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太宰治『斜陽』(新潮文庫)
作品についてあらすじ  

作品について

作品は刊行後またたくうちにベストセラーへ
 この作品は、『新潮』1947年7月号から10月号まで4回にわたって連載され、同年12月15日に新潮社より刊行されると、またたくうちに版を重ねベストセラーとなった。

 太宰が疎開先の津軽から東京に戻ってきたのは、終戦の翌年1946年(昭和21年)の11月14日であった。新潮社出版部の野原一夫は、浦和高校在学中から太宰に心酔し、昭和16年秋に文化祭での講演依頼のため三鷹の太宰邸を訪れ、さらにその後東京大学に進学してからも二度ほど太宰の家を訪問していた。昭和21年の夏に新潮社に入社が決まり、その縁もあって疎開先の太宰に手紙を書いたところ、覚えてくれていて、11月14日には東京に戻るとの連絡をもらい、野原は早速翌日に三鷹の太宰邸を訪ねて、長編執筆を打診している。その後、あらためて11月20日、太宰は新潮社を訪れ、河盛好蔵、野原一夫、『新潮』編集長の斎藤十一らと神楽坂の店で酒盃を傾け、その席で太宰は「大傑作を書きます。小説の大体の構想も出来ています。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落貴族の悲劇です。もう題材は決めてある。『斜陽』。斜めの陽。」(野原一夫『回想 太宰治』)と述べ、『新潮』への連載と、新潮社からの刊行を確約したという。
 
主人公かず子のモデルとなった太田静子
 『斜陽』は、主人公かず子のモデルとなった太田静子の「日記」を元に創作された。太宰と太田静子との出会いは、昭和16年の夏に太田静子が太宰に手紙を出してからである。
 
  

太田静子(学生時代)太田静子(成人後)
 太田静子は、大正2年に滋賀県の愛知川(えちかわ)町に生まれ、太宰治より四歳の年下である。太田家は代々九州中津藩の御典医をつとめた家柄で、祖父の代に滋賀県に移り、愛知川町に宏壮な邸宅を構えて医業を続けていた。静子は愛知高女から東京渋谷の実践女学校専門部に進んだが、その頃から文学への憧れを持ちはじめ、わけても鳴海要吉の影響を受けて短歌の道にいそしむようになり、昭和9年には短歌芸術社から口語歌集『衣裳の冬』を刊行している。昭和13年5月、父が死去し、一家は束京の大岡山に移転した。そのころ静子は、日本郵船で機関長をしていた叔父から宮崎辰親という画家との交際をすすめられた。『斜陽』の「細田」のモデルである。宮崎は二科展系の洋画家で、静子よりは一まわりの年長だった。パリから帰日した宮崎と見合いをし、交際がはじまる。静子は宮崎の野性味と逞しさに惹かれ、宮崎も、静子の童女のようなナイーヴさを気に入ったが、静子の家族はこの結婚に消極的であった。生活の面でも、また性格的にも、宮崎はいかにも不安定に見えた。たまたま弟の武の同僚で京大を出た、東芝の社員計良長雄(『斜陽』の「山木」のモデル)とのあいだに縁談がもちあがり、母や兄弟たちは乗気になった。静子も家族の強い希望に負けた。
 昭和13年12月に静子は計良長雄と結婚し、馬込に新居をかまえたが、この結婚生活は長くはつづかなかった。静子は妊娠したが、宮崎への想いが残り、そのことをふと夫に洩らした。それ以来、夫婦の仲は急速に冷え、暗い毎日がつづいた。女の子が生まれた。満里子と名付けたが、生まれると一月足らずで死んだ。(なお、『斜陽』では、「赤ちゃんが死んで生まれて」と死産とされている。)その死は、こたえた。私がいけなかったから、この子は死んだのだ、この子は私が死なせてしまったのだ、静子は罪の意識にふるえた。もう夫との生活を続けていることはできなかった。静子は大岡山の母のもとに帰り、昭和15年2月に協議離婚した。
 
太田静子から太宰へ手紙を出す
 離婚した翌年の昭和16年4月、静子は、婦人画報社の経営する文学塾に入った。また下の弟の通が太宰治の愛読者で、以前にも弟からすすめられて幾つかの小説を読んではいたのだが、たまたま近所の書店の店頭で太宰治の『虚構の彷徨・ダスゲマイネ』という小説集を静子は見つけた。なんの気なしに開いて、そこで「道化の華」という小説の冒頭の一節が目にはいった。
 「『ここを過ぎて悲しみの市。」
友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしずめた。僕は悪魔の倣慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。」
 「僕はこの手もて、園を水にしずめた。」この一句は、自分が満里子を死なせたという自責の念から心の告白を書きはじめていた静子の胸を、突き刺した。
 静子はそれから太宰に手紙を書いた。告白の文章を書いております、指導して下さいと書いて、その文章を同封した。
 太宰から次のような返事の葉書がきた。

 作品とお手紙、拝誦しました。才能はおありになると思いますが、おからだが余り丈夫でないようですから、小説は無理かも知れません。お気が向いたら、私は、新ハムレットという長い作品を書いて、すっかり疲れてしまいました。お気がむいたら、どうぞあそびにいらして下さい。毎日ぼんやりしていますから、ではお待ち申しあげております。

 
太宰との出会い―どんなことでも日記に書いておきなさい
 その年の九月のなかば、静子は、文学塾の若い友人児玉信子、金子良子を誘って三鷹の太宰邸を訪ねた。太宰は外出していたが、家の外でしばらく待たせてもらい、会うことができた。
 その時、太宰は、静子の文章にはボードレールの散文詩に似た味があると言った。自分もむかし散文詩ふうの作品を書いたことがある、内心の叫びを作品にぶちまけたが、ああいうものばかり書いていると発狂するしかない、今は、低い声でささやくように書いている、と言い、そして静子に、満里子ちゃんのことでも、またほかのどんなことでも、日記に書いておきなさい、楽な気持で、飾らず、素直に、と言った。
 太宰は三人を送ってきてくれた。井の頭公園を散策し、吉祥寺駅の近くで別れた。
 その後、三カ月ほど後の、太平洋の戦争がはじまって十日ほどたったある雨の日、突然、太宰から電報が来て、東京駅で待ち合わせ、それから新宿に出て、武蔵野館でシモーヌ・シモンの「乙女の湖」という映画を観たあと、日本料理屋で食事を御馳走になった。その後も、静子は太宰と二人でしばしば会った。それが、たんなる気晴らしなのか、遊びなのか、それとも恋愛といってもいいものなのか、静子には太宰の気持がはかりかねた。
 その間に、静子の一家は大岡山の家を手放し、洗足他のほとりに移り住んだ。やがて弟の通は出征し、静子は母と二人暮しになった。
 昭和18年の春先には、太宰から堤重久(太宰の弟子で、『正義と微笑』の主人公のモデル堤康久の兄)という青年と付き合ってみたらどうかと紹介され、新宿で一度会ったことがある。堤は年下で、それに端正な顔立ちのおどろくほどの美男子だった。太宰がなぜ自分にこのような人をなぜ自分に紹介したのか、静子はとまどった。
 堤に会ってからほどなくして、静子は太宰と井の頭公園を散策した。池畔の桜の花があらかた散ってしまった四月の末の肌寒い日だった。紹介していただいたけど、堤さんは私には不似合いです、もうお会いする気はありません、私には先生のほうが、と静子が歩をはこびながら言うと、太宰は足をとめ、くるりと静子のほうを向き、顔をのぞきこむようにして、うむ、それはよかった、いや、それはよかった、と嬉しそうな顔をした。
 
