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白石一文『もしも、私があなただったら』(光文社)
 作品について | あらすじ T  U 

あらすじ T
 主人公は、藤川啓吾(ふじかわけいご)、四十九歳、独身。現在は、博多でスコッチバー「ブランケット」のオーナーをしている。
 以前は、明治化成という化学工業の会社の凄腕の営業マンとしてならした男だが、外資との契約交渉に絡んでその失敗の責任を負わされて子会社への出向を命じられ、その出向先の再建問題で本社と対立し退社を余儀なくされ、博多に戻ってきた。四十三歳の時だ。
 啓吾の実家は八年前に父親が亡くなるまでは細々と家業の米穀店を続けていたが、六年前に啓吾が戻ってきた時には、従姉妹の松本慶子(まつもとけいこ)に預かってもらっていた店は開店休業の状態だった。そこで、啓吾は、思い切って米穀店を廃業し、店を改装して、翌二〇〇〇年に「ブランケット」をオープンさせたのである。
 啓吾は、明治化成を退職と同時に離婚し、子供もいなかったので、一人口を養うだけのものではあったが、それでもこの五年わずかながらの蓄えを食い潰しながらどうにか店を続けてこられたという状態で、この先の見通しなどは立っていなかった。
 松本慶子は父の妹の娘で、啓吾より三つ下の四十六歳。啓吾の別れた妻塔子と同じ年だ。慶子は、啓吾の母が十二年前に亡くなると、一人暮らしになった父を手伝って店を切り盛りしてくれるようになった。そして、父が亡くなってからは、とりあえず彼女が店を預かってくれていたのだ。しかし、その慶子も七年前に離婚し、啓吾が博多に戻った六年前の時点では、中学生だった一人娘の美樹を抱えてもっと実入りのいい働き口を探さざるを得なくなっていた。そんな事情も考えて、啓吾は帰郷後ほとんど間を置かず廃業を決めたのだ。
 慶子は、今は中学時代の同級生が経営するディスカウントシューズのチェーン店の一つで店長をまかされている。その店が長浜にあり、「ブランケット」とは近いこともあって、毎週月水金の三日、彼女は手製の突出しを午前中の空いた時間に店に届けてくれるのであった。
 慶子とは、子供のころから家族同然で育った。彼女の方は、兄二人、妹一人の大家族だったが、啓吾の家は息子一人の三人家族だったので、啓吾の母は慶子を娘同様に可愛がっていた。そういうこともあって慶子は父が一人残されたあと、店を懸命に手伝ってくれていたのだ。
 啓吾にしても、四人の従兄妹たちのなかで、慶子とは一番の仲良しだった。明るくて心根の優しい慶子は、ハンサムな父親の血を引いたのか幼い頃からとりわけ可愛い顔立ちをしていて、学生時代に帰省した折などに高校生になった慶子を連れて街を歩いたりすると、周囲の視線が自分たちに集まるのが分かり、啓吾はわけもなく気分がよかったのを覚えている。
 啓吾は、つい一週間まえに持病の腰痛が再発したが、ダイエットをしてみたらにわかに痛みが治まったので、やはりダイエット効果はあるのだと確信し、おかげで仕事にもたいした支障もなくほっとしていた。
 啓吾は、開店準備のためのグラス磨きを終え、それからさきほど慶子が持ってきた冷蔵庫に収納されている突出しをチェックする。酢モツと蓮根のきんぴらの二品で、どちらも美味しい。開店以来、突出しは慶子に任せてきたのだが、客足が振るわず、この五年で、だいぶ少量になった。そのため情けないことに、ここ一年ほどは慶子にも材料費程度しか渡せないでいる。
 啓吾は、彼女の好意にずっと甘えていながら、他方で彼女の望み、つまり慶子は口には出さないが、啓吾と結婚してもよいと思っているに違いないのだが、啓吾は彼女のそんな思いにはまったく気付かないふりを通している。そんな自分の狡さが厭わしくもある。
 開店時間は午後六時なので、まだ時間はだいぶある。あとは野菜と肉の買い物、それと腰痛治療のために診療所に行くだけなので、とりあえずフロアの奥に扉一枚隔てて設けられた階段を使って二階の自室に戻って軽い昼食をとる。
 
 十二時を過ぎた頃、電話がなった。啓吾は、食べかけのトーストを皿におき、受話器をとる。電話をかけてきたのは、神代美奈(くましろみな)であった。彼女の声を聞くのは六年ぶりだった。美奈の夫、神代富士夫は啓吾と同期で、社内では唯一無二の親友だった。
 とっさに、神代がどうかしたんですか、と啓吾は訊いた。
 目下、産業再生機構の支援で経営再建中の明治化成は、この七月に長年にわたる粉飾決算の事実を公表し、旧経営陣に対して刑事告発と民事上の損害賠償請求を行う旨を明らかにしたとニュースで報じられていた。会社の発表後によれば、粉飾期間は九九年から〇三年三月期までに及び、粉飾額は総額で実に二千二百五十億円に上るものだという。
 この問題はメディアでも大きく報じられ、続く内部調査結果の公表や各メディアの取材によって、その巧妙で悪質な組織ぐるみの粉飾の手口が次々と明らかになってくると、旧経営陣の経営責任を糾弾する声が急速に高まっていったのだった。こうした世論の動向を受けて、八月に入ると東京地検特捜部は、証券取引法上の「有価証券報告書への虚偽記載容疑」での立件を視野に、当時の経営陣への事情聴取を開始した。
 神代は、経営陣の末端に名を連ね、〇一年までは経理部長として、さらに〇二年からは経理担当の取締役として直接経理操作に加担したとされ、現在特捜部の厳しい捜査を受けている、とのことだった。
 美奈は、いえ、そのことじゃないんです、と言った。
 美奈の声を聞いて、もしかして神代が自殺でもしたんじゃないか、と思った啓吾はそれを聞いて、少しほっとした。
 神代は、元気にしていますか?
 念のために、啓吾がそう言うと、美奈は、ここ二カ月ほどわたしもほとんど会えない状態ですが、たまにかかってくる電話だと元気にしているようです。ただ、今月中か来月初めには逮捕ということになるだろう、って言ってました、と美奈は言った。
 啓吾は、もう少し詳しい情報を知りたいと、美奈にいくつか問いただしたが、美奈の答はどうも要領を得ないものでなんとも覚束ない。啓吾は怪訝な気分のまま、現在の神代の身の上にしばし思いを巡らせた。
 黙り込んだ啓吾にしびれを切らしたように美奈が、あの、わたし今空港からかけているんです、と言った。
 美奈は、福岡空港から電話してきたのだった。
 藤川さんに折り入って相談させていただきたいことがあって。こんなに突然だと不躾だと思ったんですが来てしまいました。
 美奈とは、六年前に空港で見送りを受けて以来、声すら一度も聞いていなかったが、見かけによらず大胆な行動に出る性格は相変わらずのようだ。
 今夜の宿は決めてきたんですか、と訊くと、グランドハイアットに予約だけは入れてはおきました、と言うので、じゃあ、一時半にハイアットのロビーで待ち合わせしましょう、と言って啓吾は電話を切った。
 
 六年ぶりに会う美奈は、最後に会った時とほとんど変わっていなかった。六歳年下だから四十三になるはずだった。二人は、美奈の予約した部屋で話をした。
 啓吾は、あらためて神代が今おかれている状況について尋ねた。ホテルに身を隠していると聞いたが、ホテルの滞在費や弁護士費用なども相当かかるはずだが、すでに会社から追放された身となれば、会社が面倒をみてくれるはずもなく、実際問題としてかなり厳しい状況にあるのではないかと、尋ねると、美奈は、結局、神代は女のところにいる、と白状した。
 その女は、会社の秘書課の冨永優花だという。冨永なら、啓吾もよく知っていた。神代よりも二十以上も若く、また社内でも一番の美貌だと評判の女性だ。啓吾の脳裏に浮かんだ冨永優花と目の前の美奈がどこか似ているような感じもした。
 神代と冨永優花の関係については、美奈は粉飾決算をめぐる社内のゴタゴタのなかで家に送られてきた怪文書で知ったという。怪文書はあくまで怪文書なので、それが真実だとは必ずしもいえないが、美奈は、神代が冨永優花の家にいることはもはや確実だと思っているようだ。
 それを知って美奈さんはどうして放っておいたのか、と啓吾が訊くと、美奈は、そんなことは藤川さんが一番ご存じのはずです。私の気持ちは六年前のあの時と何も変わっていないんですから、と言った。
 美奈にきっぱり言われて啓吾は黙ってしまった。すると美奈は、ソファから身を乗り出すようにして啓吾の方へ顔を寄せてくる。そして、美奈は、ひと月ほど私をそばにおいて欲しい、と言った。啓吾がどうしてかと訊くと、神代から、しばらく東京を離れて欲しいと頼まれた。逮捕となればマスコミ各社の取材攻勢も激しくなるから、できればどこか外国へでも、と言われ、それならアメリカに行ってくる、と神代には言った、というのだ。だから、私がいなくなっても神代はちっとも怪しまないし、もうあの人は私になんて全然興味がないんです。きっと、逮捕されて拘置所に収監された時に私と冨永さんと顔を合わせたりするのが、いやなんだと思います。どのみち、逮捕されれば三週間は出て来れないだろうと思いますから、藤川さんにはご迷惑がかかるようなことは一切ありません。ですから、一カ月でかまいません。どうか私をおそばに置いてください。お願いします。
 啓吾には、美奈が言うことがどうも腑に落ちないところがあった。なぜ、一カ月もの間、自分のそばにいなければならないのか、身を隠すというのであれば、神代に近い人間である啓吾のところにわざわざ来るというのは理解に苦しむ。
 すると、美奈は、正直に言います。実は、私子供が産みたいのです。でも、神代には子種がありません。もうだいぶ前のことですが病院で調べてもらって、それが分かりました。私は、藤川さんの子供を産みたいのです。あの時もほんとうはそういう気持でした。もう、この年齢ですから、子供を産めるかどうかもわかりません。これが最後の機会だと思うので、とにかく試してみたいのです。奥さんにしてくれなんて言いませんし、子供を認知してくれとも、一緒に育ててくれともいいません。ただ、しばらくおそばにおいていただいて、私が子供を宿すことができるかどうか、その見極めだけでもつけさせていただきたいのです。恥をしのんでの一生のお願いです。どうか、聞き届けてください。お願いします。
 そう話す美奈の顔は紅潮して、瞳もかすかに潤んできている。彼女の言っていることがたちの悪い冗談やなにかの妄想の類いでないことだけは、啓吾にも充分に理解できた。
 しかし、啓吾は、美奈のその埒外の申し出には取りあうこともせず一蹴した。ただ、その時の美奈の反応は啓吾にとって予想外のものであった。
 そうですか。藤川さんはきっと断るだろうなと思ってました。でも、あなたが私を拒絶するのはこれで二度目です。
 確かに、そう言った。二度目と言われて、啓吾は胸の奥を錐の先で突かれたような痛みを覚えた。
 藤川さんが駄目なら、別の方法にします、といかにもさばさばとした表情で言葉を繋いだ。
 啓吾が、別の方法って、と訊くと、美奈は笑って、藤川さん、私にだって他に心あたりの人は何人かいますよ、と笑いながら言った。
 啓吾は、それ以上、なにかを言う資格はなかった。冷めたコーヒーを飲み干して彼はホテルの部屋から出た。立ち去り際、今夜はどうするんですか、と訊くと、美奈は、もうこの街に用はありませんから、たぶんこのまま東京に戻ると思います、ときっぱりと答えた。

