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太宰治「姥捨」(文春文庫『人間失格』所収)
作品についてあらすじ  

作品について
 妻初代との水上での心中未遂を描いたもの
 この作品は昭和13年10月に『新潮』に発表された。昭和12年3月の水上での妻初代との心中未遂事件を描いたものである。二人がなぜ心中をするに至ったか、その直接の原因は初代が太宰の義弟で、無二の親友でもあった小舘善四郎と「密通」を犯し、そのことが太宰にも知られ、夫婦の間に修復しがたい亀裂が生じたからであった。
 小舘善四郎は、太宰の姉きょうの夫の弟で、夫小舘貞一は青森県屈指の材木商であった。善四郎は当時帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に在学中であったが、昭和11年の10月10日頃、同大学の友人鰭崎潤宅近くの山林で手首を切り、鰭崎宅に駈け込み、阿佐ヶ谷の篠原病院に運ばれた。鰭崎からの連絡で、翌日には太宰も初代とともに善四郎の見舞いに駆けつけている。
 善四郎の妹礼子は当時、東京麻布の洋服仕立て屋に住み込みで見習奉公に来ていて、10月14日頃まで善四郎に付添い、看護をしていたが、その後、礼子に代わって初代が付き沿うことになった。「密通」は、この間に起こった。
 実は、太宰はこの時、精神病院に強制入院の身となっていた。初代が太宰のパビナール中毒を案じて、津島家の東京番頭北芳四郎と金木の大番頭中畑慶吉に相談、二人を伴い井伏鱒二宅を訪ね、太宰に入院するよう説得する役を井伏に懇願したのは、太宰と二人で善四郎の見舞いに出かけた翌日の10月12日のことで、井伏は説得役を承諾し、その夕刻船橋の太宰宅へ向かった。そして、翌13日の朝に、北芳四郎、中畑慶吉も船橋までやって来て、井伏鱒二とともにパビナール中毒中毒治療のために入院するよう説得。太宰は遂に入院を決意し、その日の夕刻に、タクシーで板橋の東京武蔵野病院に入院した。
   


小山初代

 心中未遂の原因は初代と義弟の「密通」であった
 この精神病院への半ば強制入院は、「人間失格」にも書かれている。太宰にとっては生涯忘れられぬ屈辱として深く胸の裡に刻まれることになった。特に、入院してまもなく閉鎖病棟に入れられ、しばらく面会謝絶となったことで、狂人でもないのに狂人扱いされ、まさに自分は「人間失格」の烙印を押されたのだ、との想いを抱かざるを得なかったのである。
 他方、初代は入院直後から何度か面会に訪れているが、面会はかなわず、やむなく小舘善四郎の見舞いに訪れ、しばらくそこへ通う間に「密通」に至った。二人は、このことは絶対に口外しないと約束し、10月25日頃、小舘善四郎は、篠原病院を退院し、周囲の勧めで帰省し、その後青森の浅虫温泉にある小舘家別荘に行き、卒業作品の制作に取り組んでいたという。
 太宰の面会謝絶が解かれたのは、11月8日で、その直後に長兄文治が見舞いに訪れている。退院したのは、11月12日でちょうどひと月の入院であった。入院前に住んでいた船橋の貸家は引き払われ、退院後は杉並区天沼の碧雲荘に移り住んだ。
 太宰は、11月25日から熱海に滞在し、「二十世紀旗手」の改稿に着手し、29日に脱稿した。そして同日の消印で浅虫温泉の小舘家別荘内の小舘善四郎に宛てて下記のような「HUMANLOST」の一節を葉書に認め、投函した。

「寝間の窓から、羅馬の燃上を凝視して、ネロは黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまってゐた。緑酒を棒持されてぼんやりしてゐた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思ふよ。/一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)/「傷心。」/川沿ひの路をのぼれば/赤き橋、また ゆきゆけば/人の 家かな。」
   


左側太宰治、小舘善四郎、山岸外史、壇一雄
(昭和10年湯河原)

 これを受け取った小舘善四郎は、二人だけの秘密を、初代が漏らしてしまったものと錯覚し、「秘め事にしてほしいと哀願した初代の事が無性に腹立たしく思われ」たと後に語っている。太宰のこの一文は、強制入院させられたことへの憤懣の想いを綴ったものであったわけだが・・。
 年が明け、昭和12年3月、小舘善四郎が、帝国美術学校に卒業作品を提出するために上京、提出後、友人と碧雲荘に立ち寄り、「初代の手料理で」酒盃を傾けた。前年11月29日消印の「一噛の歯には、一噛の歯を。」という一節を含む太宰治の葉書から、初代が極秘の約束を破ってすべてを告白してしまったと思い込んでいた小舘幸四郎は、手洗いで太宰治と一緒になった時、二人並んで用をたしながら、何か隠していられなくなって、初代との過失の真相を打ち明けた。話を聞いて、太宰治は、一瞬険しい表情になったが、「それは自然だ」といって平静を装って酒席の座に帰ったという。小舘らが帰ったあと、きびしく初代に詰問し遂に過失を告白させたようだ。

 太宰と初代は水上で心中未遂へ
 三月中旬には、小舘善四郎は帝国美術学校西洋画科を卒業。その直後、小舘善四郎は帰郷した。小舘善四郎が帰郷してからほどなくの三月二十日前後頃、太宰は初代とともに水上村谷川温泉におもむき、川久保屋に一泊。そこは、前年の夏に、原稿執筆と湯治を兼ねて十日ほど滞在したところで、その時は初代に迎えに来てもらって二人で帰ってきている。第三回の芥川賞の落選を知ったのもそこに滞在中のことであった。
 それから半年あまりが経っていた。一泊した次の日、その宿からそれほど遠くない谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図ったが、未遂に終わった。
   


心中を図ったとされる水上芦間の山付近

 二人で山を下りたあと、太宰は初代の叔父吉沢祐五郎に水上駅から電報を打ち、初代を迎えに来てもらうよう頼み、自分はひとり他の宿に移ったという。吉沢祐五郎によれば、「宿に着いた時既に太宰は他の宿に移っていて居らず、初代が一人部屋に居た。部屋の窓近くに山が迫っていて、その山裾を拭き払うような勢いで風、イヤ雲が流れ、恐ろしい感じがした。」「帰りの汽車では俺と初代が向い合わせに座ったが、初代は進行方向に向いて座っていたので、水上温泉はどんどん後に消えて行く。初代は、たった一度だけ、後をふり向いた。そして、ハンカチを眼に当てた。明らかに泣いていた。」という。「目にゴミが入ったのだ」と言い訳をした。寒い日だったという(吉沢みつ『青い猫』審美社、平成12年1月20日)。
 初代は帰京して、祐五郎とともに井伏鱒二宅を訪れた。井伏節代によれば、「その時の初代の憔悴した姿があまりにも哀れで、思わず手をとり合って玄関で一緒に泣いてしまった」という(相馬正一『太宰治と井伏鱒二』津軽書房、昭和47年2月20日)。その後初代は、碧雲荘には帰らず、しばらく井伏家に滞在したのち叔父の吉沢家に滞在したとみられ、太宰とは別居生活を続けた。