太田静子は母とともに下曾我村の大雄山荘へ
 昭和18年11月末、静子は母と共に、印刷会社の社長が所有していた神奈川県下曾我村の大雄山荘に叔父の世話で疎開した。
 


下曾我 大雄山荘

 「十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの附いた来客用の洋間が一間」と『斜陽』にあるとおりの間取りの山荘で、高台にあって見晴しがよく、「冬の日が、お庭の芝生にやわらかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さいお池があり、梅の木がたくさんあって、お庭の下には蜜柑畑がひろがり、それから村道があって、その向うは水田で、それからずっと向うに松林があって、その松林の向うに海が見える。海は、こうしてお座敷に坐っていると、ちょうど私のお乳のさきに水平線がさわるくらいの高さに見えた。」周囲の風景も『斜陽』に書かれてあるとおりだった。

  
上 富士の間 下 中の間上 玄関の外観 下 玄関の間
(治子はここで生まれた)

  
上 支那間 下 お風呂場上 富士の間  下 同縁側

太宰へ転居通知を出し、大雄山荘で再会へ
 疎開して三月ほどたって、昭和19年の年が明けると早々、静子は太宰に転居の通知を出した。母が入院し、当分はひとり暮しをしなければならないと書き添えた。心の片隅で太宰の来訪を待ち望んでいたのかもしれない。
 その通知を出して五、六日して、太宰から「アス 一ジ オダワラエキ」という電報がきた。発信局は熱海だった。
 1月9日、小田原駅に出迎えた静子に太宰は、『佳日』が映画化されることになり脚色の打合せのため熱海のホテルに来たのだと言った。そして、先に静子の母が入院している小田原市内の病院に見舞いに行こうと言い、途中の花屋で薔薇とカーネエションを買って静子に手渡した。しかし、太宰は病室には入らず、背をまるめて病院の廊下に佇んでいた。
 その夜、山荘で太宰は、これから書いていきたい小説のことを熱っぽい調子で語り、静子はその話に夢中になった。これから戦争がどうなるか判らないけれども、自分は最後まで粘って小説を書いていくつもりだ、と太宰は言った。
 その夜、ふたりは、十畳間の和室の間に屏風を間に挟んで寝た。
   
母の死と太宰への思い
 その日からあと三年間、ふたりは会っていない。戦争が終わった年の12月6日、母きさは小田原の病院で亡くなった。弟の通も出征して南方に行ったまままだ帰ってきていなかった。静子はひとりぼっちになった。孤独の淋しさに堪えかねた静子は、津軽の生家に疎開している太宰に葉書を書いた。
 返事がきた。(昭和21年1月11日付)

 拝復いつも思っています。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思っていました。正直に言おうと思います。
 お母さんが無くなったそうで、お苦しい事と存じます。
 いま日本で、仕合せな人は、誰もありませんが、でも、もう少し、何かなつかしい事が無いものかしら。私は二度罹災というものを体験しました。三鷹はバクダンで、私は首までうまりました。それから甲府へ行ったら、こんどは焼けました。
 青森は寒くて、それに、何だかイヤに窮屈で、因っています。恋愛でも仕様かと思って、或る人を、ひそかに思っていたら、十日ばかり経つうちに、ちっとも恋いしくなくなって困りました。
 旅行の出来ないのは、いちばん困ります。
 僕はタバコを一万円ちかく買って、一文無しになりました。一ばんおいしいタバコを十個だけ、きょう、押入れの棚にかくしました。
一ばんいいひととして、ひっそり命がけで生きていて下さい。 コヒシイ
 
母の思い出を、書き始める
 冬の山荘のひとり暮しは居たたまらないほど淋しかった。母のことがしきりに思い出された。ある夕べ、静子はふと思いついて、母の思い出を書きはじめた。
 五年前、はじめて三鷹に訪ねたとき、太宰は静子に日記を書くことをすすめた。楽な気持で、飾らず素直に書くようにとすすめてくれた。満里子を死なせたことへの告白の文章を静子は書きつづけたが、どうしてもうまく書けず、告白を書くということが考えられないほど困難なことのように思われてきて、それを破り棄てた。しかし、いま、母の思い出を、楽な気持で、飾らず素直に書きはじめてみると、自分でもおどろくほどに筆が進んだ。夜の更けるのも忘れて静子は書きすすめた。
 五月になったある日、津軽の太宰から小包がとどき、単行本の『津軽』と『お伽草紙』が送られてきた。『津軽』をひらくと、一枚の詩箋が落ちた。
  ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る(和泉式部)
  五月雨の木の晩闇の下草に蛍火はつか忍びつつ燃ゆ(読人しらず)
 その前々年の五月、青森県東津軽郡蟹田町というところから思いがけなく手紙がきて、紀行文を書くために津軽に来ているとあったが、その封書のなかにもこの二首の歌が同封されていた。
 小包がとどいた日から一週間ほどのち、通が復員してきた。しかし東京に恋人のいる通は、数日後に山荘を出て、そのまま帰ってこなかった。静子はまたもとのひとり暮しになった。
 
疎開先の太宰へ手紙――生きていく三つの道
 秋風が吹きはじめた頃、静子は太宰に手紙を書いた。

 通も東京に行ってしまったし、この山荘も他人の手に渡ることになりました。売るものもいよいよ無くなり、これまでのような生活をつづけることはもう出来なくなりました。それで、これから生きてゆく道を三つ、考えました。
一、自分より若い作家と結婚して、マンスフィールドのように、小説を書いて生きてゆく生活
二、再婚して、文学なんか忘れて、主婦として暮す生活。
三、名実とも、M・Cさまの愛人として暮す生活。
M・Cさまとは、先生のお友だちのあのM・Cさまのことだが、あの方には先生と同じように奥さまもお子さまもいらっしゃるのでお怒りになるかもしれない。それで、先生からあの方に尋ねてみてもらいたいのです、お願いします。
 太宰治様(私の作家。マイ・チェーホフ。M・C)

 太宰から返事がきた。(昭和21年9月頃)

 御手紙拝見『いさい承知いたしました。』
 私は十一月頃には、束京へ移住のつもりでいます。下曾我のあそこは、いいところじゃありませんか。もうしばらくそのままいて、天下の情勢を静観していらしたらどうでしょう。もちろん私はお邪魔にあがります。そうしておもむろに百年の計をたてる事にしましょう。あわてないようにしましょう。あなたひとりの暮し事など、どうにでもなりますよ。安心していらっしゃい。また御手紙を下さい。さようなら。
 お身お大事に。

