さらには、二〇〇六年八月十二日発売の『8・12連絡会二十一年の歩み』(上毛新聞社)には次のように書かれている。 「真実を求めて二十一年間――旅は続く」(旅路・真実を求めて) ――旅は二十一年前に始まりました。愛する人を失ったものたちが集まり、手を添えあうように生まれたひとつの輪。私たちは誓い合いました。嘆き悲しむだけでなく、顔を上げること。心の中に生き続けるみたまを慰めること。かけがえのない命とひきかえに空の安全が訪れるのを見届けること。そしてそのために、事故の真相をすべて明らかにすること(中略)それらの原因や理由や可能性を明らかにできなければ、愛する人の死を納得することはできず、再び空の悲劇が起こることを防ぐことはできません。 (中略) 依然として見えない真実もあります。 闇に葬られようとしている真実もあるかもしれません。 二十一年は長い旅路のひとつの区切りです。 私たちの旅は今も、これからも続きます。ひとえに真実を求めて――。 つまり、真実が知りたいという旅は、終わっていなかったのだ。ついこの間まで、遺族会も海底調査や再調査を指摘し続けていたということは確かである。しかし、残念ながら事態はその後も誰も動く気配がないのも事実である。 さらに、二〇一〇年八月には、国土交通大臣による初めての御巣鷹の尾根登山も行われた。実はこのとき、カーディフ大学教授のクリスも英国人遺族ピーターさん夫妻とともに参加していた。夫妻の話では、前原誠司大臣(民主党政権当時)の言葉には墜落現場が一晩中特定できなかったという報道も含めて、この事件に対する深い悲しみと怒りが感じられたとのことだ。それまで自民党政権で、大臣が墜落現場に慰霊登山しなかったことが逆におかしかったのである。ようやく実現した登山だったと遺族は喜んでいた。 同年七月に解説本を出した際、その作成にあたって遺族側代表と事故調査委員や日航側とが会合をもつ機会が何度もあった。しかしながら、それからなぜか既存の連絡会は事故原因追究の看板を下ろしたようであったという。あまりの変貌に違和感を持つ遺族もいた。 もしも重大なことを知り得たのであれば会員に伝えて情報を共有すべきであり、それが不透明であるならば遺族による会とはいえないのではないだろうかと語る遺族もいた。 特定の人だけを全体の代表として扱うメディア側の姿勢も問われる。墜落原因は不明のまま不起訴となり、その事実報道をしなくなっていった。 日航123便の話を三十四年も経た今だからこそ英国の遺族にも語らなければならない理由はそこにある。事故原因に異議を唱えた遺族たちが高齢でお亡くなりになることも増えてきた。これ以上の先延ばしは許されない。墜落原因不明のまま、誰も刑事責任を問われることなく公訴時効が成立したのは、亡くなった当事者にとっても遺族にとっても、誰が責めを負うべき存在なのかわからず、犯人からの正式な謝罪もなく曖昧なまま放置してしまったということだからである。 私たちが考えなければならないのは、三十四年問、一切慰霊碑に手を合わせることもなく、哀悼の意を表していない真犯人の存在だ。誰しも望むことは、真犯人の心からの謝罪と、それをしてこなかったことの理由を聞くことではないだろうか。やむをえない正当な事由があるならば裁判でそれを述べて法の裁きを受けなければならない。五二〇の命が失われたのは事実であって、科学的証拠物は真犯人の存在を物語っているはずだから、これだけの事件をうやむやにさせたままで忘れ去っていいわけはない。 さて日航123便に関する会議だが、過去、誰も英国でこのような会議を設定したことはない。見えない糸が動き出した瞬間であった。 薔薇のつぼみを開き始める緑萌える晴れやかな午後、薄手のロングコートを羽織った英国の老紳士と若いジャーナリスト、鋭い視線の弁護士たちが集まってきた。主な参加者は次の通りである。 M・B氏 元政治ジャーナリストで、英国で有名なロビー活動を行うプロの政治コンサルタント組織の議長を務め、最も影響力のある一〇〇人に選ばれ、様々な賞を受賞。EU広報センターディレクターとして活躍し、彼のネットワークは英国のみならずEUの業界団体、政府、地方自治体など世界中の企業や組織、幅広い分野を網羅している。 R・C氏 BBC放送のジャーナリスト。独自の切り口から取材して番組を構成するニュースキャスターでもある。 O・M法廷弁護士 イングランドとウェールズの法廷弁護士として、企業のコンプライアンス、国際的犯罪、企業犯罪、危機管理を専門とする。 I・T法廷弁護士 英国ではバリスター(Barister法廷弁護士)とソリシター(Solicitor事務弁護士)という称号があるが、彼女はバリスターとして多種多様な刑事訴訟、民事訴訟で提訴及び弁護を担当している。 事前に準備をした日航123便墜落事故の概要を説明するパワーポイント(英語表記)と議事進行、及び著者のプロフィールを配布し、プレゼンに入った。 