 修治と紅子のなれそめ、そして出奔
 初代と知り合って、かれこれ十年が過ぎていた。もともと芸妓紅子(小山初代 おやまはつよ)と知り合ったのは弘前高等学校時代に義太夫の稽古に通っていた時に、師匠から芸妓遊びを勧められたからであった。津島修治にとっては、それは作家になるための修行であるとともに、左翼的活動への関わりを長兄文治の眼からそらすカモフラージュでもあった。
 修治がよく通った店は、おもたかという料亭で、そこに紅子を呼んだ。紅子はその時はまだ半玉で十五歳だったが、まもなく芸妓となった。やがて紅子も修治に惚れ、そのために紅子はなじみ客の席をしくじったりもした。酔った勢いで、修治が大学に入ったら「俺と東京でいっしょに暮らさないか」と言った言葉を紅子は真に受け、その日を待った。
   


小料理屋おもたか

 昭和5年3月に、津島修治は弘前高等学校を卒業し、4月に東京帝国大学仏文科に入学。義弟小舘保(小舘善四郎の兄)に「あとで連絡する」との初代への言伝を残して上京した。瓢箪から駒のような、初代の足抜け話が現実となったのは、その頃修治が雑誌『座標』に連載していた「地主一代」の連載中止を長兄文治が求め、やむなく連載中止にいたったことで、修治がそれに強く反発したことが原因ではないかとみられている。
 足抜けの片棒を担いだのは舎弟の小舘保であった。保は修治に呼ばれておもたかで紅子と一緒に遊んだこともある。また、初代の母キミも、ひそかに大地主の坊ちゃんとの仲がうまくいくよう背中を押した。保は、修治の言いつけ通りに、その年の9月30日の晩、おもたかの裏木戸から初代を手引し、青森駅発の夜行列車で上野に向かった。野沢屋からの追手が上野駅で待ち伏せしている可能性があるから上野の一つ手前の赤羽で降りろ、との修治の指示どおり、二人は10月1日の午後2時に赤羽駅に無事降り立った。そして初代は、修治が借りた本所東駒形の大工のニ階に匿われた。
 ほどなく長兄文治に頼まれて青森中学時代に修治が下宿していた津島と遠縁にあたる蒲団屋の主人豊田太左衛門が、修治の下宿常磐館を訪ねてきた。豊田は、もし初代が来たら、すぐ連絡せよ、と言い残して帰った。それから、しばらくして野沢屋の若主人野沢謙三が常磐館に現れた。その時初代はたまたま常磐館にいて、初代の所在を津島家も知るところとなった。

 長兄文治から「覚書」を提示される
 長兄文治が常磐館にやってきたのは、11月9日である。文治は、初代との結婚は認めない、左翼活動からも手を引け、学業に専念しろ、と修治に迫ったが、修治は、いやだ、と強く抵抗した。開き直っている修治に、文治はなすすべがなかった。これ以上の問題を起こされてはかなわない。文治はいったん定宿の神田関根屋へ引き上げ、その晩修治を関根屋に呼びつけ、そこで、鉛筆で走り書きした「覚書」を見せた。そこには「小山初代と結婚するに際しては津島家との分家を条件とする。東京帝国大学卒業まで津島家は毎月百二十円を仕送りする」と書かれてあった。思いもかけぬ「分家」の文字に修治も動揺を隠せなかったが、いまさら結婚はしないとも言えず、長兄に求められて「覚書」に署名するしかなかった。
 見請けのためには、初代をいったん野沢家に連れ戻し、正式に落籍の手続きを進めなければならない。長兄文治に連れられて初代は、青森に戻った。そして、それから十日あまり後に、昭和5年11月19日付の正式な分家除籍の戸籍謄本が修治のところに届いた。それは、財産分与のない分家除籍であったから事実上の勘当でもあった。修治の、衝撃と落胆は大きかった。大学在学中の仕送りは保証されていたとはいえ、大学を卒業できる見込みもさらさらなく、今後数年で経済的にも独立しなければならないとすれば、いったいどうすればいいのか途方にくれる想いであった。

 分家・除籍と田部あつみとの出会い
 この分家除籍が、田部あつみ(本名シメ子)との七里ヶ浜心中の引き金となった可能性は高い。東京に出て来たその年の夏、修治はふらりと入った銀座の「ホリウッド」というカフェで田部あつみと知り合った。あつみがそこへ勤めはじめてほどなくのことである。修治はあつみにとってはじめは無口でとりつく島のない客であったが、やがてふとしたことで座がほぐれ、やがて絵画や芝居のなどの話で盛り上がるようになった。修治には、眼のまえにいる銀座のカフェの女が田舎の芸妓に比べてなんと垢抜けしていることか、と思わざるをえなかった。
  


田部あつみ

 それから修治は、あつみを目当てに足繁く店に通い、あつみとは一緒に芝居を見に行くほどの仲になった。しかし、さすがに店の飲み代も嵩み、しまいにはあつみに頼んで保証人になってもらい、ツケ払いで飲むようになった。その保証期限が11月20日であった。もはや、期限は過ぎていた。今頃、あつみが店の支配人から叱られていると思うと、切なかった。
 その間にも青森の実家では、初代との結婚の準備が着々と進められていた。11月24日には小山家に対して結納が届けられた。初代は花嫁道具の準備に余念がなかった。そして東京に発つ日も12月1日と決まった。しかし修治にはまだその知らせは届かず、結納の件も知らずにいた。
  


小山初代への結納覚書

 下宿で鬱々としいるところに、11月25日に小舘保や葛西信造ら仲間が常磐館に集まってきた。彼らと飲んでいるうちに、やけくそな気持ちになり、修治はみんなで銀座に繰り出そうと言い出した。もちろん、めざすは「ホリウッド」である。修治は、五人の仲間にそれぞれ役柄を決めてやった。小舘保は医学生、東京美術大生の葛西信造は画家、築地小劇場の照明係をしていた中村貞次郎は音楽家、常磐館の小泉静治は役者、そして自分はもちろん文士である。