 その後も静子は何度も手紙を書いた。さすがに太宰も辟易したと見えて、「手紙の差出人の名をかへませう。小田静夫、どうでせうか。美少年らしい。私は、中村貞子になるつもり。(中略)これから、ずつとさうしませう。こんなこと愚かしくて、いやなんだけれども、ゆだんたいてき。いままでとは、ちがふのだから。云々」(昭和二十一年九月頃)と、妻の目を憚る文通を指示している。
 
行くところまで行きたい――赤ちゃんがほしい
 これには、さすがに静子も屈辱を感じたという。しかし、これまでのような売り食い生活を続けてゆけば一年もしないうちに完全に行きづまってしまうことを実感していた静子は、心細さのあまり、妻の目を気にする太宰の思惑などおかまいなく、次にように書いた。

 ……苦しい一日が過ぎて、夕方になつて考へついたことは、行くところまで行きたい、といふことでございました。……私はもう、小さいことは、考へないことにいたします。赤ちやんがほしい……。それから二人で、長春やモスコオやパリへ行きたいと思ひます。今度、下曾我へいらつしやいましたら、母の思ひ出の日記(大学ノートに書いたいわゆる「斜陽日記」−引用者)を見ていただきたいと存じております。
 

太宰治
 太宰からの返信。(昭和21年10月初旬)

 拝復 静夫君も、そろそろ御くるしくなった御様子、それではなんにもならない。よしましょうか、本当に。
 かえって心の落ちつくコイ。
 憩いの思い。
 なんにも気取らず、はにかまず、おびえない仲。
 そんなものでなくちゃ、イミナイと思う。
 こんな、イヤな、オッソロシイ現実の中の、わずかな、やっと見つけた憩いの草原。
 お互いのために、そんなものが出来たらと思っているのです。
 私のほうは、たいてい大丈夫のつもりです。
 私はうちの者どもを大好きですが、でも、それはまた違うんです。
 やっぱり、これは、逢って話してみなければ、いけませんね。
 よくお考えになって下さい。
 私はあなた次第です。(赤ちゃんの事も)
 あなたの心がそのとおりに映る鏡です。
                       虹あるいは霧の影法師。
  静 子 様
   (あなたの平和を祈らぬひとがあるだろうか)

 
いつも思っています――私の仕事をたすけていただいて・・・
 この手紙に、静子は反発をおぼえ、手紙にこう書いた。「私は影法師なんかに恋したくありません。私のたった一つの胸の花火が、蛍や星のように映っているのでしたら、お別れいたします・・・」
 まもなく太宰より金木からの最後の返事が届いた。
 太宰からの返信。(昭和21年10月下旬)

 最も得意な筈の「文章」を書くのが、実は最もニガテという悲劇、私はそうなのです。
 私はいつのまにやら、自分の「心」を喪失しているのかも知れません。だから、鏡だというのです。鏡でわるければ、良導体(熱にすぐ感ずる)です。でも、イヤなヤツの熱には少しも感じません。感ずるどころか、つめたくなるばかり。
 相手がさめると、すぐさめちゃうんです。
 こんどのお手紙、すこうし怒っていらっしゃいますね。ごめんなさい。御返事が書けなかったんです。あなただって、こないだの手紙、とても書きにくかったでしょう。あれと、そっくり同じ気持さ。それだから、こちらもとても書けなかったんです。
 でも、いつも思っています。
 私の仕事をたすけていただいて、(秘書かな?)そうして毎月、御礼を差し上げる事が出来ると思います。毎日あなたのところへ威張って行きます。きっと、いい仕事が出来ると思います。あなたのプライドを損ずる事が無いと思います。
 そうして、それには、付録があります。小さい頃、新年号など、雑誌よりも付録のほうが、たのしゅうございました。
 十一月中旬に束京へ移住します。移ったら知らせます。もうこちらへ (金木へ)お手紙よこさぬよう。

三鷹で二人は再会――日記を見せてほしい
 11月14日、太宰は三鷹の旧居に帰ったが、忙しさにかまけて静子への連絡を怠った。待ちかねた静子は短い手紙を書いた。返事がきて、雑用山積のため手紙を出せなかったことを詫び、いま「ヴィヨンの妻」という百枚見当の小説にとりかかっている、仕事部屋を借りて仕事をしているが、よかったらそこに来ないか、来るときには前日に電報をよこすように、正月五日間は客が多いから六日すぎがよい、とあった。
 昭和22年1月6日、朝早く下曾我を出た静子は、「三鷹郵便局の反対側の小川に沿った一階建の洋風のドアの玄関の家」と太宰の手紙にあったその仕事部屋を訪れた。三年ぶりの再会である。
 太宰は静子を吉祥寺の「コスモス」という店に誘って少し飲んでから、近くに住む亀井勝一郎の家に静子を連れて行き、再び亀井と同道して「コスモス」に引き返し、三人で一緒に飲んだ。その後、亀井が帰ると炬燵のある奥の小さな座敷に席を移し、女将に、この人に大事な話があるから席をはずしてくれないかと言った。その女将はあの仕事部屋の家の持ち主だった。こんな純情そうなお嬢さんをからかってはいけないと女将は言ったが、太宰は立ちあがり、静子の手をとって次の間に入り、襖をしめた。火の気のない小部屋の、壁を背にして立ったまま太宰は、畳に坐ってしばらくうつむいていた。静子は、思わず「世界の進歩のために、ギロチン台へお立ちに鳴る時は、静子もついていきます」と言った。太宰は、それを聞いて、日記を見せてくれないか、と重い口調で言った。
 こんど書く没落階級の小説のために、どうしてもきみの日記が必要なのだ、と太宰は、顔の筋ひとつ動かさず、突きつけるように言った。小説が出来上ったら、一万円あげる。

下曾我に来て下さったら、日記はお見せします
 下曾我に来て下さったら、日記はお見せします、静子はかすれた声で答えた。
 「コスモス」を出ると、空には一めん星がかがやいていた。井の頭公園を抜け、万助橋を渡り、玉川上水の堤に出た。人気はなく、上水の早い流れが、白い泡を散らしながら夜の静寂をふるわしていた。太宰は立ちどまり、二重廻しのなかに静子を包み込み、圧しかぶさるようにして抱きすくめ、荒々しいほどのはげしさで接吻した。
 その夜、ふたりは、太宰の古くからの友人でもある画家の桜井浜江の家に行き、その日本間に三人で寝た。
 その後、静子は太宰に長い手紙を出した。
 あなたの『斜陽』という小説のなかで、私の書いた日記がどのように花開くのか見てみたい。その花をみて、そのまま死滅してもよい、と静子は書いた。(太田治子『明るい方へ』)
 その返事が太宰から来た。(昭和22年1月頃)

 同じ思いでおります。
 二月二十日頃に、そちらにお伺いいたします。そちらで二、三日あそんで、それから伊豆長岡温泉へ行き、二、三週間滞在して、あなたの日記からヒントを得た長篇を書きはじめるつもりでおります。
 最も、美(かな)しい記念の小説を書くつもりです。

