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チャールズ・ディケンズ『二都物語』(新潮社 加賀山卓朗訳)
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第二部 金の糸
 イギリスに渡る船の中で、ルーシーとローリー氏はチャールズ・ダーネイと言う男と顔をあわせている。しかし、その時は、ただ同じ船に乗り合わせたというだけであった。
 そして、無事イギリスに渡ったマネット医師は、ルーシーの献身的な介護のおかげでやがて正気を取り戻すことができた。
 それから五年ほど経ったある日のことである。フランス王政の暴政を嫌ってロンドンに逃れて来た亡命貴族の一人であるチャールズ・ダーネイ、彼はパリを逃れてから名前も変えていて、元の名前はシャルル・エヴレモンド。フランスの侯爵の出であったが爵位も財産も捨てて、自らの身一つでイギリスで生計を立てるべくパリを離れてロンドンへ来ていたのである。そのチャールズ・ダーネイに突然不幸が襲いかかったのだ。彼はイギリスで反逆罪により裁判にかけられることになり、そしてその裁判の証人としてローリー氏とマネット医師とその娘のルーシーが証言台に立たされることになったのである。その裁判には、ローリー氏の小間使い務めていたクランチャー氏も傍聴していた。
 ダーネイの嫌疑は、イギリスとフランスの間を往復して、イギリスがアメリカに派遣の準備をしている軍の情報をフランス王に流すという反国家的行為を計ったというものであった。カレーから船に乗ってイギリスに渡ったのもそれが目的だったとして、それを裏付けるために彼らが証言台に立たされることになったのである。
 チャールズ・ダーネイの容疑は根も葉もないものであった。検察側の証人として証言台に立ったジョン・バーサッド、そしてロジャー・クライという男も検察官の公訴事実に沿ってお追従のような証言をするだけで、証拠となるようなものはまったくと言っていいほど乏しかった。被告側弁護人ストライヴァー氏は、舌鋒鋭く、このバーサッドは金で雇われたスパイで、恥知らずの血の商人であり、またもう一人のロジャー・クライはバーサッドの古くからの相棒で、彼らは抜け目のない詐欺師であり、偽証者であり、前の証言においても彼らはなんら確かな証拠を示していない、とバサッリと切り捨てたのである。
 しかし、そのあとで出てきた検察側証人は、ダーネイが情報を盗んだとされる海軍工廠の、そのすぐ近くのホテルの喫茶室で被告が確かに人待ちして座っているのを見たという証言をした。ただし、見たのはたった一度だけだという。その時、傍聴席にいた同僚弁護士のシドニー・カートンが機転を利かせて、弁護人ストライヴァー氏に助け船を出した。カートンはダーネイの顔が自分とそっくりだなと思い、ストライヴァー氏にメモを渡して、自分を指差してあの男を見てください、そのあとであらためてダーネイを見てください、と裁判長に言えと伝えたのである。裁判長や陪審員たちは言われたとおりカートンを見て、それからダーネイを見た。見間違うほどに似ているのに驚く。そこで、すかさずストライヴァー氏は、人は今のように簡単に見間違えることがあるのですから、証人の証言もあてにならないのでは、と畳みかけ、陪審員を動かすことになった。
 判決は無罪となり、ダーネイは死の淵からこの世に呼び戻された。そしてこの裁判が縁となって、ダーネイはローリー氏やマネット医師、そしてストライヴァー、シドニー・カートンの二人の弁護士、そしてなによりルーシー・マネットとも知り合うことができたのである。
