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太宰治『斜陽』(新潮文庫)
作品についてあらすじ  

あらすじ
太宰治『斜陽』(新潮文庫)

 第一章

 朝、食堂でスウプを一さじ吸って、お母さまが、あ、と幽かな叫び声をお挙げになった。髪の毛、と私が聞いても、いいえ、と言ったきり、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、顔を横に向け、お勝手の窓の山桜に視線を送り、そらからまたひらりと一さじスウプを小さなお唇の間に滑り込ませた。
 ヒラリ、という形容はお母さまの場合、けっして誇張ではない。弟の直治が、いつか私に言っていた。爵位があるから、貴族だというわけにはいかないさ、俺たちみたい爵位があっても、賤民にちかいものもいるけど、爵位を持ってるからって下手に気取って上品ぶるやつは、かえってげびてる感じさえするもんだ。実際華族なんてのは、高等御乞食とでもいった方がいいいようなものだよ。俺たちの一族でほんものの貴族は、ママくらいなものだろう。
 お母さまの食事のいただき方は、スウプに限らず、頗る礼法にはずれたもので、骨つきチキンなどが出た時など、ひょいと指先で骨をつまみ、お口で骨と肉を離して済ましているのだ。それでも、お母さまがなさると、可愛いばかりか、へんにエロチックにさえみえるから、さすがにほんものはちがうと思わされる。
 いつだったか、西方町のおうちの奥庭にある池の端のあづまやでお月見をして、ふたりで話し込んだりしていた時、お母さまが、つとお立ちになって、そばの萩のしげみの奥に入って、それから萩の白い花のあいだから、顔をお出しになって、かず子や、お母さまがいま何なさっているか、あててごらん、とおっしゃった。お花を折っていらっしゃる、と申し上げたら、おしっこよ、とおっしゃったのだ。
 私などにはとても真似できないけど、しんから可愛いらしい感じがした。話しが脱線してしまったけれど、今朝のスウプは、アメリカから配給になった缶詰のグリンピースを裏ごしして、ポタージュみたいに作ったものだが、料理には自信がないので、お母さまに、いいえ、と言われたあとに、塩辛かったかしら、とたずねたのだが、お母さまは、お上手に出来ました、とほめて下さった。
 私は、このところあまり食欲がない。スウプはなんとか飲んだが、おにぎりがなかなか進まない。お母さまは、とっくにすませて、かず子はまだ、だめなのね、と私の体のことを心配してくれる。
 私は五年前に、肺病と言われて寝込んだことがあったが、あれはわがまま病だということは自分で知っている。でも、お母さまのこないだのご病気こそ、本当に心配な哀しい御病気なのに、お母さまは私のことばかり心配していらっしゃる。
 あ、と今度は私が声をあげる。お母さまと私は顔を見合わせて、笑う。その奇妙な、あ、という幽かな叫び声は、何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に出るものなのだ。私は、その時、六年前の離婚の時の事があざやかに浮かんで来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうだったのだろうか。
 私は、さっきお母さまも何か思い出されたのでしょう、直治のこと、と聞いた。お母さまは、かも知れないわ、とおっしゃった。弟の直治は、大学の途中で召集され、南方の島へ行ったのだが、消息が消えてしまって、終戦になっても行き先が不明で、お母さまはもう直治には逢えないと覚悟している、とおっしゃっているが、私はきっと遭えるとばかり思っている。
 直治は高等学校に入った頃から、文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれほどお母さまにご苦労をかけたかわからない。それなのに、お母さまはまだ直治のことを思っているのだ。
 大丈夫よ、直治みたいな悪漢は、なかなか死なないのよ、棒でたたいたって、死にやしない、と私はお母さまの気持ちをなだめるように言った。
 その四、五日前の出来事だが、こんなことがあった。近所の子供たちが庭の垣の竹藪から蛇の卵を十ばかり見つけて来た。子供たちが蝮の卵だというので、私が焼いちゃおうというと、子供たちも大喜びで、藪の近くに木の葉や柴を積み上げて火をつけその中に卵を一つ一つ投げ入れた。下の家の娘さんが垣の外から顔をのぞかせ、何をしているのかと聞くので、蝮の卵を燃やしている、と言うと、どれくらいの大きさの卵か、と訊く。うずらの卵くらいで、真白だと言うと、それならただの蛇の卵よ、それに生の卵はなかなか燃えませんよ、と言う。三十分ほど燃やしていたが、卵は燃えず、私は子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に埋めて墓標を作ってやった。
 その墓標の前で、子供たちと一緒に合掌してから、家の方に戻ると、石段の上のところで私達の様子を見ていたお母さまは、可哀そうな事をするひとね、とおっしゃった。私は、ちゃんと埋葬してやったから大丈夫、と言っものの、お母さまに見られたのはまずかったな、と思った。
 実はお父上のご臨終の直前にお父上の枕元に細い黒いひもが落ちているのを見て、お母さまが何気なく拾おうとしたら、それが蛇だったのだ。蛇は、廊下の方に逃げて姿がみえなくなったが、お父上が亡くなられた日の夕方、お庭の池の端の木という木に蛇がのぼっていたのである。今から十年前だから私が十九の時のことで、まだはっきり覚えている。お供えの花を切りに、庭に下りてツツジを見ると枝先に蛇がまきついていた。山吹にも、木犀や楓、藤や桜、どの木にも蛇がまきついていたのである。
 それ以来お母さまは、蛇をおそれ、蛇に対して畏怖の情をお持ちになってしまったのだ。それもあって蛇の卵を私が焼いたためにお母さまに何か悪い祟りがふりかかるのではないか、と私は心配で、心配でしかたなかった。なんだか、自分の胸の奥に、お母さまのお命をちぢめる気味の悪い小蛇が一匹は入り込んでいるようで、仕様がなかった。
 それからほどなく経ったある日の午後、私は庭の芝生をゆっりと這っている一匹の蛇を見た。それは女蛇だと思った。蛇は芝生を横切り、野ばらの陰でしばらくあたりを眺めるような格好をしていたが、まもなく去った。しかし、夕方近くお母さまと居間でお茶をいただきながら、お庭の方を見ていたら、その蛇がふたたびあらわれた。お母さまは、あの蛇は、と言い、私は、卵の母親と、口に出してしまった。私たちは手を取り合って蛇を見守っていた。蛇はしばらくしてよろめくように動きはじめ、力弱そうに石段を登りかきつばたのほうへ這入って行った。
 卵を捜しているのですよ、可哀そうに、とお母さまは沈んだ声でおっしゃった。私は、仕方なく、ふふと笑った。お母さまの顔に夕日があたり、そのかすかな怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そして、お母さまの顔は、さっきの悲しい蛇にどこか似ていらっしゃる、と思った。そうして、わたしの胸の中に住む蝮みたいに醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい母蛇を、いつか食い殺してしまうのではなかろうか、なぜだか、そんな気がした。

