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中上健次『岬』(文春文庫)
作品についてあらすじ  

作品について
 『岬』は、1975年10月に「文學界」に発表され、1976年1月に芥川賞を受賞した。中上健次、三十歳のことであった。
 この作品を担当した「文學界」の編集者高橋一清は、奇しくも中上健次にはじめて「文學界」に詩を載せさせた男である。毎号、雑誌の扉に無名の新人たちの短い詩を載せる企画で、「文藝首都」に当時詩を発表していた中上健次に目をつけ、声をかけたのである。「季節への短かい一章」と題する以下の詩は1968年の「文學界」9月号に掲載された。

     季節への短かい一章
  どってりうちくらがれよこの眼球ふる街
  銀蝿がむれとびざくりと花弁をこぼす紅つつじの季節
  歌舞伎町鶴亀をいでて花たちばなほどに腹におさめた言語論を
  ばらまきながら都電通りをゆき
  俺は海をも知らず
  ふるふると
  死者にうたってやるJAZZも挽歌もないこの街をあるき
  あるきながら腐りくさりながらなおも歩く
  焼けただれた皮膚、路端の草が銀色にもえる季節だ
  どってりうちくらがれよ頭も耳もない半裸躰の
  男どもの男根そらに
  たれさがるこの街

 中上健次、二十二歳、商業文芸誌へのはじめての登場であった。しかし、高橋の知己を得た中上は詩よりも小説を書きたいといい、いくつか習作を持参したが、高橋の目にはとても発表できるものとは思えなかった。高橋と出会う少し前に「群像」新人賞に応募した『日本語について』という作品が、最終選考に残ったのだが、やはり「文學界」の壁はまだまだ高すぎた。
 その後、高橋は「文學界」から「文藝春秋」に異動となり、少しずつ距離が出来た。ちょうどそれと相前後して、『日本語について』を読んで作者の経歴に関心を持ち、健次に声をかけてきた編集者が「文藝」の鈴木孝一である。会って話してみると、鈴木の父親も紀州出身で、健次の実父も鈴木姓なので、二人は互いに親近感をおぼえた。
 鈴木は、入社間もない新人編集者だったが、健次が心の中になにかのっぴきならないものを抱えていて、自分でもそれをどう表現していいのか分からず悶々としているのではないか、そんなふうに捉え、健次を挑発した。健次は、必死になって書き上げた作品を持って鈴木を訪ねた。それが健次がはじめて小説で商業誌へのデビューを果たした『一番はじめの出来事』である。1969年の「文藝」8月号に掲載された。
 しかし、この作品はほとんど周りから注目されることなく終わった。その後も、健次は作品を次々と書き上げ鈴木のとこころにも持ち込むが、「文藝」第二作目は、それからおよそ二年後の1971年「文藝」8月号に掲載された『火祭りの日に』(後に『眠りの日々』と改題)まで待たなければならなかった。その間に健次は「文藝首都」の同人山口かすみと結婚(1970年7月)、長女紀も誕生(1971年1月)している。
 健次の創作意欲は衰えなかったが、生活に追われ筆がなかなか進まない。まとまった作品を生み出すまでにまだ時間がかかった。ようやく1973年「文藝」6月号に掲載された『十九歳の地図』がその年芥川賞候補となり、にわかに注目を浴びた。受賞までには至らなかったが、大岡昇平、吉行淳之介、永井龍男らから好意的な評価をもらうことができ、これが健次のいわゆる出世作となった。なお、この時、「文藝首都」の同人津島佑子の作品「『壜のなかの子ども』も候補作となっている。
 その後、1974年「文藝」3月号に『蝸牛』を発表して、ほどなく鈴木が「文藝」から離れ、出版部に移ると健次に告げた。すでに独り立ちができつつある健次にもう自分の助けはいらない、新しい編集者とつきあった方が、きっといい小説が書ける、と突き離された。そして、出版部に移ってしばらくして話があると鈴木に呼び出された健次は、鈴木から最後に一つ話しておきたいことがあると言われた。鈴木は、世界的にも名の知られた日本の作家の名前を何人か挙げ、彼らは被差別部落の出身という話があるけど、もしそれが本当だとしたら、その事実を隠している彼らを自分は絶対に認めないと、鈴木は言った。健次は顔色を変えて、おまえ、わかって言っているんだろうな、と鈴木を睨みつけた。
 なにも暴露しろと言っているのではない、書く気持ちのなかでそれを隠すなということだ、と鈴木は言った。健次はそんなことは分かっているよ、俺は作家だよ、と歯に衣を着せぬ鈴木の最後の忠告に健次は胸を張って答えた。
 鈴木孝一が健次から離れるのと相前後して、高橋一清が「文學界」に戻ってきた。ちょうど健次が「文學界」に『黄金比の朝』を発表した直後だった。それからは高橋が健次の担当となった。高橋は、健次に「思い切ったことをやってみませんか」と声をかけた。「あなたの核を書きましょうよ」と背中を押した。健次は、その間にもすでに依頼がきていた雑誌に次々と作品を発表していた。そして、1974年度下半期には「すばる」17号(9月)に発表した『鳩どもの家』が芥川賞候補となり、さらに1975年度上半期には『浄徳寺ツアー』(「文芸展望」9号・4月)が続けて芥川賞候補となったが、いずれも受賞には至らなかった。