 マネット医師の評判を聞きつけて、彼を訪ねて来る患者も増え、彼は医者として生活に困らないくらいの収入を得ることができるようになっていた。また、ローリー氏はしばしばソーホーにあるマネット医師の家を訪ねてきたし、そこにダーネイやシドニー・カートンがやって来ることもしばしばあった。そしてこの若い二人の男はルーシーの魅力に引き寄せられていた。またマネット家には、ルーシーが十歳の頃から献身的に彼女の世話をしているミス・プロスも一緒に暮らしていて、ルーシーに変な虫が付かないよう目を光らせていた。
 
 その頃、パリの郊外に居を構えるダーネイの叔父の侯爵は、政界ではどちらかといえば冷や飯を食わされ、不遇をかこつ日々であった。その日も、パリで抜きん出た力のある有力貴族の豪邸で贅の限りをつくした仮面舞踏会が開かれ、閣下の謁見も行われ、彼も出席したのだが、謁見の間も周りの者とほとんど交わらず、閣下から暖かい言葉をかけられることもなかった。邸をあとにする時、彼は玄関の扉の前で立ち止まり、そこで振り返って、おまえなんぞ、悪魔の元に行け、と悪態をついた。
 それから、その鬱憤を晴らすかのように彼の馬車は全速力でパリの通りを駆け抜けていった。しかし、噴水の側の角を曲がる際に子供を跳ねてしまい、車輌がガクッとなり馬車が止まった。背の高い男が馬車に駆け寄って来て、死んだ、と叫び声をあげた。倒れた子供の父親らしかった。侯爵は、外にいる従者に金貨を一枚投げてやった。すると、背の高い男がもう一度、死んだ、と大声で叫んだ。そこへ別の男が背の高い男に駆け寄り、気をしっかり持て、ギャスパール、あいつは死んだほうがましだった、即死だから苦しみもなかったし、今までだってほんの一時間でもこれより幸せに生きられたか、と慰めた。それを聞いた侯爵が、男の名前を聞くと、男はドファルジュ、酒屋でございます、と答えた。侯爵は、哲学者の酒屋、と言ってもう一枚金貨を出し、好きに使うがいい、とドファルジュに渡した。そうして侯爵が座席にもたれ、馬車で走り去ろうとした時、一枚の金貨が馬車に投げ入れられた。侯爵が、怒って馬車を止めさせ、外を見たが、その男の姿はどこにも見当たらなかった。  
 犬どもめ、おまえたちの誰だろうと喜んで轢いてこの世から消し去ってやる。金貨を投げた奴が見つかったら、この車輪で挽きつぶされると思え、と侯爵は怒鳴って、御者に、行け、と命じ馬車は走り去っていった。民衆は怯え切っていた。侯爵のような人間には法の内でも外でもいかようにもできることを知っていたので、声を上げる者も、顔を上げる男も誰ひとりいなかった。ただ編み物をしていた女だけは顔を上げ、侯爵を見ていた。やがて、その側を閣下の豪邸から出てきた仮面舞踏会の面々を乗せた馬車が通り過ぎて行った。
 ダーネイが、叔父を訪ねて久しぶりにパリに足を運んだのは、叔父にきっぱりと決別を伝えるためであった。ダーネイの父親は、この叔父の双子の兄で、すでに亡くなっていて、家督をこの叔父が継いでいたのだった。そこで、自分は、この身一つで生計を立てていくつもりだ、国を捨て、あなたからの遺産もあてにしてない、とダーネイは叔父に言った。叔父はもはやダーネイを止める言葉を持たなかった。
 
 その後、チャールズ・ダーネイは、イギリスで、フランス語を教える家庭教師として、またフランス語の翻訳家として生計を立てるようになり、そうして生活が落ち着いてくると、ダーネイはルーシーに対する愛情を抑える事ができないでいる自分に気づく。
 ダーネイは、ついにその気持をまずマネット医師に伝えるが、彼からはすぐ快い返事は得られなかった。君の気持を自分は有難く思うが娘の気持はどうなんだろうか、とマネット医師に言われ、ダーネイはすかさず、彼女に他に求婚者がいるのですか、と聞く。すると、マネット医師の口からストライヴァーやシドニー・カートンの名前が出てきたのである。