 田部あつみと七里ヶ浜で心中へ
 五人は、二台のタクシーに分乗して銀座の「ホリウッド」に繰り出し、あつみを交えて盛り上がり、閉店まで騒いだ。帰りは、あつみも一緒にタクシーに乗り常磐館に向かったが、あつみと修治は本所で降り、その後二人は東駒形の大工の二階の部屋に泊まった。26日は浅草六区をさまよい、27日には、築地小劇場にいる中村貞次郎を訪ねている。そして、その晩二人は神田万平ホテルに宿泊、修治は初代宛の遺書をホテルの便箋にしたためている。
 「初代どのへ  お前の意地も立つ筈だ。自由の身になったのだ。万事は葛西、平岡に相談せよ」「遺作集は作らぬこと」
 葛西、平岡、とは初代の上京の手引きの片棒を担いでいた葛西信造、平岡敏男のことで、葛西は青森中学の同級生で東京美術学校に、平岡は弘前高校の一年先輩で東京帝国大学経済学部に在籍し、太宰とともに共産党のシンパ活動に関わっていた仲間である。
 そして、翌11月28日の夕刻に二人は、鎌倉七里ガ浜の小島崎(こゆるぎさき)にある畳岩という平たい大きな岩の上で催眠剤カルモチンを多量嚥下し、心中をはかったのである。修治は、一命をとりとめ、田部あつみは命を落とした。
  
    
昭和5年頃の小動崎・畳岩令和元年の小動崎・畳岩(周辺はテトラポットで囲われている)

 あつみはまもなく十八歳になるところだった。俳優を目指していた高面順三という男と二人で夢を追って広島から東京に出てきたが、男は夢に破れ、ノイローゼとなり、女は女給の身となった。そんな二人の間に突如帝大生の修治が現れ、ぽっかりあいたエアポケットに落ち込むように修治とあつみは死への道行きへと至ったのである。
 二人が発見されたのは、翌11月29日の朝8時頃で、同日の午前中には青森の津島家にもこの心中事件の報せは届いている。次兄英治が、29日午後午後1時半の青森発の急行で鎌倉に直行している。初代のところには、翌30日に、蒲団屋の豊田太左衛門が駆けつけている。 
 その時の様子を叔父の吉沢祐五郎が次のように述べている。
 〝江の島事件〟の報せが青森へ飛んだのは、初代の引き祝いも済み、謂わば、晴れて嫁ぐ、出発の準備に慌ただしい上京の前の日であった。(豊田のお父さが、頭に濡れ手拭を乗せ、心臓を押え乍ら息を切らして駈けつけ、「修ちやが、修ちやが……」と云った儘、へなへなと腰を抜かし、ハゲ頭からボヤボヤと湯気をたてて居た、とそれも後になれば笑い話になった)(吉沢祐「太宰治と初代」『太宰治研究』(太宰治全集別巻)筑摩書房)

 修治は一命をとりとめ、静養ののち初代と結婚へ
 初代は、心中と聞いて、泣きわめいたというが、かつて姉芸妓だったひとから「それでも、嫁にいくの?」と聞かれ、「もちろん行く」と答えた、という。鎌倉恵風園に収容された修治は、約十日間入院し、回復。その後自殺ほう助罪に問われたが、起訴猶予となった。
 退院後は、東京番頭の北芳四郎(きたほうしろう)の家に一時預けられたのち、12月上旬には次兄英治に伴われて、秋田にほど近い南津軽の碇ヶ関温泉の柴田旅館に行き、そこで母タネとともに静養した。そこに逗留している間に階下の奥の十畳間で、母タネ、豊田太左衛門立ち合いの許、小山初代(十九歳)と仮祝言をあげている。小山初代の入籍は、芸者を津島家に入れるわけにはいかないと主張する祖母イシの反対で、なされなかった。柴田屋には十日ほど滞在して、修治はその後単身上京、北芳四郎宅に身を寄せている。
 初代は仮祝言のあともしばらく青森に留まり、翌昭和6年1月11日には料亭玉屋で、初代の引取披露宴が開かれている。初代が、上京するのはそれからひと月ほど経った2月の初め頃で、中畑慶吉に伴われて上京、しばらく北芳四郎のところに滞在したあと、ようやく二人は同居生活をはじめた。

 はじめから打算のうえに成り立った結婚生活
 このように二人の結婚は、そのスタートから大きく躓いてしまっているのである。それははじめから打算の上に成り立っていた。太宰にとって、初代との結婚は長兄文治からの仕送りを受けるための金づるであった。二人が同居生活を始める前の1月27日に長兄文治と修治の間であらたな「覚書」が交わされ、修治は「小山初代と結婚生活を営む限り、昭和8年4月までその生活費として毎月百二十円」を受け取ることが出来ることになったのだ。初代にとっても分家されたとはいえ若い大地主の帝大生の息子と結婚できるのだから、事件に眼をつむることなどわけもなかった。こうしてままごとのような、狐と狸の馬鹿しあいのような結婚生活がはじまったのである。
  


結婚からしばらく経った頃の太宰と初代(中央は山岸外史)

 ただ、勝ち気で明るい性格の初代は、周りから後ろ指を刺されることがないよう太宰の良い妻となるよう励んだようだ。友人の山岸外史は、結婚五年後が過ぎた頃の太宰夫妻の様子を次のように語っている。

 「そのころ、ぼくは、しばしば、太宰のところにいつたが、初代さんが妻君らしく歓待してくれるありさまには、前身をおもわせるようなものは、すでになにもなかつた。「みな、ぼくの苦心なのだ。愛の結晶だ」と二十七歳の太宰が、そんな自慢をワザトラシクいつたことがある。たゞ、初代さんには艶かしいものがあつた。」(山岸外史「初代さんのこと」小山清編『太宰治研究』筑摩書房)

 初代の叔父と弟、そして母キミ
 初代の叔父吉沢祐五郎も、東京にいて太宰夫妻は吉沢家によく遊びにいくようになった。祐五郎は初代の母キミの一番下の弟で、太宰とは三つしか歳が違わなかった。キミの夫小山藤一郎は弘前藩の士族の出だったが、初代が十歳の時に家族を捨て行方がわからなくなっていた。キミは着物の仕立てで生計を立て、その後芸者置屋の野沢家に初代とともに住み込み、初代はそこで育ち、芸妓となったが、若い頃は吉沢祐五郎も近くに住んでいてお転婆の初代は祐五郎の遊び相手であり、喧嘩相手でもあった、という。
 長じてからは、腕のいい図案家(商業デザイナー)となった祐五郎は東京に出て活躍していた。彼の図案はお札や株券などにも使われている。太宰は祐五郎とはウマがあい、二人だけでよく飲みにも出かけた。
 祐五郎には妻子があった。妻は、青森の料亭玉屋の女将の娘で父親は青森の浜町では通人と知られた呉服商の斎藤常次郎である。玉屋は野沢屋が経営していた料亭で女将玉子は、斎藤常次郎の愛妾であったが、芸妓時代にその美貌をうたわれ、女将となってからは無欲で人格者として芸妓に慕われた。後に吉沢の妻となる娘は母玉子から長唄を習い、その後師匠について名取となった。その師匠が若山富三郎、勝新太郎の父親であったという。また、祐五郎の娘洋子は、美人で艶っぽい女性で、杉山寧画伯の代表作「エウロペ」のモデルはこの洋子である。
 