 美奈とは、これまで二度ふたりだけで会っている。
 啓吾と神代は会社の同期でもあると同時に、ずっと明治化成の本社でその中枢部署を渡り歩いてきた。二十代の終わりの頃に経営企画部でしばらく一緒に机をならべ、酒を酌み交わす仲になり、その後三十代の終わりに今度は業務推進室で顔をそろえ、その頃には二人とも同級生の中でトップを走る人材と見なされるようになっていた。美奈とたまに顔を合わせるようになったのは、この業務推進室で神代と席をならべるようになってからだった。
 深夜まで仕事をして、そのあと銀座や赤坂に繰り出して酒を飲んだ。そういう折に、神代は行きつけの店に美奈を呼び出して三人で飲んだりした。むろん、それには日頃の浮気をカモフラージュする目的も神代には少なからずあったようだが、啓吾には塔子との冷え切った関係に引きくらべて、ひどく羨ましい思いをさせられた。
 そして、あの晩のことだ。啓吾が契約交渉を社命で突然打ち切りにされ、失意のうちにロスから帰国した九八年の二月。神代夫妻が、わざわざ彼のために銀座で慰労会を開いてくれたその晩、したたかに酔った神代を美奈と二人でタクシーの後部座席に押し込んだ直後、夫の隣に座った彼女からそっと紙片を手渡された。
 夫妻を乗せたタクシーを見送ったあと、啓吾もタクシーを拾い、車の車内灯の薄明かりの下で渡された紙片を開いた。便箋の一枚紙に書かれていたのは次のようなものだった。

 おかえりなさい。
 ずっと藤川さんのお帰りを待ちわびておりました。私は、去年、藤川さんに初めてちゃんとお目にかかったとき、一目で藤川さんのことを好きになりました。それに、私は自分の心の中のことを語り合える人が好きです。
 藤川さんがアメリカに行かれてからのこの半年は、私は毎日、藤川さんのことばかり考えて生きていました。
 これからは、時々、神代のいないところでお会いするわけにはいかないでしょうか?
 私はぜひそうしたいと望んでおります。

 最初のデートは美奈の方から誘ってきた。大胆にもすぐ向かいの席には神代が座っている啓吾の職場に電話してきたのだ。
 二度目は啓吾が会社を辞める直前で、神代が海外出張に出ている隙を見計らって彼の方から誘った。そのときは、美奈がホテルに行きたいとせがんだ。彼女は初回の食事のときに、もう神代とは夜の生活がなくなって四年になるんです、と言っていた。
 だが、結局、啓吾は美奈を抱くことはなかった。
 退職して、博多に引きあげる準備をしている頃、話を聞きつけた美奈が驚いて電話してきた。そして、啓吾が東京を去る日、彼女は羽田に見送りに来たのだった。
 一緒に連れて行ってくだい、と美奈は哀願した。だが、啓吾は断った。別に神代にあくまで義理立てしたというわけではない。そういう殊勝な気持ちは、社を辞めると決めたとたんに不思議なくらい消えてしまっていた。ただ、彼はもう東京でのことは何もかも忘れてしまいたかったのだ。
 彼女への後ろめたさは、博多に戻ってから却って強くなった。
 初めて二人きりで会ったときに言っていた美奈の言葉が思い出される。
 自分や夫のこと、将来のことを少しでも考えようとすると息ができなくなるの。ほんとに呼吸ができなくなるの。自分でもどこかおかしいんだと思う。たぶん身体じゃなくて心の一部が壊れてしまってるんだと思う。だけど、そういうのって誰も治してくれないし、誰にも治せやしないでしよう。だから、私は自分で治したい、自分の力で自分の正常な呼吸を取り戻さないといけない。そうしないといつか窒息して死んでしまうような気がするの。たとえ身体は死ななくても、きっと心が死んでしまうような気がする。私はただ、息をしたいときに自由に息ができるようになりたいだけ。だから、そのために私があなたを好きになったとしても、それがいけないことだなんて誰にも言わせない。だって、そうでしょう。私は、人間として当たり前のことを望んでいるだけなんだから。ねえ、私の言ってることって間違ってる?
 
 そんな彼女を自分は置き去りにしてきたのだ。そう思うと辛い気持ちになった。実は、啓吾はこの六年間、しばしば神代美奈のことを思い出し、そのたびに彼女を見捨ててしまったことを悔やみつづけてきたのだった。

 午後十一時を回った頃、店のドアが開いて、美奈が入ってきた。
 入口で立ち止まって少しのあいだ店内を見回すと、何かを納得したように一度頷いて、啓吾の正面のカウンター席に腰を下ろした。
 啓吾は小さなため息を一つついてから、いらっしやいませ、と言った。
 ちょっと地味だけど素敵なお店ですね、と言う美奈はホテルの部屋で会ったときと同じ身なりだった。でも、たしかにあんまり流行ってないみたいね。啓吾が黙っていると、彼女は笑みを浮かべて付け足した。
 カウンターに座った美奈は、ウィスキーが飲みたいというので、啓吾はスコッチで一番のお気に入りのフィンドレーター21年を出してあげると、グラスの半分ほどを一気に喉に流し込み、このウィスキー、すごくおいしい、と声をあげる。あれから何も食べていないと言うので、啓吾がオムレツと焼きうどんを出すと、ウィスキーをロックでぐいぐい呷りながらそれもみんな平らげた。
 啓吾は美奈の飲みっぷり、食べっぷりに感心しながら美奈とのとりとめのないお喋りに付き合った。午前一時を過ぎて、啓吾は早めに店を閉めた。啓吾自身も一杯やりたくなったのだ。カウンター越しに向かい合ってウィスキーをすする。こんな風に飲むのはかつて神代が訪ねてきてくれた時以来のような気がした。美奈は出されたつまみをどんどん口に放り込む。啓吾にも食べるように勧めるので、啓吾はこの一週間の腰痛の話や目下ダイエットに励んでいることを酔いにつられて打ち明け、美奈は、それってすごいね、と言いながら、だけど腰痛なのにお酒飲んで大丈夫かしら、と彼のグラスを、これでおしまい、と言って取り上げる。もうさんざん飲んでいるんだから今更無駄だよ、とグラスを取り戻そうと啓吾が右手を伸ばすと、彼女は後ろ手に隠してしまう。美奈は、駄目よ、わたし、今夜はここで酔い潰れるつもりできたんだから、と言った。
 さすがに呂律があやしくなってきていた。だけどきみは何で東京に帰らなかった。他にも心当たりくらいあるってさっきは言ってたじゃないか、と啓吾が突き放したように言うと、そんなの見栄を張っただけに決まってるじゃない。あんなの真に受けたんなら、あなたって相当の馬鹿ね、と彼女は憤然とした顔で言ったのだった。
 美奈が宣言通りに酔い潰れたのは午前三時頃だ。
 身体に触れるたびに唸り声をあげるのに手を焼きながら、啓吾はなんとか彼女を抱えて二階に上がった。上も下も脱がせだぶだぶのパジャマを着せて、自分のベッドに寝かせた。
 美奈は完全に眠っているようだったが、時折、苦しそうに眉間に皺を寄せた。その皺の深さに六年という歳月の重さを感じた。だが、パジャマに着替えさせるときに見た身体の肌の張りはとても四十三歳とは思えぬ若々しさだった。
 啓吾はそれから三十分近くもじっと美奈の寝顔を眺めつづけた。
 自分がこの六年をかろうじて生きてきたように、この人も必死で持ち堪えるようにして生きてきたのだろう。その挙げ句、夫の神代は会社を追われ、いまにも逮捕という渦中で若い愛人のもとへと去ってしまった。きっとこの人も、もはや土壇場、ぎりぎり切羽詰まった状況なのだ。かつては自分の将来を思うと息ができなくなると言っていたが、すでに本日只今の正常な息継ぎさえもままならないのかもしれない。
 いまの彼女は、このままでは生きることができなくて、それでも何とか生きつづけられるようにと必死でなにか目的をこしらえようとしているのだろう。だから、子供が産みたいなどと言っているのに違いない。啓吾はそう思った。