 辣腕弁護士のストライヴァーも、ルーシーに惚れていた。彼はまず同僚のカートンに、ミス・マネットに結婚を申し込むつもりだと打ち明けた。カートンは、どうだ賛成してくれるかとストライヴァーから聞かれ、どうして賛成しないわけがある、と答えた。そこで、ストライヴァーは、気を強くして、マネット医師のところに行くまえにローリー氏のところに立ち寄り、ルーシーを嫁にもらいたいとマネット医師に言うつもりだ、と言ったが、ローリー氏からあっさりと、それはお止めになった方がいいのでは、と言われてしまう。ストライヴァーはそれでも納得できない様子だった。ローリー氏がそれなら私の方からミス・マネットの気持を確かめてお知らせいたしますから、それからにしても遅くはないでしょうと言うので、ストライヴァーは渋々それに従うことにしたが、結果は始めから分かっていた。結局、ストライヴァーは自らなにも行動することなく引き下がざるを得なかった。
 他方、シドニー・カートンも、ストライヴァーには賛成しないわけがない、とは言ったものの、ルーシーへの思いは断ちがたいものがあった。しかし、自堕落な自分のような男がルーシーという素晴らしい女性に相応しいとはとても思えず苦悩する日々であった。とはいえ、ある日彼は人生に対する自分の後ろ向きな気持に光をあててくれ、たとえそれが一瞬のことであったとしても前に進めるという希望を与えてくれたこと、そのことに対するルーシーへの心からの感謝の気持を伝えようと、勇気を出してソーホーのマネット家を訪ねた。
 幸いルーシーは在宅していて、カートンはルーシーに心の裡を伝える機会を得ることができた。カートンの思いを聞いて、ルーシーは、自分があなたになんらかの影響を与えることができたのだとしたら、その力をあなたを助けるためには使えないのでしょうか、と言った。カートンはルーシーのその言葉を聞いて、今の自分にもあなたに嘆き哀れんでもらえる何かが残っていたことをどうかその胸に留めておいてください。そして今日という日を思い出した時、わたしの人生の最後の秘密があなたのその無垢な胸にしまわれ、他の誰にも伝えられることがないということを約束してもらえますか、と言った。あなたの秘密を大事にしまっておくことを約束します、とルーシーは答えた。
 それからもう一つお願いがあります、とカートンが言った。わたしはあなたとあなたが愛する人のためにはなんでもやります。たとえどんな犠牲でも喜んでやります。このことも、ぜひ記憶に留めておいて下さい。そう言い、最後に、さようなら、神のご加護を、の一言を残して彼は去って行った。
 
 ロンドンのフリート街の一角、テルソン銀行の脇で、ジェレマイア・クランチャー氏とその息子のジェリーはいつものように通りを行き交う人を眺めていた。クランチャー氏は、道行く人に銀行への案内役を務めてそのチップで生計を立てているのだった。その日は、騒がしい葬列の一団がその前を通り過ぎた。葬列の周りを取り囲んだ群衆が、スパイだ、スパイだ、と叫びながら棺車から柩を引っ張り出そうとしていたのだが、近くの人に聞くと、それはロジャー・クライという男の柩だという。その名前はクランチャー氏にも聞き覚えがあった。あのダーネイの裁判で検察側の証人に立ったひとりだった。やがてその群衆の誰かが柩を自分たちの手で教会まで運んで土に埋めてやろうと言い出すと、みんな諸手を挙げて賛成し葬儀屋を追放して、てんでに柩車の上に登って叫び、煙突掃除人が柩車を操りながら教会の墓地まで運んで行って、柩をそこに埋めた。父のクランチャー氏も柩車に駆け寄り、いの一番に登った一人であった。そしてその柩が埋められるところまで確認し、彼はその日の夜、仲間三人で、その遺体を掘り出しに出掛けたのである。実は、クランチャー氏は、墓から遺体を掘り出して解剖用に闇の業者に売る「復活屋」を副業としていたのだ。しかし、その柩には遺体がなかったらしい。戻ってきたクランチャー氏は、不機嫌で妻に当たり散らした。
 
