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チャールズ・ディケンズ『二都物語』(新潮社 加賀山卓朗訳)
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第三部 嵐のあと
 ダーネイは、革命の嵐が吹き荒れるただ中のフランスに足を踏み入れることになったが、パリまでの道のりは想像を絶するもので、一日何度も監視に検問を受け、足止めされ、フランスの地を踏んでからパリまでたどりつくまでに何日もかかった。その間、命の危険を感ずることもたびたびであった。
 それでも、なんとかパリに辿り着いたが、そこでダーネイは愛国者グループのリーダー格の男に引き連れられて、革命政府の役人に突き出されてしまうのである。このリーダー格の男があのマネット医師をしばらく匿っていたドファルジュであった。役人から、新しくできた法律で亡命貴族は誰でも監獄に送られるのだ、とダーネイは宣告され、独房行きとなった。リーダー格の男について独房へ連れていかれる途中、その男から、ドクトル・マネットのお嬢さんと結婚したのはあんたか、と聞かれダーネイが、ええ、と答えると、男は私はドファルジュだ、と名乗り、ダーネイはその男がマネット医師が匿われていたあの酒店の経営者だということを知ったのである。
 ドファルジュからどうしてフランスに戻っきたんだ、と聞かれ、捕らわれていたギャベルの嫌疑をはらすためだ、とダーネイは答えたが、あんたにとって不運な真実だったな、と言われた。ダーネイは、なんとかテルソン銀行のローリー氏に連絡をとってもらえないか、とドファルジュに頼んだが、私が義務を負うのは国と人民だけで、あんたは敵だ、だからなにもしてやらない、と言われた。そして、ダーネイは、ラフォルス監獄の独房に入れられたのである。
 一方、テルソン銀行のローリー氏は、パリ支店にいて、仕事に忙殺されていた。そして、そこになんとマネット医師とルーシーが訪ねてきたのである。彼らは、ダーネイがパリに向かったと知ってその身を案じ、矢も楯もたまらず駆けつけたのである。マネット医師は、パリの貧しい人びとにもあまねくその名を知られた慈善家でもあったので、革命に身を投ずる人びとから危害を加えられる心配はないと踏んでのことでもあるが、事実彼は厳しい検問の中でもそれに携わる人びとからどこでも抱擁で迎えられ、彼らからダーネイがラフォルス監獄に入れられたという情報をも得ていたのであった。
 ローリー氏は、マネット医師からダーネイがラフォルス監獄に入れられていると知らされた。そこで彼はマネット医師の力を借りるしか彼を助ける方法はないと考え、マネット医師をテルソン銀行の建物の格子窓のところへ連れて行って、中庭にいる血に飢えた猛り狂った革命派の連中の様子を見せ、彼らの所へ行って、あなたの口から直接ダーネイのことを頼んでみれば、もしかしたら道が開けるかもしれない、と言った。マネット医師は、それならと彼らのところに出掛けて行った。
 格子窓からローリー氏がマネット医師の様子を見ていると、二十人くらいの男女らに取り囲まれるなかで、マネット医師が彼らに話しかけているのが見えた。しばらくして彼らの間から歓声が上がり、マネット医師は彼らとともに肩を組み合い、ラフォルスにいるバスティーユの囚人の身内を助けよう、道を開けろ、と叫びながらその一団は中庭を出て行ったのである。
 ローリー氏がそれを確認してから、ルーシーのところに戻ると、なんとミス・プロスと幼いルーシーもその側にいたのである。ローリー氏は、とりあえず彼らのために借りられる部屋を探さなければならない、とさっそく出掛けて行き、銀行の近くの四角い建物の階上に適当な部屋を見つけて、そこに彼女たちを移し、必要なものを買い揃え、ボディガードがわりにクランチャー氏を側に付けて、再び銀行に戻って来た。
 閉店時間に近くなってもマネット医師は戻って来なかった。代わりにローリー氏のところにドファルジュがやって来て、マネット医師からの伝言だと言って紙切れを見せた。そこには、「チャールズは無事だが、私はまだここから出られない。この使いに頼んで、チャールズが妻に宛てた短い手紙を持っていってもらうので、この者を彼女に会わせてほしい」とマネット医師の筆跡で書かれてあった。
 ローリー氏は、ドファルジュをダーネイ夫人のいるところに案内しますと言って、建物の外に出て行ったが、中庭にはドファルジュ夫人ともうひとり女がいた。その女の名は“復讐”というらしい。ドファルジュは、家内が奥さんの顔を見て覚えておけば皆さんも安心だと思うので、と言った。そこで、ローリー氏はその二人の女性たちの同行を認めた。
 ローリー氏が部屋に先に入って、チャールズの消息を伝えるとルーシーは大喜びしてドファルジュの手を握った。ドファルジュからルーシーに渡された手紙の内容は、「最愛の妻へ、勇気を持って。ぼくは元気だ。父上にはここの人たちを動かす力がある。返事は受け取れない。ぼくに代わって娘にキスをしておくれ」というものであった。ドファルジュ夫人とその連れの女性はルーシーとその娘に対してどこか威嚇するような感じがあったが、ローリー氏がこちらは有力者のマダム・ドファルジュで、万が一のためにも、守るべき人の顔を見ておきたいというので、ここに来られたのです、と言って、それからミス・プロスと幼いルーシーを紹介した。ドファルジュ夫人とその連れは、ルーシーたちに威圧的で、どこか怖ろしいような印象を残して、去っていった。
 彼らが去ったあとで、ルーシーは、あの怖ろしい女の人が、わたしたちすべての希望に暗い影を投げかけているようで、とローリー氏に言ったが、彼の心にもドファルジュ夫妻の振る舞いは、暗い影を落とし、大きな不安をかき立てていたようだ。
 マネット医師は、いなくなって四日目の朝に帰ってきた。マネット医師が、ラフォルス監獄で見た光景は実に怖ろしいものであった。監獄内では簡易裁判が行われていて、その場で殺す、釈放する、引き続き収監するという決定が下され、多くの男女が殺されていた。マネット医師も、案内者によってその裁判に連れ出された。そこで自分は十八年間もバスティーユの独房に入れられていた者であると述べ、そこにいたドファルジュがマネット医師の身元を請け合ってくれたので、マネット医師の意見陳述が認められた。彼は、実は義理の息子がまだここに収監されているので、どうか彼を解放して欲しいと嘆願したのである。
 医師の嘆願により、チャールズがその法廷に呼び出され、審議されることになった。しかし釈放される寸前のところで、それまでの順調な流れが止まり、判事たちがこそこそと相談をはじめ、結局、チャールズ・ダーネイは引き続き収監するが、医師には危害を加えず安全な場所に留めおくとの宣告がなされたのである。
