あらすじ
いいの、あたしは、きちんと仕末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。 夫の嘉七は、妻のかず枝のその言葉を聞いて、「おまえの覚悟は私にはわかっている。ひとりで死んでいくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。」と言い、「おまえがそんな気でいるのを知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない」ととり繕ってみせるが、嘉七も、ふと死にたくなった。 「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる」 あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。 二人は、生活費の残りを持ち、身の回りのものを抱えて、質屋に寄った。嘉七が、外で待っていると、しばらくしてかず枝が、成功よ、大成功、とはしゃいで戻ってきた。十五円も貸しやがった。ばかねえ。 嘉七は、この女は死なぬ、死なせては、いけないひとだ、と思う。死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈だ、それだけでいい。 二人は、それから新宿に出て、薬屋で、催眠剤の大箱をもとめ、そのあと三越の薬品部でも何箱か買い、他にかず枝は白足袋を、嘉七は外国製煙草を買い、そのあとタクシーで浅草に出て、映画を観た。 映画を観て、かず枝はつまらぬギャグに笑い興じていた。映画を観て幸福になれるつつましい、こんないい女を、ころしてはけない、こんなひとが死ぬなんて、間違いだ、と嘉七は思い、死ぬの、よさないか、と言う。ええ、どうぞ。映画を見続けながらかず枝は、あたし、ひとりで死ぬつもりなんですから、と言う。 映画館を出た時には日が暮れていた。それから寿司を食べたあと漫才館に入った。漫才館は混んでいて、背の低いかず枝は客にもまれなが背伸びしていた。嘉七は、薬品の入った重い風呂敷包みをかかえながら舞台の芸人を見ようと身をよじらせている。そのかず枝を目で追い、ちらと二人の視線があったりした。 この女には、おれはずいぶん世話になった。責任は、みんなおれにあるのだ。世の中のひとがどんなにあの人を指弾しても、おれはあの人をかばわなければならぬ。 しかし、こんどのことは、おれは平気ではいられぬ。たまらないのだ。 ゆるせ。これはおれの最後のエゴイズム だ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。 漫才館を出て、二人は水上に向かった。その前夏に水上の谷川温泉に来ていた。苦しい一夏ではあったが、苦し過ぎて、今では絵葉書のような甘味な思い出にさえなっていた。 かず枝は、その宿の老妻に気に入られていた。老妻のために甘栗を買っていかなくちゃ、とかず枝は急に生き生きとしてきた。 その宿はほとんど素人下宿のようなところで、部屋も三つしかなく、風呂もなく、隣の大きな旅館に貰い湯に行くか、下の谷川の川原の野天風呂に入らなければならなかった。老夫婦ふたりきりでやっているので、たまに三つの部屋がふさがることもあって、そんな時は夫婦はてんてこ舞いで、かず枝が台所の手伝いにたったりしたこともあった。お膳も、筋子や納豆が出たりして、宿屋の料理ではなかったが、嘉七には居心地が良かった。 上野駅で、かず枝は雑誌を買い、嘉七はウイスキーの小瓶を買い、新潟行、十時半の汽車に乗り込んだ。向かい合つて坐ると、かず枝は、あたし、こんな格好して、おばさん変に思わないかしら、と言うので、嘉七は、浅草に映画を見にいつて、その帰りに主人が酔っぱらって、水上のおばさんのところへ行こうってきかないから、そのまま来ましたといえばいい、と言った。それも、そうね、とけろっとしている。 かず枝は、雑誌を読み始める。嘉七は、ウイスキーの小瓶をあけた。しばらくしてウイスキーの酔いもあって嘉七は能弁になってきた。 なにも、私は、人がよくて女にだまされ、女をあきらめきれず、女に引きずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱い人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ、おれは俺自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にもいけないところがたくさんあったのだ。