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青山透子『日航123便 墜落の波紋―そして法廷へ
    (河出書房新社 2019.7.20刊)

 本書は、第一章 「外国人」遺族、第二章 隠蔽の法則、第三章 情報公開への道、という三つの章から構成されている。

| 第一章 | 第二章  第三章 |

第三章 情報公開への道

 執念と信念
 著者はイギリスから帰国後、英国人遺族のスゥザンと日本人遺族の吉備素子さんの二人を引き合わせたいと思った。二人は、ともに日航123便墜落によってパートナーを奪われ、大きな悲しみとともに数々の理不尽な体験によって、強い信念と不動の心をもって必ず真相究明を成し遂げるという執念を抱き続けてきた。
 遺族の吉備素子氏は、著者がインタビューを行った時に、以下に示すような三つの疑問点を挙げておられた。(『墜落の新事実』第二章参照)
 @なぜ、日本航空社長(高木養根氏)は自分と面談した際に「(首相官邸に行けば)殺される」と極度に恐れて動揺していたのか。
 Aなぜ、事故原因を追究すると米国と戦争になると河村一男氏(群馬県警日航機事故対策本部長〔当時〕)が言ったのか。
 Bなぜ、その河村氏が県警を辞職して大阪で再就職をし、時折電話をかけてきて、自分を見張っているような口ぶりで事故原因を追究しないよう圧力をかけてきたのか。
 
 吉備さんはご主人の遺体発見が難航したこともあり、何ケ月も遺体安置所に通い詰めた。五二〇人の遺体のうち、全体の約三分の一の完全遺体の人はかなり早く遺体が返却されたが、それ以外の遺族はその一部だけを引き取って自宅へ連れて帰るしかなかった。身元不明とされて安置所に保管された細分化した部分遺体の一つずつを手に取って、最後に供養したのが吉備さんだったのである。
 スゥザンは、家族として暮らしていた二人の子供の父親でもあるパートナーを失った直後に英国に戻り、その存在を隠すよう彼の職場から命じられていた。長年、子供の戸籍問題も含めて自分のアイデンティティが否定され続けてきたのだった。この二人が国を超えてタッグを組むことで、何か大きな力が彼女たちに与えられるような気がしたからだ。
 しかし、著者はこれ以上は法的な手段を講じなければ真相は明らかにされないということをずっと感じていた。
 50人以上の弁護士と会って相談してきたが、その中で浮かんできたのが、「情報開示請求」という方法であった。そのためにはかなりのエキスパート弁護士の力が不可欠だった。
 周囲の方々の推薦を得て、幸い情報公開のプロ中のプロといわれる三宅弘弁護士と巡りあうことができた。
 三宅弘弁護士は、第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長、関東弁護士会連合会理事長を歴任し、情報公開法のみならず、内閣府・公文書等の適切な管理、保存及び利用に関する懇談会委員や放送と人権等権利に関する委員会の委員長なども務めた方である。
 三宅弘弁護士からのリクエストで、事故発生時から時系列に並べた事実関係の一覧表と今日までに明らかになった出来事をまとめた書類を持参し、弁護士事務所で初めてお会いした。かなり緊張して深呼吸をしながら会議室で待っていると、「お待たせしました、初めまして」と柔和な表情で入ってこられた。その気さくな物腰に、やはり人望の篤い人というのはこういう人なのだ、と深く納得した。
 そこから、今まで暗かった道に灯りがともり、進むべき方向が見えてきたのである。
 
 保存が原則――公文書への認識
 「情報開示」訴訟へ向けて動き出すにあたって、吉備素子氏とともに小田周二氏らも加わってくれた。小田周二氏は十五歳と十二歳の二人の子供と三人の親戚、合わせて五名を突然失った。退職後には公表された墜落原因に異議を唱えた本を自費出版で二冊出している執念の方だ。彼らとともに三宅弘弁護士の話を聞いた。
 三宅弘弁護士は、それにしても、これだけ重大な死亡事故についての証拠物を日航という一民間企業だけが保管してよいはずなどない。その管理責任があるのもおかしい。資料も元本も(生データ)きちんと提出をさせて、公文書として国の公文書館にも保存すべきで問題である、と強く語った。
 また、公文書の情報公開は誰もが請求できるが、特に遺族は閲覧する権利を有しており、勝手にそれも恣意的には断れない。法に則り対応すべきとの見解を示した。
 そして、公文書が「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が、主体的に利用し得るもの」であると同時に、「公文書を適切に管理することは、公務員自身にとっても極めて重要である」と語る。公文書を適切に管理することは、行政が適正に効率的に運営されるために不可欠であり、これが民主主義の根幹だからである。しかし、ここ数年、森友、加計問題をはじめ、この根幹を揺るがすような事件が多発している。こうした事件からも、公文書の適正な作成、保管、利用を行う必要性があり、それは急務だ、と力説された。
 後世に対して適切な文書を作成し、保管、管理して情報を公開することが未来への責任であり、民主主義の基軸である。当たり前のことをきちんとすること、それが後世の人たちに対して私たちがなすべきことなのだ。
 もし、JALの未来の社員に対する責任感がひとかけらでも残っているならば、過去の過ちを認めてJALを楽にしてあげることにもなる、と著者は心底思った。
 三宅弁護士の話を聞きながら、遺族たちは、かついでいた重い岩をようやく下ろしたように安堵した表情となったのである。
 
 逃してしまった刑事責任
 誰もが知っている通り、日航123便墜落事故においては、日本では裁判は一切行われず、誰も刑事責任を取らないまま公訴時効が成立している。つまり、犯人は見つからなかった、または起訴するほどの証拠が集まらなかったということにもなる。五二〇人の命を失わせた人物が特定できなかったのである。
 刑事責任への告訴および追及の時系列は次の通りである。
 遺族たちは、墜落発生から八ケ月後の一九八六年四月十二日から八月十二日までの間、5次にわたり、日航、ボーイング社、運輸省の各幹部十二名に対して、業務上過失致死傷罪及び航空危険罪違反で東京地検に告訴したのである。合わせると告訴人が六百九十七人、告発人が三万三千四百四十一人となる。告訴ができる犯罪の被害者と関係者のみならず、これだけ多くの人たちが、直接に関係はなくとも告発人として、捜査機関に犯罪事実と犯人の訴追を求めていた。
 さらに、一九八九年七月から十一月にかけては、遺族たちは東京や大阪、群馬で街頭署名活動を行った。集めた署名の総数は、二十六万五千八百三十八人分であった。
 これだけの数の人たちが街頭で署名をしたその民意は残念ながら反映されなかった。
 一九八九年十一月二十二日に不起訴の処分が決定した。同年十二月十九日、遺族たちは前橋検察審査会に審査申し立てを行った。さらに九千九百四十三人分の署名も提出して、その後も署名活動を続けた。
 下の写真が、検察審査会への審査申立書である。その中にボーイング社の修理を行った部署の被疑者の氏名欄が不詳となっている。これがなぜ不詳なのか、については後日、実は明確にわかっていたにもかかわらず不詳のままにされていたということも明らかになった。




 一九九〇年四月二十五日、前橋検察審査会は、送検された二十名のうち日航職員二名、ボーイング社作業員二名の不起訴は不当、他は不起訴相当と決定した。それを受けて再捜査を行ったが、一九九〇年七月十二日に前橋地検は再不起訴処分を決定した。これが、刑事裁判ができなかったいきさつである。
 損害賠償請求の民事事件についても、国内二十一件、米国十二件、一九九三年四月二日までに、すべて裁判をすることなく和解に終わってしまった。
 法廷という公開の場で審議が行われ、資料を公開して事故調査報告書の信憑性を問う機会が失われてしまったのである。
 