 チャールズの解放が果たせなかったのはマネット医師にとっては痛恨の極みであった。しかしそのことで逆に彼は人が変わったようになり、愛する娘が自分を回復させてくれたように今度は自分が娘の一番大切なものを取り戻すのに力尽くしてみせる、と強い決意をみなぎらせていたのである。あの十八年間は、決して無駄ではなかったのだというように。
 やがて、マネット医師は、本業の医業を行いながら、彼個人の影響力を巧みに使って、やがて三つの監獄の検査医になった。そこにラフォルス監獄が含まれていたので、週に一度はチャールズに会い、夫のやさしい言葉をルーシーに伝えてあげることができた。その間にチャールズの助命嘆願や裁判のやり直しの申し立てを何度も行ったが、革命の波はますます激しさを増し、1892年には国王も処刑、さらにはその八か月後には、王妃も断頭台へ、そうあの刃先鋭い女”ラ・ギヨティーヌ“の餌食となり、その希望は一層遠のいていくようであった。
 チャールズが収監されてから一年三カ月が過ぎた。これまでルーシーは毎日、一時間おきにチャールズの首が明日にも断頭台で落とされるのではないかとずっと心配し続けてきた。父親は、自分が知らないうちにチャールズに何か起きることはない、彼を救い出せるのは分かっている、と励ましてくれていた。
 そんなある日、ルーシーはマネット医師からチャールズについてのある情報を伝えられる。それは、監獄の高窓から通りがわずかだが見えるところがあり、チャールズが午後三時にその高窓へ行ける時があるので、毎日とは限らないが、その時にお前が通りに立っていれば、チャールズからお前の姿が見えるはずだというものであった。こちらからはチャールズの姿は見えないし、たとえ見えたとしてもこちらから合図を送るのは危険だが、あとからその場所を教えようと言われ、ルーシーはそれから毎日教えられたその場所に二時から四時まで二時間は立ち続けた。
 その場所はくねくねと曲がった狭い通りの角だった。その通りの端には一軒の薪屋があった。彼女が立ちはじめて三日目に薪屋が気づいて、ルーシーが通りを歩いて行くと、またご覧になっていたのですね、と監獄を指さして彼女に言った。それからは、ルーシーから声をかけるようにし、たまには酒代も手渡した。ルーシーが熱心に監獄の方を見ているのをジッと仕事の手を休めて観察していることもあった。ルーシーは、チャールズの顔はみえなかったが、ひたすら高窓に顔を向けて立ち続けた。   
 しかし、監獄のその一角にも、革命の熱狂に浮かれる人びとが押し寄せ、ルーシーのすぐ近くで、革命歌をうたいながらカルマニョールを踊っていることもあった。その日彼らがしばらくして去っていき、ルーシーが茫然としていると、そばにマネット医師が立っていた。彼らの熱狂に怯えるルーシーにマネット医師は励ましの声をかけ、今日はちょうど彼が高窓に行くと言っていたから、キスを投げてやるといい、と言った。ルーシーは高窓に向かって投げキスをした。ちょうどその時、ドファルジュ夫人がその脇を通り過ぎた。マネット医師が、ごきげんよう、市民の夫人、と声をかけると、ごきげんよう、市民、と返したが、そのまま行ってしまった。そのあとで、マネット医師は、明日ダーネイの裁判が開かれることになったとルーシーに伝えた。
 次の日、チャールズの審議が行われ、チャールズ側の証人として、徴税人テオフィル・ギャベルと医師アレクサンドル・マネットが立った。
 ルーシーもマネット医師やローリー氏とともに傍聴していた。ギャベル氏は、チャールズの申し立てにより、すでに彼の愛国的な行為が認められて釈放されていて、彼の証言によってチャールズが爵位と特権的地位を捨てて、まだ亡命者という言葉が広まる前に自ら生計を立てるためにイギリスへ渡ったという主張が裏づけることもになった。また、なにより愛国的な人びとに評判の高いマネット医師の証言により傍聴人の多くからチャールズに対して熱狂的な支持が送られることになり、その結果として、チャールズは釈放されることになったのである。
 ルーシーは、無事チャールズが家に戻ることができたことを心から喜んだ。そして、ダーネイから、きみのお父さんのおかげだ、フランスじゅう探したってぼくのためにこれだけできる人はいない、と言われ、ルーシーはあらためて父に感謝した。
 しかし、ルーシーはまだフランスでは多くの人びとが殺されていたので、手放しで喜ぶことができなかった。チャールズが釈放されても、しばらくはマネット一家はフランスを出ることは難しく、しばらくはここで暮らすしかなかった。マネット家は使用人を置いてなかったので、ローリー氏のはからいで、クランチャー氏が世話係としてマネット家に泊まり込むことになり、食料や日用品の買い出しに、ミス・プロスとクランチャー氏があたることになった。
 二人は夕方になってから街に買い出しに出掛けた。彼らが買い出しのために居間から出て行ったあと、マネット医師を交えてチャールズとルーシー、そして孫の幼いルーシーが暖炉で静かに語り合っていたその時、玄関で物音がし、突然サーベルと拳銃を持った四人の男が部屋に入ってきたのである。一人の男が、市民エヴレモンド、おまえは囚人となった、と言った。マネット医師が、男たちの前に進み出て、いったいどうして、と聞くと、サンタントワーヌ地区から告発された、と男たちは言い、医師が誰が告発したのかと執拗に聞くと、規則違反だが、と言いながらも、告発者は三人、ドファルジュ夫妻ともう一人だと男たちは教えてくれた。しかし、もう一人の名前は言えない、答えは明日わかる、と言い、エヴレモンドは拘束され、そのままコンシェルジェリー監獄に収監されることになった。
 その頃、家でそんなことが起こっていようとは知らないミス・プロスとクランチャー氏は、ワインを買おうとドファルジュの酒店に入った。中に入るとそこには武器を持っている者などもいて、怪しい雰囲気があった。二人がワインを測ってもらっている時、店の奥にいた客が立ち上がり、店を出て行こうとしてミス・プロスとちょうど正面から向き合うかたちになり、その男の顔を見てミス・プロスは金切り声を上げて、両手を合わせた。
 ミス・プロスは、その男を、ソロモンと呼んだ。それは彼女の弟だったのだ。弟はならず者で、姉の財産を使い果たして逃げていたのだが、姉の方はそんなことにはお構いなく、いまでも弟のことを愛していた。しかし、弟は相変わらず姉に対しても素っ気ない。今俺はフランスの役人なんだ、と彼は姉に言う。姉には、異国の役人なんかして、しかも、あんな酒場で何してるんだかわかったもんじゃない、いっそお墓のなかに入ってしまえばいいんだ、と嘆き悲しむ。