    
料亭「玉屋」 杉山寧画「エウロペ」

 また初代の下には弟誠一がいた。誠一は、習志野の野砲隊に入隊したが、そこを脱走して捕まった。厳罰に処せられるところだったが、太宰の長兄文治のはからいもあって、放免となり、築地の魚河岸問屋に預けられることになった。太宰と結婚して東京にいた初代は、弟が悪い仲間に染まらないようよく弟を家に呼んで夕食をともにした。誠一も、新鮮な魚が手に入ったと言ってよく顔を出し、太宰も誠一の面倒をよくみていたようだ。しかし、誠一はこの水上事件の前には再び郷里に戻っていた。太宰が、誠一の職探しのことを心配して、初代の母キミに宛てた太宰の手紙が残されている。
   


初代の母キミ宛の太宰の手紙(一部)

  長いが、下記に引用する。
 拝啓
 ながいこと御ぶさた申してゐます、相すみません。誠一のことでは さぞ御心配なさいましたでせう。御察しいたします。
 たいてい今迄のことは叔父さんからお聞きになったことと存じます。私はなにも誠一のことで気を悪くしたりなどしてはゐませんから、御心配なさらぬやう。
 誠一も馬鹿ではありませんから、行く末のことは考へてゐることと思ひます。こうなって了つたものを、あとでとやかく言ったとてなんにも成りませんですから、此の上は、よく誠一の心を聞いて誠一の希望をとげさせてやるのがいいと考へます。
 誠一は、河岸で職を探してゐたやうですが、思はしくないやうです。こつちで長く方々へめいわくをかけるのもどうかと思はれます故、とにかく一度帰郷して母上とも面談して、将来のことをきめたらいいやうに存じます。いかがでせう。
 幸ひ、新富町の叔母さんが、来月の始めに帰青するやうでありますから、叔母さんにたのんで、一緒に連れて行ってもらったらどうでせう。
 河岸へも、もう用事がなくなったやうですから、今日、誠一を私のところへ、引取りました。河岸に職を捜しに行くやうでしたら、私のところは不便で、どうしても叔父さんのお世話にならねばいけませんが、もう河岸へ職を求めるのも、一時切りあげたのですから、私のところにゐても、差し支へないと思ひます。
 誠一のただいまの希望としては、青森の肴屋へ奉公することらしうございます。新富町のおばさんの話ですと、井上さんといふ人の所で、肴屋をひらいて、店のものがゐないので困ってゐるさうですが、誠一もそんな所へ奉公したいと言ってゐます。母上も、だから誠一をそんなところへでも奉公させたらどうですか。
 北海道の方へ、おいでになりたい旨、承りましたが、そんなにまでなさらないでも、青森でいましばらく御辛抱なされたらいかがです。こんどは誠一と二人暮らしですし、以前ほど淋しくはないと思ひます。御熟考してください。
 とにかく母上が誠一を青森へ帰すやうにしたいとお思ひなら、その旨、ハガキでもなんでもかまひませんから、至急御返事下さい。さうするとすぐ誠一を新富町の叔母さんにたのんで連れて行ってもらひますから。

 誠一の貯金ももう二、三日したら寿賀竹(魚河岸問屋―引用者註)から返してもらへることになつてゐますから、もらつたら、そつくり誠一にあづけてやるつもりであります。
 では、至急御返事待ってゐます。
 重ね重ねあまり御心配なさらぬよう。
 寒いですから、おからだを大切にして下さい。
               修治

 がまんできないほどの「感覚」とはなんだったのか
 初代との結婚生活は、けっして周りから祝福されていたわけでもないし、また当人同士も必ずしも心を許し合っていたわけでもない。だが、気がついてみればいつの間にか太宰の生活の周りをかためていたのは初代の親族たちであり、そして彼らと太宰の友人に囲まれ、幼妻の初代もいつしか太宰にとって欠かせぬ伴侶となっていた。そういう状況であるから、初代との離婚は、そんな簡単というわけにはいかなかった。初代との生活は、すでに太宰のからだの一部でもあったのである。己の身を無理矢理引きちぎるように、別離を敢行しなければならない。そう太宰は決心したのであろう。
 「ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんできぬのだ」
 がまんできないほどの「感覚」とはなんだったのだろうか。
 山岸外史はこう述べている。
 「かれの潔癖は(それは、当時として、当然、封建的モラルを含んでいたが)初代さんをハツキリ捨てたかったのだ。だが、その無邪気さに未練があったのだ。無邪気さの犯した罪は、その無智のゆえに許さなければならないという道徳をともなっていた。だが、考えてみると、感覚がたまらなかったのである。その夜の想像と追憶に、太宰は身を焼かれたのである。それは、愛であったか。嫉妬であったか。どうしても、太宰は、寛大になれなかった。男のプライドであった。口惜しさもあった。太宰は、こうして、この矛盾をわりきることは、情死するよりほかにないというそんなヒューマニズムにはいったのである。」(前掲書)
 山岸外史の言う「感覚」は、分かりやすい。初代の無邪気さが引き起こした「不貞」はこらえられても、「不貞」の生々しい現場を想像して身を焼かれる、つまりは理性ではこらえられても、感覚や感情ではどうにもならない、というごく一般的なとらえかたである。確かに、太宰にとってもはや自分の体の一部でもある初代と弟のように可愛がっていた義弟との肉体的交合を「感覚」的に受け入れるのは難しいことは理解できる。だが、なぜそれが情死へと結びつくのか。それは、太宰治だから、と言ってしまえばそれまでだが・・・。

 初代の「貞操観念」への太宰の不信
 太宰は、その「密通」事件のあとで、山岸外史に「あいつ、それを悪だと考えていないのだ。手がつけられない。」と言ったという。初代の「貞操」観念を、この時太宰はもはや信用していない。太宰が、初代の「貞操」観念への疑念を抱いたのはもうずいぶん前のことになる。『東京八景』に、「私は、この女を、無垢のままで救ったとばかり思っていたのである。Hの言うままを、勇者の如く単純に合点していたのである。友人達にも、私は、それを誇って語っていた。Hは、このように気象が強いから、僕の所へ来る迄は、守りとおす事が出来たのだと。目出度いとも、何とも、形容の言葉が無かった」と書いてあるが、初代が自分の所に来る前にすでに何人もの男の手に抱かれていたと知ったこの時、太宰は二十五歳であった。この水上事件の三年ほど前のことになる。無垢だとばかり思っていた女に見事に裏切られた、とHを悪者に仕立て上げているが、そもそもいくら別名「浜町女学校」と呼ばれたというほど芸事を重んじて、客と枕を重ねることはほとんどないともいわれた青森芸妓見番であっても、芸妓である女を生娘だと太宰が信じていたというのは、にわかに信じがたい。
 『東京八景』には、こうも書いている。「Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私はこの女の為に、本所区東駒形に一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体の関係は、そのとき迄いちども無かった。」なんだか、ヘンである。ヘンであると思っていたら、こんな証言があった。
「津島とカフェー太陽へあがる。痛飲。二人で七本。津島、例の凝った身ごしらへである。愉快になってのべつなくよたる。津島、若い妓紅子(はつよ)との恋を告白する。八月の未ある会で相知り、九月ある料亭で枕をかわし、それから今日にいたる二人の経緯。」(平岡敏男「若き日の太宰治」「信州白樺」昭和57年10月)とある。これは、太宰の弘前高等学校の一年先輩で、東大時代には太宰とともに左翼活動にも関わったことがあり、後に毎日新聞社の社長を務めた平岡敏男が、自らの日記(昭和3年11月26日付)から引用したものである。当時太宰は高等学校二年生、平岡は三年生であった。
   