 米国へのかすかな期待
 日航123便墜落事故をめぐり、一九八六年七月二十五日、乗客四十八人の遺族、百三十一人が日航とボーイング社に対して、今度は百五十八億円の損害賠償を求める民事訴訟として米国のボーイング本社が当時あったワシントン州のキング郡地方裁判所に提訴したという記録がある。
 吉備素子さんも原告の一人であったが、つい最近までこれを刑事裁判だったと認識していた。彼女はお金よりもまず犯人が誰なのかを明確にしてほしい、これを暖昧にされることはあってはならない、としてこの米国での裁判に心から期待をしていたのである。
 このときに裁判所に提出した訴状が下の写真で、その経緯は次に述べる通りである。




 一九八六年七月二十五日(現地時間)米国ワシントン州キング郡地方裁判所に訴状提出
                被告 ボーイング社及び日本航空
 一九八七年四月十日(現地時間)に被告の管轄不便宜抗弁に関しての「口頭意見陳述」が行われた。
 この意見陳述に対して、ゲイリー・M・リトル判事は、当裁判所にて責任の問題、損害の問題を分けることとし、責任問題においては、当裁判所で判断することとするとして次のように述べた。
 「何が起きたのか、ならびにそれがなぜ起きたのかについて当裁判所で決定する。何が起きたのか、ならびになぜそれが起きたのかという問題は国籍の如何を問わず、大変重要な関心対象となる。損害の問題をいかにして処理すべきかは、責任問題を処理して、他の裁判所にて損害がいかに決定されるかを調査したのちに決定する。
 なお、証拠開示命令は、本日より三十日間を期限とする。」
 このワシントン州キング郡の裁判官が語った「何が起きたのか、なぜ起きたのか、これらの問題は国籍を問わずにすべての人にとって重大な関心である」という言葉に対して、訴訟を起こした遺族たちは大変感動をし、期待を寄せた。
 というのも、このときの日本での報道では、刑事責任の捜査が難航し、このままでは誰も起訴できない、刑事責任が問われない、というようなことが伝わっていたからである。特にボーイング社側の修理ミスをした社員の名前は氏名不詳とされ、本人から話を直接聞くことすらできなかった。これについて、米国と日本の司法や考え方に差があってその壁が捜査を妨げる、という理由が挙げられていたからである。
 つまり、なによりも事故原因を明らかにすることが目的であり、その程度や責任に基づく正当な賠償を求めていたからである。ようやく第一歩としてこのように理解してくれる判事がいた、ということで遺族たちが喜んだのである。
 裁判官は、責任の問題と損害の問題をきちんと分けてとらえ、責任に関しては州内で明らかにすることを言っている。米国の陪審制度においては、ワシントン州キング郡に住む一般人が、公平で客観的な判決を決めるためにあらゆる証拠開示が行われなければならない。日航123便の墜落原因は、米国での証拠開示命令によって全容が見えてくるのだ。それを遺族たちは最も望んでいたのであった。
 日本側はK弁護士事務所と契約を交わした米国の弁護士が原告(遺族及び関係者)の代理人をしていた。そのうちの一人、R・K弁護士は、現在もなお自身が創設したシアトルの弁護士事務所にて、六名の弁護士とともに百以上の航空機犠牲者の訴訟を担当している。
 しかし、「ボーイング社損害賠償義務の根拠となる原因事実の確定」が争点となった一九八七年六月十九日(前回から二ケ月後)の訴訟手続き口頭弁論では、ボーイング社は当初の主張「修理ミスを一つの原因とし、全体の損害賠償義務が存在する」を次のように「ボーイング社に全損害の賠償義務が存在する」と改めてきた。すなわち会社の全体で責任を持つといった判決を求める提案に修正したのである。これでは修理ミスをした人間個人への喚問やなぜそのような修理ミスを行ったのかが不明確となってしまう。遺族たちが最も明らかにしたかったこの部分が欠落してしまうことになる。
 その背景にあったのは、一九八七年六月十九日、すなわちこの口頭弁論のまさにその日に日本で正式に運輸省航空機事故調査委員会報告書が発表されたことである。この内容をふまえてボーイング社は修理ミスの部分を曖昧にして、全体責任のような形で提案をし直したことになる。
 これに対して原告の遺族側は声明文を出し、事故調査報告書の偏った内容とデータの不備を訴え、認定に至った資料やその存在すら明らかにしていないと批判している。
 これには裁判所側も、賠償義務の根拠となる事実の確定がもっと必要であるとした。
 それに対して、ボーイング社は、事故調査報告書の結論部分(修理ミスで事故発生したとの推論)を示しながら、当該部分を責任原因事実とする、とした。
 この提案に対しても、裁判官はこの箇所は最低限であって十分ではない、と回答をした。
 その結果、裁判所は、原告、被告双方で、さらなる原因事実の確定について協議をするように命じた。また、裁判所は、賠償額確定についての正式事実審理をワシントン州で引き続き行うか、日本の裁判所に移送するかの判断を行うとし、日程は次のように定められた。
 同年 七月二日 原告、被告双方準備書面接出 損害の管轄に関する当事者の主張
 七月十日 原告、被告双方が七月二日の相手の主張に対し、各自反論提出
 七月二十四日 双方の主張を検討、公開口頭弁論、弁論終了後裁判所が判断
 これに対して原告の遺族側は声明文を出し、事故調査報告書の偏った内容とデータの不備を訴え、認定に至った資料やその存在すら明らかにしていないと批判している。つまり、この報告書では明確な資料もなく、論拠となるものを示さずに尾部胴体及び垂直尾翼が吹き飛ぶための与圧空気に関する計算ばかりが先立っている。
 たとえ与圧空気を放出する目的のプレッシャー・リリーフ・ドアの機能を超えた圧力があったためにその放出に至らなかったとしても、その元データがあまりに不備であることから、このような報告書では再発防止策にもつながらない、と強調している。
 結局、一九八七年七月二十四日の「公開口頭弁論」において、裁判所側の判断としてボーイング社による修理の欠陥と事故の因果関係を設定し、損害賠償額は日本の裁判所で決定すべきものとの判断が下った。
 これに対して、原告は不服申し立てをしたが、同年九月四日に原告側不服申し立ては却下され、さらに原告側上告も、一九九〇年八月二日に、ワシントン州最高裁判所で上告も却下された。
 こうして、遺族たちの期待は実現することなく、修理ミスの部分が曖昧にされたまま、
 米国での裁判も終わり、日本で公訴時効を迎えたのであった。
 
 「日本政府にも殺されたけど、米国政府にも殺されたようなもの」という言葉が原告団の深い悲しみを表現している。
 これらの米国での裁判記録を見ると、そもそも民事裁判の主旨から考えれば、相手側(ボーイング社)が自分たちに責任がないと主張すれば裁判という手段になるのは当然だが、自分たちに責任があると認めており、その賠償額についても争いがあるともいえない現状では、裁判所側も原告の要求通りに事を運んでいるように見える。
 しかし「なぜ遺族たちは、損害賠償請求を米国に持っていったのか」という根本的な本音の部分を熟考しなければならない。
 事故原因を考える上において、このときは弁護士も遺族も誰もがボーイング社の修理ミスで引き起こされた事故、と考えていたのだろうし、日航とボーイング社以外に墜落の原因に関わった人がいたとは全く考えていない。そのような中で相手が認めているにもかかわらず、なぜ遺族たちは必死に原因の事実認定の確認を望んでいたのだろうか。おそらく、このままでは事実が曖昧になって、刑事事件も不起訴で終わる、という危機感を抱いたからではないだろうか。そのためにも修理ミスを犯した担当者本人の答弁が絶対必要である。本当に修理ミスをしたのか、それをミスと認識していたのかどうか、この確認が最も重要であったのだ。それが一切なされず、それでどうして結論が出ようか。
 結局のところ、その危機感は最終的に現実のものとなった。
 もし政府側にとって、本当の原因が明らかになることでなんらかの不都合が生じる場合、この事実関係を白日の下にさらけ出されることを極端に恐れる。したがって裁判という公開の場にこの案件を持ち出すことさえ禁じたいわけである。後から考えると、五二〇人も死亡しているにもかかわらず、日本国内では刑事も民事も一切、裁判とならなかったことがそれを物語っている。
 私たちに問われていることは、いま五二〇人の死とどう向き合うかである。
 