ひとに頼り過ぎた。ひとのちからを過信した。なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、わら一本それにすがって生きて来たのだ。ほんの少しの重さでもその藁が切れそうで、私は一生懸命だったのに。 私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれどもそれを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いやおまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男はくるしい、くるしいと言ったって、ポオズだ、身振りだと、軽く見ている。 いや、いいんだ。おまえを非難しているのじゃないのです。おまえは、いいひとだ。いつでもおまえは、素直だった。言葉のままに信じたひとだ。おまえを非難しようとは思わない。むりもないのだ。私は、つまり下手だったのさ。 かず枝は、一瞬得意になり、わかりました。もう、いいのよ。ほかのひとに聞こえたら、たいへんじゃないの、と言った。 なんにも、わかってないんだなあ。おまえには、私がよっぽどばかに見えているんだね。私は、いま自分でいい子になろうとしている、そんな気持がこころのどこかわの片隅にひそんでいるのではないかと苦しんでいるんだよ。 かず枝は、もうなにも聞いていなかった。それでも、嘉七は独り言のように語り続けた。 冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は私をなんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚れやの、ぜいたくやの、女たらしの、そのほか、まだまだたくさんの悪い名前をもらっている。けれども、私は、だまっていた。一言の弁解もしなかった。私には、私としての信念があったのだ。しかし、それを口に出して言ってはいけないことだった。それでは、なんにもならなくなるのだ。 私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは生きて行けない。私は、自ら悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほどキリストのやさしさの光が増す。私は、自身を滅亡する人種だと思っていた。滅亡するものの悪を強調してみせればみせるほど、次に生まれる健康の光のばねも、それだけ強くはね返って来る、それを信じていた。それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生まれる明朗に少しでも役に立てば、それで私は、死んでもいいと、実際そう思っていたのだ。私は、そんなばかなのだ。 私は、間違っていたのかもしれないね。やはり、どこかで思いあがっていたのかも知れないね。人生は芝居じゃないのだからね。おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。われひとと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。 窓は答える筈はなかった。嘉七は、立ってトイレに行き、扉を閉めてから、ひたと両手を合わせた。祈る姿であった。みじんも、ポオズではなかった。 水上に到着したのは、朝の4時だった。駅前のタクシーを叩き起こし、タクシーで山道を登った。朝が白み、野山が真っ白に雪に覆われているのわかった。道が細くなる手前で車を降り、二人は歩い雪道を登った。 宿の老夫婦は、驚き、慌てたが、よく来たねえと迎えてくれた。二人は二階の部屋に入り、かず枝がお風呂に入ってひと眠りしたいというので、宿のおやじに雪道を案内してもらって、谷川の野天風呂に行った。 濃い朝霧の流れる山腹を見ながら、嘉七か、あの辺りかな、と言うと雪が深くて登れないでしょう、とかず枝が言う。そうだな、もう少し下流がいいか、など死ぬ場所を語り合っていた。 宿に帰ると布団が敷かれ、足の方には炬燵が置かれていた。かず枝は布団に潜り込んで、雑誌を読み始め、嘉七は、酒を飲んだ。おい、もう一晩のばさないか、と嘉七が言うと、いいけど、お金足りなくなるかもしれないわよ、とかず枝が言う。 みれん。おれがぐずぐずしているのは、なんのことはない、この女のからだを欲しがっているせいではなかろうか。嘉七は、閉口した。