まず、メディアの役割と再調査の可能性を中心に、五二〇人死亡という世界最大の単独機事故の墜落原因が不明のままだということ、その後誰もこの間題を取り上げることなく三十四年問も放置されているということに納得できない遺族がいるということ、英国人犠牲者もいるということなどを伝えたうえでこの墜落事故の原因についての「疑問点」を具体的に説明した。 著者が指摘した主な「疑問点」は次の通りである。 1.検死担当医師が示した客観的所見によれば、遺体が二度焼かれているということ 2.炭化状態が著しい遺体が三分の一ほどあり、通常では考えられないほど骨の芯まで 焼かれていること 3.目撃情報が書かれていない事故調査報告書の内容と実際の目撃者の目撃情報に整合 性がないこと。特に航路下の住民、自衛隊員、成人女性、成人男性、上野村の住民及び地元小学校と中学校の生徒たち(二三五名中一三〇名〔約55パーセント〕もの人間が、目撃情報を寄せているにもかかわらず、その内容は明記されていない。 ちなみに、目撃情報の信憑性については、目撃時刻が明確で、目撃の場所、その人の立場、年齢、職業等にばらつきがあってなんら共通点がなく、その状況を語る際に報道関係の影響を受けず、その行動に信頼性と語る内容に整合性がある場合、それは裁判でも証言できるほど十分な価値がある。 4.目撃者が多数いるファントム2機をいち早く墜落前に飛ばし、日が沈む前のまだ十分明るいうちに墜落場所まで日航機と一緒に飛行していたこと、墜落まで見届けて場 所を特定した自衛隊はお手柄であって、何らそのファントム機を墜落前に飛ばしたこ とを隠す必要がない。事故原因に全く関係のない自衛隊の行動は、むしろ国民から称 賛されるべきことである。なのに、なぜファントムの存在や墜落現場の特定ができた ことを隠す必要があるのか。わざわざ自らの手柄を捨てて、墜落場所を一晩中不明と 公表する必要はない。なぜならば、墜落を引き起こした犯人は「ボーイング社の修理 ミスに起因したものゆえ、その経営者及び修理担当社員」と「それを見逃した日本航 空側の経営者および整備関係者社員」であるのだから。 一連の不可解な自衛隊の行動は、墜落現場に落ちていた融解した黒焦げの機材(飛行機の一部)について行った科学的証拠の分析でその理由が証明されるのではないだろうか。 そこで、著者は彼らに昨年の科学的調査結果を報告した(詳細は『遺物は真相を語る』参照)。 その結果から、SDF(Self-Defence Force自衛隊)が絡んでいる可能性について詳細に話をした。著者たちにとっては驚愕の事実であるが、彼らにとってはそういうニュースは山ほどある、という表情であったのが印象深い。 「せっかく見つかった海底に沈んだままの機体の残骸をなぜ引き上げようとする人がいないのか」が大きな疑問とジャーナリストのRさんは語る。 そういった引き上げ作業は再調査につながる可能性もあるので、事故調査委員会がしなければならないことである。さらに日本航空も自分たちの航空機の残骸のありかが、さほど深くない水深一六〇メートル地点で場所も明確にわかっているのであれば、直ちに引き上げて安全啓発センターに収容して科学的調査分析を行うことが、不起訴となっている現状におけるせめてもの道義的責任ではないか、と議論は続いた。 また、彼らは「遺族会とか、特に四名の生存者は先頭になってこの事実を語り、疑問を唱えるのがどの世界でも常識です。貴女の知り合いのアシスタントパーサーもいたのでしょう。慰謝料やたとえ口止め料を受領していたとしても、全くそれとは別の義務がある」と口々に語り、「それにしても、なぜこのような事実を日本のメディアは放置しているのか、信じられない。どうして今まで取り上げなかったのか」とRさんはメディアに対応に憤りをあらわにした。 著者は、報道関係者に以前、海底に沈んだ機体を「なぜ引き上げないのか」と聞いたところ、「デスク以上の人間から、あれは、たいしたものではないからと言われた」との返答があったことを伝えた。それは学術調査の結果でもなく、何の根拠もないデマを報道関係者の上層部が広めているというのが実態だといえる。 なおこれに関連しては想像を絶するような逸話がある。当時の事故調査委員長(武田峻氏)は、十名の遺族に海底捜査を早急に行うように詰め寄られた際に、「あのですね、お金がないというせいではないのですよ。お金の問題じゃない。海底から事故調査結果と違うものが引き上げられたら困るからですよ」と叫んで、居直ったそうだ。そのことを当時のその場にいた遺族から聞いた。事故調査委員長のその一言があまりに想定外であったので、皆が唖然として凍りついてしまったという。 それを聞いた遺族たちは、「こんな人たちが書いた報告書なんか、何も信じられるはずがない」と強い口調で語っていた、と著者は伝えた。 そして、著者は、「誰も海底から引き上げようとしないのなら、私は本の印税で引き上げようと考えたのです」という密かな決心を打ち明けたが、政治コンサルタントのM氏からは、そんなことをしても「メディアが注目しなければその引き上げても誰にも知れずになかったことにされるから結局ルーズマネーにしかならない」とたしなめられた。 