戻 る



                           


白石一文『君がいないと小説は書けない』(講談社)
あらすじ T | U | V |

あらすじ T
 主人公野々村保古(ののむらほこ)は今は作家として活躍しているが、かつては大手出版社に勤めていて、主に週刊誌や月刊誌の編集に携わってきた。
 会社を退職してから二十年近くが経ち、野々村も来年還暦を迎えようとしている。かつて仕事などで関わりがあった人々の訃報もよく耳にするようになった。去年も二人の知り合いが亡くなった。一人は出版社時代のS上司で、もう一人は離婚協議の際にお世話になったM弁護士である。
 S元上司は、七十五歳。弁護士は、六十二歳であった。S元上司は、野々村が入社してすぐに配属先された週刊誌の編集長だった。彼も、その時はまだ編集長に昇格したばかりの新米編集長であったが、その後数々のスクープをものにし、また月刊誌に移ってからも天皇の終戦直後の貴重な証言記録をすっぱ抜いて未曾有の販売部数を達成し、あれよあれよというまに社長の座へと駆け上がっていった男だった。野々村が退職したときには、会長職にあった。
 退職の挨拶に訪れると、会長は、社としては誠に残念であるが、きみの人生にとってはまたとない選択だったと僕は思っている、と彼は野々村に激励のことばをかけてくれた。
 そのS元上司のお別れの会がホテルで開かれ、野々村も出席した。二十年余りを同じ職場で過ごしたとはいえS元上司の下で働いたのはわずか三年に過ぎなかったし、アルコールにめっぽう弱い野々村は酒好きのS元上司と酒席を共にしたことはほとんどなかった。しかし、その遺影を眺めた瞬間、S元上司の死にうちひしがれている自分がいることに野々村は気づいた。それは意外なほど深いかなしみの感情を伴っていた。かつて上司と部下の関係にあっただけで、しかも、退職後はただの一度も会ったことのないS元上司の死が、なぜこれほどのかなしみを自分にもたらすのか。
 会場で、あれこれ考えてみたが確たるものは見えてこなかった。ただ、一つ思い当たることがあるとすれば、自分がS元上司という人物をいつもしっかりと見据えていたということである。そしてS元上司もまた野々村をちゃんと見据えていてくれたのではないかと思う。野々村とS元上司は、お互いを見たときにぴたりとピントの合う双眼鏡をふたりして持ち合わせていたような気がするのである。
 私たちの首には生まれながらにそれぞれ一台の双眼鏡が掛けられていて、私たちはそれを使って周囲の人々の心を覗き込むのだが、この双眼鏡は非常に使い勝手が悪く、たいがいの像はピンボケなのだけれど、ある特定の人物に対してだけは、なぜか一瞬でピントが合って、相手の奥深い部分まできれいに映し出してくれる。野々村にとってのS元上司、S元上司にとっての野々村はそういう特定の存在だったのではないか。そんなふうに思えたのである。
 他方で、一枚の写真の中に納まってしまったS元上司は、世間的にみれば人生の成功者に見えるが、彼はいまや、一介の死者にすぎず、生前彼が成し遂げたこと、成功も失敗もすべてもはやなんの意味もなさないものだという、感慨を抱いたのも確かだった。
 しかし、そのあとで野々村は、その会場でS元上司の声を確かに聞いたような気がした。S元上司が晩年に出した句集を希望の方に差し上げるとのことで、場外のホールに置かれた受付台に希望者が並び、その列に野々村も並んでいた時だった。読まなくてもいいよ、というS元上司の声が聞こえたのだ。間違いなく、それはS元上司の声であった。その声を聞いて、野々村は並んでいた列から離れた。生前なにかと自分に目をかけてくれたS元上司は、けっして一介の死者などではなく、今も確かに自分の心の中に生きていると感じ、野々村は先程の非礼を詫びたのである。
 このことは、あらためて「時間」と「記憶」についての考えを野々村に再確認させてくれることにもなった。野々村は、今では「時間」とは「距離」に過ぎないと考えるようになっていた。「現在」とは、いま私たちが立っている「場所」であり、その「場所」=「現在」の後ろに過去があり、その前に未来がある。従って過去も、現在も、未来も同時にこの世界に存在していて、「時間」は存在せず、過去と未来は現在からの距離として理解される。そう考えるとS元上司は、すでに野々村からは手の届かない遠い距離に去ってしまったが、特別な双眼鏡を使えばその姿を今でも見ることができるし、その声を聞くことができるのだ。特別な双眼鏡とは、自分にとってその存在が特別であるということだが、まさにそのS元上司は野々村にとってそうした存在であったがゆえに、彼の言葉を野々村は今でも聞くことができたということなのである。

 一方M弁護士であるが、彼は弁護士資格のほかに公認会計士と弁理士の資格も持っていて、八重洲に大きな事務所を構えるなかなかのやり手だった。野々村は、若い頃に彼と知り合い、仕事の上でもだいぶお世話になった。週刊誌記者のころは取材先から損害賠償訴訟で訴えられ被告として法廷に立つこともしばしばだったので、そんな折にM弁護士に被告代理人をお願いすることもあったし、また陳述書の作成についてアドバイスをいただくこともあった。
 そうした仕事上の付き合いとは別に、個人的には野々村は自分の離婚協議についても彼の助けを借りた。
 野々村は、現在はことりという女性を内縁の妻としているが、戸籍上の妻りくとその間に新平という一人息子がいる。今の妻ことりとは、前妻のりくと別居してから二年ほどして出会い、以来一緒に暮らして二十年になる。
 野々村が、りくと一人息子を置いて家を飛び出し、アパートで一人暮らしをはじめたのは三十八歳の時だった。給料は前妻りくの口座に振り込まれるようにしていたので、野々村は毎月十五万円を生活費として振り込んでもらうよう頼み、それが退職するまでの五年間続いた。
 しかし、ワンルームのアパートの家賃が七万円超でそれこそギリギリまで生活費を切り詰めても十五万円ではとてもやっていけず、貯金もすぐに底をついた。その時に見るに見かねて手を差し伸べてくれたのが会社の同期のA君だった。彼が同期の面々に声をかけてボーナス月に募金を募り、ある程度まとまった額を渡してくれたのである。
 A君は、幼い頃に父親をなくし、母一人子一人の母子家庭で育ち、中学時代から新聞配達を続けて新聞奨学生として大学に通った苦労人だ。会社に入って一年目の冬に同期七人全員に、彼の祖母が編んだというマフラーをプレゼントしてくれた。心根の優しい男だった。
 作家としてデビューするまでの二年ほどの間、このA君と同期たちの厚意がどれほど有り難かく身にしみたことか。そのようにして窮状を凌ぎながら、なんとか作家として自立できるようになって、野々村は会社を辞めたのだった。退職してからは野々村の方から生活費をりくの口座に振り込んできた。
 前妻のりくは写真家で、気性が激しく破天荒な女性で、臆病で小市民的な野々村にとっては到底適わない相手であった。離婚についても頑として認めず、協議にさえ応じないまますでに二十年も経っていた。
 そんなことからM弁護士になんとかしてもらいたいという思いで、離婚協議について彼に依頼したのだが、彼の力をもってしても離婚協議は前に進まなかった。りくからは医師の診断書が送られてきて、それには精神的失調により離婚協議に応ずることは不可能と記されていた。その報告を受けて野々村もこれ以上は無理だと諦めざるを得なかった。
 そのM弁護士には、三十も歳の離れた彩花さんという奥さんがいて、その奥さんとの間に一人娘夏目ちゃんを不妊治療のすえに授かっていた。親子ほども歳の離れた二人を結びつけたのは、二人の過去の悲劇だった。M弁護士は、子供の頃に母親と妹を一酸化炭素中毒で亡くしていて、そして彩花さんは火事で両親と弟を亡くしていた。
 二人は、同じ大学の教員と大学院の学生であったが、教え子として知り合ったわけではなく、駅で具合を悪くして蹲っている彼女を、たまたま終電で自宅に帰るところだったM弁護士が彼女に気づいて、介助したことで互いに面識を得た。そして、話をするうちに、過去の悲劇が二人を生涯の伴侶として結びつけることにもなった。
 そのきっかけとなったのが、野々村の小説であった。二人は野々村の小説のファンであったが、一番好きな作品が偶然にも同じだったのだ。それは、幼少期に不慮の事故で家族全員を失った女性が、さまざまな試練を経て、年下の男性との困難な恋を成就させるという物語であり、それを知って、二人は互いの心の中に仕舞い込まれていた深い悲しみを知らずのうちに話し始めていたのである。まさにそれは運命的な出会いと言ってよかった。こうしてばったり出くわして半年後、二人は正式な夫婦となった。
 離婚協議は不調に終わったが、M弁護士の勧めで、野々村は遺言書を作っていた。作家となってから発表した作品の著作権については、ことりと生活してからのものであるから、すべてことりにその相続権があるので、それをはっきり遺言書に書いておいた方がいい、とM弁護士から言われたのだ。ことりもそれならそうして欲しい、と言うので、野々村はそれに従った。
 しかし、著作権と言ったって、所詮たいしたものにはならないことは分かりきっていた。十数年前に亡くなった野々村の父宗一郎も作家で、海洋時代小説の書き手だったが、今ではすっかり忘れ去られてしまっている。比較的時間に耐えられるといわれる歴史小説にしてそのような状況であるから、ましてや自分のような現代小説のなどは数年もすれば誰にも顧みられなくなるに決まっている。M弁護士には、野々村さんの作品なら今後も長く残っていくと言われたが、それはとんでもない買いかぶりですよ、と野々村は言うしかなかった。
 その遺言書は、今でもM弁護士の事務所の金庫に保管されているはずだが、執行者としてのM弁護士が亡くなってしまったのだから、そのうちあらためて作り直すしかないのであろう。

 さて、野々村が東京を離れる決心をしたのは、やはり仕事に行き詰まったのが一番の理由だった。八ヶ月の歳月を費やして書き上げた千枚の長編が期待とは裏腹になんの反響を呼ぶこともなく数多の本の中に埋没してしまったのだ。
 自分は一体なんのために小説を書いているのか、という根源的な問を突き付けられたような感じだった。
 野々村は、四十歳で作家としてのデビューを果たしたが、その頃はパニック発作がひどかった時で、発病前に書き上げていた長編小説で世に出たもののあらたな作品にとりかかるのは到底無理な状況だった。デビュー後に発表した作品はどれもデビュー作以前の若い頃に書きためておいた長編ばかりであった。パニック発作がなんとかおさまり、本当の意味での新作に取り掛かることができたのは四年後、七作目からだった。その七作目の長編がM弁護士と彩花さんが一番好きだと言ってくれた女性を主人公とする作品であった(註:『私という運命について』2005年4月25日刊。2014年3月WOWOWによりテレビドラマ化)。
 作家になれた喜びというものは野々村の場合、それほど大きなものではなかった。作家になったときに最初に感じたのは、やっとなれた、という一語につきた。そしてプロとなったからには父親にそれほどひけを取らぬ書き手にならなくては、という思いはあったが、なにがなんでもそうたやすくこの道を諦めるわけにはいかないという執着心のようなものはなかった。それゆえ一度書くことに疑問を持ち始めると、途中でそれを押しとどめる橋頭堡がなかなかみつからなかった。どんどん小説を書くことにうんざりしていったのだ。