生きて、ふたたびこの女と暮らす気はないのか、と考えて、借財、汚名、病苦、それから肉親のことなどが頭をめぐる。 ねえ、おまえは、やっぱり私の肉親に敗れたのだね、と嘉七が言うと、かず枝は、そうよ、あたしは、どうせ気に入られない嫁よ、と言う。 いや、でも、たしかにおまえにも、努力の足りないところがあった。 もう、いいわよ、理屈ばかり言ってるのね。だから、きらわれるのよ、とかず枝は雑誌をほうりだして言った。そうか、おまえは、おれを、きらいだったのだね。しつれいしたよ。 嘉七は、このごにおよんで嫉妬や憤怒や憎しみの感情に素直に自分をゆだねることができず、みれんだの、いい子だの、ほとけづらだの、道徳だの、借財だの、責任だの、お世話になっただの、アンチテーゼだの、歴史的義務だの、肉親だの、と言っている。ああ、いけない。嘉七は、棍棒で自分の頭を叩きつぶしてしまいたい思いがした。 ひと寝入りしてから、出発だ。決行、決行、そう言って嘉七も布団にもぐった。 眼がさめたのは、昼過ぎだった。寒いから酒を持ってきてくれと頼み、しばらく経って眠っているかず枝に、さあ、起きるんだ、出発だ、と声をかけた。嘉七は、なにも考えたくなかった。はやく死にたかった。 このへんの温泉をついでに見て回りたいから、とかず枝に言わせて、宿を立った。 二人は、歩いていくからいいと自動車を断り、山を下りていった。振り向くと、宿の老妻がずっと後ろを走って追いかけてきた。二人に追いつくと老妻は、嘉七に、これ、真綿だよ、うちで紡いだものだ、と言って渡した。ありがとう。嘉七は、一度行きかけたが、ふと戻って老妻に、おばさん、握手、と言って手を差し出した。おばさんの顔にはきまり悪さと恐怖の色まであらわれていた。 かず枝が、酔っているのよ、と言った。二人は老妻と別れ、だらだらと山を下っていった。かず枝は、できるだけ水上の駅に近い方がいいと言い、さらに下るとやがて水上のまちが眼下にみえた。 もはや、ゆうよはならん、ね。ええ、とかず枝がうなずいた。路の左側の杉林に、嘉七はゆっくりとはいっていった。かず枝も続いた。雪は、ほとんどなかった。そのまま嘉七は、かまわず進み、急な勾配を這ってのぼり、二人が坐れるほどの草原をやっと捜しあてた。近くに泉も流れていた。ここにしよう、と言うと、かず枝はハンケチを敷いて坐り、嘉七に笑われた。 風呂敷包みから薬品を取り出し、かず枝に、おまえは、これだけのめばいい、と渡すと、少ないのねえ、これだけで死ねるの、と聞く。はじめての人はそれだけで死ねます。私は、しじゅうのんでいるから、おまえの十倍はのまなければいけないのです。生きのこったらめもあてられんからなあ、と嘉七は言い、自分はもしかしたらかず枝に生き残らせて、そうして卑屈な復讐を遂げようとしているのではないか、まさかそんな通俗小説じみた、と思うと腹が立ってきて、やにわにてのひらから溢れほどの錠剤を泉の水でのんだ。かず枝も飲み、接吻して、二人ならんて寝ころんで、じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。 嘉七は、睡眠薬だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そして、そっと自分のからだを崖のふちまで移動させて、兵児帯をほどき、首にまきつけ、その端を木の幹にしばり、眠ると同時に崖から落ちて、そうしてくびれて死ねる、そんな仕掛けにしておいた。 眠った。ずるずると滑って落ちていくのを意識した。 寒い。眼をあいた。まっくらだ。月影がこぼれ落ちて、ここは?─おれは生き残った。兵児帯は首にからみついていた。腰が冷たかった。どうやら崖から垂直に落ちず、からだが横転して、崖のうえの窪地に落ち込んだらしい。そこには泉の水がたまっていて、背中から腰にかけて凍るほど冷たかった。 近くにかず枝の姿はなかった。四肢のなえた体に渾身のちからをふりしぼって、起き直り、這い回ってかず枝を探した。崖の下に黒い物体を認めた。小さい犬ころのようだつた。かず枝だ。 そろそろと崖を下りて近づく。脚をつかんでみると冷たかった。手のひらをかず枝の口に軽くあてて、呼吸を調べた。無かった。死にやがった。わがままなやつだ。憤怒でかっとなった。脈を調べた。かすかに脈搏があった。生きている。生きている。胸に手を入れると温かった。なあんだ。ばかなどやつ。生きてやがる。偉いぞ、偉いぞ。ずいぶん、いとしく思われた。あれ位の分量で、まさか死ねるわけがない。嘉七は、多少の幸福感をもってかず枝の傍らに仰向けに寝ころがった。