「逆に言えば、個人的に不都合な人(おそらくまだ生きている当時の元首相や親しい関係者だろ対して圧力(地位の優遇や金銭と引き換えに)をかけ、メディアが自発的にまたは意図的に、一般人が注目しないように、この間題を取り上げることを避けているのかもしれない」さらに「貴女は、今まで妨害や言論への圧力など嫌がらせを受けなかったか」と心底心配した表情で著者に問うた。 「その質問は実は昨日、カーディフ大学で講演をした際に学生から受けた質問と同じです。皆さんそのように心配してくれるのですね」と少し微笑みながら著者は言った。 ちょうど、テレビではウィキリークスのアサンジ容疑者がロンドン警視庁によって逮捕されるというニュースが飛び込んできたからだろう。ロンドンのエクアドル大使館に龍城していた彼の顔がEU離脱と並んでトップニュースであった。 自分はなにもそんな大物でもなく、単なる独立研究者にすぎない。ただひたすら真剣に語る遺族の漏れ出た小さな声を、時間をかけて一つずつ拾い集めて分析をしてきた。その声に耳を貸さず、意図的に消し去った人がいる以上、世に出ずにいた声を書き記したのである。そのような真意を汲み取らず、明らかに恣意的で否定的に人を貶めようとする人が少なからずいるのは事実である。特にネット上では匿名ゆえ過激になりやすい。目撃者に対して「そんなはずがない」と根拠もなく否定する本を出した人もいたし、一部のみを切り取った情報とお金に狡い人間の厭らしさを煽り、なり振りかまわない記事が出たこともあった。いずれも誰が読んでも醜いものであった。以上のことはネットも含めて名誉棄損でこちら側が訴えることは十分可能である。しかし、この問題は、世界最大の単独機墜落事故の事故原因であって、いくら個人攻撃をして火を消そうとしても、いまや世界中にその怒りの炎は伝わっているのである。 それにしてもなぜ、このように歪んだ心で正義感を装った人が出てくるのであろうか。 なんらかの理由で依頼されているのだろうが、体制側にしがみついていなければ自分が蹴落とされるという不安感に陥った、その人自身の自信のなさが出たと言われても仕方がない。もちろん当時の利害関係者や当事者本人の焦りがその背景にあるのだろう。とにかく隠そうとする意図が透けて見え、十分な思考がなされていない。 こういった主張は突き詰めればその人の保身、ということになる。いかなる理由があったとしても、三十四年も経て過去の人間が未来を支配してはならない。年老いてもなお隠そうとすることよりも、次世代のためにも真相を語る人間に成長してほしい、と願っていると著者は語った。 多くの読者は、本という媒体を通じてこれらの事実に向きあい、自らの意思を持って深く共感して考え、その真意を理解してくれている人たちである。特に『墜落の新事実』が、全国学校図書館協議会選定図書となったこともあり、全国の高校生や大学生が読んでくれて感想文が寄せられることもある。A県立高校のリベラルアーツクラブでは、一年間もかけてこの問題を取り上げ、文化祭で発表したとのことだった。彼らの真剣なまなざしや熱意が伝わってくる資料や写真がたくさん出版社に送られてきた。 このようなことを背景として考えてみるに、言論弾圧を受けているというよりも、焦った一部の人間と結託した見えない圧力や後ろから殴りかかるような厭らしさは、むしろメディア側の人間の中に存在すると会議の出席者に語った。 ジャーナリストR氏は信じられない様子であったが、それも日本の現状であるから仕方がない。 政治コンサルタントのM氏からは、「なぜ貴女がそこまで調査して書くのか、書く理由は何かあるのか、今このように英国でそれを発表することの時期的な根拠は?」といった質問が続いた。 書く理由について、とは面白い質問であった。もちろん殉職した先輩たちの無念の想いや遺族の深い悲しみが著者に伝わったことも理由の一つだ。一九八五年からの一次資料を中心に調査していくうちに、「人としてやっていいことと悪いことがある。これは許せない行為だ」との強い憤りを感じたことがきっかけでもある。さらに著者のルーツからくる独立自尊の心根としか言いようがない部分もあるかもしれないが、研究できる自由な環境があることも重要な要素の一つだ。 もともとそこに依存心や欲がない人間同士のつながりは、私利私欲を超えてそれぞれが自分の問題として考える心地よい関係を作り出す。そこには主従関係もなく、貨幣経済とは全く別の意識が根底に内在していよう。 しかしながら世知辛い世の中で、金銭を中心に狭い視野でしか物事を考えられない人にとっては、それが不思議でしかたがないらしい。思惑がそこに存在する人間は、自ら墓穴を掘り、なんらかの利益を得ようとする人は必ず自ら去っていく。 無論、人間は弱いもので時と場に応じて善悪のどちらも顔を出す生き物ではあるが、どちらの顔が強く出てくるかは人によって異なる。究極的にいうと自分の内部に潜む恐れとの闘いだ。さらに何か重大なことを知り得た人や発見した人は、それを突き詰めていく人と放棄する人に分かれていく。