 できるだけ小説を書かないで済む早い方法は、蓄えがほとんどない今の状態では、できるだけ生活を切り詰めるしかない。自分とことりだけの生活なら何年かは文庫本の印税などで持ちこたえることができるかもしれないが、前妻りくと息子への仕送りがあるので、それもなかなか難しい。
 貯金ができなかったさまざまな理由の第一は引越しだ。ことりはとにかく引越しが好きで、野々村は彼女と暮らしはじめてから、およそ一年に一度の割合で転居を繰り返しきた。家出してから、これまで彼が住んだ家は現在のマンションで二十二カ所目だ。
 ことりが好きなのは引越しではなく、引越し作業の方だった。彼女にすれば転居先はどこだっていいのである。とにかく荷造りが好きなのである。彼女のパッキング技術は際だっていた。そしてそれ以上に荷解きが好きなのだった。
 家に四匹の猫がいて、猫関連のものだけでもかなりの量の荷物となるので、二人暮らしとはいえ、荷物の量は馬鹿にならない。ことりは毎回百個以上の段ボール箱を新居で嬉しそうに開封する。一緒になって数年は冗談半分に彼女への誕生日プレゼントが「引越し」だったのだ。
 今では、引越しが年中行事のようになり、野々村も半年も同じところに住んでいると、お尻がムズムズしてくるような感覚を覚えるようになっていた。なんだか引越しをすると心が落ち着くような気がするのだ。どうしてだろうと、考えてみると、もしかしたら自分が子供の頃多動児だったことと関係があるのかもしれないという気がしていた。子供の頃も、椅子にずっと座わっていることができず、授業中にも教室の中を動き回っていた。長時間椅子に釘付けにさせられた時、お尻がムズムズしてくるようなあの感じは引越しの時と似ている。暮らす場所が変わらないということは巨大な椅子にずっと座らされているようなものなのだ。
 転居を重ねているうちに、野々村はどこにも定住したくないと願うようになった。りくと結婚し、新平が生まれ、東京の外れに小さな戸建ての住宅を買い、人並みの暮らしを積み上げているあいだも、自分は一体何をやっているのだろうと自らに問いかける日々だった。こんな当たり前の生活が長続きするはずがない、という漠然たる不安が払拭されることはなかった。
 それは恐らくりくの方も同様だったと思う。
 あれは息子が小学校低学年の頃だったろうか。具体的にいつだったか、一体どういう状況だったか記憶にないのだが、野々村は息子に向かって、「お前なんて生まれて来なければよかったんだ」と口にしたことがある。もちろん、自分は一度だって息子のことをそんなふうに思ったことはなかったし、そのときも本心からそう思ってなどいなかった。
 だが、野々村はさながらテレビドラマのどうにもならない父親のようにはっきりと息子にそう言い放ったのだ。それは、そばにいた妻のりくに聞かせるためだった。彼女を痛めつけたいがために、野々村は彼女が誰よりも愛する人間を傷つけようと考え、自らの憎悪のそれほどまでの深さを妻に対して知らしめようとしたのである。
 あの瞬間の息子の表情はいまでも忘れられない。驚くでもなく、憤るでもなく、彼はとても申し訳なさそうに口許を歪めたのだった。
 彼はあのことを憶えているのだろうか。たとえ忘れていたとしても、あの日、あの瞬間の彼はいまも遠くに存在していて、あのいたたまれないような表情を浮かべつづけているのだ。
 何万回謝っても取り返しのつかないことをしたと思っている。

 その結果りくとは激しくいがみあったが、静かな日常をともにできる相手であっても、自分は結婚生活や家庭を円満に維持していくことはできなかっただろうと野々村は思う。そのりくや新平と暮らした時間をゆうに上回る歳月をことりと過ごしてきたが、こんなに長く関係が続いている理由は、自分とことりの関係が家族になりきれていないからだと野々村は考えている。
 そもそも野々村にとって家族や家庭というものは、恥ずべき疎ましいものでしかなかった。かつて前妻りくと新平を連れて外出したりした時、野々村はそうした姿を人前でさらすことが、まるで自分の裸体を目の当たりにし、他人に見せつけているかのごとき羞恥心を覚えるようになったのだ。
 ことりとの間に子供がいないことが大きい。ことりと同棲するようになったのは彼女が二十六歳の時だったが、彼女もすでに三十を越え、子供を作りたいと言い出したのだ。でも、野々村はどうしても子供は欲しくなかった。子供を設けるならばまずりくとの離婚を進める必要があるという問題があった。その離婚を進めようとすればおそらく延々と泥仕合が続くことだろう。
 いや、離婚うんぬんよりもなによりも、野々村はことりとの間に子供を作ってしまって家族になってしまうのが嫌だった。そうなってしまえば、また自分はその場から逃げ出してしまうに違いなかった。野々村は、家族という薄気味悪い厄介なものを抱え込むのはもうこりごりだったのだ。
 野々村は、自分は人間が苦手で、それは生来の気質だと思っていた。もちろん小説家をやっているくらいだから人間を観察するのは嫌いではない。だが、生身の人間と付き合うのは非常に苦痛である。特定の人物と深い関わりを持つことも苦手であるが、やってやれないことはない。最も不得意なのはそこそこの間柄の人と長期間にわたって継続的に付き合うことだ。
 三十代の終わりにパニック障害となり、発作が起きなくなったあとも不眠がずっと継続していた。一年のうち三カ月くらいは必ず体調を崩した。その体調変化は、年によって@鬱状態、A胃の不調、B呼吸困難の三つのうちのどれかが発現するという感じで、この十年でみれば、@が五割、Aが三割、Bが二割という頻度だった。
 その点で、しょっちゅう引越しをするのは、煩わしい人間関係から遠ざかることができ、特に東京から距離のある地方への引越しは既存の人間関係が薄まることで、精神面での負担軽減につながる利点があった。
 ことりは野々村のような人間嫌いではなかったが、彼女も友達らしい友達もほとんどいなくて、身内のことも好きではなかった。彼女には兄が一人と母親がいて、兄には娘が一人いたが、この姪に対してもほとんど関心を払うことはなかった。彼女の場合は、すべてにおいて感情が希薄なのだった。一緒に生活していても、こちらが感情的に満たされることはない。だが、その貴重な対価として、感情的に混乱させられたり、傷つけられたりすることもないのだ。野々村がことりとこれだけ長く一緒にいられたのは、彼女のそうした薄さが野々村にとって総じて居心地が良いからだろうと思っている。
 
 ゴールデンウィーク明けの五月八日に、ことりの母親である「本多のおかあさん」が大腿骨骨折で病院に運ばれた。家の階段から足を踏み外して転がり落ちたようだ。ことりの七十四歳になる母本多常子は一人暮らしで、墨田区の菊川で「文具のホンダ」を営んでいた。倒れたのが連休明けだったので、彼女はいのち拾いをした。九時開店の店のシャッターが下りたままなのを不審に思った隣人で常子と親しかった金子薬局の敦子さんが店の裏にある呼び鈴を鳴らしたが、なんの反応もなかったため彼女は慌ててことりの兄亮輔に電話をした。駆けつけた亮輔が合鍵を使って中に入り、階段の下で気絶している母親を見つけたのだった。
 亮輔から電話をもらってことりもすぐ病院に駆けつけた。野々村も一緒に行きたかったが、家に四匹の猫がいてなかなか二人一緒に泊まりの外出は難しく、今回一人で行くことになった。
 結局、ことりは実家から病院に見舞いに通い、見舞い以外は実家の掃除と片付けに精を出し、五月十二日に帰ってきた。ことりを駅まで車で迎えに行き、そのまま港のそばにある行きつけの寿司屋に寄った。ことりも兄の亮輔も母親のことを「ツネちゃん」と呼んでいる。しかし、母親と二人は仲が良いわけではなく、とくにことりは母親のことは好きではなかった。身内のなかで母親と一番親しくしていたのは兄嫁の奈々子さんで、彼女が普段からなにかと義母の面倒を看てくれていた。
 一人娘の亜香里ちゃんは昼間は学校なので、その間は奈々子さんが見舞いに来てくれるみたいだけど、と大きな湯呑みになみなみと注がれたお茶を飲みながらことりは言った。それにしたって、おかあさん、今までみたいに一人暮らしできるのかなあ、と野々村はことりの横顔を見ながら言う。どうかなあ、とことりは言う。その整った顔を見ながら、この人は顔だけはいつまでたっても美しいと野々村はあらためて思った。彼女も今年で四十四歳になるのに、とてもそんな風に見えなかった。若い頃は、それこそハッとするほどの美人だったのだ。
 ツネちゃんは文具店をまだ続けたいようだけど、足の方も治っても今までのようには動けない可能性もあり、一人暮らしで店を続けるのは難しいと兄の亮輔も考えているようで、兄はこの際、菊川の実家に戻るつもりでいるらしい、とことりは言う。家族四人で、実家に住むとなると、実家を大々的にリフォームする必要があるが、奈々子さんの父親が千葉で工務店をやっているので、そうと決まれば彼女の実家が力を貸してくれる手筈なのだろう。
 おかあさんはなんと言ってるの、と野々村は訊いたが、あんまり乗り気じゃないみたい。あんな人でも、自分が他人と暮らせる人間じゃないっていう自覚くらいはあるのよね、とことりは突き放すように言った。
 
 結局、常子と兄家族との同居と実家の建て替えの話はとんとん拍子で進み、六月の初めには賃貸マンションに荷物は運び込まれ母親も移り住んだ。文具店はマンションでから百メートルほどのところにある仮説店舗で再開され、常子はマンションからそこに通うことになった。
 週二回は、まだリハビリに通わなければならないが、営業日には毎日奈々子さんが手伝いにやってきてくれていた。ことりはこれ以上母親に関わらなくてもいいと奈々子さんに感謝しつつ胸をなでおろしていた。
 ところが思わぬ事態が起こった。常子が、今度は脳梗塞を起こして病室に運ばれたのだ。幸い脳梗塞は軽症で一週間もすれば退院できる見通しで、入院当日に東京に向かったことりも二日間で戻ってきた。
 保古ちゃん、ちょっと面倒なことになっちゃった、と東京から戻ってきたその日にことりは野々村に言った。ことりは野々村のことを、保古ちゃん、と呼んでいる。
 ことりの話しでは、常子が退院してから新居が完成するまでの半年間、常子を独り暮らしさせるのは心配だと亮輔が言い出したというのだ。亮輔は、自分が母親のマンションでその間暮らしてもいいが、実際問題彼は帰りも遅いし、出張で家を空けることも多いので、同居してもあんまり意味がない。かといって奈々子さんと亜香里が一緒というわけにもいかない。亜香里はまだ学校に通っているのだ。というわけで、半年間は、ことりが母親のそばで面倒を見るしかない、ということになって野々村はその間地方での独り暮らしをしなければならなくなった。
 
 常子が退院する前日、野々村はことりと二人で上京し、常子を病院に見舞った。常子は、家の改築が終わるまでの間、ことりと同居する件についてとても恐縮していて、野々村さん、本当にごめんなさいね、と繰り返し頭を下げられた。
 一時間ほどで病室をあとにした。野々村は、東京に来るのは三月以来のことだった。ビルの林立する東京のこの梅雨の季節の蒸し暑さはやはり地方都市とは違う。田舎では高い建物は駅周辺にしかなく、年中海山から風が隙間だらけの街並みを通り抜けていくので、こんな不快な暑さは感じない。それに昼日中でも人影はまばらだし、店で人が行列することもほとんどない。コンビニにはどこも大きな駐車場がついていて、住宅街の家々にも車三台が入るほどの駐車場があり、車で一時間も行けば、緑豊かな里山や美しい日本海が広がる海岸に出ることができる。
 しかし、東京暮らしに慣れた者にとってはやはり田舎暮らしはなにか物足りないのだ。なにが物足りなのかと問われれば答えに窮してしまうが、確かに物足りない思いがするのである。あれこれ考えて思いついたのは、自分が新しもの好きだということだった。野々村は、保古という名前のわりに新しもの好きだった。自分の息子に新平という名前をつけたのも、そんな自分の新しもの好きに由来する。そして、野々村にとって「都会」こそが「新しさ」の象徴であった。だから彼は子供の頃から大きくなったら東京に出ると決めていた。そして自分は将来は、ジャーナリストになり、それから作家になって、最後に政治家を目指そうと考えていた。そしてジャーナリストになるためには、とにかく東京の一流大学に入らなければならないと考えていたのである。
 野々村は、それから菊川の実家に行き、部屋の片付けを手伝った。マンションは、2DKでそれなりの広さはあったが、運び込まれた荷物の山で部屋は埋まっていた。四畳半の和室の荷物を整理して、ことりが寝られる空間をなんとか作ったが、これから母親とここで暮らすのはことりにとっても相当な苦労であろうと思われた。
 ことりは、ツネちゃんには母親らしいことはなにもしてもらえなかった、と言っていた。母親から抱きしめられた記憶もないらしい。最初会ったころには常子がそんな女性には見えなかったが、なんどか会ううちにことりの言うのが分かってきたような気がする。とにかく、常子は、人の気持ちを汲むことが非常に不得手な人間なのだ。子供がなにを望んでいるのかを察知する能力に著しく欠けていて、そのうえそうした能力が欠如していることを見破られまいと絶えず緊張しているので、ますます相手の心が読めなくなってしまうのだ。
 とにかく彼女の注意はいつも拡散してしまう。だから彼女は人の話を長く聞き続けることができず、不意に別の話をして人を驚かすこともたびたびであった。ことりと常子の関係が薄いのもそうした常子の性格にも原因があったのかもしれない。
 ことりと知り合ったのはまるきりの偶然だった。彼女は同じマンションの住人で、たまにエレベーターなどすれ違うことはあった。なにしろモデルのような美人で目立つ存在でもあったので、野々村も気になってはいた。
 その彼女と話すきっかけはマンションのゴミ置き場でのことだった。たまたまその日は日曜日で、夕方ゴミを出しにゴミ置き場に行くと、そこに先客がいて、なにやら一生懸命ゴミを片付けているのだった。見ると足元に積み上げられたピザの空箱をゴム手袋をした手でゴミ袋に詰めこんでいるのだった。野々村が、ゴミ置き場の扉を開けて、どうしたんですか、と声をかけると、振り返って彼を見て、彼女はいくらなんでもこれじゃあんまりだから、と言った。
 野々村は、自分のゴミ袋を置き、あとは僕がやっておきますよ、と言うと、一瞬彼女は怪訝そうな表情をしたが、じゃあ二人でさっさと片付けちゃいましょう、と笑顔になって言ったのだ。片付けは十五分ほどで終わった。パンパンになったゴミ袋を隅に置いて、二人はゴミ置き場を出た。
 出てすぐ野々村は自己紹介をした。Aという出版社に勤めていると言ったのはもしかして彼女がモデルでもしているのか、と思ったからでもあった。彼女は、本多ことりといいます、と言った。野々村はすかさず、よかったら食事にでもいきませんか、中野の駅前にやたらに美味しい回転寿司屋ができたんです、と誘った。この時は、野々村はことりが回転寿司が大好きだということはもちろん知らなかった。