 私達が、東京の西方町の家を捨てて、伊豆のこの支那ふうの山荘に引っ越してきたのは日本が無条件降伏をした年の十二月のはじめであった。お父上が亡くなってからの私たちの家の経済は、お母さまの弟である和田の叔父さまが全部お世話して下さっていたのだが、戦争が終わり、世の中も変わって、いよいよ家を手放すしかなくなり、叔父さまの勧めで、叔父さまの知り合いの河田子爵からこの山荘を譲り受けたのである。
 それでも、いざ引っ越しとなるとやはりお母さまは気が重いらしく、引っ越しの準備にもなかなか手をつけることができなかった。心配して私が声を掛けると、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ、と言い、私がいなかったら、と言うと、死んだほうがよいのです、お父さまの亡くなったこの家で死んでしまいたい、と珍しく弱音をお吐きになった。お父さまがお亡くなりになってから、この十年の間お母さまはいつものんきで優しいお母さまだった。それに甘えて、私たちはお母さまのお金を使い果たしてしまったのだ。お金がなくなるという事が、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と私ははじめて気がついた思いで、胸がいっぱいで苦しくなった。
 翌日、和田の叔父さまも迎えに来られて、私たちは三人で伊豆の山荘へ向かった。列車で伊豆長岡まで行き、それからバスに15分乗り、そこから坂道を登ると小さな部落のはずれにその支那ふうの山荘はあった。山荘に着くと、ここの空気は美味しいと、うれしそうな表情をしていたお母さまも、その夜には熱を出して寝込んでしまわれた。叔父さまが村の医者を呼びにやり、二時間ほどで老医者がやって来て、注射を打ってもらった。翌日も、その老医者に注射を打ってもらって、その日の昼過ぎには熱が下がり、それからは次第に元気を取り戻された。
 お母さまは、ここに来るのが本当にいやだったのよ、ここに着いた日の夜には、もう東京が恋しくて、胸がこげるようで、気が遠くなってしまったの、と言った。それで、神さまが一度私をお殺しになって、そらから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせて下さったのだわ。
 それから冬を越して、もう四月を迎えるが、いままでずっと平穏な毎日が続いた。しかし、お母さまが言うように、一度死んで、違う人間になってよみがえるなんて、簡単にできることではない、と思う。この山荘での安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私には思える時さえある。これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、なにかしら、不吉な、暗い影が忍び寄って来ているような気がしてならない。お母さまは日に日に衰え、私の胸には蝮が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太りはじめているのだ。

 第二章

 蝮の卵のことがあってから、十日ほど経って、私は火事を起こしかけた。夜中にお手洗いに起きて、玄関の方が明るくなっていたので、覗いてみると、お風呂場の硝子戸が真っ赤で、パチパチという音が聞こえた。小走りにお風呂場まで行き、裸足で外に出てみたら、お風呂のかまどの傍らに積まれた薪の山がすごい火勢で燃えていた。
下の農家の中井さんのところに飛んで行き、火事を知らせた。中井さんは寝巻き姿のまま飛び出して来て、バケツで池の水を汲んでかけてくれる。その騒ぎを聞きつけて近所の人たちも四、五人駆けつけ、なんとかお風呂場の屋根に燃え移る手前で消し止めることができた。
 火事の原因は、私がお風呂のかまどの燃え残りの薪を、かまどから引き出して消したつもりで、薪の傍らに置いたことから起こったものだった。村長さんも、巡査も見えたが、巡査は今夜のことは届けないことにします、とおっしゃったので、駆けつけてくれた皆さんも、ひと安心して帰って行った。
 翌朝、お母さまの部屋に行ったら、お母さまはもう起きていらっしゃって、なんでもない事だったのね、燃やすための薪だもの、とおっしゃった。私は、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神に感謝した。それから、ご近所の皆さんがたに一人でお詫びとお礼のご挨拶に回った。
 私は翌日から、畑仕事に精を出した。火事を出すという醜態を演じてからは、私のからだの血がなんだか少し赤黒くなったような気がして、いよいよ野性の田舎娘になって行くような気分で、かえって畑へ出て、土を掘り起こしていたりした方が楽なようなくらいであった。
 こういう筋肉労働は、はじめてではない。戦争の時に徴用で、ヨイトマケまでやらされたのだ。私は、そのおかげですっかり体も丈夫になり、いよいよ生活に困ったらヨイトマケをやって生きていこうとさえ思うこともあるくらいだ。しかし、お母さまは、蛇の卵と火事の件以来、めっきりご病人くさくおなりになった。そうして私のほうでは、その反対にだんだん粗野な下品な女になっていくような気もする。
 季節はもう初夏だ。畑仕事をしている私を見ていたお母さまが、今日はかず子さんと相談したいことがあるの、と私をお呼びになった。お母さまの話では、和田の叔父さまからお聞ききになったそうだが、弟の直治が生きているとのことだった。ただ、弟はひどい阿片中毒にかかっているらしい。直治は、高等学校の頃にもある小説家の真似をしてひどい麻薬中毒にかかり、薬屋に大きな借金を作って、お母さまがその返済に二年もかかったことがあった。
 叔父さまの話では、直治はその阿片中毒を治さなければ帰還はゆるされないだろうが、たとえ帰還したとしても、すぐに社会復帰は無理だろうから、もし戻ってきたらしばらく山荘においてやってほしい、というのが叔父さまからの要望の一つ。それともう一つは、かず子のお嫁入り先を探すか、どこか奉公先を探すか、もし奉公先を探すなら、ある宮様の姫宮の家庭教師をかねてご奉公にあがるのはどうか、という話だった。
 私は、いやだわ、そんな話と、言ったら、涙が出てきて、思わずわっと泣き出した。お母さまはかず子がいるから、お母さまは伊豆に行くのですよ、とおっしゃったじゃない、だから、かず子はお母さまのおそばにいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまに美味しいお野菜をあげたいと、そればかり考えているのに、直治が帰ってくるとお聞きになったら、急に私を邪魔にして、宮様の女中に行けなんてあんまりだわ、貧乏になったって、なんだってできるわ、この家を売ったらいいし、着物を売ってもいいし、ヨイトマケだってできるわよ、お母さまさえ私を可愛いがってくださったら、私は一生お母さまのそばにいようとばかり考えていたのに、と言った。
 そして、お母さまは直治の方が可愛いのね、私は出ていくわ、どうせ直治とは性格が合わないから、三人一緒に暮らしたら不幸だわ、もう私はお母さまと二人で長いこと暮らしたのだから、思い残すことはない。これからはお母さまも直治と二人水入らずで過ごされたらいいわ、私は、もういやになった、出ていきます。私には、行くところがあります。
 そう言って私は立ち上がった。
 かず子!お母さまは厳しい口調で言い、すっとお立ちになり、私と向かい合った。
 お母さまは、私をおだましになったのよ、直治が来るまで私を利用していらっしゃったのよ。
 私は、立ったまま声をあげて泣いた。お母さまは、お前は、馬鹿だねぇ、と低い声で言い、私は、そうよ、馬鹿だからだまされるのよ、馬鹿だから、邪魔にされるのよ、いないほうがいいのでしょう?お母さまの愛情を、それだけを信じて生きてきたのです、と口走り、ふとお母さまのお顔を見ると、泣いておられた。
 私は、ごめんなさい、と言い、抱きつきたいと思ったが、私さえ、いなかったらいいのでしょう?出ていきます。私には行くところがあるの、と言って、小走りに走ってお風呂場に行き、泣きじゃくりながら、顔と手足を洗い、お部家で洋服に着替えているうちに、また泣き崩れ、それから二階の洋間に駆け上がり、ベッドにからだを投げて、毛布を頭からかぶり、痩せるほどひどく泣いて、そのうち気が遠くなるみたいになって、だんだんある人が恋しくて、恋しくて、お顔を見て、お声を聞きたくてたまらなくなり、両足の裏に熱いお灸を据えられ、じっとこらえているような気持ちいになって行った。
 夕方、お母さまが二階の洋間に来られて、かず子、私は生まれてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた。お母さまはね、私の子供たちのことは、私におまかせ下さい、と叔父さまに手紙を書いたの、かず子、着物を売りましょうよ、二人の着物をどんどん売って、思い切りむだ使いして、ぜいたくな暮らしをしましょう、あなたに畑仕事などさせたくない。あんなに毎日の畑仕事は、あなたには無理です。
 実は、私も毎日の畑仕事がつらくなりかけていたのだ。あんなに狂ったように泣き騒いだのも、畑仕事の疲れと悲しみがごっちやになって、なにもかもいやになってしまったからだった。
 それから、お母さまは、行くところがあるというのは、細田さま?と私にお聞きになった。私は黙っていた。
 あなたが、山木さまのお家を出て、西方町のお家に帰って来た時、お母さまはなにもあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけど、でもたった一言だけ、お母さまはあなたに裏切られましたって言ったわね、お母さまがあの時、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの、山木さまから、かず子は実は細田と恋仲だったのです、と言われた時なの。だって、細田さまには、ずっと前から奥さまも、お子さまもあって、どんなにお慕いしたってどうにもならない事だし…
 恋仲なんて、山木さまののほうで、ただそう邪推なさっただけなのよ。
 私は、細田さまのところではない、と言い、私ね、人間と他の動物とまるきり違っている点はなんだろうと考えたの、人間は他の動物とほとんど変わらないけど、でもたった一つあったの、それはね、ひめごと、というものよ、いかが、と言った。
 お母さまは、ほんのり顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、ああ、そのかず子のひめごとが、よい実を結んでくれたらいいけどねぇ。お母さまは、毎朝お父さまにかず子を幸福にしてくださるようお祈りしているのですよ、おっしゃった。
 私の胸にふうっと、お父さまと那須野をドライブしている時の秋の景色や琵琶湖でモーターボートに乗り、私が湖に飛び込んだ時に湖底にくっきり写った私の脚の影などがなんの関連もなく浮かんで、消えた。
 私は、ベッドから降りて、お母さまのお膝に抱きつき、はじめて、さっきはごめんなさい、と言うことができた。
 その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火が輝いた頃で、それから直治が南方から帰って来て、私たちの本当の地獄がはじまった。