 米国公開資料から見る不時着の可能性
 一九九五年八月十日、米国側の日航123便に関する事故原因の関連資料が公開された。
 これらの資料は国家運輸安全委員会(NTSB)とアメリカ連邦航空局(FAA)間での書簡やボーイング社による反論などが記載されており、膨大な文書のやりとりがあったことをうかがい知れるものである。マイケル・アントヌッチ元米軍中尉の、米軍は墜落場所を視認し、救助しようとした、という事実に関する証言の十七日前となる。同日付新聞各紙にもその一部が掲載されているがそのうちの三点を記録として書き記しておく。
 1 ボーイング社からFAA宛ての文書
 FAAの事前通知書にはすべての油圧系統が切れた場合に操縦不能という明記があるが、それは正しくない。事故機は推力のレバー操作で制限はされるが、操縦することが十分できた。分析によれば、旋回、上昇、下降、といった操縦性が維持されていた。フラップも出すことはできた。事故機は、垂直尾翼や方向舵の相当部分を失った状態だったにもかかわらず、すべての油圧系統が切れた後も三十分も飛行していた。(一九八七年四月十七日付)
 2 FAAから米国家運輸安全委員会宛ての文書
 事故機の圧力隔壁に補修板が与えた影響については分析されていない。当時の修理規定は、圧力隔壁に補修板を使用することを明確に禁じていた。この修理はFAAの承認を得たものではない。(一九八八年一月二十九日付)
 3 FAAの見解[関連する規制、方針、背景]
 この事故機は、日本航空によって運営されていた。修理は日本航空との契約のもとで、飛行機の製造業者によって行われた。もしこの修理が米国の航空会社によって所有、または運営されている飛行機で行われたならば、言及された規制は完全に適用可能だったろう。
 
 確かに、1に書いてあるようにボーイング社の言い分は後の航空機事故で証明された。
 例えば、一九八九年七月十九日ユナイテッド航空232便が、油圧系統が機能せずに操縦が困難な状態に陥ったが、結果的には空港に不時着し、六〇パーセントの人間が生存できた。DC−10型機ではあったが、日航123便同様の困難な状況に陥ったとされる。
 油圧がだめなら操縦できないという理論の予想をうちくだいた例である。
 しかしながら、日本の運輸省航空事故調査委員会では、123便の場合は生還はできなかったと結論づけており、油圧のすべてを失った場合について飛行模擬装置を使って実験したが不可能であったとしている。さらに新聞記事には、ボーイング社の主張は権利意識の強い米国ならではですね、という事故時に事故調査委員だったF氏のコメントまで書いてあるが、他の生還できた事例はたまたまだったと言いたいのだろうか。一つの可能性として、油圧系統が機能しなくなったとしても、不時着できる可能性がゼロではなかった、ということは後に起きた事故で明らかになったのである。
 次に、御巣鷹山域の通称一本から松に第4エンジンがひっかかり、最後はそれが原因で墜落した、というのが群馬県警の現場検証の結論だが、このから松の存在は米国の調査資料には一切出てこない上、現場検証の結果も書かれていない。




 写真のように樹齢二百年と言っても、その根本ではなく、先の細くなっている上の部分に激突というのである。ちなみに、ジャンボジェットのエンジン一基の大きさは全長4メートル、直径3メートル、重さ7トン(普通乗用車七台分)だが、この貧弱な木にひっかかったぐらいで、これほどまでにエンジン側が木端微塵にバラバラになるのか大きな疑問が残る。
 この件について工学関係や力学関係の研究者に見せたとき、群馬県警発表のから松の写真を見て大笑いされた。木の側が折れているのだから、力学的にも木のほうが簡単に負けているわけである。頑丈な鉄塔ならばまだしも、木の上部に接触したぐらいで、巨大なエンジンが細切れに跡形もなく、バラバラになる理由が、逆にわからない、とのことだった。
 当然のことながら、その直後の墜落時に巨大な岩に激突した場所から、他の三つのエンジンはある程度の形をとどめたまま発見されているのである。
 事故調査報告書でも、第4エンジンのバラバラ事件について辻棲の合う説明は全くなされていない。
 英国でお会いした航空機事故調査の専門家のD氏の言葉が浮かんでくる。
 「なんとでも書くのですよ、相手側はね」。本当にそうである。




 著者が本を書くにあたって気をつけていることは、出典が明確であること、直接のインタビューで得た信頼のおける確実な情報をもとにすることである、と述べている。
 そこでその目撃者の証言どおり、2機のファントム機を見た時間を時系列に沿って並べてみると、その第4エンジンバラバラ事件に至る経緯が見えてくるかもしれないと考えた。
 (『墜落の新事実』参照のこと)。
 
 18:35 静岡県藤枝市上空 日航123便を追いかけて山の稜線ギリギリの超低空飛行
 18:40 群馬県吾妻郡東村上空(群馬県北西部)ファントム2機を自衛隊員が目撃
 18:45〜54頃 群馬県上野村の住民、子供たちが日航機とファントム2機を目撃。
 数分後に2機のファントムが埼玉県方面へ向かったのを目撃
 この時点から墜落までの間、群馬県上野村周辺、長野県川上村(レタス畑)周辺を低空飛行している。
 18:56:28 日航123便が上野村の御巣鷹の尾根に墜落
 
 上野村では赤い飛行機(赤い物体)が目撃されており、赤い閃光や爆音、雷のような音など、多数の爆音と轟音が聞かれている。
 緊急発進におけるF−4El(ファントム)2機の飛行時間を30分とすると、18:30に茨城県百里基地から飛び立ったとして、墜落現場付近までは直線で154キロメートルであるから、帰り時間を5分とすれば、実際に上野村上空で滞在可能な時間は20分となる。飛行環境や天候、残燃料を考慮して安全に基地まで帰るには、少なくとも18:55には上野村を去って百里基地へ向かわなければならない。となると、18:56:28に日航機が墜落する直前までその場にいたか、第4エンジン(B−747型機の翼にある四基のエンジンのうち一番右端のエンジン)を狙って撃ったとなれば、第4エンジンのバラバラ状況はそれを示していることになり、日航123便は右端の第4エンジンを撃たれたことでバランスを崩して傾いて急降下して山の斜面に激突したとなると辻棲は合う。
 第4エンジンがバラバラに散乱した現場には、報道関係者や消防団など一切の立ち入りが禁止されたということからも、この現場における不可思議さが残る。
 特にF-4EJは、昭和五十六年(一九八一年)以降六年間ほど、防衛能力向上のために改修が行われている。そのため一九八五年も改良中であった。レーダーシステム等の近代的装備改良、通信能力向上、搭載ミサイル、爆撃機能向上などが行われ、空対空レーダーミサイルや空対空赤外線ミサイルが武装されていた。
 現場状況からも、木端微塵の状態になった第4エンジンが、なんらかの武器によって破壊された形跡があるという疑問はぬぐえないのである。
 もし相模湾で通常のフライト中のJAL123便に対して、海上自衛隊が護衛艦まつゆきの公試中にオレンジ色の飛翔体が飛び出し、日航機の垂直尾翼の一部を破壊し、(目撃者の証言によれば)飛翔体が胴体部分にくっついたまま低空飛行していたとするならば、それをF-4EJのパイロットが外から見て確認をし、横田基地への緊急着陸が無理と判断し、二次被害の大きい市街地を避け、山の中への墜落(不時着)を促したとすれば、さらにJAL機が何処を向いて飛んでいくのかわからないゆえの緊急避難としてエンジンの一つを撃ち落としたとするならば、そこには当初は考えていなかった想定を超えた理由が存在しなければならない。以上のことは、憶測の領域ではなく筋の通った推定であるが、これならば目撃証言や現場検証との矛盾は見られず、一本の筋が通る。
 しかし最低限の被害に留めるために、人命優先の緊急救助や緊急対応が必須となる。自衛隊にはその能力が十分にあり、事実、いち早く救助に駈けつけようとしていた隊員もいた。自衛隊に求められるのはこういう期待可能性である。期待可能性とは、行為者が適法行為を行うことが期待できるという刑法の法律用語である。当然のことながら、訓練に失敗は当然ある。その失敗を認識し、それに適法に対応することこそが信頼関係を築くのであって、それをせずに放置し、故意による遺体損傷や、救助活動を放棄することは、どのような言い訳も通じないのである。過失でやってしまったことへの対処が適法であったか否か、ここが重大な問題だ。そこを履き違えてはならず、これができずに別の言い訳を重ねて得られる信頼などない。政治家もそうである。苦渋の選択だったのなら、それを語ることこそ自分への誇りだろう。一昔前のように、墓まで持っていくということは、いかにも自分がすべてを背負っているようだが、逆にいえば自らの罪を認めていることになり、もはや誰もその言動を称賛できない。
 事故調査報告書も、その内容を反映した米国NTSBの捜査資料も、第4エンジンの状況や現場状況の不自然さに言及していない。
 無言が事実を物語っているのである。
 