 一方、パリのドファルジュの酒店では、いつもより朝早く六時から酒を飲んでくだをまき、カードに興ずる人びとの姿がみられた。ドファルジュ夫人は、いつものようにカウンター脇に座って編み物をしているか、ワインをついで回っているかだった。そしてドファルジュ夫人の編み物は、単なる編み物ではなかった。それは、一種の記録で、彼女は見聞きした貴族たちの悪行を自分だけが分かる符号を使ってそこに編み込んでいるのだった。ドファルジュは、フランスの貴族たちの横暴な振る舞いに対して激しい怒りと復讐の炎をたぎらせている民衆のひとりであり、夫人も夫以上に復讐心に燃えていた。ドファルジュの酒店には、そうした仲間が集まって情報交換が行われ、得られた情報はドファルジュ夫人の手で編み物に記録された。たとえば、最近の話では、領主に子供を殺され頭がおかしくなった男が、短剣を持って領主の館に忍び込み、館の主の侯爵を殺したが、その男は捕らえられて、街の水飲み場に立てられた四十フィートもの高い絞首台で首を吊られ、その遺体はしばらくの間そのまま放置されていたという事件があった。その男とは、侯爵の馬車に子供を轢き殺されたあのギャスパールである。その話もしっかりと編み物に記録された。
 しかし、その酒店にはスパイが来ることももちろんあった。その日、あきらかにスパイと分かる男が店にやって来た。彼は、店に入って来ると、ドファルジュ夫人に挨拶がわりに声をかけ、マダムあのギャスパールの処刑はひどいものでしたね、このサンタントワーヌあたりじゃ、彼にずいぶんと同情と怒りの声が上がっているという噂を耳にしましたが、と言った。夫人は、そうかい?、と答えただけだった。ほどなくして店に戻ってきたドファルジュにも、同じ質問をしたが、ドファルジュは、スパイがこのサンタントワーヌに入ってきたという情報をすでに仲間の警官から得ていたので、それがジョン・バーサッドというスパイだとわかった。ドファルジュも、私は聞いてないがね、と素っ気ない返事をした。しかしスパイは相手のことはお見通しだとばかりになれなれしく、ムッシュ・ドファルジュ、ご主人はその昔ドクトル・マネットの身元引受人となられたんですよね、ここへ連れてこられたんでしょ、と言った。ドファルジュは、まあ、確かに、と言った。続けてスパイは、そのあと娘さんが来て、ドクトル・マネットはテルソン銀行のローリー氏とともにイギリスへ渡ったのでしたね、実はその娘さんが今度結婚するのはご存知でしたか、と聞いた。ドファルジュにとっては、それは初めて聞く情報だった。スパイは、それが奇妙な縁といえは縁なんだが、彼女が結婚する相手というのが実はギャスパールという男が高いところに吊された事件がありましたが、なんとその原因ともなった侯爵のその甥なんですよ、と言った。彼は今イギリスで身分を隠してミスター・ダーネイとして生きているらしいんです。それを聞いてドファルジュも動揺した。それだけ話すと、まもなくバーサッドは店から出て言った。
 
 チャールズ・ダーネイとルーシー・マネットはそれからほどなくしてめでたく結婚する。結婚式のあと二人は新婚旅行にでかけたが、式が終わって家に帰ると、マネット医師の様子が変なのにローリー氏が気づいた。その夜、マネット医師は部屋にこもり、かつてのように靴造りをはじめたのである。ローリー氏が話しかけても、言葉は帰ってこなかった。そんな状態が九日間も続いて、十日目にようやく正気を取り戻した。幸いルーシーとダーネイにはそのことは知らせなかったので、彼らが帰って来たときには、マネット医師は以前の通りに彼らを迎えることができた。