 その時、クランチャー氏が弟に声をかけた。そのソロモンと呼ばれた男をクランチャー氏はロンドンの裁判所で確かに見ていた。それはあのダーネイの裁判で証言に立った、ジョンなんとかという男だったのだ。クランチャー氏がその名前を思い出そうとしていると、脇から、バーサッドだ、と声がかった。それはシドニー・カートンだった。カートンは、ローリー氏とチャールズのことを相談するためにロンドンから駆けつけて来ていたのだ。
 そして、一時間ほど前にコンシェルジェリー監獄の塀を眺めていた時に、その塀の中からバーサッドが出てきてきたので、カートンは、そのまま彼のあとをつけて酒店に入って様子をみていたのだ、という。
 カートンは、ソロモン・プロスが役人といっても、いわゆる「牢屋の羊」すなわち牢番の下で働くスパイであることをその酒店で彼が仲間の羊と話している会話を聞いて知っていて、姉の前でそれをバラしてしまう。姉は、それを聞いてあきれ、嘆いた。カートンは、バーサッドにこれからテルソン銀行のローリー氏のところで君と話がしたいと言い、ここで話せと渋るバーサッドを、ここでは話せないことだと説き伏せ一緒に行くことを承諾させた。
 カートンは、気落ちした姉をマネット家のある通りの角まで送って行って、それから弟のソロモン・プロスまたの名をジョン・バーサッドとクランチャー氏とともにテルソン銀行へ向かった。そこで、カートンは、チャールズがさきほどまた捕らえられたらしい、とローリー氏に伝えた。それはついいましが酒店でバーサッドが仲間に、マネット家に逮捕に向かった連中に同行して彼らが家のなかに入るのを見届けてきたところだ、と話しているのを聞いたのだから確かな情報だと思うと言った。
 それからカートンは、ローリー氏とクランチャー氏が見守るなか、バーサッドの正体を曝こうと彼を追及した。カートンは、バーサッドが今はフランスの共和国政府に雇われているが、かつてイギリスの貴族政府から雇われ、そして、実は今も貴族政府から給料をもらってピット首相のスパイを務めているのは明らかだ、と厳しく追及した。
 カートンの追及によって、バーサッドは少し弱気になった。もし自分がイギリスとの二重スパイなどの嫌疑がかけられたなら、たちまち共和国政府から命を狙われるのは火をみるよりも明らかだろう、そう思わずにはいられなかった。バーサッドは不安そうな表情を見せた。
 そして、カートンがさらに、バーサッドに突き付けたのは、相棒のロジャー・クライであった。その名前がカートンの口から出ると、バーサッドは、得意そうに、確かにかつてはクライは相棒だったが、彼は数年前に亡くなった、と言った。彼が死んだ時には納棺まで手伝ってやったから確かだと。それを聞いていたクランチャー氏が突然、あんたが柩に入れたのか、と聞いた。バーサッドが、そうだ、と答えると、クランチャー氏は、誰がそこから出した、と聞いた。
 バーサッドは、その質問に面くらう。どういう意味か、と聞かれたクランチャー氏は、あんたがロジャー・クライの柩に砂利と土を入れたんだろ、おれとあと二人の人間がそれを知っているさ、と言った。カートンとローリー氏も、どういことだとクランチャー氏に詳しい説明を求めたが、詳しい事情はここでは話せないが、クライの柩には遺体が入ってなかったことは間違いないし、この男はそれを知っているってことですよ、とクランチャー氏は言った。
 カートンはすかさず、もし同じような経歴をもつ貴族政府のスパイと連絡網をとっていたということになれば、あんたが生き延びられる可能性はゼロだ、とバーサッドに言った。彼は、そこでようやくイギリスで民衆の怒りを買って逃げ出してきたこと、自分は国を脱出したが、クライは逃げきれず、死んだふりをしなければならなかったことを打ち明けた。
 それからバーサッドは、俺に頼みたいことはなんなのか、話によっては協力できないこともある、俺だってあんたをいざとなれば告発することだってできるんだぞ、と言った。カートンは、それは今ここでは話せない、別の部屋で二人きり話そう、と言った。
 二人は別室に行ってしばらく話したあと、ローリー氏のところへ戻り、バーサッドはそのまま出て行った。ローリー氏が、カートンと何を話したのか、と聞いた。カートンは、もしダーネイにとって事が悪い方に進んだら、私が彼を一度だけ訪ねられるように話をつけたのです、おれにできるのはそれだけです、と言った。
 ローリー氏は、失望の色を浮かべた。もはやチャールズを救う道はそれほど限られているのかという思いが彼の気持ちを落ち込ませていたのだろう。涙を流すローリー氏の手を包みこみ、カートンは、この話し合いのことも、取り決めのことも奥さんには話さないでください。何かを話しても彼女の心配ごとを増やすだけですから私ももう彼女には会わないようにします。どうか彼女のところへ行って、彼女に手を差し伸べてあげて下さい。今晩は深く絶望しているに違いないのですから。そう言うと、カートンはローリー氏がマネット家へ向かうためにコートを着るのを手伝った。
 カートンは、彼女の家の門までローリー氏と一緒に歩いて行き、そこで別れ、そこから歩いてルーシーがなんども来たというラフォルス監獄の前まで来た。午後十時、仕事場を閉めた薪屋が小屋の前でパイプを吹かせていた。カートンが、こんばんは、市民、共和国はどんな調子だい、と聞くと、ギヨティーヌ(ギロチン)のことかい、今日は六十三人だ、もうすぐ百人になるさ、と言った。あんたも一度見に行くといい、パイプを二回吸ううちに六十三人だからな、と薪屋は言った。カートンは、こいつをなぐり殺してやりたいと思った。
 それから、カートンは、薬屋に寄って、薬を手に入れ、これで明日までやれることはなにもない、と自分に言い聞かせた。しかし、今晩は眠れそうになかった。カートンは、しばらくパリの街を歩きセーヌ川を明るい通りの方へ歩いて行った。劇場はどこも大入りだった。そうやって歩いているうちにやがて夜が明けはじめた。カートンはシテ島の岸に打ちつける波の音を聞きながら橋の上に立っていた。心の中に、われは復活なり、命なり、という言葉がずっと響いていた。
 翌日は、ダーネイの裁判が行われる日だ。カートンが裁判所に着くと、もうマネット医師、ルーシー、それからローリー氏も来ていた。ほどなく被告人ダーネイが連れて来られた。ルーシーの顔が夫に向けられ、夫を励まそうとする称賛と愛情、憐れみとやさしさに満ちたその顔を見て、夫の顔にも血色が戻り、目元も明るくなったようだった。