大雄山荘で二人は結ばれ、太宰の手に日記が渡る
 2月21日、太宰は下曾我の山荘に静子を訪れた。静子は太宰に日記を見せた。太宰は、「よかった。僕の思っていた通りの日記だった」と言った。(太田治子『明るい方へ』)その夜、ふたりは結ばれた。
 太宰は五日間山荘に滞在し、その間に下曽我の実家に戻ってきていた尾崎一雄を静子と二人で訪ねている。
 そして、太宰は大判ノートに書かれた静子の日記を借り受け、二十六日、伊豆三津浜に向った。田中英光の疎開宅前の安田屋旅館に止宿、新館二階の海の見える部屋に落ち着いて、『斜陽』の稿を起した。

尾崎一雄

 2月26日に、太宰から静子に手紙が届いている。

 拝啓 このたびは、御世話さまになりました。たけしさんにも、どうかよろしく御鳳声下さい。表記に落ちつきました。駿豆鉄道伊豆長岡で下車してバスで三十分くらいのところです。いつまでここにいるか、まだ見当がつきません。でも、とにかくきょうから仕事を開始するつもりでいます。では、また、おたより申します。お大事に。   不尽

伊豆三津浜安田屋旅館で、「斜陽」の執筆へ
 その後、3月6日にもう一通手紙が来て、その手紙には、万葉集の歌が一首書かれていた。
  つねひとの恋ふというふよりはあまりにてわれは死ぬべくなりたらずや
 この歌を読んで、太宰は死ぬのではないかと心配になり、静子は居ても立ってもいられず、翌日安田旅館に向かった。しかし、3月6日に太宰は「斜陽」の第一、二章を脱稿し、すでにそこを発ったあとだった。静子が下曽我を出たあとに、太宰も山荘に立ち寄っていて、二人はすれ違いだった。3月11日付の手紙で「社の若いひとが来て、七日に一緒に出発して、途中、下曽我のお宅にお寄りしたのですが、お留守でしたので、その夜は、国府津館に一泊して、それから、八日にはまた横浜で降りて、遊んで、八日夜、疲れ切った帰宅」と静子に知らせている。
 一方、静子は伊豆から東京行きの電車に乗り、その足で弟の通が住む練馬へ向かった。通は、静子が初めて三鷹の太宰邸を訪ねた時に一緒だった若い女学生の一人と結婚していた。通の家で、静子は太宰の子を妊娠したようだ、と告げたという。通の妻から、恋愛はいいけど、子供を生むのはどうか、と言われた。

静子、太宰に妊娠を告げる
 妊娠したことがはっきりしたのは、三月の半ばをすぎる頃だった。それからまもなく、太宰が下曾我を訪れた。静子は「赤ちゃんができましたの」と妊娠を打ち明けた。太宰はしばらくの沈黙の後、「いいんだよ、静子はいい子だったんだ。静子はいいことをしたのだ」と言った。二階の部屋の窓から庭の白い梅の木を見ていた太宰が、「夜の梅は、悲しいね」と言い、それに続いて「もう、静子とは死ねない」と呟いた。
 太宰は、翌日東京へ帰って行ったのだが、静子は国府津駅まで見送り、駅前の本屋で太宰はザイツェフの『リラの花』という短編集を買って静子に、「今度くる迄に、この本を読んでおいてほしいんだ」と手渡した。太宰はその中の「死」という短編に一番惹かれる、僕の心がそのまま書かれているようだ、と言った。家に帰ってからその短編を読むと、死の床にいる夫が、愛人との間に女の子ができていたことを妻にわびる場面があり、読んでいくうちに静子は顔の血の気が引いていくのを覚えた。
 太宰から手紙が届いたのは、その三日後のことだ。

 昨日は、ありがとうございました、昨日帰宅したら、ミチは、へんな勘で、全部知っていて、(手紙の事も、静子の本名お変名も)泣いてせめるので、まいってしまいました、ゆうべは眠らなかった様子で、きょう朝ごはんをすましてから、また部屋の隅に寝ています、
 お産ちかくではあり、カンが立っているのでしょう、
 しばらく、このまま、静かにしていましょう、
 手紙も電報も、しばらく、よこさない方がいいようです、どうもこんなに騒ぐとは意外でした、では、そちらは、お大事に
                敬具
静子様 


弟通とともに太宰を訪問――この直前に山崎富江と太宰が出会う
 この手紙は差し出し人が「貞子」という女性の変名であったが、この手紙が来て以来しばらく太宰からは音沙汰がなかった。ちょうどこの時期、太宰は三鷹の駅前の若松屋といううなぎや屋で山崎富栄とはじめて出会っている。3月27日のことで、この手紙の直後とみられる。また、太宰の家では、3月30日に次女里子が誕生している。
 4月2日付の友人田中英光への手紙には、「もっとも僕もいま死にたいくらいつらくて(つい深入りした女なども出来、どうしたらいいのか途方にくれたりしていて)ひとの世話どころではないが・・」と書かれていて、妻の出産、愛人の懐妊、あらたな女性の登場によって太宰も途方にくれている様子が伺われる。
 静子は、もちろん太宰家の次女誕生も山崎富栄のことも知らない。お腹の中の子供は次第に大きくなり、5月には妊娠4ヶ月目を迎えた。これから先のこともあり、静子は東大法学部出の弟の通に手続き的なことも相談した。そして太宰に、弟と一緒に上京するつもりだと、男性の名前で筆跡も変えて手紙を出した。
 太宰から返事が来た。

 拝復 御手紙ありがとう存じました。弟さんと御一緒に遊びにいらっしゃる由、私は午後三時以後なら、いつでもおつき合い致します。三鷹駅で降りて、南へ商店街を五十米ばかり歩くと、橋があります。その橋のたもとに、紫色のノレンをはためかせているウナギ屋の屋台があります。そこのおやじ或いはおかみにたずねると、私のいるところがわかります。おやじは自転車で私を迎えに来てくれます。私は毎日、午後三時まで仕事して、三時以後はウナギ屋でお酒を飲み、へとへとに疲れています。

 静子は、早速弟の通とともに、5月24日に太宰を訪ねることにした。その時の様子は、『斜陽』の中のかず子が上原に会いに行く場面と重なる。しかし、この時すでに太宰と山崎富栄との関係はかなり進展していた。山崎富栄が太宰から「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか」と言われたのは、5月3日のことである。(長篠康一郎『山崎富栄の生涯』)山崎富栄の登場により、静子の置かれた状況は劇的に変化していた。

  
山崎富栄(16歳)山崎富栄(22歳)


