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青山透子『日航123便 墜落の波紋―そして法廷へ
    (河出書房新社 2019.7.20刊)

 本書は、第一章 「外国人」遺族、第二章 隠蔽の法則、第三章 情報公開への道、という三つの章から構成されている。

| 第一章 | 第二章 | 第三章 |

第一章 「外国人」遺族

 本章では、日航機123便墜落によって遺族となった外国人について触れている。亡くなった520名のうち外国人は22名いた。そのほとんどとは音信不通となってしまったが、わずかにイギリスの二家族とは直接連絡がとれた。
 その二家族との橋渡しをしてくれたのが、英国のカーディフ大学教授のクリストファー・フッド氏(以下クリス)で、「日本学」という近代日本人の精神性についての研究者であった。そして、そのクリスのことを著者に教えてくれたのが、早稲田大学法学学術院教授の水島朝穂氏である。水島氏が二〇一一年に「貴女の本が外国の研究者に取り上げられているよ」とメールで知らせてくれたおかげで、クリスの著書に出会うことができた。著書の題名は「DEALING WITH DISASTER IN JAPAN−Responses JL123 crash」。表紙には、群馬県上野村村長だった故黒澤丈夫氏が毛筆で書いた文字を彫刻した「昇魂之碑」の写真が掲載されていた。
 確かに、その著書には二〇一〇年に出版した自分が出版した『天空の星たちへ』(マガジン社)からの引用が載っていた。遠く離れた英国の地でその本を読み、それを論文で取り上げてくれた研究者がいたとは全く想像もしていなかった。当時あまり注目を浴びていなかったこの本への関心を示してくれた研究者の存在は心底大きな励ましとなった、と著者は述べている。
 そしてこの研究者にはこの事件に対する強い思いと「魂」が入っているな、と直感した。というのは彼が265頁に及ぶその本の各頁の下に、小さな文字で2,3名ずつ亡くなった日航機123便の五二〇名全員の氏名と享年を記していたからだった。
 ただ、自身の博士号取得のための論文執筆の時期と重なり、調査・研究に忙殺されていたためその著者とはすぐに連絡をとれなかった。しかし二〇一八年に『日航123便墜落 遺物は真相を語る』を書きあげた瞬間、なぜかこの遺物調査の結果を彼に知らせなければならないという強い思いが沸々と自分の中で沸き上がってきたのだった。
 『遺物は真相を語る』には、事故直後の御巣鷹の尾根から採取した物質から、ベンゼンと硫黄という成分を検出した事実を書いた。この事実は相当深刻な結果を示したものだが、これに注目して取り上げてくれるのは意識の高い読者や弁護士、研究者などに限られ、軍事評論家もマスコミもほとんど目を向けなかった。特に自衛隊出身の軍事評論家や大学教授は客観性を欠き、過剰に否定した。これでは日本人として、また日本航空に在籍していた者としてなすべき義務を果たしていない。何もかもが「なかったこと」にされる危機感を覚えた著者は、せめてこの事実は海外も含めた遺族に広く伝えなければならないと決意を新たにしたのである、と述べている。
 そして著者は、この事件を解明するという決心をあらたにし、その英国の研究者に手紙と著書を送った。そこからファーストネームで呼び合う交流が始まったのだった。
 二人は二〇一九年の新年明けてすぐに東大赤門前で待ち合わせた。彼は熱烈な新幹線ファンでもあり、日本の鉄道を網羅してすべての都道府県にも行ったことがあるという。そして長年の「日本学」研究の成果を評価され、英国と日本の相互理解と交流を深めることに貢献したとして、在英日本大使の鶴岡公二氏から表彰を受けている。
 また、クリスは日本の政治家中曽根康弘についても関心をもち、直接インタビューもし、彼の功績について高く評価をしていたが、日航機123便の墜落の際に軽井沢でゴルフをしていて現場にも行っていないと知って、その対応のひどさにあきれ、それからは会っていないと言った。
 そして、首相としてのあるまじき行動を明確に非難するメディアもなく、それを安易に許すような日本人の精神性がよくわからなくなるとも言った。
 確かに、彼の言うように、原因を追究し続けている遺族の声を救い上げる機会も奪われてしまっている現状で、メディアがそれを無視する、という風潮は体制側の恣意的な隠蔽を加速しかねない。
 このままでは世界最大の単独機墜落事故の事故原因は不明のまま闇に葬り去られることになる。それではあまりにも無責任だ。現実と向き合わず、誰も責任を取らない日本人の精神性が問われ、隠蔽による封印は、世界中から疑問視されることになりかねない。加えて、ほんの一時的な期間だけ政治を任された人間によってゆがめられた未来は、将来の国民への侮辱である。研究者として何か対策を講じなければならないという思いを強くし、二人はそのミッションを果たすことを誓い合った。
 