良い例であれば、ノーベル賞受賞者のスピーチでもわかるようにその大半は己への挑戟であり、その過程は苦難の連続でもあり、それでもなお、より良い世界を築くためにと踏ん張る、その根っこにあるのは科学的な探究心と自立心であろう。 なぜ今英国でこの話をするのかという、このタイミングに関しては、偶然の重なりがいつのまにか必然性を帯びて今があるとしか語れないほど、不思議な縁の重なりあいがそこにあった。誰もが抱く疑問を一つずつ解決すべく、一歩ずつ進みながらそれを提起し続けたその先に、やっと見えてきたという感じである。そしてまた日本で自尊心を傷つけられたスゥザンに対しては、日本人としてなすべき役割を果たさなければならないという思いもある、とも伝えた。 さて、ジャーナリストたちの熱心さと対照的に、O弁護士とJ弁護士の対応はクールであった。彼らはスゥザンの戸籍に絡んだ個人的な問題を長年ボランティアでやってきた。 その過程で急に現れた日航123便墜落原因については、どちらかというと関連性がないとして、企業犯罪という視点での展開となった。民間機関で調査委員会を設置しても時間ばかりが経ち、高齢の遺族は亡くなってしまうだろう、との見解だった。 彼らの最大の疑問は、「犯人は証拠を隠滅し破壊することが常識だが、日本航空が生データを破壊せずに保管しているとすれば、その意味が解らない」というもので、「自分が不利となる証拠物を今でも持っているはずがないと思うが、なぜ彼らは今でも保管しているのかわからない、きっと破棄しているにちがいない」というのが彼らの見方であった。 どこかに捨てることや破棄することには重大な責任が伴う。その重荷は計り知れないだろう。破棄した人間が特定された場合、個人的な責めを負うことになる。それほど明確な責任を背負いたくはないというのが組織でしか行動できない人間の性である。明らかに意に反する行為をする場合、日本人は集団ではできても、人ひとりで責任を背負ってまではできないと説明をした。 もし保管しているとすれば、あれだけの人間がなぜ死亡したのか、という事実を公文書同様に次世代に伝える手段を残しておきたい、という崇高な理念からとは思えない。もちろん、そうであってほしいと願うが、おそらく、どこかに自分たちの無実の証明を後世の人間がいつかしてくれる可能性があるのではないか、という微かな期待があるかもしれない。前著(『遺物は真相を語る』)で、日航側が保管している事実を書いたが、今度はそれが知れると不都合な人たちからの圧力で、自分たちは持っていません、という答えを用意してくるだろう。心理分析的にも次の展開は簡単に読めてしまう。ここには、そう答えれば済むという甘え、いまさら過去の決定を覆して自分が真相を切り出す勇気など全くないという弱気、配慮という名の無責任が入り混じる。 英国人にはその心の機微や根底にある心理が理解しにくいのかもしれない。外から見れば、自らメディアの役割を放棄する人がいたり、事故調査委員長の疾しさゆえの発言だったり、不利となる証拠物を保管し続けていたりと、一見、表層的で体制に従属的な日本人像が浮かぶのだろうが、その入り混じった不可思議な精神性に大きな疑問をもつようだ。 特に日本人同士ならば強気であっても、外からのプレッシャーに弱いという屈折した側面も持つ。おそらく、小さな村社会程度の規模であれば、お互いの顔が見えて相手のルーツもわかり、自分たちで決められる範囲が小さいゆえ、相手を戒めたり許したりができる環境が整う。そういった知恵の積み重ねが問題の解決を導くこともある。しかし、近代における複雑な人間関係や、住居の移動も含めた社会的環境は、かつての村の規模を遥かに超えている。その範囲や情報量の拡大とともに知恵のみでは解決できず、年齢に関係なく、さらなる勉学による知識の増強や人間側の意識改革が不可欠となっていく。そのためには外からの視点や刺激は重要である。ただし、誰も責任を取りたくない、という姿勢は外国人には理解不可能であった。 実は日本において、こういうメディアの人や官僚の人たちと話す機会は何十回もあった。話をしている最中は強い関心を示してくれるが、「なんとかしよう、上司に話をする」と持ち帰ると、そこから先が進まなかったケースがほとんどだった。その後の結果を聞いたとき、一番驚いた答えは、「家をローンで買ったばかりだから」、「老いた母親の入院で大変だから」といったプライベートな答えで、本筋とは程遠い理由でお茶を濁されたことも多々あった。 「日本のメディアもこれを取り上げないなんて信じられない、貴女の本は読みたい、日本語がわかるスタッフがいる」というのでジャーナリストのR氏に拙著や持参した資料を差し上げた。 あっという間に四時間以上が過ぎていた。 「ぜひこの間題について報道ができるように頑張ってください」と言うと、彼女は「上司に相談してからじゃないとわからない」と答えた。 それは結局のところ、日本人と同じ答えじゃないの、と皆さんと一緒に苦笑いをした。 上司と相談しているうちにいつのまにか泡のごとく消えないように、英国人遺族のためにも確実に報道をしてほしいと願いながら固く握手をした。 O弁護士には、「今日はありがとう。