 翌朝、目覚めると午前十時半を回っていた。美奈を自分のベッドに寝かせ、啓吾は居間のソファで寝た。さんざんウィスキーを飲んでこんなソファなどで寝たらまた腰痛がぶり返すのではと心配したが、どうやら問題なさそうだ。起きて、寝室のドアをノックするが応答はない。ドアを開けてみると誰もいなかった。
 美奈は、もうとっくに起きて、なにやら家事をはじめているようだった。ダイニングの窓際には昨日ハイアットのフロントで見た大きなスーツケースが置かれていた。昨夜店に来た時にはハンドバッグ一つだったので、ということは今朝のうちに荷物を取りにホテルへ戻ったということか。キッチンの方で音がしている。啓吾は、ダイニングテーブルに腰掛け、新聞を読んでいるふりをしていると、やがて美奈がやって来て、おはよう、と言いながら、コーヒーカップをテーブルに置く。
 そのコーヒーを飲んだら、顔を洗ってください。すぐ朝ご飯にしますから、とまるでずっと暮らしてきたかのような物言いで美奈は言う。啓吾はいくぶん困惑ぎみに彼女を見ると、効果的なダイエットがしたいなら、ちゃんとご飯を食べないと駄目なのよ。食事を抜くのが一番良くないんだから、と美奈はそう言い残してキッチンに戻っていった。
 テーブルに並んだのは、ここ何年も見たことがないようなまともな朝食だった。ご飯も土鍋で炊いたもので、その土鍋も食材と一緒に今朝どこかで買ってきたものだろう。
 昨日すっかりご馳走になったから、これはせめてものお返し、たくさん食べてちょうだい、と美奈は言い、二人で朝食の膳を囲んだ。啓吾が、誰かと朝食を食べるのは普段はありえない。正月三が日のうちのどこか一日に泊りがけで慶子のマンションに出かけたその翌朝、美樹と三人で食卓を囲む。それが唯一の例外だった。
 とりわけナスの味噌汁は美味しかった。この味噌汁、美味しい、と啓吾が言うと、美奈は、わたしの料理、藤川さんには食べてもらったことなかったものね、と言った。食事が済み、洗い物を終えると、美奈は二階の掃除を始めた。啓吾は、美奈の心中をはかりかねていた。家にまで押しかけて来て、まさかこのまま住み着くつもりではあるまいし、と思いながら、啓吾は美奈に言葉をかける機会をなかなか見いだせないでいた。とりあえず昼まで待って美奈が昼食の準備を始めでもすれば、そこできちんと話をしようと考えた。
 しかし、美奈がリビングの掃除もいいですか、というのでテレビのニュースを見ていた啓吾が寝室にしばらく引っ込んでいると、五分程して掃除機の音が止み、テレビのスイッチが入れられて、テレビ観てもいいですよ、と美奈の声がする。
 外着に着替えてからリビングへ顔出すと、美奈は仏壇の位牌や写真をテーブルに並べ、仏壇の中を半身を埋めるようにして磨いていたのだ。
 それを見て、さすがに、啓吾は、いい加減にしてくれないか、と声を荒げた。一体どういうつもりだ、と言うと、美奈は怯んだ様子もなく、どういうつもりって、と問い返してきた。そこは、きみが勝手に掃除していい場所じゃない、と啓吾は言う。美奈は、どうして、と言い、どうしてもこうしても、いくらなんでもずうずうし過ぎないか、と言う啓吾に、だけど、埃だらけで、これじゃ仏様が可哀そうだわ、と言う。
 だからと言って、断りもなしに他人の家の仏壇をいじるなんて、非常識と思われて当然なことだろ、と啓吾が言うと、そういう堅苦しい考え方、わたし大嫌い、と美奈ははっきりそう言い、ひとつため息をついてみせた。そしてテーブルの上の写真立ての一つを取り上げて、啓吾の方へ歩み寄ってくる。
 この方、啓吾さんのお父さまでしょ、と言った。そうだよ。と啓吾は言うと、美奈は、今朝このお父さまの夢を見たわ、と言った。
 美奈がカウンターの中に入って客を待っていたら、お父さまがふらっと入ってきて、熱燗をくれ、って言ったの。それで私、棚を全部のぞいて日本酒を探すんだけど全然見当たらないの。だから、すみません、日本酒は置いてないんですが、と謝ったら、この店は日本人のくせに麦の酒ばかり売って、それが俺には悔しくてたまらん、ってお父さまが本気で悔しそうな顔するの。そしてさっさと店を出て行ってしまったの。それで、ああ、やっぱりそういうことかって私思ったのよ、と美奈は夢について話した。
 啓吾の父伸吾は大の日本酒党で、生涯ビールやウィスキーには目もくれなかった。啓吾も「ブランケット」を開く時、父が大事に守ってきた店をスコッチの専門店にすることに多少のためらいはあったのだ。それにしても、啓吾には美奈が最後に付け加えた一言が気になった。
 やっぱりそういうことか、って、と啓吾は訊く。
 美奈は、昨日の晩、初めて店のドアを開けて一歩店内に入ったとき、なんだかわからないけど入りにくい店だなって気がしたの。内装とか雰囲気とかじゃなくて、なんていうのかな誰かがが、お客さんが店に入るのを恥ずかしがっているような、嫌がっているような、そんな感じがあったのよ、と美奈が言った。
 その誰かが、うちの親父だっていうのかい、と啓吾は言い、美奈は、私のそういう勘って結構あたるのよ、だからこれからは少しでいいから日本酒やお米の焼酎なども置いてみたらどうかしら、きっと今よりお客さんが来てくれるようになると思うわ、と言った。それから、美奈は、そういうことだから、ご仏壇の掃除くらいさせてもらっても構わないでしょう、と念を押されるように言われ、啓吾は渋々ながら頷いてしまう。
 掃除が終わると、美奈はまだ開店までに時間もだいぶあるし、散歩でもしないかと啓吾を誘う。朝食の時と同様に、一体いつになったら出ていくんだ、という言葉が出かかるが、啓吾は散歩ぐらいならいいかと思い、それなら折角だから大濠公園にでも行ってみようと、二人で一駅だけ地下鉄に乗り、大濠公園へ向かった。
 もともとこの公園は、戦国の武将、黒田長政が福岡城を築城する際に、博多湾の入江であったこの地を外掘として利用したことから生まれたもので、四十万平方メートルの公園敷地の半分以上を巨大な濠池が占めている。約二キロの池の周囲には周遊道が整備され、野鳥の森、児童遊園、日本庭園、美術館、能楽堂、ボートハウス、レストランやカフェなどが並び、濠の中には中央の松島をはじめ、菖蒲島、柳島の三島が四つの橋で結ばれている。さらに柳島には、島と岸辺とをつなぐ観月橋へと張り出す恰好で優美な浮見堂が設置されていた。
 大濠公園は日本有数の水景公園として、かつての黒田家五十二万石の城下町・福岡のシンボル的な存在でもあるのだ。
 園内に歩を進めると、児童遊園のイチョウやナンキンハゼの木々の葉がわずかに色づいているのが分かる。平日の昼間とあって小さな子供を連れた母親の姿がちらほら見える程度だが、遊園から池の方へと目をやると、秋の柔らかな日差しの中、周遊道を散歩したりジョギングしたりしている人々で濠端はそれなりに賑わっていた。
 なかなかいいところだろ、と啓吾が言うと、ほんとにきれいな公園ね、と美奈も素直に頷いてみせる。この池の周りを二周でもすれば、結構な運動になる、と啓吾が言うと、啓吾さんもよく歩いてるの、と美奈。全然。ここに来たのも二年ぶりくらいだ。なーんだ、と両腕を突き出して伸びをするような恰好で歩きながら、美奈が笑った。
 啓吾はポケットの携帯を取り出して時間を確認する。まだ一時前だ。じゃあ、ちょっと頑張って歩こうか、と言い、啓吾はすこし足を速めた。今日中に美奈に出て行ってもらおうと、その話をつけるために来たのだが、心地よい風と水辺のしっとりと落ち着いた雰囲気に触れているうちに、余計なことなど考えず、この美しい景色の中をただ歩いてみたいという気分になっていた。
 たわいない話をしながら濠の周りを二人は歩いてきた。歩きながら啓吾はあれこれと考えを巡らせていた。美奈の出現を自分が本当に迷惑がっているのかといえば、そうでもないような気もする。五十間近の男に四十過ぎた女が一人転がり込んだところで誰の関心を引くわけでもないだろう。であれば、美奈の望み通りにたかが一カ月、一緒に暮らしてみたところで罰はあたらないのではないか。しかし、ほぼ半周したところで、啓吾はやはりはっきりと拒否の態度を示さなければと心を固めた。
 ところで、今日は何時頃の飛行機で帰るつもり、と少し先を歩く美奈に啓吾は声をかけた。しかし、美奈は振り返りもしない。美奈さん、ともう一度声をかけると、美奈は突然走り出した。啓吾は走って追いかける。しばらく追いかけっこのように二人は走り続け、ボートハウスの手前で啓吾が美奈に追いついた。
 そんなに走って、啓吾さん、腰の方は大丈夫なの、と美奈が訊くので、啓吾は、きみが返事もしないで急に走り出すから悪いんだ、と憮然とした口調で言う。でも、これだけ走って痛くないなら、もう問題なしね、よかったじゃない、と美奈はおよそ悪びれるふうもない。
 しばらくして呼吸が落ち着いたところで、きみには悪いけど、今日は出ていってくれないか。もう僕のところに泊めるわけにはいかないし、きみだって東京に帰った方がいい。神代の逮捕も迫っているんだろうし、と啓吾は言った。
 それは無理よ、だって私は日本にいないんだから、と美奈は言下に撥ねつける。
 それに、帰れって言われても、私、自分の家なんてないわ、とさらに美奈は言った。
 何を馬鹿なことを言ってるんだ、と言う啓吾に美奈は言い放つ。
 私には帰るところなんてない。六年前のあの日、羽田にあなたを追っかけて行ったときに私は家を捨てたの。それからもう私の家なんてどこにもない。
 美奈の見開いた瞳の表面に涙が盛り上がってくるのが見えた。
 
 翌日の朝刊に、「明治化成元社長ら逮捕へ 東京地検、粉飾決算の疑いで」との大見出しで川尻隆一元社長、窪田善幸元副社長、それに経理担当の元取締役神代富士夫の逮捕の見込みが報じられた。啓吾は、一階の郵便受けに朝刊が届くとすぐに取りに行ってそのニュースを知った。今日の午後にも神代は逮捕されることになるだろう。啓吾は、時間を確かめた。午前六時ちょうどだ。もうあまり時間がない。
 啓吾は、神代逮捕となれば、家宅捜査が行われるので、とりあえず美奈を自宅に帰さなければと考え、二階の寝室で寝ている美奈を起こしにいった。一刻も早く東京に帰った方がいい、と勧める啓吾に、美奈は、私はアメリカにいることになっているし、神代はきっと富永優花の家から直接地検に向かうはずよ。逮捕されたら拘置所に入ることになるし、なにも私が慌てて自宅に戻る必要なんてないわ、と取り合わない。それでも、啓吾は、たとえ愛人をつくり、家には寄り付かない夫であったとしても、これほどの事態となれば美奈には妻としての役割を果たすべき義務がある。そうやって果たすべき責務を果たしてこそ、はじめて互いの関係にけじめをつけることができる、と考えていた。
 六年前もそうだったが、ただ苦しい現実から逃れるために別の新しい関係を望む美奈に、啓吾は最後の最後まで乗り切れなかった。そうした美奈の姿勢は今もさして変わっていないと啓吾はみていた。だから、もし仮に自分が美奈を受け入れるとしても、自分は神代とのあいだでまず決着をつける必要がある。しかし、今の神代にそんな話を持ち出せるはずもない。
 渋る気配の美奈に、今後のことはともかく、今日だけは神代のために家に帰ってやってくれないか。この通りだ、と啓吾は頭を下げた。
 さすがに、美奈もベッドから立ち上がる。美奈の身支度は素早かった。彼女がタクシーに乗り込んだのは六時半ちょうどだった。
 美奈がいなくなったあと、コーヒーでも淹れようかと思いつつあらためて啓吾は部屋の中を見回してみて、自分ひとりになってみるとひどく部屋ががらんとしていて、この二日間の慌ただしさがまるで一瞬の蜃気楼でもあったかのように思える。
 時計は七時十分を指している。美奈を乗せた飛行機がいま離陸したところだ。そう思った瞬間、啓吾は底深い物哀しさにとらわれた。ずいぶん昔、まだ離婚する前、妻の塔子に言われた言葉が不意に脳裏に甦ってくる。
 私たち女は心と身体で生きる。だけど、あなたたち男は、目と頭だけで生きようとする。
 塔子は、三年前の春、突然電話してきて、私、再婚することになったわ、と報告してきて、その翌日に、美奈同様になんの断りもなく昼過ぎにここを訪ねてきて、勝手に上がりこむと、掃除、洗濯をして、晩御飯を作ってくれた。そして午後九時頃に、もう何も思い残すことはないわ、と言って帰っていったのだ。
 こうして美奈が出ていったあとの部屋にぽつんと一人残されてみて、なんとなく、今回の美奈の行動や三年前の塔子の行動が、かつて塔子が口にしたあの言葉に見事につながるような気がした。
 「心と頭」「身体と目」とは男女の根源的な差異を表すまさに秀逸な対比ではなかろうか。
 彼はコーヒーを滝れるためにキッチンに行くのをやめて、閉まっていた寝室のドアを開け、ベッドに歩み寄る。
 毛布と羽毛布団が、美奈の抜け出したままの状態であった。啓吾はその中にそっと右手を差し入れてみる。まだあたたかかった。美奈のぬくもりだ。さらに前かがみになって鼻を近づける。
 ほのかな女性の香りがする。
 啓吾はベッドに横になり、その美奈のぬくもりと香りのする毛布と羽毛布団を頭までかぶった。シーツに残った温みとあいまって全身がえも言われぬ心地よさに包まれる。
 ペニスが脈打つように激しく勃起していた。
 硬直したペニスをしごきながら目を閉じて、美奈の顔や姿態の一つ一つを脳裏に浮かべる。一昨日、酔い潰れた彼女を着替えさせた折に見た美しい身体を反芻する。
 同時に、六年前、羽田空港で彼女の申し出を断ったときに美奈が口にした言葉を思い出していた。彼のにべもない態度にすっかり観念した様子で、「あなたの気持ちはよく分かったわ」と呟いた美奈は、
 