 生データの行方
 情報公開法施行前に、一部の遺族が再調査を申し入れていたにもかかわらず、一九九九年十一月に裁断、破棄された日航123便に関連した資料は、実はマイクロフィルムで保存されていることがわかった。
 二〇〇〇年八月十五日の記者会見にて、事故調は「昨年十一月に破棄した原本資料はすべてマイクロフィルム化して保存している」と説明していたのである。航空事故の資料については、文書管理規則にて、航空機事故調査報告書は永久に、調査資料は十年と保存期間が決められている。保管スペースの問題から十年を過ぎた資料は随時破棄しているが、その際に必ずマイクロフィルムで保管しているとのことで、もし再調査になったとしても十分対応できる状態であることを強調している(二〇〇〇年八月十五日付『毎日新聞』大阪版 下の写真参照)。




 そこで三宅弘弁護士と相談の上、遺族の小田周二氏が情報開示を求める書類を国土交通省に提出した。
 国土交通省から、これは運輸安全委員会の所掌事務なので運輸安全委員会宛てに開示請求を行っていただいとの返答があり、あらためて運輸安全委員会宛てに書類を送った。情報公開法では、開示請求があったときから三十日以内に返答をしなければならないとあるが、さらに三十日間の廷長が可能となっていて、予想通りに三十日問の延長の通知が届いた。この原稿を書いている現時点で、令和元年六月十日まで延長、となる。さてこの本が世に出るときには、どのような答えが出ているのだろうか。




 さて今度は、日本航空側が所有しているというボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データであるが、遺族の吉備素子氏が日本航空に対してそれらを開示してほしいという文書を群馬県のA弁護士を通じて出していた (二〇一八年二月二十八日付)。
 当時の日航は植木義晴社長であったが、その答えは次の通りであった。
 「日本国が加盟しております国際民間航空機関(ICAO)の定めた規程(Annex13)にて、ボイスレコーダー及びフライトレコーダーの記録は公的な事故調査機関による調査の目的以外には使用してはならないとされております。弊社としましてはこの規程に従い、開示につきましては控えさせていただきたく存じます」として、その返答書には、ボイスレコーダーの記録は事故調査報告書に詳しく書いてあるのでそれを参照してくださいと書かれていた。
 まず、この時点で両レコーダーの生データに関し、「弊社は保管していない」でもなければ、「持っていない」でもなく、間違いなく保存しているということを前提として書かれていることになる。
 ところが、植木社長はここで「公的な事故調査機関以外に使用してはならない」と書いているにも関わらず、日本航空が過去にNHKの番組に協力してボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データを公開していた事実があり、そのビデオが残されていたのである。
 これは日航123便のものではなく、一九七二年の日航機ニューデリー墜落事故についてその事故原因を探るという番組(NHKドキュメンタリー「あすへの記録 空白の110秒」) であったが、テレビという、一般人の誰もが視聴することを前提としている番組に協力していたのである。しかも事故発生から一年後に作られたものであるから、ずいぶん早く公開していたことになる。
 つまり、「公的な事故調査機関以外は使用できない」という嘘を書いて、遺族の代理人であるA弁護士に対して、騙した内容で回答したことになる。もしも、他の日航機事故なら開示できて、日航123便の場合だけはできないというならば、その理由を添えればまだよかった。どうせ相手はわからないだろうと、それをしなかったため、ICAOの条文を都合よく理由に出してきたのだとばれてしまったことになる。このやり取りからもわかる通り、遺族に対する回答として到底誠実なものとは思えないお粗末なものであった。
 さて、そのビデオにたどり着いたのは、実は著者がインド在住の遺族と連絡を取ったことが発端だった。
 