 英国人遺族の存在
 クリスは、以前日本語コンテストで賞を得て日本航空の航空券を手にした際に世話になった縁で日本航空ロンドン・ヒースロー空港支店国際旅客サービス課勤務のキース・ヘインズ氏と親しくしていた。そのキース氏が、日航機123便の搭乗者で亡くなったキンブル・ジョナサン・マシューズ(享年二十八歳)の父親、ピーター・マシューズ氏の遺族世話係となっていたことから、著者は英国人遺族の存在を知ることになる。
 ピーターさんの息子キンブルさんが日航123便に搭乗したのは大阪で西口昌子(享年二十五歳)さんと結婚式を挙げるためであった。キンブルさんは英国に留学に来ていたピアニストの西口さんと音楽を通じて知り合い互いに惹かれあった。その後日本の彼女の家と英国を行き来しながら、彼女との婚約が調ったので、西口さんの実家のある大阪に二人で向かったのである。ピーターさん夫妻は後から行くことになっていた。
 幸せの絶頂にいた二人が遭遇した墜落事故は、英国と日本の双方の家族の幸せを奪った。
 御巣鷹の尾根の墓標には、二人の名前が並んでいる。
 クリスは、ピーターさんにカーディフ大学の自分のゼミでその経験と辛さの克服について遺族として語ってほしいとお願いし、学生たちの前で講演をしてもらった。
 英国人のみならず日本の留学生からも「日航123便墜落?あれって映画の『沈まぬ太陽』の中の作り話でしょう」と真面目な顔で言われたことに愕然としたからだ。若者の間でタイタニック号沈没の事故と日航123便の墜落はどちらも映画の作り物、というまちがいが常識と化してきたことに危機感を抱いたのである。
 また、クリスはピーター夫妻と一緒に御巣鷹の尾根に登ったことがある。下図がそのときの新聞記事である。その後ピーターさんの家族と西口さんの家族は、亡くなった二人のお墓を日本に建てて、節目には行き来してお参りをするなどの交流を深めていった。
 



 そのピーターさんにお会いしたいと著者は思い、新年にクリスに会って程なくの二〇一九年一月三十日にピーターさんにメールを送った。奥様から返信が来て、ピーターさんは昨年の一月三十日に八十三歳でお亡くなりになったと知らされた。その日は奇しくも一周忌の命日だったのだ。奥様は、まだ心の整理がつかないでいるとのことで、今後なにかあれば連絡するとの約束を交わしたのだった。
 
 もう一人の英国人の遺族
 英国人の遺族がもう一人いるとクリスは著者に伝えてくれた。
 湯川昭久という日本人男性の事実婚の相手だった女性スゥザンである。その存在についてはついこの間までは全く誰も知らなかった。外国人の犠牲者の名簿を見てもわからないのは当然である。まさか日本人犠牲者に英国人パートナーの遺族がいたなんて誰も思わなかった。実は彼女も幸福の絶頂期から突然奈落の底に落とされたような人生を歩んできた。
 すべての運命を変えたのはあの日航123便である。
 下の写真は一九八五年十一月十五日、金曜日に撮影した写真である。彼女が日本を離れる直前のものである。撮影したのは彼女の友人の佐々木ノヴェリータで、日本人と結婚したフイリピン女性人である。学研の仕事をしていた時に知り合ったという。
 彼女が抱えているのは生後二ヶ月の次女のダイアナ、そして隣に立っているのが四歳の長女カサンドラである。
   