 もしも、私があなただったら……。
 もしも、私があなただったら、こんな私のことを置いていったり絶対にしない。
 
 そう喉から絞り出すような声で言ったのだ。
 啓吾は下腹部に痺れるような快感を覚えながら、あの瞬間の美奈のいまにも泣きだしそうな顔を瞼の裏に鮮明に甦らせた。
 これで美奈と自分との縁は完全に絶たれた。というより、自分と彼女とのあいだにはほんの一筋のか細い結びつきさえも初めからありはしなかったのだろう、と彼は思う。
 そのことが啓吾には無性に物哀しい。
 
 もしも、私があなただったら、こんな私のことを置いていったり絶対にしない。

 そう心の中で呟いてみる。美奈と自分の立場がそっくり入れ替わってしまったような、そんな気が啓吾にはした。

 腰痛の治療で通っている松崎病院から戻ると、店の前に慶子が立っていた。啓吾は、携帯を取り出して慌てて曜日を確かめる。水曜日だった。早朝から美奈を送り出し、それから二日遅れで松崎先生のところへ顔を出したりで、うっかり今日が慶子が来てくれる日だというのを忘れていた。
 啓吾が、昨日美奈が言っていたことを思い出して、店のレイアウトとかメニューとかを少し変えてみようと思うんだ、と慶子に話している時に電話が鳴り、慶子がとって、神代さんって女の人、と受話器を渡された。
 電話に出ると、美奈は今はまだ福岡にいるという。空港のエスカレーターで足を踏み外し、右の足首を骨折して、いまは空港の近くの東福岡総合病院というところに入院しているらしい。脇で美奈と啓吾のやり取りを聞いていた慶子に、会社時代の友人の奥さんで、友人が近々逮捕されるということで昨日いきなり相談にやってきて、酒を飲みながら話し込んでいるうちに悪酔いしてしまったのでやむなく二階に一晩泊めて、今朝帰したところだったのだが、と啓吾は多少の脚色を入れて話す。慶子は、それなら早く行ってあげないと、と言い、車で空港まで送ってあげるからというので、啓吾は、慶子の言葉に甘えて病院へ向かった。
 三十分ほどで病院に着いた。啓吾が車から降りて、悪かったな、と言うと、慶子はその奥さんなんて名前?と訊き、神代美奈、っていうんだと答えると、そう、日曜日は晩御飯食べに来られる、と訊いてくる。ああ、たぶん大丈夫だ、と啓吾。美樹も楽しみにしてるし、待ってる。慶子はそう言い笑みを浮かべ、車を発進させた。

 病院の総合案内で尋ねると、三階の婦人科病棟に行くよう言われた。美奈は、婦人科の病室に入れられていた。啓吾が、どうして婦人科なの、と訊くと、急な入院だったから、この病棟しかベッドの空きがなかったみたい。明日か、明後日には五階の整形外科に移れるって看護師さんが言ってた、と聞き納得する。足の方は、骨が完全に折れているから、結局手術をしなければならないそうだ。手術は明後日の十月二十八日金曜日と決まったという。
 足首の手術だから当然局部麻酔かと思っていたら、全身麻酔だと聞いて啓吾は驚いた。全身麻酔のリスクを美奈に説いて、局部麻酔を勧めたが、美奈は、自分の足が切られているのを見てるなんてそんな恐ろしいことできるわけないと頑として譲らなかった。
 手術は無事終わり、早ければ2,3日で退院できるとのことだったが、松葉杖なしで普通に歩けるようになるには抜糸が済んでからということで、一週間後の十一月四日金曜日まで待って美奈は松葉杖なしで退院することにした。
 昨日、病室を訪ねた時、美奈は神代の逮捕を報じた新聞記事に熱心に目を通していて、啓吾の気配に気づいて顔を上げると、私、当分東京には戻らないことに決めたわ。啓吾さんのところに置いてくれなんてもう言わないけど、どこかアパートでも見つけてしばらくこっちでのんびりする。半年後のボルトを抜く再手術も場合によってはこの病院で受けてもいいと思っているの、と言った。
 それから毎日啓吾は病院に通った。美奈と二人でお弁当を食べながら、あるいはコーヒーを飲みながらいろいろな話をした。高級子供服で有名なブランドバッファローの社長春日玉枝は美奈の学生時代の友人という話も聞いた。美奈は春日玉枝のことを玉ちゃんといい、春日玉枝は美奈のことをミーちゃんと呼び合う仲だそうだが、実は、美奈は意外にもかなりなアイデアウーマンで、あのブランド名バッファローを考えたのはなんと美奈だったという。当初は春日玉枝はビヨンドという名でスタートしたが、どうもしっくりしないと、美奈になにかいい名前考えてと相談してきたらしい。それで美奈が提案したのがバッファローだった。バッファローは、雄々しさ、を象徴する言葉として選んだものだが、結果的には女の子の洋服に対して雄々しさ=バッファローというミスマッチが大成功につながったかもしれないが、二人の意見がバッファローに落ち着いたのも、学生時代に二人でアメリカのワイオミングを旅した時に見た野生のバッファローの群れのそのすごい迫力、その雄々しさへ大興奮したことが思い出されて、これからの女の子の親たちはこういう雄々しい名前の方に飛びつくのではと思ったからだった。
 しかし、名前だけで玉ちゃんは今の成功を収めたわけではないとも言う。とにかく玉ちゃんは、まめで店に来てくれた客には徹底的に試着させるそうだ。いかに子供に嫌がられずに試着してもらうかが、子供服を売る一番の秘訣だと玉ちゃんは言っていた、と美奈は言い、啓吾さんだって結構マメなんだから、それを考えたら今のお店があんまり流行ってないというのはどこかおかしいと思う。この前ちょっと変なことを言ってしまったけど、やっぱりあそこはもともと啓吾さんのお父さんがお米屋をやっていて、お米がよく売れた場所だったわけだし、今はお米そのものは売れなくなっても、お米にまつわるものなら売れるんじゃないかしら。日本酒もメニューに入れてみたらどうかしら。
 啓吾は嬉々として喋る美奈の話を黙って聞きながら、彼女に対するこれまでの見方を大幅に改める必要があるのかもしれない、と感じていた。神代との単調な結婚生活に退屈し、やがてその退屈が日常となってじわじわと彼女の活力を奪い、ふと気づいてみれば夫にも自身の将来にも何の期待も希望も見いだせなくなってしまった。そんなありきたりな蹉跌に美奈は足元をすくわれたのだろうと思い込んでいたが、それは余りにも表層的な捉え方だったのではないか。
 この美奈という女性は、楚々とした外見からは想像できないような熱く迸るエネルギーを内部に抱えているのかもしれない。そうしたエネルギーを存分に発散し、また活かす道を神代との結婚で閉ざされたがゆえに、彼女はその軛を脱し新しい世界へと飛び出そうと試みたのではないか。そして、そこへと共に進んでいくパートナーとして彼女は自分を選んでくれようとしたのではなかったか。
 ごめん、何だかべらべら喋り過ぎちゃったね、美奈が微笑んで、空になったコーヒーカップを啓吾に差し出す。その日は天気が良かったので、車椅子を押して病院の近くの公園まで出て来ていたのだが、風が出てきたし、そろそろ退散するとしようか、と啓吾は先に立ち上がった。車椅子のストッパーを確認すると、美奈の腋に手を入れてゆっくりと立たせる。今朝から松葉杖なしの歩行訓練を始めたらしいが、まだ杖なしだとさすがに痛みが走ると言っていた。車椅子に美奈を座らせ、病院から借りた薄手の毛布を膝にかけてやる。
 私、ここでバッファロー・ショップをやってもいいかなって思ってるの、と車椅子を押しはじめると、不意に彼女が言う。神代が会社を辞めた直後にも、春日玉枝から都内でショップを一軒任せるからやってみないかって言ってくれたらしいが、神代に相談したらすごく怒られて話は進まなかったそうだ。
 博多ってまだバッファローの直営店はないの?と啓吾は訊いてみた。
 デパートにはもちろん入ってるけど、直営店はまだだと思う。でも博多だったらあって当たり前だし、退院したら、さっそく玉ちゃんに相談してみようかなって思ってるの、と美奈が言った。
 三月の地震以降、大名近辺にも幾つか空き店舗が出て、いまだにテナントが決まっていない物件もある。相場も地震前に比較すればずいぶん安くなっている。バッファローの直営店ならば、おおかたあのあたりが立地としては第一候補のはずだ。もしも美奈が近所に店を構えてくれたらきっと楽しい日々になることは請け合いだ。
 それだったら啓吾さんも私に来るなとは言えないでしょ、と言う美奈の言葉を啓吾は聞き流した。四日前に東京地検に逮捕された神代は、検察と拘置所とを往復しながら連日厳しい取り調べを受けているに違いないのだ。
 