太宰は、静子に声もかけない
 5月24日の午後4時頃に、静子と通は三鷹の若松屋に着いた。太宰は静子にはほとんど声もかけなかった。そこで太宰はビール一本飲むと、そこから「すみれ」という小料理屋に二人を連れて行った。
 その「すみれ」という小料理屋は、満州から引き揚げてきたという美人の未亡人のやっている太宰の贔屓の店だった。その頃太宰は鰻の若松屋にいなかったら「すみれ」か「千草」にいた。小料理屋の「千草」の鶴巻夫妻は、戦前の昭和14、5年、三鷹の駅前でおでんやをやっていて、その頃太宰は学生などを連れて飲みに行っていたようだ。戦後、疎開先の山梨県石和から三鷹に帰り店をひらいてまもない昭和22年の春、買物籠をさげて歩いていた太宰と路上でばったり会い、それからは頻々と顔を見せるようになった。二階の座敷があいていて、時にはその六畳間で原稿を書くこともあった。
 以下、新潮社の野原一夫の「回想 太宰治」から当日の様子を追ってみる。
 5月24日、野原一夫が「すみれ」をのぞいてみると、太宰の隣りに見知らぬ黒っぽい和服を着た女性が坐り、その横に浅黒い顔をした男性がいた。それが太田静子と弟の太田通であった。野原は『斜陽』の執筆に打ち込んでいる時だったので、その進み具合などを太宰に訊き、他社の編集者が二人ほど顔をのぞかせ、それから場所を「千草」に移した。太宰がその太田静子と通にも声をかけ二人も一緒について来た。
 「千草」に着いて、座敷にあがってからも、その女性は食卓からすこし離れて坐り、眼を伏せからだを固くしていた。太宰は、その人のいることなどまるで気にとめていないふうで、誰かが『人間』の四月号に載った「父」を絶讃し、感動したと言うと、「父」よりも「ヴィヨンの妻」を賞めてもらいたいね、「父」はどぶろく、「ヴィヨンの妻」はシャンペンだ、きみはどぶろく党かね、あれはすぐ酔うし、それに腹にたまる、そこが気に入ってるんじゃないのかね、シャンペンの味がわからなくては、もっとも俺もシャンペンの味などよくは知らんのだがね、と私たちを笑わせ、それから「かるみ」というものの大事さについて弁じはじめた。
 その後、伊馬春部がロイド眼鏡をかけた俳優の巌金四郎を伴って現れた。前年の秋に発表された戯曲「春の枯葉」が伊馬の手でラジオ向きに脚色されてNHKから放送されることになり、その打ち合わせのためだった。ふたりの新客は太宰の隣りに坐った。その時、太宰は野原を手招きし、
「奥名さんのところにいいウィスキーがあるんだ。貰ってきてくれない。」と言った。

静子、山崎富江とも顔を合わせる
 奥名さん―すなわち、山崎富栄である。富栄はその頃はまだ奥名修一氏の妻であった。奥名氏の戦死の公報がとどいたのはこの年の七月で、旧姓の山崎にもどるのは秋になってからである。富栄は、「千草」と道ひとつ隔てた真向いの野川さんという家の二階の六畳間に下宿していた。野原はそれまでにも三、四度顔を合わせたことがあり、その下宿の部屋にあがって飲んだこともあった。しかし、太宰と富栄との仲について、その時まだ野原はなにも知らなかった。女の知り合いのひとり、としか思っていなかった。
 富栄は自分が持って行くと言う。富栄と共に「千草」に戻ると、太宰は、伊馬さんの持参した「春の枯葉」のスクリプトに眼を通していた。巌氏がせりふの言い廻しについて質問をし、太宰は丁寧にそれに答え、やがて声を出して自分で朗読したりした。たいへんな気の入れようだった。
 座はいよいよ賑やかになり、やがて太宰が、低く呟くように、いかにも投げやりな調子で歌いだした。
   男純情の 愛の星の色
   冴えて夜空にただひとつ
   思い込んだら命がけ 男のこころ
 その最後の、「思い込んだら命がけ 男のこころ」というところを、そこだけを調子を高くして繰り返し、何度も何度も繰り返し、そのたびに、コップをカチンと合わせ、ぐいと飲む。野原たちもそれを真似る。
 なお、『斜陽』では、この歌詞が、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、となっているが、そのような不思議な文句を太宰が歌ったことはないと野原は言う。また、『斜陽』で、その場のある紳士が、「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワ、という軽薄きわまる挨拶が平気で出来るようでなければ、とても駄目だね。いまのわれらに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引っぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きて行けやしねぇじゃないか。もしもだね、コンチワを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ。一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ。」と発言しているが、これも、そのままでないにしても、太宰自身が喋った言葉であると野原は言う。
 富栄は台所との間を行き来して、料理やお酒を運んだり、食卓の上をてきぱきと片付けたりした。まるで世話女房のようではないか、妙なひとだな、と野原は思った。そのあいだ、黒い和服の女性は、すこし離れたところに坐ったまま、みんなが仲間に入るようにすすめても、さびしげな微笑を返すだけだった。
 そのあと、太田静子は、隣室でうどんを御馳走になったという。『斜陽』にもそのことは書かれているが、そのとき心配してうどんをとってくれたのは富栄さんでした、と静子は野原に語っている。

太宰は酒を飲み――体よくあしらわる静子
 後に活字になった山崎富栄の日記には、その日、「『斜陽』の御婦人も御一緒だった」とある。執筆中の『斜陽』について、太宰は富栄になんらか話をしていたと思われる。そのモデルで、日記を借覧した女性が訪ねてくる、くらいのことは話していたのかもしれない。しかし、そのひととの仲は伏せていたにちがいないし、まして、そのひとが自分の子をみごもっているなど、打ち明けていたはずはない。
 静子が隣室でうどんを食べている頃に、太宰がふらりと立ちあがり、なにげなさそうに野原のそばに来て、耳もとで、
「きょうは帰らないで、しまいまで付き合ってくれよ。たのむ。」
とささやいたと言う。
 九時頃、「千草」を出た。静子の弟通はそこで帰った。太宰、伊馬春部、巌金四郎、野原、富栄、静子の六人は、ふたたび「すみれ」に席を移し、奥の六畳の座敷にあがりこんだ。
 誰かが”男純情の”と歌い出し、”思い込んだら命がけ”が繰り返され、唱和、コップが音高く打ち合わされ、富栄も結構いける口らしく、かなり飲んでいたようで、顔色にも出、へんにうきうきしていて、しきりに野原に握手を求めたりし、いきなり、
「ヴィヨンの妻のあの奥さん、幸せだと思うわ。」
 と言った。
「幸せ? ほんとうにそう思いますか。」
 野原は信じられない気持だった。
「ええ、幸せだと思うわ。だって、あの奥さん、大谷をあたたかく包みこんで、甘えさせて。」
「それじゃあ、幸せなのは大谷のほうだ。」
「あら、大谷を幸せにできたら、その奥さんも幸せなんじゃないの。」
「あなた、えらいんですね。しかしあんな女房、どこにもいやしないさ。」
「どこかにいます。きっと、どこかにいるわ。」
 富栄は声を強めた。
 ひとりおいて右隣りに静子が坐り、その横に太宰がいた。ふたりを意識しての言葉だったのかもしれない。
 静子は、「千草」のときと同じように、無言で眼を伏せていた。重苦しい空気が、そこだけにあった。
 「すみれ」を出て、駅まで伊馬と巌を送り、富栄ともそこで別れ、太宰、静子、野原の三人は画家の桜井浜江邸に向った。途中の夜道でも、太宰は静子にひとことも語りかけなかった。さすがに野原も、へんなものを感じはじめてきた。

