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白石一文『もしも、私があなただったら』(光文社)
 作品について | あらすじ T  U 

あらすじ U
 店内の掃除をあらかた済ませたときには十一時を過ぎていた。
 客の入りが多いとこんなにも店が汚れてしまうのだ、と啓吾は初めて知った。同時に、たくさんのお客さんが来てくれるのだと思えば、ついつい掃除にも熱が入ってしまう。いままで滅多に使われることもなかったグラスも、最近は大活躍だった。一個一個を磨く作業にしても、かつてない張り合いを感じる。
 しかし、そうやって掃除やグラス磨きをしながら、いつも脳裡に浮かんでくるのは、一週間前に慶子から聞いた美奈に関する話だった。あの話を耳にして以来、啓吾は美奈の真意をはかりかねて、ああでもないこうでもないと憶測と推測の堂々巡りを繰り返しているのだ。
 慶子が披露してくれた話は、もともとは美樹が福岡空港で働いている友人から聞きつけてきたものだった。慶子は、美奈が入院した当日、啓吾を東福岡総合病院まで車で送ってくれた。そのあとで、慶子が娘の美樹にその話をしたところ、美樹はたまたま空港勤務の友達と会う機会があって、その友人から美奈が怪我をしたときの詳しい状況を聞き込んできたのである。
 美樹が聞いた話では、あの日、空港のエスカレーターで転んだ女性は、むろん怪我もしていたが、それよりも彼女が転倒の際に流産してしまった ために空港中で大騒ぎになったとのことだった。
 啓吾はこの新事実を耳にして、文字通り仰天した。すでに彼は承知済みと思い込んでいるふうの慶子の前では動揺した素振りは見せなかったが、内心では、にわかには信じがたい話に茫然自失に近かったのだ。
 しかし、慶子が引きあげた後で多少冷静に吟味してみれば、彼女のもたらした情報の正しさを裏付ける傍証は幾つもあった。
 初めて病室を訪ねたときにそこが婦人科病棟だったことも、骨折にもかかわらずなぜか手術日が二日後だったことも、さらには啓吾が主治医と面会するのを美奈が極端に嫌ったことも、そういうことならばすんなり納得できる。
 だが、一方で浮かび上がってくる疑問も数々あった。
 そもそも、美奈がこの博多まで啓吾を訪ねてきたのは、一カ月でいいから彼と同棲して妊娠したいと願ったからのはずだ。すでに子供ができていたのなら、なぜわざわざそんなことをしなければならないのか?
 それに、仮に妊娠していたのならば、博多に来た晩に彼女はどうしてあれほどの大酒を飲んだりしたのだろうか?翌日大濠公園を散歩したときに全力疾走したのも、およそ妊婦の取るべき行動とは思えない。
 何より最大の疑問は、彼女のお腹の中に宿った子供は一体誰の子だったのか、という点だ。もしも神代の子だったのならば、幾ら彼に愛人がいたとしても、妻の美奈があっさりと子供の父親でもある神代を諦めたりはしないだろう。それに、妊娠したとなれば当然神代の美奈への態度にも変化が期待できるというものだ。
 では、なぜ身重の美奈はそれでも啓吾のもとへやって来たのか?
 想像できるのは、たとえばこういうストーリーだ。
 まず、美奈のお腹の子供の父親は神代ではない。いつぞや彼女が言っていた神代に子種がないという話は真実で、従って彼の子だと偽るわけにもいかない。しかし、彼女は子供のほんとうの父親のもとへも戻れない何らかの事情を抱えていた。そこで一計を案じ、啓吾のところへ転がり込むことに決めた。そして、妊娠を隠して啓吾と交わり、彼をニセの父親に仕立て上げようと考えた。ホテルで話を切り出したときは、認知も必要ないし、一緒に暮らす必要もないと彼女は言っていたが、それは啓吾を口説き落とすための手管に過ぎなかったのかもしれない。
 が、彼女のそんな甘い目論見は啓吾に一蹴される。そこで彼女は自棄を起こして酒を浴びるように飲み、翌日には公園で全力疾走もし、最後には空港のエスカレーターで偶然にか故意にか転倒してお腹の子供を流してしまった。
 要するに考えを切り換えて、まったく新しく生きなおす決心をしたのだ。
 だから、もう啓吾と一緒に暮らす必要もないし、夫の神代が心臓発作で倒れようが頓着などしない。流産を契機に美奈は過去までもすべて洗い流し、本気で再出発するつもりなのではないか。
 そうでなければ、せっかく身ごもった我が子を失い、夫も家も何もかも失っていながら、ああまで吹っ切れた様子を見せられるはずがない……。
 彼女が妊娠していたという事実から推理を重ねていけば、しまいにはこんな筋立てに辿り着いてしまうが、さすがに飛躍に過ぎる印象は否めなかった。
 美奈はもう四十三歳だ。たとえ誰が父親であろうと、授かった我が子を自らの意志で葬り去ろうなどとするだろうか。それ以前に、幾ら先行きが不透明であっても、あの芯の強い心の持ち主がお腹の子供に危険が及ぶような無茶をやったりするだろうか。
 そう考えると、啓吾はどうにも美奈という人間のことが分からなくなってしまうのだった。
 前夜も客が立て込み、看板の灯を消したのは午前三時過ぎだ。店内の片づけを終えて二階に上がり、一度はこのまま夜を明かして七時十分発の始発便に乗ろうかとも思ったが、若い頃のように一睡もせずに翌日を乗り切れる体力があるわけでもなく、まして不眠は腰痛にとって大敵なので、出発を遅らせて、最低限の睡眠を確保することに啓吾は方針変更したのだった。
 結局、彼は十時発のANA248便で東京へと飛び立った。
 一時間半のフライトのあいだもぐっすり眠れたから、定刻の十一時半に羽田に到着したときには爽快な気分になっていた。
 火曜日の昼前だというのに羽田空港の人込みは凄まじかった。福岡空港とは路線数も規模も比較にならないとはいえ、その混雑ぶりの余りの違いに啓吾は愕然とする。
 九九年の六月にこの空港から福岡に発って以来、実に六年五カ月ぶりの東京だった。
 地下のモノレール乗り場に向かう前に、啓吾は携帯で富永優花に電話を入れた。
 もしもし、富永優花さんですか?僕はむかし明治化成にいた藤川啓吾です。覚えておられますか?
 わずかの間合いがあって、はい、ご無沙汰しております、とさして驚いたふうもなく落ち着いた口調で優花が返事をする。その応対ぶりで神代と優花が付き合っているという美奈の言葉が偽りでないことを知る。
 啓吾は、神代が倒れたと新聞で知って、顔だけでも見たいと福岡から駆けつけたのだが、と言うと、優花は、ご心配かけてすみません。もうだいぶ元気になってきていて、とりあえず来週には退院できそうです、と彼女は言った。
 病院を訪ねる前にぜひ一度あなたにお会いしておきたいのだが、という啓吾の申し出を彼女はこころよく承諾してくれ、二人は啓吾が宿泊予定の赤坂プリンスのフロント前で五時に待ち合わせることにした。
 啓吾は、とりあえず赤坂プリンスホテルにチェックインし、二十八階のツインルームの窓際に立って眼下に広がる晩秋の東京の街並みをしばらく眺めていた。
 東京は六年前と較べて大きく様変わりしていた。着陸直前に飛行機の席から見た湾岸の風景にも圧倒されたが、こうして高い場所から都心を見渡すと、啓吾が暮らしていた頃よりも街全体がはるかに肥大化しているのが一目瞭然だ。
 目前の赤坂一帯にもプルデンシャルや山王パークタワーなど、啓吾が明治化成に通っていた時分にはまだ建設されていなかった高層ビルが聳え立ち、遠く丸の内や品川方面へと目を転じてみれば、やはり見たこともない巨大ビル群が至るところに出現しているのだった。
 失われた十年などと呼ばれ、日本経済の凋落が喧伝されて久しいが、少なくとも首都・東京だけはその喪失の時代にもこうして着々と巨大化を果たしてきたということか。
 右手に目をやると青山通りを挟んだ元赤坂一丁目には明治化成の本社ビルが建っている。その背後は広大な赤坂御用地の森だった。啓吾が入社して十二年目、一九九一年にこの新本社ビルは完成した。当時は地上二十五階、地下三階のビルは赤坂地区でも一際威容を誇る建物だった。バブル経済が弾ける直前に着工し、落成したときには日本経済の失速に平灰を合わせるかのように明治化成の業績も急降下を始めていたのだったが。
 いまや変哲もないオフィスビルにしか見えない明治化成本社を見つめ、それでも啓吾の胸には想像以上に込み上げてくる思いがあった。
 丸二十年間の会社暮らしの中で、この本社ビルで過ごした三十四歳から四十二歳までの八年間は、まさに悪戦苦闘の連続だった。毎朝毎晩休みもなく働き、そうやって幾ら頑張ってみても一度傾きだした会社の屋台骨を支えることは叶わなかった。挫折と徒労だけの八年であった。
 だが、数年の歳月を経てこうして振り返ってみれば、あの八年は必死で働くことのできた充実した時間だったような気が啓吾にはした。この手に残るものは何一つなかったが、それでもいまにして思えば、決して悪くない月日だったような気がする。
 そして、たとえ長い退却戦だったとはいえ、神代富士夫は啓吾が辞めてのちもさらに五年以上にわたってこの本社ビルに踏みとどまり、覆せぬ劣勢に苛立ちと憤怒、絶望を日々感じながらも懸命に働いたのだ。そう思うと、少なくとも沈みかけた会社からさっさと逃げ出してしまった自分には、彼の責任をどうこう言う資格など一切ないことを痛感させられるのだった。
 
 四時五十五分きっちりに富永優花は、正面玄関をくぐってロビーに入って来た。
 フロントの近くから入口を見ていた啓吾は、すぐに彼女を見分けることができた。紺のスーツの上にブルーグレーのコートを羽織っている。靴は黒のパンプスでバッグはコートと同系のグレークレアのケリーだった。かなり地味な身なりだが、細身の身体は上背があり、長い脚はすらりと伸びている。向こうもすぐに啓吾を認めたようで、顔を持ち上げて真っ直ぐに歩み寄って来る。
 彼女は以前にも増して美しくなっているようだった。
 簡単な挨拶を済ませたあと、ロビーの隅に設けられた細長いコーヒーラウンジに彼女を誘った。
 奥のソファ席に向かい合って座る。啓吾はアメリカン、優花はハーブティーを注文した。
 こうしてすぐそばから見ると、やはり彼女はどことなく美奈に似ていた。
 藤川さん、全然変わってませんね。びっくりしました、とコートを脱いで隣の椅子の上に置きながら優花は言う。
 きみの方はかなり変わったね、と言う啓吾のこの台詞に相手は訝しそうな目になる。
 昔も美人だとは思ってたけど、こうして六年ぶりに会ってみると、ますますきれいになっている。こっちこそびっくりしたよ。