弘高時代の太宰治と平岡敏夫

 津島修治は、先輩の前で見栄をはっただけなのであろうか。真相は分からないが、文面からは先輩がそれを聞いて、さほど驚いた気配が感じられない。やはり先輩の日記の方が真相に近いのではないかと思わざるをえない。

 がまんできないほどの「感覚」はいくつかの要因が重なっていた
 太宰の小説の中の主人公は、そのほとんどがどちらかといえば女に対して淡白であるように書かれている。だが、実際の作者津島修治は主に商売女が相手とはいえ、芸者遊びも遊郭通いも結構さかんであった。吉沢祐五郎や山岸外史とも遊郭に一緒に通った仲間である。もちろん当時の遊郭通いは、ごく普通の男たちの娯楽の一つであったので、なにもそれをもって太宰を〝好色〟扱いするつもりもはないが、少なくとも女に関して津島修治は必ずしも淡白ではなかった、といえるだろう。
 こうした遊びを通じて、商売女たちに対して親近感をいだいていた可能性はあるが、そのために却って太宰は、どこまでいっても初代の「貞操観念」についての疑念を払拭することができないでいたのだと思う。太宰のいう「感覚」とは、まず第一に初代の「貞操観念」に対して湧き上がってくる疑念・不信、そしてそこから生ずる怒りと絶望と投げやりの「感覚」である。この「不貞」をきっかけにその「感覚」は一挙に沸点に達したに違いない。
 加えて第ニには、「密通」の相手が、義弟の小舘善四郎であったことは、太宰にとってこれはたんなる「不貞」ではすまされないのである。相手が見も知らぬ男であるならば、それはたんに「不貞」として自分はこらえることができる。しかし弟のように可愛がっていた義弟との「不貞」は、もはやたんなる「不貞」ではありえない。太宰にとっては、それは自分の肉体が汚されるような屈辱と痛みと嘔吐の「感覚」を伴うものであったはずだ。
 さらに言うならば第三には、この「不貞」が太宰が強制入院となっている間に起こっているということだ。しかも、初代もその強制入院の片棒を担いでいたのである。ただでさえ、「人間失格」の烙印を押されたという深い心の傷を負っていた太宰のその心の傷に、この「不貞」は追い打ちをかけるように大量の塩を刷り込むようなものであった。身を焼かれるような激しい痛みの「感覚」に苛まれたことであろう。

 初代を「不貞」に追いやった責任の一端は自分にある
 「感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんできぬのだ」という嘉七の「感覚」を津島修治の立場で解釈するならおそらく上記のようになるだろう。ただ、その「不貞」の責をすべて初代に押し付けて、それですますというわけにはいかなかった。初代を「不貞」に追いやった責任の一端はどうみても自分にあったのだ。
 「あの女に、おれはずゐぶん、お世話になつた。それは、忘れてはならぬ。責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばはなければならぬ。あの女は、いいひとだ。それは、おれが知つてゐる。信じてゐる」という嘉七の言葉は、太宰の本音に近いものだと思う。
 「不貞」発覚のあと、責任を感じて、初代はかなり憔悴していた。「井伏鱒二の語るところによると、姦通事件が表面化して以来、初代は行き先も告げずにひとりでふらりと外出しては、踏切の傍でぼんやり電車を眺めていることがたびたびあったという。相手の画学生が年少者である以上、裏切り行為の責任をとるのは自分の方でなければならないと、初代は頑なに思い込んでしまっていたのであろう。極端に無口になり、食欲も減退し、他所目にも気の毒なくらい憔悴していたという。」(相馬正一著『評伝 太宰治」)との証言もある。

 結婚を迫った初代と小舘であったが・・・
 しかし、それから間もなく初代と小舘善四郎が二人そろって、太宰の前に現れ、過ちを詫びたうえで、自分たちを結婚させてほしい、と言ったという。これには、いくつかの証言がある。
 まず、山岸外史は、こう述べている。
「その事件のあとで、初代さんと医学生(画学生の間違い―引用者註)とは、膝をそろえて、太宰のまえにかしこまつて、告白した。ふたりを一緒にしてくれといつたものらしい。告白は美しいが、やはり、それは聴明な告白だけにかぎられている。眞情と謙虚なココロのある告白以外の告白は、醜くいものであつたのかも知れない。それは、告白に名をかりている通俗的な商取引である。太宰も、これには、タジタジしたのであろう。
 ぼくは、その話をふたりから聞いたとき、「君たちの告白は、グレツなる計算だヨ。君たちは、人間にほんとの愛情があるのかネ。」そう大きな声をだしたことがあるが、これは、ぼくに太宰へのひそかな愛情があつたからなのか、青年たちへの愛情があつたからなのか、それとも、ぼくみずからの倫理への愛情であつたのか、ぼくにもよくわからないことであつた。(山岸外史「初代さんのこと」小山清編『太宰治研究』筑摩書房)
 また、初代の叔父吉沢祐五郎の証言はこうだ。
「小館と初代の結婚を考え、太宰は小館の妹等と連絡、井伏氏をも煩わし、私も(あの、昭和五年八月にあった事件を回想、ひそかに勇気づけられて)度々太宰と会って善後策を講じた。然し、当時の社会因習下に(殊に太宰の姉が小館家長兄夫人であり)これは無理で、因襲打破はならず、結婚は実現されなかった。」(吉沢 祐「太宰治と初代」『太宰治研究(太宰治全集別巻)』筑摩書房)
 太宰も、『東京八景』で、次のように書いている。 
「私の愛情の表現は拙いから、Hも、また洋画家も、それに気が附いでくれなかったのである。相談を受けても、私には、どうする事も出来なかった。私は、誰にも傷をつけたく無いと思った。三人の中では、私が一番の年長者であった。私だけでも落ちついて、立派な指図をしたいと思ったのだが、やはり私は、あまりの事に顛倒し、狼狽し、おろおろしてしまって、かえってHたちに軽蔑されたくらいであった。何も出来なかった。そのうちに洋画家は、だんだん逃腰になった。私は、苦しい中でも、Hを不憫に思った。」
 太宰に、「不貞」がばれたあとで、二人はそれを取り繕うかのごとく、純愛を装い、太宰に自分たちを結婚させてほしい、と告白したが、親戚や親の反対で頓挫した。その企ての首謀者がどちらであったのかは、不明だが、おそらく小舘善四郎であったのではないか。しかも、小舘は周囲の反対に合うと、早々に逃げ腰になり、初代をたじろがせた。