 そのたびに落胆する健次を、高橋は励まし続け、そして三度目の正直のごとく、『岬』(「文學界」10月号)が1975年度下半期の芥川賞受賞作となったのである。この『岬』に至る過程で重要な作品が二つある。一つは『火宅』(「季刊藝術」1975年1月)、もう一つは『邪淫』(「文藝」9月号)である。『火宅』で健次ははじめて実父鈴木留造をモデルにした男を登場させている。その男と主人公の「彼」との関係、そして「彼」と「異父兄」との関係を、東京と故郷熊野をそれぞれ舞台に描いている。また、『邪淫』は、1974年11月に千葉県の市原市で起きた二十二歳の息子による父母殺人事件に着想を得て、舞台を千葉の市原から新宮に移して親殺しを描いた。そしてこの作品で初めて自分の育ってきた故郷の生活空間を健次は「路地」と表現したのである。ただし、発表時期は『邪淫』が先だが、実は『岬』の方を先に書き上げていたので、「路地」という表現は『岬』ではじめて使われたと言ってよい。
 高橋は、『火宅』では舞台を東京の現在の生活と故郷の過去の生活が並べられて書かれているが、これを故郷の一つに絞り、自分の家族の物語を徹底して書いて欲しい、と健次に言った。健次は、それを短い期間で見事に描いてみせた。作品は二百枚を超える分量になっていた。高橋は、削るべき箇所やいくつかの手直しを指示し、健次はほぼそれを受け入れて、その一週間後第二稿を書き上げた。
 ちなみに、妹との性交場面は、最初の原稿では一回だけだったが、高橋の指示で二回となった。また、岬の場面で、海を母にたとえ、岬を男根の象徴として使うというのも高橋のアイデアだった。しかし、これで高橋は冷や汗をかかされることになる。選考会で、安岡章太郎が岬を男根に見立てていると喝破し、表現のあざとさを批判して受賞を渋ったことをあとで知ったのだ。
 しかし、岬を男根に見立てるという着想は、たしかに編集者の職業的なあざとさから出てきたものかもしれないが、その楽屋落ちを知らずに読めばなんの違和感もないばかりか、むしろこれはこの小説の本質を表しているのではないかとさえ思えるのである。「岬の突端が、ちょうど矢尻の形をして、海に喰い込んでいる」という表現は、物語の最終末の秋幸と妹が性交する場面において「彼はうなずいた。女の手が彼の性器にのびた。海にくい込んだ矢尻のような岬を思い浮かべた。もっと盛りあがり、高くなれと思った。海など裂けてしまえ。」へとつながっていく。
 ここで描かれているのは兄妹相姦である。男根は、天に向かわず、海へ、地へと向かっていくのだ。つまり、エロスのベクトルが、この「岬」の世界では、天(上)に向かって開かれていくのではなく、海・地(下)へ向かって閉じられていくのである。閉鎖的社会での生・エロスが内(下)、内(下)へと向かわざるをえない現実こそ「路地」の宿命なのではないか。つまりは、姉や妹という存在は、普通の社会では男にとって性愛(エロス)の対象から除外され、男は外に性愛の対象を求めていくわけであるが、この閉鎖空間である「路地」では、逆に性愛の対象になってしまうのである。
 健次は、それをこの作品ではかなり意識的に描いている。例えば、美恵と芳子という二人の姉が出てくるが、「路地」に一緒に暮らす美恵は、「姉」と表現されるが、「路地」から離れて暮らす芳子には「姉」という表現は使われない。秋幸にとって芳子はもう「路地」の人間ではなく、性愛の対象でもないのだ。それに対して秋幸と美恵との間には、どこかエロスの匂いがただよう。「姉」の家から義父の家に二人で行く場面でも、美恵は、「姉やんと手つなご」と言って秋幸の手を握る。夜道を手をつないで歩く二人はまるで恋人のようである。また。法事の日に、狂ったように暴れた美恵は、しばらく寝込んだが、秋幸が家を空けてしばらくして戻ると、芳子から「美恵が、まるで恋人を呼ぶように、秋幸、秋幸って呼んでばっかしやったのに」と言われる。姉と弟は、どこまでもエロス的である。
 そして、秋幸が妹と性交する場面では、こう描かれる。「女の奥の奥まで、性器は入っていた。女は眼を閉じ、声をあげる。妹か?と彼は、訊いた。ほんとうに、あの別れたままの、あいつの血で繋がった妹か?女に頬をすりよせた。愛しい。愛しかった。」ここでも、「妹」という言葉が秋幸のエロスを一層昂ぶらせている。そういう宿命の中に彼らは生きているのである。

 芥川賞受賞の報を受けて、河出書房出版部の鈴木孝一が電話してきた。「『岬』読んだよ。ほんとうによく書けているよ。とうとう梅干しの種の殻を割ったじゃないか。おれは素直に嬉しいよ。」と珍しく声をはずませていうので、健次も嬉しかった。『岬』には、被差別部落という言葉はないが、「路地」はそれを表す健次の独自の生み出した独自の文学的表現だった。健次は、おのれの出自である故郷新宮の家族の宿命的ともいえる愛憎物語を「路地」を舞台に紀州弁の独特のリズムにのせて鮮やかに描きだしたのである。


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