 第三章

 直治が夏の夕暮れ帰還して来て、裏の木戸から庭に入ってきて、わあ、ひでえ、趣味の悪い家だ、来来軒、シュウマイありますって貼り札しろよ、と挨拶代わりに言った。それでも、二、三日前から舌を病んでいたお母さまに、直治は、寝るときにマスクをしたらいい、ガーゼにリバノール液を浸してそれをマスクの中にいれておくといいんだ、と忠告してくれて、お母さまは素直に直治の言うことを聞いて、マスクをして寝るようにしたら、その効果もあって舌の痛みは消えていったとお母さまはおっしゃったのだが、まだ体調の方はあまりよくなかった。
 直治は、まもなくお母さまに二千円もらって、お友達や文学の師匠にも会わなければならないと言って東京へ出掛けていって、それきり十日あまりも帰って来ないのだった。
 直治の部屋は二階の洋間で、そこに直治の洋服箪笥や机へ本箱などが運び込んであったが、まだ整理されていず、部屋に雑然と置かれていた。私は、部屋にある直治の夕顔日記と表紙に書かれたノートブックを開いて見た。それは麻薬中毒に苦しんでいた頃に書かれた手記のようであった。
 哲学的、文学的煩悶、苦悩、世間への呪詛、そして、結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。このように苦しんでも、ただ、自殺で終わるだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった、とも書かかれてあった。
 また、私宛の、借金の申し込みの手紙の下書きもあった。あれから、もう六年にもなる。直治は、薬屋への支払いに困って、しばしば私にお金をねだった。私は、里から私に付き添ってきたばあさやのお関さんと相談して、私の腕輪や首飾りやドレスを売ってお金を工面していた。
 お金は、弟の指示により、お関さんが京橋のカヤノアパートという所に住んでいる作家の上原二郎という方に届けていた。弟は、今度こそさっぱり麻薬とは手を切ると言いながら、その約束を守ったためしがなく、なんどもお金の無心が続いた。
 流石に私も心配になり、一度その上原さんの家を訪ねたのだ。たまたま、奥さんも子供さんも、いなくて上原さんは、出ましょう、と言って近くの地下にある飲み屋に私を連れていった。しばらく上原さんは黙ってコップ酒を飲み、私も二杯飲んだ。
 弟さんも、お酒を飲むといいんだが、私も昔麻薬中毒になったことがあるけど、あれはひとが薄気味わるがってね、アルコールだって同じようなもんだが、アルコールは案外ゆるすんだ、弟さんを酒飲みにしちゃいましょう、と上原さんは言った。
 話しもそこそこに、上原さんは、帰りましょうと言った。勘定は私が払った。タキシーを拾ってあげますから、お帰りなさい、と言って上原さんは階段を先に上がって行ったが、途中で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は唇を閉じたままそれを受けた。
 上原さんを別に好きではなかったが、その時から私にあの「ひめごと」が出来てしまったのだ。
 そして、ある日、夫からおこごとをいただいて淋しくなって、私には恋人があるの、とふとそう言った。夫は、知っています。細田でしょう、どうしても思い切ることが出来ないのですか、と言ったが、私は黙っていた。その問題はなにか気まずいことが起こるたびに私たち夫婦の間に持ち出されることになり、そして、ある夜、夫に、まさか、その、おなかの子は、と言われ、あまりにおそろしくて、がたがた震えてしまった。
 今思うと、私も夫も若かったのだ。恋も、愛も知らず、細田さまのようなお方の奥さまになれたらどんなに幸せでしょう、と周りにも言いふらし、平気で細田さまを好きだと公言していたので、しだいにへんにもつれて、わたしのお腹の赤ちゃんまで、夫の疑惑の対象になったりして、やがて私は付き添いのお関さんと一緒に里のお母さまのところに帰って、それから赤ちゃんが死んで生まれて、私は病気になって寝込んで、山木との間はそれきりになってしまったのだ。
 弟は、私が離婚になったことに責任を感じて、僕は死ぬよ、と言って泣きわめいた。薬屋の借りもおそろしいほどの金額になっていた。私は、直治に、上原さんと一緒にお酒を飲んで遊んだらどう、お酒代くらいなら都合がつけられるわ、と言うと、
早速、その夜、弟は私からお金をもらって上原さんのところに遊びに行った。
 私は、弟から薦められて上原さんの著書を借りて読むようになり、二人であれこれ上原さんの噂などをして、弟は毎晩のように上原さんのところに遊びに行き、そうしてだんだん上原さんの計画どおりに弟はアルコールの方へ転換していったようであった。それでも、まだ薬屋の借金は山ほど残っていたが、お母さまはとにかく少しずつでも返していくつもりでいらした。
 ああ、あれからもう六年にもなる。弟は、まだ途が見えない。いっそ、本職の不良になってしまったらどうだろう。そのほうがかえって弟も楽になるのではないか、と思ったりもする。