 灼熱のインドからの手紙
 話は少し戻る。前著(『遺物は真相を語る』)にて大学の研究機関での調査結果を示し、真撃に事実を追究した内容について、それを茶化し、金儲け本とのレッテルを貼った週刊誌の記事の中で、元日航チーフパーサーで航空評論家をしている秀島一生氏が「遺体の焼け方が激しかった例としては一九七二年の日航ニューデリー墜落事故が挙げられ、123便に限った話ではありません。(中略)事故原因の真相解明を求める声がこの本のような陰謀論と一緒くたにされてしまいかねず、非常に困ります」と述べていた。ここまで明確に言い切るのであれば、秀島一生氏は、よほど具体的に一九七二年六月十四日にニューデリーで起きた墜落事故の遺体状況と日航123便の遺体状況を比較検討なさったのだろうと考えた。
 前著(『遺物は真相を語る』)では、著者は当時の医師たちから詳細な検死結果を入手してインタビューを行い、日航123便で亡くなった全員の遺体状況と写真を分析した上で慎重に執筆した。
 そこでまず、その検死と身元確認を行った医師に、航空評論家と名乗る秀島一生氏が先生のところに取材に来て、検死結果の資料を渡されたことがあるのかを確認したが、その名前を聞いたこともないし、検死写真も渡していないとの答えであった。群馬県警察医でその先生以外に当時の状況を知り、詳細な資料を持つ人はいない。念のため他の医師にも確認をしたが、その航空評論家を知らなかった。つまり秀島一生氏は、日航123便の遺体状況の調査もしていない上、焼死体の調査をしていないにもかかわらず、あのように雑誌で発言したことになる。これがどういうことを物語るのか、ご自身が一番よくわかっているはずである。秀島氏の言葉を借りるのであれば、これでは真相解明を求める声に対してあまりお粗末すぎるのではないのか。そして航空評論家としては語るに落ちる体たらくぶりと言わざるを得ない。
 そして著者自身は、具体的に比較検討するにあたって、ニューデリー事故の遺体がどのように焼け焦げていたのかについて把握しておかなければならないと考え、詳細に調べてみた。その結果は次の通りである。
 一九七二年六月十四日(現地時間)、東京(羽田空港)発ロンドン行の南回りと呼ばれていた日本航空471便・DC−8型機(乗客七十人名、乗務員十一名、合計八十九名が搭乗、乗客乗員は十六ケ国にわたり、そのうち六十四名が外国人)は、バンコクを離陸してインドのニューデリー・パラム国際空港に着陸しようとして失敗し、午後八時五十五分(日本時間十五日午前零時二十五分)、着陸寸前で空港から南方約二十五キロのジャイトプール村のジャムナ川土手に墜落した。日本航空471便ニューデリー墜落事故である。当初、十三名が生存していたが、うち八名が全身火傷で間もなく死亡、残る五名の状況は次の通りであった。
 ◆イタリア人と結婚した邦人女性三十四歳――頭、顔、手足第三度の火傷、意識明瞭
 ◆日航アシスタントパーサー二十七歳――足挫傷、頭部打撲、脳内出血意識不明
 ◆英国国籍の姉妹のうち姉四歳――左太もも、右肩骨折
 ◆右の妹二歳――左上腕骨折、大腿部骨折、頭部打撲
 ◆スウェーデン国籍十一歳女児――左前腕骨折、右ひざ打撲
 これらの生存者全員が女性であった。さらにその数日後に邦人女性と日航アシスタントパーサーが亡くなり、最終的には八十六名死亡、三名重傷の事故となった。
 火傷の状況だが、新聞記事では「散乱する黒焦げ遺体、我が国初の国際線惨事」との見出しがある。ちょうど空港周辺の土手で工事を行っていたためにインドの労働者四名が巻添えで亡くなった。
 前方の乗客の三十二体は焦げておらず完全に近い遺体であった。その理由としては「主翼の燃料タンク付近が土手に激突したため、前方を除く中央部から後部にかけて火に包まれた」との見解だった。気温40℃を超す夏の砂嵐が舞う中での作業ゆえ腐敗と傷みが早く、日航側は現地で棺を作らせ、ホルマリンの調達や東京からドライアイスを空輸するなどの対応に追われた。一数枚の遺体写真は確かに黒焦げ状態に見える。ただし細切れの炭の形はないようだ。表面は真っ黒であるが、骨の炭化の有無までは医師の検死結果が入手できないと明確にはわからない。ただ、身元がわかるくらいの衣類の切れ端や、もみじ柄の和服を着た若い女性、というように衣類の一部が遺体に残っている。日航123便の場合、炭化遺体は歯型以外にはわからないほど骨の奥まではっきりと炭化しており、衣類もすべてが炭の状態になっていた。そこには差異が認められる。つまり表面的な火傷と骨の奥までの炭化とは別であって、ニューデリー事故の遺体状況は日航123便の場合とは異なると推定される。
 当時の目撃証言は、機体は火だるまとなって後ろから火を噴いていた、いったん持ち上がって墜落した後部が爆発したなど、当時は中東テルアビブ空港乱射事件に伴って中東路線でのハイジャックや爆破予告が多かったこともあり、日本の警視庁でも捜査員を現地に派遣して捜査をしたとのことだった。
 インドでは、国際路線に外国人搭乗者が多いことに鑑み、自国のみならず他国と関係が深い航空機事故に関する調査は、ニューデリー高等裁判所において行うことになっている。当然のことながらボイスレコーダーやフライトレコーダーを含むすべての資料の調査を公開審判形式で行っていく。この日航機事故についてもその旨が決定し、事故調査委員長にはパーカッシュ・ナレイン判事、委員にインド側の航空飛行審査官やインド航空の機長などが任命され、約八ケ月にわたって六十回以上の公開審理を行った。日本側は、代理人としてインド人弁護士を立て、日本航空のT・T機長、運輸省航空局のK技術部長、A事故調査課長が代表となった。法廷では目撃証言、技術や医学調査など米国の専門家や研究者、事故機前後に空港にアプローチした機長など関係者に証言をさせた。これらもすべて公開形式である。特に、なんの損傷もなかったボイスレコーダーの公開日には、多くの報道関係者が傍聴した。現地の日本人特派員たちは、初めて生のボイスレコーダーを聴くことができた。墜落直前までのパイロットたちの会話が事故原因究明にどのように役立つのか、その一部始終を公開裁判というオープンな場で体験したのである。
 一九七三年一月七日付新聞各紙によれば、結局のところ、日航パイロットの操縦ミスが主原因と発表され、同年六月二十二日、事故発生から一年後に裁判の結果を踏まえて最終報告書が出された。
 結論は、着陸直前まで滑走路の位置や高度の異変に気づかなかった「日航のパイロットミス」と断定されたのである。この結果にはインドの空港設備の欠陥は反映されていなかった。当初より、他の航空会社の機長からの証言通り、パラム空港のILS(計器着陸装置)設備の不備で、ゴーストビームが出やすく、誤った誘導電波によって降下高度のミスを犯しやすいといったことが指摘されていた。その欠陥説を一部認めながらも、最終的にはパイロットミスという形にインド政府側が決定したのだ。
 このことが背景にあり、新聞各紙は「後味が悪い結末」、「インド政府の一方的発表」としている。日航側はそれを不服として再審請求を行っている。つまり日航とインド政府の見解の相違によって事故原因の真相が明確にならず、単なるパイロットミスとされたことに対して、日本航空は納得できない結論との見解を出したことになる。
 実は裁判と並行して、日航側はボイスレコーダーの聞き取りにくい部分の解析を富士ゼロックス研究所に依頼していた。会話の発声者と詳細な内容を明らかにすることで事故分析を試みようとしていたのである。
 この模様を放送で公開したのが、NHKのドキユメンタリー「あすへの記録 空自の110秒」(一四八頁も参照)である。しかも、これはなんとインド政府の事故調査報告書が出る直前の一九七三年六月十五日の放送であった。ニューデリー事故の遺体状況を調べていて偶然この存在を知ったのだが、その日時と内容を見て驚いた、と著者は述べている。
 これでわかる通り植木元日航社長による遺族への返答、「事故調査機関以外に自分たちが公表することはできない」というのは全くの二枚舌なのである。日航はボイスレコーダーの音声を自らテレビで公開しているである。したがって、元データの公開不可能という見解は否定されることになる。なお著者は日航123便事故の海外の遺族関係者にも、このビデオが存在することは伝えている。
 実はこのニューデリー事故の翌日、今度は南ベトナム(当時)の上空でキャセイ・パシフィック航空が空中分解を起こすという惨事が起き、邦人十七名(うち十二名は群馬県の観光団体)を含む乗客乗員八十一名全員が死亡する大事故が起こった。
 当時の新聞記事には、キャセイと日航の記事と悲嘆にくれる遺族が交互に出ており、惨事続きと事故原因について、墜落の謎解きが繰り広げられていた。特に当時は戦時下のベトナムゆえ、信頼される情報として、米軍チャーター輸送機や米軍のF4ファントム戦闘機が衝突したと語る南ベトナム政府軍スポークスマンや、ミサイルに当たったという説が出て、米軍側と南ベトナム政府軍が見解を対立させ、キャセイ航空側が沈黙するという異常事態であった。
 ここでのポイントは、事故調査は政府筋の関係による圧力の介入によってゆがめられやすいというD氏の言葉通りだということである。
 それにしても、日本航空側も自分たちが納得しない場合は生データを公表しているが、そうではない場合や日本政府の意向によっては、その情報を遺族にすら開示しない、という恣意的な判断を行ってきた。遺族への情報開示は自分にとって不都合だからしたくないということになる。これはいい、これはだめと勝手な判断で行うことは、公共交通機関としてあるまじき行為であり、こういった意図的なやり方について、三宅弘弁護士は断じて許されることではないと語っている。
 著者はこの点も踏まえて、早速インド在住の遺族と連絡を取った。
 その男性は当時まだ学生で、仕事で来日していた両親を日航123便墜落で失った。著者の本を英語で要約し、資料とともに送付した。そこで彼から連絡をいただいたのである。
 彼も日航123便の墜落原因が不明のままだったということを初めて知ったとのことだった。
 彼はこれからの展開に大変興味があるとして今後も日本の遺族とつながりながら自分にできることをしたいと語り、情報を交換し合うことを約束した。
 外国人遺族と呼ばれる彼らの存在はあまりにも無視されている。損害賠償金を払ったのだからこれで終わりという態度が見え見えである。逆の立場だったらそういうわけにはいかないだろう。今こそ国境を越えた遺族同士のつながりは重要である。念のため、あの日の「外国人」搭乗者名を明記しておく。
 
 
 
 日航123便墜落事故 外国人(外国籍)犠牲者名(合計22名)
 