 啓吾はさきほど彼女を見て感じたことを素直に伝えた。
 そんな挨拶を交わしたあと、啓吾は、優花に、単刀直入に話をはじめた。
 実は、きみのことは神代から聞いたわけじゃないんだ。彼の奥さんの美奈さんから聞いた。いま彼女は、僕の住んでいる博多に滞在している。先月の末に訪ねてきて、それからいろいろとあって、まだ博多にいるんだ。どうやらもう東京に戻る気はないらしい。神代とも早く別れたいと思っているようだ。で、きみの携帯の番号を教えてくれたのも、神代ではなく美奈さんだ。神代とは僕はもう何年も会っていないし、電話で話したのも二年くらい前が最後だった気がする。きみとのことは彼は僕に何も言わなかった。さっきの電話では、きみの誤解を利用するような真似をしてしまって誠に申し訳なかったと思ってる。ただ、神代と会う前にできればきみと話をしておきたかった。美奈さんの言う通り、きみと神代がほんとうに付き合っているのか、さらには現在も続いているのか、それを僕自身がまず確かめておきたかったんだ。だから連絡させてもらった。
 優花は啓吾の話に、やはり動揺した気配だった。身体を引き気味にしてずいぶん長いこと黙り込んだままだった。
 しばらくして、藤川さんと奥さんとはどういうご関係なんですか?と穏やかな口調で訊ねてきた。彼女にすれば何よりそのことをまず確かめておきたいところだろう、と啓吾も思う。
 啓吾は、東京を去る前、つまり六年前に彼女と少し付き合っていたことがあること、といっても当時は深い関係までいっていたわけじゃなく、その頃からお互いに惹かれ合っていたのは事実だ、と伝えた。神代はおそらくそのことは知らないだろう、とも言った。
 今回、僕が上京して来たのは、美奈さんと僕とのことを神代に話しておこうと思ったからなんだ。ただ、彼の容体もあるから、いまそんな話をしていいものかどうか、そのあたりのこともきみに相談したかった。
 それから、優花は啓吾に、神代に会ってなにをお話するつもりなのか、と訊いてきた。啓吾は、美奈さんがもう彼のもとには戻らないつもりであること、それと僕自身の気持ちかな、と言った。啓吾は、自分は今彼の奥さんを勝手に預かっている身だから、まず彼に謝罪したいこと、それと美奈さんの今後については、僕の方に任せて欲しい、そういう自分の気持ちを伝えるつもりだと言った。
 そのあと、啓吾は優花にいくつか質問した。彼女の話によれば、二人が付き合うようになったのは、神代が取締役となり彼女が担当の秘書になってからで、もう三年の付き合いになるということだ。彼女は今は明治化成を辞めていて、政府系のシンクタンクで理事長の秘書をしているらしい。神代の紹介ではなく、たまたま中途採用の募集に応募して採用されたという。それから神代の病状は軽い心筋梗塞で、もうすっかり元気になっているという。心筋梗塞は今回初めてだったようだが、この一月に狭心症の診断を受けて、普段からニトロを携行していたとも言った。病気の話は奥さんには何も言っていないと、神代が言っていたとも話す。神代は、すでに処分保留で釈放されているが、おそらく彼は不起訴処分になるでしょう、とも言った。
 彼女の話で大体の事情は呑み込めた気がした。結局、美奈が見通していたように神代と優花との関係は相当に強固なものであるようだ。実質的には神代の妻は美奈ではなく優花の方だろう。これでは確かに、美奈がいまさら割り込む余地はどこにもあるまい。「放っておくしかないでしょう」と突き放すように言った彼女の判断は正しかったということか。
 だが、一生懸命に話してくれている優花の姿を見ながら、啓吾は何かしら割り切れぬものを感じていた。
 要するに目の前の優花も、そして啓吾自身も、神代と美奈という互いにわがままで手前勝手な夫婦の尻拭いを体よくさせられているに過ぎないのではないか。
 このまま二人は離婚し、神代は優花との暮らしを正式に始め、美奈も博多で啓吾と共に新しい人生に踏み出していく。果たしてそんな見え透いた結末でいいのだろうか、という思いがどうしても拭えなかった。
 
 神代富士夫は思ったよりずいぶん元気そうだった。さほどやつれた様子もないし、顔色も悪くなかった。しばらく世間話をしているうちに話は今回の逮捕のことに及んだ。
 たしかにこうなってみると、どうしてあそこまでやったのか自分でも不思議な気がするよ。取り調べの最中、担当検事にも「こんなことをして、いつか露顕すると思わなかったんですか?」って真顔で訊かれて、何と答えていいか分からなかった、と言った。
 で、お前は結局、何て答えたんだ、と啓吾が先を促す。
 気づいたときにはもう後戻りできない場所にいたんです、って言ったよ。それくらいしか思いつかなかったからな。だが、ほんとはそんなんでもないんだ。役員になって以降は、川尻さんにも窪田さんにも、これ以上の経理操作は無理だと俺は何度も進言した。だけど、そのたびに二人から「お前は、創業百二十年のこの名門企業を自分の手で潰すつもりか」と言われて目をつぶった。だけど実際は、会社を存続させるには粉飾をやるしかないと俺だって身に沁みて分かっていたんだ。だからやってる最中は罪の意識なんてほとんどなかったし、正直なところいまだってそれほどの罪悪感はない。昔、戦争をやった連中も、きっとこんな感じだったんだろうなって思うくらいだ。お前だって、俺の立場にいたら恐らく同じことをしていたと俺は思うよ。
 もちろん、それには啓吾は同意できなかった。いや、俺がお前だったら、あそこまでの粉飾はやってないよ、と啓吾は断言した。
 それはそうに決まってるさ。だからお前はあのとき会社を辞めたんだろ。俺が言いたいのは、仮にお前が会社を辞めずにあのまま残っていたらってことだ、と神代は言った。
 神代の言っていることは矛盾していると啓吾は感じる。
 だったら、もしもお前が俺だったら、会社を辞めたりはしなかったってことだよな。
 赤坂で飲んだあの夜、「藤川、社長命令なんだ。やるしかないだろ」と言った神代の怜悧な表情を啓吾はありありと思い出しながら訊いた。
 それはどうかな、と言い、それから神代は予想外のことを言った。
 俺があのときのお前だったら、やっぱり辞めていたんじゃないかな。あそこでもう一年踏ん張ってみても、お前が本社に戻れる可能性はそれほど高くはなかったからな。だったら、明邦みたいなヤバイ会社で火中の栗を拾わされるなんて真っ平御免だよ。
 この神代の台詞に、啓吾はいままでずっと心にわだかまっていながら、決して口にしたことのなかった疑問を彼にぶつけてみる気になった。
 啓吾は、腰掛けていたパイプ椅子を動かしてベッドサイドにさらに近づけ、一つ訊いていいか、と言った。神代がわずかに身構える。
 俺は、どうして明邦に飛ばされなくちゃいけなかったんだ。ロスでの交渉の失敗は別に俺の責任なんかじゃなかった。逆に、あの交渉は基本合意寸前まで行っていたんだ。それを突然打ち切ったのは会社の方だ。俺に落ち度はまったくなかった。
 だが、啓吾のこの六年越しの問いに対して、神代は何だそんなことか、というような気の抜けた面相になった。
 それはお前が、社内の風を完全に読み間違ったからだ。というより東洋銀行の意向に川尻さんとお前が従わず、ロスの交渉を最後までやり抜こうとしたせいだよ。
 驚くようなことを神代はさらりと言う。啓吾には、彼の言葉の意味がいまひとつ掴めない。
 実はあの時期、うちはテイコク化粧品と化粧品事業の売却交渉を水面下で始めていたんだ。お前だってそれについては薄々承知していたはずだ。にもかかわらず、お前のアメリカでの頑張りのせいで、その秘密交渉が駄目になった。そうなった以上、川尻さんもお前の首を窪田さんに差し出すしかなかったわけさ。お前がロスに長期滞在しているあいだに、社内では窪田さんがテイコクとの秘密交渉を取り仕切って実権を握った。川尻さんと窪田さんの立場は完全に逆転してしまっていたんだ。なのにお前は、その川尻さんと組んでテイコクとの交渉を潰した。たしかに化粧品出身の川尻さんが、うちの唯一の稼ぎ頭である化粧品事業をライバルのテイコクに売却したくなかったのは心情的に分かるさ。だが、当時のうちの財務状態を見れば、とてもそんなことを言ってる場合じゃなかった。たとえロスの交渉がまとまってホームプロダクツ事業が売れたとしても、その程度の売却収入ではとても会社を存続させることは不可能だった。何しろ当時すでに、うちの財務は実質的に一千億をはるかに超える債務超過に陥っていたんだからな。だから、ロスの交渉が始まって二カ月目に東洋銀行経由でテイコクへの化粧品事業の売却話が持ち上がった時点で、窪田さんや東洋サイドが主張したように、ロスでの交渉の方は新たな売却交渉を有利に運ぶためのあくまでも駆け引きの材料とすべきだった。そうやって片方でホームプロダクツを売る交渉を並行的に進めておけば、化粧品事業の売却額を高値に誘導するには好都合な構図になる。
 うちの化粧品部門が喉から手が出るほど欲しいテイコクにすれば、必然的に買値を上げてこざるを得ない状況だった。むろん、うちにはホームプロダクツを売るという選択肢なんて実際にはなかったわけだが、そんな詳しい財務状況はさすがにテイコクにも抜けてはいなかったからな。ところが川尻さんは話が持ち上がった当初から、化粧品事業売却に消極的だった。だからあの人は、ホームプロダクツの売却で何とかその場をしのごうとしたんだ。俺から言わせれば、それは、数字の現実を忘れたまさに経営者失格としか言いようがないミスジャッジだったと思うよ。なのにお前は、その川尻さんの意向に沿って、ロスの交渉を必死にまとめ上げようと奔走した。
 そこまで神代は喋ると、手にしていたウ一口ン茶の缶を口許に運んだ。顔を上に向けて喉を鳴らしながら残りのお茶を一息に飲み干す。その姿はとても病人には見えない。空になった缶をベッドの脚元のゴミ入れに放ると、彼は黙っている啓吾の顔をまるで睥睨するかのように一度見て、再び口を開いた。
 あげくお前は、本社了解もろくに取らないままで基本合意寸前まで突っ走って、その情報がテイコクに洩れてしまった。こいつはテイコク側から見れば、なんだ自分たちの方が当て馬だったのか、と逆鱗に触れる話だろ。それで、うちに対して決定的な不信感を持ってしまって化粧品事業の売却交渉は頓挫し、慌ててうちがロスの方を打ち切って交渉再開を懇願してももう後の祭りだった。川尻さんにすれば、結果的に二つともぽしゃったわけだから、さすがに最悪の事態だったと思うよ。会社の命運もあれで尽きた。結局、あとは粉飾決算を続ける道しか残っていなかったってわけだ。
