がいた。 王さんはその名の通り中国系の日本人で、都内の短大を出てA社に入ってきた。年齢は野々村より五つ六つ上だったから当時は三十歳をちょっと超えたくらいではなかったかと思う。短大卒と四大卒の年次差もあるから、彼女はすでにキャリア十年に近いベテラン編集者だった。 当時、A社での女性編集者の地位はあくまで“編集補助”だった。男女雇用機会均等法が施行される直前で、まだ四大卒女子の採用は始まっていなかった。野々村が入社した頃のA社の女子社員は全員短大卒の女性だったのだ。 短大卒の女性はおおかた業務部門に配属されるのだが、一部が編集現場へも回されて、四大卒の男子が行う雑誌や書籍の編集作業の“補助”を担うというのが会社全体の方針であった。 しかしそうは言っても実際に同じ編集部で働くようになれば、女性社員に資料集めやコピー取り、出前の手配やお茶汲みばかりやらせて具体的な編集業務は全部男性社員がこなすというふうにできるはずもない。 そもそも出前の手配やお茶汲みはアルバイトの学生たちがやってくれることになっていたので、女性編集者にもそれなりの編集作業が割り振られることになっていた。 たとえば「週刊A」で言えば、毎週内容の変わる特集記事作りに女子は参加しない。危険な現場に飛び込むこともあれば地方や海外への出張も頻繁で、女性には負担が大き過ぎるためだ。しかし、他のページの担当は男性編集者とまったく変わらぬ条件で仕事をして貰う、といった感じだった。 週刊誌の場合は特集ページを作る特集班が全体の人員の三分の二。残り三分の一を小説、コラム、マンガを担当するセクション班とグラビアページを担当するグラビア班で分け合っていた。 野々村は二年余り特集班でこき使われたあと、写真週刊誌ブームのあおりをうけて「週刊A」もグラビアページを拡充することになり、急遽グラビア班に投入された。 それまではアイドルや女優のグラビア写真、人物クローズアップや各種イベントの紹介などでページを埋めていたグラビアページにも「F・F」(写真週刊誌の代表格である「フォーカス」と「フライデー」を併せてそう呼んでいた)ばりの隠し撮りやスクープ写真を載せていこうというのが編集長の新方針だった(ちなみにその編集長がやがて社長になるS氏)。 特集記事の校了は火曜日なので、記者たちは月曜から火曜日の早朝にかけて記事を執筆する。一方グラビアページ(モノクロ部分)の校了は一日早い月曜日なので、グラビア班の面々は日曜から月曜日の早朝にかけて、ネームと呼ばれる写真の脇や下につく解説記事を書くことになっていた。 特集の場合は四ページから五ページの記事を一本、集中して一晩で仕上げるのだが、グラビアの場合は一人あたり三本程度のネームを一晩で書いていく。字数は特集よりもずっと少ないのだが、写真のインパクトを邪魔せずに上手に解説し、ちょっとした小技を利かせた文章を書く必要があったから、グラビア班員には文章力がまずもって求められた(たとえばフィギュアのザギトワ選手への秋田犬贈呈セレモニーの写真にネームをつけるとすれば、犬のマサルに成り代わって「あたし、雌なのになぜかマサルなの。」で書き始めるとか……)。 というわけで短文とはいえ、三本のネームを一気に完成させるのは想像以上に面倒で神経を使う作業だった。 そんな作業をデスクを除くグラビア班の五人で進めていくのだが、王さんももちろんメンバーの一人で、彼女も毎週野々村たち他の四人の男性社員と共に徹夜で原稿書きをこなしていた。 王さんの原稿は、五人の中で群を抜いて上手かった。野々村など足元にも及ばない巧みな筆遣いで、毎週、彼女のネームを読むのが野々村には徹夜仕事のたのしみの一つだったし、それは他の部員にとっても同様だったと思う。 彼女がすいすいと書き上げていくネームが一本仕上がるごとにデスクが受け取ってタイトルをつけていくのだが、デスクもしばしば、いや、これはほんとうにうまいな、と唸り、そのたびに他の部員に回し読みをさせて暗に、お前たちも、これくらいの原稿を書けるようになれ、と発破をかけるのだ。 野々村は、内心で「A社で一番達者な文章を書くのは恐らくこの王さんに違いない」と思っていた。他の部員も同様に感じていたと思う。 しかも、野々村たち男性社員は一晩中ワープロにかじりついてネーム書きに集中すればいいのだが、王さんはそうはいかなかった。 彼女は自分の原稿を書き進めつつ、時計の針が午前二時くらいになると一旦席を立って給湯室に行き、狭い給湯室のキッチンで部員六人分の夜食をこしらえるのを毎週のルーティンとしていたのだ。 王さんの作る夜食は手が込んでいた。グリーンカレーだったり明太子パスタだったり、牛丼やマーボ豆腐丼、はたまた上海風焼きそばに塩むすびなど、毎回趣向を凝らしたメインがあって、その他に野菜サラダや煮物、揚げ物などの副菜が並ぶ。