作品について
その夜、夫は夜遅く泥酔して帰宅し、なにやら慌ただしく机の引き出しや本箱の引き出しを開け探しものをしている。ご飯はおすみですか、おむすびがございますよ、と声をかけると、や、ありがとう、坊やは、熱はどうです、と夫がたずねてきた。そんなことは珍しいことで、うれしいよりも、なんだかおそろしい予感で、背筋が寒くなった。 そこに、玄関を叩く音。夫の大谷を呼ぶ声。やって来たのは小料理屋を営む中年の夫婦で、夫と玄関先でもみ合いいなる。夫はナイフを手にしていたが、男が身を引いた隙きに、外へ飛び出していった。男が後を追おうとしたが、私は男を後ろから抱くようにして、引き留めた。それから夫婦に部屋の上がってもらい話を聞いた。 夫婦は夫に酒代の支払いを督促に来たのだ。夫はその店には三年ほど前から通うようになったらしい。はじめて来た時から年増の女連れであったそうだ。その女は秋ちゃんという名前で、彼女に言わせれば、夫の大谷は四国の殿様の分家の大谷男爵の次男だという。秋ちゃんの他にも女がいて、時たま店に一緒に来た女が支払ってくれることもあったが、とてもそれでは足りなかったという。終戦後、大谷は詩人としてにわかに世間から注目を浴び、それからはいつも新聞記者や雑誌記者を連れた来た。そして、大抵勘定の前に姿をくらましてしまうので、残った人に支払ってもらうこともあったようだが、大谷の酒量は半端なく、酒代のツケは貯まるばかりだった。そのうえ店で雇っていた二十前の娘にも手を出して結局その娘はこっそり親元へ帰されたらしい。 挙句の果てに、今夜は店の戸棚の引き出にしまってあった五千円を盗んで、逃げたのだというのだ。今夜という今夜はなんとしてもその金を返してもらわなければ、と夫婦は大谷のあとをつけて家までやったきたという。 とりあえず、私がなんとかするから警察沙汰にはしないでほしい、と頼んで夫婦を帰した。なにか当てがあるわけではなかった。翌日坊やを連れて、電車に乗って吉祥寺まで行き、井の頭公園の池の端のベンチに腰掛けた。夫といっても籍を入れていない。父親と二人で浅草の瓢箪池のほとりで屋台をしていた頃に、あの男が時々屋台に立ち寄るようになり、やがて子供ができ一緒に住むようになったのだ。ベンチから立ち上がり、ぶらぶら駅に引き返しまた電車に乗り、中野で降りた。気がついてみると昨日夫婦に教えてもらった小料理屋の前に立っていた。 女将さん一人だった。女将さんの顔を見るなり、お金は、今晩か、明日にでも必ず返します、という言葉が口からついて出た。それまでは私が人質になってここでお店の手伝いをさせてもらいますと言って、坊やを背中から下ろし、女将の返事を聞く間もなく、店の手伝いを始めた。昼頃仕入れから戻った亭主も、お金が戻ってくるならと了解してくれた。 その日はクリスマスだった。店は客で混んでいた。お客さんは、初めて見る手伝い女に興味を持ってくれ、中には、一目惚れしたなんて言ってくれる客もいた。でも、お前さんは子持ちだろう、と言われたその時、女将さんが坊やを抱いて出てきて、これは親戚からもらってきた子、私達にも跡継ぎができたのよ、言った。それを聞いて、亭主が、いろも出来、借金も出来、と呟いた。それで、夫が女将もいただいたのだと分かった。 9時過ぎに、三角帽子をかぶり、顔の上半分を隠し、黒の仮面を被った男と三十半ばの美人の女の客が来た。その男はあのどろぼうの夫だった。女が、ここのご主人に内々で話があるので呼んでくれ、と言うので、亭主のところに言って、大谷が来ました、大谷には私のことは黙っておいて欲しい、と頼むと、亭主は了解して、女のところに行った。 三十分ほどで亭主は戻ってきた。昨日の分は返していただきました、と言った。しかし、まだ残り二万円ほども有るというので、それならここで働かせ下さいと頼み、しばらく店で働くことになった。店にいれば夫にも会えるので、自分ながらこれは名案だと思った。夫は盗んだ五千円で昨夜はあの店に来ていた女が経営する京橋にあるバーで豪遊し、店で働いている女たちにも金を配ったらしい。マダムが不審に思って、夫に問いただしたところ、夫が洗いざらい話したので、マダムが警察沙汰になったらまずいと、夫とともに店まで来て金をたてかえてくれたのだ。 店で働きはじめてから、それまでとは生活が一変し浮き浮きした楽しいものになった。パーマをかけ、化粧もした。椿屋のさっちゃんが店での私の名前だ。夫も二日に一度くらいは店に来てくれる。夜遅く、二人でたのしく家路をたどることもある。 とっても私は幸福よ、というと、夫は女には幸福も不幸もない、という。そして男には、不幸だけがある、いつも恐怖と戦ってばかりいるのだ、と。分からない、私には。こんな生活を続けていければ、と思う。それから夫にあの女将をかすめたのでしょうと、問いただすと、悪びれもせず、昔ね、と言った。 それから、僕はね、キザのようですけど死にたくて、仕様が無いんです。生まれた時から、死ぬことばかりを考えていたんだ、と夫は言う。でも、こわい神様みたいのが、僕の死ぬのを引きとめるんです、と言う。この世の中のどこかに神がいるんでしょうね、と訊く。仕事がありますからね、と言うと、夫は仕事なんてなんでもない、と言い、おそろしいのはこの世の中のどこかに神がいるということなんです、いるいんでしょうね、と繰り返した。 神がいるかどうかなんて分からないけど、この頃店に出ていると、店に来る客も、道を歩いている人もみんななにかしら後ろ暗い罪を隠しているように思われて来る。神がいるなら出てきて欲しい。 お正月の末に、若い客の一人に汚された。その男は大谷の詩のファンだと言った。自分でも詩を書いていると言っていた。店で飲んだあと、雨が降るなかいったん店を出たが、終電に乗り遅れたと私の家まで訪ねて来た。玄関のところでもいいから朝まで泊まらせてくれと頼まれ、泊めた。翌朝、あっけなくその男に手に入れられた。 翌日、店に出ると、昼前だというのに夫が来ていた。昨夜店に来たが、私が帰ったあとだったので店に泊まったらしい。私もここに泊まろうかしら、と言うと、それもいい、と夫は言う。そして、新聞を読みながら、また僕の悪口を書いているよ、人非人なんて書いてある。僕は人非人じゃないよ、あの五千円だって、さっちゃnと坊やにいいお正月をさせたかったからなんです、と言う。人非人だっていいじゃないの、私たちは、生きていさえすればいいのよ、と私は言った。
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