 初めて言葉を交わした女性を食事に誘うとはかなり大胆な行為であるが、実は野々村はこのマンションに転居してから何度か顔を合わすうちにぜひ彼女と付き合いたいと思うようになっていたのだ。
 それというのも、以前不眠症がひどくなりはじめていた頃のことだが、同僚のM氏と何気ない会話を交わしている時にM氏が、朝起きた時に隣りで寝ている妻の顔を見て、ああきれいだな、と思えたら、男としてこれほどの幸せはないんじゃないか、そう言ったのだ。その言葉が頭のどこかにあって、なかなか寝付かれない夜に不意に浮かんだのが彼女だったのである。あの人と一緒のベッドで寝ることができれば、きっとぐっすり眠れるに違いない、そんな気がしていたから、野々村はそのチャンスを逃したくなかった。なんとしても彼女と付き合いたかったのだ。
 さすがに、いきなり食事に誘われて彼女は微かに逡巡の色をみせたが、ちょっとだけ待ってもらっていいですか、一度部屋に戻って手を洗いたいし、バッグも取ってきたいので、と言った。野々村は、心の中で快哉を叫んだ。じゃあ、エントランスのところで待っています。急がなくていいですから、と言い、しばらく待っていたが、彼女はなかなか現れなかった。
 野々村は、もしかしたら彼氏と同棲していて、男と一緒に降りてくるのではないかなどと気を揉んだりしたが、二十分ほどして彼女は現れた。もちろん一人だった。エレベーターから降りてくるその姿は、はっとするほどの美しさだった。
 中野駅前の回転寿司屋は混でいたが、並ぶほどではなく、すぐテーブル席につくことができた。彼女は、アルコールはまったく駄目だということで、野々村は生ビール、彼女はお茶にした。
 「ことり」という名前は、お父さんが、小鳥が大好きだったので娘が生まれたら、ことりにしようと決めていたんです、と彼女は言った。それから、仕事は近くの保育園で保育士をしていると言った。野々村が冗談半分で、てっきりモデルかレースクイーンかなと思いましたよ、と言うと、それ、よく言われます、と笑った。保育士をしているので、子供好きなのかと思ったが、意外にも彼女は、子供って案外苦手かも、とも言った。聞けば、短大を出たあと彼女は銀行に就職したが、全然面白くなくてすぐに辞めて、そのあと保育の専門学校に二年通って保育士の資格を取り、昨年卒業して今の保育園に勤めはじめたという。
 しばらく彼女の保育園での話を聞いたあと、彼女の方から、A社ではどんな雑誌を作っていたんですか、と訊いてきた。野々村は、若い女性には馴染み薄いかもしれませんが、と言って月刊A誌を挙げると、彼女は、それなら私もA賞が掲載される号は毎回買っています、と言った。亡くなった父親がA誌の愛読者だったという。
 野々村は、最近のA賞で面白かったのって何ですか、と訊くと、彼女は、三年ほど前の受賞作を口にした。それはやや哲学的で一般受けはしなかったが、文学としての完成はここ十数年の受賞作でもっとも高い評価を受けている作品だった。
 小説はよく読むんですか、と訊くと、ちょぴちょぴですかね、とちょっと恥ずかしそうに言う。野々村は、実は僕も小説を書いているんです、といってもまだ本は一冊も出していないんですけど、と言うと、彼女は、そうなんですか、と身を乗り出すようにして言った。
 それから、野々村は、二年前に妻子を置いて家を出たことやパニック障害を発症して会社を休んだこと、今年の初めに療養先の博多から戻ってきたばかりであることを彼女に打ち明けた。
 面と向かってからまだ二時間も経っていなかったが、この人しかいないという確信はますます深まっていった。自分が持っている双眼鏡のレンズの焦点は彼女にピタリと合っている。しかし彼女の方はどうだろうか。突然、野々村さんってお幾つなんですか、と訊かれた。一人息子が中学生だと話したたからだろうか。四十歳です、と言うと、彼女は目を見開き、三十くらいかと思ってました、と言うので、それ、よく言われます、と野々村は言って笑った。
 それから野々村は、男の場合、若く見られることで、職務上どれほど損をするかについて、多少の脚色を交えて語った。彼女は、そんな話でも興味津々の様子で聞いてくれるのが彼には嬉しかった。
 
 回転寿司屋からの帰りは、マンションまで一緒に歩いた。食事をして少し打ち解けたので、気詰まりな感じはなかった。
 野々村さんは、どんな小説を書いているんですか、とことりが聞いてくる。現代小説で、中身はA賞とN賞の中間くらいのだと思っています、と野々村は答えた。ことりが分かったような分からなかったような顔をする。
 読んでみますか、と野々村は訊いた。いいんですか、とことりが驚いたような声になる。素直に嬉しそうに見えた。
 きっと感動しますよ、と言うと、自信あるんですね、とことりが言う。そりゃあそうですよ、命がけで書いていますから、と野々村は言った。
 マンションに戻り、エントランスにことりを待たせて、野々村は部屋に原稿を取り行き、戻って来て、ことりにそれを渡した。数日前に完成したばかりの長編小説だ。四百字詰め原稿用紙で千二百枚、やがてデビュー作となる作品だった。
 すごい量ですね、とことりが言い、大長編なので時間がある時でいいですよ。でも感想は聞かせてください。今からぼくの携帯番号を言いますんで、と野々村は携帯を取り出し、アドレス帳を開く。彼女もバッグから携帯を取り出し、野々村の言う番号を登録していく。登録が終わると、ちょっと鳴らしますね、とことりは言い発信ボタンを押した。野々村の携帯が鳴ると、それが私の番号です、とことりが言った。
 ことりから電話がかかってきたのは火曜日の夕方だった。「本多ことり」という着信表示を見て、野々村はもうこれで大丈夫だと直感した。電話に出ると、彼女はいきなり、小説凄かったです。野々村さん、天才だと思います、と言った。野々村は、その言葉を聞いて、まさに天にも昇るような心地だった。
 それだけをどうしても伝えたくて、と言う彼女に、野々村は、これから食事でもどうですか、と誘ってみると、逆に彼女の方から今回は私が御馳走したいです、と言われ、中野の駅前に美味しい焼き肉屋さんがあるので、そこでどうですか、ということで、今回は彼女の奢りで焼き肉会食となった。
 食事をしながら話を聞くと、あの長編を彼女は二日間で二回も読んだというので、野々村は驚いた。日曜日の夜に原稿を預かってからすぐ読み始めて、徹夜で一回目を読み、月曜日は仕事に行き、その夜はよく眠って、今日火曜日は代休をとって朝から二回目を読み通してから、夕方に電話をくれたのだった。
 あんな長い小説を仕事まで休んで、それも二回も読んでくれて、僕の方こそなんとお礼を言っていいのかわかりません、と野々村は心から感謝を伝えた。ことりからはそのあと、この小説はいつ出版されるのですか、と訊かれたが、まだ決まっていないが、伝手を頼ってどこかの出版社に持ち込むことになるでしょう、と野々村は言った。ことりは、野々村さんの会社からは出してもらえないんですか、と訊いてきたが、原稿をもらう人間が自分で原稿を書くなんてもってのほかだと会社ではそれは禁止されているのです、と言った。自分としては、どのみち会社を辞めて作家として独立してやっていくつもりなので、とその決意のほどを打ち明けた。そして父親も作家で、いずれ自分も作家になると子供の頃から思ってきたとも言った。
 お父様も作家さんなんですか、なんというお名前ですか、とことりが訊く。野々村宗一郎、と言うと、ことりは、あの時代小説の野々村宗一郎さんですか、死んだ父親が大ファンだったんです、と言った。
 そして作品を読んでくれただけでなく、パニック障害についても調べてくれたらしくて、小説の話が一段落すると、ことりはバッグからクリアホルダーに入った書類を出して、野々村に見せた。その書類には、「パニック障害を自分の力で治す10の方法」という表題がついていた。昨日図書館によってちょっと調べてみたら、その記事が載っている雑誌があったので、コピーしてみました、とことりは言った。
 読んでみると、なんだか笑える工夫などもあって、案外役に立つこともあるかなと思ったんです、とことりは言い、その中に書いてある「輪ゴムを使う方法」って試したことありますか、と訊かれた。野々村は、知ってはいますが、まだやったことはないですね、と答える。それは、発作の不安が昂じてきたときに、あらかじめ手首に巻いておいた輪ゴムを引っ張って、そちらに気を逸らすという方法だった。私も、今度不安になった時に、ぜひ試してみたいと思いました、とことりは言い、その書類に熱心に目を通している野々村に、でも無理して読まないでくださいね、とも言った。
 野々村は、その書類を自分のリュックにしまい、それからおもむろに、今度の土日に温泉にでも一緒にいきませんか、と誘った。いきなりの泊まりの誘いに彼女も困惑の表情を見せた。しかし、野々村は、これから自分が生きていくためにはこの人が不可欠だと確信していたので、何度撥ねつけられても、絶対に彼女を獲得しなければならない、と腹を括っていたから恐いものなどなかった。これから命がけで書くためには、いのちがけでこの人を手にいれなくては、そう思っていた。
 週末は園のイベントの準備があるから無理なんです。でも、温泉のことはちょっと考えておきます、と言った。
 結局、ことりとは次の日も、その次の日も、さらにその次の日も一緒に食事をし、そして土曜日の晩、野々村ははじめてことりの部屋で眠ったのである。

