湯川昭久とスゥザンは東京で暮らしていた。八月十二日の早朝、目が覚めてから彼は珍しく大阪へ行く重要な出張があるけど行きたくない、と言った。そして、オフィスに早く行って会議に出席して、その日の夕方に大阪に行かなくてよいように最善を尽くすからと言って出勤した。しかし、午前九時三十分過ぎに電話があって暗い声で、新幹線は予約で一杯だから、飛行機で大阪に行かなければならないと言った。そのあと一旦お昼に家に戻ってきて三人で昼食をとったあと、「一泊だけだから、明日は必ず戻ってくるよ。羽田から出発する前に電話する」と彼女と長女を抱きしめ、再びオフィスに戻った。それから一時間後、彼女はなぜかわからないが悪いことが起きそうな、嫌な気分になり、彼に電話をした。彼はまだオフィスにいて、「貴方の声が聞きたくて電話をしました」と言うと、彼は嬉しそうに返事をした。彼の最後の言葉は、「I love you dear, I have to go now, see you tomorrow!」だった。 その日の夕刻、テレビのニュースで墜落事故を知った。心配した友人が彼女を産院まで連れて行ってくれた。現地まで行くと言い張る彼女を担当医は、胎児にも負担が大きいと止めた。 ニュースを聞きつけて、AKIの母親タカコが家にやって来て、一緒に大声で泣いた。それからタカコから、AKIが出かけるときに身に着けていたものをすべて詳しく伝えるように言われ、彼女に伝えた。 彼女がAKIと呼ぶパートナー、故湯川昭久氏は、Dコンパートメントの33Dの座席だった。検視番号271番、歯牙の部分が二ケ所欠けていたぐらいで比較的損傷の少ない遺体であった。焼損部分や欠損もないが、歯型と指紋で身元が明確に確認されたのは八月十六日であった。 彼女はそれからちょうど一ケ月後の九月十六日に、次女を生んだのである。 この偶然ともいえる日時は、運命を超えた何かがそこに存在しているように思える。産後の回復途中の体で、それから二ケ月後の十一月十五日に、彼女はなぜ二人の子供を連れて、ロンドンに帰国しなければならなかったのか。なぜ、彼女たちの存在は消されたのか。 それを語るには、まず彼女との出会いから始めたい。 カーデイフ大学での講演 英国の四月は今期の授業が終了して春休みに入るという時期だ。二〇一九年の四月の最終講義にあたるその日、著者はクリスの招待を受け、ウェールズにあるカーディフ大学で学生を前に講演をすることになった。 少し肌寒い澄み渡った空の下、朝露がより一層際立たせた桜のピンク色の花々が咲き乱れる大きな公園を横切り、少し早めにレセプションルームに着いた。 それからクリスの研究室に向かった。研究室にはクリスがいて、もうひとりの講演者であるスゥザンを待っていた。著者も初対面であるが、クリスもSNSではつながっていたものの実際に会うのは初めてだという。 ドアが開き、ロングヘアーをなびかせた小柄で細身の女性を見た瞬間、ああ、この人のパートナーだった故湯川昭久氏が今そこに一緒に立っているのではないだろうかという錯覚に陥った。そして彼女の最初の一言は、「透子、会いたかった!ロンドンからここまで来る列車の中で、隣の席にAKIが一緒に乗っていたのよ!私、そう感じたのよ!」であった。 講演では、はじめに著者が話をした。 How to successfully re-investigate of the JL123 Crash (如何にしたら日航機123便墜落の再調査への道を切り開けるか) 上記のテーマのもとで、「世界中の若者がこの世界最大の単独機墜落事故に関心を持つことが重要である」ことを伝えるべく、用意したパワーポイントを使用し、学生たちを前に話をした。 彼らはすでにこの学期において、日航123便墜落を題材として、その墜落の概要や事政調査報告書の問題点を含めて、遺族の公開写真、古い新聞記事など十分な知識を得る学習をしていた。著者の本も参考文献として参照し、様々な資料も読み込んでいたのである。 その仕上げの最後の講義として彼らに著者が伝えることは、あの時代を生きてあのときの衝撃を体験した者にしかない「リアリティー」である。 