 第四章

 お手紙を書こうか、どうしようか、ずいぶん迷っていました。直治の姉でございます。あなたに、ご相談してみたい事があるのです。
 私たちは、いまのままでは、とても生きて行けそうにありませんので、弟の直治が一番尊敬しているあなたに、私のいつわらぬ気持を聞いていただき、お指図をお願いするつもりです。
 私には、いまの生活がたまらないのです。お母さまは、寝たきりですし、弟はご存じのように、心の大病人で、焼酎を飲み歩いています。でも、くるしいのは、こんな事ではありません。私はただ、私自身の生命がこんな日常生活のなかで、立ちつくしたままおのずから腐って行くのをありありと予感させられるのが、おそろしく、とてもたまらないのです。
 それで、私、あなたに、相談いたします。私は前から、あるお方に恋をしていて、私は将来、そのお方の愛人として暮らすつもりだという事を、お母さまや弟にはっきり宣言したいのです。そのお方というのは、あなたもたしかご存じの筈で、お名前のイニシャルは、M・Cでございます。
 その方には奥さまもお子さまもございます。その奥さまの事を考えると、自分をおそろしい女だと思います。でも、いまの生活はそれ以上におそろしいもののような気がして、その方に頼ることを止せないのです。鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧く、私は、私の恋をしとげたいと思います。
 けれども、かんじんのM・Cのほうで、私をどう思っていらっしゃるか、なんというか、私は、いわば押しかけ愛人とでもいおうかしら、そんなものですから、それで、あの方にあなたきいてみて下さい。
 六年前のある日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はそれをいままで一度も見失ったことはございませんでした。どうぞ、あのお方に聞いてみて下さい、あのお方は、ほんとに自分をどう思っていらっしゃったのでしょう。雨後の空の虹みたいに思っていて、もうとっくに消えてしまったものと?
 もし、そうなら私の虹を消してしまわなければなりません。けれども、私の生命をさきに消さなければ、私の胸の虹はきえそもこまざいません。
 ご返事を、祈っています。
上原二郎様(私のチェホフ、マイ、チェホフ。M・C)
 
 お返事がないので、もういちどお手紙差し上げます。こないだ差し上げたお手紙は
とてもずるい蛇のような奸策に満ちたものでしたので、見破っておしまいになったのでしょう。
 私がいまあなたに求めているのは、たんにパトロンというものではありません。そういうお話なら私にもありまして、この前も芸術院会員の大師匠の方のお話をいただいたのですが、お断りしたところです。
 桜の園のロパーヒンをあなたに求めているのではございません。ただ押しかけを引き受けて下さい。あなたとお逢いしたのは、六年前のことですが、一緒にお酒を飲んで、それからあなたは私に軽いイタズラをなさいました。その時は、すきでもきらいでも、なんでもなかったのですが、いつの頃からか、あなたのことが霧のように私の胸に滲みこんでいたのです。なんだかあれは私の運命を決定するほど重大なことだったような気がして、あなたがしたわしくて、これが恋かも知れぬと思ったら、とても心細くひとりめそめそ泣きました。私は作家のあなたに恋しているわけではありません。私は、あなたの赤ちゃんがほしいのです。
 私は、あなたとの結婚はできないものとあきらめています。だから、私は、おメカケでもかまわないんです。問題は、あなたの御返事だけです。私を、すきなのか、きらいなのか、それともなんともないのか、その御返事は、とてもおそろしいのですけれども、うかがわなければなりません。
 私には、常識ということが、わからないんです。すきな事が出来さえすれば、それはいい生活だと思います。私は、赤ちゃんを生みたいのです。それで、あなたに相談しているのです。御返事下さい。あなたのお気持ちを、はっきり、お知らせ下さい。
 こちらにいらっしゃいません?
M・C様

 毎日々々、外出もしないで御返事をお待ちしているのに、今日までおたよりがございませんでした。
 いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません?直治に頼むのもへんですから、あなたお一人で、そうして直治が東京へ行ってる留守にいらして下さい。直治がいるとあなたを直治にとられてしまうにきまってますから。
 あなたは、日本で一番の札つきの不良だと弟から聞いてます。私、不良が好きなの。それも札つきの不良が、すきなの。そうして私も札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生き方が、ないような気がするの。
 あなたは私と一緒に暮らして、毎日楽しくお仕事ができるでしょう。
 逢えばいいのです。もう御返事もなにもいりません。お逢いしとうございます。私の胸の中の虹は、お星さまのような、そんなお上品な美しいものではないのです。それは炎の虹です。胸が焼きこげるほどの思いなのです。
 本当に、こちらへ一度いらして下さい。いつでも、大丈夫です。私はどこへも行かず、いつもお待ちしております。もう一度お逢いしていやならハッキリ言って下さい。私のこの胸の炎はあなたが点火したのですから、あなたが消していって下さい。私ひとりの力ではとても消すことができないのです。
 私は、世間を信用していないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良の十字架にかかって死んでもいいと思っています。
 こいに理由はございません。もう一度おめにかかりたいのです。それだけなのです。そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。生まれてきてよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。
 はばむ道徳を、押しのけられませんか?
M・C(マイ、チェホフのイニシャルではないんです。私は作家にこいしているのではございません。マイ、チャイルド)