桜井浜江低で、太宰は静子の絵を描き渡す
 桜井邸のアトリエに落ち着くと、太宰は、いかにも疲れたふうにぐったりと肩を落した。
 へんに白々しい空気を素早く察したのだろう、桜井浜江はしきりに静子に話しかけ、気を引き立てようとし、静子も短く受け答えして、すこし気が楽になったようだった。
 やがて太宰は絨毯の上に横になり、眠ってしまった。
 翌日は朝から雨だった。静子は膨れぼったい顔をしていた。窮屈な長椅子に帯だけ解いて横になったせいもあろうが、おそらく一睡もしていなかったのだろう。 太宰は傘を借りて、自分でビールを買いに行った。そして黙りこくってそれを飲んでいた。なにか話題をさがそうとしていた桜井も、いつしか黙りこんだが、「野原さん、ね、歌をうたおう。さ、うたおうよ。」と声をかけ、「愛染かつら」「宵待草」「ゴンドラの唄」「巴里祭」「巴望の屋根の下」、思いつくままに次々と桜井と野原は歌った。
 静子は隅の長椅子に坐って、雨がアトリエの大きなガラスにふきつけるのを見ていた。桜井が声をかけ、合唱に加わったが、急に声がとぎれた。小さく肩をふるわせて泣いていた。
 夕刻になって、雨が小止みになった。
 太宰はキャンバスを借り、立膝をして、静子をモデルに油絵を描いた。唇をまげ、無言で描いていた。
 描きあがった絵を桜井が額縁に入れて白い紙で包んだ。太宰はそれを静子に手渡した。
雨があがり、太宰と野原は静子を三鷹駅まで送った。静子は小走りに改札口を抜け、そのまま振り返らずに階段をのぼっていった。

妊娠五カ月の頃「斜陽」が『新潮』に――静子、手紙を書くが返事なし
 その日のことを、野原は静子から直接次のように聞いている。
――あのとき、なんの相談もできなかったのですか。
 はい。ぜんぜん。『千草』というんですか、あそこのお座敷に坐って、みなさんが歌をうたったりお話をなさっているのを黙って見ていたとき、御相談したいという気持が、まるで雪が溶けるように消えていきました。もういいのだ、と思いました。
――太宰さんは、あなたにほとんど口をきかなかったようでしたけど。
 二度めに行ったお店で、三鷹へ出てきて家でも一軒借りるかね、と呟くようにおっしゃいました。本気でおっしゃったんでしょうか。
――さあ。
 私は、黙って首を横に振りました。

 その日から以後、太田静子は太宰治と会っていない。
 妊娠五ケ月に入ったころ、「新潮」七月号に『斜陽』の第一回が発表された。この頃静子が書いていたノートには七月十三日の日付で三鷹の太宰に宛てて出したと思われる手紙が記されている。
「昨日、「新潮」の七月号『斜陽』を拝見いたしました。あの日記がちっとも、お役に立たなくて、怒っていらっしゃるんぢゃないかしら、と心配してゐましたが、第一篇の所では、半分くらひはお役に立ったやうな気がして、よろこんでゐます。
……中略……わたし達の恋のお使いをして下さるやうな方が、いらっしゃいませんのね。心細い。こんな愛妾ってあるかしら、とかなしくなることがございます。」(太田治子「母の糸巻」)
 しかし、太宰からの返事はなかった。

娘治子の誕生とお墨付き――山崎富江の狼狽
 そして、その年の11月12日大雄山荘で治子が誕生する。11月15日に下の弟の太田通が三鷹の山崎富栄宅を訪れ、太宰は通に「 證 太田治子、この子は私の可愛い子で、父をいつでも誇って、育つことを念じてゐる」と書いたお墨付きを渡す。その時、太宰は山崎富栄にもこの證を見せたが、富栄は一瞥しただけで固い表情をしていたと、たまたまその場に居合せた野原は述べている。そして、お金のことで困るようなことがあったらいつでも言ってくるように、と通に伝言を頼んでいる。
 もちろん、富栄も「斜陽」のご婦人と太宰が男女関係にあるとはまったく知らなかったようだ。11月16日の日記には太宰に「つらかったかい」と訊かれて、「いいえ、そんなお言葉どころではありませんでした。もう死のうかと思いました。苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが何処か、遠くの方へ抜きとられてゆくみたいでした」と綴っている。さらに、11月18日の日記には、「私は奥様と同じように、あなたが斜陽の人に逢うことはいやです。若し、逢ったら、私死にます」と述べ、それに対して太宰が、「逢わない、誓う、ゲンマン、一生、逢わない」と答え、必要な通信は富栄が代筆する、治子への養育費の仕送りも富栄が手続きをとるということで、富栄を納得させたようだ。
 


太田治子の命名證
 当初、静子は決まった額の養育費をとまでは考えていなかったようであるが、出産・育児での物入りで出費が嵩み、父親である太宰に三年間は面倒をお願いしようと、静子は太宰に手紙を書いた。宛先の住所は、「千草」の鶴巻方。手紙の類は今後そこ宛にと、太宰からの指示があったものとみえる。
 太宰は、この時静子が出した手紙を富栄に見せ、「自惚れすぎるよ。斜陽の和子が自分だと思っているんだなあ。面倒くさくなちゃったよ」と言い、富栄が「二人でなんとかしていきましょう」と言うと、太宰は泣いて「サッちゃん、頼むよ、僕を頼むよ」と言った、と富栄は1月10日の日記に書いている。

差出人は太宰治代理――養育費の差配などは富江が一手に
 折返し返事がきたが、その差出人は「太宰治代理」となっており、宛名は太田武様となっていた。武は静子のすぐ下の弟で、太宰とは、下曾我の家で一度会っているが、その時武は下曾我にはすでにいなかった。しかし武宛にしたのは、富栄が静子宛で書くことを嫌がったとも考えられる。「太宰さんの容態が悪化して、喀血の量も目立って多くなった、そのため、人をたのんで用事をすることになった」(1月16日付)とそこには書かれてあった。それで、姉上様よりのお便りのお金のことについては、依頼した人に調達させているので、もうすこし待ってくれるように、と書いてあった。筆蹟からも文面からも、「太宰治代理」なる人が女性であることは静子にもすぐわかった。身近にいて、よほど親しくしている女性と考えるのが自然だが、静子はまるで気にかからなかったという。
 その前年の五月に上京したとき、静子は富栄と顔を合わせている。そのとき同行した弟の通は、治子の認知状をもらいにきたとき、再びその部屋で富栄と顔を合わせていた。前に会ったあの人とは違うのかという静子の問いに、もっと年をとった暗い感じの人だったと通は答えたという。わずか半年のあいだにそれほど変わったはずもないが、認知状のときの富栄には、そんな翳りがあったのだろう。下宿のおばさんかなにかだろうと静子は思い、そのひとと「太宰治代理」の女性を結びつけることもしなかった。
 二月になって、お金が一万円、電報為替で送られてきた。静子は太宰に会いたいと思った。病気の具合いも気になったし、それに、治子を一目見せたかったのである。上京したいと電報を打つと、こんどは静子に直接、「太宰治代理」から返事がきた。奥様の妹様が危篤状態になりとりこんでいるから、上京は来月にして欲しいという文面だった。しかしそれについては、太宰からも、またその代理からも、それきりなんの連絡もなかった。

