作品について
妻初代との水上での心中未遂を描いたもの
この作品は昭和13年10月に『新潮』に発表された。昭和12年3月の水上での妻初代との心中未遂事件を描いたものである。二人がなぜ心中をするに至ったか、その直接の原因は初代が太宰の義弟で、無二の親友でもあった小舘善四郎と「密通」を犯し、そのことが太宰にも知られ、夫婦の間に修復しがたい亀裂が生じたからであった。 小舘善四郎は、太宰の姉きょうの夫の弟で、夫小舘貞一は青森県屈指の材木商であった。善四郎は当時帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に在学中であったが、昭和11年の10月10日頃、同大学の友人鰭崎潤宅近くの山林で手首を切り、鰭崎宅に駈け込み、阿佐ヶ谷の篠原病院に運ばれた。鰭崎からの連絡で、翌日には太宰も初代とともに善四郎の見舞いに駆けつけている。 善四郎の妹礼子は当時、東京麻布の洋服仕立て屋に住み込みで見習奉公に来ていて、10月14日頃まで善四郎に付添い、看護をしていたが、その後、礼子に代わって初代が付き沿うことになった。「密通」は、この間に起こった。 実は、太宰はこの時、精神病院に強制入院の身となっていた。初代が太宰のパビナール中毒を案じて、津島家の東京番頭北芳四郎と金木の大番頭中畑慶吉に相談、二人を伴い井伏鱒二宅を訪ね、太宰に入院するよう説得する役を井伏に懇願したのは、太宰と二人で善四郎の見舞いに出かけた翌日の10月12日のことで、井伏は説得役を承諾し、その夕刻船橋の太宰宅へ向かった。そして、翌13日の朝に、北芳四郎、中畑慶吉も船橋までやって来て、井伏鱒二とともにパビナール中毒中毒治療のために入院するよう説得。太宰は遂に入院を決意し、その日の夕刻に、タクシーで板橋の東京武蔵野病院に入院した。
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