 お互いの再出発のための「狂言心中」の企て
 「東京八景」では、こう続く、「Hは、もう、死ぬるつもりでいるらしかった。どうにも、やり切れなくなった時に、私も死ぬ事を考える。二人で一緒に死のう。神さまだって、ゆるしてくれる。私たちは、仲の良い兄妹のように、旅に出た。水上温泉。その夜、二人は山で自殺を行った。Hを死なせては、ならぬと思った。私は、その事に努力した。Hは、生きた。私も見事に失敗した。薬品を用いたのである。」
 初代に対して太宰がいだいていたのは「感覚」から来る激しい嫌悪感とそれとは裏腹の憐憫と未練であった。ここまで来るともはや別れるしかないと太宰は考えたが、自ら責任をとって死ぬつもりでいる初代を死なせてしまうのは、やりきれなかった。そこで、太宰は、一芝居打つ必要があると考えた。それが狂言心中である。お互いの再出発のためにも「仮の死」が必要だった。一度死んで、新たに生まれ変わり、そのうえで次の「人生劇場」の幕が開くのである。
 太宰の「水上心中」は、太宰の「年譜」にも書かれていて、大方の研究者はそれが小説にほぼ近いかたちで実行されたものだとみなしている。しかし、1980年代に、長篠康一郎氏は、その著『水上心中』において、小説「姥捨」に描かれた心中の顛末は、おそらく「創作」であろう、との説を主張している。実際に、長篠氏が、昭和12年3月20日前後の水上の谷川温泉周辺の「心中現場」とみられる場所を調べたところ、とても心中などできる環境条件ではなかったということである。

 長篠氏は、「姥捨」の水上心中に疑問を投げかける
 以下は、長篠康一郎著『水上心中』からの引用である。

 谷川温泉から山道を降りてくると、右側は谷川の渓谷、左側は谷川岳連峰の山麓で、ずっと杉林がつづいている。その谷川が、下流の大きな利根川と合流するあたりの左手附近を、地元では芦間(あしま)と称し、谷川温泉から下ってきて、山麓の突端を直角に左に折れると、水上町の町が眼下に展開する。ここまで降りてくれば、水上駅まで歩いて十五分ほどで行き着ける。
 つまり、芦間の山(特定の呼称はないようである)の尾根を境に、水上側と谷川側に分かれることになり、谷川側の山の側面を〝恋沢〟(こいざわ)と地元では呼んでいる。自殺や心中事件の発生するのは、この〝恋沢〟あたりに多いそうで、谷川温泉に滞在中の太宰治も幾つかそうした哀しい恋物語を聞かされていたかもしれない。
 太宰治の「姥捨」の場合は、この恋沢の反対側(水上側)が舞台のように読みとれるが、水上側は非常な急斜面なので、双方をうまくとり合わせて設定した舞台と考えたほうがよさそうである。また、この芦間の山には、泉などあるわけがなく、ずっと上流のほうに上杉家伝説の井戸があるだけなので、もし睡眠薬カルモチンを服用して自殺を図るなら、かなり大量の水を携行しなければ困難であろう。
 つぎに、昭和十二年三月に於ける芦間の山附近(湯原地区)の天候についてだが、湯原観測所の管内気象月報原簿、および水上尋常小学校の「校務日誌」(もと校長荒木貞義氏。群馬県利根郡水上町鹿野沢一七四-二在住の御好意による)によれば、このとしの三月から四月にかけて、相当量の降雪のあったことが記録されている。
 問題の三月下旬のみについて言えば、十九日~三十一日のあいだに晴天の日は僅かに四日間。雨天二日、降雪七日間であった。
 右の資料から、昭和十二年三月下旬~四月上旬における芦間附近の積雪量は、少なく見積っても水上側で四、五十センチ、恋沢側で七、八十センチ以上あったものと推定できよう。なお、谷川温泉の野天風呂のあたりは積雪一メートル以上におよび、野天風呂は無理であるようにも思われた。野天風呂に通えるようになるのは積雪の程度にもよるが、だいたい四月後半か五月以降と考えてよい。
   


冬の谷川渓谷野天風呂付近(昭和40年代)

 長篠氏は、さらに実際に昭和45年3月25日に現場に行き、体感温度を調べている。以下、引用を続ける。

 三月下旬の気候では、とうてい屋外での心中は不可能
 この日、三月二十五日は午前中は晴、午後から小雪となった。渓谷の故か気象の変化は驚くほど激しい。日中の気温一一・五度。午後六時には持参の寒暖計が二・五度に下がった。午後七時、〇・一度。七時三十分、マイナス一・五度。八時、マイナス二・五度。八時三十分、マイナス三・五度。懐炉を腹に巻き重装備で宿を抜け出す。戦争中の航空隊で着用していた上下つなぎの作業衣が、思わぬところで役立ったわけだ。
 三十分ほど山を下って、芦間の恋沢あたりに到着。太宰治が自殺を図ったとすれば、この附近の山中にある杉林の中でなければならない。しかし雪が深くて、とても杉林の上のほうまでは辿りつけそうもない。なにしろ片足すっぽり雪の中に埋ってしまうのだから、やむなく道端から少し離れた樹蔭にはいり、寒暖計を傍に置いて雪の中に横たわった。
 何分ほど経ったか、足の指先から全身が麻壊してくる感じだ。懐中電灯で寒暖計の目盛を読む。マイナス六・五度。このままいたら凍死だ。私の体では、この実験が到底無理だと判った。もしこのとき、睡眠薬カルモチンをのんでいたらどうなるか。太宰治の常用していた睡眠薬カルモチンは、五グラム乃至六グラム(五、六〇錠)服用したのであれば、少しぐらい揺り動かしてもなかなか目覚めない程度に熟睡するかも知れぬが、とくに危険視するほどのものではない。カルモチンは心臓そのものに影響することなく、ただ眠っているだけであるが、しかし急激な寒気とか、雨にうたれるかして外界の状況が変化した場合、体温の低下から余病を併発することもあり、発見が遅れれば往々にして死に至ることもあり得る。
 昭和十二年春三月下旬、太宰治と小山初代の二人が、カルモチンをのんで自殺を図ったという話は、物語としてはおもしろいけれども、現実の自殺未遂事件(カルモチンをのんで)は、実行不可能(体内の塩分が不足し、体温を奪われて凍死する)と私は思う。つまり、百パーセント生存はあり得なかったと確信する。