 1.Edward Anderson 国籍:アメリカ 享年48歳 男性 化学薬品会社出張中
 2.安時煙(Ahn Chiou) 韓国 52歳 貿易商 男性
 3.楊紫丹(Yeung Chi Dan) 香港 22歳 女性 機電工程師
 4.ヴュルナー・ハラルド・グェルケ(Werner Harald Guerke) 西ドイツ(統一前当時) 33歳 男性 貿易商
 5.キム・オクジャ(Kim Okja) 韓国系アメリカ人 43歳 女性 看護婦 中央日報大阪支社長の妻
 6.キム・チェイストファー(Kim Chaistopher) 同右 前者の長男 16歳 高校生
 7.キム・スコット(Kim Scott) 同右 前者の次男 13歳 中学生
 8.キンブル・ジョナサン・マシューズ (Kimble Jonathan Mathews) イギリス28歳男性 婚約者の西口昌子(享年25歳)と一緒に大阪で結婚式のために来日
 9.クラウバルト・ジョチェン (Klaubert Jocben) 西ドイツ 53歳 男性 BASFジャパン常務
 10.スリーモーハン・チャウチャリア(Shreemohan Chhawchhara) インド 40歳 男性 カルカッタのアセチレン会社副社長で商用
 11.譚澤霖(Tam Chak Lam) 中国(香港在住) 72歳 男性 会社役員
 12.張麗娟(Cheung Lai Kuen) 香港 27歳 女性 会社員
 13.トリプタ・ムカージ(Tripita Mukherjee) インド 35歳 女性 夫と一緒に商用と観光で来日
 14.カルヤン・ムカージ(Kalyan Mukherjee) 同上 41歳 男性 前者の夫 コンサルタント
 15.アンドレア・モローニ(Andrea Moroni) イタリア 17歳 高校生 父親と来日中
 16.ジャン・カルロ・モローニ(Gian Carlo Moroni)同上 49歳 前者の父親 男性 会社役員 息子と大阪へ向かう途中
 17.李國光 香港 58歳 男性 貿易商
 18.李恵慶 韓国 21歳 女性 学生
 19.崔甲順(Chung Soon Duck) 韓国 45歳 女性 主婦
 20.ワーレッチ・ウィルソン・ウォード(Wallach Wilson Ward) アメリカ 26歳 大学研究生
 21.葉瑞祥(Yo Nue Sho) 中国(広東省) 37歳 男性 貿易商
 22.一人身元遺体未確認者(Michael Hanson) アメリカ 男性
 
 
 終わりに
 
 公文書は未来のための記録

 「自分の子供のいのちに値段をつけること、それを迫るのが補償交渉である」
 「そのお金、あなたにあげるから私の主人のいのちを返してくださいと言って、その場で銀行から調達したお金を日航職員の目の前に積んで見せたんよ」
 ご遺族からこの言葉を伺ったとき、私のこころに小さな灯りがともされた。
 あれから数十年を経て、この灯りは今では国境を越えて世界中に広がり、次世代へと伝わっている。もう誰にもこの灯りを消すことは許されない。むしろこの灯りを広めることこそがこの国で暮らす私たちの使命である。長い年月をいたずらに先延ばしにすることは許されない。
 司法の場において不起訴となったことは、結果的にボーイング社、日本航空、管理監督責任のあった運輸省(現・国土交通省)航空局は加害者ではない、という認識が成り立つ。
 それについて現在、航空局にいくつかの質問をし、面談を申し込んだ遺族の小田氏に対し、航空局総務課課長のH氏からの回答には、
 「(前略)当局は本件につき加害者であるという認識は全く持っておりません(後略)」という明確な答えが記されている(二〇一六年十月二十一日付)。
 さらにもう一行、念のためと思ったのだろうが、次の文章を付け加えている。
 「当方にはこの点について議論の余地がないと考えているのでこの点をご理解いただくことがお会いする前提です」というのである。
 その後、十二月十六日付メールでは、「局内、省内各局及び他省庁との調整など多忙を極めていることから、面談は1時間とさせて頂きます」と時間設定をしてきている。多忙を極めている理由がいずれも内々での仕事である。
 墜落で二人の子供と親戚三人の五名を失った当人に対して、「私たちには、明確に責任はない」と言い放っている。どういう理由で、責任がないというのだろうか。無責任体質そのものを自らの言葉で語っているのである。
 なお、小田氏は国土交通省に出向き、二〇一六年十二月二十一日に一時間のみ面談を行った。その際に、事前に伝えていた事故原因に関する議題は削除され、すべては事故調査報告書の記載通りであることや、「本件航空事故の刑事訴追に係る検察庁の判断に閲し、国土交通省航空局は関与する立場になく、お答えできません」との回答であった。さらに最後は、公開質問状を持参した小田氏からそめ質問状を受け取りもせず、逃げるように会議室を出て行ったそうである。帰り支度をしていた時その部下が戻ってきて、とりあえず受け取ったそうだが、その後一切、質問に対する回答が来ていないという。
 国土交通省側がこうやってその場しのぎで言い逃れてきた結果、時間ばかりが経ってしまったのである。会社組織の中での役割を終えて退職すれば、担当者は全く無関係となる。
 次の担当者に引き継ぎさえすれば終わりである。しかし、遺族はすっきりしない思いを抱えてずっと生きていかなければならない。
 それにしても、ここまで必死に自分たちの組織を守ろうとするということは、よほどやましいことがあるのか、相手のことなど考えていられないほどのなりふりかまわない状況ということになる。
 一方日本航空側は、「補償について、事故の責任を弊社自らが痛切に感じ、加害責任があるとの判断で行いました」とし、その認識は今もなお変わっていないという。そのわりには、詳細な質問への答えは、「ご理解下さい」、「お詫び申し上げます」、「確認できません」という言葉の羅列ばかりである。小田氏は、もっとわかるように説明してくださいと言ったところ、「私は馬鹿ですからすみません」とまで言われたそうだ。
 どちらも業務上過失致死で書類送検されているのだが、日航には責任があり、航空局に監督責任はない、加害者ではない、という。それでいて、事故原因は事故調査報告書の通りだ、という。どうしたらこのねじれた内容に納得ができようか。
 さらに道義的責任はあるが、罪を犯したという認識やその責任はないと思っているように見受けられる。これらを明確にしなければ、五二〇の失った命は、未来に全く活かされないことになってしまう。
 小田氏がこのような質問状を出し続けているのには理由がある。それは、遺族にしか果たせない責任というものがあるからだという。そのことに気づくまで、二十年以上、誰とも会いたくない、もう忘れたい、人と接したくない、すべて遠ざけて逃げ出したいという思いが暗黒の雲のように全身に覆いかぶさってきた。おそらく生存者の四名も一緒の気持ちだろうと語る。
 しかし、海外では航空機事故に立ち向かい、公式発表の事故原因を変えさせるまでの新証拠をつかんだ執念の遺族がいるという話を聞いた時、突然真っ黒な雲がすっと消え、心に光明が射し込んだ。自分の果たすべき役割は、これであると思い、そこから一気に墜落原因について調査を開始したのである。思い出したくないあの日々のことを調べれば調べるほど、自分に矛先が向けられているようでそのプレッシャーに心が切り刻まれる思いだった。生存者もたった四人しかいないのだから、墜落の原因究明に力を貸してほしいと心底思いつつ、忘れたいという昔の自分と同じ思いがあろうことも理解できる。こういう心の狭間に揺れ動き、それでもなお自分の使命として必死に書いた質問状であり技術会議である。これを避けている国土交通省航空局と、その質問状の答えをいかにはぐらかすかばかりを考えている日本航空は、もっと小田氏の深い思いに寄り添わなければならない。
 日本のみならず世界の航空機墜落史上、単独機で最大の死亡者を出した事件なのであり、さらに今後においても、すべて二階建てのエアバスA380でも国際線仕様で五二〇名となれば、最大の死傷者数は変わらない。この大事故が刑事裁判にならなかったからそのままでいいという訳では断じてない。三宅弘弁護士の思いもそこにある。
 歴史の中にきちんとした形で留め、調査の元データも含めて開示をしていくことで、後世に伝えなければならない国民共有の知的財産なのであって、決して曖昧のまま許してはいけないのである。せっかくの情報公開法も国立公文書法もそれを活用してこそ意義があるのであって、民間も公に重要な文書を寄付するようになっている。事故調査委員会も日本航空もこれらのことをしないまま、何処に何があるのかわからない、などというふざけた答弁がまかり通ると思ったら大きな間違いである。
 今後は海外の遺族たちが次々と事実の解明に乗り出そうとしているのだから、日本側がやらないというわけにはいくまい。
 英国の弁護士のみならず、米国の知り合いの弁護士にも意見を伺ったところ、非常に有効な法理論が出てきた。私はこれについて、広く一般の皆さんとともに考えていきたいと思っているが、今後の計画については現在進行中であることからあえて控えさせていただく。
 ただ、一人ひとりが考えなくてはならないことは、私たちの心の奥底にある過剰な怖れの精神である。特に行政側の人間たちがその怖れゆえ、次々と重要な資料を捨てていたらどうなるだろうか。内閣をはじめとして国の機関や公共団体が、法律や政令、その他の法規に従って行う政務の過程において、自分たちの不利になる資料や議事録、公的な文書を改ざんする、破棄する、都合のいいように解釈することが許されるとすれば、信頼関係が根底から崩れていくだろう。
 正しく保存するルールがないがしろにされているのである。
 司法の場においても裁判記録の破棄が行われている。特に国側の敗訴や憲法訴訟で国が負けた事案の記録が残っていないことが明らかになってきている。民事事件は最高裁内部ルール(事件記録等保存規程)によって、判決文と特別保存記録は国立公文書館に移管、永久保存となっている。しかし、他の裁判記録や資料は五年間で自動的に破棄処分している実態が指摘されている。刑事事件については、判決確定後三年で閲覧禁止、その後破棄(判決文は最長百年保存)である。そもそも刑事裁判記録は公文書管理法の適用除外である。刑事裁判記録とは、供述調書や証拠、論告や弁論などを指すが、保管満了後の保管場所が検察庁であり、刑事記録も含めてその後の保管や破棄の選定手続き、基準、運用実態はいずれも不透明であることが指摘されている。
 たとえ国側の敗訴に終わった事件であっても、司法の場における公平性や透明性を担保してすべての文書を保存することが原則のはずである。行政や司法が勝手な判断でそれらを破棄し、消去することは、明らかに作意的だと言われてもしかたがあるまい。
 なぜ、先進国の日本においてこのように不透明で手前勝手がまかり通ってしまうのだろうか。公文書への意識がもともと低いからだろうか。それとも単に「長いものに巻かれろ」といった自分の処世術の一つに過ぎない行動なのだろうか。権力を持つ人に従っておけば、自分だけは安泰で得策である、という考えが染みついているのであれば、いつの間にか、それは権力の横暴を招くことになる。権力の横暴は暴力的な支配力を生んでしまう。
 その結果、国家間で最悪の事態になるのが戦争であって、誰もが望まない世の中になっていくのである。その時になってから、なぜこんな世の中になってしまったのか、と嘆いても遅い。
 今日を生きる私たちにできることは、怖れではなく豊かなこころを持ち、ゆっくりでもまっとうな方向に進んでいくことではないだろうか。
 公文書管理と情報開示の先進国ともいえる米国や英国、ドイツ、そして航空機事故調査や再調査について公開裁判が当たり前に行われるインドなどに日本流の曖昧さは通じない。
 やっていいことと、悪いことがある、最低でも次世代にこれだけは伝えなければならないのである。
 
