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中上健次『岬』(文春文庫)
作品についてあらすじ  

あらすじ
 仕事を終え、親方の事務机がある六畳の板の間で、人夫たちが酒盛りを始めた。秋幸、安雄、土方の管さん、藤野さん、それに光子も来ていた。姉の美恵がつまみや酒を出している。
 秋幸は和歌山県新宮市の路地で生まれ、育った。彼は今は母親の三番目の夫と三人で暮らしている。母親には最初の夫との間に三人の子供がいたが、一番上の兄はすでに亡くなり、二人の姉のうち上の姉芳子は結婚して名古屋におり、下の姉美恵は結婚して近くにある先夫の家にそのまま住んでいる。
 秋幸は母親の二番目の夫との間にできた子で、父親は秋幸が生まれた時には刑務所にいた。その男は母を含む三人の女をほぼ同じ時期に孕ませていた。母親はそれを知って身重の体で刑務所に行き、これからはお前とは一切関係ない、子供は自分で育てると告げ、夫と縁を切った。
 そして母は女手ひとつで秋幸と先夫の三人の子を育てたが、義父との再々婚を機に母は幼い秋幸だけを連れて、先夫の家を出て義父とその連れ子と四人暮らしをはじめたのだった。近くに住んでいたとはいえ、先夫の三人の兄妹は母に見捨てられたも同然だった。だから、母と二人の姉との間にはいまだにどこかわだかまりがある。
 秋幸は以前は土方請負師の義父のもとで働いていたが、義父の息子文昭と仕事の持ち場で言い争いをしてから、義父とも折り合いが悪くなり、義父の組を辞め、今は姉美恵の夫が親方をする組で土方仕事をしている。親方の妹光子の連れ合いの安雄も含めて組では六人が働いている。
 しばらく経って姉が秋幸を呼んで、母さんのとこまで一緒に行ってくれん、夜道恐ろしから、と言う。父さんの法事のことで話があるらしい。
 それを聞いていた光子が、美恵ちゃんは怖じくそたれやからね、だから浜の家にも、よう住まん、と言った。浜の家というのは光子の父親が遺した家で、今は運送会社の事務員をしている一番上の兄の古市夫婦が住んでいる。光子は、父さんは、わしを浜の家に住ませたかったんや、とよく古市夫婦をなじっていた。
 秋幸は姉と親方の家から歩い十分足らずの母の住む義父の家に向かった。途中、姉は手をつなごう、と秋幸の手を握った。姉は死んだ兄やんといつも手をつないで、母さんのとこへ行ったんや、と言う。姉が、うちの人とうまいこと行っているのか、と訊く。ああ、うまいこと行ってる、と秋幸は答えた。
 家には義父はおらず、母一人だった。先夫の法事を美恵の住む家でするのか、母の住む義父の家でするのか、母と姉たちは揉めていた。秋幸にとっては先夫とも義父とも血のつながりはない。
 秋幸は街なかで実父にたまに顔を合わせ、二言三言言葉を交わすこともあった。体のやたら大きな獅子鼻の男だった。体つきや顔の作りが自分に似ていた。しかしそれがなんだというんだ、と秋幸は思う。噂ではとみに裕福になっているらしかった。そして、実父が新地に囲っている女はどうやら実父が女郎に産ませた腹違いの妹らしかった。
 秋幸の部屋は義父の家の離れの四畳半だ。壁に貼った一枚の女優のグラビア以外になにもない。秋幸はやっかいな物一切をそぎ落としてしまいたかった。土方仕事をして、飯を食い、寝て、起きて、飯を食って、また仕事に行く。その繰り返しだった。朝飯は、アパートで独り暮をしている義父の息子文昭もやってきて一緒にとる。それから秋幸はこの家から親方の家に仕事に行く。
 秋幸は土方仕事が好きだった。他の仕事や商売よりも貴いと思っていた。土には、人間の心のように綾というものがない。
 人夫たちの気晴らしはたいてい下ネタ話だった。そんな時妙に秋幸は気分がさめる時がある。土方仕事をしながらふと手を休め、振り返ってみると町の全体がみわたせた。町は海に向かって開いたバケツのような形をしていた。こんな狭いところで、わらい、喜び、呻き、ののしり、蔑み、憎み合いながら人々は生きている。そう思うと秋幸は愕然とした。