 部屋の片付けが終わり、ことりともんじゃの店に行った。もんじゃは、東京生まれ東京育ちのことりに連れられて食べるようになったのだが、野々村は今では粉ものの食べものの中ではもんじゃが一番だと思っている。とにかく、万事几帳面で手先が器用なことりの焼くもんじゃはこれまでに食べたことがないような美味しさだった。
 もんじゃの店を出て、一緒に部屋に戻り、ことりに見送られてマンションを出た。ことりが三階の窓から手を振って声をかけてくる。じゃあ頑張って、猫たちのことよろしくね、と彼女は大声を出して言った。野々村は両手でOKサインを送る。
 野々村は通りに出てタクシーを拾い、東京駅に向かった。九時二十分の新幹線に乗り込む。グリーン車はがらがらだった。それだけで緊張がずいぶんとほぐれた。野々村は、作家となってからは担当編集者と取材旅行をしたことはない。担当編集者と一緒に行けば、電車の手配も、旅費もなにもかも出版社が面倒みてくれるので、それは有難いのだが、野々村はことり以外の人間と旅行するのはどうしても駄目だった。隣の席を眺め、いまさらながらことりの有り難みを感じた。まだ、別れて一時間足らずなのに身体の一部が欠けたような空虚さがある。
 こんな有様でこれから半年、果たして一人でやっていくことができるのだろうか。さっそく先が思いやられてきた。
 パニック障害を発症したあとしばらく野々村は乗り物に乗れなかった。とくに駄目だったのが、新幹線や特急列車、それに地下鉄だった。もし発作が起こった時に、そこから避難できないかもしれないという緊急避難不可という認識が、「予期不安」を助長して発作の引き金を引いてしまうのである。だから比較的乗降間隔の短いバスや電車は割に早く乗れるようになったが、飛行機に至っては、乗れるまで数年かかったし、今でもよほどのことがない限り、空路を使うことはない。
 あれから、二十年近くの年月が過ぎ、今はこうして平静な心地で、特急列車の車窓から夜陰に目を凝らしている。自分ながらよく立ち直ったものだ、と野々村は思う。
 ことりと暮らすようになってパニック発作はほとんどでなくなった。つきあい出したばかりの頃に二人で渋谷の映画館に出掛け、スターウォーズの新作を観た時に、発作寸前になったこともあったが、思えば発作に襲われるかもという怖い思いをしたのは、それが最後だった。あの時は、ことりが隣りに座っていた野々村の異変に気がついて、無言で彼の手をずっと強く握ってくれていたことで彼は救われのだった。
 そのことりがこれから半年も、そばにいないのだ。そんな長い間離れ離れになったことはないし、ことりのいない部屋で三日続けて眠った経験でさえなかった。
 ツネちゃんが元気になったら、しょっちゅう帰ってくるから心配しなくて大丈夫だよ、と言ってくれたが、そうはいっても特急で片道三時間近くかかるので、日帰りも難しく、そう頻繁に帰ってこられるというわけにもいかないのだ。
 四匹の猫がいるため野々村がしばしば上京するのも無理だった。ことりはそんな事情に細かく気を配ることができない人だった。その点では、母親の常子と似ていたが、ことりの場合は、常子と違ってこの人と照準を定めた存在には、迷うことなく徹底的に尽くすという性向があった。その面では彼女は頼りがいのある人だった。
 私は野々村さんに全部だから、と付き合い始めた頃にことりはよく言っていた。つまり、持ち点のすべてを野々村に賭けているということらしい。その意味では、彼女は、たかが半年くらい離れ離れになってもさほどの痛痒も感じないのだろう。そんな細かいことはどうでもいいのだ。なにせ、持ち点すべてを野々村にすでに賭けてしまっているのだから。
 それは、野々村にとっては夫冥利につきるといえばそうなのだが、その分の気苦労も小さくはない。つまり、その肝心の夫が死んでしまったらどうなるか、ということだ。野々村がことりに遺せるのは著作物と僅かな貯金だけだ。そうなれば東京から離れた日本海に面する街で、四匹の猫をかかえたことりがたちまち生活に行き詰まってしまうことは火を見るよりも明らかだった。
 そう考えると、常子や亮輔たちとの繋がりを深くしておくのは大切なことだと野々村はつくづく思う。今回、常子の面倒を見るためにことりが東京に戻ったのは、常子のためだけでなく、ことりにとっても必要なことだったのである。

 特急列車の座席の背もたれに体を預けながら野々村は、あらためて六十年あまりの人生を振り返ってみて、自分は何事もなし得なかったという思いを痛感していた。自分がなし得たものといえばことりとの関わりだけといってよいだろう。前妻りくとの間に息子新平を設けたが、その息子にももう二十年近くは会ってないし、なにをしているのかさえわからない。 
 時々、夢に息子が出てくるが、その息子は成長障害を起こしていて、その原因は父親に捨てられたストレスのせいに違いない、といつも自分は夢の中で途方にくれていたのである。目が覚めて胸をなで下ろすのだが、それから数日間は新平のことが気がかりで落ち着かない日々を過ごす。
 その話を母にしたところ、母がりくに手紙を書いて新平の近影を送ってくれないかと頼んでくれた。しばらくすると母のところへりくから手紙が送られてきた。しかし、その手紙に入っていたのは新平の後ろ姿の写った写真一枚だけで、りくからの手紙も添えられていなかったという。それでも、それ以降野々村は不安にかられるような夢をみることはなくなった。
 母から送られてきた写真は写真立てに入れてずっと机に飾ってきたが、新平が大学卒業の年に片づけた。彼は、今年で三十二歳になった。新平は今はなにをしているのだろう。りくや新平のことを考えると、自らの人生が取り返しがつかないものになってしまった事実を野々村は認めざるをえない。還暦を間近に胸に去来するものは虚しさばかりである。
 野々村は、書くことだけは青春時代から諦めずにずっとやってきた。しかし、自分が書いてきた作品などどれもとるにたらないものばかりで、なんの価値もないといってよい代物だ。自分の書いたものなど自分が死ねば一瞬に世界から消え失せてしまうに違いない。自分がやってきたことなどそれこそ、くっだらない、の一語につきる。
 ただ野々村は書く以外にできることはなかった。そんななかで、自分の人生に特筆すべきことを探すとすれば、やはりことりと出会い、すでに二十年近くを二人で暮らし、おそらくは自分が死ぬ時も彼女がそばにいてくれるという一事であろう。それにしたって、他の人にとってはどうでもいい話ではあるが。
 
 野々村は、今は還暦近くなって自分というものをようやく客観視できるようになって、自分がこれまで担いできた巨大な荷物を思いがけなくも、両肩から下ろせるようになった気がしている。
 自分には今、不安というものがない。いや、客観的には不安がないどころか、肉体的にも、また仕事上でも、そして経済的にも不安だらけではあるが、自分の心には一切の不安というものがなかった。その理由は簡単で、肉体的にしろ、経済的にしろ、万事休すとなったら死んでしまえばいい、と腹を括っているからだ。
 その覚悟だけは揺るぎないものであった。五十を過ぎたころから次第に醸成され、やがてしっかりと固まったきちんと手順を踏んだ覚悟だと感じている。突然の死はいまでも恐ろしいが、自ら死を選ぶという一点において自分には一片の恐怖もない。
 それは、パニック障害を発症したことと関係があるのかもしれないが、パニック発作は、自己の消滅という人間の根源的な恐怖から生じてくる。発作を防ぐには、自分はいつ死んでもいいと自らに言い聞かせておかなくてはならない。そうした訓練を重ねているうちに、受け身の死は恐ろしいが、こちらから先手を打っての死はちっとも恐ろしくはないことに彼は気づいたのだ。
 先手を打っての死はなにも自殺を意味しているわけではない。わざわざ自殺をしなくても人間は、死ぬと決意すればちゃんと死ぬことができるのだ。
 人生はいずれ死をもって終止符を打つ。だとすれば人間にはおそらく死ぬに最も適した時期というものがあるのだろう。寿命ということばは、字義どおりに解釈すれば、人それぞれが自らの生命をもっと輝かせた状態で現世と決別することを指し示していることは明らかだ。「寿命」とは「生き恥」の対義語なのである。
 野々村は、肉体的にしろ経済的にしろ、もうこれ以上生きられないと判断した時点――そこが人生に終止符を打つべき適切な死に時だと考える。その時は、「死のう」と覚悟を固めるつもりなのだ。
 その覚悟一つさえ持てれば、ただ今のありとあらゆる不安が雲散霧消する。不安というものの正体が単なる迷妄にすぎないことが自覚できるようになる。
 つまるところ、人間は「死にたい」と願えば死ぬのだ。その最もわかりやすいのが、自殺であるが、自殺以外の死のなかにも意識するしないにかかわらず、死を望んだ結果としての死が数多く含まれる。例えば、がん患者の中には、がん告知を受けたときに、心の奥底で、「よかった」と感ずる患者が十五〜二十パーセントいるといわれており、その他多くの難病や精神病、各種の事故のかなにもおそらくたくさんの「死にたい」という願望が潜在している可能性は高い。どういう形になるかはわからなかったとしても、私たちは死を決意した瞬間に、死への助走路に確実な一歩を踏み入れることができるのだ。
 他方で、死を決意することがなければ、私たちに訪れるのはたとえ何歳になっても「突然の死」である。私たちが恐れる”死の恐怖“とはこの「突然の死」によってもたらされるもののことで、「決意した死」の場合は、死ぬ瞬間の苦痛はあっても、死そのものに対する恐怖心はほとんど生じない。
 死は確実に存在している。私たちは、自我を持つようになると、そこからははっきりと自分の死が見えるようになる。それがどんな形で訪れるかはわからないが、確実に自分にそれがやってくることは分かっているのだ。そして、私たちは私たちの前方に存在する自分の死に向かって一歩一歩近づいていくのである。その事実からしても、この世界には時間はなく距離だけがあるという考えがいかにリアルであるかが分かるはすだ。
 人間は、自らの意志で死ぬことができる唯一の動物だ。そして、死のうと思って死ねるのであれば、生まれようと思って生まれることができるのではないか。つまりは死ねる能力と生まれ(られ)る能力はコインの表裏のように一体のものであるような気がするのである。自殺できるということは誕生できるということでもある、と野々村は考えていた。
 だから、自殺が私たちの意志によってなされるように、誕生もまた私たちの意志によってなされるのである。人間は、生まれようとして生まれてくるのである。
 さまざまな宗教では自殺を禁じているが、自殺を認めてしまうと、人間が自由意志で生まれてくると認めざるを得なくなってしまうのをおそらく宗教は、大いに危惧しているのである。
 
 仮に死を決意したとして、自分が今可能だと思っているのは食を絶つということだ。野々村は若い時分から食事にあまり興味がなかった。小学生の頃、宇宙食がテレビで初めて紹介され、歯ミガキのようなチューブを吸うだけで一日の栄養分が摂取できると知ったとき、早くそういう宇宙食が世間一般に流通するようになって欲しいと思ったものだ。
 食べることの大切なことに気付いたのは、パニック障害を発症してからだった。パニック発作を起こす前は、食欲不振と不眠が一年以上も続いていた。
 発作を抑えるためには、まずは生活を立て直すことが必要で、その第一が睡眠と食事を改善することであった。博多の実家で半年あまり療養している間、はじめの二カ月ほどはメンタルクリニックに通っていたが、医者から、クスリをしっかり飲みながらバンバン働いている患者さんが世の中にはたくさんいるんですから、と言われ、逆にクスリにばかり頼っていられないと、目が覚めたような心地になった。
 不眠は、今でもことりがそばにいてくれないとなかなか寝付けないのだが、食事については短時日で正常化することができた。ちゃんとした料理を、ちゃんとした時間に、ちゃんとした食器を使って食べる行為は、症状改善に明らかに寄与したと野々村は思っている。
 
 最近、野々村は自分が死んだ後のことりについてよく考える。未来に目を向ければ自分が死ぬ瞬間のありさまがぼんやり浮かんでくる。そして、その先に目をやれば夫を失ったあとのことりの様子がうっすらと垣間見える。さらにその先にはことりがこの世を去る瞬間の姿が微かに感じられる。それは、まごうかたなき定めであり、すでに存在している現実である。
 野々村は、ことりには、自分がいなくなったあとの人生を精一杯生きて欲しいと願っている。できればまた新しいパートナーを見つけてまったく違う人生を生きて欲しいと強く念じている。彼女には、新しい伴侶に愛され、幸せになって、心豊かに暮らして欲しい。野々村は、もし可能ならば死後も全力で彼女を幸福にするつもりでいる。
 しかし、もし彼女が新しい人生に失敗し、病気や経済的な困窮によって絶望せざるを得なくなった場合は、自分は「死になさい」と声をかけてあげるつもりだ。もう、そろそろ僕のところへ帰っておいでよ、と彼女の耳元できっとそう囁くに違いない。
 