貴女は素晴らしい仕事をしている」と言われ、握手をして皆さんと別れた。 それぞれの分野を超えたネットワークと新領域への挑戦に必要なのは、信頼関係を基軸としたつながりであると実感したのである。 そして次は、国際航空安全調査員協会(ISASI)の航空作業部会議長を務め、航空安全調査員を代表する世界的な専門機関のICAO(国際民間航空機関)のATC(航空情報通達)メンバーでもあるD・G氏と会うことになっていた。 政治的干渉という妨害 英国の衝突調査官兼航空安全コンサルタントのD氏は非常に多忙である。世界中の航空機事故関連の会合でスピーチをする彼の主なテーマは「適正調査とプロセス」で、「政治がしばしば航空機事故調査の邪魔をする」ことについて明言している。 「航空機事故調査はドライ、乾いた技術的な調査を行わなければならず、政治的干渉があってはならない」と明確に指摘し、事故原因について、政治的に敏感な細部の調整など必要としないし、あってはならないという信念を強く持っている。そのD氏に対して、私は『遺物は真相を語る』で発表した、航空機材料と断定できる融解物の分析結果に「ベンゼン環」と「硫黄」があったと事前に伝えていた。それに対して大変興味深いという返事をもらっていたのである。 また彼は、「ヒューマン・エラー」という使い古された結論について、パイロットのせいにすれば彼らは死亡しているため、簡単に調査が終了できる便利な言葉だとして、昔からどの国でもそれを使いやすいと語る。しかし時折、事故調査に政治的圧力がかけられている現状を踏まえて、「ほとんどの捜査官が、何が真実かに大きな重きを置くが、政治がその中に入ってくる」、それによって「なぜ飛行機が墜落したのか」についての真実が歪められかねない。果たして私たちは本当に真なる原因の情報を与えられているのだろうかとの疑問を提起しているのである。特にその国の運輸大臣が航空会社を代表する場合は、事故調査委員長を交代させ、誰かのせいにすることも可能だという。特に飛行機という第三者が簡単に見ることができない空の空間における事故は、隠蔽しやすい環境にあるのだ。 このように彼は、明確に政治的干渉の存在を語り、それを各国の航空機安全委員会で講演し、それについての報道がなされ、世界中がこの問題を議論しているのである。 英国の事故調査委員が語ることができて、日本の事故調査委員が何も語れない理由は何だろうかと思わざるをえない。 日本では、一九七四年に航空事故調査委員会が運輸省に設置され、その後米国の国家運輸安全委員会を参考として、政府から独立した強い権限を持つ組織が必要であるとの結論から、国土交通省の外局として二〇〇八年に運輸安全委員会となり、独立した意思決定ができる組織を編成して発足したはずだ。しかし、いくら形だけ独立したとしても、その精神が独立していないのであれば全く無意味である。さらに身内意識の強さから、日本人特有の臆病さや過剰な恐れもあろうが、信念を持ってなすべき仕事が遂行できないから責任が持てず、勝手な解釈で不都合な調査資料を破棄し、甘い許しがまかり通る。 いつまでたってもこの連鎖では、この国に住む私たちの未来が脅かされるのである。 さて、D氏の予定はずいぶんと先までびっしりと詰まっていた。当初は私のロンドン滞在中には会えないという返事をいただいていたのだが、急に朝からであれば会えるということになった。早朝にシンガポールから帰国するというその日、ロンドン・ヒースロー空港から自宅に帰る前にお会いする機会を得たのである。 朝の八時にホテルのロビーで待ち合わせをした。 あらかじめ伝えていたロビー階のミーティングスペースに行くと、すぐに背の高いD氏は知的な風貌の柔和な笑顔で現れた。お互いに名乗って挨拶をし、機内で朝食を食べたとのことだったのでコーヒーを注文した。まだ到着していないスゥザンは自宅からロンドンまで列車で二時間程かかる旨を説明しながら先に日航123便墜落の概要と問題点、私の調査結果について話をした。D氏は羽田空港新整備場の日本航空安全啓発センターに行って機体の残骸や展示品を見ているので、その感想も伺った。 「後部圧力隔壁の単純な修理ミスという点では、事故調査報告書の通りの展示で、すべては辻棲が合っている。何の問題もないように見えた。ただし、ボイスレコーダーの展示でその一部を聞かせていたが、完全に編集したものだった。通常、コックピットの声の背景にはいつも連続した状態で様々な音が入っている。客室でのアナウンス、自動音声、機械が発生する音、管制やカンパニーとのやりとりなど、これらの背景には常に一定の音が続いていなければならない。突然背景の音が変化するものでもなければ、音のトーンが変わるものでもない。あれは会話以外の音が故意に編集されているので、ボイスレコーダー生データとは言えない」と語った。 ボイスレコーダーの背景の音は、一定の音がずっと続いている。確かに、自分がビデオ撮影したものでも、カットして編集をしない限り、その場のその音は、自分たちの会話の後ろで一定の音量で続いているものだ。 