 日航123便墜落の一月後の九月一六日に次女は生まれた。父親の湯川昭久はすでにこの世にいない。昭久のことをスゥザンはAKIと呼んでいた。AKIの死によってスゥザンの心は粉々に砕け、体は木端微塵に彼壊された…。
 それでもなんとか次女を産んだが、スゥザンの心も体もすべてが悲鳴を上げていた。AKIの死を受け入れられず、数ヶ月、物を食べることも困難で、全く食欲がなかった。
 ダイアナは濃い黒い髪を輝かせていて、それは悲しいほどに父親を思い出させた。彼の分まで必死に二人の子供たちに最善を尽くそうと努力した。でも体調は悪く、呼吸することも困難な状態だった。自分の人生をここで終わらせることは簡単だった。
 そんな彼女を支えてくれたのが佐々木ノヴェリータだった。日本を去る直前の数日間、ノヴェリータの家に招かれ美味しい家庭料理をふるまってもらった。ノヴェリータのかぼちゃのスープのおかげで、ようやく彼女はロンドンまで帰る長いフライトに耐えられる体力を得ることができた。
 そしてスゥザンは、ノヴェリータの勧めで近くの神社に行きダイアナのお宮参りをし、この写真を撮った。その足で成田空港に向かい、イギリスへと旅立ったのである。一九八五年十一月十五日のことである。
 彼女は最高の母親になって、すべてを子供たちに捧げると誓った。AKIがそれを望んでいることは明らかだったからだ。
 ここに一九八四年の十二月三十一日、新年になる直前にAKIが私に書いてくれた手紙がありますと言って見せてくれたのが下の写真である。そして、右側にあるロケットにはAKIの髪の毛が入っている。墜落の二日前にAKIはスゥザンに髪を切って欲しいと頼んだ。その髪の一部をロケットに入れておいた。スゥザンにとってはそれが宝物となった。
 手紙には、「貴女は私がどれほど愛しているかわからないだろう、貴女は私の永遠の宝物」と書かれている。



 湯川昭久とスゥザンは東京で暮らしていた。八月十二日の早朝、目が覚めてから彼は珍しく大阪へ行く重要な出張があるけど行きたくない、と言った。そして、オフィスに早く行って会議に出席して、その日の夕方に大阪に行かなくてよいように最善を尽くすからと言って出勤した。しかし、午前九時三十分過ぎに電話があって暗い声で、新幹線は予約で一杯だから、飛行機で大阪に行かなければならないと言った。そのあと一旦お昼に家に戻ってきて三人で昼食をとったあと、「一泊だけだから、明日は必ず戻ってくるよ。羽田から出発する前に電話する」と彼女と長女を抱きしめ、再びオフィスに戻った。それから一時間後、彼女はなぜかわからないが悪いことが起きそうな、嫌な気分になり、彼に電話をした。彼はまだオフィスにいて、「貴方の声が聞きたくて電話をしました」と言うと、彼は嬉しそうに返事をした。彼の最後の言葉は、「I love you dear, I have to go now, see you tomorrow!」だった。
 その日の夕刻、テレビのニュースで墜落事故を知った。心配した友人が彼女を産院まで連れて行ってくれた。現地まで行くと言い張る彼女を担当医は、胎児にも負担が大きいと止めた。
 ニュースを聞きつけて、AKIの母親タカコが家にやって来て、一緒に大声で泣いた。それからタカコから、AKIが出かけるときに身に着けていたものをすべて詳しく伝えるように言われ、彼女に伝えた。
 彼女がAKIと呼ぶパートナー、故湯川昭久氏は、Dコンパートメントの33Dの座席だった。検視番号271番、歯牙の部分が二ケ所欠けていたぐらいで比較的損傷の少ない遺体であった。焼損部分や欠損もないが、歯型と指紋で身元が明確に確認されたのは八月十六日であった。
 彼女はそれからちょうど一ケ月後の九月十六日に、次女を生んだのである。
 この偶然ともいえる日時は、運命を超えた何かがそこに存在しているように思える。産後の回復途中の体で、それから二ケ月後の十一月十五日に、彼女はなぜ二人の子供を連れて、ロンドンに帰国しなければならなかったのか。なぜ、彼女たちの存在は消されたのか。
 それを語るには、まず彼女との出会いから始めたい。
 
 カーデイフ大学での講演
 英国の四月は今期の授業が終了して春休みに入るという時期だ。二〇一九年の四月の最終講義にあたるその日、著者はクリスの招待を受け、ウェールズにあるカーディフ大学で学生を前に講演をすることになった。
 少し肌寒い澄み渡った空の下、朝露がより一層際立たせた桜のピンク色の花々が咲き乱れる大きな公園を横切り、少し早めにレセプションルームに着いた。
 それからクリスの研究室に向かった。研究室にはクリスがいて、もうひとりの講演者であるスゥザンを待っていた。著者も初対面であるが、クリスもSNSではつながっていたものの実際に会うのは初めてだという。
 ドアが開き、ロングヘアーをなびかせた小柄で細身の女性を見た瞬間、ああ、この人のパートナーだった故湯川昭久氏が今そこに一緒に立っているのではないだろうかという錯覚に陥った。そして彼女の最初の一言は、「透子、会いたかった!ロンドンからここまで来る列車の中で、隣の席にAKIが一緒に乗っていたのよ!私、そう感じたのよ!」であった。
 