 美奈は予定通り五日の土曜日退院した。とりあえずどこかホテルに泊まって、急いでアパートでも探すつもり、と言っていたが、まだ足も完全ではなく、まして何の土地勘もないのにアパート探しなんて無理だと言い聞かせ、結局当分は啓吾のところで療養するしかないだろう、と啓吾はその腹づもりでいた。ただ、退院してそのまま家に戻るのではなくて、温泉でゆっくり傷を癒やしてからにしようと啓吾が提案すると美奈も躊躇なく乗ってきた。
 二人が訪れたのは病院から来るまで一時間ほどで行ける脇田温泉で、そこの「千水閣」という旅館は名宿として博多では名の知られた存在だった。
 トヨタのプリウスをレンタルし、病院から温泉へと直行した。土曜日の昼時とあってさすがに道路はそこそこの数の車が行き交っていた。「千水閣」についたのはちょうど一時だった。
 部屋は、次の間付きの十二畳の和室だった。仲居さんが、一通り館内の設備や風呂の場所、夕食と朝食の時間を説明して退出したあと、和室に二人きりとなった。美奈がお茶を淹れてくれる。啓吾が、お茶をすすりながら旅館の「御利用案内」をめくっていると、どうしてこんなこと急にしようと思ったの、と美奈が突然訊いてきた。
 こんなことって、と啓吾が訊く。だから、こうして一緒に温泉に来るってこと。啓吾は、どうしてか、自分でもよく分からない、という台詞に、美奈は呆れたような顔になる。
 私が博多に来た日は、あんなに一生懸命に頼んだのに、あなたは取り合おうともしなかった。それから六年前、羽田までついて行ったときもそうだった。なのに、どうして?
 美奈は若干恨みがましい口調になっている。
 啓吾は、いくらか居ずまいを正して彼女の目をしっかりと見つめた。
 二十六日の朝、きみが僕の家を出て行ったあとで、あることを思い出したんだ。美奈が怪訝な表情になる。
 六年前、きみが最後に口にした言葉だよ。
 最後の言葉?
 啓吾は呟いて、ひと呼吸あけてから、
 もしも、私があなただったら、こんな私のこと置いていったり絶対にしない、と、諳んじてみせた。
 そこで美奈もひとつ吐息をついた。
 じゃあ、もしもあなたが私だったら、こうしてほしいって思ったのね。
 そうかもしれない、と啓吾は言った。
 美奈は再び急須にお湯を注ぐと、空になった啓吾の湯呑みを引き寄せた。お茶を滝れ直すして湯呑みを戻してきたあと、啓吾さんは、私のことが好き?と訊いてくる。
 好きだよ、と啓吾は当たり前の口調で答えた。
 どのくらい?ものすごく好き?美奈は悪戯っぽい笑みを浮かべている。
 そうだね。ものすごく好きだ。
 どうして?どうして私のことが好きなの。私のどんなところが好き?
 切れ目なしに質問してくる。彼女もやはり女だなあ、と啓吾は内心で思う。
 別にどんなところと言われても困るよ。
 何でもいいから、たとえばどんなところ?
 そう畳みかけられ、そのときには一つ思い当たることがあった。
 たとえば、この前一緒に大濠公園を散歩したとき、僕が『何時の飛行機で帰るつもりだ』って声をかけたら、きみは僕のことを無視して急に走り出しただろう。ああいうところが本当に好きだ。
 美奈の瞳がきらきらと輝いているように見える。
 じゃあ、いつから?いつから私のことが好き?
 男に好きになってもらうのが仕事の女性と、女を好きになるのが仕事の男性とでは思考の道筋が根底から異なってしまうのは当然だ、と啓吾は考えてきた。人を好きになるにはやはりそれなりの理由が必要だが、好きになられる側に理由など要らない。となれば、好きになられた女性が、そうなった理由について相手の男性に問い質してくるのは至極当然なことなのだ。だから、啓吾は若い頃から、相手の女性からこの種の質問を受けたときは可能なかぎり真摯に答えることにしてきた。
 そうだな。ずいぶん前から。たぶん初めて二人きりで会ったときからかな。もっとも、そのことに気づけたのは、今回、きみが博多に来てくれたおかげだけど。
 じゃあ、私の勝ちね。勝ちって?私の方が先に好きになったってことよ。なるほど、そういうことか。そう、そういうこと。美奈は最後に自分に言い聞かせるように言い、ちょっと満足そうな笑みを浮かべた。
 
 小一時間、部屋でのんびりしたあと温泉に入った。浴場は、まだ時間が早いためか男湯は啓吾のほかには誰もいなかった。女湯のほうもほとんど客はいなかったようだ。
 温泉から上がり、まだ夕食まで時間があるので、二人は部屋でくつろいでいたが、啓吾は横になっているうちにうたた寝をしてしまったようだ。
 ふと目を覚ますと、明るかった窓の外はすっかり日差しが弱まり、部屋の中は薄暗くなっていた。頭の下に枕があり、薄い布団も掛けられていた。美奈が押入れから出して掛けてくれたのだろう。半身を起こしてその美奈を眼で探す。座卓をあいだに挟んだ向こう側の畳に彼女も布団をかぶって眠っているようだった。
 座卓の上の携帯で時間を確認すると、五時半過ぎだった。一時間半近く眠っていたことになる。その時間経過の感覚がまったくない。啓吾は再び横になり、ぼんやりと天井を眺める。
 あたりは静かだった。窓の外は一段と暗さを増している。秋の日は釣瓶落としというがなるほどと実感する。眠っている美奈のかすかな寝息が聞こえる。それは規則正しく静穏なものだった。
 むかし美奈は言っていた。将来のことを思うと、喉の奥に真綿でも詰まったように息を継げなくなるのだと。そうしてみれば、この安らかな寝息は、現在の彼女のささやかな幸福を証拠立ててくれているのかもしれない。
 さみしさは味も色もない毒薬だ−と美奈はさきほどの啓吾との語らいの中で言っていた。たしかにそうなのかもしれない、と啓吾は思った。考えてみれば自分だって、日暮れ前の午後にこんなふうにうたた寝をしたことなど、この六年間ついぞなかった気がする。商売が順調で店の切り盛りに忙しかったわけでも、どうしても誰かのためになさねばならぬことがあったわけでもないのに、それでも自分はいつも何かに追い立てられるような落ち着かない気分で暮らしてきた。
 だが、気づいてみると、いまこの時間にはそうした意味不明の焦燥感が自分の心のどこにも巣くっていないのが分かる。
 きっと美奈のおかげなのだろう。さらに言えば、美奈にとっての今の静かな眠りは、自分がもたらした安らぎなのだ。
 さみしさや孤独が味も色もない毒薬であるならば、こんなふうに些細な縁であっても男と女が共に過ごす時間は、その毒を解毒する特効薬に違いない。
 そう思って、啓吾はさらに何かが深く心に響いてくるのを感じた。
 この部屋に入ってすぐに、美奈は啓吾にあれこれ質問したあと、
 じゃあ、もしもあなたが私だったら、こうしてほしいって思ったのね、
 と言った。
 もしも、私があなただったら……。
 もしも、あなたが私だったら……。
 結局、この二つの言葉は同じなのだ。そして、人が愛する人に何かをするということは、(もしも、私があなただったら、こうしてほしい)と願うことをすることでしかないのだ。
 だとすれば、あの六年前も、美奈は「もしも自分が藤川啓吾だったら、一緒についてきてほしいと願っているはずだ」と信じて、ああいう行動に出たのではなかったか。
 そして、何より重要なことは、その美奈の判断は正しかったという点だ。当時の啓吾は美奈の要求をにべもなく突っぱねたが、今になって振り返れば、彼のその拒絶にさしたる根拠はなかった。むしろ彼は、心の奥底では美奈に強引にでもついて来て欲しかったのだ。
 心が通い合うとは、要するにそういうことなのかもしれない。
 自分が相手のためにしたいと思うことが、そのまま相手が自分に対してそうしたいと願うことと重なるとき、確かにその二人の心は通い合っていると言えるのではないか。
 そんなことは当たり前と言えば至極当たり前のことだ。たとえば、「あの人に会いたい」と思うことは、「あの人に会ってほしい」と思うことであり、同時に「あの人に会ってあげたい」と思うことに他ならないのだから。
 自分と美奈とはずっと心が通い合っていた。
 初めて彼女に会ったときから、自分にはそのことが分かった。だから、彼女から短い手紙を貰ったときも、最初の食事に誘われたときも、自分は割と自然にその事実を受け止めた。さらには自分が会社を去ると決心したときに、どうしても会いたくなった相手が美奈だったのも、互いの心が通じ合っていたのならば当然のことだった。
 今回、突然に訪ねて来た美奈と、結局はこうした成り行きになってしまったのも、つまりは六年の歳月が経過していたにもかかわらず、自分と美奈との心がいまだに通い合っているからではないか。
 もしも、俺と彼女との心が本当に通い合っているとしたら……。
 すでに闇に覆われた窓の外は、よく見ると川沿いに灯されたライトのせいでほんのりと明るんでいる。
 ここから先は、恐らく俺にも彼女にも何をどうすることもできないのだろう。なぜなら、通い合った心は、もはや俺のものでも彼女のものでもない、まったく別の一つの心なのだろうから。
 啓吾はそう思った。
 