 以上が長篠氏の現地調査で判明した当時の環境条件である。加えて、長篠氏は現場付近の芦間の山は、尾根を境に水上側と谷川(恋沢)側にわかれ、鋭角で草原などもちろんあろう筈もない、と述べている。また泉のようなものはなく、谷川温泉に向って登ってゆくと、道端に井戸(憲政井戸-上彬憲政のりまさ)があったそうであるが、それもいまは、道路拡張工事で無くなってしまっている。しかも、嘉七とかず枝が水上駅から谷川温泉の宿に行くのに自動車で向かったと書かれているが、当時谷川地区では四月に入るまでは、積雪のために車はいっさい通れず、四月になって村民総出で除雪作業が行われて、ようやく車が入れるようになる、とのことであり、従って三月下旬にはまだ車は入れなかったわけで、もし宿へ行くとなれば足が埋もれるほどの深雪の中を1時間以上も歩いて行くほかはなかったはずである。衰弱した身体ではそれはおよそ不可能であったといえる。

 依然として流布している三月下旬水上心中未遂説
 こうした長篠氏の異論に対して、表立った反論・検証はなく、従前のような昭和12年3月「水上心中」説が依然として流布している。おそらく、それは直接の当事者である初代及びその日泊まったとされる川久保屋の老夫妻の証言が得られていないことから、二人が泊まったのが谷川温泉の川久保屋であるのか否か、また小説で描かれたような「心中」が現にあったのか否かを判断することが困難であるため、とりあえず「あった」ことにしているのであろうと考えられる。長篠氏は、そこで川久保屋の老夫妻の消息を徹底調査したが、結局、氏名(佐藤亀太郎・ツネ)やその居所が判明したが、残念なことに二人はすでに亡くなられてしまっていた。
   


谷川温泉の元川久保屋の建物

 それにしても、「水上心中」は「七里ヶ浜心中」以上に、その実相をつまびらかにすることは困難をきわめる。心中の現場がもし谷川温泉であるならば、三月下旬という時期についてはかなり無理があるようだ。また、時期が三月下旬であるとすれば、心中の現場が戸外である可能性はほぼないといっていい。とするなら、おそらく戸外ではなく、例えば水上駅に近い水上温泉の宿の一室という可能性は充分ありうるだろう。太宰はこの「心中」を計画するにあたって、実行場所を半年前に初代も来たことのある谷川温泉の川久保屋に近い場所を望んだのではないかと考えられるが、しかし実際に来てみると夏とは違い、深い雪に覆われ、谷川温泉に行くこともままならず、寒さも厳しく、もし戸外で催眠剤を嚥下すれば、二人とも助からないことは明らかだった。

 三月下旬心中説をとるなら、水上温泉宿の部屋の中か?
 そこで、太宰はやむなく水上駅近くの水上温泉で宿をとり、その一室で「心中」を図ったのではないか。室内でならば、催眠剤を多量に嚥下したとしても、昏睡はしばらく続くが、死ぬことはまずない。おそらく先に目覚めたのは、少量の催眠剤を飲んだ初代の方だったのではないか。そして、目覚めたあとに初代は宿の者に怪しまれないよう、太宰が眠りこけている間、うまく応対し、「心中」がばれないよう取り繕ったのだろう。太宰が目覚めてから、二人は、顔を合わせているのが気まずく、太宰は宿を出て、駅に向かい初代の叔父さんに電報を打ち、水上に迎えに来てくれるよう頼んだあと、別の宿に向かった。その日遅く吉沢祐五郎が宿に駆けつけた。
 以上は、あくまでも憶測にすぎない。吉沢祐五郎は、太宰から電報で知らせを受けて水上に初代を迎えに行ったことは再婚した妻みつに語っているが、その宿が川久保屋であったかどうかは定かではない。もし、小説にある通り、初代が「川久保屋」にいたというなら、作品に書かれているように、太宰と初代は、心中現場で目覚めたあと、衰弱した体で水上温泉まで下って来なければならず、また、初代は自動車で「川久保屋」に戻ったというなら、自動車も通行可能でなければならないことになる。しかし、実際には、この時期の寒さはコートも来ていない二人が山を再び下って来られるような生易しいものではなく、また自動車も通行不可であったのだ。

 「姥捨」の心中未遂は、太宰の創作といってもよい
 そもそもこんな「水上心中」などなかったという説ももちろんあるだろう。確かに、長篠氏の現場検証をふまえれば、小説のような「心中事件」はありえないことはどうみても明らかだ。太宰は、初代の再出発、そしておのれの再出発のためにもこの「狂言心中」がどうしても必要だと考えていたのだと筆者は考えるが、水上に来て、屋外でそれを強行すれば二人とも間違いなく凍死する。それでは、初代を救うことは不可能だ。そこで、心中は思いとどまった可能性ももちろんある。
 初代の叔父の再婚相手である吉沢みつは、随筆家として太宰や初代のことにも触れているが、随筆集『青い猫』のなかで、こう書いている。「水上温泉に初代と心中に出掛けたが、思い止まり、そこで初代とはっきり別れる決心をし、初代を一人で宿を発たせるに忍びないので、初代の叔父である吉沢に電報を打ち迎えにきてもらった」(「血は何色」)
 吉沢みつは初代とは面識はないが、夫の吉沢から初代の話は聞いていたはずで、文中に出てくる「心中に出掛けたが、思い止まり」という表現から、夫の吉沢も彼女も、太宰は「心中を思い止まった」のだと考えていたのではないか、と推測することは可能である。
 とすれば、「姥捨」はまさに完全なる虚構であり、創作ということになる。ただ、はたしてそれで太宰の再出発への想いは叶えられるのであろうか。いよいよの時に「死」を考える太宰が、水上まで来て、何ごともなく帰ったのであろうか。それも、どうも不自然な気もするのである。「川久保屋」は諦め、水上駅に近い水上温泉の宿をとり、そこに宿泊、用意したカルモチンを宿で二人で嚥下した、と考える方が自然であろう。すなわち、実際は先に述べたような「水上温泉宿狂言心中」となった可能性が高いのだ。
 ただ、小説に仕立てるには、それでは少しも潔さがないし、身も蓋もない。そこは、小説家太宰治の腕の見せどころである。谷川温泉の山深い杉林の中で、太宰は自分が死んで、初代が生き残るように心中に見せかけた自殺を図るが、またしても運悪く、自分も生き残ってしまうという悲喜劇風の小説にうまく仕上げてみせたのであろう。
 おそらく上記のような可能性が最も高いと筆者は考えるが、もう一つとしては、実際に水上に行ったのは、4月下旬から5月の頃であったのではないかという可能性もないわけではない。そうすれば、ほぼ小説通りの環境条件であったろうから、小説と実際の乖離はそれほど大きくはないだろう。ただ初代が帰京して、井伏鱒二宅を訪れた際に夫人の井伏節代は、「その時の初代の憔悴した姿があまりにも哀れで、思わず手をとり合って玄関で一緒に泣いてしまった」という(*相馬正一『太宰治と井伏鱒二』津軽書房、昭和47年2月20日)証言があり、それが3月20日前後であった。これらの証言との整合性がとれないのである。そして、その日以降初代は井伏家に居候となり、太宰のいる碧雲荘には戻っていない。