 第五章

 私は、ことしの夏ある男のひとに、わたしの胸のうちを書きしたため、岬の先端から飛び降りる気持で、投函したのに、いくら待ってもご返事がなかった。私は、叫んでも、何の手応えのないたそがれの秋の曠野に立たされているような、これまで味わったことのない悽愴の思いに襲われた。
 これが失恋というものであろうか。もうこの上は、なんとしても自分が上京して、上原さんにお目にかかろう、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとたん、お母さまの御様子がおかしくなった。高熱に続いて、咳も出て、村のお医者にもお薬をいただいたが、熱は一週間経っても治らなかった。お医者の診断では肺浸潤ということだったが、熱はしばらく続くが、安静にしていれば心配はいりませんと言われた。
 しかし、それからしばらくして和田の叔父さまのお取り計らいで三宅さまという老医者に診ていただいたところ、お母さまのご病気はなんと結核というこということがわかったのだ。私は、足もとが崩れていような思いをした。どれくらいもつのか伺ったが、老先生は、わからない、とにかくもう、手のつけようがない、とおしゃった。
 私は、お母さまに、たいした事ないらしいわ、きっと今に涼しくなったら、どんどんお丈夫になりますわ、と嘘を言った。私は、自分の嘘を信じようと思った。  
 私は、お母さまのお休みになっているお顔を見ながら、菊の咲く頃になれば、などと考えるうちに、うたた寝をして、夢をみたのだった。私は、森の中の湖のほとりを青年と一緒に歩いていて、湖のそのほとりに石のホテルがあった。ホテルの石の門には、HOTEL SWITZERLANDと刻まれていた。青年と一緒にその石の門をくぐり、前庭に入った。霧の庭には、アジサイに似た赤い大きな花が燃えるように咲いていた。私が青年に、お母さまはどうなさるのかしら、と尋ねると、青年は、あのお方は、お墓の下です、と答え、私は、あ、と小さく叫んだ。そうか、お母さまはもうお亡くなりになったのだ、と意識したら、言い知れぬさびしさに身震いして眼がさめた。
 目覚めると、すでに黄昏だった。雨が降っていた。お母さま、と呼んだ。お母さまは、今日は熱が九度五分も出たとおっしゃった。外は暗くなっていたので、電灯をつけ、食堂へ行こうとすると、眩しいから電灯はつけないで、こらからも、ずっとお座敷の灯はつけないでとおっしゃった。
 私には、それも不吉な感じがした。風は、夜なって強くなり、嵐になった。私は、お座敷の隣の間で、直治の部屋から借りてきたローザルクセンブルクの「経済学入門」を奇妙な興奮を覚えながら読んだ。この本と一緒にレニン選集やカウツキイの「社会革命」なども無断拝借してきたが、ローザルクセンブルクの本は、経済学として読むとまことにつまらない。経済学は人間というのはケチで、永遠にケチなものだという前提がなくては成り立たない学問で、ケチでない人には、まるで興味のない事だけれども、私は、この本を読んで、この本の著者が、何の躊躇もなく、片端から旧来の思想を破壊していくそのがむしゃらな勇気に奇妙な興奮を覚えるのだ。恋するひとのところへ涼しくさっと走り寄る人妻の姿さえ思い浮かぶ。破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、美しいものだ。したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命は起こさなければならなぬのだ。
 私は、十二年前の冬のことを思い出していた。あなたは、更科日記の少女なのね、とお友達は言った。私は、その日お友達から借りたレニンの本を読まずに返したのだ。ニコライ堂の見える橋の上だった。お友達は、本当は私をこわくなったのでしょう、と言った。こわかないわ、私、表紙の色がたまらなかったの、と言った。
 それきり、お友達とは逢わなかった。あれから十二年たったけど、私は、やっぱり更科日記から一歩も進んでなかった。革命も恋も知らなかった。世間のおとなたちは、この恋と革命を最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、私たちもそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは、世間もおとなも信用しなくなって、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事であり、あまりにいい事だから、それを青い葡萄だと嘘をついて教えいたに違いないと思うようになったのだ。人間は、恋と革命のために生まれてきたのだ。
 やがて十月になり、蒸し暑い日が続いた。そうしてある日、私は、お母さまのお手やお顔がむくんでいるのに気がついて、びっくりした。その日直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の指図を受けるために上京した。翌日の昼過ぎに、直治は、三宅さまの老先生と二人の看護婦さんをお連れして来た。老先生がお母さまを診てくださったが、病状はそうとう深刻なようだった。
 老先生は、看護婦さんを一人残して、また明日来るからと長岡のお宿に戻った。直治は、老先生をお見送りして、戻ってくると、今、明日かもわからねえと言いやがった、と言い、その眼からは涙があふれ出ていた。
 直治とこれからのことを考えなければならなかった。私は、直治に、これから叔父さまに頼らなければ、と言うと、直治は、まっぴらだ、いっそ乞食になった方がいいと言った。
 姉さんこそ、これから叔父さんによろしくおすがりするさ、と言われ、私には、行くところがあるの、と言った。縁談?、決まってるの、と訊く直治に、いいえ、革命家になるの、と私は言った。
 その時、看護婦さんが私を呼びに来た。お母さまのところに行くと、お母さまは蛇の夢を見たの、と言ったので、私はぎょっとした。お母さまは、お縁側の沓脱ぎ石の上に赤い縞のある女の蛇が、いるでしょう、と言った。立ち上がってお縁側に出て、ガラス戸ごしに見ると、たしかに沓脱ぎ石のところに蛇が長くのびていた。
 いませんわ、お母さま夢なんてあてになりませんわよ、とわざと大きな声で言うと蛇はだらだらと石から垂れて落ちて行った。
 私は、明くる日からお母さまの横にぴったり寄り添って編み物などをした。お母さまは穏やかだった。私は、ふと今までずいぶん世間知らずだったのね、と言うと、お母さまは、それではいまは世間を知っているの、とおっしゃった。私は、なぜか顔が真っ赤になった。世間は、わからない、わかっているひとなんか、ないんじゃないの、とおっしゃった。
 死んでいくひとは美しい。生きる残るという事。それはたいへん醜くて、血の匂いのする汚らしいことのような気もする。でも、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をなしとげるために世間と争って行こう。お母さまのいよいよ亡くなるという事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が消えて、なにか自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変わって行くような気分になった。
 その日のお昼過ぎ、和田の叔父さまと叔母が東京から車で駆けつけて下さった。お母さまは、叔父さまの前で、直治と私の方をそれぞれ指ささして、叔父さまに顔をむけて両方の手を合わせた。叔父さまは、ああ、わかりましたよ、わかりましたよ、とおっしゃった。お母さまは安心なさったように手をお布団の中にそっと入れた。
 叔父さまと叔母さまは今夜どうしても帰らなければならない用事があるとかで、東京に戻られた。皆さんをお送りして、お座敷へ行くと、お母さまが、私だけに笑う親しげな笑い方をなさって、忙しかったでしょう、とおっしゃった。いいえ、と言い私は、にっこり笑った。それから三時間ばかりしてお母さまは亡くなったのだ。直治と私の二人だけに見送られて、日本で最後の貴婦人だった美しいお母さまが亡くなった。お母さまの死に顔は、ほとんど変わらず、呼吸だけが絶えた。頬が蝋のようにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含んでいるように見えて、生きているお母さまよりもなまめかしかった。
 