 一度、窪田さんがロスに行ったことがあったろ。交渉開始から四カ月くらい経ったときだ。あのとき窪田さんはお前にそのへんの事情も説明して、交渉の引き延ばしを依頼したはずだ。しかし、お前は川尻さんにばかり顔を向けて、窪田さんをネグレクトした。窪田さんは帰国したときカンカンだったよ。あのお前の判断ミスは、お前自身の将来にとっても、またそれ以上に会社の将来にとっても決定的だったと俺は思うね。しかも、そのミスのせいでお前は、当の川尻さんにスケープゴートにされてしまったんだ。たしかに、お前にロスの交渉自体での落ち度なんて一つもなかったさ。だが、あそこでホームプロダクツ部門を売ることができれば会社を何とか維持していけるはずだ、と考えたお前の見通しは完全に甘かったよ。明治化成は、もうあの時点では主力の化粧品事業をテイコクに売却しない限りは社の存立は不可能だった。それが、経理、財務をずっと見てきた窪田さんや俺の判断だったし、その判断が正しかったことは、目下の現実が見事に証明してくれているだろ。
 啓吾は神代がいま語る真相に、これまでの疑問がみるみる氷解していくのを感じた。
 それにしても、あの時点でテイコクとの化粧品事業売却交渉がそこまで具体的に煮詰まっていたなどとはまさに驚きだった。当時、彼が川尻社長から聞かされていたのは、溜まりに溜まった明治化成に対する債権を一刻も早く回収したい東洋銀行サイドから、今回のロス交渉が失敗した場合は、聖域である化粧品事業の売却も視野に入れざるを得ないとの圧力がかかり、相手先としてテイコク化粧品の名前まで上がっているというレベルの話でしかなかったのだ。
 そして、そういう話が出ているという事実だけでも、啓吾は会社の将来に暗然たる思いを抱いた。主力の化粧品事業を売却してしまえば、会社はまさに有名無実、名前だけの存在になってしまう。不良債権処理に悩み、遮二無二債権回収に血道を上げているメインバンクの都合でそんな勝手なことをさせてたまるものか、と啓吾がロスの地で発奮したのは事実だ。しかし、まさか当時すでに明治化成本体に一千億円を優に超える債務超過が生じており、それを会社が粉飾によって糊塗しているなどとは、あの頃の啓吾にはまったく思いもよらなかったのだ。
 ロスに来た窪田さんの口からは、テイコクとの交渉がすでに始まっているなんて話はまったく出なかった。彼が言ったのは、ホームプロダクツ事業の売却だけじゃあどうせ会社はもたないんだし、要するに、この交渉は古巣の東洋銀行から新たな融資を引き出すための材料に過ぎないんだから、融資さえ実現できれば交渉の成否なんてどうでもいいってことだけだ。その言いぐさは、現場でぎりぎりの交渉を連日続けている俺やチームのスタッフたちにすれば、まさに、ふざけるなって話だった、と啓吾は言った。
 そりやあ、お前たちにテイコクとの秘密交渉について具体的に明かすわけにはいかなかったと思うさ。そこは阿吽の呼吸で呑み込んでくれって話だったはずだ。あの頃は、川尻さんと窪田さんとのあいだで主導権争いが激化してたときだったし、化粧品事業の売却止むなしの基本認識を持つことのできない幹部社員には、窪田さんは本当の手の内は見せられなかったんだ。もしもお前が、あの場でもうすこし彼の話に耳を傾ける姿勢を見せていたら、粉飾のことも含めて、窪田さんはもっと突っ込んだ話をお前にする用意があったんだよ。
 じゃあ、お前は、俺が会社を潰したとでも言いたいのか。
 啓吾は神代の余りに一方的な物言いに、思わずそう言ってしまった。
 そんなことは言ってないさ。どのみち明治化成はこうなるしかなかった。テイコクとの交渉にしても、お前が辞めたあと、東洋銀行の仲介でもう一度復活したのは知っての通りだ。だけど組合の猛反発もあって、二度目の交渉も結局はまとまらなかった。ただ、あの最初の秘密交渉が潰れた直後、お前は明邦毛織に出向して、一年がかりで作った再建計画が本社で握り潰されるや否やさっさと会社を辞めちまった。俺からすれば「おい、ここで逃げる気かよ?」って思いがあったのは事実だよ。だからといって、そのあと俺たちがやったことを正当化する気はさらさらないけどね。
 神代は淡々とした口調でそう言うと、一つ息をついてベッドの背に身をあずけたのだった。
 
 啓吾は神代の言葉に少なからずショックと反発を覚えていた。
 そもそもは会社の財務上のデータを一部の経営幹部や神代のような財務畑の人間だけで独占し、社内に正確な情報開示をしなかったことが明治化成破綻の最大の原因であったはずだ。加えて神代は、あの九九年の段階では自分が啓吾の立場にいたとしても辞職していただろうと言う一方で、そうやって現実に辞めた啓吾のことはまるで卑怯者のように言う。たしかに彼自身も内心忸怩たるものがないわけではない。が、こうして当時の内部事情をつぶさに聞いてみれば、テイコク化粧品との秘密交渉にしろ、莫大な債務超過の実態にしろ、どうしてあのときに教えてくれなかったのだ、と啓吾の方こそ目の前の神代に詰め寄りたい気分だった。ロスに滞在中はもちろん、啓吾が失意のうちに帰国して、美奈と共に慰労会を開いてくれた晩でさえも、神代は口を噤んで何一つ打ち明けてはくれなかった。人を卑怯者扱いする前に、親友に対する自らの不実をこそ彼は先ず悔い改めるべきではないのか。
 啓吾がしばらく黙り込んでいると、
 藤川、まああんまり気を悪くしないでくれ。全部終わってしまったことなんだから、と神代が啓吾の顔を下から覗き込むようにして言った。
 その頼りなさそうな笑みを浮かべた顔を見つめ、啓吾は、気持ちを切り換える。誰よりも辛い目にあっているのはこの神代本人なのだ、ということを思い出した。
 気を悪くなんてしてないよ。お前が最後の最後まで必死で頑張ったことは俺が一番よく分かってる、と啓吾は言った。
 そうは言っても結果はこの通りだからな。刑事の方は幸い不起訴で済んだが、まだ民事の損害賠償請求も残ってる。やっぱり俺は大馬鹿野郎でお前は賢かったんだな。ただ、俺が最近思うのは、正義ってのは悪があって初めて成り立つってことだな。何でもかんでもそんなものだと俺は心から思うようになった。この世界で起きてることは所詮そうやって一から十まで相対的なものでしかない。だから、時代が変われば正義と不正義が簡単に入れ替わったりするんだ。まさにこの世は無常、何一つ確かなものなんてないのさ。
 神代のこの台詞には啓吾もかなり共感するところがある。
 人間というのは、悪事を働こうとすれば自分が思っている以上の悪を働き、善事を行なおうとすれば、いくら励んでもなかなかそれが真実の善にならない。――そんな哀れな生き物であるに違いない。
 二人のあいだの空気がようやく和むと、
 ところで、俺に話したいことって何だ、と再びベッドの背から身体を浮かせて、神代が訊いてきた。
 実は、美奈さんがいま博多に来ているんだ。
 啓吾も背筋を伸ばし、神代の大きな瞳を直視しながら言う。
 それから十分ばかり、美奈の突然の訪問から今日に至るまでの一部始終を彼は詳しく説明した。ただし、美奈と二人で脇田温泉に出かけたことや彼女が流産したらしいことなどは伏せておいた。
 神代は表情を変えることもなく、黙って啓吾の話に耳を傾けていた。
 とりあえず、そうやって部屋も借りたんだから、彼女は本気で博多に移り住むつもりなんだと思う。もうお前とやり直す気持ちはないようだ。お前が大変な時期に、こんなことになってしまって俺としては誠に相済まないと思っている。
 啓吾が面と向かって頭を下げると、そこで神代はちょっと困惑したような顔つきになった。
 ボストンの妹のところへしばらく行ってくると俺には言っていたんだが、そうか、お前のところに転がり込んだってわけか……しかし、何で今度はお前なんだろうな、と彼はぽつりと呟く。
 その一言に啓吾は耳を留めた。自分の告白に対する神代の反応の淡泊さにどうにも合点がいかぬ心地だったのだ。
 神代は、それから、これも気を悪くしないで聞いてほしいんだが……と前置きしてから語りはじめた。
 この数年、美奈のご乱行にはさすがの俺も呆れていたんだ。まあ、俺は俺で三年前から優花と付き合ってるし、それ以前もお前が知っての通りだし、あれのことをとやかく言う資格はないが、それにしても美奈の場合は、ちょうどお前が会社を辞めた頃から急に男出入りが始まったからな。一体全体どうなってるんだと俺もかねがね首をひねってきたわけなんだ。それが、今度はとうとうお前のところにまで押しかけたとなると、いやあ、何と詫びればいいのか言葉が見つからないくらいだ。とにかく、こっちこそお前に迷惑をかけてしまって誠に申し訳ない。
 そして今度は彼の方が、深々と啓吾に低頭してみせたのだった。
 だが、啓吾はその話を言葉通りには聞いていなかった。もしかしたら神代が、妻に面子を潰された腹いせに口からでまかせを言っているだけかもしれない。
 啓吾が、彼女の相手は分かってるのか、と訊くと、何人かはな、と神代は言った。
 確かに美奈が妊娠した状態で来福したことに鑑みれば、美奈に夫以外の別の男性がいた可能性は大きい。しかし、あの美奈が啓吾と別れてからこのかた、度重なる「ご乱行」を繰り返していたとはおよそ思えなかった。
 おそらく、五、六人は下らないだろうな。出会い系なんかもやってるかもしらん、と神代は言う。まさか、と言う啓吾に、彼はさらに言う。
 はっきりしているのは、一人は高校時代の同級生だ。それに、あれが通っていたスポーツクラブのインストラクターとも一時期はできていたな。他にも、通訳をやっていた頃の翻訳会社の社長と縒りを戻したこともあったんじゃないかな。そいつは、俺と結婚する前にあれが不倫してた相手だけどね。
 神代はすらすらと目ぼしい男の素性を明かしていく。およそ彼が作り話をしているとは思えなかった。
 想像以上の話の内容に、啓吾はただ?然としてしまった。
 なのに、どうしてお前たちは離婚しないんだ、とついそうした素朴な疑問が口をついて出る。夫は外に愛人をつくり放題、妻も家に男を引き込み放題、まして子供がいるわけでもない。となれば、そんな夫婦が夫婦でありつづける理由などどこを探しても見つからないだろう。
 離婚するだけの情熱ももう残ってないってことかもしれんな。美奈の場合は、理由は簡単で、要するに金だろ、と神代はまたまた呆れるようなことをにする。