量もたっぷりだった。 そうやって六人分の夜食を一時間以上かけて作り、食事のあとの片づけも全部やった上で、彼女はふたたびワープロの前に戻るのだ。 王さんの夜食作りは部員の誰かが言い出したのでもないし、デスクが命じたわけでもない。あくまで自発的に彼女が始めたことであった。料理上手だという噂は耳にしていたが、恐らくいろんな配属先で彼女はこれに類する気遣いを示してきたのだろう。そして野々村たち男性社員はそういう彼女の好意に甘えて、毎回、うまい、うまい、と王さんの料理に舌鼓を打ってきたのだ。 挙句に、野々村たちよりもずっと限られた時間内で、彼女は誰よりも読み応えのあるネームを書き上げてデスクを毎週唸らせていたのである。 短大卒の女性社員は数年編集部で働くといつの間にか業務部門に配転されるのが常だった。その点で入社以来十年近く、ずっと編集現場で働き続けている王さんは例外中の例外でもあった。もちろん、彼女の卓越した文才をもってすれば、否応もなく編集セクションに在籍するのが自然というもので、そこは衆目の一致するところではあったろう。 だが、問題なのは、そうやって見事な才能を発揮していながらも彼女が私たち男性社員のための夜食作りを買って出なくてはいけないという曰く言い難い雰囲気が会社全体に漂っているという、その一事なのだった。 加えて、その文才に舌を巻き、これはひょっとしたらかなわないんじゃないか、と密かに怯えている野々村自身が、王さんのことを他の男性社員に対してのように正当なライバルと見倣す必要がなかったというのが尚更に問題なのだった。 何となれば短大卒の、しかも女性である王さんは、男性社員と同じ仕事(というよりそれ以上の仕事)をどんなに続けたとしても、あくまで“編集補助”でしかなく、そうした会社全体の方針が変更されない限りは、野々村たち男性社員の脅威とは決してなり得なかったからだ。 先に野々村が、「自信をふくらませていきつつもどうしてもその疑問を脳裏から払拭できなかったのは、会社のシステムに根本的な問題があったからだった。」と書いたのはまさにその点だった。 他の企業や役所などありとあらゆる組織がそうであったように、当時のA社においても、真に公正公平な出世レースなんて行われていなかった。 野々村が内心で「自分が一番仕事ができる」と幾らうそぶいてみたところで、王さんのような稀有な人材がこれまでも、そしてこれからも競争以前の段階で排除されてしまうのだとすれば、野々村の自信はいつまで経っても本物の自信にはなってくれない。 野々村は、キャリア組とノンキャリア組だとか、ラインとスタッフだとかそういった組織運営上の仕分け法は、実のところ百害あって一利なしだと考えている。 性差、人種、学歴、家柄、コネクション、そういったあまりにも大雑把な能力判定基準で個々人の才能や意欲を頭ごなしに決めつけたり否定したりするのは、上に立つ人間たちの怠慢と保身でしかないと思う。 結局のところ、健康状態や家庭の事情などで自らレースを棄権する人々が大勢存在し、その一方で、くだらない人事制度のために最初からレースへの参加を拒絶される大勢の人々が存在する。 そんないい加減なレースでたとえ勝利を掴むことができたとしても、一体そんな勝利にいかほどの価値があるというのだろう。 まして、その程度のレベルの競技会で連戦連勝しているからといって自分が他を圧倒する力量の持ち主だとうぬぼれるのは、自身にとってだけでなく周囲にとっても非常に危険なことだと野々村は常々考えているのだった。 C社の佐藤裕子さんから、月初に出した新刊本についての感想と「野々村さんの還暦を祝う会」の企画について書かれた長文のメールが届いたのは十一月も残すところ一週間足らずという二十四日金曜日のことだった。 しかし、前半部分の感想については新刊の筋立てにうまく引き寄せて書かれてはいたものの野々村はその内容にいささか不穏な空気が感じられるような気がした。 たとえば、「まあ女性というのはとかく秘密の多い生き物で、しかも、男性に比べて秘密を隠すのがすごくうまいので」とか、「どんなに近しい人にも明かさない『秘密』があるのが、ある種モラルであり、それがなくなってしまったら、そこはもう文明的な社会ではないと思えるのです。」とか、「秘密を秘密として全うできる人間でいるためには教養が必要で、しかもそういうことを小説で描き出すためには人間の闇を許容する力もなくてはなりません。」などといった文章は、ことりの疑惑を加味して考えれば、いかにも意味深長である。 この手紙を一読して(というか読んでいる最中から)野々村が直感したのは、佐藤さんは何かを掴んだのではないか、ということだった。 