 第六章

 戦闘、開始。
 いつまでも悲しみに沈んではおられなかった。私には、是非とも戦いとらなければならないものがあった。私は、いま恋一つにすがらなければ、生きていけないのだ。
 直治は、出版業の資本金とか称してお母さまの宝石類を全部持ち出して、東京で飲み疲れると、また山荘に真っ蒼な顔して帰ってきて、寝る。
 ある時、ダンサアふうのひとを連れて来て、直治も少し間が悪そうにしていたので、私はすかさず、東京の友達のところに行って二晩か、三晩泊まって来ますから留守番お願いします、と言って、あのひとと逢うために上京した。
 あのひとのお宅は、荻窪駅の北口を降りて二十分くらいのところにある、と直治から聞いていた。木枯らしの吹く日だった。荻窪駅を降りた頃にはもうあたりが薄い暗くなっていた。往来のひとに番地を告げて方角を教えてもらって、探し歩いたが、なかなか見つからず、そのうち砂利道の石につまずいて、下駄の鼻緒が切れ、どうしようか立ちすくんでいたら、右手の二軒長屋の一軒に上原という表札が見えた。そこがあのひとのお宅だった。しかし、家の中は暗かった。
 私は、玄関の格子戸に倒れかかるようにして、ごめん下さいまし、と言い、上原さん、と小声で呟いた。中から女のひとの声がした。どちらさまでしょうか、と聞かれ、私は、あの、先生は、いらっしゃいませんか、と聞いた。女のひとは、はあ、と言い、それから荻窪の駅前の白石というおでんやさんに行けば、たいてい、行き先がおわかりになると思います、と教えて下さった。そのうえ私の下駄の鼻緒が切れているのに気づいて、奥様は、下駄の鼻緒を直す仕掛け紐を持って来てくださって、そのうえ電球が二つとも切れているからと言って蝋燭もわざわざ持ってきてくださったのだ。
 主人は、ゆうべも、おとといの晩も帰ってまいりませんの、私どもは、無一文の早寝です、とのんきそうにおっしゃった。奥さんの後ろには、十二、三歳のほっそりした娘さんが立っていた。
 この奥様とお子さんは、いつかは私を敵と思って憎むことがあるに違いない、そう思うと、一時わたしの恋もさめ果てたような気持になったけれども、私は、ありがとうございました、とばか丁寧なお辞儀をして、外へ出て、木枯らしに吹かれると、またふたたび恋の闘いの気持が燃え上がってきた。すきなのだから、恋しいのだから、こがれているのだからしょうがないのだ。私は、自分を少しもやましいとは思わぬ、人間は恋と革命のために生まれてきたのだから。
 それから、私は、白石というおでんやに行き、そこにはいらっしゃならくて、そこからさらに阿佐ヶ谷の柳やという小料理屋、そしてさらに西荻窪のチドリという飲み屋に行き、ようやくそこであのひとに会えたのだ。六畳くらいの部屋に十人くらのひとが大きな卓を囲んで、わあわあと飲み騒いでいた。
 その中にあのひとはいた。六年ぶりに見るあのかたは、まるで別人のようで一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅に坐っている感じであった。若いお嬢さんが、私に気づき、上原さんに目で知らせ、上原さんは私の方を向いて顎で上がれと合図した。私は、上原さんの隣に座らされたが、皆さんは私のことなど気にもかけず、コップに酒をなみなみついで、ギロチン、ギロチン、シュルシュル、と音頭をとりながら
乾杯を繰り返していた。
 しばらくして何人がが退席すると、また新たに新客が来て、乾杯がはじまる。上原さんは、一番若くて美しいお嬢さんとカチンとコップを合わせて、ぐっと酒をあおるように飲み、それから大きなくしゃみを続けてなさった。
 私が、お手洗いに立ったあとで、さっきの若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、おなかおすきになりません、と声をかけてきた。店の女将さんも、あっちにいたら一晩中なにも食べられないから、こっちでなにか食べたらいいと言って、うどんを頼んでくれて、それから私たちは、別室で女将さんとチエちゃんと、三人で火鉢にあたりながら、お酒を飲んだ。 
 お女将さんが、チエちゃんに、直さんは、と訊いた。知らないわ、直さんの番人じゃないし、と顔を赤くして言った。この頃、上原さんとなにかあったんじゃないの、と女将さん。ダンスの方が好きになったみたいよ、とチエちゃんが言うと、直さんも、お酒の上にまた女だから始末が悪いね、と女将さん。先生のお仕込みですもの、とチエちゃん。でも、直さんみたいな、坊ちゃんくずれは、たちが悪いよ。
 私は、そこで、私直治の姉なんです、と口をはさんだ。女将さんは驚いたが、チエちゃんは、お顔がよく似ていらっしゃいますから、入っていらした時、直さんかと、はっと思いましたよ、と言った。
 それで、あの、上原さんとは、前から、と女将さんが訊いた。ええ、六年前にお逢いして、と言って、うつむき涙が出そうになった。その時、おうどんが届いた。おうどんをすすりながら、私は、生きている侘しさの極限を味わってる気がしていた。
 それから、上原さんが部屋に入ってきて、女将に一万円が入った封筒を渡し、私の隣に坐った。女将さんが、これだけでごまかしちゃだめですよ、と言った。上原さんは、あとの支払いは、来年だと言った。
 私は、一万円あれば、電球はいくつ買えるのか、私なら一年らくに暮らせるのだ、などと考え、なにかこのひとたちは、間違っていいるような気がしたが、でも、このひとたちも、生きていかなければならないのだ、生きているということはなんというやりきれない大事業であることか、と思った。
 隣の部屋から紳士らしき人のしゃべる声が聞こえてきた。これからの東京で生活していくにはだね、コンチワァという軽薄きわまる挨拶が平気でできるようでなければ
とても駄目だね。いまの、われらに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引っぱるようなものだ。コンチワァと軽く言えなかったら、あとは、道は三つしかないんだ、一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ。
 上原さんが、泊まるところが、ねえんだろ、とひとりこどのように低い声で言った。私は自分の体を固くした。それから、ざこ寝ができるか、とまた呟く。女将さんが、無理でしょう、という。
 それなら、こんなところに来なければいいんだ、と言ったが、その時の言葉の雰囲気で、このひとは誰よりも私を愛していると、私は察した。
 福井さんに頼んでみよう、チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと途中が危険だな、じゃあ、あとで僕が送り届けるかるから、履き物をお勝手の方に置いておいてくれ、と女将さんに言った。
 深夜の道を上原さんと二人並んで歩いた。ずいぶんお酒召し上がりますのね、お酒おいしいの、と訊いたら、まずいよ、と上原さんは言った。
 お仕事は、と訊くと、駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様がないんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。それも、キザだね、と言った。
 上原さんは、私の肩を軽く抱いて、私の体は二重廻しの袖に包まれたような形になったが、そうしてぴったり寄りそってゆっくり歩いた。路傍の木の枝。葉の一枚もついていない枝。こんな枝が好き、これでもちゃんと生きているのでしょう、と私は言った。自然だけは衰弱せずか、とそう言い、また烈しいくしやみをいくつも続けてした。お風邪じゃございませんの、と訊くと、いや、これは僕の奇癖で、お酒の酔いが飽和点に達すると、たちまちこんな工合にくしやみが出るんです。酔いのバロメーターみたいねものだね、と言った。
 私の手紙、ごらんになって?
と訊いた。見た、と一言。ご返事は?
 僕は貴族がきらいなんだ。どこか鼻持ちならないところがある。あなたの弟さんの直さんも、時々ふっと、とても付き合い切れない小生意気なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍らをとおると子供のころ、鮒を釣ったことやめだかを掬ったことを思い出してたまらない気持になる。
 私たちは小川に沿った道を歩いていた。
 けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑している。
 私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の貧乏人。
 今でも、僕をすきなのかい。乱暴な口調であった。僕の赤ちゃんか欲しいのかい。
 私は答えなかった。突然、私はそのひとにキスされた。性欲のにおいのするキスであった。私はそれを受けながら涙を流した。屈辱の悔し涙に似ている涙であった。
 また、並んで歩いた。
 しくじった。惚れちゃった、とその人は言って、笑った。
 しくじった、とまた言い、行くところまで行くか、と言った。
 福井さんというのは画家で、五十過ぎの禿げた小柄なおじさんだった。電報ですよ、と上原さんは大声でむりやり家人をたたき起こし、頼む、とひとこと言って、さっと家の中へ入って、アトリエは寒いから二階を借りるぜ、と言って私を二階の座敷へ連れて行った。そして、押し入れから布団を出して敷いて、ここへ寝給え、僕は帰る。あしたの朝、迎えにきます、と言って、階段を転げ落ちるように降りて、それっきり、しんとなった。
 私は、電灯を消し、帯だけほどいて、着物のままお床へはいった。すぐうとうとまどろんだ。
 いつのまにか、あとひとが私の傍らに寝ていらして、私は一時間近く、必死の無言の抵抗をしたが、ふと可哀想になって放棄した。
 こうしなければ、ご安心できないのでしょう?まあ、そんなところだ、とあのひとは言った。
 あなた、お体を悪くしていらっしゃるんじゃない、喀血なさったでしょう、と私は訊いた。どうしてわかる、と訊かれ、お母さまのお亡くなりになる前と、おんなじ匂いがするんですもの、と私は言った。
 死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しく仕様がないんだよ。悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞こえている時、自分たちだけの幸福なんてある筈はないじゃないか。自分の幸福も栄光も、生きているうちにには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。みじめな人が多すぎるよ。キザかね。
 いいえ。
 恋だけだね、手紙に書いてあったとおりさ。
 そう。
 夜が明けた。私は、そのひとの寝顔をつくづくながめた。近く死ぬひとのような顔をしていた。尊い犠牲者の顔。私のひと。私の虹。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。
 この世にまたとないくらいに、とても、とても美しい顔に思われ、そのひとの髪を撫でながら、私のほうからキスをした。かなしい、かなしい恋の成就。
 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、ひがんでいたのさ、僕は百姓の子だから、と言った。
 私は、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞こえて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ、と言うと、上野さんは、ふふとお笑いになって、でも、もう、おそいなあ。黄昏だ。
 朝ですわ、と私は言った。
 弟の直治は、その朝自殺していた。