この日航123便のボイスレコーダーの背景音には連続性のある音が聞こえてこず、公表されているものはカットと編集とコピーの繰り返しだと彼は語った。著者は、「報告書に文字で書かれたコックピット内の機長らの会話には辻棲が合わない部分が多数ある、急に雑音が入って聞き取りにくいというのが事故調査報告書に書けなかったという理由だとされている」と伝えた。 D氏の言葉を借りれば、突発的事態があったとしても、背景の音は一定であるのだから、急に雑音は入らないことになる。ましてや、空の上であって路上の交通でもないのだから、隣の車線を急に暴走族の車が爆音で走ってきて雑音がひどかったから、というような状況とは全く異なる。例えば、突然コックピットドアが破壊されたとか窓ガラスが割れたということもなく、会話が妨害されるほどの雑音が急に都合よく適度の間隔で入るわけがないのである。 D氏は、あれはコピーアンドペーストの産物であろうと語った。 私が指摘した目撃情報と報告書のズレについては、「例えば実際と異なる結論を出したいとき、政府の圧力で急ぐ場合などは、どうにでも言い訳をする場合もあるようだ。過去において、五十の目撃情報があったとしても、あの人は酒飲み、あの人はおかしい、あの人は反体制派、あの人は○○党だからなど、偽りの理由を付けて採用されないこともあったし、本人への買収(もちろんわからないように)やその人の子供や親戚の就職先の紹介等々、それで取り下げ、っていうこともある。まあ、いろいろあるのだろう。いずれもあってはならないことだが……」と苦笑いした。 だから、政府の思惑の介入は許されない、というのが彼の持論である。 彼はユーモアあふれる表情で、身振り手振りで語ってくれた。 公訴時効成立後に返却され、遺族が公表した機内写真を見せながら、そのときの機内温度がマイナス40℃で高度から割り出しておよそ十六分間も飛行していたと事故調査報告書に書かれている点と、写真を見る限りにおいて、乗客が半袖姿で機内にある毛布も肩に掛けず、寒くて凍えるような表情もなく、どう見ても十六分間もマイナス40℃の環境にさらされていたとは思えないと言うと、「毛布は急減圧で吹っ飛んだのだろうともいえるし、高度を下げて機内温度が上がってからの撮影かもしれないともいえる。つまり相手側は、なんとでもいえるのですよ」と言いながら、一般的な話として、機内温度と外気温の関連性やボイスレコーダーの録音チャンネルの説明をしてくれた。さすがに著者の詳細な調査や研究の内容は十分に伝わっていなかったようだ。実はロンドン滞在中に急にお会いすることになったため、彼の分の資料や拙著は持参してこなかった。手元のパソコン内にあるパワーポイント用の資料と写真しか準備できない。 そこで著者はWi-Fiに接続をして、今から四年前の二〇一五年八月十二日に、飛行航路真下で発見された相模湾に沈んだままの日航機の残骸のニュース(テレ朝ニュース)報道をその場で流して見せた。 するとそのニュースを見ていた彼の表情が真剣になった。海底で撮影された映像を見ながらこれはAPU(補助動力装置)とそのまわりにあるものだと言いながら、このような重要な証拠物を引き上げていないという事実に大変驚いていた。それも、水深一六〇メートルというさほど深くないところの、飛行ルート直下に沈んだ物体である。事故調査委員会が出した結論が、推定のままであって不起訴に終わっているのであれば、このような重要な証拠物を引き上げて再調査すべきところをいまだに放置しているとは信じがたい。当時もこれを引き上げることを検討すらせずに、なぜ報告書を書いたのか大きな疑問だ。現在において、その場所までわかっているのだから、生存者や遺族が真っ先に声明を出すべきである。生存者が四名いるのであれば、彼らの役割は必須である。それにしても日本の事故調査委員は何をしているのか、という呆れた表情であった。つまり、これはどう考えても当たり前に調査すべきことなのである。 さらに著者は、修理ミスとされる後部圧力隔壁は、実は日本と米国の事故調査委員が到着する前、つまり、詳細な合同調査をする前に、自衛隊が勝手な判断で、大きな電動ノコギリを用いて五分割してしまっていた、と説明した。それがあの安全啓発センターに展示されている。つまり、調査する前に現場を保存せず、意図的とも思えるほど、さっさとカットしたのだ、と伝えた。その理由を生存者救出というが、地元消防団で生存者を救助した人の話では、救助活動の現場とは全く関係のない場所だったという。さすがに電動ノコギリの件も、彼は全く知らなかったようだ。 著者は元日航整備士とも何度か連絡をとった。そのうちの一人、同機の事故前に点検を行っていた整備士は、国内線は何度も離着陸を繰り返すのでその都度空港にて簡単な点検を行うが、プレッシャー・リリーフ・ドアは、極めて通常通りで正常であったと言っていたことも伝えた。 なお、上記のプレッシャー・リリーフ・ドアとは、機体後部胴体にある圧力を逃がすためのドアのことで、IFALPA(国際定期航空操縦士協会連合会。本部はカナダのモントリオール)日本組織のレポートよれば、通常、B−747型機は、機体尾部にあるAPU(補助動力装置)によって始動に必要な圧縮空気が作られ、それを各種装置の動力源にしている。