作品について
作品は刊行後またたくうちにベストセラーへ
この作品は、『新潮』1947年7月号から10月号まで4回にわたって連載され、同年12月15日に新潮社より刊行されると、またたくうちに版を重ねベストセラーとなった。
太宰が疎開先の津軽から東京に戻ってきたのは、終戦の翌年1946年(昭和21年)の11月14日であった。新潮社出版部の野原一夫は、浦和高校在学中から太宰に心酔し、昭和16年秋に文化祭での講演依頼のため三鷹の太宰邸を訪れ、さらにその後東京大学に進学してからも二度ほど太宰の家を訪問していた。昭和21年の夏に新潮社に入社が決まり、その縁もあって疎開先の太宰に手紙を書いたところ、覚えてくれていて、11月14日には東京に戻るとの連絡をもらい、野原は早速翌日に三鷹の太宰邸を訪ねて、長編執筆を打診している。その後、あらためて11月20日、太宰は新潮社を訪れ、河盛好蔵、野原一夫、『新潮』編集長の斎藤十一らと神楽坂の店で酒盃を傾け、その席で太宰は「大傑作を書きます。小説の大体の構想も出来ています。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落貴族の悲劇です。もう題材は決めてある。『斜陽』。斜めの陽。」(野原一夫『回想 太宰治』)と述べ、『新潮』への連載と、新潮社からの刊行を確約したという。
主人公かず子のモデルとなった太田静子
『斜陽』は、主人公かず子のモデルとなった太田静子の「日記」を元に創作された。太宰と太田静子との出会いは、昭和16年の夏に太田静子が太宰に手紙を出してからである。
|