 第七章

 直治の遺書。

 姉さん。
 だめだ。さきに行くよ。
 僕は自分がなぜ生きていなければらないのか、それが全然わからないのです。
 生きていたい人だけは、生きるがよい。
 人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もあるはずです。
 僕は、僕という草は、この世の空気と陽の中に、生きにくいんです。生きていくのに、どこか一つ欠けているんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一杯だったのです。 
 僕は高等学校に入って、僕の育ってきた階級と全く違う階級の強くたくましい草の友人と、はじめて付き合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。それから、兵隊になって、やはりそこでも生きる最後の手段として阿片を用いました。
 僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。お酒くらいでは、とても駄目で、いつもくらくら目まいをしていなければならなかったんです。痲薬以外になかったんです。僕は、家を忘れ、父の血に反抗し、母の優しさを拒否し、姉に冷たくしなければならない。そうでなければ、あの民衆の部屋に入る入場券が得られないと思っていたんです。
 僕は下品になりました。けれども、それは六十パーセントくらいで、哀れな付け焼刃でした。へたな小細工で、僕はやはり、キザったらしく乙にすました気づまりの男でした。彼らは僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。そうして、あとの四十パーセントはほんものの下品となって、僕もあの上流サロンの鼻持ちならないお上品さには我慢できなくなっていましたが、お偉がたとか、お歴々とか称されている人たちも、僕のお行儀の悪さに呆れてすぐさま僕を放逐するでしょう。捨てた世界に帰ることもできず、民衆からは悪意に満ちたクソていねいな傍聴席を与えられているだけなのです。
 いつの世でも、僕のような生活力の弱い、欠陥のある草は、おのずから消滅するだけの運命なのかもしれませんが、しかし、僕にも、少しは言いぶんがあるのです。とても、僕には生きにくい、事情を感じているんです。
 人間は、みな、同じものだ。
 民衆の酒場から、蛆がわくように、いつのまにやら、もくもくと湧いて出てきたこの言葉が、全世界を覆い、世界を気まずものにしました。この言葉は、民主主義ともマルキシズムとも全然関係ないもので、酒場で醜男が美男子に向かって投げつけた、ただのイライラ、嫉妬です。思想でも、なんでもありゃしないんです。
 けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主主義ともマルキシズムとも全然無関係な言葉のはずなのに、いつのまにやらその政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいになってしまったのです。
 人間は、みな、同じものだ。
 なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、なんのプライドもなく、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえ」
 奴隷根性の復讐。
 この言葉は、実に猥せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、栄光はひきずりおろされる。いわゆる「世紀の不安」は、この不思議な一語から発していると僕は思っているんです。
 イヤな言葉だと思いながら、僕もこの言葉に脅迫せられ、、おびえ震えて、なにをしようとしてもてれくさく、絶えず不安で、身の置きどころがなく、いっそ酒や痲薬の目まいに依って、つかのまの落ちつきを得たくて、そうしてめちゃくちゃになりました。しかし、僕も死ぬにあたって、一言、抗議めいたことを言っておきたい。
 僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。
 姉さん。いったい僕たちに罪があるのでしょうか。貴族に生まれたのは、僕たちの罪でしょうか。ただ、その家に生まれただけに、僕たちは、永遠に、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きなければならない。
 僕は、もっと早く死ぬべきだった。しかし、ママの愛情、それを思うと死ねなかった。いまはもう、僕が死んでも、からだを悪くするほど悲しむひともいない。
 姉さん。僕は、死んだほうがいいんです。僕には、いわゆる生活能力がないんです。お金のことで、ひとと争うことも、ひとにたかることもできないのです。上原さんと遊んでも僕のぶんのお勘定はいつも僕が払っていました。上原さんは、それを貴族のケチくさいプライドだと言って、とてもいやがっていましたが、プライドなんてものではなく、ただひとのごちそうになるのが、そらおそろしいのです。まして、そのひとご自身の腕一本で得たお金で、ごちそうになるのは、つらくて、心苦しく、たまらないんです。
 そうして、ただ、自分の家からお金を持ち出して、ママやあなたを悲しませ、それでも出版業などを計画したのも、ただてれかくしのお体裁で、ちっとも本気ではなかったのです。本気でやってみたところで、ひとのごちそうにさえなれないような男が
金もうけなん、とても出来やしないのは、いくら僕が愚かでも、それくらいのことは気づいています。
 姉さん。この上、僕は、なぜ生きていかなければならえねのかね。僕は、死にます。
 姉さんは美しく、そうして賢明だから、僕は姉さんのことは、なにも心配していませぬ。きっと姉さんは、結婚なさって、子供が出来て、夫にたよって生き抜いていくのではないかと僕は思っているんです。
 姉さん。僕に、一つ、秘密があるんです。
 僕は、あるひとをこころから思っています。誰にも打ち明けず、このまま死んでおこうかと思っていましたが、姉さんだけには、名前は言えないけれど、そのひとのことを伝えておきたいと思いました。
 そのひとは、戦後新しいタッチの画を次々と発表して急に有名になったある中年の洋画家の奥さんです。
 僕は、ある夏の日の午後、その洋画家のところを訪ねて行って、洋画家は不在で、三十分ばかり待っても、帰って来そうもないので、帰ろうかと立ち上がって、それではおいとま致します、と言った時、そのひとも立ち上がって、僕の傍らに歩み寄って、なぜ?、と言い、少し小首をかしげて、しばらく僕の眼を見つづけていました。そのひとの目にはなんの邪心も、虚飾もなく、僕もその視線にみじんも含羞を感じないで、六十秒かそれ以上もそのひとの瞳をみつめて、それから微笑んで、でも、と言うと、そのひとは、すぐ帰りますわよ、とまじめな顔で言いました。
 またまいります。
 そう。
 それだけのことだったのですが、僕は、その日のその時の、その瞳に、苦しい恋をしちゃったのです。高貴とでも言ったらいいのか、ママはともかく僕の周囲の貴族には、あんな無警戒な「正直」な眼のできるひとはひとりもいなかったと断言できます。
 それから冬のある日の夕方、そのひとの横顔に心打たれたことがあります。その日、洋画家と朝から酒を飲んで、二人でいわゆる文化人たちをクソミソにけなしていたのですが、そのうち洋画家は横になり、大鼾をかいて眠り、僕も横になってうとうとしていたら、ふわと毛布がかかり、僕が薄目をあけて見たら、窓縁にお嬢さんを抱いて腰かけている奥さんの端正な横顔が、水色の遠い夕空をバックにして、鮮やかに輪郭が区切られて浮かんでいたのです。僕にそっと毛布をかけて下さったその何げない親切は、それは色気でもなく、欲でもなくヒュウマニティという言葉を使ったよいのではないかと思われるほとんど無意識になされた思いやりとして、静かな気配でただ遠くを眺めていらした。
 僕は、こいしくて、こがれて狂うような気持になり、涙があふれてきて、毛布を頭からかぶってしまいました。
 姉さん。僕がその洋画家のところへ遊びに行くようになったのは、その洋画家の作品のタッチと熱狂的なパッションに酔わされたせいでしたが、しばらく付き合ううちに、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興醒めしてしまいました。しかし、それと反比例するように奥さんの心情の美しくしさにひかれ、したわしく、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家に遊びにいくようになりました。
 その洋画家は、ただ大酒飲みで、遊び好きの巧妙な商人なのです。あの人のデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうなことを言ってますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身も意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。このひとの放埒には苦悩がない。むしろ、馬鹿遊びを自慢にしている。ほんものの快楽児。
 けれども、この洋画家の悪口を、並べたてても、姉さんにはなんの関係ないことで、また僕も死ぬこの段になって、長い付き合いを思うとなつかしく、憎い気はちっともないのです。あのひとだって淋しがりの、とてもいいところをたくさん持っているひとなのですからもう何も言いません。
 ただ、僕は姉さんに、僕がそのひとの奥さんにこがれて、うろうろして、つらかったという事だけを知っておいていただいたらいいのです。だから、姉さんはそれを知っても、誰かにそれを訴え、生前の弟の思いを遂げさせてやるとか、そんなお節介をなさる必要は絶対にないので、姉さんが、知って、こっそり、そうだったのか、と思ってくれたら、それでいいのです。
 僕は、あの半きちがいの、いやほとんど狂人といってもいい洋画家がおそろしく、僕の胸の火をほかへ向けようとして、手当たり次第、滅茶苦茶にいろんな女と遊び狂いました。なんとかして奥さんのまぼろしから離れ、忘れたかったんです。けれども、だめでした。僕は、結局ひとりの女しか恋ができないたちの男なんです。僕は、奥さんの他の女友達をいちどでも、美しいとか、いじらいとか感じたことがないんです。
 姉さん。
 死ぬ前に、たった一度だけ書かせて下さい。
 スガちゃん。その奥さんの名前です。
 僕がきのうちっとも好きでもないダンサアを連れて山荘へ来たのは、まさかさけ死のうと思って来たのではなかったのです。女に旅行をせがまれ、僕も東京での生活に疲れていたので、山荘で二、三日休むのも悪くないと考え、姉さんには少し工合が悪かったけど、とにかくここへ来てみたら、姉さんは東京のお友達のところへ出掛け、その時ふと、僕は死ぬなら今だ、と思ったのです。
 僕は昔からあの西方町の家で死にたいと思ってました。でもあの家は人手にわたり、いまではやはりこの山荘で死ぬしかないと思っていたのですが、でも、僕の自殺をさいしょに発見するのは姉さんで、その時姉さんがどんなに驚愕し、恐怖するだろうと思えば、姉さんと二人きりの夜に自殺するのは気が重く、できそうもなかったのです。
 それが、まあなんというチャンス。姉さんの代わりに、頗る鈍物のダンサアが僕の自殺の発見者になってくれる。
 昨夜、二人でお酒を飲み、女のひとを二階建ての洋間に寝かせ、僕はひとりママの亡くなったこの座敷で、このみじめな手記にとりかかりました。
 姉さん。
 僕には希望の地盤がないんです。さようなら。
 結局、僕の死は自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものではないんですから。
 それから、ひとつお願いがあります。ママのかたみの麻の着物を姉さんが、直治が来年の夏に着るように縫い直して下さったでしょう。あの着物を、僕の棺に入れて下さい。僕、着たかったんです。
 夜が明けてきました。永いこと苦労をおかけしました。
 さようなら。
 お酒の酔いはすっかり醒めて、僕は素面で死ぬんです。
 もういちど、さようなら。
 姉さん。
 僕は、貴族です。