 仲居さんが料理を運んでくるまで美奈は眠り続けていた。啓吾が声をかけると、彼女はぱっと目を開き、跳ね起きた。が、その拍子に右の足首に体重をかけ過ぎたようで、傷口周辺に走った不意の痛みに呻き声を上げた。
 テーブルの上には沢山の料理が並んだ。手渡されたドリンクメニューを開くと、新潟の「八海山」を見つけたのでさっそく注文した。
 啓吾さんはスコッチ専門だったんじゃないの、と常温で二合ほど、と仲居さんに頼むのを見て、向かいに座った美奈が言う。
 おやじが好きだった酒なんだ、そう言って、実は十一月一日からうちの店にも置いてある、と啓吾は打ち明ける。
 じゃあ、日本酒もメニューに入れたのね、と美奈がびっくりした顔になる。
 ああ。きみにあんなふうに言われたら、そうするしかないだろ。といってもたかだか五銘柄だし、八海山以外はいつも世話になってる酒屋の旦那さんにチョイスしてもらったんだけどね。僕には日本酒はチンプンカンプンだから。
 すごーい、と言って美奈は大げさなほどの満面の笑みを作った。
 それで、お客さん、増えたんじゃない?と美奈は訊いてくる。
 この話を持ち出せば、必ずこの質問をされるだろう、と啓吾は予想していた。だから今日まで黙ってもいたのだ。
 そんなこと言われても、何しろ火曜日に置き始めたばかりだよ。火、水、木、金と四日しか経ってないんだ。
 啓吾が声を落として言うと、見る間に美奈の顔が落胆の色に染まっていく。
 その表情の変化を目に焼き付けながら、啓吾は、俺は、この人のことが愛しい、とふと思う。
 美奈の不安げな瞳をじっと見つめ、しばしの間を置いてから啓吾はこう言った。
 それが、どういうわけか初日からお客さんの数がいつもの倍になった。昨日の金曜日なんて普段の三倍以上だった。いまでも信じられないくらいだ。
 えーっ。美奈の顔つきが再び大きく変化する。
 だけど、どうしてこんなことになったのか分からない。まるで狐につままれたってのはこういうことだね。すっかり御無沙汰だった客が取引先の人たちを大勢連れて急にやって来たり、常連だったのに転勤していった人が、また博多に戻ったからって訪ねて来てくれたり。この四日間、びっくりしっぱなしだったよ。
 だったら、どうして昨日とか一昨日教えてくれなかったのよ、と美奈は言う。
 啓吾は、最初は偶然だろうと思っていたんだ。何しろ三日の木曜日が文化の日で祝日だし、二日の客が多かったのも休前日のせいかと思った。だけど三日の日も結構来てくれたし、何より昨日のすごい客足で、どうもこれはそんなんじゃないって確信したというわけだ。
 よかった。おめでとう、と美奈は素直に喜んでくれた。
 ありがとう。きみのおかげだよ、という啓吾に美奈は、私のおかげなんかじゃないわ、と美奈は真面目な面持ちで言った。
 だったら、うちの親父のお怒りがようやく解けたってことだね。
 啓吾は冗談めかした口調で言う。
 というより、日本酒をお店に置いて貰えて、お父さまがすごく喜んでくれたんだと思うわ。
 しかし、不思議な話だね。他人に言っても絶対に信じてもらえないだろう。
 そんなことないわよ。案外、みんななるほどね一って感心すると思うわ。
 そうかな。ええ、そうよ。
 それから二合の酒を差しつ差されつでゆっくり楽しみながら、啓吾たちは一時間以上かけて食事を済ませたのだった。
 食後のデザートとコーヒーを片づけ、お互いすっかり寛いだ。
 美奈が自分の携帯で時間を確かめている。
 いま何時?啓吾が訊ねると、
 まだ七時十五分。
 これからどうしようか。
 美奈は例の悪戯っぽい瞳で啓吾を見る。
 もうちょっとしたら一緒に家族風呂に入らない?
 家族風呂?
 啓吾はちょっとたじろいで呟く。
 フロントの人に訊いたら、ここの家族風呂は無料だって。制限時間は五十分。今夜はそれほどお客さんも多くないみたいだし、きっと空いてると思うわ。
 啓吾はしばらく何も言わなかった。そして、だけどそうは言っても土曜日だし、いまから予約しても無理なんじゃないか、と渋ってみる。
 試しにフロントに連絡してみたら?
 美奈は俄然入りたそうな気配だ。啓吾は半ば義務的に床の間の上に置かれた電話機でフロントを呼び出す。彼の予想に反して、家族風呂は空いていた。いまなら何時からでも大丈夫だという。
 だったら、いまからでも入ろう、ということになった。しかし、美奈の思わぬ大胆さに啓吾は幾分呆気に取られる気分ではあった。
 狭い脱衣所でさっさと羽織と浴衣、下着を脱ぎ、啓吾はそそくさと先に浴場に入った。そのあいだ鏡の前で髪を上げて器用に結わえている美奈の方はなるだけ見ないようにした。
 家族風呂は岩造りで存外立派なものだった。
 入口には雪洞が灯り、黒く太い梁のところどころに小さな釣行灯が下がっている。南面の大きな窓は閉じられていた。天井もガラス張りのようで半露天の設計だが、外はもちろん真っ暗闇だ。室内は湯煙と弱い明かりで全体がぼんやりと霞んでいた。といっても、一緒に湯船に浸かればお互いの裸体ははっきりと見えるだろう。
 セックスを一度もしていない相手とこうして一緒に風呂に入るのは、考えてみれば生まれて初めてだ、と啓吾は思った。
 やや温めの湯の中で自分の股間に手をやる。すでにそこそこ元気づいているのが分かる。透明な湯だから、これ以上になったら美奈が入ってきたときに少し照れ臭いな、と啓吾は思う。何か気を逸らした方いい。ぐるりと見渡すと、次第に弱光に目が慣れてきたのか浴室の細部が明瞭に見えるようになっていた。岩風呂の中を窓際の方へと移動した。大きな引き違いのガラス窓の向こうは漆黒の闇だ。
 それでも目を凝らすと竹の繁った薮が見える。
 黒い窓枠で囲われた一枚ガラスの窓に、自分の顔がぼんやりと映っていた。
 その腑抜けたような顔を見て、俺はなんて馬鹿なことをしているのだ、と思う。
 よりによって神代が逮捕されて拘置所に留置されている隙に、その細君とこうして戯れている。
 これが愚かな行為でなくて何が愚かだと言うのだろう。
 だが、それで構わないのだと啓吾はつくづく思った。
 愚かであれ何であれ、自分の心と身体はこんなにも弾んでいる。かねてから考えているように、人がその愚かさを精一杯に演ずるのがこの世界での人生の目的であるのならば、神代がいまこそ本物の人生を満喫しているように、自分もまたいまこの瞬間に我が人生を満喫しているのだ。
 そして、結局のところ神代は、おのれの犯した罪をこうして償わされているのだ。
 啓吾は、ふとそう思った。
 あれは九八年から九九年にかけてのことだった。
 九九年より企業会計制度が子会社を含めた連結決算中心に変更されるのを前に、啓吾は九八年三月に突然、明治化成の子会社である明邦毛織というアクリル毛布メーカーに副社長として出向させられた。もともと出遅れていたアクリル事業に明治化成が参入したのは七〇年代の半ばだったが、九〇年代に入ると安価な中国製毛布に市場を奪われ、事業は低迷を続けていた。その事業建て直しのために啓吾は子会社に派遣されたのだが、しかし、実際に明邦毛織に着任して最初に彼が目にしたのは、莫大な量の在庫毛布の山また山だった。
 しかも明邦毛織の帳簿を子細に点検してみれば、その債務超過額は着任前に聞かされていた金額を遥かに凌ぎ、何と四百億円を優に超えていたのだ。要するに、明邦毛織は実質的には数年も前から倒産状態だったのである。そんなお荷物子会社が解体整理もされずに温存されてきた真の理由も、彼は赴任後になって初めて知った。
 この明邦毛織という会社は、明治化成のアクリル事業を存続させるために利用される、いわばダミー会社と化していたのだ。そのからくりは単純だった。明治化成アクリル事業部はアクリル毛布の原料となるアクリル繊維を大量に明邦毛織に売却していた。しかし、明邦が作ったアクリル毛布は価格競争力を持たないためにまったく売れない。だが、売れない毛布を作っているメーカーが原料を毎年購入できるはずもない。そこで、明治化成はこの子会社製造のアクリル毛布を一旦すべて自身が買い取り、これを別の馴染みの商社に全品売却したことにするのだ。その段階でアクリル事業部には帳簿上の売上が立つわけだが、この商社が引き取った毛布は実はそのまま明邦毛織が全て買い戻していたのだ。そしてその買い戻し資金は、子会社に対する融資という名目で全額を明治化成が支出していたのである。
 こうした「飛ばし」は啓吾が明邦毛織の経営を見るようになった時点では、すでに常態化しており、架空の売上は「対策」、不良在庫は「黒玉」という隠語で社員の間で公然と語られている有り様だった。
 会計制度の変更を翌年に控えた厳しい状況の中、それでも啓吾は、この明邦毛織の思い切った再建案を本社の監査法人の会計士たちと協力して一年がかりで練り上げた。そしてそれを九八年末に明治化成経営陣に提出し、一度は本社でも承認されたのだった。
 ところが、九九年に入ると突然にその再建案は反故にされ、逆に彼はこの赤字会社を連結対象から外すように指示を受け、加えて膨大な不良在庫を処理するために、さらなる飛ばしを継続するように川尻社長直々に厳命されたのだった。
 いまにして思えば、アクリル事業だけに止まらず、あの時点では明治化成本体の経営そのものが破綻寸前の状態であり、すでに巨額な粉飾決算が川尻社長らの手で行なわれていたのだ。啓吾の提出した再建策など採用されるはずもなかったに違いない。
 啓吾はこの川尻社長の指示に従うことは断じてできないと考えた。不良在庫の飛ばし行為はどこのメーカーも善かれ悪しかれ多少は行なっていることだ。しかし、会計方式の転換を目前にして、これほど巨額の在庫隠しを継続するというのは法的にも、企業倫理上もおよそ許されることではなかった。
 社長から命令を受けた直後、啓吾は思い余って一度神代にも相談を持ちかけた。これもいまにして思えば、神代は経理部長として社長や副社長と共に粉飾決算に血道をあげていたのだから相談相手として最も不適格な人物だったわけだ。案の定、あのときの神代は、悩みを打ち明ける啓吾に対して木で鼻を括ったような態度を見せた。
 藤川、社長命令なんだ。やるしかないだろ、彼はそう言っただけだ。そして、あと一年辛抱すれば、来年には必ず本社に戻れるさ。例の売却話の失敗は別にお前一人のせいってわけじゃない。役員の中にも分かってくれている人はきっといるはずだ、と啓吾が内心驚くような台詞を彼は口にしたのだ。
 啓吾は、この瞬間、自分の明邦毛織への出向が懲罰人事だったことを知った。迂閥な話だが、それまではそんなことは思ってみたこともなかったのだ。それにしても、一体誰が、ホームプロダクツ事業の売却失敗の責任を、単なる交渉窓口の責任者に過ぎなかった自分に押しつけたのか?神代の前で顔には出さなかったが、彼の腹中に湧き上がった怒りは尋常なものではなかった。
 この男も、そうやって俺に責任を押しつけた人間の一人だ。
 啓吾は行きつけの赤坂のバーで、お気に入りのグレンフィディック18年のオンザロックをすすっている目の前の神代のしれっとした面貌を見つめながら、そう直感した。
 もうこの会社にしがみついていても仕方がない、と彼が痛切に思い知ったのは、実はその瞬間だったのだ。
 神代は結局、最後まで粉飾の事実を啓吾に伝えなかった。それは神代の配慮だった可能性も皆無ではないが、やはり彼は親友よりも会社を選んだにすぎない、というのが正解だろう。サラリーマンとしては当たり前の選択だったかもしれない。だが、人間としては間違っていた、と啓吾は信ずる。だからこそ、神代はその報いを、さらには妻を裏切り、富永優花や他の女性と情事を重ねつづけた報いを、いまこのような皮肉めいた形で受けているのではないか。そうやってこの世界では、人は必ず自らの行ないの報いを受ける。むしろ、たとえ本人が気づかない形であったとしても自らの過ちの報いをきっと受けるからこそ、人間にはこの世界で愚かなことを繰り返す権利と資格があるのではないか。
 啓吾はなかなか来ない美奈を待ちながら、そんなことをつらつら考えていた。
 