 金?と啓吾が素っ頓狂な声を上げる。
 ああ。あいつは俺の親父が死ぬのをじっと待ってるんだと俺は見てる。
  お袋はとっくに死んでるし、親父が死ねば、一人息子の俺にはかなりの財産が転がり込む。親父はまだ元気だが、それでもさっき言ったみたいに脳梗塞を二度やってるし、何しろもう歳だ。だから、あいつは離婚を切り出すとしたら親父が死んでからだと考えてるんだろ。そのせいか親父の世話だけはやけに親身になってやってくれてたよ。
 神代の実家は横浜の大地主だと聞いていた。しかし、美奈が彼の言うような財産目当ての打算家だとはとでも思えない。そんな馬鹿なことがあるもんか、と啓吾が言うと、いや、ほんとだよ。それがあいつの俺に対する復讐なのさ。だからいつも遊び程度の相手としか付き合わないのかもしれん。
 神代はまるで他人事めいた口ぶりで言うのだった。
 思わぬ話の展開に、啓吾の方は今日の訪問の目的が一体何だったのか次第に分からなくなってきていた。彼は美奈から聞いた話、そしていまの神代の話を比較検討しつつ、懸命に頭の中を整理する。
 しかし、お前たち夫婦はどうしてそんなことになってしまったんだよ。少なくとも俺が会社にいる間は、それなりに仲良くしているふうだったのに、と啓吾は考えながら質問した。神代を見ていると、啓吾と美奈との関係についてどう受け止めているのかいま一つ判然としないのだ。美奈が啓吾のもとを訪れて一緒に暮らして欲しいと言ったことも、彼女が店で酔いつぶれて二晩、啓吾の家に泊まったことも、さらには怪我が治ってからも東京には戻らず、啓吾の家のそばに部屋を借りて住み着いてしまったこともすべて話している
 というのに、神代はそのことにさしたる関心を示す様子がないのだった。
 もう美奈から聞いているかもしらんが、実は、俺には子種がないんだ。
 しばしの沈黙のあと、神代が俯けていた顔を上げてそう言った。
 結婚して四年目だから、九十年頃だったかな。いつまでも子供ができないんで俺たちは大学病院に調べに行ったんだ。そしたら原因は俺にあることが分かった。思えばあのときあいつと別れてやるべきだったと俺はいまでも思ってる。だけど、ちょうど親父が最初の脳梗塞で倒れたりでそれどころじゃなかったし、美奈もそんな理由で別れたいなんてさすがに口にできなかったんだろう。まだ彼女も二十代後半で若かったしな。俺もどうせ子供ができないならいっそ割り切って美奈と二人きりの人生を楽しんで生きればいいんだ、と最初は軽く考えていた。ところが、実際には心の奥深い部分で、俺も美奈もその事実に打ちのめされていたのさ。もちろん美奈は決して顔には出さなかったが、それから二、三年して彼女が三十歳を超えてからは、明らかに俺に向かう気持ちが急速に色褪せていくのが分かった。そして、俺はそんな彼女と一緒にいるのが段々いたたまれなくなってきたんだ。俺の浮気が始まったのはちょうどその頃からだ。それなのに美奈は俺に文句一つ言わなかった。ただ黙って、普段の生活を続けていた。もちろん、俺も何食わぬ顔で美奈との暮らしを続けた。だけど、俺にはよく分かってた。美奈は、俺が決して自分から離れていかないと知ってたんだ。というより、幾ら外で浮気をしたところで、その相手と俺が逃げ出したりできないことを彼女は誰よりもしっかり理解してたわけさ。そりゃあそうだよな。俺には子種がないんだ。たとえどんなに他の女を好きになったところで、その女と一緒になってやれるわけじゃない。美奈だって、子供ができないと分かったときは俺のことを精一杯慰めたし、子供なんて要らないとも言ってくれた。それが二、三年も経つと、微妙に変わってきた。本人がどのくらい自覚していたかは別にして、どこかであいつは俺を軽んじるようになった。それは俺の妄想なんかじゃないよ。その美奈の心変わりが俺にははっきりと察知できたんだ。だとすれば、たとえ美奈と離婚して他の女と一緒になったところで、また同じに決まっている。俺に子種がないと承知で結婚してくれた女だって、いずれは、美奈同様に俺のことを許せなくなる。女というのはたとえ心で許せても、身体で許せなくなってしまうんだ。その独特な女の生理については、子種のない男にしか絶対に感覚することができないよ。世の中じゃあ、不妊症の女性のことばかりがクローズアップされているが、一方で無精子症の男のことは余りにも無視されすぎていると俺は常々思ってる。男にとっても、自分に子供ができないと知ったときのショックは物凄いものがある。正直なところ、病院の検査結果に関しても、俺の方が彼女より何倍もショックだったと俺は思ってるよ。だってそうだろう。美奈は産もうと思えば産めるんだ。俺と別れて俺以外の男と寝ればそれでいいんだからな。だけど俺は違う。どんなに頑張っても、自分の子孫を後世に残すことができない。俺はそうやって無念の思いを味わうたびに、どうして病院になんて行って調べたりしたんだろうとつくづく後悔したよ。そして、一緒に検査に行こうなんて言いだした美奈のことが心底憎かった。いまだってその気持ちは全然変わってないんだ。
 二十数年来の付き合いでありながら、神代の口からこんな話を聞くのは初めてのことだった。
 神代に子種がないという美奈の話は偽りでなかったことがこれではっきりした、と啓吾は冷静に思った。ただ、そのことで神代がこれほど深い苦しみを抱えつづけてきたとは、おそらく美奈も気づいていなかったのではないか。
 だが、神代の話にも腑に落ちない点が多々あるのも確かだった。
 たとえば、結婚四年目にその事実が判明したあと、どうして美奈は神代と速やかに別れなかったのか。神代の方も自分に子種がないからといってどうして浮気を繰り返す必要があったのか。
 そこが啓吾にはよく理解できない。世間には子供に恵まれなくても仲睦まじく暮らしている夫婦は山ほどいる。逆に、子供がいても離婚してしまう夫婦も掃いて捨てるほどいるではないか。さらに疑問なのは、そうやって夫の浮気にも耐え、結婚生活をずっと守りつづけてきた美奈が、どうして六年前から急に羽目を外したように男遊びを始めたのかということだ。
 美奈と二人きりで初めて食事をしたとき、彼女は「この一、二年、自分や夫のこと、将来のことを少しでも考えようとすると息ができなくなる」と言った。そして、二度目に会ったときには、このままホテルに連れて行って欲しいとしきりせがんできたのだ。さらに思い出してみれば先月の二十四日、ハイアットの彼女の部屋で対面した折も、美奈は神代に子種がないことを打ち明け、「だから、私、藤川さんの子供を産みたいんです。あのときもほんとうはそういう気持ちでした。だけど当時の藤川さんにはそんなこととても言えなかった」と語っていた。六年前といえば、美奈はすでに三十七歳。出産するにはそろそろタイムリミットが迫ってくる時期だ。その焦りが、美奈の心に大きな心境の変化を引き起こし、彼女をあんなに大胆な行動に走らせたのだろうか。
 だとすれば、その後の彼女の行動は理解しやすくはなる。そうやって必死の思いで選んだ啓吾は、最後のところで美奈を拒絶してしまった。一人東京に残された彼女はきっと自暴自棄になったことだろう。神代の話によれば、美奈の「男出入り」は「ちょうどお前が会社を辞めた頃から急に始まった」ということだった。つまりは、彼女をその後の無軌道な行為に駆り立てたのはまさしく啓吾本人ということになる。
 そう考えてみると、啓吾には美奈がどうにも哀れに思えてくるのだった。
 しかし、ここでも大きく引っかかってくるのは、あの流産の一件だった。
 ホテルで美奈が瞳を潤ませながら「藤川さんの子供を産みたい」と懇願してきたとき、すでに彼女は妊娠していた。もしもその一事がなかったのなら、たとえ幾人もの男遍歴を経た後だったとしても、六年後のいまになって、最後のチャンスにすがるように啓吾のもとを訪ねてきた美奈の心情は、啓吾にも分からないでもない。しかし、現実は決してそんな生易しいものではない。美奈は、別の男の子供を腹に宿しながら、啓吾の子供を産みたけと言い募ったのだ。一体、あのときの美奈の真意とは如何なるものだったのか。考えれば考えるほど分からなくなってくる。
 子供ができないことでお前が苦しんだのは理解できるが、しかし、それだけが原因で美奈さんの気持ちがお前から離れたというのは違うんじゃないのか。やっぱりお前の女出入りが最大の原因だろう。彼女が男を作ったのだって、浮気性のお前にそれこそ意趣返しがしたかったからじゃないのか、と啓吾は言った。神代の話に現実離れした大仰さをどうしても感じてしまうからだ。
 いやそうじやない。あいつが男漁りを始めたのにははっきりとした理由がある、と神代は即座にそれを否定し、意外なことを言った。
 美奈の変調の理由は、なんと飼い犬のレオナルドの死だというのだ。
 レオナルドは、俺たち夫婦に子供ができないと分かってすぐから飼い始めた犬だった。俺も可愛がっていたが、美奈の可愛がりようはそんなものじゃなかった。そのレオが十歳で急死したのが六年前だ。美奈のショックは凄かったよ。どんなに可愛がっても所詮犬は犬だ。飼い主よりも先に死んでしまう。美奈は、レオの死でそのことを心底思い知らされたんだ。
 何か重大事を宣告するかのように真顔で語る神代の姿に、啓吾は内心で呆然としていた。その様子から察するに、愛犬の死が引き金となって美奈が男漁りを始めたと彼は真面目に信じ込んでいるようだった。自分に子孫を残す能力がないと知って浮気を繰り返すようになったのも、もとはといえば美奈の心変わりが原因だと彼は言い、一方で、六年前から始まった妻の浮気に関しては、飼っていた犬の突然死が原因だったと指摘する。もしもそんなことを本気で信じているのならば、この神代という男は幾分常軌を逸していると考えざるを得ない。
 一体、彼はいつからこんな無責任な男になったのだろうか、と啓吾はどうにも不思議な気分だった。
 もちろん、先日の心臓発作、逮捕されてからの二十日間に及ぶ検察による過酷な取り調べ、それ以前の事情聴取、さらには昨年末の会社からの放逐など、立てつづけに押し寄せた人生の荒波が彼の心身を疲労困憊させ、正常な判断力や思考力を奪った面も大いにあるだろう。だが、この独善ぶりの原因はそれだけではない気がする。