その高圧の配管が破損した場合に周辺の重要な部分が破壊されないよう、差庄が一定以上超えた場合にドアが自動的に開き、圧力を逃がす構造になっている。さらにAPU部分を含めた胴体尾部非圧力部分の最終強度は1・0〜1・5pSiとなっており、他の重要部分が破壊されないフェイルセーフ構造となっている。 だとすれば日航123便の垂直尾翼破壊の理由が尾翼上部トップに圧力だまりができて一気に破壊、という損壊理由は成り立たない。構造上、下から順番に圧力を逃がしているのだから、隔壁、垂直尾翼、防火壁、APU脱落と、すべてが同時に発生することは構造上不可能といえる。 考え込んだD氏は、海外での様々な航空機事故の事故調査が十分できていないケースについて説明をし始めた。特にマレーシア航空機行方不明事件については、いろいろな原因とその理由を説明してくれた。これについても、いつかは明らかになる日が来るだろう。 いずれにしても、その時の政府が介入してくると事故調査はやりにくくなり、その原因が政府側に不利にならぬような結論となる、というのは古今東西同じようであった。 大切なことはそういう現状を私たちも認識することである。それを簡単に許してはいけないのだ。これらを許すことは、時の政府の恣意的な基準をさらに曖昧にさせて、死者を冒涜するような無自覚な罪を作り出す。その結果もたらされるのは、原因不明や冤罪である。過去から学べない人たちは、その罪の重みを故意に感じないようにして避ける。当事者は老いてもなお隠蔽しながら生きていく。後に続く若い人たちの仕事を正当な根拠もなく妨害する。この検証なき繰り返しは、司法の良心をも奪い、意図的に改ざんする犯罪と組織を生み続ける。このような有り様を見て育つ子供たちに道徳を説くことなどできず、このような大人たちが作る未来に希望を持つこともできない。 これでは五二〇人の失われた魂に対し、鎮魂と言えないではないか、と強い怒りをあらためて感じた、と著者は述べている。 フィッシュスイミング 遅れて到着したスゥザンも加わり、今後のことについて話し合いをした。 D氏の提案は、この事件の解明とスゥザンのアイデンティティに関する問題は接点があるから、英国でも同時に進めていけばよい、そのためには次のようなことを覚悟していかなければならない。それは、フィッシュスイミングのようなものであるとD氏は説明した。 つまり、一本の直線上をまっすぐに行けば到達するというものでもなければ、くねくねと曲がりくねってわからなくなる場合もある。フィッシュ、つまり魚のようにくねくね泳ぐというイメージを持つこと、それが当たり前であること、さらに、英語圏の人たちに説明する資料を英語で作成することや、詳細なデータも英語で作ってアカデミックに情報を発信することを提案してくれた。特に著者が博士号を取得していることで広がるネットワークを駆使し、大学関係者とのつながりから門を開くことが大切だと力説した。自分もシンポジウムがあれば飛んでいき、いろいろな国の人たちにアカデミックに説明をするとD氏は語った。 実はすでに亡くなったご遺族の一人、Kさんという方が事故調査報告書を英訳して米国の専門家に配り、意見をもとめたことが過去にもあった。その際は米国の様々な分野の専門家がアドバイスをしてくれて、それを持ち帰り、日本の事故調査委員会に提出して意見を求めた。しかしながら、再三の要求にもかかわらず全く取り合ってもらえず、無視され続けたのである。 これでは同じことの繰り返しとなって意味がないし、日本にはそういった遺族を救済してサポートし、原因を追究するような民間組織はない。国の機関だけではなく、多角的なテーマを持つ民間組織が存在する米国や英国では、日本のように無視されつづける状態は考えられない。もっと違う角度から進めなければ、またうやむやにされてしまう。 そこで、D氏からは多方面のエキスパートとチームを組むことを勧められた。さらにメンタルな面を注意しなければならないという。特に政府側や、事故調査委員会側からの理不尽な扱いを受けたりすることで人間不信となっていき、精神的に参ってしまった遺族もいるという。 したがって、心理学専門の学者ともチームを組むことが大切であり、それは欧米ではかなり研究されている分野であるが、日本はどうなのだろうか、との質問であった。著者は学術的なネットワークで探してみるが、日本では遺族を対象とする専門的な心理学関係者はあまりみあたらないのではないか、と答えた。 確かに何人かの遺族の方と接してきて思うことは、ご自身が一度決定した事項についてもすぐに決定を覆す場面が多く、かなり心が揺れ動きやすいということである。特に父母を亡くした場合は、残された子供たちの精神状態も不安定である。スゥザンの二人の子供もそうであったという。特に長女は、父親の面影を知っているだけに、成人後に来日して御巣鷹の尾根に登山したことが、逆に非常に悪い印象を与え、それ以降精神が不安定になったそうだ。日本でも何年経っても、日航123便について語ることを嫌う子供が多いとも開く。