 太宰は、「虚構の彷徨」を続ける「道化」
 また、3月24日には、太宰は、井伏鱒二宅を訪問。「記/爾今 初代のことは/小館善四郎に一任致し 私/当分郷里にて/静養いたします/右/津島修治印/井伏鱒二様/北芳四郎様」と記した覚書を、井伏鱒二宛提出しているのである。そして、翌25日には叔父吉沢宅に行き、初代を井伏家から引き取って預かってもらうことを頼み、承諾を得ている。こうした太宰の行動をみると、初代のことに対して、あきらかにどこか吹っ切れた様子が伺えるので、やはり小舘の告白からそれほど時を置かない3月20日前後に、二人は「死と復活」の儀式=狂言心中を行い、今後はそれぞれ別の道を歩むと考えるに至ったという可能性が高いのではないだろうか。
 いずれにしても、太宰の小説を、事実として鵜呑みにするのは危険である。彼は「虚構の彷徨」を続ける「道化」である。小説を「真実」だと信ずる読者やあたかも「真実」だと論ずる評論家たちを太宰は、道化を演じながらきっとほくそ笑んでいたに違いない。ただ、吉沢祐五郎は、おそらく初代から話を聞いていたはずなので、「事実」をほぼ知っていたのではないかと思われる。吉沢祐五郎が、太宰の死後に書いた一文の中に、どこか謎めいた表現がある。以下に、その箇所を引用する。
 
 存在はした一事(前後の事情を知る私は、敢てこれを些細な一事とみる。太宰も、その悲しさ故に水上行となったではないか)が歪曲と誇張をもって紙面に温存され、これを鵜呑にして虚構と実相を混同、徒に伝えて怪しまぬ者も過重の蔑視に遭い弁明の場を与えられぬことが己の身に及んだ時、始めてその思いを知るだろう。 
(吉沢祐「太宰治と初代」『太宰治研究(太宰治全集別巻)』筑摩書房 昭和31年6月)

 吉沢祐五郎をまじえ二人は離婚へ
 吉沢祐五郎とは、太宰が初代と分かれてからも、しばらく親交が続いた。かつて太宰のはじめての著書『晩年』の表紙の題字を書いたのは、吉沢祐五郎その人であった。太宰は、『晩年』の装幀を、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(武蔵野書房版 淀野隆三・佐藤正彰共訳)とそっくり同じにしてほしい、と出版元の砂子屋書房の浅見淵に頼んだ。その装幀は白一色で「晩年」の二文字があるだけのシンプルだがなかなか洒落たものだった。その題字を太宰は祐五郎に頼んだのだ。「晩年」の二文字を、祐五郎は「マッチ棒に墨をつけ一気に書いた」という。太宰は、その出来にとても満足していた。「吉沢 祐」というのは、商業デザイナーとしての吉沢祐五郎のペンネームである。彼も作品を創る側の人間であり、創作の秘密を知る人間でもあった。軽々しく、創作の楽屋落ちなど持ち出したりはしない人であった。
     


『晩年』初版本(吉沢祐の題字)

 結局、6月頃、吉沢祐五郎を交えて、太宰と初代は話し合い、二人は離縁することになった。初代は太宰から三十円の餞別を受け取って、青森に帰っていった。
 青森に帰った初代から、ほどなくお詫びとお礼の手紙が届いた。「不本意な別れ方ではあるが不始末の一切の責任が自分にあると言って詫び、いたらぬ自分を七年間もやさしくいたわってくれたことを感謝する内容の手紙だった」(相馬正一『評伝 太宰治』)ようだ。
 7月19日、太宰はその手紙に次のような返信を送っている。
「拝復、無事ついた由、カチャや誠一にわがまま言わず、やさしくつとめて居られることと思います。こんどのお手紙は、たいへんよい手紙でした。自分の心さえやさしかったら、きっとよいことがあります。これは信じなければいけません。私は、やさしくても、ちっともいいことはないけれども、それでも、まだまだ苦しみ足りないゆえを思い、とにかく努めて居ります。約束の本と時計、できるだけ早くお送りいたしましょう。蚊帳の中に机をひっぱりこんで仕事をして居ります。いろいろ世間の誤解の眼がうるさいだろうから、これで失敬する。
     修治」

 駆け足で走り抜けた初代と太宰の生涯
 初代は、旅館の板前をしている誠一と母キミが暮らす浅虫温泉の家にしばらく居たが、ほどなくして室蘭に行き、そこで九州から来たという太宰と似た体格の良い男と知り合った。その後、満州にわたり、そこから大連に行き、青島へ移った。昭和17年に一度帰国し、故郷の浅虫温泉にひと月ほど滞在した。その時に、小舘善四郎と一度会っている。初代は善四郎に早くいい人見つけて結婚しなさい、と言ったという。
    


初代(昭和17年)

 善四郎は、大学卒業後は地元の青森中学校の美術教師をしていたが、初代と再会してからほどない昭和18年6月に木村幸江と結婚し、青森中学を辞め、その後画家として活躍。「レモンの画家」とも呼ばれた。
 初代は、帰国している間に東京の井伏宅にも寄り、一週間ほど滞在している。その時初代は顔面神経痛を患っており、体調を心配した井伏夫人は、青島に戻るという初代に思いとどまるよう説得したが、結局軍属の中村清という男とともに再び青島へ渡っていった。そこでついに重い病気に罹り、昭和19年に青島で亡くなった。三十二歳の生涯であった。初代の遺骨は中村清の手によって日本に帰ってきた。吉沢祐五郎と母キミが、その遺骨を引き取り、母キミとともに故郷の浅虫に帰った。
 太宰は、その間に再婚し、娘も生まれ、職業作家としてそれなりの地位を築いていた。しかし、初代の遺骨が届いた時は、疎開していた甲府も罹災し、青森の金木に再疎開しようとしていた頃だった。井伏鱒二から、初代が亡くなったことを聞かされるのは、それからしばらく経ってからだった。それを聞いた太宰は、さっと顔色を変え、座を立った、という。
 山岸外史は、太宰が初代が病に伏したという報せを聞いて、見舞金を送っていたと書いている。
 「初代さんの肉体にも太宰とおなじような宿命があつたのかも知れない。だが、太宰は、病気中の初代さんにたいして何回か見舞金を迭つてやつたらしい。二回ほどは、ぼくも知つている。」(前掲)
 
   
整備される前の小山家の墓 整備された小山家の墓(右側「顕彰碑」)

 初代の遺骨はその後、弘前の禅林街にある清安寺の小山家の墓に埋葬された。墓はすでに無縁墓になっていて、墓石も傾いていたりしたが、太宰治生誕110周年にあたる2019年7月に、墓地の一角に「船橋太宰会」会長の手で小山初代の「顕彰碑」が建てられ、墓も整備された。
 なお、初代の死から四年後には、太宰は山崎富江という女性と入水心中で亡くなっている。三十九歳であった。二人とも駆け足でその生涯を精一杯走り抜けっていった。

  
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