 十分近くも過ぎて、やっと美奈が浴場に入ってきた。
 病室で初めて目にしたときも、長い髪を後ろで縛った美奈はひと際きれいだったが、今夜の彼女は髪を頭頂部でまとめ上げてうなじをすっかりあらわにしていた。容貌は言うまでもなく、細い首筋から肩、背中にかけてのラインはまさに見惚れるほどの艶やかさだった。
 その美奈が湯船に背中から身を沈めたかと思うと振り向き、たわわな乳房を惜しげもなく晒しながら啓吾に抱きついてきたのだった。
 せっかくおとなしくなっていた啓吾の股間は瞬く間に勢いを取り戻してしまった。
 二人は何度かきつく抱き合ってから、身体と身体とのあいだに少しの隙間を作り、顔を見合わせた。
 どちらからともなく唇を寄せ、むさぼり合うようなキスをする。
 互いの舌を吸い、溢れる唾液をすすり合いながら、美奈は右手で啓吾のはち切れそうなペニスをしっかりと握る。啓吾も美奈のヴァギナに右手を這わせた。中指を立てて入口から差し込むとすうっと指の付け根まで沈み込んでいく。湯の中でも美奈のそこがたっぷりと潤っているのが分かる。獣じみた口づけを繰り返しつつ、延々とお互いの性器をいじりあった。
 その後、啓吾は一旦身体を離すと美奈を抱きかかえた。そのまま岩風呂の比較的平らな縁に正面を向いて座らせ、彼の顔前でぴったりと閉じられていた二つの膝頭を両腕でこじあけるように大きく開いた。有無を言わせずにその股間に顔を埋める。美奈は呻くような声を上げ、啓吾の後頭部に両手を添えると、思いのほか強い力で彼の頭をぐいと自らの股間に押しつけてくる。鼻先でクリトリスを、尖らせた舌先で無味無臭のヴァギナを、感覚的にはもみくちゃにするような気分で左右上下に刺激しつづけると、美奈が押し殺したような喘ぎ声を連続させ始めた。
 ヴァギナからはとろりとした液体がみるみる湧き出してくる。
 そうやって行為に熱中しているうちに、いつものことだが啓吾のペニスは幾分柔らかくなってくる。
 美奈が唇を噛みしめながら達するのを五回まで確かめてのち、啓吾はようやく股間から顔を離した。今度は身体を入れ替えて、彼が岩風呂の縁に尻を落ち着けた。上体をやや反らせて起立したペニスを美奈の鼻先に突き出すようにする。そのペニスに美奈は間髪容れずにしゃぶりついてきた。
 彼女が口を前後するたびに身体の振動で湯面がぴちゃぴちゃと音を立て、一方で彼女の口許からも同じような音が聴こえてくる。巧みな唇と舌の動きに啓吾は尻の穴から臍の下にかけて痺れるような快感が幾度も走るのを感じた。
 もうこれ以上は、と思ったところで美奈の口からペニスを抜き、彼は岩場から降りると美奈の肩を掴んで彼女を背中向きにした。そのまま美奈の両手を背後から導いて、風呂の縁に平行に掌をつかせる。さらに爪先立つように命じて、意外に張った白い尻を湯面の上に高く掲げさせた。
 そして硬度を増したペニスで美奈の潤みきったヴァギナをひと思いに貫いた。
 うっ、という呻きのあと、あーん、という鼻にかかった甘ったるい声が狭い浴室全体に響きわたる。
 啓吾の方は、これまで頭の中に立ち込めていた靄が一瞬で晴れたかのような、これまでずっと視界を遮ってきた薄い暗幕が突然切って落とされたかのような、不思議な爽快感を味わっていた。
 女性の中に分け入ったのは、離婚前に妻の塔子を最後に抱いて以来、実に六年半ぶりのことだった。
 ヴァギナとはこんなにも熱を帯びたものだったのか、と久方ぶりに思い出して、どういうわけか啓吾は感無量の心地となった。
 ゆっくりと腰を動かす。そのたびに美奈が堪えきれずに小さな悲鳴を上げる。
 どれくらい経過してからだろう、太股の付け根あたりまで浸している湯のせいか次第に啓吾の頭はぼうっとしてきた。肌を粟立たせるような快感と、血が滾り過ぎたような不快感とが身中でないまぜになって、意識が集合場所を見失ったようなあんばいだった。
 そのとき、不意に美奈が尻を振って自分からペニスを抜いた。ちょっと待って。なんだか私、茄っちゃった、と背を向けたまま、肩で浅く息をつきながら言う。こちらを向いて、もう、お部屋に戻らない?と言う。
 啓吾も、そうしよう、と言い、美奈が先に風呂から上がった。その裸の背中を追いかけるように啓吾も浴場を出た。
 無言のまま急いで互いの身体を拭き合い、浴衣と羽織を身にまとう。
 二人とも下着は身につけず、持ってきた旅館の小さな手提げ袋に突っ込んだ。そして、家族風呂から出ると、示し合わせたように小走りで部屋に戻ったのだった。
 室内にはすでに布団が二組並べて敷かれていた。
 明かりを消すでもなく、啓吾も美奈も我先に帯を解いて素っ裸になる。手前の掛け布団の上に折り重なって、美奈の右足にだけは注意しながら、啓吾は猛り立ったペニスを再び彼女の中に挿入した。美奈の声は、浴場でのそれと比べて驚くほど高く大きくなった。絶叫に近い声を上げ、瞑目したまま顔を歪める彼女を見下ろし、啓吾も目を閉じる。
 いま自分が一本の太い杭となって美奈の中心の中心にまっしぐらに突き立っていくのを感じた。
 そう感じた直後、激しく動かしていた腰の右脇の筋肉に熱い感触が広がった。まるで熱湯の入った小さな風船玉が筋肉の中で突然に破裂したような、そんな湿感を伴った熟さだった。
 興奮の極みに達していた意識が、ふと冷却される。
 嫌な感じがした。それでも、ますます熾烈になる美奈の反応に励まされて、啓吾はしばらく腰を動かしつづけた。だが、五分もすると腰の芯に宿った熱の固まりはさらに大きさと熱さとを倍加させ、次第に別の明瞭な形に転化していった。
 それは、要するに烈しい痛みだった。
 啓吾は、唐突に動きを止めた。背筋を突き抜けるような痛みに襲われ、身体を支えていた両腕の力があっという間に抜けていく。そのままの恰好で彼は美奈の上にのしかかっていくよりなかった。それでも必死の思いで、自分の左足が美奈の右足首に当たらないようにと左太股の関節を大きく開く。その余分な動きがさらなる強烈な痛みを誘発した。
 うーっ、と異様な唸り声を耳にして、意識を半分飛ばしていた美奈も我に返ったようだった。びっくりした声で、啓吾さん、どうしたの、と急に覆いかぶさってきた彼に訊く。
 啓吾は美奈にしがみつくようにしてしばし無言のまま痛みに耐えた。じっとしていると少しずつ痛みが薄らいでいく。やっぱり腰をやられたようだ。啓吾は、重いだろ、申し訳ない、と言いいながらもしばらく身体を美奈の上に預けたまま動かずにいるしかなかった。
 寒いでしょ、と言って、美奈はその体勢のままで、啓吾の背中に回していた右手を動かし、掛け布団の右端を捲って彼にかけてくれた。さらには左手で左端を同じように捲ってくれる。
 それから五分ほど二人とも黙りこくっていた。啓吾は美奈の左頬に自分の左耳を当てるようにして身じろぎ一つせずにただ固まっていた。
 どうやら腰の焼けるような痛みは消えてくれたようだった。いままでの経験だと、もう五分もすれば少しは身体を動かしても平気だろう。少なくとも美奈の上から降りるくらいはできそうだった。
 目をつぶって何も考えずにいた啓吾の耳元で、かすかな吐息がこぼれる。それは吐息というよりは間歇的な息継ぎのようだった。美奈の呼吸がつらくなったのか、と啓吾は慌てて首を持ち上げたが、どうやら美奈は笑いをこらえているようだった。
 どうした、と啓吾が真剣な声で訊ねると、だって、これじゃあ私たち、双子の蓑虫みたいじゃない、と言い、美奈の笑いはさらに大きくなる。そうやって彼女の身体が震動しても啓吾の腰にそれほどの痛みは起こらなかった。
 ほっとした気の緩みが、彼の心の隙間に笑いを運んだ。
 これって、俺、最悪にカッコ悪くないか、と啓吾が言う。
 すごいよ。私もこんなにカッコ悪いことしたの初めて、と美奈。
 ほんとは重いんだろ、と言うとそこで美奈は身をよじった。
 ごめん、啓吾さんったらすんごい重いよ、と言った途端、噴き出すように彼女は笑い始める。
 啓吾も笑いを我慢できなくなる。歯をくいしばって彼は上半身を捩り、美奈の左隣に一気に身体を下ろした。
 着地した瞬間にやはり腰の中心に焼け火箸を突っ込まれたような痛みが走った。が、啓吾は自分の笑い声でその痛みを何とかやり過ごす。
 笑いつづける美奈を右の手で引き寄せた。美奈が泣きそうな声を出しながら啓吾の肩にしがみついてくる。
 啓吾もそんな彼女を右腕に抱いて、ずいぶん長いあいだ一緒に笑ったのだった。
 
 翌日曜日の朝になると腰の痛みはだいぶおさまっていた。明け方には何とか一人で手洗いまで歩けるようになったし、朝食が始まる前の二時間ほどはぐっすり眠ることもできた。身動きの取れない啓吾の横で、美奈は一晩中起きてくれていた。腰にそっと手を当てて、長い時間黙々とさすりつづけてくれたのだ。
 八時半からの朝御飯は、ちゃんとテーブルについて食べることができた。
 とはいってもこのまま長時間歩いたり、まして運転をしたりはとてもできない状態ではあった。
 啓吾は仲居さんに事情を話して、もう一日この部屋に滞在させてもらうことに決めた。彼女は心配げな様子になり、布団を再び敷いてくれたあと帳場に行って沢山の湿布薬を貰って来てくれたりした。
 昼過ぎまで二人とも眠り、起きてみるとさらに腰の痛みは軽減していた。
 温泉に入ってみたら。腰痛だったらきっと効果があるはずよ、と起き抜けに美奈に勧められて、啓吾は思い切って湯に浸かってみた。なるほど美奈の言う通りで一度の入浴で格段に痛みは和らいだのだった。
 十一月七日月曜日。
 朝にはどうやら腰の痛みは引いていた。昨日一日、何度も入浴したのが良かったのかもしれない。温泉の効能に啓吾はあらためて感心させられた。
 結局、帰路は美奈が運転してくれることになった。
 美奈の右足もペダルを踏むのに問題がないくらい正常になってきたのだという。
 結果的には二泊したおかげで私の足の調子も格段に良くなったし、啓吾さんの再発も軽くて済んだし、これってまさに怪我の功名ってことよね、と美奈は旺盛な食欲で朝食を片づけながら、呑気な声で言う。
 啓吾はそんな美奈を見ながら、そういえば彼女が友人の店のブランド名を決めるときに選んだキーワードには「自信」、「行動力」、「笑顔」そして「雄々しさ」といったポジティブな言葉ばかりが並んでいたことを思い出した。
 きみの養生のためにせっかく案内したのに、却ってこっちが迷惑をかけてしまって悪かったね、と啓吾は頭を下げた。
 それよりも、啓吾さん、今夜のお店は開けられそう、と美奈に訊かれ、啓吾は、この感じなら、やれると思うよ、と答える。
 美奈が、もし啓吾さんが無理なら、私が代わりにカウンターに立とうかとも思ってたの、と言ってくれる。啓吾は、内心それも悪くないな、と思う。美奈があの店を手伝ってくれればきっと大繁盛間違いなしだろう。
 そうした彼の心中を察したのかどうか、彼女はふと箸を止め、何か思い出したような顔を作って言った。
 あ、それからこのあいだ、退院したらしばらく私を家に置いてくれるって啓吾さん言ってたけど、私もこの感じだったら今日からホテル暮らしを始めても全然大丈夫だから、もうそのことは忘れてもらって構わないわ。その代わり、今週中に何とかアパート見つけたいから御協力をよろしくお願いします。
 その屈託のない笑顔に触れて、啓吾は日に日に逞しさを身につけていく美奈に何かしら圧倒されるものを感じていた。
 
 
 神代富士夫が東京拘置所内で倒れ、都内の病院に搬送されたことを知ったのは、十一月十四日月曜日の朝だった。その日、啓吾は午前八時頃に起床して、朝刊をひとわたりざっと眺めていた。
 すると第二社会面の隅にベタ記事扱いで小さくその事実が報じられていたのだ。
 啓吾は慌ててパソコンを起ち上げ、インターネットで他の記事にも当たってみた。彼の購読紙は朝日新聞だが、ヤフーで紹介されていた読売新聞の記事はさらに詳しいものだった。
 読売によれば、神代が心臓発作で倒れたのは昨十三日の昼過ぎで、すぐに東京女子医大病院に運ばれたらしい。十月二十六日の逮捕からすでに十九日が経過し、勾留期限まであと一日を残すのみであることから、裁判所は職権によって今日中には彼の保釈の決定を行なうだろう、と記事にはある。容体に関しては、生命に別状はなく現在は安定しているとのことだった。
 啓吾は読売の記事をプリントアウトすると、そそくさと外出の支度をして家を出た。
 