 しか、この不公平な裁判には、被告人の言い分をきちんと聞く手続きらしいものすらなかった。陪審員席に座っているのは、どれも筋がね入りの愛国者か良き共和国民たちであった。とりわけ、ひと目を惹いたのは食人族さながらの血に飢えた一人の陪審員で、彼はあの酒店に出入りしていたジャック三番と呼ばれたドファルジュの仲間であった。
 ダーネイの起訴状が検察官によって読み上げられた。被告人シャルル・エヴレモンド、通称ダーネイは昨日釈放され、再度告発を受けて同日中に逮捕された。起訴状の容疑は共和国の敵。貴族にして暴虐な領主の家系であり、彼はすでに廃止された特権を用いて人民をあまねく抑圧したことにより、法律の保護を奪われた一人である。シャルル・ダーネイはかかる事由によって当然死刑に処されるべきである。
 続いて裁判長は、告発者は誰かと聞いた。検察官は、三人います。まず、サンタントワーヌで酒を販売するエルネスト・ドファルジュ、その妻テレーズ・ドファルジュ、そして、医師アレクサンドル・マネットです。
 最後の一人の名前が告げられると、法廷に叫び声が上がった。青ざめ、震えるながらマネット医師は立ち上がり、裁判長、断固抗議します。いまの指名は、でたらめで意図的な詐術です。被告人は私の娘婿であり、自分の命よりも大切な存在です。私がわが子の夫を告発するなどと、どこのどんな陰謀家が言ったのでしょうか、と述べた。
 裁判長は、静粛に、当法廷の権威を傷つける発言をすると、あなた自身が罪にとわれますよ、と言いマネット医師をたしなめた。それからドファルジュが前に進み出て、マネット医師が投獄された時のことを語った。自分はまだ少年で、医師の使用人だったこと、それから長い年月ののち医師が釈放されて自分のところへ来た時にはどんな様子だったかについても説明した。
 続いて裁判長は、バスティーユ襲撃の時は、いい働きをしましたね、市民ドファルジュ、と声をかけ、その日バスティーユの中でしたことを話してください、と言った。ドファルジュは、自分はあそこでマネット医師の独房北塔百五番を訪ね、その部屋をくわしく調べ、煙突の中にあった穴の奥からこの紙の束を見つけたのです、と述べ、これは間違いなくマネットの筆跡です、これを裁判長に提出します、と言った。
 読み上げてみよう、と裁判長は言った。
 そこに書かれていたのは、マネット医師が自ら体験した、悪名高いあの侯爵家の双子の兄弟による筆舌に尽くしがたい無慈悲な蛮行についてであった。その手記はマネット医師が、ぜひとも後世の人々に伝えねばと獄中で必死に書き残したものであった。
 そしてその双子兄弟の兄の方はダーネイの父親にあたるのである。
 そこに書かれていた事件は、1757年の12月末のことで、彼がそれを書いたのはそれから十年後の1767年12月のことであるから、その時からすでに二十五年ほど経っていた。
 手記では、それは1757年12月のある夜(たぶん22日)のことである、と書いてある。
 手記によれば、その夜彼は気分転換に外に出て空気を吸おうとセーヌ川のほとりを歩いていて、後ろから走ってきた馬車がすぐ先で停まり、そこから降りてきた二人の男から、ドクター・マネットと声をかけられて、なかば強引に往診を頼まれ車に乗せられたと言う。二人は顔がそっくりだったので双子だろうと彼は思った。二人のうち仕切っている方が兄のようだった。患者は身分の高い人だと片方が言っていた。家について見ると、患者の一人は、二十歳そこそこの若い女性で、脳炎症状を起こしていて、私の夫、お父さん、弟、と金切り声をあげてその呪文を唱え、それから数を十二まで数えて、しっ、と言うのを繰り返しているのだった。
 薬が必要だと言うと、弟の方が薬箱を持ってきた。睡眠薬のようなものらしかった。医師は、慎重に分量を見極め薬を処方した。患者の胸に手を当てると、しばらく発作が収まったので、そうして手をあてていると、もう一人患者がいると兄の方が言った。
 そこからさらに階を上がった奥の部屋いたのは先ほどの女性の弟だった。端正な顔だちをした十七歳くらいの少年で、剣で胸のあたりを刺されたらしく、どうみてももはや助かりそうにはなかった。
 少年は瀕死の状態にあるにもかかわらず、必死に彼に話しかけてきた。その部屋にもさっきの女性の金切り声が時折聞こえてくるのだが、あれは自分の姉だと少年は言い、あいつら貴族は誇り高いというけど、自分たち小作人だって誇り高い時もあるんだ、と言った。
 うちのも姉さん立派な人だった、と少年は言った。彼の姉は、同じ小作人の男と結婚したのだが、その男は病気がちだった。そしてある時ここの侯爵の弟の方が姉に一目ぼれして、姉を貸せと姉の夫に申し込んだという。姉は、それを拒否したので、その弟の方は、夫に厭がらせをして背中に馬具をつけて畑でこき使い、夜も寝かせず外で立たせたままにして、やがてその夫は飢え死に寸前で馬具をはずされたのだが、そのまま十二回泣いて、姉の胸に抱かれて死んだのだ。
 あいつらはおれたちをこき使って絞れるだけ絞りとって、奪われ、狩られ、貧乏に落とされて、その上、あいつらは家族の女の慎みや純潔まで食い物にする、と少年は力を振り絞って話し続けた。抑圧された者の気持がこうして噴き出すのを医師も初めて目にしたのである。
 その夫がなくなったあと、兄侯爵の許可と助けを得て、その弟が姉を連れ去った。それを見た少年は、すぐにそのことを父親に伝えた。父親は悔しい思いに胸がはりさけんばかりにしていたが、ひと言も言葉を発することはできなかった。少年は、すぐに妹の身を案じ、妹をあいつの手の届かないところに移し、それから侯爵家の弟のあとを追って、昨日の夜、この窓から家の中に入り、あの男を見つけたらしい。殴りあいになったが、あの侯爵の弟が剣を抜いて斬りかかってきたという。
 傷ついた少年は、医師の力を借りて立ち上がり、あいつはどこだ、と叫んだ。侯爵の弟はいなかった。それから少年は、いつかこれがすべて償われる時、俺はあんたとあんたの悪い一族を、末裔の最後の一人に至るまですべて呼びだして償わさせてやる。その印として、この血の十字架をあんたに刻みつける。とくに最悪のあんたの弟には、特別に償わさせてやる、と言いながら、人差し指で空中に十字架を書いたあと、ガクンと崩れ落ち、亡くなった。
 一方、姉の方は、金切り声を上げて呪文を唱える発作はその後も次の日までずっと続いた。翌日、彼女が弱り切って横たわり、ようやくその発作が収まっている間に医師は、召使いの女を呼んで女が引き裂いた服をととのえさせたが、その時彼女の体に母親になる最初の兆候が見えているのに気づいたのである。容態に関し多少なりとも残っていた希望はそれで消えたと医師は思った。