 第八章

 ゆめ。
 皆が、私から離れて行く。直治のあと始末をして、それから一箇月間、私は冬の山荘にひとり住んでいた。
 そうして私は、あのひとにおそらくこれが最後の手紙を、水のような気持で、書いて差し上げた。

 どうやら、あなたも、私をお捨てになったようでございます。
 けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどおりに、赤ちゃんが出来たようでございますの。いまは、おなかの小さい命が、私の孤独の微笑のたねになっています。
 この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたはご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、女がよい子を生むためです。
 私には、はじめからあなたの人格だとか、責任とかをあてにする気持はありませんでした。私のひとすじの恋の冒険の成就だけが問題でした。
 私は勝ったと思っています。
 マリアが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリアに耀く誇りがあったなら、それは聖母子になるのでございます。
 私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。
 あなたも、お酒を飲んで、デカダン生活とやらをお続けになっていらっしゃるのでしょう。私は、それをやめよ、とは申しませぬ。それも、あなたの最後の闘争の形式なのでしょうから。いのちを捨てる気で悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえって御礼を言われるようになるかもしれません。
 犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
 革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。少なくとも私の身の廻りますにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。
 けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけたと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
 こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。
 あなたの人格のくだらなさをこの前もあるひとからさまざま承りましたが、でも、私にこんな強さを与え、私の胸に革命の虹をかけて下さったのはあなたです。生きる目標を与えて下さったのは、あなたです。
 あなたを誇りにしておりますし、また、生まれる子にも、あなたを誇りにさせようと思います。
 私生児と、その母。
 けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。
 どうか、あなたも、あなたの闘いをたたかい続けて下さいまし。
 革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい、尊い犠牲が必要のようでございます。世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
 小さい犠牲者がもうひとりいました。
 上原さん。
 私はもうあなたに何もおたのみする気はございませんが、その小さい犠牲者のために、ひとつだけお願いしたい事があるのです。
 それは、私の生まれた子を、たったいちどだけ、あなたの奥さまに抱かせていただきたいのです。そうして、その時、私にこう言わせていただきます。 
 これは、直治が、ある女のひとに内緒に生ませた子ですの、と。
 なぜ、そうしていただきたいのか、自分でもよくわかってもいませんが、でも、私は、どうしてもそうさせていただかなければならないのです。直治というあの小さな犠牲者のために、どうしても、そうさせていただかなければならないのです。
 ご不快でしょうか。ご不快でも、しのんでいただきます。これが、捨てられ、忘れかけられた女の唯一の幽かないやがらせと思し召し、ぜひお聞きいれのほどお願いします。
 M・C マイ、コメディアン。
 昭和二十二年二月七日


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