 講演では、はじめに著者が話をした。
 How to successfully re-investigate of the JL123 Crash
 (如何にしたら日航機123便墜落の再調査への道を切り開けるか)
 上記のテーマのもとで、「世界中の若者がこの世界最大の単独機墜落事故に関心を持つことが重要である」ことを伝えるべく、用意したパワーポイントを使用し、学生たちを前に話をした。
 彼らはすでにこの学期において、日航123便墜落を題材として、その墜落の概要や事政調査報告書の問題点を含めて、遺族の公開写真、古い新聞記事など十分な知識を得る学習をしていた。著者の本も参考文献として参照し、様々な資料も読み込んでいたのである。
 その仕上げの最後の講義として彼らに著者が伝えることは、あの時代を生きてあのときの衝撃を体験した者にしかない「リアリティー」である。
 実際に乗務員として殉職をした先輩のボイスレコーダーに残るアナウンスの声を聴かせながら、著者自身の持つ数々の疑問と、未来に向けて解明しなければならないこと、情報開示といった法的な手段について語った。特に『遺物は真相を語る』の分析結果を示し、航空機材が超高温で融解した物体に練り込まれていたベンゼン(いわゆるガソリンに含まれるベンゼン環)や硫黄といった検出物の説明をした。これらは航空機燃料や機材、積荷、山土(上野村の土)には、存在しない物質であるという事実を伝えた。ちなみに、これらが含まれているものは武器燃料である。この仮説については、それでは、なぜ、誰が、どのようにして持ち込んだのか、この事実をどうとらえるか、を考えてもらった。これによって世界中の国が抱える軍事問題や、その未来の有り様を考える、というのが彼らに投げかけた最大のメッセージであった。
 続いてスゥザンが、自分の最愛のパートナーを失ったときの悲しみや二人の娘たちのこと、その後困難な状況の中で生き抜く辛さなどの経験談を彼らに語った。三十四年経ってもなお、失った人への想いは年々強くなっていく、癒されることのない時の経過とこれからについて、若い彼らに生きる意味を投げかけていた。
 質疑応答の時間では、学生からは、「これからどのような方法でこの間題を解決に導くのでしょうか」、「こういう本を書くことで何か言論弾圧のようなものはありましたか」、「私たちにできることは」、「事故調査報告書の矛盾点について」などの質問があった。著者は持参した古い新聞記事や座席表を回覧してもらいながらありのままを答えた。
 また、クリスからは英語版のウィキペディア(wikipedia)で、日航123便墜落概要を書いているページがあるが、クリスがその内容が客観性を欠いていて誤りがあると何度直しても、必ず事故原因は事故調査報告書の通りだ、と書き直す人がいると説明した。
 スゥザンからは、こういう事実も含めて、海外のジャーナリストや英国の事故調査委員の前ですべて話をしてもらうように自分は望んでいる、と述べたうえで、日本人遺族で今もなお頑張って事故原因を追究している人は何人いるのか、透子の調査結果に反応した人は、という質問があった。
 実際に、今のところ数名しかいないのが現実で、五二〇人もの被害者それぞれの遺族と四名の生存者がいるにもかかわらず、関心をもたない、無視をする、という状態とも言っていい。せめて五二〇人の死者のためにも、生存者も含めて、いかなる理由があろうとも、真相究明の先頭に立ってほしいです、と著者が話すと、スゥザンも学生たちも強く頷いた。
 クリスからは、日本人だけに頼らずに外国人の犠牲者は二十二人もいるので、彼らの遺族に伝えること、外からの圧力を形成することも大変重要なポイントだと思う、という話があり、スゥザンも、そう思う、絶対に外国人遺族も知るべきです。これは広く世界に伝えなければならない。それが自分のミッションだと思います、と言った。
 講演の終了後に研究室に掛けられたJA8119号機(一九八五年八月十二日、墜落一時間前に羽田空港で撮影)の写真をバックにして、「自分たちにできることをしていこう!」と気合をいれながら記念写真を撮った。そのあとで、「お母さんがJALのスチュワデスでした。」とにこやかな笑顔で近づいてくる学生がいた。父親は英国人なので自分はハーフだが、お母さんにこの話をしたら大変興味をもっていたそうである。ここウェールズにも不思議な縁がつながった、と感慨深かった。
 講義が終って、大学近くのカフェの二階でクリスとスゥザンとともに三人でしばらく話をしたあと、再びクリスの研究室に戻ると、スゥザンは持参した遺品のシガレットケースをテーブルの上に取り出した。下の写真がそれである。朱色と白のシルクの布に大切に包まれたその遺品は御巣鷹の尾根で見つかったらしい。黒革仕立ての上質な煙草入れは、歪みも傷みもなく、持ち主の人となりを表すかのように、静かに佇む紳士のような様相を見せている。