 世界の輪
 今回は一人の英国人研究者と遺族との出会いが、さらに新たな出会いを生んだ。
 まずカーディフ大学教授のクリストファー・P・フツド氏に感謝申し上げる。
 彼は英国人として独自の切り口から日本人の精神についての考察を展開している非常にユニークな研究者である。新幹線を舞台にしてミステリー小説も書くほどの日本好きの彼によって、今回の英国訪問とカーディフ大学での講演が実現できた。
 ついこの間まで私は、アイデンティティを封じ込められて苦悩しながら生きてきた英国人の遺族の存在を知らなかった。この本は彼女の積極的な行動なしには書けなかっただろう。Ms.Susan Belinda BAYLY・YUKAWAに、心から感謝したい。なお、彼女の名前のカタカナ表記だが、英国風の呼び方であって故湯川昭久氏が表記した形に添うように書いた。正式には、ズザン・ベリンダ・ベイリイ・湯川、である。
 英国人法廷弁護士の0・M氏とJ・T氏、BBC英国公共放送のジャーナリストR・C氏、世界中に幅広いネットワークを持つ、ロビー活動専門の政治コンサルタントのM・B氏、元英国航空機事故調査委員で世界的に活躍する航空機事故衝突コンサルタントのD・G民らにも的確なアドバイスをいただき、大変ありがたく思っている。なお、ロンドンで素敵な梅の花の名刺をいただいたC・K氏にも感謝申し上げる。今後もこのつながりを大切にしていきたい。
 不起訴確定後、長年にわたり、司法の場でこの間題が取り上げられなかったことで苦悩してきた遺族のために立ち上がってくださった三宅弘弁護士には心から敬意を表する。五二〇の魂も喜んでいることだろう。
 「墜落原因を明らかにしないことは公共交通機関としての存在意義にも問われる、原因不明のまま終わらせて済む話ではない、国民の財産である公文書や元本、元のデータはすべて情報公開法に基づいて適切に対応しなければならない」と語ってくださった三宅弘弁護士には、どれほど感謝してもしきれない。
 遺族の願いをかなえるべく、今後展開する司法への道がスムーズに開かれるように関係者名をイニシャル表記とさせていただく。
 なお私のペンネームは、元・上野村村長の故・黒澤丈夫氏に付けていただいた。上野村の青い山々から、「青山」、物事には透明性が必要であるとのことから「透子」である。透明性を保ち、なんの圧力もバイアスもかかることなく本当のことを書くことが不可欠であるため、本名は非公開とさせていただく。今後、三宅弁護士や海外などの関係者も含め、個人情報に関することでこの問題を封じ込めようとする動きがあれば、ただちに法的に対応することを明記しておく。
 思えばその昔、自民党宏池会が公募した「魁−ほんとうに大切な日本の未来像を考える−」というテーマの論文募集に私の論文が入選し、同じく論文が採用された精鋭の人たちとともに、政策に関する会合に参加する機会が何度かあった。ずいぶん以前のことだったが、当時は何かを変えていかなければいけない、このままでは決してよくない、という気概が国会議員の皆さんに滲み出ていた。無知に甘えて勝手に恣意的な政策を語ってはいけないと、懸命に努力をされていた。
 その後、群馬県警察医の医師と遺族の吉備素子氏が首相公邸で話をする機会があった。まずは誰もが事実を知ることから初めていかなければならない。
 公務員たちも、誰かからの指示で集団ぐるみでネットに書き込むことや、日頃のうっぷんをヘイトで晴らすことや、不本意なことを強要されるような仕事を望んではいないはずだ。隠蔽に加担させられることで得られる利益は必ず身を亡ぼす。
 そういった心の歪みがどのような形で表れてくるのか。
 先日、覚醒剤保持で逮捕された経済産業省や文部科学省のキャリア官僚は、省内の職場の机の中に注射器を保管し、トイレや会議室で使用したと供述している。ということは、その周りの人間たちが気付かないはずがない。すでに職場全体に蔓延しているのかもしれない。そのうち、薬物依存の入口である大麻も覚醒剤も合法にすれば逮捕されずに済む、という極めて勝手なことを言い出して、そのお金に群がる人たちを巻き込み、法律改正を言い出し始めかねない。それこそ言語道断である。一人が逮捕されても、その根っこを絶たない限り、こういった事態は続いていく。ストレスを薬物で解消するほどみじめな日々を送っていることになる。
 これは日航の酒酔いパイロットの逮捕事件と同じ構造だ。隠し通そうとすればするほど奈落に落ちてゆく。その一部始終は隣の誰かにすべて見破られている。官僚もまっとうではない生き方をするために、必死に勉学に励んだわけでもあるまい。誰もが自分自身の役割をきちんと成し遂げること、違法行為に目をつむらないこと、失敗を安易に許さず原因を考えること、失敗したらそれを正直に話すこと、これができる人間が本当に強い人ではないだろうか。その努力を続けることで、何よりも自分自身が理想とする心地よい生き方ができるはずだ。そういう人たちとともに、この事件を解明していきたいと思っている。
 相模湾に沈んだ機体の残骸引き上げの実現はどうすれば可能となるのだろうか。
 まず、墜落原因の究明に命をかけている遺族たちに、運輸安全委員会がそれらを放置していたことを謝罪する。その遺族が見守る中、若い自衛隊員有志によって相模湾から残骸が引き上げられ、その模様をメディアは襟を正して報道する。英国や米国など海外の航空機事故調査専門委員が分析を行ったその結果を踏まえ、日本航空が本当の墜落の原因について展示をし直し、すべての生のデータは国の公文書館へ寄付をする。
 自発的にそれができない場合は司法の力をもって解決するしかない。
 墜落をめぐる無駄な論争を仕掛け、姑息な手段で追及を逃れる人生を送ってきた人の行為に終止符を打ち、明らかになった事実を正面から見つめる機会を与える。自分さえ黙っていればどうせわからないだろうと次世代に汚点を残していくのではなく、せめて後世の人たちに悔い改めた姿を残す。これは恐怖心が支配する自分の心との闘いである。突き詰めれば自分の存在価値を高めたいという過去の欲望と、権力を失いたくない、素直に謝れないという怖れがこういう事態を引きおこしたのだろう。自国の失敗を他国のせいにしてスムーズに事が運ぶはずはない。どこかで誰かが注視しているのである。
 それによってもたらされる波紋が津波以上の大きさであろうとも、静かな凪であろうとも、次世代が判断することにとやかく口を挟んではならない。
 この実現こそが五二〇の魂へ向けた本当の鎮魂であり、その上で私たちは心安らかに納得のいく未来を築くことができるのである。
 日航123便における四冊日の本を世の中に送り出してくださった河出書房新社の皆様、編集者の西口徹氏に感謝の念をお伝えしたい。
 一年間、この問題を正面からとらえて研究して一生懸命に研究発表を行った県立T高校の生徒たちとその教師の皆様、いつも丁寧なお手紙を送ってくださる多くの読者の皆様に心より感謝申し上げる。
 また、この本の出版記念の日(七月十六日)に、早稲田大学法学部と比較法研究所の共同開催ということで、早稲田大学法学部8号館においてシンポジウムを行うことになった。
 基調講演は三宅弘弁護士である。タイトルは「情報公開と知る権利−今こそ日航123便の公文書を問う」で、私も登壇してこの墜落に関する多くの疑問点について解説をする。森永卓郎氏は「日本経済から見る1985年」という視点から問題を投げかけて講演してくださる。英国人遺族のスゥザンも来日して、日本人遺族の小田氏、吉備氏らとともに、自分たちが果たすべき本当の役割について語る。この画期的なシンポジウムにはきっと多くの学生や研究者、弁護士たちが参加するだろう。そして最も重要なのは海外メディアへのプレスリリースである。これによって一気に今後の展開が加速するだろう。世話人を引き受けてくださった水島朝穂早稲田大学法学学術院教授に心から感謝する。
 最後に感動的なメールを読者の皆様と共有したい。
 一七八ページから一八三ページまでに掲載した英文の手紙及び訳文は、小田周二氏がご自身の著書を英国在住の遺族、スゥザンさんに贈った際に、彼女から届いたお礼のメールである。
 今後、国際的にも日航123便のような不透明な事故調査とならぬよう、国際的な法律の制定を働きかけることが私たち遺族の使命である、と結んでいる。特に軍事問題が絡む場合、なすべきことをなさない国家に対する市民たちの力が試される時である。
 多くの市民の力でこれらを成し遂げたとき、きっと日本は変わる。いや、そういう未来を創るために、今こそ変わらなければならないのである。
 二〇一九年(令和元年) 六月一日
 青山透子
 