 二人が帰ってきてまもなくカートンがやって来て、祝いの言葉を述べた。それから彼は、今後特別な友人として時々この家に訪ねてきてもよいか、とダーネイに聞いた。ダーネイは、了解した。しかしカートンが帰って行った後、ローリー氏やミス・プロスを交えた夕べのおりに、ダーネイがカートンの無頓着と無鉄砲ぶりを話題にしたので、ルーシーにはそれが気がかりだった。そこで、その夜ルーシーは寝室でダーネイの胸に手をあてて、どうかあのカートン氏には広い心で接してあげてほしい、彼の欠点を大目にみてあげてほしい、あの人は心に深い傷を負っているのですから、と真剣な顔で頼んだのである。ダーネイは、妻の願いを受け入れ、この命あるかぎり覚えているよ、と言った。
 それから平和で幸福な時間がルーシーとその家族たちの間を過ぎていった。ルーシーは、夫と父親と彼女自身、そしてミス・プロスを結びつける金の糸をいそいそと紡いでいた。その間に娘が生まれ、それから続いて弟が生まれた。しかし、弟は幼くして亡くなり、悲しみに沈んだが、その悲しみもルーシーに残酷な響きを残すことはなかった。しかし、娘が六歳の誕生日を迎えるころには、次第に家の周りの通りの一角にもこだまが響き渡るようになり、フランスではそれは恐ろしい高波を伴う大嵐の響きとなった。
 
 フランスのサンタントワーヌでは、民衆の蜂起が勃発していた。1789年7月のバスティーユ監獄の襲撃に、あのドファルジュやその妻も加わっていた。監獄襲撃の折に、なぜかドファルジュはわざわざ北塔百五番の独房を訪れ、部屋の中をしきりに探し回っていた。北塔百五番、それはマネット医師があの屋根裏部屋でつぶやいてた言葉だった。彼はそこでしばらく捜しものをしたあと部屋の物を次々と壊し、集めて燃やした。それからバスティーユの監獄長を捕らえ、市庁舎まで連れていって処刑に及んだ。ドファルジュとその妻は彼らの中心にいた。
 また、ドファルジュたちは、侯爵の館にも火を放ち、全焼させた。宿駅の長でもあり、徴税人のテオフィル・ギャベルにも民衆の怒りの矛先が向けられ、彼の家にも民衆が押しかけたが、ギャベルは屋根に隠れていて命拾いをした。こうした民衆の蜂起はフランスの至る所で沸き起こり、多くの貴族たちやその追従者たちが、命からがらフランスの地を逃げ出していった。そうした貴族たちのすがる場所は、ロンドンのテルソン銀行であった。彼らはそこで、自分の財産についてや故国の情報を手に入れることができたからだ。
 
 テルソン銀行の一室で、ローリー氏はダーネイと話をしていた。とにかく一刻も早く自分がパリに行く必要がある、とローリー氏は言い、ダーネイがそれはあまりに危険過ぎないだろうか、と引き止めようとしているところだった。しかし、ローリー氏はクランチャー氏一人を連れてパリまで行くと言って譲らない。
 近くで、あの弁護士ストライヴァーの声が聞こえた。今や国の昇進の道を歩む彼は近くにいる亡命貴族たちを捕まえては、あの人民たちを地雷かなにかで吹き飛ばして地上から永遠に消し去る方法について得意気に吹聴していた。ダーネイは、彼の話にはとりわけ反感を覚えた。その時、頭取がなにか書類を持ってきてローリー氏のところに置き、この宛名の人物について何か手がかりは見つかったかね、と聞いた。ふと見ると、そこにはダーネイの本名、元フランス侯爵、サンテヴレモンド殿という宛名が見えた。ローリー氏は、ここにいるみんなにも聞いたのですが、誰にも分からないそうです、と答えた。