 次に見せてくれたのは、下の写真にある日本風の紙箱に入れられた飛行機の残骸の一部であった。他の遺族から送られたものだという。ハニカムの具合から壁の一部のように見受けられる。その機体の破片は、自分を連れていってくれ、と叫んでいるようで、どうすればよいのか悩んだ結果、スゥザンは英国まで連れて帰った、そうである。



 スゥザンは、当時の新聞も大切に保管している。「JAPAN AIRLINES 123 CRASH」と手書きで書かれたファイルには、下の写真のように日本の新聞以外に英国の新聞報道が切り取られて収集されている。それらは大切な人の「奇跡的な生還を信じていた」その瞬間をとらえた記事であった。


 日が少し傾きかけた午後、カーディフ城のお堀を取り囲む芝生が広がり、見慣れた黄色のタンポポや蓮華草がキラキラと彩る大学からの帰り道を、私はスゥザンと一緒に駅まで歩いた。
 彼女はすっかり私に打ち解けて、彼女自身の過去について話を始めた。
 「AKIと私が出会ったのは、私が二十一歳の時だった。
 I believe we were destined to meet」
 それは想像をはるかに超えた運命の始まりだった。
 
 バレリーナとの出会いと壮絶な別れ
 一九七八年冬、バレエ学校でバレエを学びながら、バレエのトレーニング費用を払うためにアルバイトをして生活していたスゥザンは、偶然、友達の日本人女性からロンドンのレストランでAKIを紹介された。五人のメンバーで集まったのだが、初めて出逢った瞬間の彼の目の輝きとインスピレーション、彼女はそれを今でも鮮明に覚えている。
 AKIは芸術性溢れる才能を持つピアニストであった。ただ、その才能と情熱ゆえに音楽家への道を歩むことを恐れた両親によってピアニストへの道は閉ざされ、長男ゆえに由緒ある家系の仕事を継ぐべく育てられた人だった。二人の驚異的で運命的な出会いは、その芸術性が導いたものだったのである。
 AKIは五十歳になったばかりで、すでに成人した二人の息子がいた。そして彼には十年ほど前から交通事故により、日本の病院で寝たきり状態となった同年齢の妻がいた。脳機能障害となった彼女は深刻な状態が続いていて、回復の見込みはなかった。結局、墜落の翌年の一九八六年に彼女は亡くなっている。
 ロンドンでスゥザンと出会ったAKIは、失意の中、単身でロンドンに赴任してきた悲しみを抱えた日本人男性だった。その名前のアキヒサから、愛称としてAKIと彼女は呼んだ。
 すでに二人の息子たちも一九八〇年と一九八一年に次々と結婚していた。彼の両親、ユカワカズオとタカコは、親としてAKIの笑顔がうれしかったのだろう。AKIとスゥザンを家族と認めてくれて精神的な支えとなってくれた。高齢で亡くなる最後まで二人の孫を気遣ってくれた。
 スゥザンは、カズオとタカコはとても愛情深い人たちです。本当に感謝しています、と語った。
 一九八〇年に大阪支店勤務となったAKIととともにスゥザンは日本に渡り、一九八一年に長女が生まれる。スゥザンの父親は、彼女が十四歳のときに若くして亡くなっており、AKIに父親の庇護のような面影と愛情を感じたのかもしれない。父親を亡くした後の彼女の母親は、長年鬱病に苦しんでいたこともあって、AKIと過ごした七年間はその後の人生でも得られなかったほど、幸せの輝く絶頂であったという。
 下の写真はAKIが撮影したもので、事故が起こった年1985年の春に撮られた。長女カサンドラとAKIの実母タカコと一緒に写っている。この時スーザンは次女を妊娠していた。