 兄の侯爵がそばに来て、死んだのか、と聞いたが、医師は、いいえ、ですがおそらく死ぬでしょう、と答えた。それから、侯爵は、医師に、弟の件で君に助けて貰おうと思ったのは、街での評判もいいし、これから立身出世しようとする君にとっても利益となると思ってのことなんだよ、くれぐれもここで見たことは一切口外しないでもらいたい、と言った。医師は、そもそも患者の情報については秘密にしなければなりません、と答えた。
 それから彼女は一週間生きていたが、その間に医師は、彼女と接する機会は何度かあった。しかし、彼女の口からは名前すら聞けず、なんの情報も得られなかった。この事件は双子の兄弟にとって、表沙汰になれば家名を穢す不幸な事件ということになる。特に弟の方は、医師があの少年から話を聞いたということを心底警戒しているようだし、また兄の方でも医師の存在は邪魔者に見えていたはずだ。
 彼女は、まもなく死んだ。最初に医師が彼女を見たのと同じ午前二時だった。兄弟は階下の部屋で待っていた。医師が降りていくと兄は、ようやく死んだのか、と言った。死にました、と医師が言うと、おめでとう、弟、と言い、それから医師に謝礼の金貨の束を渡そうとしたが、医師は、事情を考えると受け取れません、と断った。
 翌朝、医師の家のドアの前に小箱が置かれ、そのなかには金貨が入っていた。医師は、その日この事件について大臣に手紙を書こうと決めた。その日のうちに書き終えることはできなかったが、次の日の大晦日にようやく書き終え、その手紙を目の前に置いていた時、彼を訪ねてきた女性がいた。
 その女性は、例の兄侯爵夫人だった。若くて、美しい女性で、あの事件についていくらか知っているようだったが、あの娘が死んだことは知らなかったらしく、医師が伝えると、女性として同情の言葉をかけてあげたかった、と彼女は言った。侯爵夫人の願いは、長年にわたって多くての人を苦しめ、憎悪されてきた一族に、せめて天罰が下らないように、というものであった。夫人は、その娘の妹がまだ生きてるはすだが、なにをおいてもその人を支援したいので居場所を教えもらえないか、と言った。しかし医師も知らなかった。
 侯爵夫人は、思いやりのある善良な人だったが、結婚生活には幸せを感じていなくて、義弟もことあるごとに彼女を苦しめ、夫人は義弟も、夫も恐れていた。夫人を門まで送っていくと、馬車のなかに二、三歳の可愛らしい男の子がいて、夫人はこの子のためなんです、誰か罪のないものが償いをしないとこの子が家督を相続しても決して幸せにはなれない、と思っています、もし、妹さんに会えるなら、私が遺せるのはせいぜいいくつかの宝石ぐらいですが、それを大変な目にあったご家族に差し上げることをこの子の人生の最初の義務とします、と医師に告げた。彼女は、その男の子に向かって、あなた自身のためなのよ、可愛いシャルル、と言って子供を腕に抱き、なでながら去って行った。それ以来、医師は彼女とは会っていない。
 その日の夜のこと、まさに大晦日の夜だった。午後九時頃、黒い服を着た若い男が、家の呼び鈴を押し、医師に会いたと言って、若い使用人のエルネスト・ドファルジュの後ろについて、妻とくつろいでいる医師の二階の部屋に入って来た。男は、サントレノ通りに急患がいます、馬車を待たせています、と言って、医師を家から誘い出した。家を出ると、後ろから黒い布で口をふさがれ、両腕をしばられ、そのあと例の兄弟がやって来て医師の顔を確認したあと、侯爵は医師が書いたばかりの手紙をポケットから取り出し持っていたランタンの火で焼いても燃やし、灰を靴で踏みつけた。そうして、医師は生きたままこの墓場に運ばれて来たのである。
 医師は、手記の最後にこう書き記している。私が、ここにいる怖ろしい年月の間、あの兄弟はわが最愛の妻の消息すら教えてくれなかった。もし、彼らがせめて生きているか、死んでいるかだけでも知らせてくれていたなら、神もまだ彼らを見捨てていないと思ったかもしれない。だが、今は、あの少年が描いた赤い十字架が彼らの宿命であり、彼らが神の慈悲に預かることはない、と信じる。私こと、アレクサンドル・マネットは、この1767年最後の夜、耐え難い苦悩に包まれて、あの兄弟と代々の子孫を、最後の一人に至るまで、すべてが償われるときまで、告発する。私は彼らを天と地に告発する。
 手記の朗読が終わると、法廷内に怖ろしい音が湧き上がった。医師の手記は、復讐の熱情を激しくかき起こし、その前に頭を垂れずにいられる人間は国中にひとりもいなかった。どれほど善行をつんだ美徳の持ち主であっても、あの日、あの場所で、あれほどの告発を受けては持ちこたえられるはずがなかった。
 また悲運なことに、その告発に加わっていたのが名高い市民であり、日ごろの親しい友人であり、義父だった。人々の狂った願望の中には古代の風習に倣って、人民の祭壇に生け贄を捧げ、自己を犠牲にすることがあった。それゆえ裁判長が、共和国の良き医師は、悪辣な貴族の家系を寝絶やしにすることによって、いっそう共和国に奉仕し、己の娘を寡婦に、孫を片親にすることによって間違いなく神聖な輝きと喜びを得るだろう、と言うと再び法廷内に荒々し興奮と愛国者の熱狂が生じ、そこには人間らしい同情はひとかけらもなかった。
 全会一致の評決だった。出自も心も貴族であり、共和国の敵、人民の悪名高き抑圧者を監獄にもどし、二十四時間以内に死刑に処す。
 刑の宣告を受けて、ルーシーは一瞬気を失ったが、自分から夫に苦難を与えてはならないという内なる声に導かれて、彼女はすぐに意識を取り戻し、ショックからも立ち直った。そして、彼女が、あの方を最後に一度でいいから抱きしめることができたら、どうか、皆さん、それだけの情をかけていただけないでしょうか、と叫んだ時、廷内にまだ残っていたバーサッドが、抱きしめさせてやれよ、と声をかけたので、二人は、最後の抱擁をすることができた。二人は別れの言葉を交わした。そして父親もルーシーの後ろについて来て、二人の前で両膝をつこうとするので、ダーネイが手を伸ばしてその体を引き上げ、いけません、あなたこそぼくの家系について知った時にどれほど苦しまれたことでしょう、当然の憎しみを娘さんのために抑えてくださった、ぼくも彼女も持てる愛情と道徳心のすべてをこめて心から感謝します、と言った。しかし、父親は、両手を白髪に突っ込み、苦悩のうめきとともに頭をかきむしるばかりであった。
 ダーネイは医師に言った。こうなるしかなかったのです。あれほどの悪から善は生まれなようがないのです。あれほどの不幸にはじまったことから、もっと幸せな結果は出ようがないのです。どうか気持を楽にしてください。そしてぼくを赦してください。あなたに天の祝福がありますように!