それからまた嘉七は、わからなくなった。 二度目にめがさめたときにはかず枝は鼾をかいていた。嘉七は、かず枝の肩を揺さぶり、おい、二人とも生きちゃった、生きちゃったんだ、しっかりしろ、と叫んだが、かず枝は眠りこけていた。なぜか涙が出た。とがった針の梢に冷たい半月がかかっていた。 かず枝が、突然、おばさん、いたいよう、胸がいたいよう、と大きな声て叫びだした。ここは宿じゃないんだ、と嘉七が言ってもかず枝は、いたいよう、いたいようと叫びながら、からだをくるしげにくねらせて、そのうちころころと転がっていった。嘉七も、自分のからだをころがしてその後を追った。一本の杉の木にさえぎとめられかず枝は、その幹にまとわりついて、おばさん、寒いよう、火燵もって来てよう、と叫んでいた。近寄って月光に照らされたかず枝を見ると、もはや人の姿ではなかった。髪はほどけて、それに杉の朽葉がいっぱいついて、まるで獅子の髪、山姥の髪のように、荒く大きく乱れていた。 嘉七は、自分だけでもしっかりしなくてはとよろよろ立ち上がって、かず枝を抱きかかえ、杉林の奥の方へ引き返そうと努めた。つんのめり、這いあがり、ずり落ち、土を掻き掻き、少しずつかず枝のからだを引きずりあげた。何時間、そうしていただろうか。 ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、このひとのために一生、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。もう、いやだ、わかれよう。そのとき、はっきり決心がついた。 この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとからなんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。 夜明け近くなって来た。かず枝もだんだんおとなしくなってきた。かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を一つ一つたんねんに取ってやりながら、おれはこの女を愛してる、どうしていいか、わからないほど愛してる、そいつがおれの苦悩のはじまりなんだ、けれども、もう、いい、生きていくためになにかを犠牲にしなければならないのだ、と嘉七は思う。 あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。生きてゆくには、それより仕方がない。おれは、天才じゃない。気ちがいじゃない。 ひるすこし過ぎまで、かず枝は、たっぷり眠った。そのあいだに、嘉七は、よろめきながらも、自分の濡れた着物を脱いでかわかし、かず枝の下駄を捜しまわったり、薬品の空箱を埋めたり、かず枝の着物の泥をハンカチで拭きとったり、その他たくさんの仕事をした。 かず枝が目をさまし、嘉七から昨夜のことを聞かされ、とうさん、すみません、と言って、ぴょこんと頭をさげた。嘉七は、笑った。それから二人はこれからのことを相談し合った。 嘉七は、ふたり一緒に東京へかえることを主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に乗れない、と言い、結局、かず枝は、谷川温泉に自動車でかえり、嘉七が東京に先にかえって着換えの着物とお金を持ってまた迎えに来るまで、宿で静養している、という手筈がきまった。 嘉七の着物がかわいたので、嘉七は、水上のまちまで行き、せんべいとキャラメルとサイダーを買ってまた戻ってきて、かず枝と食べた。かず枝はサイダーを一口のんで吐いた。 暗くなるまで、ふたりでいた。かず枝がどうにか歩けるようなって、そこを出て、まちまで行きかず枝をタクシーに乗せて谷川にやってから、嘉七は、ひとりで東京に帰った。 あとは、かず枝の叔父に事情を打ち明けて一切をたのんだ。無口な叔父は、残念だなあ、といかにも残念そうにしていた。 叔父がかず枝を連れてかえって、叔父の家に引き取った。かず枝のやつ、宿の娘みたいに、夜寝るときは、亭主とおかみの間に布団ひかせて、のんびり寝ていた。おかしなやつだね、と言って、笑った。他にはなにも言わなかった。 この叔父はいいひとだった。嘉七がかず枝とわかれてからも、嘉七となんのこだわりもなく酒をのんで遊びまわった。それでも、時おり、かず枝も、かあいそうだね、と思い出したようにふっと言い、嘉七は、その都度、心弱く、困った。
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