 そういえば、彼は自らが主導した粉飾決算についても、やってる最中は罪の意識なんてほとんどなかったし、正直なところいまだってそれほどの罪悪感はない。昔、戦争をやった連中も、きっとこんな感じだったんだろうなって思うくらいだ、と平然と語っていた。そして、どうしてあそこまでやったのか自分でも不思議な気がするよ、と苦笑いし、昔から何事もやりすぎるのはお前の方だと思ってきたが、案外、俺も自分ってものが分かってなかったよ。とにかく自分のことってのは歳を取れば取るほど分からなくなるもんだな、と述懐したあとに、ただ、俺が最近思うのは、正義ってのは悪があって初めて成り立つってことだな。何でもかんでもそんなものだと俺は心から思うようになった。この世界で起きてることは所詮そうやって一から十まで相対的なものでしかない。だから、時代が変われば正義と不正義が簡単に入れ替わったりするんだ、と結論づけてさえいたのだ。
 その場で聞いていた分には、啓吾も共感できるところがあるように思えたが、こうして彼と美奈との関係について詳細に聞き出したのちに、一連のその言動をあらためてつらつら思い返してみると、この神代富士夫という一個の人格の中には、反省や後悔、自己の犯した罪に対する畏れのようなものがどうやら完全に抜け落ちているらしいことが灰見えてくる。
 啓吾は、そのことに憤然とさせられるものを感じた。
 彼は少なくとも一連の粉飾決算に手を染め始めた頃から、きっと自らを見失っていったのだろう。そうでなければ、やはりあそこまでの行為は到底できるものではない。
 彼はそう考えながら、かつての親友の姿を眺めやる。
 歳を取れば取るほど自分のことが分からなくなる、と彼は言っていた。その台詞は案外本人が自覚している以上に、いまの彼自身の深層心理を如実に表しているのかもしれない。そうも思った。そしてそう考えると、彼をこんなふうにしてしまった明治化成という会社や、川尻、窪田をはじめとした歴代の経営者たちのことが啓吾には無性に腹立たしく思われるのだった。
 結局、二時間ほど神代とやり取りをして、啓吾は病室をあとにした。
 神代は最後まで、美奈に関して何一つ具体的なことを自分からは口にしなかった。
 美奈さんがお前と別れたいと言ってきたら、了承するつもりはあるのか?と訊ねると、そうする以外にないだろう。ただし、俺もこんな身の上だ。大した金は払ってやれないから、そのことだけはあいつにしっかり伝えておいてくれ。
 神代はあっさりそう言って、それきり何かをつけ加えるでもなかったのだ。
 啓吾は最後に、優花のことについてこんな訊き方をした。
 ところで、お前と彼女は心が通い合ってるのか?
 突然、そんな質問を受けて神代は面食らった感じだったが、啓吾が真剣な表情で答えを待っていると分かると、さすがにしばらく思案気な様子になった。
 だが、案の定、彼はおかしそうに笑いだして、
 藤川、一体何を言ってるんだよ。そんなこと誰にも分かるわけがないだろう。優花はほんとうによく尽くしてくれるし、俺にはもったいないような女だ。だけど、彼女の心は彼女だけのもので、俺にはやっぱり全然見えやしないよ、と言ったのだった。
 病院を出て腕時計を見ると、すでに午後九時を回っていた。
 啓吾は重い疲れを感じた。
 長い坂をゆっくりと上り、ふと前方に目をやるときらきらと光を放つ新宿の高層ビル群が、まるで目の前にあるように見えた。
 博多も大きな街にちがいないが、しかし、この東京の巨大さは桁外れだとあらためて思う。だが、今日の昼間、ホテルの部屋から眺めたときのような感慨はもう湧いてはこなかった。この大都会で戦いつづけたところで、最後はあの神代のように、自らも気づかぬうちに精神を荒廃させてしまうのがオチなのだろう。こんな狭い場所にこれほど多くの人間を詰め込んでしまえば、そこで行なわれる生存競争は否応なく容赦のないものにならざるを得ない。ひとたび蹟いた人間も、そしてその倒れた人々を蹴散らしてさらに前へと進みゆく人間も、どちらともが、この過密都市では自らの精神を必要以上に傷めつけてしまうのだ。
 たとえ子供に恵まれなくとも、お互いの心が通い合ってさえいれば夫婦は必ず添い遂げることができる。啓吾自身が塔子と別れたのも、彼女とのあいだに心を通い合わせることができなくなったからだ。
 だが、美奈とのあいだには、そうした通じ合う心があるように啓吾には思える。
 それは単に一時的なものかもしれないし、啓吾の一方的な錯覚に過ぎないのかもしれない。それでも、塔子とのあいだには感じることのなかった深く新たな気持ちを啓吾は美奈に対しては感ずることができるのだ。
 もしかしたら、東京ではなく、あの博多の町で彼女と再会できたことが、自分にそうした気持ちをより強く甦らせてくれたのかもしれない。
 だとすれば、自分が博多で暮らしたこの六年間も決して無駄でなかったのではないか……。
 とにかく、明日一番の便で福岡に帰ろう。今夜、神代から聞いた話の真偽を美奈本人に一度きっちりと質してみなくてはならない。例の流産の一件についても、この際、彼女にちゃんと確かめてみよう。
 啓吾はそう決心を固めて、最寄りの地下鉄駅へと通ずる坂道を今度は急ぎ足で下りはじめた。
 
 翌十一月十六日、啓吾は午前七時半発のANA241便で帰途についた。
 福岡空港に到着したのは定刻から五分遅れの九時半。十時過ぎにはもう大名の自宅に戻っていた。
 機内で軽食とコーヒーのサービスを受けたので、それほど空腹ではなかった。部屋着に着替えるとキッチンで緑茶を淹れた。大きな肉厚の湯呑みにたっぷり注いで、それを持って居間のソファにどっかりと腰を下ろす。熱い茶をすすって、ようやくほっと一息つくことができたのだった。
 駆け足の東京行きだったし、昨夜は結局あまり眠れなかったが、それでも腰の具合に異常は感じなかった。これならば今夜から店を開けても構わないだろう。
 自分が帰ったことを美奈に伝えなければ、と啓吾は思う。昨日はこちらからも電話はかけなかったし、美奈からも連絡は来なかった。
 が、なにぶん昨日の今日で、さっそく神代から聞いた話を美奈にぶつけたり、彼女の嘘を問い詰めたりするのは気がすすまなかった。
 せめて今日一日は様子見を決め込もう。もし美奈の方から電話してくれば、そのときは帰宅を伝えて、今夜店が終わったあとか、明日の午前中にでも直に会って子細を報告すればいい。
 昨日同様、今朝の東京の空も晴れ渡っていたが、博多もぽかぽか陽気で、透き通った秋の陽光が居間の窓からいっぱいに降り注いでいた。
 その光を浴びながらあたたかいお茶を飲んでいるうちに、だんだん眠気がさしてくる。今日は水曜日だが、慶子には二、三日留守にすると言ってしまったので、今夜と明日の分の突出しは自分で作るしかない。惣菜屋から調達する手もないではないが、せっかく流行りだした店で、そういう手抜きはしたくなかった。
 啓吾は眠気を振り払うようにソファから勢いよく立ち上がる。壁の時計を見ると、ちょうど十一時になっていた。さっそく近くのスーパーに買い出しに行って、何か材料を仕入れて来ることにしよう。
 三十分ほどで買い物から戻り、啓吾は二階のキッチンで突出し作りを始めた。
 新鮮なキビナゴが安かったので、それにイカ、大根、たまねぎなどを買ってきた。キビナゴの南蛮漬けとイカ大根を作ろうと決めたのだ。大根は米の研ぎ汁で下茄でしなくてはならないのでついでにご飯も炊いて、昼食はそのご飯と突出しの二品、味噌汁ですませることにした。
 大根を十分ほど下茄でしているあいだに、南蛮漬け用のタレを作り、キビナゴと一緒に漬け込むタマネギ、セロリ、トマトを薄切りにする。タレは酢、醤油、蜂蜜、オリーブオイル、それにかぼす汁、そして塩コショウで味を調えておく。キビナゴは刺し身にもできそうな新鮮さで、銀色の背がきらきらと輝いていた。ワカサギよりさらに小さな魚なので身を崩さないように用心しながら丁寧に水洗いする。キッチンペーパーで水気をしっかり取って小麦粉を振りかけ、フライパンに浅く溜めた油の中に一尾ずつ静かに落としていく。油温は低めにして四、五分じっくりと揚げるのだ。しばらくすると何とも言えず香ばしい匂いがフライパンから立ちのぼってきた。
 啓吾の食欲もにわかに刺激される。
 大根の方は下茄でが済むと鍋を下ろし、今度は別の鍋に水、醤油、砂糖を入れて買ってきたイカの切り身を放り込んだ。このイカも活きがいい。三、四分煮立てて、イカの身が固くならないうちに上げ、イカの味がついた煮汁に大根を入れてひたひたまで水を注ぎ足し、落としぶたをして二十分ほど煮詰めていく。こちらの鍋からも美味しそうな醤油の香りが漂ってくる。
 カラリと上がったキビナゴをガラスのバットに敷きつめ、そこにタマネギやセロリと合わせておいたタレを一気にかける。ジュッと気持ちのよい音がして、何とも言えない甘酸っぱい匂いが台所に立ち龍める。
 ほんとうは冷蔵庫で冷やして、じっくり味をしみ込ませてから食べるのだが、啓吾は味見がてら、あつあつのそれを箸で摘んで口に放り込んだ。シャキシャキした食感と共に口の中に独特の香味、酸味、甘味、油味が広がり、まさに絶品の旨さだった。
 大根がいい色になったところで、さきほどのイカを入れてさらに五分ほど煮る。イカ大根が仕上がる頃には炊飯器の中の米がちょうど炊き上がったのだった。
 十分ほど蒸らしたあと釜の蓋を開け、しゃもじでご飯をまぜているとき階下でチャイムの音が聞こえた。インターホンのある居間には向かわず、啓吾はそのまま階段を降りて店の玄関まで行くドアを開けると美奈が笑顔で立っていた。
 何となく彼女だという気がしていたから啓吾も自然に笑みを作る。昨日一日会わなかっただけだが、ずいぶん久しぶりのような感じがした。
 早かったわね、と美奈が言う。
 七時半の飛行機で帰って来たんだ。だけど、よく分かったね、と啓吾が訊ねる。
 前を通りかかったら二階の窓が開いていたから。ああ、帰って来たんだなって思って、ピンポンしてみたの、と美奈は言い、啓吾は、いま仕込みをしてたんだ。一段落したらきみに連絡しようと思ってた、と言い、ちょうどいいところに来た、昼飯まだだろう、一緒に食べないか、と美奈を誘う。じゃあ、御馳走になろうかな、と美奈は嬉しそうな声で言う。
 残っていた大根の葉と冷蔵庫にあった納豆で美奈が手早く納豆汁を作ってくれた。
 ダイニングのテーブルにはキビナゴの南蛮漬け、たっぷりのおろし生姜を載せたイカ大根、買い置きのキュウリの浅漬けと昆布の佃煮などが並び、そこに湯気の立つ納豆汁と炊きたてのご飯を添えると、ずいぶん豪華な昼餉になった。
 美奈は実に手際良く膳の支度を整えていく。料理の盛りつけも巧みだった。