むろん、野々村はことりの“不倫疑惑”について一言も佐藤さんに洩らしたことはない。彼女を“最後の切り札”だと思ってはいるが、相談を持ち込むにはまだ時期が早いだろうと考えてきたのだ。 十月の新宿での“疑惑”発覚以来、ことりとは直接会っていなかった。先月は、仮設店舗の棚卸しを急遽やらなくてはならなくなり、ことりはこちらに戻ってくる暇がなかったのだ。ただ、今月は月末に一度帰るという話になっていた。 電話やラインのやりとりから察する限りは、依然としてことりに何か大きな変化が起きたようには感じられない。亮輔一家の年末年始のハワイ行きの件も、伯母さんの容態が一進一退を繰り返しているらしく日程さえ定まってはいないようだった。 急変したら奈々子さんだけでハワイに行くことになるだろうし、そうじゃなきゃ年明け、それこそ新居にみんなで移ってから亜香里にツネちゃんを任せて、おにいちゃんと奈々子さんの二人だけで出かけてもいいって話だよね。 先日もことりはそんなふうに言っていた。 そういう一連の会話もあって、野々村のことりへの疑いは相当に薄まってきているのが現状なのだったが、そんな矢先に“切り札”の佐藤さんからこんなメールを受け取ったので、野々村の心中はにわかに穏やかならざるものへと移り変わっていく。 佐藤さんが何か掴んだのでは、と思った瞬間に頭にぱっと浮かんだのは、ことりが彼女に相談を持ちかけたのではないかという推測だった。 かねてよりことりは佐藤さんのことを一番信用していた。というよりも佐藤さんは、ことりにとって自分の身に何か一大事が起きたときに頼れる唯一の存在なのだ。 とはいえ、あのことりが、いくら他に頼るべき人物が思い浮かばないとしても、自らの不倫の相談を佐藤さんに持ち込むとは考えにくい。やはり佐藤裕子はことりにとってではなく野々村にとっての最終兵器なのだ。そこはことりも見誤るはずはなかった。 ふと閃いたのは、佐藤さんもまた野々村同様に、どこかで若い男性とむつまじくしていることりの姿を目撃したのではあるまいか、ということだった。 そして彼女は、持ち前の度胸と好奇心でことり本人に事実関係を質すという大胆な行動に打って出たのではないか。 仮にそんな内幕があるのであれば、佐藤さんがいきなりのように「野々村さんの還暦を祝う会」を提案してきた意味も分かるような気がしてくる。 そもそもそうした人の集まりが苦手な野々村のところへ、しかも会を開くなら「春くらいまでで予定を組もうかなと考えています」と言ってきたのには何らかの別の目的が隠されているはずだ。 野々村の誕生日は八月なのだから、「春くらいまでで」というのはいくら何でも早過ぎるのではないか。 彼女の本当の目的は、「もちろん、ことりさんもご一緒に」の一言に込められていると見るべきだろう。 現場を押さえ、説得し、改心させる。そして最後の仕上げは“雨降って地固まる”よろしく私たち夫婦の二十年を盛大にみんなで祝って何もなかったことにしてしまう。 いかにも豪腕の佐藤さんならやりそうなことだった。 そこまで想像して、考え過ぎだな……、と我に返る。 冷静に眺めるならば、この佐藤さんのメールは単なる新刊の感想を書いたものに過ぎず、「還暦を祝う会」のアイデアは長年の担当編集者であれば普通に思いつくことで、来春までというのも、本来の数え年換算で考えればむしろ自然な判断であろう。 だが、それでも野々村はメールの文面に何かしらの予兆や警告のようなものを強く感じるのだった。 ことりの“不倫疑惑”に一切関知していないはずの佐藤さんが、にもかかわらずこうした意味深長なメールを送ってきた、というその偶然自体が、明らかな予兆であり警告であるという気がするのだ。 佐藤さんはC社きってのヒットメーカーだけあって、非常に直感に優れた人物だった。長年の付き合いで野々村はそのことを十二分に知っている。だからこそ、ことりの“不倫現場”に遭遇した直後に彼女からの久々の手紙を受領して、しばらく事態を静観すると決めたのだった。 そして、今日、その佐藤さんから二通日の手紙(今回はメールだったが)が届き、そこで佐藤さんは、「女は想像以上に底知れない生き物で、自分は実は何も知らなかったんじゃないか」と最近あなたは悔い改めているのではありませんか、と見事に言い当ててきたのだ。 まさに佐藤裕子おそるべし、ではあるが、ということはことりの疑惑に関していよいよ野々村自身が本腰で取り組むべき時機にきたということなのではないか。 一通日の手紙で伝えてきたような静観方針をそろそろ変更すべし、と二通日のメールで佐藤裕子はきっと促しているのに違いない。
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