 息がつまった。すへてがうっとうしかった。山々と川と海に閉ざされて、そこで人間が虫のように、犬のように生きている。
 土方仕事の現場に、いつも昼になると夜バーで働いている光子が安雄の弁当を届けに来る。光子には親方とその上にもう一人古市という兄がいた。光子は長兄が親の遺した家と土地を独り占めしてると、不平を持っていた。光子は親方の前で不平を口にするが、親方は取り合わない。
 秋幸は仕事が終わると、一旦親方の家に戻って道具類を倉庫に片づけてから、母と義父の住む家に帰る。その日は親方の家に母の先夫の弟にあたる弦叔父が来ていた。
 弦叔父はかつて女房と二人で駄菓子屋を営んでいたが、その後店もたたみ三年前には女房が亡くなってからは、酒浸りになり、酔っぱらって姉のところに酒の無心にくるようになった。弦叔父の右手は五本の指がくっつき大きく二つに裂けて、けもののひづめを思わせた。母はこの弦叔父が気の優しい姉に甘えるのが気に入らなかった。でも、なんかあったらいつでも叔父に言って来い、婿でも誰でも容赦せん、死刑にしてやる、といつも励ましてくれる叔父を姉は温かく迎え入れている。
 姉は弦叔父にビールを出しながら、すしを作ったから持っていってと秋幸に風呂敷に包んだ大皿を持たせてくれた。秋幸は親方の家を出て、遠回りして新地の歓楽街を通って家に戻って行く。
 通りに入ると店の女が声を掛けてきたが、返事をしなかった。秋幸はまだ女を知らなかった。ひとたびそれを知ると、とめどなくのめり込み、女とみれば見境なしに手をつけたあの男と同じになってしまいそうで不安だった。腹違いの妹が体を売っていると噂されるスナック『弥生』のそばを足早に通り過ぎた。
 そしてまもなく先夫の法事の日がやって来る。結局法事は義父の家ですることにしたが、母も妥協して、法事を仕切るのは姉で和尚も先夫の家に来ていた和尚を呼ぶことになった。
 それからほどなくして光子の夫の安雄が光子の兄古市を刺殺するという事件が起きる。古市はトラック事故で左脚を失い義足だった。安雄は包丁でまともな方の右脚の太ももを三回刺したのだ。
 古市の葬儀の折、秋幸はふと亡くなっ兄も母と自分を包丁で刺し殺したかったのではないかと思った。母に捨てられたと思った一番上の兄は母を恨んで、それからたびたび秋幸の住む家にやってきては刃物や鉄斧を振り回し、さんざん暴れ回っては恨み言を吐きつけ、母に向かって殺してやると息巻いた。母は、殺すんやったら殺したらええ。わしも、こんなお前を見るのはつらい、といつも動じなかった。兄は結局、二十四歳の時に家の庭の木に首を吊って死んだ。秋幸が十二歳の時だった。
 姉は、葬儀の翌日から体調を崩して寝込んだ。医者は四歳の時に患った肋膜が再発したといった。父親は山を売り払って姉の肋膜の手術のための金を作った。姉はそれで生き返ったのだった。
 幸い肋膜ではなかったが、姉は神経をやられていた。法事までには体を治すといったが、体調はまだ戻っていなかった。
 名古屋から芳子が三人の子供を連れ、夫の運転する幌付きトラックで法事が行われる義父の家にやってきた。
 法事には、義父の親戚や義父の組の人夫、近所の人たちも集まった。和尚の読経がはじまろうとするその時、弦叔父が酔もっぱらてやってきて、家の外で美恵、美恵と叫ぶ。秋幸が弦叔父の手を引いて玄関に入れた。弦叔父は玄関に立ったまま、酒持ってこい、酒を、と言った。秋幸が酒を持ってこようとすると、そこへ母が現れ、やらいでもいい、と言った。母は、弦叔父に、お前には関係ない、帰れ、と怒鳴った。
 芳子がとりなすが母は、わしはこいつらに一膳の飯も世話になったことなどない、なにが叔父じゃ、いまごろ。気のええ美恵に金せびったり、酒せびったり、そやけど、ここは違うど、帰れ、と言った。