 十三日にここで引っ越し祝いをしたときも、ありあわせの食材で幾皿もつまみを拵えてくれ、啓吾は案外、自分より美奈の方が料理は上手いのではないか、と思ったほどだった。彼も若い頃から、自分で料理をするのが好きだった。子供ができなかったこともあって塔子と暮らしているあいだは、週末はよく啓吾が食事を作ったものだ。商社勤務を続けていた塔子は、仕事はよくできたようだが、家事一般はどれも不得手だった。家では掃除も洗濯も料理も半々以上に啓吾がこなしていた。塔子に言わせれば「あなたの性格が細か過ぎて、人に任せられないだけよ」とのことだったが、その指摘は少なくとも半分は当たっていたと思う。
 塔子との関係がぎくしゃくし始めたのは、結婚四年目に彼女に転勤の話が持ち上がってからだ。
 赴任先はロンドンで、女性社員としては初のロンドン勤務となるらしかった。塔子は当時三十歳、啓吾は三十二歳になっていた。二人の出した結論は、塔子の単身赴任だった。で、予定より一年多い三年間の別居生活を送った。塔子が帰国したときは啓吾の会社の業績は急降下を始めており、彼は仕事に忙殺されていた。そして何より、三年間のブランクはいつの間にかお互いを他人同士に戻してしまっていた。
 離婚が決まって、啓吾は、あのロンドン赴任を本気で止めていれば塔子と自分とはこんなふうにならずに済んだのではないか、と考えた。が、よくよく振り返ってみれば、あそこで塔子を止めることは何があっても不可能だったような気がした。さらにもっと内心の奥深くに分け入ってみれば、もうあの時点で、自分は塔子との関係を半分放棄してしまったようなところがあったと思った。それは、塔子にしても同様だったはずだが。
 ほんとうに二人の心が通じ合っていれば、三年間も離れ離れになるような選択をすることはあり得なかったし、何とか一緒に解決策を見つけ出していたに違いない。加えて、啓吾がいまになってしきりに思うのは、もしも二人の心が通い合っていれば、そもそもあんな転勤話など最初から塔子に持ち上がってなどいなかったはずだ、ということだ。
 人間と人間との強い絆には、そのような目に見えない偉大なパワーが潜んでいる――最近の彼はそう深く信じるようになっていた。
 美奈は南蛮漬けにもイカ大根にも舌鼓を打ってくれた。
 すっごく美味しいじゃない、と言ってもりもり食べている。どうやら彼女はなかなかの大食漢のようだった。なのにちっとも太っていないのが啓吾には羨ましい。
 こうやって美味しいご飯を一緒に食べていると、とても落ち着かないか?
 啓吾も箸を進めながら言う。美奈がしっかりと頷いた。
 美奈は、明日、玉ちゃんが来るから、昨日から幾つか店舗用の物件を見て回って、今朝も大名から薬院まで五件も見てきた、と二杯目のご飯を頬張りながら美奈が言う。
 玉ちゃんが来る前に、ある程度データは揃えておいた方がいいしね。
 彼女は実に溌剌とした様子に見えた。食事の最中も、東京での啓吾の首尾については何一つ訊いてこない。
 じゃあ、もうバッファローが博多に進出するのは本決まりなわけ、と訊くと、もちろんよ、電話で相談したら、だったらミー子、すぐやってよ、だって。
 だけど、きみが突然博多に移住することは、何て説明したの?
 やっぱり藤川さんのところに行くんだねって、玉ちゃんはそう言っただけよ。
 思いもかけない台詞に啓吾はびっくりしてしまう。彼の顔を見ながら美奈は当たり前のことのように、玉ちゃんには、あなたとのことも最初から全部打ち明けてあるし、神代とのことも話してるから。それが親友同士ってものでしょう、と言うのだった。
 そして、私、たぶん来週から一カ月くらい大阪で研修だから、と美奈は言った。
 一カ月、大阪で研修?と啓吾が問い返すと、玉ちゃんに東京本部においでと誘われたけど、東京には帰りたくないって言ったら、大阪の関西本部で研修すればいいって、ということになったらしい。
 どうやらその研修も本決まりのようだった。
 しかも、出店資金も美奈が全部負担するつもりだという。そうじやないとせっかくお店をやっても面白味がないし、とりあえず実家の母に幾らか借りて、あとは私の貯金も多少はあるし、玉ちゃんも力にはなってくれるから、と言った。
 美奈の口からは神代のくの字も出てこない。
 神代は昨日、美奈が火遊びを繰り返しながらも離婚を切り出さないのは、自分がいずれ父親から受け継ぐ財産を狙っているためだ、と説明していたが、この美奈の言い方からしても、彼女がそんなことを目論んでいるとはおよそ思えない。
 なるほどね、啓吾はただ相槌を打っただけだ。
 食事のあと、美奈が淹れてくれたコーヒーをリビングで一緒に飲んだ。
 時刻は一時半近くになっていた。そこでようやく美奈が、で、彼には会って来たの、と訊いてきたのだった。
 啓吾は富永優花とも神代ともじっくり話ができたと言い、神代と優花との仲が美奈の言っていた通りのものであること、神代が啓吾と美奈との関係についてさほど関心を示さず、彼も美奈とは離婚する以外にないだろう、と言っていたことなどを伝えた。
 ただし、離婚するといっても、そんなに慰謝料は払えないと明言してたよ、と啓吾が言うと、最初からあの人のお金なんて一銭も貰うつもりないもの、と美奈はあっさりしていた。
 そして、彼女は空になったコーヒーカップを下げにキッチンに行くと、今度は緑茶の入った湯呑みを啓吾の分だけ一つ持って戻り、それを手渡してから再び向かいのソファに腰をおろした。
 座ると同時に少し背筋をまっすぐにして、ごめんね、と不意に言う。啓吾はやや戸惑い気味に、何が、と返した。
 私のことで啓吾さんにいろいろ迷惑をかけてしまって。
 美奈は神妙な面持ちでそう口にすると、ほんとにごめんね、ともう一度繰り返して、ぺこりと頭を下げてみせたのだ。
 一連の彼女の反応を観察しているうちに、啓吾は、神代が話していた美奈の「ご乱行」についても、慶子から先日聞いた空港での流産の一件についても、いまさら彼女に真偽を確かめたところで大して意味がない、という気分に段々なってきたのだった。
 丸一日会わずにいたあと、こうして昼飼を共にしてみて、美奈がそばにいてくれるだけで自分の心がいかに浮き立つかを、啓吾は身に沁みて感知することができた。そしてそれが美奈にとっても同じであることが彼にはよく分かるのだった。
 いまさら彼女の過去をあれこれ詮索することに、双方にとって幾許の利があるのだろう、と啓吾は思った。
 美奈がかつて誰と付き合っていたにしろ、いまは東京を離れて新しい土地での再出発を期している以上、もはやその者たちとのしがらみは皆無に違いあるまい。また、たとえ美奈のお腹に誰かの子供が宿っていたとしても、その子はこの世に生れることなく消えていった。きっとそれがその子の運命であったのに違いない。
 結局、ただ一つ残ったことは、彼女がこうして自分のそばにいるという事実だけだ。ならば、これまでのことで美奈を責めたり問い質したりする必要がどこにあるというのだろう。
 啓吾の胸中では、次第にそうした気持ちが強くなってきていたのだった。
 土曜の夜も客足は途切れなかった。
 前夜金曜日の売上は先週につづき十万円を超えていた。それだけでも驚きなのに、今夜もまた十万の大台に手の届きそうな勢いなのだった。
 この突然の大盛況は一体全体どういうことだ、と啓吾自身が日々首をひねっている。ただ明らかなのは、美奈の忠告に従って日本酒を店に置きだしてから客が増え始めたということ、そして美奈が大名に越してきたこの一週間でさらに客が五割増しくらいになったということだった。
 
 日付が変わって二十日日曜日の午前二時十五分。最後の三人連れの客が引きあげると、啓吾は看板の灯を落とし、そそくさと店の片づけをすませて家を出た。
 美奈の部屋で今夜、送別会を開くことになっているのだ。
 木曜日に春日玉枝と会った美奈は、さっそく明日の月曜日から大阪に研修に出向くことにしたのだという。期間は約一カ月。そのあいだも店舗の選定や内装の打ち合わせなどで折にふれ戻ってくる予定ではあるらしいが、そうはいってもクリスマス直前まで彼女はこの博多を不在にする。
 啓吾にすれば、ひどく寂しくもあり心もとなくもあった。
 バッファロー福岡店の開店は来年二月初旬と決まったようだ。開店までわずか三カ月足らず。
 美奈としても今後のタイトなスケジュールを考えると、明日からの大阪行きは止むを得ないところだろう。
 木曜日の夜に研修の件を聞き、その場で今夜の送別会を提案した。「きみの部屋で飲み明かそう」と持ちかけると、「じゃあ何か美味しいものを用意しておくね」と彼女もすぐに乗ってきたのだった。
 久々に美奈の部屋に上がると、寝室にダブルベッドが置かれていた。他にこれといった家具もないので、狭くなったというよりも殺風景な部屋が却って落ち着いたような感じがする。
 十畳ほどのリビングダイニングには小さなキャビネットと液晶テレビも入っていた。こちらもその二つのおかげでだいぶ居間らしくなっていた。
 二人掛けの丸テーブルの上には鍋支度がしてある。
 差し向かいで席について、啓吾はまず持参のワインを開けた。それにもう一本、「山猿」という人気の焼酎も持ってきている。先週、美奈の引っ越し祝いで飲んだときはもっぱらウィスキーだったので、今回は趣向を変えてみることにしたのだ。
 鍋は、博多ではめったにお目にかかれないねぎま鍋だった。
 数年ぶりの味に啓吾はちょっと感激してしまった。昆布とかつおのダシにたっぷりと醤油を利かせた煮汁はまさに関東風だ。それにまぐろの赤身、長ねぎ、ぶなしめじという具材が実によく馴染む。
 白ワインをがぶ飲みしながら、これは旨いね、と啓吾が言うと、
 福岡じゃあ、まぐろってあんまり食べないみたいね。他の魚は東京よりうんと新鮮で安いのにまぐろだけは高いからびっくりしちゃった、と美奈が言う。
 博多では鯛が高級魚の代名詞なんだ。あとはブリやアラかな。まぐろはせいぜい寿司屋で食べるくらいのものなんだ。
 狭い日本でも、その土地土地でやっぱりいろんな違いがあるのね。
 美奈が感心したような口調になった。彼女は東京生まれの東京育ちで、地方に住んだことは一度もないと以前言っていたのを啓吾は思い出していた。
 とにかく、食い物はどれをとっても大阪から西が圧倒的に美味しいよ、と啓吾が言うと、美奈も頷いてみせた。
 鍋の他にもビーフカツやキュウリと海老の妙め物、れんこんのきんぴら、厚揚げとチンゲンサイの煮物などが次々に出てきて狭いテーブルの上は鉢や皿でいっぱいになってしまう。