 しかし、その運命は思いもかけない方向へ彼女を導くことになる。
 一九八五年七月、長女が四歳になり次女もまもなく生まれてくることもあって、AKIは法的な面での親子関係に関する証明を準備して養子縁組を考えていた時期であったが、英国内の支店開設のために、身重の彼女を日本に置いて渡英した。その際、鬱病に苦しむ彼女の母親にお気に入りの香水を届けている。
 そして帰国後の八月十二日に、最愛のAKIは日航123便に搭乗して死亡した。
 皮肉にもAKIの仕事内容は、日本航空のボーイング747型機を中心とした機体のリースの取引であり、彼はそれを担うS銀行総合リース会社の副社長であった。
 彼の遺体が発見された八月十五日の翌日の十六日、AKIの両親のカズオとタカコと彼の長男は、S銀行のトップとの面会を求められた。ちょうどその頃のS銀行は、その後一九九一年に露顕したイトマン事件でも明らかになったように凄腕のワンマン経営者が牛耳り、後に逮捕者が出るほどの不透明な金の流れで黒いうわさが絶えなかった。
 S銀行は、様々な混乱と当時の風潮を気にしたのか、スゥザンの存在を否定するように、今後彼女が一切の要求をしないことを求めるように強要してきた。さらに、日航やS銀行や関連会社に対して、いかなる形の損害賠償を請求することも禁じられた。二人の娘は確かにAKIとの間に生まれた子供である。それを急にわずらわしい存在として、まるで犯罪者のように扱われたように感じた。タカコがその結果をスゥザンに伝えた。
 「本当に申し訳ない、ごめんなさい」とタカコはスゥザンに謝罪した。タカコはAKIの最愛の母親で、彼女にとっても母親同然であったので、その言葉に従わざるを得なかった。
 誰でも愛する人を失った直後は混乱し、精神的に動揺が激しいものである。そのときに追い打ちをかけるような仕打ちを味わった彼女は、精神状態も悪化していく。その中での次女の出産であった。そして二ケ月後、今度はS銀行の顧問弁護士にその旨の念書を書かされた。それはまるで「さっさと帰国しろ」と追い立てられたような気がした。
 AKIは、会社のために働き、重要な会議のために、大阪行きの飛行機に搭乗したのだ。あれほどまでに行きたくないと言いながら出かけその結果逝ったのだ。そう思うと、涙が止まらなかった。
 彼女はこの日本での楽しい日々が一瞬で悪夢と化し、自分のアイデンティティそのものを否定されたような気がした。
 こうして失意のまま、一九八五年十一月十五日に日本を後にしたのである。
 