 弦叔父はまた美恵、美恵と声をあげたが、それまで台所の脇に座り込んでいた姉は、ふらふらと立ち上がり、奥の部屋に入った。ほどなく奥で硝子が割れる音がした。姉は仏壇を壊しにかかったのだ。仏具が散らばり、果物が転がり、姉は親方に羽交い締めにされ、親方の手を振りほどこうと暴れていた。母が美恵よお、美恵よお、としゃがみ込むと、殺せえ、殺せえ、と姉は顔を振ってどなった。
 結局、姉は義父の息子文昭の車に乗せられ、親方の家に戻った。秋幸と芳子も姉に付き添った。姉たちが待ちに待った法事は姉たちが不在のまま義父の家で行われた。秋幸はやはり姉たちの父親の法事は、亡くなったこの家で行うべきだったと思う。
 姉は、恐ろしよお、恐ろしよお、と言いながら布団にもぐりこんでいた。それからしばらくして姉は泣き出し、母さんよお、母さんよお、母さんに会いたいよお、と言った。芳子が、なんで、母さんなんよ、あんなんが、わたしらになにしてくれた、と言った。
 その法事の日から三日間、名古屋の一家が帰るまで、姉は子供になってしまったように甘えた。姉にせがまれて、母に会わせるために秋幸は芳子と二人で姉を抱えるようにして義父の家に行った。しかし、その時は、母が明日にでも、医者に診てもらおう、と言うと、精神病院に連れて行かれると思った姉は、いややあ、また殺すんか、人殺し、鬼、と叫び母に飛びかかろうとしたので、芳子が抱きついて止めた。
 それでも、夕方になるとみんなで一緒に親方の家に行きたいと駄々をこねたので、母と芳子夫婦とその子供たちも姉と連れだって親方の家に戻った。
 秋幸は、義父の家に一人残された。ことごとく生活のリズムが乱されてしまってなんだか腹立たしかった。
 外へ出て新地に向かった。そして『弥生』のドアを開けた。カウンターの中にいるのはあの男が孕ませたという女郎の女らしかった。その女に久美と呼ばれた若い女が秋幸のそばに来た。女は男が女を買いに来たと思って、秋幸の隣に座るなり、ちょっと触らしてねぇ、のろのろしとったら、お母ちゃんに叱られるから、といきなりズボンの上から彼の性器をなぜ、キスをしてきた。乳房も触らせた。秋幸もジッパーを下ろした。女の手で秋幸の性器はじょじょに硬くなっていく。女は秋幸の耳元で、二階に部屋あるんよ、と言った。秋幸が、要らん、というと、女は、変な人やねえ、ひとの商売、邪魔しにきたん、と立ち上がりかけた。その女の腕を引き秋幸は、聞きたいことあるけど、と言った。女は、あんたと話しとる暇あらへん、話したいんなら、お母ちゃんとしい、と言ったが、カウンターの中にいるお母ちゃんと呼ばれた女も、忙しいの、また今度にして、と取り合わない。
 追い出されるように秋幸は店を出た。久美と呼ばれた女が自分の妹で、妹はなにも知らずに兄の性器をなぶり、乳房を触らせたのか。秋幸は心のなかで女に訊いていた。どうしてあんなところで働いているのだ、どうして娼婦まがいのことをしてるんだ、女郎に産ませたお前だけがどうしてそんなことをしてるのか。涙がふと浮かんだ。
 まわり道をして秋幸は、親方の家に来ていた。芳子が秋幸の顔を見るなり、どこ行ってたん、美恵がまるで恋人を呼ぶように、秋幸、秋幸って呼んでばっかしやったのに、と言った。
 それから母が、明日、姉やんについて、岬へ行って来い、と言った。
 岬の近くに祖母の墓があった。墓参りと姉の気晴らしと子供たちの鯨見物を兼ねて義兄の運転する幌付きトラックで岬へ出かけた。名古屋の一家五人と姉とその息子と秋幸の総勢八人だ。岬の見晴らしの良い場所で、みんなで弁当を広げた。姉は花模様のついたかごを抱えて、何遍も兄やんがおったらね、と言ったが、少しは気晴らしになったようであった。