それについてD氏は、おそらくすべての現実からの逃避が根底にあり、心理学者、精神科医からの適切なアドバイスは遺族関係者(特に子供)や生存者といった広範囲の人に必要不可欠であると言った。突然の悲しみに見舞われた遺族、特に妻や夫を亡くした場合はその配偶者は必死に生きなければならない。そうなると、片親となってしまった子供たちのケアが不十分になる。したがって子供への精神的サポートが絶対必要となる、ということだった。 連絡先として最後に名刺を交換すると、その裏には何やら不思議な写真が印刷してあった。そのまま横にしてみると、全く何かわからない。これは何なのか、とても気になった。黒い羽に赤い唇、縦と横と交互にして見ていた著者に微笑みながら、「これはブラック・スワンです。横から縦にしてみると見えてきます」 よく見れば名刺は横書きであるため、その裏に縦の写真ということで、わざわざ角度を変えてみなければその鳥は見えてこない。 航空機事故においてこの鳥は安全と理論の考え方の象徴として、多角的視点の必要性を訴えているとのことだ。ありえないことはないというのがブラック・スワン理論である。 その昔、英国では白鳥は白い色と決まっていたのだが、オーストラリアで黒鳥が発見されたことで驚愕した時代があった。それをもじって、予測できないことやありえないことはない、一方的見方に安住していると突発的なことが起きた場合、それによって非常に強い衝撃によって打ちのめされるため、あらゆる可能性を「ありえること」として考える、ということだ。簡単にいうとこれがブラック・スワン理論で、ナシーム・ニコラス・タレブの著作『ブラック・スワン――不確実性とリスクの本質(上下)』(ダイヤモンド社、二〇〇九年)で経済学的に提唱された理論である。自然災害も含めた不確実性の時代におけるリスクにおいても、黒い白鳥の存在を常に意識することで、絶対起こりえない、ということはないと準備する知恵でもあるのだ。 それを名刺の裏に、しかも縦に印刷しているとは、彼が所属する組織における心構えが十分伝わってきた。 この黒い白鳥の存在を日本の運輸安全委員会の委員の皆さんにも伝える必要性があると思った。ただし、伝えたからと言っても実行できるとは限らないだろうから無駄かもしれないわね、と思いながらスゥザンと目を合わせた。 初めて会ったとき、スゥザンは彼女の戸籍などアイデンティティ問題が長年続いたこともあって、心の奥底に、暗く固い砦のような塊があるように見えた。しかし、この数日間で次第に表情が柔和になってきたのは、この事件に関するあらゆることを知ることで、次の目標が彼女の中で大きく膨らんでいったからに違いない。活き活きとしてきた彼女の目を見ることは、著者にとっても嬉しかった。 シンガポールから帰国したばかりなのに疲れた表情も見せず、気づけば五時間以上も話をしてくれたD氏を見送った。 数日にわたり、次々と行われた長時間の会議は、耳に英国の独特の発音が降り注ぐ言葉のシャワーの連続であった。大学時代は英文学専攻でシェークスピアを原語で読むのは得意だったが、クルー時代は定番の接客英会話で十分だったので話すほうは苦手だ。急に決まった日程だったので必死に事前準備をしてきたが、英国人のその道のプロの人たちと上手にコミュニケーションがとれるかどうか不安だった。 ホテルの部屋に戻り、パソコンや荷物をドンと置いて大きな窓から赤いロンドン名物の二階建てバスを眺めて深呼吸をした。ようやく、自分に課せられたミッションを無事に果たすことができたという安堵感と充実感がみなぎってきた。 スゥザンもきっとそうだったのだろうと思いながら、ふとハイドパークを歩きたくなった。まだ太陽は降り注ぎ、ロンドンの夕暮れは明るく、日没まで十分な時間がある。 パンプスからお気に入りのスニーカーに履き替えて、パディントンからハイドパークまでの道のりをゆったりした気分で歩いた。 スゥザンは、このハイドパークの公園入口のマーブルアーチという門近くの高級住宅街にAKIと住んでいたそうである。バディントン駅周辺もハイドパークもよく知っていると語っていた。 溢れるばかりの思い出が詰まった場所なのだろう。自分が暮らした街というのは、一歩その場に踏み入れたとたん、想い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、そのときの自分に連れていってくれる。 そういえば、お会いしたO法廷弁護士は故ダイアナ妃と血縁関係にあるサーの称号を持つ人で、スゥザンの次女は名前がダイアナだ。そしてこのハイドパークにはダイアナ妃メモリアルがあるはずである。その場所を探しながら歩いていると、「Welcome to the Diana, Princess of Wales Memorial Fountain」(ダイアナ妃 プリンセス・オブ・ウェールズ記念噴水にようこそ)との看板が出てきた。下の写真がそれである。
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