 チャールズが牢番に引かれていくと、妻は祈るように手を合わせて見送った。チャールズが囚人用の扉から出ていくと、ルーシーは向き直り、父親に話しかけようとしたところで足元に倒れた。そのとき、シドニー・カートンがふいに出て来て、ルーシーを抱え上げ馬車まで運びましょう、と言って、入口を出て馬車の中に彼女をそっと寝かせた。
 それからカートンも馬車の御者の隣に座って一家とともに家に戻り、ルーシーを部屋まで抱きかかえ運び、寝かせた。小さなルーシーがカートンに飛びついてきたが、帰る前に、ママにキスしてもかまわないかな、とカートンは言い母親の唇に顔を触れた。その時、一言囁いた言葉は、幼いルーシーが、その後のちのちまでみんなに語り継いだと言われる、あなたの愛する命、であった。
 その後、カートンは、マネット医師に、どうかあなたの力をもう一度試してみてください、判事も権力者もみんなあなたに好意的で、あなたのことをよく知っているのですから、と言った。マネット医師は、もちろんそうするつもりだ、これから検事と裁判長のところに行くつもりだし、ここで名前を上げないほうがいい人たちにも会いに行くつもりだ、ただ、外はお祭り騒ぎだし、夜にならないとそういう人は連絡がつかないだろうな、と言った。
 カートンが、それなら九時くらいにローリー氏のところへ行けば結果がどうなったかは聞けますね、と言うと、マネット医師は、そうしよう、と言った。ローリー氏が出口までカートンを見送り、去ろうとするカートンに、希望は持てないよ、とぽつりと言った。同感です、とカートンが答え、ぼくがマネット医師を励ましたのは、彼が動けばいつかそれが彼女の励ましになると思ったからで、本当は希望などないことも分かっています、と言った。
 カートンは、九時までの間、街に出て時間をつぶすことにした。レストランで、食事をとったあと、ぐっすり眠った。夜七時に目覚め、また通りに出てから、サンタントワーヌに向かい、ドファルジュの店に入った。ドファルジュ夫人が、注文を聞きに来た。ワインを頼んだが、ドファルジュ夫人がさらに近づいてきて、注文は何、と鋭い目つきで聞いた。カートンは、ワイン、と繰り返した。ドファルジュ夫人は、イギリス人、と探るような表情で聞いた。カートンは、強い外国訛りで、ええ、イギリス人です、と答えた。夫人は、ワインを取りに勘定台に戻った。
 カートンが、ジァコバン新聞を手に取り、読むふりをしていると、夫人が本当さ、エヴレモンドにそっくりさ、というのが聞こえた。ドファルジュがワインを持って来て、カートンを見て共和国に乾杯と言って戻って行き、たしかに、ちょっと似てるな、と彼が言うと、夫人がちょっとどころじゃないよ、と言った。
 カートンは新聞を読むふりをしながら、夫人とドファルジュ、それにあの陪審員をしていたジャック三番と復讐と言う名の女を加えた四人の会話に聞き耳を立てていた。話はあの侯爵一家への報復は今回のエヴレモンドで終わりにするのがよいか、ということらしい。ドファルジュは、どこかで区切りをつけるのがいいだろう、今回で終わりにすべきだろう、と言うが、それに真っ向から異を唱えるているのが、ドファルジュ夫人で、他の二人も彼女に追従する。
 その会話で、カートンが分かっことは、あのドファルジュ夫人が、侯爵の弟に短剣を突き刺されて死んだ少年の妹だった、ということだった。そして侯爵の弟に弄ばれ、妊娠させられて命を落としたあの女性は夫人の姉だったのだ。夫人は、ドファルジュがバスティーユから持ち帰ったあの手記を読んで、そのおぞましい事件を知ったのだった。夫人は、どこかでやめるなんてことは、私に告げるんじゃない、と夫に厳しく言い放った。
 カートンは、それから店を出てしばらく歩いて監獄に立ち寄り、約束の時間になるとそこを出てローリー氏の部屋を訪ねた。マネット医師はまだ戻って来ていなかった。結局、マネット医師が帰ってきたのは日付が変わってしばらくだってからだった。その顔を見てローリー氏もカートンも何も聞くことはできなかった。マネット医師は、あれがどうしても必要なんだがどこにある、あのベンチが必要なんだ、明日までにどうしても靴を作りあげねばならないんだ、と言い、さあ早く仕事に取り掛からせてくれ、と惨めな泣き声を上げながら言った。
 最後のチャンスが、これで消えたことが二人に分かった。マネット医師を椅子に座らせ落ち着かせてから、カートンは、医師を娘さんのところに連れて行った方がいいがその前にいくつか話があります、と言うのでローリー氏は、分かりました、と頷いた。マネット医師は椅子に座ったまま体を左右に動かしぶつぶつつぶやいていたが、二人は眠っている病人に付き添っているかのように静かに話した。
 カートンが屈んで、足に絡まるようになっていた上着を取り上げると、医師がいつも使っている小さなケースが落ちた。カートンがその中を確かめて、ああ、良かった、と言った。その中に入っていたのは、マネット医師一家の通行証であったが、カートンはローリー氏にそのことを伝える前に、まずこちらを預かってくださいと彼に自分の通行証を渡した。
 それから、マネット医師の上着にあった通行証も渡し、これをもって行けばマネット一家はフランスを出ることができます。彼らには大きな危険が迫っています。今日、ドファルジュの店で、夫人たちはあの侯爵家とつながりのある人々をどこまでも許さない、と言っていて、それとラフォルス監獄の通りにある薪屋の男も、ドファルジュの手下で彼からも、監獄の外から娘が合図を送っていて、そばにお父さんもいたという話もあるから告発されるなら、二人とも告発される可能性は高い、とカートンは言った。
 どうすればいいのか、と聞くローリー氏に、カートンは、告発があるとすれば、明日以降なので、明日の午後二時には出発できるように馬車を手配しておいてください、と言った。それから、念を押すようにギロチンの犠牲者に同情や感傷を寄せるのは重罪だということはご存じですね、と言い、あの娘さんは、夫の最後に立ち会たいと思っているかもしれませんが、それが子供とお父さんにとっては命とりになることもあるのです、どうかその時間にどうしても皆さん方はパリを去っていただかなければならないと娘さんを説得してください、それが旦那の最後の図らいで、あなた方が出発することが、なによりも大事な意味があるのだ、ということ理解させてほしいのだとカートンはローリー氏に懇願した。その必死の願いをローリー氏も受け止めてくれた。あとはマネット医師だが、彼は今はもう娘にはただ従うばかりであろう、とローリー氏もカートンも心配はしていなかった。そしてカートンは、これらの手配をしたうえで、明日午後二時にはマネット家の中庭に馬車をつけてそれに乗って待っていてください、そして、私が戻ってきて、中に入ったら馬車を出すんです、と言った。
 最後に、カートンがどんなことがあってもこの取り決めは、守らなければならいということを約束してください、と言うとローリー氏は、実行ますよ、と答えた。
