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太宰治『パンドラの匣』(新潮文庫)
作品についてあらすじ  

作品について
 この作品は1945年10月から翌年の1月まで64回にわたり新聞に連載され、1946年に単行本として出版された。
 この作品の元になったのは、1943年5月に病苦により22歳で自死した木村庄助という青年の療養日誌である。彼は太宰の熱心な読者で太宰とも文通を重ねていた。日誌は全部で12冊、きちんと装丁され背に「太宰治を想ふ」と題し死後太宰に宛てて遺された。小説の題材となった健康道場での療養生活のくだりはそのうちの巻八と巻九であったとみられる。  


木村庄助『日誌』巻九 (背に「太宰治を想ふ」の題が見える)



木村庄助『日誌』の原稿1 (昭和16年12月8日付日誌 真珠湾攻撃の日)
 木村庄助が入っていた療養所は孔舎衙健康道場といい、香川県生まれの篤志家吉田誠宏が私財を投げ打って結核患者の救済のために孔舎衙(くさか)村(現東大阪市)に開設した施設である。吉田誠宏は医師ではなく剣士で、この施設には顧問に医師はいたが、吉田は自ら場長となり、彼が提唱する独自の臍下丹田呼吸法に基づく結核療病法により運営していた。その名の通り健康道場である。
  道場での日課は小説にもあるように屈伸運動鍛練、冷水摩擦、掛け声挨拶で、免疫力や自然治癒力を高めて結核を克服しようとするものであった。小説のなかの「やっとるか」「やっとるぞ」「なーにくそ、がんばるぞ」「よーしきた」という掛け声挨拶は日誌に書かれた通りのものである。


孔舎衙健康道場
 木村庄助はおよそ4か月半ここに入所し、病と闘った。病への不安を抱えながらも、他方で二十歳そこそこの彼にとっては健康道場で働く輔導員(助手)への恋情に身を焦がす日々でもあったようである。現存する日誌はわずかに3冊しかないが、運よく巻九が残されていたので、それをもとに小説に出てくる人物のモデルを調査・分析したのが医師で太宰治研究家の浅田高明氏である。


木村庄助『日誌』の原稿2 (「健康道場」の病床図 木村氏は「ひばり」ではなく「長靴」)
 彼の著書『探求 太宰治』によると、「竹さん」こと竹中静子のモデルは、輔導員の井上千代茂と西村光子の二人を合せ、「マア坊」こと三浦正子は同じく輔導員の木村マサ子と村田富美子の二人を合わせて造形されているという。
  井上千代茂は写真にある通り、風貌や性格などが「竹さん」に合致しているが、場長とは結婚していない。場長と結婚したのは西村光子(以下に写真掲載)であった。また、若く人気者の「マア坊」は実際の木村庄助の片思いの相手である若い十八歳の村田富美子とさらにもう一人、美人で気立てが良く俳句のたしなみもある二十二歳の木村マサ子の二人を併せて造形されたものであると考えられる。
 
左 井上千代茂さん 右 木村マサ子さん前左 木村マサ子さん 後右 村田富美子さん


左端 吉田場長  中央 西村光子さん (以上、写真は浅田高明『探求 太宰治』より)
 村田富美子は木村庄助と同室の二十一歳の学生篠田文男に淡い恋心を抱き、村田富美子をめぐって木村は篠田との間でいわゆる三角関係に悶々とする日々でもあった。小説では「マア坊」に好かれている三十五歳の妻帯者の「つくし」はこの篠田文男とさらにもう一人「トナカイ」というあだ名の同室の男性を併せて造形されている。小説の中での「つくし」から転退所後に「マア坊」に届いたラブレターらしきものの内容は、実際に村田が篠田から受け取って一時木村に預けた手紙の内容(木村が手紙を日誌に書き移している)とほぼ合致している。
 なお、小説の中の「越後獅子」こと大月松衛門(花宵先生)のモデルは日誌からは適当な人物がみあたらないが、直弟子の菊田義孝氏によると、明治期の社会主義詩人児玉花外である、とのことである。
 
 太宰は、その日誌をもとに1943年10月に『雲雀の声』を書き上げた。しかし恋愛小説のため時勢にそぐわないと検閲許可がなかなか下りず、ようやく1944年末に出版にこぎつけたが、発売間近に戦災で著書が全焼した。
 戦後になって、残った校正刷りをもとにこの作品を執筆し直し、題名もあらたに『パンドラの匣』とした。この題名はギリシャ神話からとったもので、作者が作品の冒頭で、「あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這はい出し、空を覆おおってぶんぶん飛び廻まわり、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅すみに、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。」と説明している。
 戦後まもない混乱期にも関わらず、この療養所での生活はいたって明るく、牧歌的である。太宰は、混乱期だからこそそこに一縷の「希望」を見出したいと願ったのであろう。あたかも結核患者たちが「健康」という希望へむかって闘い続けるように。
 なお、この作品は書簡形式をとっている。「健康道場」という療養所で肺病と闘っている二十歳の青年小柴利助(ひばり)が主人公で、その青年が友人宛に出した書簡によって構成されている。実際に木村庄助は京都実修商業学校時代の同級生入山信造と書簡を交わしていた。小説ではその友人が道場を訪ねて来て、「竹さん」と「マア坊」にも会うことになっているが、実際には入山信造は道場を訪れたことはなかったようである。


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