 ワインはすぐ空になり、それからは美奈がビール、啓吾は焼酎に切り換えて、せっせと食べせっせと飲んだ。
 午前四時頃になると啓吾はすっかり酔っ払ってしまった。先週も仕事は忙しかったし、一泊の東京行きもあった。やはり疲労が溜まっているのだろう、と自分でも思う。店が繁盛するようになって客商売が体力勝負であるとつくづく思い知った気がする。
 美奈が空になった皿を片づけているあいだに急激な眠気に襲われた。啓吾は断りもせず寝室につながるドアを開け、着ていた服を脱ぎ散らかしてそのままベッドにもぐり込んでしまった。
 ふと目を覚ましたのは懐にぐにゃりとした暖かさを感じたからだ。
 ぐにゃりとしたものは美奈の身体だった。啓吾はいつのまにか彼女を背後から抱きかかえるようにして眠っていたのだ。
 彼は美奈の首もとに巻かれていた自分の右腕を慎重に抜いて、ゆっくりと上体を起こした。閉じられたカーテンの向こうにはうっすらと明るさがあった。何時だろうと思いながらベッドの宮台に目をやると啓吾の携帯電話が置かれている。それを手に取って時間を確かめた。午前七時をすこし回ったところだった。
 三時間近くも眠っていたことになる。とてもそんなに時間が経過したように思えず、啓吾はまるで狐につままれたような気分になる。
 何か飲む?と不意に下から声がして、ぎょっとする。
 美奈が目を開けてこちらを見ていた。
 返事すると彼女は起き上がりベッドを降りた。しばらくして冷たい水を持ってきてくれる。一息で飲み干す。それから彼は用を足しに行ってベッドに戻った。美奈が毛布を持ち上げてくれ、そのあたたかな空間に身をゆだねると、再び甘やかな眠気が押し寄せてくるのだった。
 次に目覚めたときは正午をとっくに過ぎていた。
 お風呂沸いてるわよ、と美奈に起こされる。ぼんやりとした状態のまま立ち上がると下着を強制的に剥ぎ取られ、素っ裸にされてお風呂場に連行された。美奈はバスローブ姿だったのですでに入浴を済ませたのかと思っていたら、彼女も裸になって浴室に入ってきた。熱めの湯に二人で浸かって、一気に啓吾の意識は鮮明になった。
 おはよう、と浴槽の中で向かい合わせの美奈が笑顔で言った。
 風呂から上がるとバスローブ姿のままの美奈が大きなチーズオムレツを作ってくれた。バターの香りと少量垂らした醤油の香りが混ざり合って食欲をそそる。フォークで一緒にオムレツをつつきながら冷えたビールで乾杯した。啓吾も彼女とは色違いのバスローブを羽織っただけの姿だが、部屋の中は暖かった。
 食事が終わり、美奈にごく当たり前のようにベッドに誘われる。時刻は二時を回ったところだった。
 寝室のカーテンは朝から閉じられたきりで、室内は薄暗い。
 美奈は裸になってベッドに入る。啓吾もバスローブを脱ぎ捨てて隣に滑り込んだ。風呂に浸かったせいか美奈の身体はすっかり火照っていて、抱きしめるとその熱でじんわりと肌が汗ばんでくるのが分かる。そのうち、彼女の肌からも汗が渉み出してきた。
 啓吾のペニスを握りしめる彼女の左掌は熱いくらいだった。
 そうやって互いの性器を弄りながら唇を烈しく吸い合った。
 もう右足は痛くないの、と啓吾が訊くと、もう何でもないわ、と荒い息づかいの中、上擦った声で美奈が言う。
 十分くらい抱き合ったところで、不意に彼女は起き上がった。
 ベッドから降りると、クロゼットを開けて、中に積んである衣装ケースの一つから何か取り出して戻ってきた。美奈はベッドに上がり、半身を起こした啓吾の前に正座すると、手の中のものを差し出してくる。
 それは新品の大きな包帯二個とやはり新品のハサミだった。
 啓吾が彼女の顔とその包帯とを見比べて怪訝な表情を見せると、美奈は唾を飲み込むように一度息を詰めたあとで、これで私の手足を縛ってください、と頼んできたのだった。
 マットレスに仰向けになった美奈の両手両足を、渡された包帯を適度の長さにカットしながら縛りつけていく。左足は足首を縛ってベッドの左脚にくくりつけたが、右はさすがに傷痕の走る足首は避けて膝頭を縛り、ベッドの右脚に繋いだ。両腕は掌を合わせた形で頭上にかかげさせて、手首から肘までを包帯でぐるぐる巻きにする。
 そうやって身体の自由を奪われていくほどに美奈は身悶えし、甘い吐息を洩らし、喘ぎ声を上げ始めた。
 余った包帯で彼女の両眼も塞ぐ。猿ぐつわの要領で口まで塞ごうとすると、さすがに少し気色ばんだような抵抗の所作を見せた。が、それも本気とは見受けられない。
 啓吾はそのようにして彼女の身体を真っ白な包帯で拘束していくうちに、何か等身大の女人形もてあそを弄んでいるような奇妙な充足感を感じた。そして、合間合間にヴァギナに指を挿入してやると、びっくりするくらいの量の液を噴き出しながら容易に達してしまう。そんな玩具のような身体に、脳天の隅々を電流が駆けめぐるような興奮を覚えた。
 それにしても、美奈はこんなことを一体誰に教わったのだろうか?
 誰が彼女をこんな身体に仕込んだのだろうか?
 
 おそらく神代ではあるまい、と思う。
 神代が言っていた、高校時代の同級生なのか、スポーツクラブのインストラクターなのか、はたまた、再び縒りを戻したという翻訳会社の社長なのか。
 そこまで思いが及ぶと、なおさらに啓吾のペニスは怒張するのだった。
 啓吾ははちきれんばかりにカチカチになったペニスを一思いに美奈のヴァギナに突き刺した。
 さながらはりつけ状態の美奈は、その瞬間にものすごい呻き声を上げ、突然のしかかってきた啓吾の身体に自分の下腹をぶつけるかのごとく腰を撥ね上げてきたのだった。
 啓吾の背筋を目が眩むほどの快感が突き抜けていった。
 が、今回は、美奈の激しい動きを受け止める彼の腰はびくともしない。
 差し込まれたペニスは深々と美奈のヴァギナを貫き、膣壁の複雑な襞に絡みつかれた途端にさらに一回り膨張している。
 両耳を塞ぐ恰好でかかげられたその両腕を押さえつけながら、啓吾は美奈に食い込んだぺニスを支点に腰を前後左右にゆっくりと揺すりだした。わずかでも腰が動くたびに、美奈の口からは喘ぎ声が生まれ、それはやがて切れ目のない悲鳴のようなものになっていった。啓吾は自分の腰の状態を慎重に確かめながら次第に動きを加速し、かつ激しくさせていく。
 悲鳴は絶叫に変わり、とうとう半月ほど前に温泉旅館の一室で垣間見た以上の反応を美奈は見せ始めたのだった。
 延々と啓吾は腰を振りつづけた。段々にペニスは感覚を失い、全体が虫刺されでむくみでもしたかのように腫れぼったい感じになってきた。そうなれば幾らでも射精を我慢できるようになる。
 幾度かの小休止を挟みつつ、啓吾は一時間近く、美奈を翻弄した。股間を閉じることも叶わず、ぴちゃぴちゃと音立てるヴァギナは何回も洪水のように液体を噴き上げて、ベッドに掛けられたカバーもその下のベッドパッドもぐしょ濡れの状態になった。
 猿ぐつわ代わりに噛まされた包帯は唾液で濡れそぼり、美奈は口角を泡だらけにしながら際限なくイキつづける。
 それでも彼女の反応は徐々に鈍くなってきていた。ちょうど一時間に達したところで啓吾はそろそろ切り上げようと決めた。
 腰の動きをピストン運動一本に切り換える。
 すると、どういうわけか美奈の反応が不意にまた激しさを取り戻したのだった。これは啓吾にとって予想外の事態だった。
 彼女は、縛りつけられている両腕を前後にバタつかせ、塞がれた口の隙間から声ならぬ声を発する。
 最初は何と言っているのか、よく聞き取れなかった。
 彼女は眉間に皺を刻み、激しい喘ぎのたびに紅潮した顔面を醜く歪めながらも、必死の形相で意味不明の言葉を繰り返していた。
 啓吾は、腰の動きを止めた。彼女の口の包帯を取り、目隠しを解いた。
 直後、膨張していたはずのペニスが勃起時のノーマルな形状に戻ったような感覚があった。
 抜くのなら今しかない。
 咄嗟に思った。
 思ったが、なぜかその決心がつかない。
 美奈の閉じられた瞳がすうっと開く。
 その黒く大きな瞳を覗き込んだ瞬間、ペニスの付け根から先端にかけて脈打つ感触が一気に広がっていった。
 美奈の喃語のような呻き声。
 緊急炉心冷却装置でも作動したように啓吾の意識は急速に正常化していく。
 彼の脳裡に甦ってくる言葉があった。
 私たち女は心と身体で生きる。だけど、あなたたち男は、目と頭だけで生きようとする。
 別れた妻の塔子がずいぶん昔に口にした言葉だ。それにしても、なぜこんなときにこの言葉を思い出したのか。
 ペニスは依然、大量の精液を美奈の中に吐き出しつづけている。
 そういえば、と啓吾はさらに思い出した。そういえば、この塔子の言葉を想起したのは、先月の二十六日、美奈が去って行った直後に、彼女のぬくもりがいまだ残るベッドにもぐり込んだときのことだった。そうだ。自分はあのとき、もうこれで美奈との縁は完全に絶たれたのだとひどく物哀しい気分に襲われた。
 もしも、私があなただったら、こんな私のことを置いていったり絶対にしない。
 六年前に羽田空港で言われた台詞を、そっくりそのまま美奈に突き返したいような寄る辺ない気持ちに自分は陥ってしまったのだ。
 美奈を愛している以上、こうするしかないのだろう。
 諦念にも似た心地で、再び瞑目したその端整な顔を見下ろしながら啓吾はぼんやりと思った。
 そして、そこまで思い至ったとき、彼は、子種がないことの苦しみを縷々語っていた神代の心情がほんのわずかにだが理解できたような気がした。
 
 結局、土日二晩つづけて美奈の部屋に泊まった。日曜日は一歩も外出せず、ただひたすら美奈と交わっていた。月曜の明け方までに一体何回射精したのかよく思い出せないくらいだったが、これほどの精力が我が身に残っていたという事実に、啓吾は素直に感心してしまった。朝早くの新幹線に乗るというので、二人とも二、三時間仮眠を取っただけで起床した。急いで荷造りをすませた美奈を連れて部屋を出たのは八時五分前だった。
 赤坂駅まで歩いているあいだ、股を動かすたびに恥骨のあたりがしくしく疼いた。並んで歩く美奈に小声でそのことを告げると、
 実は、私もさっきからすっごい痛いのよ。
 彼女は眉根を寄せ、ほんとうに辛そうな顔で呟いたのだった。
 博多駅に着いたのは八時十分過ぎで、チケットを買って新幹線ホームに上がると「のぞみ8号」はすでに入線し、乗客たちも車内に乗り込み始めていた。八時二十五分の発車時刻まであと五分足らずだった。
 乗車口の前で、例の大きなスーツケースを美奈に手渡した。
 いつ頃、戻って来るの?