 では、さようなら、と言いながら、カートンは、まだ椅子に座ったままのマネット医師を立たせて、さあ、ベンチと靴を探しに行きましょうと声をかけ、彼を立たせて、二人がかりでマネット医師を支えながら、歩いて娘たちの待つ家に戻った。カートンは、マネット医師が家に入るのを見届けてから、ルーシーの部屋の明かりを見上げていた。去り際に、その窓に祝福の言葉を送り、さよならとつぶやいた。
 次の日は、ダーネイも含めて五十二人の処刑が予定されていた。ダーネイは、独房でひとり持ちこたえていた。刑の執行に臨むにあたってもはや心は落ち着いていた。愛しい家族の心の平和は、自分が静かで動じない態度を保てるかにかかっていると思うことで、気持が明るくなった。そして、ダーネイはルーシーに宛てて手紙を書いた。まず、自分が捨てた姓のことを隠していたのはそれが父上から課されたたったひとつの結婚の条件だったからであると述べたうえで、くれぐれも父上を責めないでほしい、あの手記のことはすっかり忘れていたのかもしれないし、また思い出してはいたとしても、バスティーユ陥落のあと世に知らされた囚人の遺物の中にそれが入っていなかったので、バスティーユとともにあの手記は失われたと考えていたのかもしれない、どうか思いつく限りの気配りで、父上は自分を責めるようなことはなにもしていないし、むしろ自分のことを顧みず力を尽くしてくれたという真実を伝えて慰めてあげてほしい、と懇願した。そして、ルーシーには最後の感謝をこめた愛情と祝福を憶えていてほしい、悲しみから立ち直って、愛するぼくたちの娘をしっかりと育て、父上の世話をしてほしい、と。
 また、医師宛にも、似たような手紙をしたためたが、とりわけ妻と娘のことをよろしくお願いしますと書いた。そう強調することで、医師の心を襲うかもしれない失望や危険な回想から立ち直ってもらいたい、と願ってのことだった。
 ローリー氏には、一家全員を託し、そのあと長々と文章を連ねて、年来の友情と温かい思いやりに感謝すると伝えた。
 それで、もうすべて終わりだ、そしてこの世界ともお別れだ、と眠りについたが、彼は夢の中で、なぜかルーシーと一緒に幸せに過ごしているのだった。処刑されて死んで、安らぎ、今はまた彼女の許へ戻っている・・。
 ダーネイは翌日目が覚め時、一瞬自分が今どこにいるのか戸惑ってしまった。しばらくして、時計の鐘が九時を打った。この九時はもう永遠に去ってしまったのだ、と思った。処刑は、午後三時と決められていた。徒刑場まで馬車で護送されていくので、二時過ぎにはここを出ていくことになる。ダーネイは部屋のなかを歩き回った。時計が鐘が一時を打った頃だった、牢の入口の向こうで、声がして、扉がさっと開いてい閉じた。
 目の前にシドニー・カートンが立っていた。カートンは、奥さんから頼まれて来たんだ、なにも言わずに俺の言う通りにしてくれ、とダーネイは言い、まずブーツを脱いで俺のと取り替えるんだ、急げ、と言って自分のブーツを脱ぎ、ダーネイを椅子に座らせてから、さあ、早く俺のブーツを履くんだ、と言った。ダーネイは、カートン、ここからは逃げ出せないよ、きみもぼくと一緒に殺されるだけだ、狂ってる、と言った。カートンは、誰がここから逃げてくれと頼んだ、さあ、とにかく今は着替えるんだ、と言い、てきぱきと自分の物を脱いでは、ダーネイに着させた。
 ダーネイが、お願いだからぼくのつらい死にきみの死を加えないでくれ、と言うと、だから逃げてくれなんて言ってるか、と言い、着替えが一通り終わると、それから紙とペンを出し、ここに俺が言ったことをそのまま書くんだ、と言い、ダネーイに口述筆記をさせた。
 もしあなたがはるか昔にふたりで交わした会話を覚えているなら、これを読めばすぐに理解できるはずです。覚えていることは分かっています。あなたは忘れるような人ではない。あの時の言葉が真実であることを証明できるときが来ました。そのことに感謝しています。あなたが後悔したり、嘆いたりすることには及びません。
 カートンは、言葉を伝えながら、手をゆっくりと相手の顔の近くに下ろして行った。ダーネイが、なんのにおいだろう、と言う。カートンは、さあ早く書いて、と言いさらに口述を続けた。
 こうしなければ、これほどの機会は二度と訪れません、こうしなければ・・
 その間もカートンの手はダーネイの顔をとらえていて、次第にダーネイの文字がゆがんで来る・・償うことが増えるばかりです・・ダーネイがカートンを咎める顔つきで、立ち上がろうとした時、カートンは、ダーネイの鼻を押さえ、腰に手を回していた。ダーネイは、しばらくもがいて抵抗していたが、一分もかからぬ間に気を失って倒れた。
 それからカートンは、囚人が脱いで脇に置いた服をすばやく身につけ、髪を後ろになでつけて、囚人が使っていたリボンで髪をまとめ、小声で牢の外に待機しているスパイのバーサッドを呼んだ。カートンは、気を失って倒れている男の胸ポケットにさっきの紙を入れ、入ってきたバーサッドに、さあ、助けを呼んでこの俺を外に連れ出してほしい、と言うと、バーサッドは、あなたを?と驚く。いや、いや、彼だよ、俺と入れ替わった彼、大丈夫、心配するな、秘密は墓場まで持って行くさ、さあ、早く人を呼んでくれ、最後の面会があまりにもつらかったようで、気を失ったと言えばいい。
 バーサッドは、戻って牢番を二人連れてきた。牢番たちは疑うこともなく、友人がギョテーヌの当たりくじを引いたのが、そんなにつらかったのかね、などと言いながら、気を失っている男を担架に乗せ、それからカートンに向かって、もうすぐだぞ、エヴレモンド、と言い、カートンは、分かってる、友人をよろしく頼む、あとはひとりにしてくれ、と答えると、バーサッドが、では行くぞ、お前ら、と言い、牢番たちは担架を運んで行った。
 カートンの替え玉作戦はうまくいった。しかし、ひやりとさせられる場面もあった。二時過ぎに、牢番からついに呼び出しがかかり、処刑される囚人が集められた部屋にカートンも連れていかれたのだが、そこで、ラフォルスにいたという若い女の死刑囚から声をかけられたのだ。女は、死は恐くないとは言ったが、車に乗ったらあなたの手を握っていてもかまいませんか、そうすればもっと勇気が湧く気がして、と言い、それからカートンの顔を見上げた。すると、その目に突然疑念と驚きが浮かぶのを彼は見たのである。とっさに彼女の指を握りしめ、自分の唇にもっていった。その瞬間、あの方の代わりに死ぬの?とその娘が囁いたのだ。カートンが、しっ、彼の妻と子どものためにもね、と言うと、ああ、あなたの勇敢な手を握らせてもらえませんか、と言ったのでカートンは胸をなでおろした。そうして、二人は手を握りながら徒刑場へ向かった。
 その頃、カートンの替え玉ダーネイとマネット一家とローリー氏を乗せた馬車は、無事出発し、途中検問に会ったが、ローリー氏が上手に対応し、なんと切り抜けられ、カレーに向けて進んでいた。