 それから閉店時刻が近づいてきた。ローリー氏はその封筒を帰っていく亡命貴族たちにも見せて、この名前の人物を知っているかと尋ねていたが、何人かが、これは、侯爵の地位を捨てた臆病者だ、先代の侯爵に盾ついて、折角相続した領地を捨てて、あの暴徒たちにくれてやったらしいぞ、と騒いだ。それを聞いていたストライヴァーが、そういう人間なんですか、そのろくでもない名前を覚えておこう、とんだ愚か者だ、と言った。
 そばで聞いていたダーネイは我慢できず、ストライヴァーの肩に手を置いて、この人とは知り合いです、と言った。ストライヴァーは、それは残念だ、と言った。ダーネイが、どうしてと聞くと、ストライヴァーは、悪魔の教典にかぶれた男がいて、地上でもっとも汚いクソみたいな人殺しの集団に財産をくれてやった、そういう極悪人の毒は必ずや伝染するから残念なのです、と言う。ダーネイは、あなたはその紳士を理解していないのかもしれない、と反論する。
 すると、ストライヴァーは、もしその輩が紳士だとしたら全く理解できない。ついでに言うと、財産や身分を捨てて人殺しの集団にやったあと、みずからやつらの先頭に立っていないのは驚きだと伝えてください、しかし、こういう男にかぎって可愛い子分に身を預けることはせず、もめ事が起こると真っ先にこそこそ逃げ出すでしょうな、と言い、最後に指をパチンと鳴らして、聴衆の歓声を浴びながら威風堂々とフリート街に出て行った。
 ダーネイは、テルソン銀行を出てテンプル門の陰に入って封筒を開封した。それはかつての自分の使用人で徴税人のテオフィル・ギャベルからのものだった。そこには、あなたの意向を受けて、農民たちの地代や税の徴収も免除して、指示された通りに務めを果たしていたのに、人民に危害を及ぼしたとして捕らえられ、獄に繋がれている、なんとか助けて欲しい、と書かれていた。
 ダーネイは、手紙にあるように叔父の死後その領地を遺産相続したが、その後は実際の処理ついては、ギャベルに書面で指示を出し、領民を寛大に扱い、少ないながならも彼らに与えられるものはみな与えよ、と伝えてきたのである。その書面はおそらくギャベルも弁明のための証拠として提示しているはずだから、ぜひ自分が行ってそれをはっきりさせようという思いが、パリに行くというダーネイの向こう見ずな決断を後押しした。
 この時期にパリに行くということが、どれ程危険なものであるのか、ダーネイには冷静な判断ができなかった。善人が善行を為すときによく見られる楽観的で輝かしい蜃気楼が目の前に現れていたのだ。ただ、マネット医師やルーシーには、この国を出るまではパリに行くことについては知らせるべきではないと彼は判断した。そこで、パリに先に発つ予定のローリー氏のところへ行き、さっき届いたあの友人の手紙を本人のサンテヴレモンド氏に見せたところ、できれば口頭で手紙の差出人に返事を伝えて欲しいということなので、ぜひその差出人に伝言をお願いしたいのだか、と頼んでみた。ローリー氏は快く引き受けてくれた。ダーネイはそこでローリー氏に、アベイ監獄にいる差出人のギャベルという男に会って、サンテヴレモンド氏からの「手紙を受け取った。会いに来る。明日の夜出発する」という伝言を伝えて欲しいと頼んだ。
 その夜、ダーネイはマネット医師とルーシーに宛てて手紙を書き、どうしてもパリに行かなければならなくなったこと、そして自分の身に危険が及ぶ心配はないと確信している理由について縷縷説明した。それでも、結婚以来の初めての隠し事でもあり、後ろめたい思いはあった。
 次の日の夕方、ダーネイは妻と幼いルーシーを抱きしめ、すぐに戻ってくるふりをして家をあとにした。
 
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