実際に乗務員として殉職をした先輩のボイスレコーダーに残るアナウンスの声を聴かせながら、著者自身の持つ数々の疑問と、未来に向けて解明しなければならないこと、情報開示といった法的な手段について語った。特に『遺物は真相を語る』の分析結果を示し、航空機材が超高温で融解した物体に練り込まれていたベンゼン(いわゆるガソリンに含まれるベンゼン環)や硫黄といった検出物の説明をした。これらは航空機燃料や機材、積荷、山土(上野村の土)には、存在しない物質であるという事実を伝えた。ちなみに、これらが含まれているものは武器燃料である。この仮説については、それでは、なぜ、誰が、どのようにして持ち込んだのか、この事実をどうとらえるか、を考えてもらった。これによって世界中の国が抱える軍事問題や、その未来の有り様を考える、というのが彼らに投げかけた最大のメッセージであった。 続いてスゥザンが、自分の最愛のパートナーを失ったときの悲しみや二人の娘たちのこと、その後困難な状況の中で生き抜く辛さなどの経験談を彼らに語った。三十四年経ってもなお、失った人への想いは年々強くなっていく、癒されることのない時の経過とこれからについて、若い彼らに生きる意味を投げかけていた。 質疑応答の時間では、学生からは、「これからどのような方法でこの間題を解決に導くのでしょうか」、「こういう本を書くことで何か言論弾圧のようなものはありましたか」、「私たちにできることは」、「事故調査報告書の矛盾点について」などの質問があった。著者は持参した古い新聞記事や座席表を回覧してもらいながらありのままを答えた。 また、クリスからは英語版のウィキペディア(wikipedia)で、日航123便墜落概要を書いているページがあるが、クリスがその内容が客観性を欠いていて誤りがあると何度直しても、必ず事故原因は事故調査報告書の通りだ、と書き直す人がいると説明した。 スゥザンからは、こういう事実も含めて、海外のジャーナリストや英国の事故調査委員の前ですべて話をしてもらうように自分は望んでいる、と述べたうえで、日本人遺族で今もなお頑張って事故原因を追究している人は何人いるのか、透子の調査結果に反応した人は、という質問があった。 実際に、今のところ数名しかいないのが現実で、五二〇人もの被害者それぞれの遺族と四名の生存者がいるにもかかわらず、関心をもたない、無視をする、という状態とも言っていい。せめて五二〇人の死者のためにも、生存者も含めて、いかなる理由があろうとも、真相究明の先頭に立ってほしいです、と著者が話すと、スゥザンも学生たちも強く頷いた。 クリスからは、日本人だけに頼らずに外国人の犠牲者は二十二人もいるので、彼らの遺族に伝えること、外からの圧力を形成することも大変重要なポイントだと思う、という話があり、スゥザンも、そう思う、絶対に外国人遺族も知るべきです。これは広く世界に伝えなければならない。それが自分のミッションだと思います、と言った。 講演の終了後に研究室に掛けられたJA8119号機(一九八五年八月十二日、墜落一時間前に羽田空港で撮影)の写真をバックにして、「自分たちにできることをしていこう!」と気合をいれながら記念写真を撮った。そのあとで、「お母さんがJALのスチュワデスでした。」とにこやかな笑顔で近づいてくる学生がいた。父親は英国人なので自分はハーフだが、お母さんにこの話をしたら大変興味をもっていたそうである。ここウェールズにも不思議な縁がつながった、と感慨深かった。 講義が終って、大学近くのカフェの二階でクリスとスゥザンとともに三人でしばらく話をしたあと、再びクリスの研究室に戻ると、スゥザンは持参した遺品のシガレットケースをテーブルの上に取り出した。下の写真がそれである。朱色と白のシルクの布に大切に包まれたその遺品は御巣鷹の尾根で見つかったらしい。黒革仕立ての上質な煙草入れは、歪みも傷みもなく、持ち主の人となりを表すかのように、静かに佇む紳士のような様相を見せている。
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