 美奈は一昨日の土曜日に新居に引っ越して来たばかりだ。
 啓吾の家から歩いて五分足らずの距離にあるその部屋を見つけてきたのは啓吾だった。亡くなった父の親友で、去年までこの界隈を束ねる商店会連合会の会長も務めていた「坂上」の坂上善太郎社長に相談してみたのだ。「坂上」はもともとは戦前から統く油問屋だったが、現在はこの一帯で手広く貸しビル業を営んでいる。啓吾がブランケットを始めるとき、父の遺してくれた駐車場を買い取ってくれたのもこの坂上社長だった。そこで脇田温泉から帰った当日に電話で物件探しを依頼すると、翌火曜日には三つばかり手頃な部屋を見つけて社長直々に連絡してきてくれたのである。
 その日のうちに啓吾は美奈を連れて紹介された不動産会社を訪ね三つの部屋を見て回った。結局、美奈は三件の中で、最も早く入居可能な大名一丁目の1LDKを選択した。
 家賃は月額七万円。この周辺の相場からすれば破格の安さと言ってよかった。
 即日入居の物件ともあって翌日にはさっそく契約・引き渡しを済ませた。そして金曜までの三日間でカーテンやジュータン、布団、テーブル、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、台所用品など必要最低限の物を揃え、土曜の午前中、美奈は天神のビジネスホテルを引き払ってこのマンションに移って来たのだった。
 啓吾は昨日の日曜日も昼間は細々とした美奈の買い物に付き合い、夜は彼女が啓吾宅を訪ねてくれて、二人で引っ越し祝いの杯を交わした。午前三時過ぎまで痛飲し、したたかに酔っ払った美奈をマンションの玄関まで送り届けもしたので、啓吾が眠ったのは四時を回った頃合だった。
 従って、今朝は四時間足らずの睡眠で目を覚ましたのだ。
 恐らく美奈はまだ眠っているだろう。もちろん、神代が倒れたことなど知らないに違いない。
 一刻も早く知らせてやらなければ、と考えながら啓吾は彼女のマンションへと急いだ。
 七階建てのレンガ色のマンションの案外に豪華なエントランスをくぐり、オートロックの入口のインターホンで301号室を呼び出す。何度目かにようやく美奈の寝惚け声が返ってきた。
 ドアを開けてくれた美奈に上がり框の所で記事のコピーを渡すと、彼女はその短い文面に素早く目を通し、どうぞ、入って、といつもと変わらぬ表情で言った。
 十畳ほどの広さのリビングには二人掛けの丸テーブルと椅子が二脚置かれている。キッチンを背中にして美奈が座り、その正面の椅子に啓吾が腰を下ろした。起きぬけだったからか隣の和室とを隔てる扉が開きっ放しになっている。
 神代はいつから心臓が悪かったの、と啓吾が訊くと、美奈は、心臓なんて悪くなかったわ。いままで一度だって胸が苦しいなんて言ったことないもの。と言う。
 だけど、最近の彼のことはきみはよく知らないんだろ、と啓吾が言うと、美奈は、神代が家に帰らなくなったのはここ二カ月くらいのことで、それまでは少なくとも何ともなかったはずだわ、と言った。
 啓吾は、とにかく彼が倒れたというのだから、今は一度東京に戻って様子を確認した方がいい、と勧めるが、美奈は、どうせそばに富永優花がついているんだから、もう彼のことを守るのは私の仕事じゃなくて彼女の仕事なの、と言って聞かない。
 ただ、そうやって長年連れ添った夫を切って捨てる構えの美奈に、それ相応の権利と資格が果してあるのかどうか、現在の啓吾には甚だ疑問に感じられる。神代が美奈を裏切ってきたように美奈もまた夫を裏切ってきたのだ。そして、美奈はこの自分のことも体よく利用しているだけなのかもしれない。先日、慶子から聞かされた話で、美奈へと大きく傾きかけていた彼の気持ちがかなりの修正を余儀なくされたのは事実だった。
 しかし、この世界では互いに裏切りつづける者同士こそが、罪のなすり合いをするかのようにそれぞれの罪の報いをも与え合うものなのだろう。そもそも裏切るという行為自体がその相手への報復でもある。もっと大きく広げて考えれば、誰か特定の人間を信じるという行為でさえも、他の多くの人々への不信を土台として初めて成立するものなのかもしれない。疑うことも、憎むことも、信ずることも、愛することも、所詮は一枚の布地の裏表であり、人間というのは、強い風にはためく薄っぺらな布切れのようにそうした愛憎を風に吹かれるままに周囲に撒き散らし、それでかりそめの満足を得たり、死にたいほどの苦しみを味わったりする。だが、そうやって自分を翻弄しつづける当の風の存在や、その風を吹かせている更に深遠で巨大な存在に対しては、不思議なほどに無頓着だったりするのだ。
 誰かと関わりを持つというのは、相手と繋がった瞬間にその相手を裏切り始めることでしかないのかもしれない。人と人との関係とは本質的にそういうものなのだ。裏切りのない愛もなく、愛のない裏切りも恐らくない。つまりは、いつの時代も恋人や家族との関係は、人間にとって最大の生き甲斐であると同時に最大の苦痛の種でもあるのだ。だからこそ、人の不幸のほとんどすべてが愛すべき人や愛すべき家族たちとのあいだに生まれてくるのだろう。
 啓吾は美奈の話を聞いたあと、しばらく黙ったままでいた。
 決心を固めて、彼は言った。
 きみの気持ちはよく分かった。もう何も言わない。その代わり、俺が神代に会いに行ってくるよ。
 美奈は束の間びっくりするような顔を作ったが、腰はもう大丈夫なの、と彼が夫に会いに行くこと自体には反対する気配もなく、そんなことを訊ねてきたのだった。
 実は、温泉から戻った翌日には啓吾の腰の具合はすっかり回復していた。しかし、慶子の話もあって彼はここ数日、美奈と同衾しない言い訳に腰痛を利用してきたのだった。
 東京に行けば、もちろん富永優花とも会うことになるし、神代にも美奈と自分のことを話すことになるだろう。
 分かった、と美奈はきっぱりと言った。全部、あなたに任せる。私はもう二度と東京に戻るつもりはないの。
 この美奈の言葉はきっと偽りではないだろう、と啓吾は思う。実際、昨夜の彼女の話では、バッファロー社長の春日玉枝が、さっそく今週中に来博の予定であるらしかった。美奈は本気でバッファローの直営店をこの博多で開くつもりのようだ。
 啓吾は明朝一番の便で東京に出向くことに決めて、美奈の部屋をあとにした。
 念のため神代の新しい携帯の番号、それに美奈がひそかに夫の携帯から写し取ったという富永優花の携帯の番号も啓吾は教えてもらった。ただ、心臓発作で女子医大に入院している神代本人とは、よほど病状が深刻でない限り、すぐに面会は可能だろう。
 相変わらずブランケットの客足は増えつづけている。店はにわかに忙しくなってきていた。ようやく軌道に乗りつつある店をいまここで長く休むことはできない。できれば一日、二日で神代とのやり取りは片づけてしまいたかった。
 啓吾自身も神代と会って、一体何を話すのか、また何のために会うのかはっきりしているわけではない。ただ、美奈が帰らないと宣言している以上、その美奈を預かっている自分が神代のところへ出向くのは当然のことだ、と彼は考えたのだ。
 美奈の方も、さきほどの反応を見る限り、自分が啓吾だったら自分の代わりに夫のもとへ決着をつけに行くはずだ、とかねてから思っていたのではないか。だからこそあんなにすんなりと啓吾の上京を認めもしたのだろう。それどころか、彼女は別れ際に、滞在が延びるようだったら、ブランケットは私が代わりに開けるから、そのときは遠慮しないで言ってね、とさえ言ったのだった。
 啓吾は家に戻ると、すぐに一階に降りて店の掃除を始めた。時刻は九時を回ったところだ。午後にでも旅行代理店に行って明日の飛行機のチケットを手配し、ついでにホテルも予約して貰わなくてはならない。
 慶子に連絡して、今日は突出しが必要のないことを告げた。とうに準備ができているこの時刻に断るのはむしろ気の毒だったが、明日から二、三日上京することを一応伝えておきたかったのだ。
 上京の理由は、例の友人が急に倒れてしまったからだ、とありのままに話した。
 顔だけ見たら、すぐに戻って来るよ、と啓吾は言った。
 だけど、あの美奈さんって奥さんもつくづく災難続きね、と別に同情したふうもなく慶子は言った。
 まあ、人間そういうときもあるものさ、と啓吾は適当に受け流して電話を切ったのだった。

 慶子には、美奈は五日の日に退院して、そのまま東京に戻ったと説明していた。
 美奈が啓吾の家にしばらく滞在するのならば、彼女のことをきちんと慶子に紹介するつもりだったが、結局のところ、彼女はホテルから自分のマンションへと移ったので、二人が鉢合わせすることは一度もなかったのだ。それで、啓吾はとりあえず美奈のことを慶子に打ち明けるのを控えた。先週の月曜日、突出しを持って店に顔を出した慶子から、のっけに美奈に関する驚くような話を聞かされたことも、本当のことが言えなくなった大きな理由ではあった。さらには、先月三十日の日曜日、大橋の慶子のマンションで晩御飯を御馳走になっての帰り、車で大名まで送ってくれた美樹から言われた話も、彼の口を重くさせてしまっていた。
 美樹はブランケットの前で車を駐めると、助手席の啓吾に、慶子と結婚してくれないか、と頼んできたのだった。
 お母さんの気持ちは、おじさんもよく分かってるはずでしょ、と美樹は言った。
 二十歳の美樹は地元の短大の二年生で、母親に似てなかなかの美人だった。
 私、お母さんを見ていて感じるんだけど、お母さん、昔からずっとおじさんのことが好きだったんじゃないかなって思うの。
 これまで美樹とそんな話をしたことは一度もなかったので、啓吾はちょっとどぎまぎしてしまった。何しろ彼が博多に戻った頃は、彼女はまだ幼さの残る中二の少女でしかなかったのだ。
 美樹の言うことは啓吾にも分かり過ぎるくらい分かっていた。慶子の別れた夫は高校の教師をしていたが、七年前、その夫と離婚したことを電話で知らせてきた彼女が口にした台詞を、啓吾はいまでもはっきりと憶えていた。
 でもいいの。十五年も連れ添っておいて言うのも何だけど、あんまり面白い結婚生活じゃなかったもの。まあそれでも、美樹を授かっただけで私は一応満足してるけどね。
 慶子は実にさばさばした声でそう言ったのだ。
 お母さんが俺なんかと一緒になりたいなんて思ってるわけないじゃないか。大体、俺とあいつとは従兄妹同士だし、まだあいつだって十分若いし、あんなにきれいなんだ。もし、美樹がお母さんの再婚を認めるっていうのなら、俺なんかよりマシな相手が幾らだっているに決まってるよ。
 その場は、一笑に付して啓吾はさっさと車から降りたのだが、あの晩以来、近いうちに慶子に対してきちんとした意思表示をしなくては、と思うようになっていた。だとすれば、美奈の存在を伝える前に慶子と話したいと啓吾は考えているのだった。

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