 一方、サンタントワーヌの薪屋の小屋では、ドファルジュ夫人が、ドファルジュ抜きで、マネット医師とルーシーの告発について相談していた。そこに集まっていたのは、薪屋の他に、副官の復讐とジャック三番で、彼らはドファルジュ夫人の追従者だったので、結論ははじめから出ているようなものだった。夫人からすればダーネイの処刑で侯爵家に対する報復は終わるはずがなかった。だから、その席にマネット医師に甘いドファルジュは招かれていなかったのだ。
 二人への告発が決まると、ドファルジュ夫人は、たった一人でマネット家へ向けて歩き出した。その姿は自信にあふれ、懐には弾をこめた拳銃をしのばせ、腰には研ぎ澄ませた短剣をひそませている。
 ちょうどその頃、マネット家ではすでに医師一家とローリー氏を乗せた馬車は発ったあとで、人数が多くなるので別の馬車便で追いかけるように言われていたミス・プロスとクランチャー氏が旅支度に忙しかった。二人は、さっきこの家から馬車が発ったばかりで、家にまた馬車便が来ると周りに目立つので馬車便の停留場所を別のところに変えたほうがいいと相談が決まり、ノートルダム大聖堂の扉の前にしようということになって、クランチャー氏がその変更について駅馬屋に伝えに行ったところだった。ミス・プロスが時計をみると二時二十分だった。
 クランチャー氏がいなくなり、一人になるとミス・プロスは急に不安になった。そこに、ドファルジュ夫人がやって来たのである。人影に気づいてミス・プロスは跳び上がり、悲鳴をあげた。ドファルジュ夫人は、部屋の中に足を踏み入れ、エヴレモンドの妻はどこ?と言った。ミス・プロスもその女がマネット家の仇敵であることがすぐわかった。ミス・プロスも、そうとわかれば簡単には引きさがられない。彼女はドファルジュ夫人とは別の意味で毅然としたところを備えていたのだ。
 二人は、互いにフランス語と英語で話していたが、はっきりとした意味は分からずそれぞれが言いたいことを言って怒鳴り合っていた。そのうちドファルジュ夫人は家の中に響くような大声で、市民ドクトル、エヴレモンドの妻、エヴレモンドの子、この哀れな馬鹿以外誰でもいいから、女市民ドファルジュに答えなさい、と叫んだ。しかし、全くそれに応ずるものはなく、それから次々と部屋のドアを開けてのぞいた。部屋は荒れていて、家族の者たちが慌ててどこかへ逃げて行ったと彼女は悟ったようだ。
 ミス・プロスは、この女をここに引き止めておけばおくだけマネット一家にとってはそれが延命につながることを十分知っていたので、身を挺してもここに女を引き止めておこうと考え、ドファルジュ夫人がドアに手をかけた瞬間に彼女の腰につかみかり、両腕で締め付けた。二人は揉み合いになった。ドファルジュ夫人が彼女の顔を殴り、引っ掻いたが、ミス・プロスは頭を下げて、腰に回している腕を力いっぱい強く引いた。腰には短剣があったが、押さえつけられていたのでドファルジュ夫人はしかたなく、自分の胸の中に手を入れて拳銃を取り出した。それを見て、ミス・プロスは夫人の手にあるものを叩き落とした。その瞬間、閃光と爆発音が飛び出し、ドファルジュ夫人は倒れて死んだ。
 ミス・プロスは慌てて階段を駆け下りたが、幸い彼女は冷静に考えを巡らすことができた。あらためて旅支度をすませ、夫人の遺体をそこに残したまま、玄関の鍵を閉めて、家をあとにした。ノートルダム大聖堂に行く途中、橋を渡りながら、鍵を川に投げた。約束の少し前にノートルダム大聖堂に着き、クランチャー氏と落ち合い、馬車でパリを発つことができた。しかし、ミス・プロスは、あの銃声で耳の鼓膜が破れたようで、クランチャー氏の声も、車の音も何も聞こえなかった。
 午後三時のパリの街の通りを六台の死刑囚護送車が今日もまたあのギョテーヌにワインを届ける。その様子を、通りの住民たちはもはや覗き込むものも少なくなったが、沿道には見物の訪問客を招き入れる者もいて家主が得意げに解説しているところもある。その日の一番の話題は、三番目の護送車に乗っている男女の二人だった。二人はまるで恋人のようにお互いに手を取り合って並んで座っている。それを見に人が集まって来ているらしい。スパイのバーサッドも男が裏切っていないかどうか確認するために、そこに来ていた。バーサッドは三番目の馬車の中を顔を覗き込んで確認し、安心したようだ。
 断頭台の前ではまるで遊園地にいるように大勢の女が集まって椅子に座ってせっせと編み物をしている。その最前列にあの副官の復讐が立ち、テレーズ・ドファルジュが来ていない、と騒いでいた。彼女がここに来なかったことなんてないのに、と復讐は言い、彼女の名前を叫び続けた。
 そこへ、死刑囚護送車が到着した。到着するとまもなく処刑が始まる。一番目が終わる、そして二番目、そして三番目がエヴレモンドの番だ。男は、先に馬車を降り、針子の女を抱え上げて、自分の隣に降ろす。二人はそこでも手を握り合っている。針子の女は、すっかりシドニー・カートンに頼り切っている。二人は、そこで自分たちの番を待つ間に最後の言葉を交わす。彼女はカートンに礼を言い、そして二人は最後に唇づけを交わし、彼女が先に断頭台へ向かった。編み物をする女たちが「二十二」と数える、そして次にカートン、「二十三」。
 
 その夜、街で人びとは彼の話をした。あそこで持ち上げられたなかで、もっとも安らいだ顔だった、気高くて、預言者のようであったと多くの者が言い添えた。
 その時のカートンの心境は、どうだったろうか。彼は、おそらくこの先の未来を見据えていたのだろう。もし、彼の心境を言葉にしてみるならば、次のようなものになるであろうか。
 
 今の狂乱の時代が去り、今いる多くのあらたな抑圧者が滅びたのちに、そこからあらたに美しい街と輝かしい人びとが立ちあらわれて、彼らが真の自由を求める長い年月、勝利と敗北を重ねていくうちに、この時代の悪と、それをもたらした前の時代の悪が、徐々に古びて、消えいくのがやがて見えるだろう。
 そして、俺が命を捧げた人びとが、平和で、有意義で、幸せで、豊かな生活を送っているのが見えるだろう。彼女も、彼女の父親も、そしてあの老紳士も皆元気でいてくれる。それからまた何世代にもわたって俺の子孫の心の中に俺が特別な場所を占めているのが見えるだろう。彼女と彼女の夫が人生の旅を終え、最後のベッドに並んで横たわっている。二人は、それぞれお互いを敬い大切に思っているが、それ以上に俺が二人の魂の中で、敬まわれ、大切にされているのが見えるだろう。
 そして彼女の胸に抱かれていた俺の名前を持つその子が、かつての俺と同じ職業で成功を収め、そのおかげで俺の名前が彼の光で輝く。自分の家名の汚れは、それによって消えていくだろう。名誉ある最高の判事となった彼は、自分の子に俺の名前をつける。その子を彼はこの場所に連れてくるだろう。そして、今の醜い外観は跡形もなくなった美しいこの街で、彼がその子にやさしく、震える声で俺の話をしているのが聞こえる。
 いましていることは、いままでのどんなことより、はるかにいいことだ。これから行くところは、いままで知っているどんなところより、はるかに素晴らしい安らぎの地だ。
 
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