 七月五日水曜日。ことりがいない生活が始まって今日で三日目だ。その日、新聞の折り込みチラシで見つけた“魔法の「生」食パン”という広告が気になり、その日新規オープンする「芽が実」という野方原市にあるその店に行ってみようと野々村は思いたった。店は今住んでいるマンションからは車で三十分くらいのところにあった。
 広告によれば、そこで販売される高級「生」パンはカナダ産小麦を百パーセン使用し、タマゴは使っていない。焼かずに食べる食パンだと書いてある。一本(二斤)八百円というから価格もそれなりである。
 ことりは、米の飯と並んでパンも大好物だった。野々村は、どちらかといえばパンは苦手だった。嫌いではないが、食べなくてもべつに平気だった。だから引っ越すたびにことりがするパン屋巡りには野々村はついていかなかった。それで、ことりが不満をもらしたことはないが、当の野々村はいささか寂しい思いをしてきたのだ。だから、この半年の間にパン好きな人間になってやろう。せっかくの機会だからこの間に何かことりを驚かせるような変化を遂げたいと思うようになっていたのである。
 人通りの少ない真っ直ぐな道を野方原市へと向かって車を走らせる。昨日は台風接近の影響で終日雨だったが、今日はきれいに晴れ、蒸し暑さもなく涼しい風が吹いている。
 ことりのいない何十年ぶりかの生活を丸二日過ごしたが、思っていた以上に大変だった。とにかく四匹の猫の世話だけでも一苦労なのだ。四匹のうち二匹は拾ってきた猫で、もう二匹は保護した猫だが、家に来た順から円之助、ヒナ、和白、トラという名前をつけている。雌猫のヒナは最近太り気味で彼女だけダイエットをしているため、食事も一斉にというわけにもいかず、さらに雄猫の和白がこのところ一晩中騒ぐので満足に眠ることもできない。昨夜はたまらず寝室のドアを閉めたのだった。ドアの近くで和白はえんえんと大声で鳴き続け、結局浅い眠りのまま朝方に野々村はベッドを降りた。
 こんな風で執筆などできるのだろうかとすでに途方に暮れている。
 買い物は、車で十分たらずのとろに大きな地元スーパーがあり、また町に一つきりのデパートも車で十分ほど行けばある。昨日は、そこに珈琲豆を買いに行ったついでに地下の食品売り場で弁当を買って夕食とした。その弁当に箸を入れながら昨夜は日南田さんのことを思い出していた。
 日南田さんは、会社の先輩で、編集者時代はいろんな雑誌の編集部でなんどもお世話になった。そして、日南田さんが文芸誌の編集長に就任したときには野々村はデスクとして彼を支えた。
 野々村の退職後、日南田さんは順調に昇進を重ね、文芸担当の取締役を経て常務にまで出世した。しかし野々村は、古巣のA社とは縁が薄く、作家になってからは日南田さんとは疎遠になってしまった。
 日南田さんと神楽坂でばったり会ったのが四年ほど前だ。K社のKさんと神楽坂の寿司屋で夕食を摂り、Kさんから日南田さんの奥さんが乳がんで亡くなったことを知らされたその直後だった。寿司屋を出てKさんと別れ、坂を下って飯田橋の駅の方へ向かっている時に、正面から日南田さんに、野々村、と声をかけられたのだ。あまりの偶然に野々村は呆気にとられた。
 日南田夫人の真理子さんはもともとA社の社員で、二人は社内結婚だった。おしどり夫婦で有名だった。いつだったか放射線科医を紹介した折にも、かみさんのがんが悪くなったら、すぐに会社を辞めて、キャンピングカーでも買って、かみさんと日本中を旅して回るつもりだよ、と言っていた。
 いつ亡くなられたのかと訊くと、去年の十一月、やっと半年になる、と日南田さんは言った。夜目にもげっそり痩せてやつれているのが分かった。大丈夫、と声をかけると、日南田さんは、大丈夫じゃない、俺、もう駄目、と言い、瞳からぽろぽろと涙が流れ落ちた。
 その日は、彼のあまりの憔悴ぶりを心配した大学時代の友人たちが神楽坂に集まって励ます会を開いてくれたのだという。野々村は、これはただ事じゃないと思い、日南田さんに、今度ぜひ家にごはんでも食べに来てください、と誘った。日南田さんは、野々村の誘いを受け、それをきっかけに彼との付き合いが復活した。家では年がら年中編集者を招いて打ち合わせを兼ねた食事会をやっているので、ことりの料理の腕前もセミプロといってよかった。
 野々村は作品でしばしば料理を具体的に書くのだが、そうするときは必ずことりに試作品を作ってもらって味を確かめることにしている。
 後日詳しく聞いた話だと、日南田さんの後悔は、真理子さんをホスピスに入れたことだという。真理子さんのがんが肺に転移して呼吸が苦しくなっていて、酸素吸入を続けながらの入院生活であったが、このまま入院していてもだんだん呼吸が苦しくなってますます彼女が苦しむばかりだと心配した日南田さんは、ホスピスに移った方が苦しまなくていいだろう、と判断してホスピスに移したところ、移った翌日には真理子さんの意識が落ち、会話もできないようになってしまったのだそうだ。それまでは酸素吸入をしながらも会話はできていたので、結局ホスピスに入れたことで真理子さんの寿命を縮めてしまったと、日南田さんは悔やんでいた。
 家に来た時も、その話をするたびに日南田さんは号泣するのだった。真理子さんが亡くなってその翌年には、常務を退任し、一切の仕事から手を引いた。最後に会ったのは昨年の春だった。会社を辞めてから何をしているのかと訊くと、たまに一人旅をしているか、あとは一日ぼおっとしている、と言っていた。
 車を走らせながら、その時聞いた日南田さんの暮らしぶりをあらためて思い出していた。日南田さんは、ほぼ毎日バイクで上野のデパートに買い物に行き、昼食はトーストを焼くか、近所の定食屋に出掛け、夕食はデパートで買ってきた惣菜でご飯を炊くか、弁当ですませる。食後はテレビを観たり、コンピュータゲームをしたり、生前奥さんが録画していた番組が膨大にあるので、それをこつこつと消化してるとのことだった。部屋は、奥さんの靴を少し捨てただけでほぼ手をつけていないので、広いマンションの部屋はまだ奥さんのいた時のままのようだ。
 幾ら年の差があるとはいえ、自分だって日南田さんのようになる可能性がゼロとはいえない、と野々村は思う。こうしてまだ二日とはいえ、一人暮らしとなってパンを買いに行く身となってみれば、なおさらに日南田さんの日常が身近に感じられるのであった。連絡しづらいこともあって東京を離れる時には日南田さんにも知らせなかった。渾身の一作が不発に終わり、それくらいやけくそだったということもあるが、今になって日南田さんにだけはちゃんと伝えるべきだったな、と人気のない道を走りながら野々村は反省した。
 
 開店時間の三十分前には着いたのだが、十数台停められる駐車場はほぼ満杯で、野々村が車を停めて外に出てみるともう空きがなかった。店の前には三十人以上の列ができていて、結局一時間近く並んでようやく食パン一本を手にすることができた。
 パンの香りに包まれながらの帰途、こんどは永尾さんのことを思い出した。永尾さんはB社の編集者で、野々村よりも二十歳以上年上のベテラン編集者で、数々のヒット作を世に送り出し、B社のなかでも突出した実績を誇る名編集者だった。野々村は、作家のBさんを担当する編集者仲間として面識を得て、月には一、二度は酒を酌み交わす仲になった。
 永尾さんは、しかしながら処遇には恵まれていなかった。野々村が出会った時も、平編集者で、その後もずっとそうだった。聞くところによると、それは彼の社内での女性問題が一番の原因だったようだ。なんどか大騒動を起こし、なにしろオーナー社長が女性だったから、彼はすっかり社長の信頼を失い、管理職の道を閉ざされたらしかった。
 そんな永尾さんがB社を辞めたのは、酒を酌み交わす間柄になって五、六年が経った頃だった。彼は相変わらずいい本を出していたし、B社内では一目も二目も置かれていたので彼がいきなり辞めるというのは理解しがたかったが、よく聞いてみると、やはり女性問題だった。
 あたらしい愛人は、これまでの業界周辺の女性ではなく、新宿のクラブのホステスをしているという。永尾さんが銀座や赤坂ではなく、新宿のホステスと関係を持ったというのも意外だったし、それ以上にその女性と抜き去しならぬ関係となったということにも違和感を覚えた。なにせ、永尾さんは、酒も強く、見栄えもよく、小学校から慶應に通ったボンボンでもあったからだ。
 奥さんとはどうするんですか、と訊くと、女房とは別れるつもりだと言った。それにしたってなにも会社まで辞める必要はないんじゃないですか、と言うと、永尾さんは、照れくさそうな顔で、仕事なんてしないで、できるだけ彼女と一緒にいたいんだよ、と言った。
 それから、永尾さんとの付き合いは途切れた。ところが、三年ほど過ぎた頃に、永尾さんから会社宛に電話が来たのだ。暇にあかせて小説を書いたから、野々村くんにぜひ読んでもらいたい、とのことだった。野々村は、その頃は文芸担当から外れていたが、個人的には持ち込み原稿を預かって読んであげることも多く、そのうちの何人かは、すでに作家デビューを果たしているものもいた。野々村の場合は父親が作家だったこともあり、社内ではオールラウンドプレイヤーとして認知されていて、出来のいい作品を取得すればそれを文芸担当に持ち込んで雑誌に掲載したり、書籍として出版したりということが、例外的に認められていた。永尾さんは野々村のそういうポジションを認知したうえで、原稿を読んで欲しいと依頼してきたのであろう。
 当時、野々村は三十二、三歳。自分自身でも激務の合間をぬってせっせと原稿を書き溜めていた時期だった。野々村が、それなら原稿を取りに伺います、と言うと、永尾さんは、それじゃ拙宅でも覗きに来るかい、と言うので、早速彼のアパートを訪ねたのだった。
 JR新大久保駅から歩いて十分ほどのコリアンタウンの一角にその古くて小さな二階建てアパートはあった。そのアパートの前に立ったときに野々村は胸を衝かれたような心地になった。
 永尾さんは退職と同時に離婚し、今の奥さんと再婚したらしい。その日、奥さんはいなかった。今でも、新宿でホステスをしているらしいが、とんでもなく人見知りなので今日は外してもらったと永尾さんは言った。  
 部屋は2DKで、八畳のリビングの奥に六畳の和室があり、窓際に置かれた引き出し付きの文机の上には電気スタンドが置かれていた。永尾さんは、ここが、今の僕の城だよ、と言った。
 その部屋で渡された原稿は二本で、どれも原稿用紙百枚前後のものだからA社の文学賞に応募できる枚数だった。野々村が、十日ほどの時間の猶予をいただきたい、と言うと、彼は、暇のある時でいいんだ、野々村君の率直な意見が聞きたいんだよ、と言ってから、野々村に昼食はまだだよね、と訊いた。もうすぐ正午という頃合いだった。
 
 そういえば、その日野々村は、永尾さんのところで昼食をごちそうになったのだ。その記憶はまったく忘れていたが、なぜか生パンを買って家に帰る車の中で思い出した。新大久保という土地がら韓国料理の店にでも案内してくれるのかと思ったが、出されたのはトーストとコーヒーだった。永尾さんは、ポップアップ式のトースターを出してきて、二枚のパンをスロットに入れて、焼き上がる間にコーヒーを淹れ、スロットからパンが飛び出すと、たっぷりバターを塗って皿にのせた一枚を野々村に寄越したのだ。
 トーストとコーヒーのほかはなにも出てこなかった。あれほど食べものにこだわっていた永尾さんの昼食がいまやトースト一枚だなんて、野々村はいたたまれないような、覗いてはいけないものを覗いてしまったような申し訳ない心地がしていた。あと一枚どう、と訊かれたが、美味しかったです。でも、もう大丈夫です、といって野々村はコーヒーを飲み干したのだった。
 預かった原稿を野々村は早速読んでみたが、どちらもいま一歩の出来だった。しかもその一歩は彼の才能では決して埋められないような気がした。三日ほど寝かせてあらため読み直してから永尾さんに電話し、A社の新人賞候補になるのも、どこかの雑誌に掲載するのも難しいでしょう。やはり短編ではなんともいえないので、ぜひ長編を読ませてください、と野々村は言った。しかし、結局永尾さんから長編が送られてくることはなかった。
 その電話を最後に彼との縁は完全に切れ、それから五年ほどして野々村は家を飛び出し、やがてことりと暮らすようになった。ことりと暮らして二年ほどして永尾さんの訃報が届いた。野々村は通夜も葬儀にも出席した。妻のミキさんは、美少年のような人だった。映画「ベニスに死す」に出てくるあの美しい少年のようだ。
 永尾さんは妻ミキさんと買い物に出掛けていた時に脳梗塞で倒れ、その時は足にわずかな後遺症が遺ったものの一年ほど元気にしていたが、自宅で深夜二度目の発作を起こして亡くなったとのことだった。
 通夜の席で、永尾さんと親しかったB社の人たちから、退職後の永尾さんは、得意だったドイツ語の通訳や翻訳などをする程度で、生活の大半はミキさんに頼っていたようだと聞かされた。ミキさんは新宿で今は小さなバーを営んでいるらしい。
 それから、意外な話も耳にした。永尾さんは、今は会長となっているB社の女性社長と不倫関係にあったというのだ。二人は若い頃に一度付き合いがあって、その後別れてそれぞれ別の人と結婚したが、互いに三十を過ぎて、彼女の方が社長になったあたりから、再び関係が復活したという。
 彼女の方は、辣腕を振るっていた永尾さんを彼女の片腕として登用していくつもりでいたのだが、その矢先に二人の関係が会長のご主人に露見してしまったそうで、それで彼女としてはやむなく永尾さんと別れるしかなくなり、そのうえご主人の手前永尾さんを取り立てるわけにもいかなくなってしまったということらしい。こんな話がいまになって広がったのは、高級官僚であった当の会長の夫がついこの間亡くなったからだろうと彼らは推測していた。
 パン屋さんからの帰りの車でくっきり思い出したのは、そういう永尾さんとの付き合いのあれこれではなかった。
 永尾さんが焼いてくれたトーストは、ものすごくうまかった、ということをありありと思い出したのだった。
 当時は、永尾さんの零落めいた意外な暮らしぶりにたじろぎ、胸がつまるような気分になってろくろく味もしなかったが、こうして振り返ってみれば、たしかにあのトーストは本当にうまかった。
 要するに、野々村は、永尾さんが焼いてくれたトーストが「本当にうまかった」のを今ようやく知ったのである。
 考えてみれば、美食家でならした永尾さんが、トースト一枚でも自分で納得できないものを食べるはずがない。
 あの時、野々村は、トーストを単に胃袋に収めたにすぎず、それをちゃんと味わったのは、たった今というわけだ。そして、今回は前回と違ってトーストの味にぴたりと焦点が合い、あれが「本当にうまかった」ことを実感できたのだった。
 このようにわたしたちは体験というものをしばしば時間軸に沿って理解し、体験の現実を体験の瞬間だけのものと理解しがちであるが、実は体験というものを時間軸からはずしてみると、体験自体がそれまで瞬間的だった現実よりはるかに長かったり、広かったりすることが分かる。体験の名残りや影響と思っていたものも実は、体験の一部であることに気づく。その意味でわたしたちはなにかを体験すると、その体験をずっと体験し続けながら生きていくのである。
 そうやって体験というものを時間軸から取り出すと、我々のまえに体験と追体験が並列的に置かれることになる。どちらがオリジナルなるであるのか。時間軸をはずしてしまえば、最初の体験がオリジナルということもなくなる。野々村のトーストの味のように、本当の味を正しく理解した二度目の体験の方がよりオリジナルな体験だと考えることも可能なのだ。
 パンを買った帰り道、交差点で車を止めた野々村が、だとすると、自分はたった今あのトーストを食べたってことか、と思ってしまったのもそのせいだった。
 要するに、オリジナルな体験というようなものは存在しないのだ。私たちは、一つの体験をしても、その場で全部を体験できるわけではない。私たちは体験というものを、なんどもいろんな角度やいろんな距離から双眼鏡で覗き込むように眺めて、再発見や追体験を繰り返している。人生はそうした体験の再構成によって成り立っているのである。
 つまり、私たちの人生というものは、誕生から死まで時間軸に添って順々に進んでいく「体験の帯」のようなものではなく、実際は無数の体験をいろんな形で反復することによって「自己」の存在を確認し続ける、言ってみれば「体験の団子」(回転体)のようなものなのだ。そしてその「団子」(回転体)は時間からほぼ独立している。それは、あたかも燃えて盛る炎のイメージにたとえることができる。
 炎には、始まりも終わりもなく、頭も尻尾もなく、動きに規則性があるわけでもない。それでいて炎は、明らかにひとつのかたまりとなって強いエネルギーを放ち、やがて燃え尽きる運命であっても燃えている最中は決して時間に左右されることがない。
 