太宰治代理矢崎ハルヨが山崎富江だと知ったのは、心中後だった
 自分が上京してはいけない事情でもあるのかと思った静子は、五月になってから、治子の写真を何枚か太宰に送った。宛名は、鶴巻方の矢崎ハルヨとした。その前に代理からきた手紙で、宛名を太宰治とすると、狭い三鷹下連雀の町なかに同姓同名の人がふたりいることになり、配達人の口から御自宅のほうに洩れるおそれがある、今後は矢崎ハルヨ宛にしてもらいたいとあったからである。その矢崎ハルヨという代理の人は、よく気がつく女の人だと静子は感心し、自分にはとてもつとまらないと思った。
 


娘治子を抱く太田静子
 「太宰治代理」矢崎ハルヨが、一年ほど前に顔を合わした女性、山崎富栄であることを知ったのは、ふたりが玉川上水に投身したあとのことである。新聞に出た富栄の写真には、たしかに見覚えがあった。その日の午後、静子は一通の手紙を受けとった。「太宰治代理」ではなく、山崎富栄と本名が書いてあった。

 前略 わたし、太田様と修治さんのこと、ずいぶんお尽し致しました。太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。太田様のことは、太宰さんも、お書きになりましたけど、あとのことは、お友達のおかたが、下曾我へおいでになることと存じます。
 六月十三日
                山崎富栄
太田静子様 

太宰家側から「斜陽日記」を公表しないよう求められるが・・・
 太宰が入水して一ケ月以上が過ぎた昭和23年8月1日に、井伏鱒二、今官一、伊馬春部の三氏が下曾我の大雄山荘を訪れ、また『斜陽』の印税十万円(内金として三万円)の支払いと併せて「太宰治ノ名誉(ヲ傷ツケルヤウナ言動)及ビ作品二関スル言動(新聞・雑誌ニ談話及ビ手記発表)ヲ一切ツツシムコト」という誓約書への署名と静子宛の太宰の手紙の引き渡しを求めた。静子は、誓約書に署名し、太宰の手紙もしぶしぶ渡した。そうして「斜陽日記」が伊馬春部から静子に返却された。
 しかし、それからわずか一ヶ月後の9月8日に、その約束を反故にする形で石狩書房から『斜陽日記』が出版された。静子がこれを出版した理由について娘の治子は次のように書いている。
 「母が誓約書の一項を守らずに発表したのは何故だったのか。当時、未婚の母として私を生んだことにより親戚から勘当同然になっていた母は、赤ん坊の私を抱えて矢尽き刀折れの状態だった。日記が本になれば、お金ができると考えたのである。しかしそれ以上に、愛人として一段下にみられているというみじめさがあった。使者のお一人のI氏がいかにも苛々とした表情で腕時計を外して母の眼の前の机にボンと音高く置かれたのもかなしかったと母はいうのだった。生れてきたあなたの誇りの為にも日記の発表を決めたと話す時の母は、いつも涙ぐんでいた」(太田治子「母の糸巻」)

「斜陽日記」捏造説も飛び交った
 しかし、この『斜陽日記』が出版されると、その内容が『斜陽』に酷似している箇所が随所に見られたため、『斜陽』に合わせて捏造されたものだ、という誹謗中傷が飛び交った。それは事情を知らぬ者達の憶測にすぎない。娘の治子は次のように書いている。
「太宰の死後、石狩書房から大急ぎで出版が決った時、母はからだが起き上がれない程くるしかった。T氏の手を通して返却されたばかりの日記の清書を、下曾我の青年団の若者二人に頼んだという。そうした生き証人がいるというのに、どうしてねつ造などといわれてしまったのか。出版された『斜陽日記』に誤字脱字が多いのは、自分で清書できなかったからだと母はずっと残念がっていた。」(「母の糸巻」)
 この日記は、太宰が最期に過ごした山崎富栄の部屋の机に置かれていた。I氏とは伊馬春部氏で、山崎富栄の遺書により、日記を静子へ返却するよう太宰から依頼を受けていたのである。後に伊馬春部氏は、「万一のことをおもんぱかって副本をこしらえ、太田さんの自筆のほうは、先生(註:折口信夫)にお願いして預かっていただいたのである」と述べ、その後葬儀が終わってしばらく経ってから自らこの自筆日記を下曽我の太田さんに返却したが、出版社が奪いとるように強引に活字にしたため、「おかげでぼくの副本は徒労に終わった」と筑摩書房版「定本太宰治全集11」に書いている。

伊馬春部の証言――「斜陽日記」は捏造ではない
 つまり、伊馬春部氏は、手許の副本と出版された『斜陽日記』の間に齟齬はみられない、と暗に語っているのである。捏造説は、当事者により完全に否定されたわけだが、『斜陽日記』が出版された当時は、まだそうした事実は公にされていなかった。もちろん、日記を清書した人たちがいるわけで、その人たちに聞けばおのずから真相は明らかになる話ではあるが、間の悪いことに、伊馬春部氏から受け取ったその日記の原本が静子の手許にはなく、焼失してしまった可能性もあり、それが憶測を生んだ要因の一つではある。
 なお、『斜陽』には、『斜陽日記』から、ほぼそのまま借用している箇所が多く見受けられる。前半はとくに多い。「蛇の卵」の話、さらに「ボヤ騒ぎ」の話などもほぼ『斜陽日記』からの借用である。なかでも、『斜陽』の主人公かず子のキャラクターを印象づけ、さらに『斜陽』という作品そのものを象徴するとさえいえる「人間は恋と革命のために生まれてきた」というあの有名なフレーズが出てくる箇所を『斜陽日記』と対比してみよう。

『斜陽』には『斜陽日記』からの借用がかなり多い
 まず『斜陽』より。
 これは私がこないだお二階の直治の部屋から持って来たものだが、その時、これと一緒に、レニン選集、それからカウツキイの「社会革命」なども無断で拝借して来て、隣りの間の私の机の上にのせて置いたら、お母さまが、朝お顔を洗いにいらした帰りに、私の机の傍を通り、ふとその三冊の本に目をとどめ、いちいちお手にとって、眺めて、それから小さい溜息をついて、そっとまた机の上に置き、淋しいお顔で私のほうをちらと見た。けれども、その眼つきは、深い悲しみに満ちていながら、決して拒否や嫌悪のそれではなかった。お母さまのお読みになる本は、ユーゴー、デュマ父子、ミュッセ、ドオデエなどであるが、私はそのような甘美な物語の本にだって、革命のにおいがあるのを知っている。お母さまのように、天性の教養、という言葉もへんだが、そんなものをお持ちのお方は、案外なんでもなく、当然の事として革命を迎える事が出来るのかも知れない。私だって、こうして、ローザルクセンブルグの本など読んで、自分がキザったらしく思われる事もないではないが、けれどもまた、やはり私は私なりに深い興味を覚えるのだ。ここに書かれてあるのは、経済学という事になっているのだが、経済学として読むと、まことにつまらない。実に単純でわかり切った事ばかりだ。いや、或いは、私には経済学というものがまったく理解できないのかも知れない。とにかく、私には、すこしも面白くない。人間というものは、ケチなもので、そうして、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問で、ケチでない人にとっては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。それでも私はこの本を読み、べつなところで、奇妙な興奮を覚えるのだ。それは、この本の著者が、何の躊踏も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。どのように道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさっさと走り寄る人妻の姿さえ思い浮ぶ。破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起さなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしている。
 あれは、十二年前の冬だった。「あなたは、更級日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方が無い」
 そう言って、私から離れて行ったお友達。あのお友達に、あの時、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
ニコライ堂の見える橋の上だった。
「なぜ? どうして?」
 そのお友達は、私よりさらに一寸くらい背が高くて、語学がとてもよく出来て、赤いベレ帽がよく似合って、お顔もジョコンダみたいだという評判の、美しいひとだった。「表紙の色が、いやだったの」
「へんなひと。そうじゃないんでしょう? 本当は、私をこわくなったのでしょう?」
「こわかないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
「そう」
 と淋しそうに言い、それから、私を更級日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、ときめてしまった。
 私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下していた。
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」
 と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを軽く抱いた。
 私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
 と小声でわびて、一お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じつと私を見つめていた。
 それっきり、そのお友達と逢わない。同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、学校がちがっていたのである。
 あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更科日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。