 それから岬を見下ろす崖上にある祖母の墓に行った。そこから見ると岬の突端が、ちょうど矢尻の形をして、海に食い込んでいる。芳子の夫が秋幸の横に立っていいところだね、と言った。秋幸は、なんにもないとこじゃ、と答えた。
 名古屋の姉一家が帰った次の日、姉は素足で家を飛び出し、電車の踏み切りに飛び込もうとした。秋幸が眼を離した隙だった。姉のあとを追い、ようやく踏み切りの手前で掴まえた。親方も追い付き、死ぬんやあ、死ぬんやあ、ともがき、暴れる姉を二人でなんとか組み伏せた。
 親方が、母さん呼んできてくれ、と言うので、秋幸は義父の家に行った。母は、泣きもせず、阿呆なことして、と言った。義父が、すぐ行ったれ、と促し、それから秋幸に、今どこの現場やっとる、と訊いた。秋幸が、それに答えずにいると、お父ちゃん訊いとるのに返事せなんだら、と母が言った。
 なにがお父ちゃんじゃ、阿呆らしいこと言いくさるな、と秋幸は声に出して言いたかった。どちらか一人が踏みはずせば、壊れてしまう家だった。
 秋幸は離れの部屋に入った。そして実父であるあの男の顔を思い出した。しかしあの男を父とは呼びたくなかった。一体おまえたちはなにをやったのか、勝手に、気ままにやって、子供にすべてツケをまわす。おまえら、犬以下だ。あの男の顔に唾を吐きかけてやりたかった。あの男は絶えず俺を視ている。その視線を焼き尽くしてしまいたかった。
 それからほどなくして光子が若い男を連れて親方の家にやって来た。姉はまだ布団に横になっていた。母も来ていた。光子は、姉に安雄がしでかしたことを詫び、泣いた。母は姉に、死のうと思たりしたらあかんよ、と姉の額に手をあてて言った。姉は、死にたないよお、生きるよお、とかすれた声で言い続けた。
 
 
 秋幸は、明日から仕事に出るので、新しい地下足袋がいると母に言って外に出た。一人になりたかった。それからしばらくどこともなく歩き回った。母からも、姉からも、そして死んだ兄からも自由でありたいと思った。そして姉に死んだ父さんがあるように、自分にもある。雄の親がある。その雄と決着をつけてやる。酷いことをしでかして、あいつらに報復してやる。
 いつしか、新地の『弥生』の前に立っていた。秋幸は、店に入った。久美と呼ばれたあの女が、なんや無理して金作って来たんかいな、と言う。秋幸が、二人になりたいと言うと、久美は、よっしゃ、と答えた。
 二階の部屋で、秋幸は初めて女を抱いた。久美という女の乳房に顔をこすりつけ、乳首をかんだ。自分は今あの男の子供を犯そうとしている、あの男を陵辱しようとしている。女の奥の奥まで性器が入っていた。女は眼を閉じ、声をあげる。妹か、と秋幸は訊いた。女に頬をすり寄せると、ふいに愛しさがこみ上げた。そして秋幸は射精した。
 妹と知って、姦った。けもの、畜生、どうなじられても構わない。それから女は腕まくらした秋幸のその腕に唇をあて、犬の真似をして柔らかく噛んだ。女の手が性器にのびた。秋幸は、海に食い込んだ矢尻のような岬を思い浮かべた。もっと盛り上がり、海など引き裂いてしまえ、と思った。
 女が性器を握りながら、男の人の、見るたんびに、罪つくりなこんなもん持って、しんどないかな、と思うわあ、と言う。不意に、秋幸は女を抱きしめ、ひっくり返し、上になった。女は膝を立てて、腰を浮かせ、そして科を作り、腰を動かした。そんなにきつうに、抱きしめんかてえ。
 この女は確かに妹だ。獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しい、愛しいと思う自分をどうすればいいのか。俺はお前の兄だ。あの男のまぎれもない子供だ。自分の五体をめぐるあの男の血を、眼を閉じ、身をゆすり声をあげている妹にみせてやりたいと思った。いま、あの男の血があふれる、と秋幸は思った。

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