 死者からの伝言
 彼女自身の精神状態も回復しないままの幼い子供二人の子育ては壮絶な体験であり、心休まる日々とは程違いものだったに違いない。
 唯一の心の支えは、AKIがいつも言っていたことを忠実に実行することだけだった。
 「子供たちに音楽の才能があれば、良い教育を授けてそれを伸ばしてくれ」
 彼女は生前AKIが語ったその言葉を守った。幼い二人には並外れた音楽の才能があったのである。実は次女のダイアナは、今では映画『沈まぬ太陽』の劇中で曲が流れたように世界的に活躍するバイオリニストとなっている。
 経済面は彼女たちの祖父母、カズオとタカコが支えてくれたが、当時の英国はインフレに向かっており、教育費も高額で物価もかなり高かった。音楽学校の高額な授業料とバイオリンやチェロ、ピアノのレッスン費用を捻出するために、パートタイムジョブをして、英会話レッスン、日本人女性のホームステイなどで生計を立て、二人の娘の最高の母親になるという誓いを守り続けた。
 娘たちの日本の祖父母は八十歳を超えており、そう簡単に行き来できないので、彼女は隔週ごとに手紙や電話で、二人の音楽のレッスンの様子を伝えた。
 成長の写真は数えきれないほど日本に郵送した。祖父母はAKIの分まで、最善を尽くして愛してくれた。
 しかし、成長するにつれて、娘たちはなぜ結婚しなかったのか、と彼女を責めた。父親の日本の戸籍に娘たちの名前がない。これも耐え難い屈辱であった。
 AKIの戸籍は和歌山県にある。紀伊新宮藩の藩医の息子でS鋳鋼所会長、S銀行第五代S本社総理事、貴族院議員で関西経済界の重鎮であった湯川寛吉にルーツを持ち、カズオこと湯川一夫(二人の子供の祖父)は富士銀行の取締役、そしてタカコこと湯川高子(祖母)は、元長州藩士で貴族院議員だった西村精一男爵の六女である。英国王室とも関係が深く、二人ともフランス語と英語が堪能で、一九五三年六月二日のエリザベス二世戴冠式に出席したという。
 実は著者の曾祖父は渋沢栄一らの支援を受け、私財を投じて地方銀行を創設し、貴族院議員も務めたのであるがその時期とも重なり、著者は何か見えない糸が動き始めたように感じた。
 このような一家の存在は、スゥザンにとって大きな心の支えでもあったが、同時にS財閥からの圧力も受けやすく、彼女は表に出てくることの一切を禁止されていた。
 それは、まさに「個人の尊厳」が否定され続けたということであり、他人に人格や尊厳を傷つけられて自尊心を失ったとき、いじめ問題もそうだが人は自己否定されたことで自暴自棄になり、死に至ることもある。
 一九九八年、タカコから突然の電話があった。すでに二年前に夫のカズオは九十五歳で亡くなっていた。「自分の道を進みなさい」というのが彼女のメッセージだった。
 タカコは「息子の意思を尊重して、英国人妻と子供たちの存在を認めたい」と強い意志を示したにもかかわらず、会社はそれを拒み、結局のところこのような事態となってしまった。でもそれは良くない、正義のために戦いなさい、というのが彼女の最後の遺言となったのである。
 その電話の数日後、タカコは睡眠中に老衰にて九十三歳で亡くなった。後に知ったことだが、英国の孫たちの生活を守るために工面してくれたお金は、S銀行から個人的にローンを組んで払っていたのである。
 二人の子供にはアキヒサの子として、父親の突然の事故死で生ずる様々な権利は当然のことながら認められる。今では相続法が改正され、婚外子の権利が法的にも認められるようになっている。
 スゥザンはタカコの遺言通りに、戸籍に二人の娘の名前を入れるために、積極的に行動を開始する。DNA鑑定には遺髪となった彼の髪の毛が役に立ち、彼のメモ書きの様々な手紙をもとにして裁判が行われ、英国高等法院によって平成十二年(二〇〇〇年)三月十三日に父子関係存在確認の裁判が確定する。下の写真がその証明書である。なお、特記事項には次のように書かれている。
 「責めに帰することができない事由のため期間経過」
 年月の経過については、誰も責められない理由がそこに存在していた、ということである。これで、時効の壁もクリアされた。




 カサンドラの生まれた年が昭和五十六年、ダイアナが昭和六十年、十九年以上を経て、やっと父子存在の確認がなされた。
 次は日本の戸籍への記録であるが、これが非常に難航していく。当初、前例がないということもあって市役所側に拒否された。
 二〇〇九年、和歌山県選出のK国会議員の女性秘書に元日航ウィーン支店勤務経験者がおり、彼女が英語を話すことができたため、スゥザンは彼女と電話で話す機会を得た。秘書のSさんは、子供の人権問題として必死に訴えるスゥザンの声に何とか応えたい、それが日航にいた人間としての責務だと考えたのであろう。これもまた不思議な出会いであった。
 Sさんは、英国高等法院で認められているにもかかわらず日本で認められないのであれば、これは重大な国際的人権問題であるとし、法務省民事局に問い合わせた。
 民主党政権の平成二十三年(二〇一一年)の三月三日お雛祭りの日、三十年以上もの長い時を経て、ようやく念願の戸籍に二人の名前が加わったのであった。スゥザンは、子供の人権に真撃に取り組んでくれたK国会議員と秘書のSさんには心から感謝すると語る。
 不慮の事故によって突然生命を絶たれた一人の人間の願いがようやく叶った瞬間でもある。死者の想いを一歩ずつ実現させていくスゥザンの積極的な行動力は、日本での日航123便墜落の遺族にとっても大きな心の支えとなっていく。
 スゥザンとまた翌日、今度はロンドン市内で会う約束を交わして別れた。
 次の日、著者は英国公共放送のジャーナリストや広報コンサルタント、故ダイアナ妃と関係が深い特権評議会メンバーの弁護士と一緒に日航123便について会議をする場を持った。
 
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