 野々村は「芽が実」のパンを二日に一斤ずつ食べるようになった。それにしても想像を超える味の良さだった。四日に一度の割り合いで野方原の店までパンを買いに出掛けた。
 そんな生活が始まって二カ月が経っていた。夏を過ぎ九月を迎えた。その間にことりは二度こちらに帰ってきて、それぞれ一週間ほど滞在して、また東京にもどっていった。
 最初に戻ってきたのは七月の半ばで、野々村は、その二日目の朝、仕入れたばかりの「芽が実」のパンと淹れ立てのコーヒーをダイニングのテーブルの上にどんと置いた。彼女の向かいに座り、無言のまま一本丸ごとのパンを大胆にちぎってむしゃむしゃと食べ始めると、ことりがあきれたような顔で、保古ちゃん、どうしちゃったの、と言った。内心してやったりの気分だったが、それもほんの束の間のことで、パン好きのことりはすぐに手を伸ばして、目の前の食パンを大きくちぎり、口のなかに放り込んだのだ。
 これなら、パン嫌いの保古ちゃんが食べが食べたくなるのも無理ないね、と言い、それから野々村はことりから食パンの保存方法を教えられた。
 野々村は、それまでパンを冷蔵庫に入れて食べていたのだが、ことりが言うには、二日間は常温でよくて、三日目からは冷凍庫で保存した方がいいと言うことだった。とにかく冷蔵庫は絶対に駄目だということだ。野々村は、パンを冷凍する場合はラップにくるんでおくことも、冷凍したパンはそのままトーストで焼けることも知らなかった。
 ことりには、保古ちゃんはなんにも知らないんだね、と言われたが、実に野々村はそうした生活の知恵に関してはほとんど何も知らないと言ってよかった。これまで、ずっとりくとことりにすべてを任せてきたので、生活の具体性についてまるっきり分かっていなかった気がする。
 ことりにパンの冷凍保存方法をおそわったので、野々村はさっそくポップアップ式のトースターをネット通販で買った。はじめの二日間は生で食べ、残りの二日間は冷凍していたものをトースターで焼いて食べるようになったようになった。
 食パンを食べるのは大体朝か、昼だった。野々村は、起きてから原稿を書く前に食事をすることはない。胃袋が空っぽの方が集中力が増すというのもあるが、一番の理由は作家仲間のH君を見習ってのことだった。H君の家のモットーは、働かざる者食うべからずだったので、彼は、朝起きて、一枚でも二枚でも原稿書かないうちはメシを食わないようにしていて、だから一枚も書けないときは一日なにも食えないそうだ。隣にいた当時の彼の同棲相手に確かめたところ、確かにHは仕事してからじゃないと絶対にご飯を食べてくれないので困っちゃうのだと言っていた。野々村は、以来、何かを食べる前に必ず原稿を書くようしている。
 朝はおおかた七時に起きて、それからキッチンで淹れたコーヒーを持って仕事部屋に入り、パソコンを起動し、昨日まで書き進めた原稿をチェックしてから、すぐに書き始める。
 しかし、野々村が集中できる時間はせいぜい十五分くらいで、集中が途切れると、仕事部屋を出て、リビングでテレビをつけて眺めたり、新聞の記事をざっと眺めたり、読みさしの本を眺めたりすることもある。席を立ちたくない時は、パソコンでニュースや動画を眺めることもある。そうして、少しリラックスできたら、またパソコンの原稿に戻って書き始めるのである。
 ことりと離れて暮らすようになっても野々村の生活スタイルはほとんど変わらなかった。一日二度の食事と一度の入浴、二日に一度くらいの三、四十分の散歩を間に挟みつつ、朝から晩までそうやって原稿を書くことと、何かを眺めることを延々と繰り返しながら日々を送っているのである。
 我ながら、なんと動きのない人生だなと思う。そんな変化のない生活の中で多少とも動きのある出来事といえば年に一度の引越しだった。ただ引越しにしても、実際に動き回るのはことり一人なので、野々村は眺めているだけだった。東京に住んでいる時は、知り合いの編集者たちを招いて月に二、三度は一緒に食事をしていた。今にして思えば、この「編集者との食事会」というのは大事な動きの要素だった。東京から離れると、それも難しくなってしまった。  
 野々村は元来他人とはあまり接触したくない性質だけに、自分から作家の集まりやパーティーにでかけることもまったくない。その結果、「起きて、食べて、書いて、寝る」という実につまらない生活の繰り返しとなってしまうのだ。
 このような動きのない人生は、小説家であった父親の宗一郎も同じだった。親子で同じ職業というのはさまざまな職種でよく見られるが、小説家の業界ではそれほど多くはない。小説家については親から貰った才能というものも確かにあるだろうが、他の芸術以上に才能だけでは成立しない部分が大きいので、跡を継ぐというのは難しい気がする。小説家になるためには、小説家になるための才能と同じくらいかそれ以上に、小説家になるための人生というのが必要だと野々村は思っている。
 父方の宗一郎は、幼い頃からその文才を周囲に認められ、早稲田の学生の頃に、すでにいくつかの新人賞にも入選を果たし、大学卒業後一時会社勤めをしたが、ほどなくB社の新人賞を最年少で受賞して会社を辞めて作家生活に入った。
 父が時代小説を書いたのは、当時としてはすこぶる若い時期に職業作家となり、自身の拙い人生経験ではとても現代小説で勝負をするのは難しいと判断したからだった。それでも、父はそれからずいぶん長い間、自らの人生経験の乏しさに悩まされたようだ。たとえ、遠い昔を舞台に小説を作り上げるとしても、それを現代に生きる生身の人間たちに読ませるとなればどうしたって作家本人の人生経験が必要になってくる。
 父からは、あまり早くデビューしてもろくなことはないぞ、とよく言われたし、同じ時代小説のF先生からも、小説家になるのは四十歳過ぎてからの方がいい、とのアドバイスを貰った。F先生は業界紙の記者を長年勤め、四十歳を過ぎてから作家となった人だが、自らの全集がずらりとならんだ自宅応接間の書棚の前に座るF先生からそんなふうに言われると、なるほど慌てる必要はないと心底思ったものだ。
 
 還暦を迎えるにあたって野々村が痛感しているのは、若い時期だからこそ掴める真理、活かせる知見というものはほとんど皆無に等しいということだ。自分自身、若い時に考えていたことで、いまの自分の考えより優れているなと思えるものはほとんど見当たらない。
 これは驚くべき事実だった。結局、思考というものは思考する回数や所要時間に見事に比例して成長していくもののようで、かつての思考は目下の思考より大体において未熟で稚拙なのだ。
 つまり、大きな湿原を見晴るかす小高い丘の上から双眼鏡を使って湿原の鳥の数を数えているようなもので、双眼鏡を覗けば覗くほどに鳥の数は増えていき、少なくとも減ることはない。それは、自分の作品の場合も同じで、過去の作品と比較して、新作の方が常にマシに見えるのもそのためだと思っている。
 二十代半ばで筆一本の生活に入った父の人生は、自分より動きのない人生だった。彼こそただひたすら「起きて、食べて、書いて、寝る」日々を繰り返し続けた人だった。そういう父を観察しながら、この人は一体なにが楽しく生きているのだろう、と感じていたものだ。
 自分が小説家になろうと思ったのは、父という人をもっと理解したいと思ったからだ。来る日も来る日も原稿を書くか、本を読むしかない、こんな穴熊暮らしの生活のどこがいいのだろうか。
 大学一年生の終わりに小説を書き始めてみて、その理由はすぐに判然とした。父は小説を書くことが本当に好きだったのだ。だから日がな一日、ずっと書斎に籠もって原稿用紙とにらめっこしていても全然苦にならなかった。
 現在の野々村もまったく同じ生活をしていて、自分もそのようにこのまま朽ち果ていくであろうことを想像するならば、おそらく自分も父がそうであったように、きっと「小説を書くことが本当に好き」なのである。
 
 とあるテレビ番組で「一番美味しいバタートーの作り方」を紹介しているのを観たのは九月の終わりのことだった。
 日本でただ一人という“バタートースト評論家”なる女性が番組に登場して、実際にテレビカメラの前で「一番美味しいバタートースト」を作ってみせたのだが、それがいかにも美味しそうだったので、さっそく翌日試してみることにした。
 分厚く切った食パンに縦に半分、横に三等分の切れ目を入れる。その切れ目を入れたパンをオーブントースターでこんがりと焼く。焼いているあいだにかなりの分量のバターを、ラップにくるんで手で揉みほぐす。トーストが焼けたところで、すっかり柔らかくなったバターの半量をたっぷりと塗り込む。そして、再びオーブントースターに入れて塗ったバターがプチプチと音を立てるまで二度焼きにするのだ。焼き上がったトーストに残しておいた半量のバターを“追いバター”して、ついに「一番美味しいバタートースト」は完成するのである。
 「芽が実」の食パンを使ったこともあって、実際これは、もの凄く美味しいホットケーキを食べたときよりもさらに美味しい。
 以来、野々村は毎日、この超ハイカロリーなバタートーストを食べ続けている。
 結局、ネットで買ったポップアップ式のトースターは使わなくなってしまったのだ。
 