 啓吾が訊ねる。
 来週後半には一度戻ることになると思う。お店の場所も決めないといけないし、玉ちゃんもまたこっちに来てくれる予定なの。今度は是非あなたに彼女を紹介するわ、と美奈は言った。
 啓吾は乗車するように美奈を促す。美奈はデッキの隅にスーツケースを置き、開いたドアを挟んで啓吾と向き合った。一段高いところに彼女が立ったので互いの目線がほぼ平行になる。
 ありがとう、と美奈が不意に頭を下げた。
 啓吾はその様子にちょっと不安になる。
 こうして見送りに来てくれて。
 なあんだ、と彼は笑った。それからしばし黙って二人は見つめ合う。
 ねえ、ちゃんと帰って来てくれるよね、と啓吾が言った。
 何言ってるの、当たり前でしょ、と美奈が笑う。
 私もあなたも、これからはもっともっと頑張るのよ。
 そこで発車のベルが鳴り出した。
 ずいぶん遅くなったけど、やっときみと一緒になれそうだね。
 うるさいべルの音にかぶせるように啓吾は大声で言う。
 あのときあなたがOKしてくれてれば、とっくに一緒になれたのよ、と美奈も大声になっていた。
 そこで美奈は啓吾の目を真っ直ぐに見つめた。
 でも、これできっとよかったのよ。
 お見送りの方はホームの白線の内側までお下がりください、というアナウンスが聞こえた。
 啓吾は美奈に手を振りながらあとずさる。
 じゃあ、来週待ってるよ。
 うん。あなたもお店頑張ってね。
 そこで乗車口の扉がシューッと音立てて閉まったのだった。
 
 九時前には家に帰り着いていた。
 今朝も実に爽快な快晴の空が広がっている。啓吾はコーヒーを一杯飲み干すと、早々に店の掃除を始めた。スツールや重みのあるテーブルを動かして、床や壁の隅を掃き掃除するのだが、腰の具合は快調そのものだった。
 美奈と丸一日さんざんセックスをしてみて、啓吾はもしや、と思い当たることがあった。
 この数年、自分を悩ませてきた腰痛の真の原因は、セックスの足りなさにあったのではないか、と。人としての本質的な営みであるセックスが不足するというのは、要するに腰部のしかるべき機能の一部を錆びつかせるということだ。結果、腰の能力は次第に退化し、筋肉組織も脆弱化してしまう……。
 この直感は意外に当たっているように啓吾には思えた。そうでなければ、あれだけ酷使した直後にもかかわらず、これほど軽快に腰を動かせるのが解せない。
 こうした馬鹿げたことを半ば本気で考えながら一心にグラスを磨いていると、慶子が十日ぶりに訪ねて来た。
 持ってきてくれた突き出しを冷蔵庫の密閉容器をおさめ、今日はうざくと厚切りハムのケチャップ煮、また少し量を増やしておいたから、と言った。
 サンキュー。
 啓吾はポケットから封筒を取り出してカウンター越しに彼女に渡した。突出しの量もいままでの三倍以上だし、内容も少しグレードアップさせている。最近は材料費込みでそこそこの金額を支払えるようにもなった。
 啓ちゃん、すこし痩せたんじゃない?
 封筒をバッグにしまいながら慶子が言う。
 頬がこけて何だか精悍になったよ。でも顔色はとてもいい。
 今朝方までの美奈との情事が回想され、啓吾はちょっと照れくさい。
 何と答えていいか分からないでいると、慶子の方が不意に何か思いついたような表情に変わった。
 そうそう、私、啓ちゃんに謝らないといけないことがあるんだ、と言う。
 啓吾が首を傾げてみせると、ほら、この前、美樹の友だちから聞いた話だって、啓ちゃんの親友の奥さんが空港で流産したことを話したでしょう。あれ、実は人違いだったんだって。
 あっけらかんとしたこの一言に、しかし啓吾は全身の毛が一瞬で逆立つほどの衝撃を受けた。
 人違い?
 その反問は呻き声のようだった。
 ほんとにごめんね。その奥さんにも失礼なことを言ってしまって申し訳なかったと思ってるの。あのときは啓ちゃんはとっくに知ってるみたいだったから、私、てっきり間違いのない話だって思ったんだけど、一昨日、美樹が同じ友だちにまた会って確かめたら、流産したのは別の若い女性で、その日は、エレベーターで転んで怪我をした女性があともう一人いて、それがその奥さんのことだったみたいなのよ。なんか私や美樹の早合点で、変なこと伝えてしまって、ほんとうにごめんなさいね。今日は、まず何よりこの話を訂正しておかなきゃって思って、来たのよ。
 啓吾の方は、しばしの間を置いてから、なんだ、そんなことだったのか。俺も聞いたときに変だなって思ったんだけど、まさか本人に直接訊ねるわけにもいかないしね、と反射的に喋り、肩をすくめて笑ってみせた。が、頭の中は大半が真っ白になっていた
 とにかく慶子に早く退散して欲しい。たとえ悪意がなかったとはいえ、彼女のこの早とちりには我慢のならぬものを感じた。同時に、いままでの慶子に対する自分のいい加減な態度がこのような痛烈なしっぺ返しを招いたのだ、という強い自責の念もあった。
 ほどなく慶子は引きあげ、啓吾は店のドアを閉めると錠を下ろし、まるで夢遊病者のようにふらふらと二階に通ずる階段を上った。
 覚束ない足取りで居間に入り、倒れ込むようにソファに腰を沈める。
 さっきまであんなにしっかりしていた腰が、どうにも頼りなくなってしまっている。
 啓吾は深呼吸を何度か繰り返した。
 なんのことはない。美奈は妊娠などしていなかったのだ。
 よくよく考えてみれば、それは当たり前のことのように思えた。
 幾ら美樹が聞きつけてきた話であったとしても、ろくに事実確認もせずに、すっかり真に受けてしまった我と我が身がいまとなっては信じられない。
 さきほど駅のホームで美奈を見送ったとき、彼女は列車のドアが閉まる直前に「でも、これできっとよかったのよ」と言った。あの言葉さえも、啓吾には意味深長なニュアンスを帯びているように聞こえた。
 俺は、美奈と心が通い合っているなどと得意がっていながら、その一方で、彼女のことを何一つ信じてなどいなかった。人間の猜疑心とは何と恐ろしいものか。
 昨日、最初の荒々しい交わりが終わったあと、啓吾が彼女の手足を縛っていた包帯を解きながら、こんなこと、一体全体誰に教わったんだい、と訊ねると、誰にも教わってなんかいないわ。もしも啓吾さんと本当に一つになることができたら、そのときは患者がお医者さまに生命さえもゆだねるみたいに、私は自分の何もかも全部を捧げようってずっと思ってたの。だから、こんなふうにしてもらいたかったの、と美奈は答えたのだった。
 むろん啓吾は彼女のそんな少女じみた説明はこれっぽっちも信じなかったのだ。
 だが、もしかしたらあの彼女の言葉は真実だったのかもしれない。
 ああ、美奈が妊娠も流産もしていなくてほんとうによかった。
 それにしても、いまの自分が腰が抜けたようになっている一番の理由は、実は、その強烈な安堵感のせいであることも啓吾は十分に心得ている。
 私もあなたも、これからはもっともっと頑張るのよ。
 ホームで美奈はそう言っていた
 あのときの美奈は一体どんな顔をしていただろうか。
 笑顔だったか?
 それとも厳めしい顔つきであったか?
 啓吾にはその顔がどうしてもうまく思い出せない。
 ただ、その言葉に込められた美奈の気持ちは、たとえどんなに時間が経っても自分の心の中に息づき続けるような、そんな気がするのだった。
  −了−

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