 
 以下に、スゥザンがメールで小田周二氏に送った手紙(二〇一九年五月二十三日)とその拙訳を掲載しておきます。
 
 Dear Oda san,
 I hope you are well.
 Thank you so much indeed for sending me your very precious books!
 I received them today and I was so surprised and deeply touched by your very kind
 gesture,I am truly grateful.
 I have repeatedly read your letter,my heart breaks for you,you were robbed of your
 children,I feel your pain my heart goes out to you.
 You lost your sister in law and her two children too.Your grief must have been unbearable,I know it never goes away.
 You have devoted your life to finding the truth and I have the greatest respect and
 admiration for your every effort and determination.
 Your children and other family members are surely with you in spirit.
 It is unthinkable that the Japanese government and Self Defense Army failed to be
 transparent.This cover up is indeed an absolute crime and must be exposed.
 I will do everything in my power to join your efforts because like you all I live for the truth to come to light−and we will achieve it!It’s our mission!
 It’s already too much in one life time that we have to endure the loss of our loved
 ones−We should not be tortured as well by lies and lack of truth this only deepens
 our pain and is unlawful.
 We deserve only the truth.Like you I am absolutely determined.
 I am determined to find ways to reach out to the media on the global platform−
 I am sure with enough foreign media pressure the government will be forced to act−eventually they have to.
 When the truth is out and the real cause of the JAL123 crash is determined−I hope
 we could achieve the creation of a new international law to prevents any
 government from biding the truth after an air crash.
 Full disclosure of all relevant information should automatically be compulsory so the guilty can be held responsible for murder.
 Once again,thank you so much again for your great kindness,I will treasure your books.
 My heart goes out to you.
 Warmest wishes
 
 Susanne
 Susanne Bayly−Yukawa
 
 (拙訳)
 小田さん、
 お元気でいらっしゃることと存じます。
 貴重な本を送ってくれて本当にありがとうございます。
 私は今日あなたの本を受け取りました、そして私はあなたのとても親切な行為に驚いてそして深く感動しました、私は本当に感謝しています。
 私は繰り返しあなたの手紙を読みました、私の心はあなたのために痛みます、あなたは子供を奪われました、私は同じ痛みを感じています。あなたは義理の妹と彼女の二人の子供も失いました。その悲しみは耐え難いものだったに違いありません、私はそれが決して消えないことを知っています。
 あなたは真実を見つけることにご自身の人生を捧げました、そして、私はあなたのあらゆる努力と決意のために最大の尊敬の念を持って称賛いたします。
 あなたの子供たちや家族の方々は、きっとあなたと志を同じくするでしょう。
 日本政府と自衛隊が透明性を欠いていたことは考えたくもありません。この隠蔽は確かに絶対的な犯罪であり、暴露されなければなりません。
 私はあなたの努力に加わるために全力を尽くすつもりです。それが私たちの使命です!
 私たちが愛する人の喪失に耐えなければならないのに加えて一生のうちにあまりに多すぎる――つまり、私たちは嘘と真実の欠如によってもさらなる拷問を受けるべきではなく、これは私たちの苦痛を深めるだけでこれらは不法です。
 私たちが受けるべきなのはただ真実だけです。あなたと同じように私も固く決心しています。
 私は、グローバルなプラットフォームでメディアに手を差し伸べる方法を見つけることを決心しています、政府が強制するであろうことに対して十分な外国メディアの圧力により、最終的に彼らはしなければならないと確信しています。
 真実が明らかになり、日航123便の墜落の本当の原因が判明したとき、私たちはいかなる政府からの妨害も防ぐために新しい国際法の創設を達成することができればと思います。
 航空機墜落に真実を隠している、そのすべての関連情報の完全な開示は自動的に強制的に行われるべきであり、その結果、有罪ならばこの殺人行為に対して責任を負うことになります。
 もう一度、どうもありがとうございました。あなたの本を大切にします。
 私の心もあなたと共にあります。
 ご多幸をお祈りして                    敬具
 
 スゥザン・ベイリイ・湯川


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