 雪ノ下健彦君から電話が来たのは十月に入ってすぐのことだった。九月半ば過ぎに父親がT医大病院に入院して、もう半月になるのだという。雪ノ下さんは今は北新宿のアパートで独居の身で、一人息子の健彦君は勤務先のある静岡市で奥さんや子どもと暮らしている。
 静岡はかつて雪ノ下さんが経営していた「ガルス出版社」があった場所で、健彦君は静岡市で生まれ育ち、現在は地元の新聞社の営業マンとして働いていた。
 東京を離れたことは雪ノ下さんに伝えていなかったから、健彦君も当然、野々村が都内に住んでいると思い込んでいるに違いなかった。
 せっかく連絡くれたのに申し訳ない話なんだけど、実は去年引っ越して、もう東京にはいないんだよ、と伝えると、案の定健彦君が驚いた声になる。いま住んでいる町の名前を教え、そういうわけですぐにお見舞いに行くってわけにもいかなくて、と伝える。健彦君は明らかに落胆した様子だった。電話が来たのは夜の九時頃だった。恐らくは彼は北新宿の父親のアパートに泊まっているのだろう。そのアパートは野々村も一度訪ねたことがあった。全室1DKで一階も二階も雪ノ下さん以外の住人は全員中国やタイやベトナムの人たちという超レトロな箱型アパートである。
 聞くと、入院はどうやら肝臓の数値が余りにも高いので、とにかく禁酒させて数値を少し下げるためのものらしい。もう数値もだいぶ下がってきたので、来週あたりに退院できるようだ。
 孝行息子の健彦君は、両親が離婚したあとも何くれとなく父親の面倒を見てきた。三年ほど前までは勤め先の東京営業所に通うかたわらずっと雪ノ下さんの近くに住んで結婚したばかりの奥さんともども父親の世話を焼いていたのだった。その頃は両方とも江戸川区にいて、健彦君一家が静岡本社に戻るのを契機に雪ノ下さんだけが便利な新宿に転居したのだ。
 野々村が彼のアパートへ行ったのは、その独立を祝して一席設けるためで、あの日はアパートでコーヒーをご馳走になってから大久保駅前の、やがて雪ノ下さんがすっかり馴染みになる居酒屋でことりも交えて深夜まで痛飲した。以降も何度かその店で野々村たちは一杯やったものだった。
 じゃあ、がんの方はもう大丈夫なんだね、と訊くと、健彦君は、がんの方はもう全然大丈夫で、今回いろんな検査をしても何も引っかかってはこなかったみたいです、と言った。
 雪ノ下さんは八年ほど前に肺がんになって大きな手術を受けていた。発見時にはすでに末期で医者も匙を投げるような状況だったが、術後二年ほど全身の激しい痛みに見舞われたもののいまではすっかり元気になっている。要するに、彼は“奇跡的がん生還者”の一人だった。
 雪ノ下さんは十五年以上も昔に離婚していて、それからはぽつぽつ彼女が出来たり別れたりを繰り返しているようだったが、いまはそういう人は誰もいないようだ。
 三年前に、健彦君が東京営業所での勤務を終えて静岡の本社に戻ると決まった時、一緒に静岡に行こうとしきりに持ち掛けたようだが、雪ノ下さんはにべもなくそれを断ったと言う。
 一度は静岡で大成功し、地元の有名人にもなった雪ノ下さんとしては借金を半ば踏み倒すように会社を畳んで東京に逃げてきた自分が再起もせぬまま地元に舞い戻るのはどうしても不本意なのだろう。まして静岡にはすったもんだの末に別れた元妻がいまも暮らしているのだ。
 雪ノ下さんの気持ちは野々村にもよく分かるし、健彦君が結局は妻子だけを連れて郷里に戻ったのも父親のそういう心根を汲んでのことに違いなかった。
 大丈夫。きみたちがいなくなれば、おとうさんも必要に迫られて彼女の一人くらいすぐに作るさ、と言って、転職して東京に踏み留まろうかとまで真剣に悩んでいる健彦君の背中を押したのは、ほかならぬ野々村であった。
 
 健彦君からの電話を切ったあと、病院の大部屋のベッドに寝転がりぼんやりと天井を眺めているであろう雪ノ下さんのことを考えた。
 彼はもともと酒好きではあったが、尚更に飲むようになったのは会社を潰して東京に単身出て来たあとからで、それでもフリーの編集者として働きながら一人口を養い、そばにいる孝行息子にいろいろ面倒を見て貰っている三年前までは何とか真っ当に暮らしていたのだ。しかし、その健彦君一家が静岡に戻って以降はだんだんに生活も荒れ、身を持ち崩していったようだった。
 彼が最後に担当していた時代作家のRさんは雪ノ下さんが発掘した作家の一人で、ガルス出版からでデビューしていたが、そのRさんの文庫書き下ろしシリーズも半年前に終わってしまって、いよいよ仕事口を失くした雪ノ下さんが憂さ晴らしも兼ねて昼間から酒浸りになっていたことは想像に難くない。
 そもそもRさんの文庫書き下ろしの仕事をB社に繋いだのは野々村だったので、十数巻にわたって続いた人気シリーズが完結したのは知っていた。あのシリーズの完結で雪ノ下さんが主たる収入源を失ったのは確かだろうが、それでなくともこのところ経済的に困っているのは承知していて、ここ二年間で何度か借金の無心をされ、そのたびに大した金額ではないが彼の銀行口座に振り込んだりもしていた。
 たまに一緒に大久保駅前の居酒屋で飲んだときも会うごとに酒量が増えているのは歴然で、思い返してみれば、雪ノ下さんが肝臓を駄目にして病院に担ぎ込まれるのは時間の問題だったのだ。
 
 雪ノ下さんと知り合ったのは、もう二十五年以上も昔のことだ。
 当時野々村は、A社が主催する文学賞であるA賞とN賞の事務方のような仕事をやっていて、年に二度発表される両賞の候補作選びから最終選考までを上司のTさんと二人で切り盛りしていた。
 A賞とN賞は日本を代表する文学賞と言ってもよく、純文学および大衆文学作家の登竜門と呼ばれていたが、ある年、雪ノ下さんの経営する「ガルス出版」の刊行した長編小説がN賞の最終候補作に選ばれ、それが縁で野々村は初めて雪ノ下さんの存在を知ったのだった。
 作者はX氏というまったく無名の小説家で、候補作に選ばれた作品は中国古代を舞台にした壮大な歴史小説だった。
 N賞の方は枚数にも発表形態にも条件が付されておらず、つまりは商品として活字になった作品はすべて候補作の対象であったから、野々村とTさんの二人は年がら年中、いまだN賞を受賞していない作家たちの作品を長編と言わず短編と言わずただひたすら読み続けねばならなかった。
 X氏の作品は、小説誌の編集部にいる先輩社員のTさんが野々村のもとへ持ち込んできたものだった。Xという聞いたこともない作家が「ガルス出版社」というこれまた聞いたこともない静岡の版元から刊行した上下二巻の大長編小説だったのだ。T先輩から、僕の知り合いが送ってきたんだけど、読んでみるとなかなかのものなんだよね。社内選考委員会に回すかどうか検討して貰えないかな、と差し出されたその長編小説は、結局N賞の最終候補作(五〜六作品)に残ることになったのである。
 N賞の場合は対象となる作品数が余りにも膨大であるために事務方(Tさんと野々村)であらかじめ選別した作品のみを社内選考委貝会に回すことになっていた。その後、A社の大衆文芸部門の編集者二十数名が委員となった社内選考委員会で最終候補作が選ばれ、それらが年に二度、現役作家十名によって構成されるN賞選考会にかけられ、受賞作が決定されることになるのである。
 受け取ったものの未読本が山のように積まれた机上を眺めて溜息をつかざるを得なかった。
 それでも野々村は、その二巻本を自宅に持ち帰ってさっそく読み始めた。その晩はほとんど徹夜状態で、翌朝の電車の中でもずっと読み耽り、ふと顔を上げてみるとA社の最寄り駅「神楽坂」をとうに過ぎて電車は「東陽町」に到着していた。
 本を読んでいて駅を乗り過ごすという経験は学生時代以来だった。それほどにTさんが持ってきた中国古代歴史小説は面白かったのだ。
 当然ながらこの作品はN賞の最終候補となり、X氏は、N賞の通例として一作目の候補での受賞は逸したものの次の書き下ろし長編小説で見事にN賞を受賞した。
 まったくと言っていいほど無名の新人作家が連続でN賞候補となり、あげく受賞に至るというのは異例中の異例でもあり、しかも二作とも版元が静岡の小さな地方出版社で、担当編集者は雪ノ下健一という無名の社長兼編集長だというのだから、これはもう戦前から続くN賞史上でも特筆すべき出来事と言ってよかった。
 X氏が時代の寵児と化したのは言うまでもなく、そのX氏を発掘した雪ノ下さんの名前も一躍有名になった。ことに地元の静岡市ではX氏に劣らぬばかりの時の人となって、雪ノ下さんの会社「ガルス出版」も一気に事業規模を拡大させていったのだった。
 雪ノ下さんは静岡の名士として地元テレビ局のレギュラーコメンテーターやラジオのパーソナリティーを務めるようになり、ついには地元の有名私大の客員教授の肩書まで手に入れることになった。
 雪ノ下健一の顔を知らない人は静岡にいない、というほどの有名人になりおおせたのである。
 野々村が初めて雪ノ下さんと顔を合わせたのは、X氏が最初のN賞候補に選ばれたときだった。最終候補になったことを報せるために「ガルス出版」にX氏の連絡先を問い合わせたのだが、電話口に出てきた担当編集者が社長の雪ノ下さんであった。
 雪ノ下さんはその場で最初に、わざわざお電話ありがとうございます、と言ってそれ以上は特に何も言わず、X氏の自宅電話番号をすんなり教えてくれた。
 しかし、電話を切ったあと、それから十五分ほどして、雪ノ下さんから野々村宛てに電話が入った。所用で明日から上京する予定なのだが、よかったらお目にかかれないかと言うのである。野々村は快諾した。
 面会を断る理由はないし、むしろ候補作発表後の各メディアからの取材に関してや、選考会当日の段取りについても担当編集者の雪ノ下さんにちゃんと説明しておいた方がいいと思ったのだ。
 A賞とN賞は毎回、新聞テレビで大きく報道されるため候補作家のところへは報道各社からの事前取材が殺到するし、選考会当日は当否の連絡を待つ作家たちの動向を逐一報じようとするメディアもあった。加えて、めでたく受賞となったあかつきには、日比谷のホテル内に設けられた特設の記者会見場で両賞受賞者は大勢集まった記者やアナウンサーのインタビューを受けるのが恒例となっている。
 候補作や受賞作を何作も出している大手の版元の担当編集者であればそのへんの事情は熟知しているが、今回のX氏や雪ノ下さんのようにまるきり初体験となれば、候補作発表から選考会当日までの流れを事細かに解説しておかないと驚くほどの世間の反応にてんてこ舞いさせられる可能性が高かった。
 そして、さっそく次の日の午後に雪ノ下さんがA社を訪ねて来ることになったのだ。
 会ってみると電話の声とは違って雪ノ下さんは若々しかった。訊けば野々村より五歳年長とはいえ、四十そこそこの年齢だ。
 X氏の作品がN賞の候補となったことは素直に喜んでいたが、彼がさっそく乗り込んできたのは、すでに準備している第二作の書き下ろし長編小説について直接事務方に伝えておくのが目的のようだった。
 雪ノ下さんは、今回の作品も素晴らしいんですが、野々村さん、次の長編は本当に凄いんです。刷り上がったらすぐに送らせて貰いますから是非読んでみてください、と言った。
 N賞はすでに十分な知名度と読者を持った実力作家が受賞するのが通例であったから、初回の候補で受賞する例がほとんどないという現実をどうやら雪ノ下さんは最初から織り込んでいる気配だった。
 彼は次の長編小説でN賞を獲得しようと最初から目論んでいるふうに野々村には思われ、これはなかなか油断も隙も無い人物だな、と感じた。
 今後、X氏が今回の候補を機に作品を量産していくとなれば、当然ながらその豊かな才能の第一発見者である雪ノ下さんはA社の文芸部門にとって最大のライバルということになってくる。次に準備している「ガルス出版」の書き下ろし長編でN賞を受賞されてしまえば一番の果実を根こそぎこの地方出版社の編集者に持っていかれるというわけだ。
 野々村がこのとき雪ノ下さんの来歴を根掘り葉掘り聞き出したのはいつもの好奇心のためばかりではない。今後商売敵となる相手の情報を逸早く掴んでおきたかったからだ。
 雪ノ下さんは若い頃は中部圏で発行されているブロック紙の記者をやっていたようだった。十年近く前に独立して、当時どこもやっていなかった中部圏の情報誌を創刊、やがて名古屋や静岡のガイドブックを次々と出版し、その売上げで会社の基礎を固めていったらしかった。
 でも、本当にやりたかったのは小説なんですよ、と彼は言った。そして、静岡在住の作家で、とある小出版社から一作だけ著書を刊行していたX氏の作品に出会ったのである。
 この処女作も中国古代物でね。日本の読者には馴染みのない舞台だから何の評判にもならずに消えていたんですが、刊行から数年経ったところで読んで、僕は驚愕したんですよ。傑作以外の何物でもなかったし、これは司馬遼太郎に匹敵する才能だと感じました。
 さっそく雪ノ下さんはX氏のもとを訪ね新作をぜひ「ガルス出版」で出版させてほしいと頼んだ。処女作以降も]氏は塾の講師で生活を繋ぎながらこつこつと長編小説を書き続けていた。それが今回候補作となった古代中国物の二巻本だったのだ。
 自らの眼力が見事に証明された格好となり雪ノ下さんは自信満々の態であった。ただ、その様子は決して鼻につくものではなく、]氏という稀に見る才能を発見できた喜びを満喫しているようであった。
 編集者にとって「新人発掘」ほどエキサイティングな仕事はない。
 著名作家の知遇を得て立派な作品、売れる作品を貰うのも編集の醍醐味だが、その楽しさを一とするならば、まったく無名の新人をスターダムに載せていく「スター誕生」の醍醐味は優に百を超えていると野々村は思う。
 編集者時代、作家は付き合うものではなく作るものだと野々村はずっと考えていた。だからこそ]氏という稀有の才能を見出した雪ノ下さんの純粋な喜びが手に取るように分かったのだ。
 この一度の面会で野々村は雪ノ下健一という人物にいたく好感を抱いてしまったのだが、雪ノ下さんもそれは一緒だったようだ。その後、彼は上京してくるたびに連絡をくれるようになり、A社の応接室で会ったり、一緒に外でランチや夕食をとったりするようになった。
 X氏の新作はやはり二巻本の大長編であったが、これも前作に負けず劣らずの傑作で、発表されると同時にN賞の大本命と世間的にも位置付けられ、結果も同様となった。
 いまにして思えば、あの頃が雪ノ下さんと「ガルス出版」にとって絶頂の時期だったのだと思う。社員数人の小出版社がN賞受賞作(しかも上下巻)を手に入れたのだ。
 笑いが止まらないとはまさにこのことであったろう。
 