 次に、『斜陽日記』から。
 これは、御堂に置いてある弟の書棚から持って来たものだが、その時、これと一緒に、レーニン選集と、カウツキイの「社会革命」、岡義武氏の「近代欧州政治史」なども無断で借りて来て、私の机の上にのせて置いたら、朝お顔を洗いに、いらした帰りに、ふと、その本に目をとめて、いちいちお手にとって眺めて、それからまた、そっと、机の上に置き、何んとも言えない淋しそうな、お顔をなさった。けれども、それは決して拒否や、嫌悪のまなざしではなかった。お母さまの、ごらんになる本は、ユーゴ、デュマ父子、ミュッセ、ドーデエなどであるが、私はそのような甘美な物語りの中に、革命の匂いのあることを識っている。お母さまのような方は、素直に当然のこととして、革命を迎えられるのだと思う。たしかに、私より、お母さまの方が、思想的なタイプであり、革命的な感覚の持主なのである。ローザ・ルクセンブルグの「経済学入門」、ここに書かれてあるのは、経済学ということになっているのだけれど、経済学として読むと単純で、わかり切ったことばかりである。私には、経済学というものが、始めから分らないのかも知れない。これは人間と言うものは、ケチなもので、そうして永遠にケチなものだという前提がないと全く成り立たない学問で、ケチでない人間には、分配の問題もまるで興味のないことなのだ。けれども、私はこの古い思想を、片端から、何の躊跨もなく破壊して行く、がむしゃらな勇気に、おどろいた。破壊思想。破壊は哀れで悲しくて、美しいものだ。破壊して立て直して、完成しようという夢。完成と云うことは、永遠に、この世界ではないものなのに、破壊しなければならないのだ。新しいもののために。ローザはマルキシズムに、ひたむきな恋をしている。このローザの恋が、私のこころをとらえてしまった。あれは十五年前だった。
「あなたは更科日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方がない。」
 そう言って私から離れていったお友達。あのお友達に、レーニンの本を読まずに返したのだ。
「読んだ?」
「いいえ。読まなかったの。」
ニコライ堂のみえる橋の上だった。
「何故? どうして?」
「叔父さまにみつかって叱られたの。」
 そのお友達は、私より体がずっと大きくて、頭がよく、フランス映画の女優コリンヌ・リシェールに似ていた。
「本当は、何だか、恐かったからなの。」
「そう。」
 と、淋しそうに言い、それから、私を更科日記の少女だと言い、そうして何を言っても仕方がない、と仰っしゃったのである。私達はしばらく、だまって冬の川を見下していた。
「じゃ、さようなら。」
 と、言って、そのお友達は、私の体を軽く抱いて、離した。風が頬に当って、私は早やく世田谷の叔父さまの家へ帰りたくなった。
「御免なさいね。」
 そう言って別れて、お茶の水の駅の方へ歩いて、振り返ると、そのお友達はやっぱり、橋の上に立ったまま、動かないで、じっとこちらをみつめていらっしゃった。あれから十二年経っても、私はやっぱり、更科日記から一歩も出ていない。いったい、私は、その間、何をしていたのだろう。革命へのあこがれもなかった。……何もしていなかった。恋さえ、知らなかった。革命と恋、この二つを、世間の大人たちは、愚かしく、いまわしいものとして、私達に教えたのだ。この二つのものこそ、最も悲しく、美しくおいしいものであるのに。人間は恋と革命のために生れて来たのであるのに。

太宰は、盗用で訴えられることも考えていたのかもしれない
 太宰の娘太田治子が、『明るい方へ』(朝日文庫)の中で、次のように書いているのが印象的である。
「入水した後の仕事部屋の机の上には、太田静子の日記も置かれていた。太宰は思いがけずこの日記を引き写してしまった箇所が多いことに、おののきを感じていたかもしれない。死を前にして強迫観念も強まっていた彼は、訴えられることも考えたように思う。太田静子からではなかった。いかにも揺るぎのない堂々とした風貌の弟の通の顔が浮かんだ。」
 また、太田静子は、治子の出産後まもなく当時の急激なインフレもあり、生活に窮するようになった。文筆で生計を立てようと、太宰との交際を小説風に書いて発表したが、批評家たちから辛辣な批評が寄せられ、以後小説を書くのはやめて、家財を金に換える生活を続けられたという。
 大雄山荘は人手に渡ったが、静子はその片隅にある御堂に治子とともにしばらく暮らした。その後、子宮がんであることがわかり、静子は手術を受けるために東京の病院に入院した。昭和26年5月に退院後は、下曽我には戻らず、下の弟の通が住む葉山の家に居候の身となった。さらに、昭和29年2月には一時川崎に住む弟武の許に身を寄せたが、その後、叔父の関連会社の倉庫会社に職を得て、目黒の狭いアパートの一室を借りて、治子と二人親子水入らずで住んだ。なお、静子と最も気心が合った下の弟通は昭和30年10月に亡くなっている。

静子は、母子家庭で働きながら治子を育てた
 静子は、母子家庭で自ら働きながら娘治子を育て、治子を大学(明治学院大学英文科)まで出させた。娘の太田治子氏はその後作家として活躍。静子は昭和57年11月、肝臓がんで娘治子や弟武に見守られながら69歳の生涯を閉じた。
    
太田治子氏太田治子氏

 『斜陽』が太田静子の『斜陽日記』からその多く拝借しているとしても、『斜陽』が太宰の作品であることになんら変わりはない。特に、最後の第6章、第7章には太宰のオリジナリティが十分発揮されている。かず子の弟直治の遺書は、太宰の戦後社会へ向けた呪詛でもある。遺書に言う。「いくら気取ったて、同じ人間じゃねえか。(中略)この言葉は、実に猥せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、栄光はひきずりおろされ、いわゆる『世紀の不安』は、この不思議な一語からはっしていると僕は思っているんです」そして、最終章では、「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます」とかず子に言わせているが、この道徳革命というのも太宰の言葉であり、その前提として「革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。少なくとも私の身の廻りにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています」という認識が彼の中にはあった。また、この言葉は、これを書いた時点では、私生児を生む太田静子に対するエールでもあったのである。


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