 親しく付き合うようになってだいぶ経ってから、野々村は雪ノ下さんから自分についての第一印象を聞いたことがある。
 雪ノ下さんは、最終候補作が決まって、野々村から、回覧用に作品を三十セット用意してほしいと頼まれ、その場で現金を渡してもらったことが強く印象に残っていた、と言った。
 三十セットと言っても上下巻なので六十冊。一冊二千円弱だったから合計金額は十二万円ほどだったが、野々村は雪ノ下さんを応接室に待たせて三階の経理部に上がり、十二万円に郵送費を加えたものを借り出してきて、それをすぐに前払いしたのだった。
 別に何か特別な意図があったわけではなく、そのやり方が双方にとって最も好都合だと思っただけのことだった。野々村は会社時代は一貫して現金主義だった。いろんな形で発生する支払いや謝礼は、この時に限らず、常に“現金で即渡し”をモットーにしていた。
 現在はどうなっているのか知らないが、野々村が在社中はA賞とN賞の選考料は、選考会場でそれぞれの委員に現金手渡しだった。この選考料(一回百万円)を両賞計二十人の委員に渡して領収証にサインを貰うのが野々村の役目だったが、興味深かったのはA賞とN賞とでは各委員の選考料の受け取り方に大きな違いがあったことだ。
 ベストセラー作家がずらりと名を連ねたN賞の委員たちは百万円の現金を手渡しても、はいはい、と実にあっさりしたものだった。一方、A賞の選考委貝たちは百万円の封筒を差し出すと、どうもありがとう、といつもほんのり笑みを浮かべて礼を言ってくれた。中には立ち上がって封筒を受け取り、嬉しいねえ、と顔をほころばせる大先生もいたのである。
 野々村は作家になる以前からずっとA賞が欲しかった。
 N賞は父の宗一郎がすでに受賞していたから、というのも理由の一つだったが、こうして百万円の選考料を何度か差し出す機会を得て、やはりA賞の選考委員の方により人間味を感じたからでもあった。
 結局、野々村はN賞を受賞することになってしまったが、現在でもA賞には多少の未練というものがある。
 
 雪ノ下さんの快進撃は長くは続かなかった。
 持ち前の吶喊精神で文芸誌を創刊したり歴史雑誌を出してみたりと手を広げ過ぎたのが敗因だった。文芸誌にしろ歴史雑誌にしろ、ひとたび雑誌と名の付くものを定期刊行し始めるとあっという間に赤字が累積していく。雑誌単体での黒字化はほぼ不可能で、そこに掲載した小説なりエッセイなり歴史読み物なりが単行本化され、これが部数を弾き出して初めて事業は成立するのだが、よほどの執筆陣を揃えていたとしても、ベストセラーを継続的に出し続けるのは至難の業だった。
 まして静岡の地で大手出版社の向こうを張って同系統の誌面で勝負しようとしても、それはさすがに無理無謀な試みと言わざるを得ない。
 今日のように電子の世界が拓けていたならば結果はまた違ったかもしれない。しかし、幾ら編集センスに溢れた雪ノ下さんとはいえ、紙媒体で競ってしまっては資本力と人脈においてはるかに上回る大手版元に太刀打ちできるはずもなかったのだ。
 毎号赤字を垂れ流しながらも退くに退けない状態が長引き、雪ノ下さんはそれでも強気一辺倒で事業を膨らませていった。なまじ地元で名士となってしまったことが余計な意地と見栄を張らせることとなり、それが撤退の時期を見失うという致命的な経営判断のミスヘと繋がってしまったのである。
 借金の深みへとどんどんはまり込んでいく雪ノ下さんの様子は、たまに訪ねてくる彼の部下や知人たちから耳にしていた。
 いまにして思えば、あのとき静岡に出向いて正面から苦言を呈すべきだったという気がしないでもない。だが、野々村はそうやって孤軍奮闘する彼に対してブレーキをかけるような真似をするのが嫌だった。駄目なら駄目で、会社を潰すまでやりきるしかないと思っていたし、彼のような人間を押しとどめることは誰にもできないと感じていた。
 そのうち唯一のドル箱作家だったX氏との関係にもひびが入り、X氏のN賞受賞からわずか数年で「ガルス出版」はついに倒産へと追い込まれてしまったのだ。
 
 雪ノ下さんと再会したのは、「ガルス出版」が潰れてさらに数年後のことだった。それまで彼は東南アジア諸国を転々としたり、静岡に舞い戻ってブローカーの真似事をしたりと辛酸を舐めていた。鬱病の末に自殺を図り、入退院を繰り返していた時期もあったという。
 当時はちょうど野々村も作家デビューをする前後とあって多事多難で、その頃の雪ノ下さんの記憶は非常にあやふやだ。ただ、何年振りかで彼が連絡してきたとき、野々村はすでにA社を退職し筆一本で暮らし始めていたのは確かだ。当然、ことりとも一緒になっていた。
 久しぶりに彼とどこで待ち合わせてコーヒーを飲んだ時のことだった。
 彼は、奥さんとは離婚して単身上京、いまはフリーの編集者で何とか身を立てていこうと考えていると話していた。てっきり仕事口でも紹介して欲しいと依頼されるのかと思いきや、彼はおもむろに持参していたリュックの中から原稿を取り出し、是非読んで感想を聞かせてくれないか、と言ったのだ。それは、『ぼくらの旅行』というタイトルの小説だった。四百字詰め原稿用紙換算で三百枚くらいだろうか。
 結局、この小説はK社のKさんのところへ野々村が持ち込んで出版されることとなり、これをきっかけに再び雪ノ下さんとの付き合いが復活したのだった。
 『ぼくらの旅行』は素晴らしい作品だった。
 雪ノ下さん自身が静岡の大学病院の精神病棟にいた時期の体験を下地に書かれた群像劇だったが、さまざまな精神疾患で入院している患者たちの実態や彼らの抱える底知れぬ苦悩が実に的確かつペーソスあふれる筆致で描かれていた。
 野々村自身もいまだパニック発作の恐怖に怯えている時期だったこともあり、一読後胸の奥がしんと鎮まっていくのをおぼえた。
 刊行した単行本はまるで売れなかったが、それから何冊か雪ノ下さんの書き下ろし長編はK社から矢継ぎ早に刊行された。だが、いずれの作品も大した評判を得ることなく本の海の中へと埋没していった。
 雪ノ下さんはフリー編集者として糊口をしのぎながら、それでも執筆を続けていたが、他社の編集者からの注文も舞い込むことはなく、小説家として立っていくのは難しい状況になっていった。
 そんなふうにして三年ほどが過ぎた頃、久々に彼から電話が来て顔を合わせてみると、雪ノ下さんは、いきなり、実は巡礼に行って来ようと思ってるんだ、と言った。聞けば、キリスト教の三大巡礼地の一つであるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅に出るつもりだというのである。
 スペイン北西端部ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂には聖ヤコブの遺骸が埋葬されていると言い伝えられ、多くのキリスト教徒が、フランスの地からピレネー山脈を越えて聖ヤコブの教会までの長い道のりを歩くのを生涯の宿願としているのだという。
 雪ノ下さんはBSの番組でこの巡礼路を歩く信者たちの姿に触れ、これだ、と直感したらしいのだ。結局、そのための旅費の工面に苦労していて、できれば協力してほしいとのことだった。聞いてみればたいした金額ではなかったので野々村は二つ返事で承諾した。
 しかし、雪ノ下さんからはその後一カ月以上が過ぎてもさっぱり連絡がない。心配になってこちらから電話してみると雪ノ下さんはまだ出発もしていなかった。なにやら持病の蓄膿症が悪化してドクターストップがかかってしまったらしい。
 その数日後、彼から電話が来て、この時期を逃したら来年まで待たなければならないから、医者を拝み倒して大量の薬をもらって旅立つことに決めた、という。野々村は、じゃあ頑張って、土産話を楽しみにしているよ、と励まして電話を切った。
 旅程は一カ月ほどだったが、雪ノ下さんから電話を貰ったのはそれから二カ月後だった。持病をかかえてさんざんな苦労を重ねた末に、予定の倍の二カ月近くをかけてようやく目的のサンティアゴ・デ・コンポステーラにたどり着くことができたそうだ。
 大聖堂に一歩足を踏み入れた瞬間の感動といったらそれはもうとても言葉では語り尽くすことのできないものだったよ、と雪ノ下さんは言った。
 旅の途中、雪ノ下さんは体調悪化と疲労とで何度も歩くのを断念しようと思ったのだそうだが、その度に空を見上げると必ず鳥がいたという。その鳥は歩き始めて三日目くらいからずっとついてきた白い鳥で、もう駄目だと思ったときには必ず上空にその鳥がいてこっちを見ていたそうだ。それは錯覚ではけっしてなかった。へとへとになって道端にしゃがみ込んでいると、通り過ぎていく巡礼仲間たちが、ケンイチ、またあの鳥がお前を見てるぞ、とよく指さしてくれていたのだ。
 その白い鳥はサンティアゴ・デ・コンポステーラの街に入る直前にどこかへと飛び去って行ったのだという。
 そして、歩いているあいだじゅう、夜になると悪夢を見続けたとも雪ノ下さんは言っていた。それはとても口にできないような内容だった、と普段は何でも率直に明かす彼が、この夢の具体的な中身だけは決して話そうとはしなかった。
 苦しかった巡礼の旅を終えて帰国した雪ノ下さんは、帰りの機中でさらに蓄膿を悪化させてしまい、帰国翌日には耳鼻科に泣きつくことになった。
 病院で診察した途端に即手術と言われ、その後墨田区の大きな耳鼻科専門病院で手術のための各種検査を受けたが、その結果、なんと肺に大きな悪性腫瘍が見つかったのである。
 一カ月半にも及ぶ聖地巡礼を何とか果たして帰国してみれば右肺に巨大ながんが巣食っているのが判明した。一体何のために聖ヤコブの眠る大聖堂まで歩き通したのかまるきり分からないような成り行きだった。
 雪ノ下さんの手術の前日に野々村はことりを連れてK医療センターに見舞いに出かけた。雪ノ下さんは元気そうだったが、息子の健彦君の話では、手術がたとえうまくいったとしても一年もつかどうかだろうと先生たちは言っているということだった。
 しかし術後二年近く、雪ノ下さんは原因不明の激痛に苦しみ続けたものの見事に末期の肺がんを克服したのである。しかも彼は医師が強く勧めた術後の抗がん剤治療を拒否し、手術以外には何もやってはいないのだった。
 雪ノ下さんが“奇跡的がん生還者”の一人となってみて、野々村は、彼がすでに末期の肺がんを抱えた身体でありながら、テレビ番組で観たという理由だけで、どうしてもサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼に出かけなければいけない、と思ったのはなぜだろうかと改めて考えるようになった。巡礼のあいだじゅうなぜ彼が悪夢を見続けたのか、そしてその巡礼の途上でずっと雪ノ下さんのあとを追い、彼が挫けそうになると頭上を舞って励ましてくれたという白い鳥とは一体何だったのか。とても不思議な気持ちにもさせられたのである。
 
 
戻る     あらすじ U